「寝たきりだったのに、ふと立ち上がって足を引きずってさ」と、おばあさん。
その潤んだ目を悪戯好きの少年のように初夏の風がくすぐる。
「子猫の頃は抱っこして哺乳瓶でミルクを与えたもんだ。何しろ私達夫婦には子供がいないもんだからね」
我が子を慈しむように育てた野良猫――その名は『男爵』だった。ペルシャ猫の血を継ぎ、エレガントな毛並みをしていたからだ。
けれど、どんなに高貴な位でも猫は知恵者で世渡り上手なのだ。おまけに彼には誇りも節操もなかった。一人前になると、召使いのようにかしずくおばあさんの目を盗んで夜遊びにふけり、ある日、妻と三人の子供を連れて凱旋した。
「あんた、その子供達ときたら母親似で三匹とも薄汚いわ、意地汚いわ、人の顔色覗うわで下品なのよ。すっかり男爵にも嫌気がさしちまってね。餌もあげずにほったらかしにしておいたら、ウチに寄り付かなくなったよ。家族一同引き連れて、どこかに行っちまった」
露骨に疎ましげな顔をするおばあさんに、『男爵』がカケルで私がおばあさんの役どころ――私達とよく似ていると思った。

カケルと初めて言葉をかわしたのは、バレンタインデーの翌日の小雪のちらつく早朝だった。
車の急ブレーキの音で目が覚めて、カーテンを開けて窓越しに見下ろすと、明るくなり始めた路上に黒塗りの高級車が停まっていた。ドアが静かに開き、出て来たのはサングラスをかけた坊主頭で、逃げていく新聞配達を追いかける。
ああ、アイツ、またバカなことをやらかしたなと、私はその逃げていく背中を目で追った。捕まらなければいいがとヒヤヒヤしながら。
そこは一方通行の狭い道なのに幹線道路の渋滞を避ける抜け道になっていて、特に朝夕は交通量が多く、その路地に住む者にとって車は迷惑至極だった。その車の前をわざとゆっくり自転車のペダルを漕ぐ新聞配達の若者を私はしばしば目撃していた。
傍若無人の車にアイツは頭にきてるんだ、相当の意地っ張りだろうなと苦笑しつつ、
ただいつかトラブルを引き起こすのではないかと気にはなっていたのだが......。
二人の姿が人しか通れない脇道に消え、しばらくして坊主頭だけが戻ってきた。
ちらっと見上げる坊主頭に慌ててカーテンを引くと、ガシャッ、ドサッと大きな音がした。
車の立ち去る音にカーテンを開けてみると、民家の塀に立てかけてあった新聞配達の自転車が横倒しになっていて、後続の車がそれを脇にのけた。
頃合いを見計らって戻って来た新聞配達の足元で、散乱した新聞が雪と車の車輪でグシャグシャだった。
それらの経緯を二階の窓から盗み見ていた私は、憐れな新聞配達につい弟を庇う姉のような気持ちになったのだった。
片思いのあの人に渡せずまま宙ぶらりんになった真っ赤なパッケージの高額なチョコレート――渡した後の後悔よりも渡さなかった後悔の方がずっと長続きすることを四十歳目前でアパートに独り身の私はしみじみ分かっている......。
そのチョコレートを手にすると、ネグリジェの上に毛皮のコートを羽織り、道路に出た。前夜に一人でハイボールを飲み過ぎて酔っぱらい、化粧を落とさずに寝てしまった顔が気になったけれど。
「えらい目に遭ったわね」と声をかけると、新聞配達は思いがけず不敵な笑みを浮かべた。
「なあにどうってことはないさ。こんなことをしたヤツ、いつか処罰してやるさ」
「処罰?」
「当たり前だろ、こんなことをしたんだから。自分で受けた辱めは自分でケリをつけるさ。俺は執念深いし、怖いものなしだから何でも出来る」
「でも、さっき逃げたじゃないの」
「あんなヤツと刺し違えるのは沽券に関わるからさ。それにしても嫌な人だな、ずーっと見てたのか。」
 長身の身体は細身でヤワそうなのに、眼光だけは空威張りに見えなかった。
「これ食べる? 中身はチョコレートなの」と真っ赤な小箱を差し出すと、また生意気な口をきいた。
「貢物ならもらっておくよ。そうか、バレンタインデーか」
「違うわ。バレンタインデーは昨日よ」
 どう見ても惨めな状況であるはずなのに、そのときの私の目には自転車を引きずりながら去っていく(散乱した新聞を片付けもせず)新聞配達の背中が、悲運を背負って落ちのびて行く貴公子のように見えた。それは彼の肩まで垂らした真っ黒な長髪と端正な顔立ちゆえだったに違いない。それと、耳にぶらさがった紫色をした勾玉のピアス!
 その日の出来事がきっかけで、紆余曲折を経て、気がつけば私のマンションで同棲生活、新聞配達の若者――カケルの私は召使いになっていた。
 やがて新聞配達を辞めて私に寄生し始めたカケルは、私が仕事(高給取りの服飾デザイナーだ)で留守の間、時々自作の詩集を売りに井の頭公園に出かけた。
「今どき詩集売りなんて流行らない。ましてや、駅ではなく公園だろ。買ってくれる人なんかいるものか。売れなくてもいいのさ。隣の桜の木の下で、真っ白な髭をたくわえたインド人の爺さんがシタールを奏でている。それを聞いてるだけで、俺は吟遊詩人か聖者になった心地だよ。帰りに深大寺に寄って、蕎麦を食いながら猫の背中を撫でる。野良猫上がりとはいえ、ペルシャ猫の混血だぜ。蕎麦屋のおばあさんが餌付けしてるんだ」
 そのおばあさんなら深大寺の近くに住んでいた子供の頃によく可愛がってもらったし、今でもその蕎麦屋にはよく行くし、その猫も知っていた。深大寺の墓地に君臨している猫で、門前にあるおばあさんの店で赤い毛氈を敷いた客用の椅子で客がいようがふんぞり返っている傲然さが案外招き猫になっていた。
「あの猫、蕎麦汁の出汁がらの煮干しばかり食べてるけど、立派な毛並みね」
「実に見事だ。だから、『ノラ坊』と呼んでいたのを俺が『男爵』と改名してやったら、おばあさんは手を打って喜んだものだ。俺の詩なんてお遊びのガラクタだが、あの猫の名付け親になったことには満足している」
 その猫のようにカケルもまた傲慢で自由気まま、何よりも恩知らずだった。
 小遣いを渡すとバッカスを従僕にして吉祥寺近辺の酒場にでかけ、しばしば別の女の所に泊まった。
そんなある日、あろうことか赤子を抱いて帰って来たのだった。
「この子は?」と首を傾げる私に、カケルは白々しかった。
「母親が逃げちまったんだ。放ったらかしにしておくわけにはいかんだろう。誰の子か分からんが」
 もしその赤子がタケルの子であったら、あるいはもっと器量良しだったら、気持ちは変わっていたかもしれない。けれど、タケルに似もつかない、不細工で浅黒い顔をした赤子に私はすっかり冷静さを失って、「出て行って!」と野良猫のようにタケルを放逐したのだった。

赤い毛氈を敷いた椅子に座って、おばあさんの話が続く。
「泣けたよ。すべてを捨てて一人、足を引きずり、引きずり、みすぼらしいジジイになって男爵が帰って来たときにはね。きっと死期を悟ったんだろうね。象の墓場のようにここが死に場所だったのね。一月程寝たきりの男爵を心を込めて私は介護したよ。それが半年ほど前の朝、私が店の掃除をしていると、男爵がヨロヨロ立ち上がってさ、この椅子に上がろうとしたんだが、力尽きてそのまま動かなくなったよ。猫は人目につかないところで死ぬというけれど、男爵は一人ぼっちが嫌いだったから、いかにもふさわしい死に方さ。――あんたとよく来てた若い男? そう言えば、男爵が死んでから一度も見たことはないね」
ちなみに男爵亡き後、放蕩三昧の日々を過ごす彼の妻と三人の子供を引き取ったおばあさんの髪の毛はペルシャ猫のようにすっかり真っ白になり、背中も猫のように丸くなった。
そして、私はと言えば、髪を茶色に染め、あてもなくカケルの帰りをぼんやりと待ち続けている。かしずかれるよりも、どのような仕打ちにあおうが私は召使い役が好きなのだ。カケルの頭を膝に置いての耳掃除、跪いて足の爪を切るときの快感を私は忘れることが出来ない。

小川三郎(千葉県柏市/65歳/男性/無職)
ある日、彼女は現れた。
彼女が部屋に入ってきた瞬間、何か胸に突き刺さるような感覚があった。二十七歳から渋谷で占い師を始めて十年になるが、このような感覚は初めてだった。
彼女のカウンセリングシートには「柏木美咲、平成元年生まれ。三鷹市在住」とあった。
彼女は、可愛らしく上品で好感の持てる女性だった。だが、その容貌とは反するように、鋭い目つきで私を見つめ、私に対して個人的に強い感情を抱いているように感じた。
「どのようなお悩みをお持ちですか」
 彼女はやっと私から目をそらし、一瞬曇った顔をして言った。
「彼との結婚について占って頂きたいのです。お付き合いをはじめて半年になります。私は結婚をしたいと思っているのですが、彼がどのように思っているのかお聞きしたくて」
「わかりました。ではまずはお相手のお気持ちを占ってみましょう」
私はタロットカードを使い、占いを始めた。
彼女の恋人の様子がタロットカードに表れる。あるカードをめくったとき、私は思わず息を飲んだ。「まさか......」心の中で呟く。私は自分の動揺を彼女に悟られないよう、平静を装いながら言った。
「彼はご結婚に関して、とても慎重でいらっしゃるようです。またお二人のご結婚に関しては、美咲さんのご両親も反対されていますね。彼は美咲さんより一回り近く年上で、自分で事業をされていらっしゃる方ですね」
「......」
「彼は二十代半ばころ、一度離婚していますね。もう恋はしないと決め、仕事一筋で生きてきたようですが、美咲さんに出会い恋をした。美咲さんを好いています。しかし、彼の心の中には他の女性がいるようです。その女性とは縁が切れていますが、彼はずっとその人を想っているようです。美咲さんとの結婚は難しいでしょう」
 彼女は顔を下に向け、涙を落とした。
私は、自分が占った結果と目の前の彼女と自分の感情とが繊細に絡まり合うのを感じていた。そして、私はそっと席を立ち、彼女を抱きしめた。しばらくの沈黙の後、
「すべてその通りです」 
 と、彼女は言って、私の目を見た。先程までの鋭い感じではなく、何かの糸が切れたような、それでいてほっとしたような複雑な表情だった。
彼女は、それでも彼と結婚したいのだと言った。そして、次の日曜日に、縁結びで有名な「深大寺」に、彼と一緒に参拝に行く予定だと告げて帰っていった。
「深大寺」その名前には深い思い出があった。長い間、記憶の奥にしまい込んでいた場所。彼女が去った後、私はあらゆる葛藤の末、深大寺に行くことを決めた。
次の休みは、日曜日だった。

調布駅から京王バスに乗り、深大寺についたのは午前十時だった。山門までの道は蕎麦屋が軒を連ねていて、観光客で賑やかだった。以前深大寺に来たのはもう十五年も前になる。
山門をくぐり、本堂へ。手水舎で手と口を清め、常香炉で線香の煙を浴びてから参拝した。本堂脇のなんじゃもんじゃの木に、白く可憐な花が咲いていた。「あの時も、この花が咲いていた」私は小さく呟いた。
 階段を登り、元三大師堂に向かった。お賽銭を入れ、手を合わせた。
その時、背後から懐かしい声が聞こえてきた。一瞬、背中が硬直する。私は覚悟を持って振り返った。そこには、若い女性と共に階段を登ってくる背の高い男性がいた。
「洋介......、やっぱり」閉じ込めていた記憶と複雑な感情が交差する。
 一緒にいたのは先日のお客様、美咲さんだ。
私は二人に気付かれないように、とっさに左奥にある開山堂参詣道へと向かった。脈が高鳴っている。
あれは確かに、洋介だった。ひょろっとして背が高く、ジャケットを羽織り、着るものにはこだわるわりに、髪は無造作でくしゃくしゃなままでいるところも変わっていない。
 私は参詣道を足早に登って行った。二人とも私には気づいていないようだ。気付かれずに安心したと頭では思っているのに、心臓は強く早く動いていた。
 開山堂に到着しても、心は上の空だった。私は、北門を出て、神代植物園へと自然と歩を進めていた。季節の花々を見て、自分の気持ちを落ち着かせようと思ったのだ。
私は植物園を黙々と歩いた。まだバラは咲いていなかったけれど、ツツジが満開で美しかった。しかし、頭の中は洋介のことでいっぱいだった。
 洋介と私は、十二年前に離婚した。二年の結婚生活を送った後、まるで初めからこうなることが決まっていたかのように、私たちは離婚した。原因は価値観の相違だ。今はそう思うようにしている。
 洋介はそれなりにいい男で仕事も成功していたから、洋介に好意を持つ女性はたくさんいた。私の親友だった芳美も、その一人だ。
でも洋介は私を選び結婚した。芳美にとっては、気持ちの良いものではなかったと思う。
結婚して半年が過ぎた頃、芳美から「洋介が他の女と浮気している」ということを聞いた。洋介は、自分は浮気なんてしていないと言ったけれど、私は芳美の話を信じるようになっていった。そしてだんだんとうつ病のような状態になり、占いにはまるようになった。
占い師も、洋介が浮気をしていると言った。私への愛は冷めているとも。占いに行くときはいつも芳美が一緒だった。そしてその後、芳美は決まって「別れなよ」と言った。
私たちが離婚したのは、私が占いにはまるようになって一年後のことだった。もちろん洋介は離婚を承諾しなかった。しかし芳美が間に入り遂には洋介も離婚届にサインをした。
離婚後、占い師に勧められるまま、占いの学校に通い始めた。その後しばらくして、芳美は洋介のことが好きで、私に嘘をついていたことがわかった。芳美は「幸せそうなあんたを見てて悔しかった」と言った。
私はそれ以来、芳美とは会っていない。三ヶ月間家に閉じこもった。占い学校の先生が連絡をくれて、良かったら自分の店で働かないかと誘ってくれた。それが今のお店だ。
時計を見ると二時間が経っていた。帰宅する前にどうしても参拝したいところがあった。「深沙堂」だ。深大寺が縁結びの寺と言われる由来となった、深沙大王が祀られている。私と洋介にとって思い出深い場所だった。
十五年前、私は洋介と深大寺に来て、深沙堂で参拝し、その後結婚した。
神代植物園から坂を下り深沙堂に着くと、辺りは十五年前よりも開けていたが、人通りはまばらで付近には誰もいなかった。私は洋介の幸せを願い、手を合わせた。
「絵理子......」
 突然、背後からとても、とても懐かしい声が私を呼んだ。反射的に振り返る。
「洋介......」驚きと熱い思いが込み上げる。
「やっと会えた」洋介は微笑んだ。
「美咲さんは?」
「帰ったよ。美咲が、今日絵理子が深大寺にいるはずだって。美咲とは別れたんだ。全部話したよ、美咲に。絵理子が渋谷で占い師をしていることは芳美から聞いた。急に電話があって、渋谷で絵理子を見つけて後をつけて行ったら占いの店だったって。芳美も反省していたよ。絵理子に会ったら謝っておいて欲しいって。芳美は今や二児の母だそうだ」
 複雑な気持ちになった。洋介は続けた。
「美咲は、絵理子に会うためにあの店に行った。来ただろ、この前の火曜日。絵理子は、俺の名前も生年月日も何も聞かないで全部言い当てたんだってな。美咲が驚いてたよ。で、あいつが泣いたとき、絵理子が抱きしめてくれたって。そのとき、あいつは決めたって」
「決めた?」
「今日、ここに来ること、あいつわざと絵理子に言ったんだ」
「わざと」
「......俺は、今でも絵理子を愛している」
「......」
「離婚届書くとき、約束しただろ。もし絵理子の気持ちが変わって、俺への疑いも晴れて、十年後お互いに結婚していなかったら、もう一度、俺たちやり直そうって」
洋介はそう言って鞄から絵馬とペンを取り出した。そこには、「結婚します」と大きな文字が書いてあり、左下に洋介の名前が書かれていた。驚きと嬉しさで言葉が出ない。
「ここに名前を書いて」
 洋介は、私の前に絵馬とペンを差し出した。私は、洋介の名前の横に自分の名前を書いた。
「深沙大王に報告しよう。俺たちは再び結ばれる。そして、もう絶対離れないって」
 私は洋介に促されるまま、もう一度手を合わせ、目を閉じた。
「絵理子が幸せになりますように......」
洋介が小声で言った。
「洋介が幸せになりますように......」
私も小声で言った。
「深沙大王様、もう叶いました。俺今すごく幸せです」洋介がはっきりした声で言った。
「私も叶いました。今、とても幸せです」
私たちは、目を合わせて笑った。
「蕎麦食べようぜ。あの時行った、門前でも行くか」
「うん。私、門前そばにする。大根おろしと椎茸食べたい」
「俺はとろろだな。そのあと、蕎麦団子に、くずきりとあんみつも食べよう」
「うん。あのときみたいにね」
 私は深沙堂を振り返り、心の中でもう一度手を合わせ、心から感謝した。

伊越啓(千葉県市川市/35歳/女性/主婦)
引っ越しの荷造りをしていると、押入れの奥から黄色と黒色の横縞柄の『ちゃんちゃんこ』が出て来た。
アニメのキャラクターグッズで、時には武器としても使用されていた。悪い妖怪相手にえぃっと投げつけ、ヒロインである夢子ちゃんを守っていた。
 
 『ちゃんちゃんこ』は満男が買った。
付き合って間もなく縁結びの神様がいると聞き深大寺に参拝に行った時のことだ。
満男とは五年付き合った。しかし、結婚までは至らなかった。深大寺のご利益が足りなかったのか、それともご利益の御蔭で五年付き合えたのか、どちらなのかは良く分からない。そして何故『ちゃんちゃんこ』を買ったのかも分からない。付き合い始めたばかりのカップルの悪乗りに近いと思う。

 『ちゃんちゃんこ』を見ていると、荷造りの手が完全に止まってしまった。
 一度だけ、満男はこの『ちゃんちゃんこ』を着たことがあった。ハロウィーンの日にバンドのライブがあり、イベント名が『仮装パーティーナイツ』だったため、『ちゃんちゃんこ』を無理矢理着てハーフパンツと草履(下駄が無かったので)の出で立ちでステージに上がった。
仮装が中途半端だった挙句、愛用のギターが黄色だったこともあり、『ちゃんちゃんこ』は全く目立たなかった。しかも他のメンバーは仮装を諦め、普段と同じ衣装で演奏していたため、より滑稽に映った。前日の夜、「イケるイケる、ゲゲゲしてる!」と焚き付けてしまった私は少し罪の意識を覚えた。

その時の写真があったはずだ。
私はふとそう思い、荷造中の段ボールを掻き分けて、パソコンを起動し、当時の写真を探した。
写真を見てみると思っていたほど悪くないコスプレだった。意外とイケてるように思えた。少なくとも『ちゃんちゃんこ』とハーフパンツ、草履の組み合わせは悪くない、問題は靴下だった。靴下に関して私は指示を出していない。当日の朝、勝手に五本指ソックスを履いて出掛けたのは満男だった。

思いにふけている場合では無かった。
引っ越しの荷造りを進めなくてはならない。
私はパソコンを閉じ急いで箪笥の前に戻り、荷造りを再開した。暫くすると、妙な心の引っ掛かりを覚えた。
靴下が気に入らなかった出来事が他にもあったような気がしたのだ。しかもそれは深大寺に行ったときだったような...。
私は気になってしまい荷造りに集中できなくなった。すぐに手を止め、またパソコンに向かい当時の写真を探した。
深大寺で撮影した写真は百七枚あった。
緩やかに下る蛇行した桜道、アスファルトに花弁が少し落ちている。そこを歩く満男。ジャケットにサルエルパンツ、蝶ネクタイをしている。付き合い始めたばかりだからか、明らかに気取っている衣装。しかし、足首に覗く靴下はあからさまに失敗の組み合わせ、異様な心地の悪さを出している。
深大寺参道前の石垣。よじ登る仕草をする満男。深大寺参道、ひょっとこの様な石造の横で同じ顔をする満男。亀島弁財天池の横で亀のように首を伸ばす満男。河鍋暁斎の天井画『竜』の説明看板の前で竜の顔真似をする満男。その全てに変な靴下を履く福田満男の姿が写っていた。

写真を見ていて少しずつ思い出したことがある。百七枚の写真のうちの大半が某キャラクターの顔ハメ看板から顔を出した写真だった。この時をきっかけに私達は顔ハメ写真を集めることを共通の趣味とした。
顔ハメの魅力は幾つかある。
まず神出鬼没ということ。顔ハメがあるという情報は旅行雑誌やサイトには謳っていない。旅行先や出先で唐突に現れ、その中には何でこの顔ハメ?と思う物も良くある。それに出会えた時は言い知れない喜びがある。
そして何よりも笑顔になれる。
例えば、私は人並みにお化粧をする。その状態でねずみ男の顔ハメをすると、モードメイクとねずみ男のミスマッチが強烈な違和感を出す、と思いきや意外にもマッチしたりする。
「実写いけるね。」
満男と二人してけらけらと笑ったことがあった。

私は深大寺の写真を一通り見ると、荷造りを再開した。
この引っ越しが無事に終わったら深大寺にもう一度行ってみようと思った。満男と行った時は、深大寺そばを食べ損ねたからだ。今回は引っ越しそばを兼ねて食べに行こうと思う。上手く行けばちょうど桜が満開の頃だ。

ほどなくして引っ越しが無事に終わり、早速、その週末に深大寺に向かった。桜が残っているかと期待したのだが、全て綺麗に散ってしまっていた。
参道の前に立つと、写真だけでは思い出せなかった事が、瞬時に頭の中に広がった。
確か、案内板の前で笑った記憶がある。
私は案内板の地図に近づいた。何で満男と笑ったのか、それを思い出そうと必死で案内板の地図を見上げた。
『武蔵野の水と緑と寺とそば』。
これだ!案内板の上に謳われているこの文句、
様々なしがらみを感じさせるこの言い回しに笑ったのだ!私は思い出して嬉しくなった。
私は踵を返し、少し駆け足で参道前に向かった。そこには『ちゃんちゃんこ』を買ったお店があり、その手前に顔ハメがあった。まだ残っていたことにホッとし、まじまじと眺めた。 
そうだ!確か満男は、「これなら靴下が隠れる」と言いながら顔ハメの裏に回り、あの写真に残っているくしゃくしゃな笑顔で穴から顔を出したのだ。
私は当時を懐かしく思った。
 三つの穴が開いた顔ハメの正面に立ち、穴の向こうの丸見えの緑を眺めながら、急にそこに満男の笑顔がにゅっと出てくることを想像した。
 
三つの顔すべてに満男の顔が現れることを想像していると、唐突に、後ろから男の人の声がした。
「撮りましょうか?」
振り返ってみると、私より少し若く、まだあどけなさが残る男性が立っていた。お洒落な出で立ちをしている。
私が困惑していると、
「撮りましょうか?ずっと眺めていたので。」
と言い、カメラを構えるジェスチャーをして二度人差し指を動かし架空のシャッターを押した。
 私は思わず「大丈夫です。」と断った。
「いいじゃないですか、一枚だけ。」
洒落た男は意外と強引だった。そしてハンサムだった。
私は少し考えて、せっかく親切に声を駆けてくれたのだから、一枚だけ撮ってもらうのもいいかも、イケメンだし、と思った。
「では一枚だけお願いします」と言い、カバンからデジカメを取り出して男に渡した。
 私は顔ハメに向かいながら、三つあるキャラクター、片目、ねずみ、吊目女のどの穴から顔を出すかで迷った。満男とはねずみが最も面白いとなった。しかし今回は見知らぬお洒落なイケメンだ。可笑しくてもあからさまに笑うようなことはしないだろうし、よくよく考えると笑いを求める必要もない。
片目だ。私は無難に真ん中の穴に顔を入れようとした。
 すると、洒落坊は図々しくも指示を出してきた。
「ねずみ男がいいですよ。似合うと思います。」
私はどういう意味だ、と思いながらも、「そうかしら」と微笑みながら、ねずみ男の顔ハメに顔をセットした。
 少し強引な洒落坊に苛立ちを覚えたが、顔ハメから覗く深大寺の風景は、そんなくさくさした心を洗うものがあった。
微笑む顔をきっちり作り、カメラを構える生意気な洒落坊に目を向けると、ふと違和感を覚えた。すごく懐かしい、前にも感じたことがある違和感。何だろうと思いながら注意深く探ってみると、洒落坊の足首から激烈にダサい靴下が見えていた。
折角作った笑顔が崩れ、前歯が出たような苦笑いになってしまったと心配していると、
「やっぱりお似合いです!上手く撮れています!」
洒落坊が、撮ったばかりの写真を見せながら私に近づいてくる。

柿久米田郎(神奈川県相模原市/39歳/男性/会社員)
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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

8月1日13時を持ちまして、公募を締め切りました。多数のご応募、有り難うございました。

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