緑色の楓の葉が木漏れ日でキラキラ輝き、そよ風も心地よく襟元を通り去るそんな一時。そんな中今日もまたあの視線を感じた。錦織悟は自分をじっと見つめるあの熱烈な視線を感じずにはいられなかった・・・。

 あれはある日の午後の出来事だった、悟は山門前でスケッチをしていると、誰かが自分をじっと見つめているような気がした。ここ深大寺の山門前では、時々白髪頭の方々が折畳み椅子に腰掛けて、スケッチをする姿を見かける。だが、悟のような美大生は確かに稀な存在ではある。珍しいのかな?悟はそう思い、気にせず鉛筆を動かし続けた。しかし、何分たっても、その視線の主は一向に移動する気配はなく、悟も段々と気になり始めた。
 あまり露骨に振り返ると、視線の主を驚かす羽目になるので、悟は肩が凝ったかのように首を左右に動かしつつ、肩を揉む仕草をしつつ、横を見る振りをしつつ後ろをチラ見した。とりあえずボブカットの女の子だということだけは認識できた。一旦それで顔を元の方向に戻してから、次に悟は両手の指を組んで大きく伸びをし、頭を後ろに反らせた。そうしながら後ろに立っている女の子の特徴を再確認した。大きく無邪気な瞳、筋の通った鼻、艶のある豊かな唇、そして透き通った肌。魅力的の女の子ではあるが、どこかまだ幼さが残っている。高校生?まさか中学生?
 あの日以来、悟が深大寺界隈でスケッチをしていると、視線の彼女が必ず現れて、悟の事を黙って見つめるのだった。

 今日も変わらずご苦労様と思いつつ、可愛いファンの事について知りたいという気持ちは正直ないとは言えない。そんな雑念を追い払うように、悟は消しゴムで気に入らない部分を力いっぱい消し始めたその瞬間、消しゴムが手からこぼれ落ちていった。
「あっ!」悟が拾いそびれたら、消しゴムは地面で一度バウンドしてから、まるでスーパーボールのように勢いよく跳ね上がり、丁度彼女の足元で落ち着いた。
折畳み椅子に座ったまま、悟は彼女の細い脚とその足元にある消しゴムを見つめた。しばらくすると彼女はしゃがみ込んで、白く華奢な手で消しゴムを拾い、口元に消しゴムを運び、「フーフー」と息で消しゴムについた砂を吹き払った。その間悟は彼女のふっくらした唇から目が離せなかった。
「落ちましたよ。」ニッコリしながら、消しゴムを差し出す彼女の歯は、空で呑気に浮かんでいる雲より白かった。
「あぁ、ありがとう。」消しゴムを受け取りながら、悟は思い切って言ってみた。「あれ?きみ、前にも見かけたけど、深大寺にはよく来るの?」消しゴムはまさに話すきっかけを作ってくれた。
彼女の顔は一瞬にしてトマトのように赤くなり、そして彼女はもじもじしながら答えた。   「たまに・・・来るだけですよ。家・・・ここから近いから、たまに散歩にくるだけ・・・。」答えながらどんどん声が小さくなっていった。
「ふ~ん、なるほど・・・。きみって中学生?」悟は一番気になっていた事をわざと関心なさそうに聞いてみた。
彼女は首を横に強く振りながら、「違います、高校二年生です。」と答えた。さっきトマト色に染まった顔は大分落ち着いたが、今度は唇が不服そうにとんがっていた。
「そうか、これは失礼。」悟は笑いながら彼女に向かってペコリと一礼をした。そうしながら彼女の顔をチラッと覗いたら、彼女は手で口を押さえて笑っていた。悟は内心ホッとした。ふざけた態度で彼女を余計怒らせたのではないかと不安だったからだ。
 「俺はニシキオリサトル、故郷に錦の錦、織物の織、悟りを開くの悟、美大の二年生だ。時々ここら辺でスケッチしている。よろしく。」なぜか自己紹介し始めている自分に驚きを感じる悟は不自然な笑みを浮かべた。
「私はオサナイアヤネ、小さい山に内側の内で小山内、色彩の彩に音楽の音で彩音です。17歳の高校二年生です。中学生ではありませんよ。」と小山内彩音はいたずらっぽく笑いながら自己紹介をした。
 悟も一緒に笑った。そんなお互いの自己紹介で一瞬にして空気は和み、会話も自然と弾んだ。可愛いだけではなく、一緒に居るとホッとできて、しかも人をひきつける魅力を持つ彩音に、悟はトキメキを感じた。
 「あの、実は私・・・、高校の美術部に入っていて、大学はやっぱり美大に進学したいと思っているんですよ。」しばらく会話した後、彩音は恥ずかしそうに語った。
「へえ、そうなんだ・・・。だからいつも俺の絵を見てたのか・・・?」悟は納得したと同時にがっかりもした。悟が勝手に自分のファンだと思い込んでいた子が、結局絵が好きで、美大を目指していただけだったから。
 二人が立ち話をしていると、門前そば屋の店員が店先を掃除しながら、ちらちら二人の方を伺っているのが悟の目に入ってきた。
 「さてと、そろそろスケッチに戻るか。」悟は人目が気になり、仕方なくそう言った。「消しゴム、ありがとう。」そう言いながら、再度折畳み椅子に座ろうとした。
 「あっ、あの・・・、もし良かったら今度私の絵を見てくれませんか?」座ろうとしている悟の方に向かって、彩音は勇気を振り絞って言った。「スケッチブック持ってきてもいいですか?」そう言いながら彩音の顔はまた段々と鮮やかな赤色に変化していった。
 「俺なんか役に立たないと思うけど・・・、でもこんな俺でよければ喜んで。」悟は微笑みながらうなずいた。
 彩音は本当に嬉しそうに笑い、両手を合わせて拝むようなポーズをした。「本当にいいんですか?どうもありがとうございます。うれしい!」そんな彩音を見て、悟までウキウキした気分が感染したようで、彩音が次回会う約束をして帰ってからも、鉛筆を持った手はなかなか動かなかった。

 鬼太郎茶屋の中の喫茶コーナーで、彩音に手渡されたスケッチブックを開き、悟は自分の作品を描く時以上に真剣な眼差しで彩音のスケッチのタッチを見た。まだまだ光と影の表現は幼稚だが、視点がなかなかユニークで、他の人が描かないアングルや、普段主役になれない物体が描かれている。客観的に見ると自分より才能があるかもしれないと思うと、悟はほんのちょっぴりライバル意識を抱いた。だがすぐにそんな心の狭い男でありたくないと思い直し、悟は素直に自分の感想を述べた。
 「うん、なかなかいいんじゃないかな?発想が面白いよ。普段人が描かない物を描いているし、人が描かない角度から描いているし、俺は結構イケてると思うよ。技術面はまだまだだけど、それだって沢山描いていればそのうち上手くなるしね。俺なんかより全然上手くなるよ。」一気に評論家的意見を述べて、悟は彩音にスケッチブックを返した。
 彩音はびっくりした様子で、しばらく下を向いて黙り込んでいた。数十秒間同じ姿勢を崩さなかったが、いきなり顔を上げて悟の方を向き、眩しい笑顔を見せた。
 「初めて褒められました!美術部の先輩達はみんな首を振るか、肩をすくめるかで、どこがどう悪いか全然言ってくれないんですよ。顧問の先生もとにかく基本が大事とか言って、アドバイスもしてくれないので、困っていたんです。錦織さんって本当に優しい。だってちゃんと批評してくれるんだもん。」言いながら、彩音は目をキラキラ輝かせた。
 そんな彩音を見て、悟も嬉しくなった。自分が彩音の唯一の理解者になった気分だったし、彩音と自分の距離がグッと縮まった気もした。浮かれた気分の悟は彩音の手元を何気なく見たら、彩音はスケッチブックとは別に何枚もの画用紙を持っていたが、悟に見えないようにスケッチブックにそっと挟み込んだ。
 「あれ?それもきみの作品?さっきは見せてくれなかった分?」と悟は聞いた。
「あっ、これはいいんです、この何枚かは失敗作で、今度描き直そうと思って取ってあるだけなので、気にしないでください。」彩音は慌てて言い訳をしながら、スケッチブックを背後に隠した。

 「今日は本当にありがとうございました。これからの道が開けたような気がします。」鬼太郎茶屋を出てから、悟に向かって彩音は極上の笑顔で語った。
 「そんな大げさな・・・、ただこれからも俺でよければ相談に乗るよ。それと・・・、よかったら一緒にスケッチでもしないか?」悟はチャンスを逃さず、自分の気持ちを素直に言葉で表した。
 「えっ?本当に?いいの?邪魔じゃないですか?」彩音は驚きを隠さず、同時に嬉しくて仕方ない様子で悟を見つめた。それに応えるように悟はニコリ笑い、コクリと頷いた。
 丁度その時、参道の方で突風が吹き荒れた。ものすごい勢いで、彩音のスケッチブックも突風にあおられて、中に挟まっていた画用紙が宙に舞い上がった。「きゃっ!」彩音は思わず声を上げ、慌てて画用紙を追った。悟も近くに舞い降りた画用紙を数枚集めて、他のも拾おうと思った瞬間、画用紙に描かれた男の肖像画に釘付けになった。それは悟が良く知っている男だった。そう、全て悟の肖像画ばかりだった。横顔だったり、正面だったりするが、紛れもなく錦織悟の顔だった。
 悟はゆっくりと彩音の方を振り向くと、彩音も丁度悟の方を振り向いた。二人の目線が合った瞬間、悟ははっきり分かった気がした。
 そう、この恋はもうすでに始まっていたのだ。

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<著者紹介>
平井 ハヅキ(東京都調布市/女性/派遣社員)

ふかふかふか。
靴底を押し返してくるようなこの弾力、何だか心地よい気分になる。
今、僕は、近くに流れるせせらぎを見ながら落ち葉で敷き詰められてできた自然の絨毯の上を一人歩いている。神代植物公園の中にそれはある。
絨毯の両側には、あずきなし、しらかし、アベマキ、シナノキ。そんな聞いたことがない木の名前が書かれた茶色のプレートがそれぞれの木に付けられている。
春とはいえ強い日差しが、見上げるほど高い位置に生い茂る高木の緑葉に遮られて涼しげな空間を作っている。僕はかぶっていたグレーの野球帽を取った。さわやかな風が汗で少し濡れた髪を通り抜けひんやりとして気持ちよかった。
この公園も使えるな。僕は、歩きながらそう思った。
三日後に約束している彼女とのデートのために僕は、下見をしているのだ。彼女は、成瀬彩夏さんという。彼女とは言ったのもの友達の域を出るか出ないかのあいまいな関係だ。今度の三度目のデートで僕は、一気に彼氏への昇格を狙っている。
彼女とは、男友達に数合わせで誘われた合コンで初めて出会ったのだが席が隣だったことが幸いしお互い映画の話で盛り上がり翌週の映画デートにつなげることが出来た。そのデートは、彼女がリクエストしたアクション映画を観たので終始いい雰囲気で進んだ。その後、また次の約束が出来たのだからこのデートは成功したということだ。
彼女は、色白でショートカット、スキニージーンズがよく似合う僕好みの女の子だった。僕は、彼女の無邪気な笑顔に一瞬にして心をつかまれた。
今回、蕎麦をデートコースにからめようと思ったのは、前回の映画デートの帰りに彼女が蕎麦好きだと知ったからだ。新蕎麦の時期に長野へ蕎麦を食べに行くというのがここ数年の定番行事となっているそうだ。よほどの蕎麦好きなのだろう。そんな彼女の舌を満足させる蕎麦を食べさせることが出来たなら昇格がぐっと近づくであろう。しかしそれには問題があった。僕には、蕎麦屋にわざわざ行って蕎麦を食べるという文化がない。せいぜい駅の立ち食い蕎麦をかき込むぐらいなのだ。
そんな僕が、無謀にも蕎麦をからめたデートを計画しよう決めたのだ。彼女に喜んでもらいたくて。
そう決めてから僕は、本屋でガイドブックを見たりネットで検索したり友人に聞いたりと出来る限り情報収集に努めた。
そして僕は、深大寺の蕎麦が歴史があり有名であることを知った。さらに周辺の様子を調べると神代植物公園があることを知った。これなら蕎麦だけでなく自然の中でリラックスしたデートが出来ると思った。
そんな流れで今日の下見を迎えた。
公園の下見を終えるとお目当ての蕎麦屋である喜楽庵に立ち寄りもり蕎麦を食した。程よい腰の強さで噛みごたえがあり蕎麦とはこういうものなのかと思った。日曜日と言うこともありかなりの行列ができていて待たされたがこの味なら許せる。そして最後に蕎麦粉を使ったまんじゅうを頼んだ。このまんじゅうは、ネットからクーポン券を印刷し持って行くと無料で食べることができる。これもまた甘さ控えめで一口大なので量的にもちょうどよくとってもおいしかった。きっと甘党の彼女も気に入ってくれるだろう。
思い通りの下見ができた。あとは、本番を迎えるのみだ。
 三日後、いよいよその日が来た。降水確率五十パーセントと言う微妙な天気予報が出ていたが朝起きた時点ではまだ雨は持ちこたえていた。
 僕たちは、新宿駅近くのコンビニで待ち合わせた。店内で立ち読みをしていた僕の背中越しに「おはよう」という彼女の声が聞こえてきた。振り向くと彼女は、ニコッとほほ笑み僕を見ていた。
「おはよう」
僕も思わず笑みがこぼれた。
彼女は、白い帽子をかぶり細身のジーンズをはきTシャツにカーディガンを羽織りストローバックを右手に持っていた。バックから折り畳み傘の柄の部分が少しのぞいていた。
「天気何とか持つといいね」
そんなことをお互い話しながら新宿駅に向かった。
「達也君は、深大寺行ったことあるの?」
「あっあるよ」
「最後に行ったのはいつ頃?」
「うーん。去年かな」
 とっさに僕は、嘘をついた。デートの下見をしたなんて恥ずかしくて言えなかったし深大寺を最近知ったことも何となく隠したかったから。
「そっかー。私、深大寺、久しぶりだから楽しみだよ。今日は、どのお蕎麦屋さんに行くの?」
「喜楽庵」
「えっほんと?あそこおいしいよね。私好きだよ。あっクーポン券持ってきた?」
「うん。まんじゅうのでしょ?」
「そう。あれクーポン券持って行けばただだもんね」
彼女は、とっても嬉しそうな表情をした。
彼女は、どうやら僕より詳しいようだ。
京王線に乗り調布駅で降りた。そこから深大寺行きの路線バスに乗ってもよいのだがあえて歩いた。三十分弱。僕たちは、たわいもない話で盛り上がった。いい雰囲気のまま住宅街や畑を抜けると緑豊かな深大寺の入り口に着いた。
 まずは、計画通りあの絨毯へと向かった。
「ふかふかするねーおもしろーい」
彼女は、そう言って子供のようにスキップをした。とっても楽しそうだった。
次に公園内にあるバラ園を散策した。彩り豊かなたくさんのバラの花に彼女は引き込まれていた。一通り公園内を回った後、喜楽庵へ向かった。
さすがに平日と言うこともありすぐに店内へ入ることができた。
そして僕が席を座った時だった。
「すみません。もしかして日曜日にいらっしゃった方かしら?」
 声の先には、お店のおばちゃんが立って僕を見ていた。
「はい?」
「クーポン券を出しておまんじゅうを食べたお客さんじゃないですか?その帽子この前もかぶってたでしょ?帽子だけ印象に残ってたもので」
 僕は、まずいと思った。彼女に嘘をついたことがばれてしまう。確かに僕のことだがこのタイミングで何が言いたいんだ。僕は、少しいらだちを感じていた。
「いやねークーポン券をいただいたのにおまんじゅうの代金をいただいてしまったものですから。もしあなただったらお金をお返ししようと思って」
「あれ達也君今年は初でしょ?」
 彼女が、聞いてきた。僕は正直に言うことにした。
「おばさんそれ僕です」
「やっぱりね。よかったわ会えて。今、お金持って来るわね」
 彼女が、不思議そうに僕を見ていた。
「ごめん。実は、日曜日に下見に来たんだ。本当は、今日初深大寺なんだー」
 気まずかった。
「そうなんだー。ありがとう」
 彼女は、笑顔でそう言った。予想外の言葉だった。
「嘘ついてごめんね」
「気にしなくていいよ。私、うれしいし」
「そう言ってもらえると少し気持ちが楽になるよ」
「ねえ深大寺をデートコースに選んだ理由はなに?」
「それは、蕎麦を食べさせたかったのと公園があるからいいかなーと思って」
「なんだーそれだけかー。二人でお参りしたいのかと思った」
「お参り?」
「うん。深大寺は、縁結びのお寺でしょ。お蕎麦食べたら一緒にお参りしようね」
僕は、どうやら昇格できそうだ。にんまりしながらそう確信した。

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<著者紹介>
渡邉 博之(静岡県沼津市/37歳/男性/会社員)

 ミツオは本が好きな青年だった。
天気の良い日は必ずと言っていいほど深大寺のなんじゃもんじゃの木が見えるベンチに座り、読書をしていた。
彼はこの木々の深い、森のなかにいるような気持ちになれる場所が好きだった。確かに参拝客や時期によっては音楽会なども催される――必ずしも深とした静けさのある場所ではない。だが本の世界に漂っている心地よさは、ミツオの視界から他人を消し去っていた。本の中の彼はヒーローで名探偵。時には人ですらない。何にでもなれ、現実の彼にはできないことを何でもできるのが心地よかった。
 そんなある日、事件が歩いてやってきた。サク、サク、サクと、近づきつつある音。そして不意にどっかと隣に女が座ったのだ。
(なんだ――この女、失礼な奴)
 三人掛けのベンチだが、一つ空けて二人が座ればそこはすでに満席の体だ。中央に座らなかったことを悔やんだが、別段いつものように物語に入ってしまえばいいだけのことだ。
 隣に座った、読書を好むミツオとは明らかに趣味の異なる彼女は、綺麗に染め上げられた茶よりも明るい長髪。両肩から前に流した髪はテレビタレントのような流行の巻き髪にしている。肩も露わなブラウスにショートパンツ。まぶしい裸脚の先に編み上げのサンダルが映える。いわゆる今時の女性であった。
 そんな彼女はじゃらじゃらとストラップをたらした携帯電話を取り出すと、拡声器を思わせるような声ではなし始めたのだ。
「ちょっと、ジュン! なんでこないのよ! アイコと一緒? あっそ、勝手にすれば!」
 舌打ちも軽やかに、すぐに電話をかけ直す。
「あ、ダイちゃん? 今ヒマ? え? バイト? いいじゃん、一回休んだって――」
(オイオイ。何だよコイツは――)
 ミツオにとっては頭の痛い、静かな時間の邪魔者以外の何者でもなかった。だが、この代わる代わる男性に電話をかけ続ける彼女の話が気にならないといえば嘘であった。
 程なく彼女は席を立ち、サクサクと砂を跳ね飛ばしながらその場を後にした。
「なんなんだ、あの女――」
 今度は思いがけず声に出していた。だが、それに気づくとムニャムニャと語尾をすぼめ、本に目を落としたのだった。
 再び彼の前に静かな時間が帰ってきた――かに思えた。そう、これは始まりでしかなく、なんじゃもんじゃの木が見えるベンチは、彼一人のものではなくなっていたのだ。
 毎日違うタイミングなのだが、彼のいうあの女が同じベンチに座るようになったのだ。
 彼女は毎日、かわるがわる電話を続けていた。ときに楽しげに、ときに怒りのおもむくままに。その大半が後者であることを知るのは彼女自身と、この数日隣で話が聞こえていたミツオの二人だけだったかもしれない。
(まったく。毎日飽きもせず似たような話ばかり。おかげでこの本を読み切れなかった)
 このところ、ミツオは全く本に集中できなかった。彼にとっては初めてのことで、まさかどこにでもいそうな、ファッション雑誌そのままの格好の女一人のせいで静かな時間が侵されていると思いたくもなかった。
 しかし、事件はここからはじまる。とうとう彼女が先にベンチに座っていたのだ。
 しかも、いつもと様子が違う。
 いつもの快活さが鳴りを潜め、肩を落とし、背中を丸めてベンチの端に座っていたのだ。
 ミツオは一瞬怯んでしまった。だが、彼にしてもベンチに座ってのひと時を譲りたくはない。いつも以上に彼女が気になっているのを悟られないように腰を下ろしたのだった。
(なにを考えているんだ、俺は――)
 彼女を気遣った自分自身に納得いかないと、無理矢理に本を開き、文字に目を走らせる。
 だが、全くと言っていいほど、本は彼の頭の中に物語を生み出してはくれなかった。
(俺はただ静かにしていたいだけなのに)
 思った刹那、隣から声がしたのだ。
「アナタ、いっつもそこにいるのね」
 今まで聞いたことがないくらいに、静かで穏やか。少し寂しさが入り交じった声だった。
「――あぁ、まぁ――」
「バカなウルサイ女だと思ってるんでしょ」
 ミツオは思わず本を落とした。気づかれていたんだ、そう思った。
「全部聞いてたんでしょ、電話。軽い奴らのドコがいいんだ――とか思ってたでしょ」
 全部見透かされている。ミツオは彼女にそこまで見られていたとは思ってもいなかった。
「べ――別にそんなこと――」
 ミツオはこのときほど物語のヒーローのようになりたいと思ったことはなかった。
 彼女はそれすらも見透かしていたのだろう。慌てているのを必死に隠そうとするミツオにやわらかくくびを傾げると、和らいだ目元を見せたのだった。
 それを見たとき、ミツオはゴメンとつぶやき、その場から逃げ出した。
 反射的に走り出していたミツオが我に返ったのは深大寺の入り口が見えてきてからだった。同時に、あることに気づいた。
(本がない――)
(この後図書館に返すつもりだったのに。さっき落としたんだ――)
場所はわかっていた。彼女のいたベンチだ。
 まったく、いったい何でこんなことになったのか。俺はただ静かに過ごしたいだけだったのに。そう思わずにはいられなかった。そんな思いが、ベンチに戻る足どりを十二分に遅くさせていた。
(でも、あの女と本は関係ない。それに本は見つけて、図書館に返さなきゃ)
 彼はいつものベンチに向かって走り出した。
 しかし、ベンチに戻ったときには彼女もそうだが、本がどこにも見あたらなかった。
 悪態をつきたくなったが逃げ出したのは彼自身だ。飲み込んで、彼女をさがした。
(きっとあの女が持っていったんだ)
思いがけず、奇妙な鬼ごっこがこの深大寺のなかで始まっていた。
 ミツオは汗だくになりながら、走り回った。いつからか訳も分からず闇雲に走っていた気がする。少しずつ薄闇が広がっているのに気づいたのはそんな頃であった。
(そうだ。図書館に行ってみよう――)
 彼女が持っていったなら、もしかしたら図書館に返してくれているかもしれない。ミツオは図書館に向かって再び走り出した。
 だが、根拠はなかった。電話の内容だけならどこかその辺のゴミ箱に捨てかねない。百歩譲っても持って帰ったのかもしれない。
 司書さんに謝るつもりになっていたのも半分。彼女に期待するのも半分。とにかく図書館に向かってみることにしたのだった。
 図書館はまだ開いていた。だが、そのみちすがらも彼女の姿はなく、図書館の返却窓口にも本は返ってきていないようだった。
 ミツオは、自分の静かな時間が侵されただけではなく、何か大きなものが心の穴になっていくのを感じていた。
 呆然と図書館から出てきたとき、本を胸に抱いて彼女が立っていたのだ。
「――はい。もっと本を大事にしなさいよね。シシドミツオさん」
「なんで――(俺の名前を知ってる?)」
 全てを言い終わる前に彼女は言葉を重ねる。
「さぁ? 何ででしょう?」
 言うと少しだけあごをしゃくる。ミツオは本を受け取ると、ありがとうとだけつぶやいて図書館にきびすをかえしたのだった。
 無事返却し、再度借りて図書館から出てくると彼女はいなくなっていた。
 狐につままれたような気持ちのまま、何とはなしに彼は歩きだしていた。なぜ、なぜ、と思うままに歩いていたら、いつの間にかいつものベンチに来てしまっていた。
 もうすでに辺りは薄暗い。人が次第に少なくなっていくなか、呆然と座っていると、不意に声が降ってきた。
「隣、座っていい?」
「アンタは――いや、どうぞ」
 ミツオがベンチの端に腰を浮かそうとすると、彼女はすぐ隣に座ってきたのだ。
「さっきはよくも逃げたわね――」
 いきなりの恨み言で不意打ちをされ、ミツオは言葉に詰まってしまった。しかも彼女の目が笑っている。気づくと余計に混乱した。
「――ゴメン。その、わざと、じゃなくて、驚いてしまって。だから、あ、いや、そうじゃなくて。本を拾ってくれてありがとう」
「あはははは――おっかしい。オモシロイね」
「――そう?」
「うん、オモシロイ」
 いつの間にか、ミツオは彼女と話していることに心穏やかになっていった。はじめは彼の静かな時間を壊しにきた異邦人であったのに、今ではなぜか彼女との会話自体が静かな時間になっている気がしていた。
 このとき、ミツオははじめて気づいたのかもしれない。物語という空想で作られた世界のなかにいるよりもずっと穏やかな気持ちになれる時間があるということに。
 思い通りにならないことで感情がゆり動かされ、はじめて気づける穏やかな時間があるということに。
「あ――その、そういえば、なんで俺の名前を知ってるんだ――ですか?」
 くすりと彼女は笑顔をみせる。
「むかし観たアニメのマネをしてみただけ」
 どうやら、彼女の方が数枚上手らしい――彼女の本名を聞いてはじめて気がついた。彼女がいつもミツオが借りる本を先に読んでいたクドウリカその人であったことに。
 イタズラっぽい笑顔に心が踊るのを素直に受け止めるミツオであった。それは、これから巻き起こる波乱と静寂の間で揺れ動く二人の物語の始まりを告げる合図でもあった。

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<著者紹介>
雨宮 瞬壱(東京都多摩市/33歳/男性/会社員)

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