十年ぶりの深大寺だるま市。ぼくは、境内に続く山門に立ち、深く息を吸った。梅の花が香ってくる。右手にだるま、左手は恋人のアイの手とつないでいる。ぼくたちはこの秋、結婚する予定だ。
今日はだるまの右目に、梵字で「吽(うん)」を入れてもらうために来た。ほんとうの恋の成就。その願いが叶ったから。左目には、十年前に書き入れてもらった「阿(あ)」の字が入っている。本堂奥の元三大師堂に足を向けながら、十年前を思い出していた。アイと出会う前の、ぼくが二十歳だったときのこと。今でも時々思う。あれは、現実だったのだろうか。

彼女はそこにいた。
新宿の雑踏に立ち続ける彼女を初めて見たのは、東京に出てきてほどなくだった。
彼女のまわりだけ、時間も季節も止まっていた。いつの時代のものなのかわからない、枯れ草もようの薄緑と茶色のストールを細身の体にきっちりとまきつけ、自分を抱きしめるようにきつく両ひじをつかんで、うつむいて、でも毅然と立っていた。
年齢もわからなかった。肩までのまっすぐな髪に、よく見ると老婆にも、少女のようにも見える、時代錯誤な眉山のきりりとした化粧をして、はかなげな目が孤独を湛えていた。
 ストールのせいでなのか、いつでも彼女のまわりにだけ晩秋の空気が漂っていて、見ているとたまらない淋しさがこみ上げた。
東京に出てきて二年、大学生活にも慣れてきた三月だった。
「あっ、またいた」
合コンに急ぐ駅の地下道で、テニスサークル仲間のシュウがささやいた。彼女だ。
「ああ、あの人、いつもあそこにいるよな」
「知らねえのか?有名な話。あれ、売春婦らしいってウワサだぜ」
シュウはニヤリとして言った。
「あそこで立って、客待ちしてるらしい。なんか怖ええよな」
「ふーん」
 なごり雪が降ったばかりだったけど、さらに冷え込んできた気がして、ぼくは足を早めた。
 東京に出て下宿生活を始めれば、たちまちカノジョができて、とバラ色の学生生活を想像していたのに、恋愛しても一ヶ月も続かない。仲間には、ドライで冷たい男だといわれてるらしい。最近はもう、合コンに行ってもひたすら飲んでばっかりだ。
「...ねえ、飲みすぎたの」
肩をゆすられて気づいた。地下道で寝転がっていたらしい。心地よいアルトの声の主をさがす。「彼女」だ。やっぱり、間近で見てもトシがよく分からないな。
「大都市は冥界よ」
酔っ払ってるのに、その奇妙なフレーズはぼくの頭にハッキリと焼きついた。それで、なんとなく聞いてしまった。
「あの、なんでいつもここにいるんすか」
「人を、待ってるの」
「誰を?」
「婚約者よ。約束したの。待ち合わせ」
「待ち合わせ?」
「深大寺に行くの。調布の」
彼女は夢みるように言った。
「なかなか来てくれなくて、待ちくたびれたわ。ねえ、明日、一緒に深大寺に行ってくれない?だるま市があるの」
「ああ、いいっすよ」
なぜそう答えてしまったのかよく分からないままに、翌朝地下道に行ってみると、彼女はきりっと立っていて、こっちを見た。
「行きましょう」
あ、やっぱホントだったか。シュウの言葉が頭をよぎったけど、ぼくは彼女について歩きだした。売春婦だろうと何だろうと構わない。彼女には何かがある。そう感じたのだ。
「ずっと、待ってた」
電車の窓から外を見ながら、彼女はつぶやく。
「深大寺は、婚約者の故郷なの」
複雑な事情でもあるんだろうか。いろいろ突っ込んでみたくなったけど、彼女の目が潤んでいるような気がして黙った。
 だるまを並べた屋台と人だかりでにぎわう深大寺の境内を、彼女は、ゆっくりと歩いた。ひとつ、ひとつの木を見上げ、雪どけの空気を、ていねいに呼吸しているようだった。
「ずっとここに来たかったの。ここから歩いてすぐの小さい家で、新婚生活を送るはずだった。新宿駅で待ち合わせしてたの」
「ふーん」
来なかったってことは、ダマされてたんじゃねえの?内心そう思いながら、相槌を打つ。
「彼は、帝都東京の空を守ってた」
吹き出しそうになった。なんだよ、「帝都」って。「空を守る」、って。戦闘アニメか?
「調布の飛行場に配備されていた。B29から故郷や家族、そして私を守るんだって、張り切ってた。休暇で帰ってくるはずだったのに、もう六十年近くも過ぎてしまった」
「ハ?」
ぎょっとして立ち止まった。B29、って戦争中の話じゃないか。だいたい「六十年」て、待ち合わせに遅れたとかいうレベルの話じゃないだろ。彼女のアタマは確かなのか?
「ここはね、恋がかなうところ。時代を超える、本物の恋よ。...ね、思い出して」
彼女は正気じゃない、と考えるのが普通だろう。なのに...、今日ここに来たのは、酒のせいだけじゃない。どこかでわかっていた。  
―最初からぼくは、彼女がなつかしかった。とても。
「私は昭和二十年の三月三日、あなたが来るのをずっと待っていた。待ち続けたまんま、新宿駅は三月十日の東京大空襲で焼け落ちた。でも、いつか必ず来てくれると思ってた」
 ぼくは小さいときから飛行機が恐怖だ。おそらく一生、乗ることはないだろう。そう言うと、彼女はうなずいた。
「あなたが乗った『飛燕』は、墜落してたのね。だから待ち合わせに来られなかった。生まれ変わったあなたを新宿の地下道で見つけたとき、分かったの」
「飛燕」とは、第二次世界大戦中に調布飛行場に配備されていた、日本陸軍航空部隊の戦闘機だ。東京上空に来襲したB29に体当たりして撃墜することもあったという。彼女はそう説明してくれた。
「うん、そうだ。行けなくてごめん」
半ば呆然としながらも、冷静なぼく。
歩き疲れたので、山門を出てすぐの門前そばの店に入った。彼女はぼくを見て笑った。
「ねえ、私のこと、不気味だと思う?」
「あ、いや」
彼女に足はあるな。体も透けてないな。なんてことを考えていたので、ドキっとする。おいしそうにそばをすする彼女は、どうみても生身の人間だ。あいかわらず、不思議な空気をまとっているものの。
「『人間が存在すること』なんて、不確かなものよ。私はずうっと、あなたを待ってた。ほんとは、途中から生きてなかったのかもしれないけど。でもね、雑踏の中の人たちの、誰が現実に存在していて、誰が存在していないのかなんて、証明できる?」
 迎え酒の地ビールを飲み干して店を出、ぼくは店の目の前の、湧き水の淵にしゃがんだ。不意に涙がにじんだ。ここに来るために。ここに来るために、長い旅をしてきた。そんな気がしたからだ。
「焼け野原だったことも、今の東京のネオンも、一瞬の幻。私にとって確かで変わらないのは、このお寺だけ」
雪どけの清涼な空気は、キラキラと澄んでいる。彼女の目は、穏やかだった。
「私はあなたと、戦前のだるま市で出会ったの。お互い両親に連れられて。私はお化粧して、下駄はいて。出会ったときから、あなたに恋をしてた。あの頃はそんなふうにして、ここでたくさんの夫婦が生まれたのよ」
彼女は、屋台のだるまを検分しはじめた。
「左目に『阿(あ)』の字を入れておくから、いつか願いが叶ったら、必ず右目に『吽(うん)』の字を入れに来て」
ぼくに手渡した。
「ねえ、ここにまつられている深沙大王という神様はね、姿はとっても怖いんだけど」
彼女は童女のようにほほ笑んだ。
「引き裂かれた恋人たちを再び引き合わせる手助けをする、やさしい恋の神様なのよ」
「確かに、そうかもしれないな」
ぼくはうなずいた。彼女は近づいてきて、ふわりとぼくを抱きしめた。深いやすらぎが、ぼくを包んだ。
「もう、行くわ。これからあなたは、ちゃんと恋ができる。多分、飛行機も怖くなくなる」
「あの」
行かないでほしい。声が震えた。
「あなたは、幸福でしたか?」
「そうね。ほんとは悔しい。とても、ことばでいい表すことはできない」
白目が青く見えるほど、透んだ瞳だった。
「それでもね、愛し続けた時間が、確かに私の人生だったのよ」

だるまの左目に「吽(うん)」を書き入れながら、僧侶はつかの間、ぼくを見つめた。いつもふざけてばかりのアイも、神妙に受け取る。
「いつかさ、ここの近くに、小さな家を建てよう」
「うん、私もこういう緑の多いところがいい」
アイは、微笑みながら続けた。
「大都市は、冥界だから」
思わず足を止めたぼくの手を、アイは強く握った。伝わってくる、あたたかな脈動。
「彼女」はあの日山門で、ぼくに笑顔で手を振った。そしてそれきり、今日まで一度も見たことはない。

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<著者紹介>
竹内 早希子(東京都板橋区/32歳/女性/会社員)

「おばあちゃん、あたし、超ヤバい。」孫娘のサナエがつぶやいた。
「えっ、何だって?何がヤバイって?」早苗は聞き返した。最近、いやずっと前からだが二十になったばかりの孫娘が何か言葉を発するたび、日本語ではなく外国語を話しているような気がするのだ。外国語どころか宇宙人語ではないかと思う時もある。
「やっぱマジ、ヤバイ。」うつ向いたままサナエが宇宙語を繰り返す。
「あんたの言っていることはさっぱりわからないね。一体何語を話しているんだい。ヤバイって何か世間様にご迷惑でもかけるようなことしたのかい。」早苗はせっかちに聞いた。
「あたし、幽霊に魅入られちゃったみたいなの。」やっと顔を上げたサナエは今度は宙を見据え、ため息混じりに答える。
「あんた達若者は私にとったら宇宙人みたいなもんだけど、宇宙人じゃなくて幽霊だって?」早苗自身にも自分が何を話しているのかよくわからなくなってきた。
「そうなのよ、幽霊君に恋しちゃったみたいなの。」
深大寺の境内を六十も離れた孫娘と肩を並べて歩きながら、またサナエがわけのわからないことを言う。だがさっきよりずいぶん話の核心に近づいてきたようだ。
「ふーん、あんた誰かに恋してるってわけだね。」大学の三回生になったばかりの孫娘のサナエの話によるとこうである。先週帰宅途中に深大寺の境内を通ると、生物学で同じクラスの男子学生が桜の木の前に一人佇んでいたという。だが教室で彼が他の学生と話しているのを見たこともなければ、笑ったところさえ見たことがない。背は結構高くて百七十八センチくらい。痩せてひょろっとした体に一度も日焼けしたことがなさそうな青白い顔。その姿でいつもふらっと教室に現れ、一番後ろの空いた席に座る。そして授業が終るとふらっといなくなる。ある日クラスの男子学生の一人がつぶやいた。「あいつってまるで幽霊みたいな奴だよな。」その時からサナエの周りでは彼の名前は「幽霊」になった。誰も彼の本名を知らないようだった。その「幽霊」くんが桜の木の前に一人佇み、蕾に向かってまるで話しかけるかのように微笑んでいたのだという。だがその笑顔を見た時、サナエは「キモい」と思わず、彼の笑った横顔が「美しい」と思った。そしてその日からサナエは生物学のクラスに彼が現れるのを密かに待つようになり、彼の存在が気になって授業に集中できなくなったのだという。「ふーん、なんだか不思議な子だね。そのミステリアスさに魅かれたのかな。」と早苗が言うと、サナエは頬を赤らめ「やっぱりお母さんじゃなくておばあちゃんに相談してよかったわ。」と言った。
「それであんた今日私をここへ連れてきたんだね。」早苗が聞くと、「ピンポーン!当たり!」サナエの目が輝いた。
「でも、その幽霊君とやらは今日もここへ来るかね。」早苗は尋ねた。
「絶対来る。なんかそんな気がするの。だって桜がこんなに綺麗なんだよ。蕾を見て微笑んでいたくらいだから、花が開いたとこを見に絶対ここへ来るってば。」サナエは自信ありげに言った。
 その日から早苗は二十の孫娘に手を引っ張られ、毎日深大寺の境内に通う羽目になった。自分の娘、つまりサナエの母に頼まれていたなら、こんなにも熱心に付き合わなかっただろう。だがこの六十も年の離れた孫娘とはいつもいろんな面で感性が合うのだ。深大寺に通わされているうち、早苗自身もだんだんその「幽霊」くんなるものを一目みたくなったのである。二人の深大寺通いが始まって一週間が過ぎた。
「サナエちゃん、あんたが見たのは実物じゃなくて幽霊だったんじゃないかい?」早苗は孫娘に聞いてみた。
「いや絶対そんなことない。だってちゃんと足があったもん。」サナエは口を尖らせた。
「おばあちゃんもね、若い頃よくここで初恋の人を待ったもんだよ。」早苗が言うと、「えっ、それって死んだおじいちゃんのこと?」サナエが好奇心に満ちた眼差しを向ける。
「違うよ。その人はね、おじいちゃんに会う前におばあちゃんがすごく好きだった人さ。英治さんと言ってね、終戦の年に南の島で戦死しちゃったんだよ。サナエと同じ二十の時さ。今はシンガポールと言うけど、その当時は昭南島と呼ばれていた島でね。」早苗は答えた。
「へえー、おばあちゃんにそんなロマンスがあったなんて、ちょっと意外。ねえ、その英治さんってハンサムだった?」サナエの目が輝く。「そりゃあ、男前だったよ。なにしろおばあちゃんの初恋の人だからね。英治さんが戦死したっていう知らせを聞いても信じられなくてね。この深大寺に毎日来て仏様に祈ったもんさ。英治さんが死んだなんて嘘。英治さんはきっとここに無事に帰って来ますよね、ってね。」早苗は話しているうちに急にこの満開の美しい桜を一目、初恋の人に見せたかったと思った。「昭南島は常夏の島だからね。桜なんか咲いてないんだよ。英治さんは日本男児だから、きっと死ぬ時はこの桜の下で死にたかったと思うよ。」早苗が言うと、孫娘はコックリとうなづき「そうだね。」と一言つぶやいた。夕闇が迫り、境内を歩く人の姿もまばらになってきた。
「ああー、幽霊くん、今日も来なかった。おばあちゃんの言う通り、やっぱり幽霊でも見たのかな。」サナエは肩を落とし大きなため息をついた。「今日はもう遅いし、近くでお蕎麦でも食べて帰ろうか。去年菜の花の天ぷらと一緒に食べた店がすごくおいしかったよ。」早苗が言うと孫娘は無言でうなづいた。
 二人は満開の桜に背を向け、寺の外にある蕎麦屋に向かった。「腹が減っては戦はできぬ、ってよく言うでしょ。恋にもエネルギーがいるんだよ。明日もう一回だけ一緒に来てあげるから元気出しておくれ。」早苗はまだため息をついている孫娘の肩を軽く叩いた。その時だった。桜の木の方を振り返ると、遠くの方から白い人影が近づいてくるのが見えた。「あっ、幽霊くん!」サナエがそう叫ぼうとしたと同時だった。「あらっ、英治さん!」隣にいる早苗が叫んだ。そして人影に向かって走り出した。「おばあちゃん、どうしたのかしら。」サナエは驚いてその場に立ちすくんだ。祖母の姿がどんどん桜の木に近づいて行く。祖母と幽霊くんが桜の木の下に辿り着いたのはほぼ同時だった。「英治さん、やっぱり帰って来たのね。」早苗はそう言うと、両手を広げ幽霊くんの体に抱きついた。
「やだ、おばあちゃんったら何してるの?」サナエは恥ずかしさのあまり、できることなら、この場から消えてしまいたいと思った。
サナエが山門の影に身を隠そうとした時だった。一陣の風が吹いて、桜の花びらが空中に舞い上がった。幽霊くんに抱きついた祖母の姿が桜吹雪にかき消され、二人の姿が一瞬見えなくなった。茜色の空をバックに薄紅色の花びらが散る、その幻想的な美しさにサナエは呆然とした。「これは夢かしら。」
 桜吹雪の中から二人の姿がおぼろげに夕闇に浮かび上がった時、サナエはやっと我に返り、二人がいる桜の木の下に向かって走った。「おばあちゃん、なんてことするの。その人、英治さんじゃないわよ。」サナエは叫んだ。
「えっ、英治さんじゃないの。じゃあ、この人だあれ?」早苗が聞く。
「私の幽霊くんよ!突然抱きつくなんて失礼じゃない。」サナエの甲高い声を聞いて、祖母はやっと我に返ったようだった。
「この人がサナエの幽霊くん?だって英治さんにそっくりじゃないか。」早苗が不信そうな顔で聞き返す。二人の女性のやり取りをしばらく見ていた青年はおかしくてたまらないというように「ぷっ」と吹き出した。そしてこれ以上笑いを堪え切れないというようにガハハと大声で笑い出した。
「あっ、幽霊くんが笑った!」「本当だ、笑っている。やっぱりこの人幽霊じゃないよ。ちゃんとした人間だよ」祖母と孫娘はまじまじとお互いの顔を見合わせた。
「そうです。僕は幽霊じゃありません。人間です。」暗闇の中で青年は声を発した。
青年は二人の女性に自己紹介を始めた。「僕は台湾から来た留学生で陳と申します。六ヶ月前に日本に来たばかりで、日本語はまだ上手く話せませんが、どうぞよろしくお願いします。」以外にも滑らかな日本語だった。
「なあーんだ、そういうわけか。だから教室でも誰とも口を聞かなかったのね。」サナエは納得したというように頷いた。
「陳くん、幽霊なんて呼んですまないね。それに暗闇の中で急に抱きついたりなんかして悪かったね。許しておくれ。初恋の人にあんまりそっくりだったもので。」早苗は言った。「サクラ、とても綺麗ですね。」陳と名乗る青年が言った。
「そうね。でももうこんなに散ったから明日から見られないかもね。」サナエがそう言うと、風が吹き花びらが三人の肩に積もった。肩についた桜の花びらを摘みあげて、陳青年は「ふっ」と笑った。二人の女は笑みを浮かべた、その横顔の美しさにしばし見とれた。そしていつまでもこうしていたいと思った。
「なんだかお腹が空いてきたね。陳くんもよかったら一緒にお蕎麦を食べに行かない?」早苗が誘うと青年は答えた。「僕、ソバ大好きです。」
「じゃあ、決まり!早く行こう。」
三人が深大寺の山門を通り抜け外に出ると急に雨が降り出した。
「走ろう。早くしないと皆濡れちゃうよ。」サナエが言うと、雨はいっそう激しく降り出した。
桜の花びらを敷き詰めたピンクの絨毯の上を三人は手をつないで走った。

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<著者紹介>
サナエ・チャン(アメリカ・ロサンゼルス/46歳/女性/料理研究家)

 神林明香音は、午前は花屋でアルバイト、昼間はカルチャースクールでフラワーアレンジ教室の助手をし、夕方からはレストランやクラブに生花を飾るディスプレイの仕事をしていた。大学は園芸か造園科を希望していたが、高校2年の終わりに父が亡くなり、フラワーアレンジの専門学校に進んだ。今は母文子と二人で暮らしている。軽トラックで走り回るようになって髪をバッサリ切った。数年たった今ではすっかり小麦色の肌になった。
 幼馴染みの伊志田颯人は海外青年協力隊に参加して農業支援を目的に2年の任期でタイに渡った。1年後、梨の礫だった颯人からほぼ毎日のようにメールが届くようになった。
「交換日記じゃあるまいし。颯人タイでちゃんと仕事しているのかなぁ」
「いいじゃない。颯人君も寂しいのよ。でも、せっかく農学部から食品会社に就職したのに3年で辞めて近所の『神代庵』で働くとは思わなかったわ」
「お蔭で颯人は蕎麦を打てるようになったし、私も蕎麦が好きになって良かったよ」
「でも、それから協力隊に参加してタイに行くとはねぇ」
「お母さんの予想外ばかりだね、ハハハ」
 明香音も1年前までは得意先のレストランのシェフ達と食事やカラオケに行ったり、クラブのイケ面バーテンダーに熱を上げたこともあった。しかし、颯人とのメールが日課になってからはディスプレイの新規開拓やNFD資格検定(フラワーデコレーター)の勉強に精を出していた。以前よりも新聞やニュースを見るようになった。
 タイのランはカラフルで日持ちがするのでディスプレイにも多用していた。トムヤムクンやタイカレーは明香音の好物だが、それ以外タイの事はあまり知らなかった。
 颯人を通して、タイの農村では家事や農作業の為に学校に行けず、未だに字の読み書きが出来ない子どもたちが大勢いることを知りショックを受けた。それについて颯人とはメールで意見交換を重ねた。おかげでタイを身近に感じられた。送られてきた写メやテレビでタイの番組を見て文子と話題にした。
「颯人でも人の役に立てることがあったんだから有り難い話だよ」
「またそんなこと言って。颯人君は小さな頃から優しかったわよ」
 半年ほど過ぎた頃、颯人からのメールが暫く途絶えた。
「颯人どうしたんだろう?メール5日も来ないんだけど」
「忙しいんじゃない。心配なの?」
「そんなことないけど、今まで3日以上来ないことなかったからさ」
 モヤモヤした気持ちを抱え毎日仕事を終えてからメールを待つ日が続いた。6日目にようやく颯人からメールが届いた時には、思いも寄らぬ安堵感が押し寄せた。同時に頭に血が上り、直ぐに明香音は返信した。
〔まったく、連絡ないから崖からでも墜ちたかと思ったよ]
[心配してくれたのか?]
[なわけないでしょ!風邪で頭やられたんじゃない]
[相変わらずキビシーなぁ。病気の時くらい労わってくれよ。こっちじゃ大事にされてんだよ]
 数日高熱で臥せっていたと分かり、本当に胸のつかえが取れ、熱いものが込み上げた。(私、颯人のことが好きなのかな?でも兄弟みたいに育ったからなのかなぁ)。
 明香音は半年後の自分を想像して一人で真っ赤になった。ベッドにもぐり、ここ数日の睡眠不足を解消するかのように大爆睡した。
 帰国が近いとの内容を最後に颯人からのメールが途絶えた。多忙だからだろうと、今度は心配せずに連絡を待った。
 明香音はこの1年で自分のビジョンを明確にした。近い将来自分の店を持ち、ネットで今より広い地域を相手に自分の花を提供すること。そして、何かタイの子どもたちにできることを探す為、今は開店資金の調達と資格検定昇級試験の勉強を優先することだった。
 一方的に自分の近況メールは送っていたが、颯人からのメールが途絶えて十日たった。
 仕事がオフで昼過ぎに起きてきた明香音を待ち構え、文子が言った。
「今、バラ園フェスタやっているわよ。今年こそ行くんじゃなかった?」
「そういえば、そうだったなぁ」
「早く行かないと又終わっちゃうわよ」
 5~6年前から神代植物公園でバラ園フェスタが春と秋に開催されていることは近所で見掛けたポスターで知っていた。ライトアップされたバラたちの香に包まれて音楽を聴きたいと思っていたが、毎年行きそびれていた。 
 文子に背中を押されてやっと自転車で出掛けた。調布体育館から正門に向う木立ちの中を走っていると緩んだ風が頬に心地良かった。 
 若葉が空を覆いはじめ、葉越しに差す光が少し眩しく、ペダルを漕ぐごとに青い臭いが明香音を元気にした。この辺りの緑の多さに改めて感激した。
 植物公園の正門から入ると満開のつつじに歓迎された。樹齢40年以上の針葉樹林を抜け、個々に凛と咲いているしゃくやくを眺め、子どもの頃からお気に入りの球根ベゴニアの温室に入った。ここは明香音にとってディズニーランドだった。天井から迫るカラフルに咲き誇る大輪のベゴニアたちに囲まれるとワクワクして、久々におやゆび姫になれた。
 温室を出てバラに圧倒されていると肩を捕まれ「わっ!」と驚かされた。
「明香音! あぁ母さんたちにやられたな」
「颯人帰ってたんだ。連絡くれればよかったのに」
「ワリ、昨日帰ったけどバタバタしててさ。けど明香音、色黒くない」
「うるさい......」
 明香音はドキドキするのを誤魔化しながら 久しぶりに会う颯人と面と向い会った。真黒に日焼けして白い歯が浮立ち、精悍になった颯人にしばし見とれた。明香音は手持ち無沙汰と気恥ずかしさで黙ってバラ園から足早に藤棚を抜けて階段を上ると売店の前にでた。慌てて颯人も後を追ってきた。
「ここも何年振りだろう、懐かしいなぁ」
「私たち、よく放牧されていたわよね」
「あの人達の話は、俺たちそっちのけで長いからなぁ、今もね」
 子どもの頃には広いと思った芝生広場も今では一面見渡せる。明香音はかつてお弁当をよく食べた雑木林のベンチに颯人と向かい合って座り、今度は瞳をじっと見つめた。
「私、落葉を踏むとサクサク音がするのが好きだったな」
「僕は枯れ葉蒲団に転がるのだな」
「颯人君は見えなくなっても、お腹が空くと戻って来たから誰も心配しなかったわね」
「ヒドいなぁ、ワハハ」
 二人で深大寺をお参りしようと植物園の深大門を出ると、赤い毛氈の茶店が並んでいる。
「ねぇ、遠足に鬼太郎茶屋で駄菓子買って持って行ったよね」
「良く覚えているなぁ」
「だって、颯人私の目玉のおやじキャンディー全部食べたじゃない」
「そういえばお腹すいたな」
 石畳の坂を下り花屋を横目で見ながら参道に出ると、最初に目に入った軒先に向かった。明香音は小豆おやきを、颯人は野沢菜おやきを歩きながら食べた。
 階段を上り『天台宗浮岳山深大寺』と書いてある山門をくぐり、手水でお清めをしてから、本堂前の常香楼の煙を互いにかけ捲った。ちょっと触れた颯人の腕は逞しかった。鈴を鳴らして賽銭を入れ本堂に手を合わせた途端、 "ありがとうございます"が、心の底から自然に明香音の口をついて出た。満開のなんじゃもんじゃの木を見上げると、大声で叫びたいほど笑みがこぼれた。
 左手奥の元山大師堂では、賓頭盧尊者の頭を撫でながら
「颯人の頭が少しでも良くなりますように」「こらっ!」
 明香音は颯人と久しぶりに大笑いした。 夢中で話していたので東参道の終点の多聞院ばしまで歩いていた。 
 明香音は戻りながらハッ! と思い出して急に落ち着かなくなった。
「ついでに開福不動堂もお参りして行こう」
颯人が階段を上りはじめた。
「いいよそこは......参道に戻ろう、ねぇ颯人」
「えぇ?なんか変だな。行くよ」
 颯人が足早に階段を上り境内に入り(思いの儘にノート)に近づいた。明香音は必死で前に立ちはだかったが、颯人は制止を振り切りノートをペラペラと捲った。
「ダメ! 見ないで!」
《颯人が1日も早く無事に帰って来ますように》3日前の書き込みだった。
「明香音、お参りしてくれたのか」
「だって!いつ帰るって教えてくれなかったじゃない」
 颯人は黙って明香音を引き寄せた。
「会いたかったぞ」
「私も......」
 明香音の瞳から涙が溢れた。
 颯人と手を繋いで階段を下りると、もう陽が傾き始めていた。
「おやきだけじゃお腹すいたな。取りあえず蕎麦食いながら一杯やるか」
「もう颯人ったら。でも、あとでライトアップしたバラ園にもう1度行くわよ」
「これからは何度でも行けるよ」
 2人は泣き笑いしながら、賑やかな売り子や呼び込みの声がする参道を再び通り、蒸籠の蒸気をくぐりながら『神代庵』に向った。

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<著者紹介>
櫻 染子(東京都/女性/専業主婦)

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