その晩、電話越しで私たちは喧嘩した。
 遠距離恋愛から、ようやく側に暮らせるようになって、もう何度目になるか知れない喧嘩だ。
 喧嘩の理由は、些細なこと。
 私の機嫌が悪いから、いちいち口煩い、自分の非を認めない...私の言葉が、あの人に迷惑をかけているらしい。
 彼は進学の為、地方から東京に越してきた。不慣れな土地では心細かろうと、マメに毎週通っていたのがよくなかったのだろう...彼は夏休みに入って、その日のうちに里帰りした。
 何気なく帰りの日程を聞くと、7月の半ばから、9月頭まで丸々いないという。大学が始まるぎりぎりまで休むつもりなのだろう。
 側にいられなかった分だけ、これからは出来る限り一緒に......思っていたのは、私だけらしい。8月生まれの私と、夏休みにいられないということは、今の彼氏彼女の関係は、偽りではないかという錯覚に見舞われる。
「別れちゃいなよ」
 のろけすらこぼしたことのない私が心の声をふと漏らすと、友人たちにそう口にされる。私自身はそれを望んでいない...そう思うのだが、彼の気持ちはどうなのだろうか。
 聞けば、好きだよ、と決まり文句が帰ってくる。喧嘩中は、答えたくない、と言われる。
 ではなぜ、一緒に誕生日を祝ってくれないのだろうか。夏休みだからって、どうして丸々実家に帰らねばならないのか。

 今日幾度目になるかわからないため息をついていた。
「お客さん、どうかしたんですか?」
 深大寺の蕎麦屋のお兄さんが声をかけてくる。苦笑しながら、私は「なんでもない」と答えて、できる限り平気な顔をしてお茶をすすった。
「さては、恋の悩みで来たんですね~?」
 常連客だと知っているだろうに、そのお兄さんは笑顔を浮かべていた。
「たまたま近所だから、ここに食べに来てるだけよ」
「そうそう、どうせ近所なんですから、深大寺にお参りして、その恋を成就させちゃってみては?深大寺は、縁結びのご利益があるんですよ~」

 恋なら、実っている。......と思う。

 言葉を飲み込んで、何とか笑顔を浮かべる。
「そんなに御利益在るんなら、お兄さんと縁を結んでほしいって言ったら、できるのかしら?」
「勿論、できますよ」
 お兄さんは、屈託のない笑みを浮かべると、そそくさと奥に引っ込んで、「オレ、ちょっと休憩もらいますね~」といって、腰に巻いていたエプロンを取って出てきた。
「じゃ、行きましょうか?」
「え、どこに?」
 差し出された手を見て目を丸くしていると、お兄さんは私の手を無理やりとった。

 深大寺は何度か訪れたことがあったけれど、男性と見て回ったのは初めてだ。彼と回ったことすらない。長い付き合いなのに、なぜだろう。そんなことを考えているうちに、賽銭箱の前に立っていた。
「ほら、お祈りして下さい。五円玉と、あと二十円、かな。二重のご縁、ですよ」
 言われるがままにお賽銭を投げて、手を合わせる。

 自分は、誰との縁を結んでもらいたいのだろうか。

 目を閉じたままのため息は、お兄さんにも聞こえたらしい。肩に、大きな手が置かれた。
「自分の気持ちを誤魔化すから、ちゃんとしたお願いが出てこないんですよ」
 目を開けると、お兄さんの顔がこちらを向いていた。私は視線をあわせることができなかった。
「ねぇ、お客さん...彼氏と喧嘩でもしたんですか?」
「喧嘩なら、短い期間に結構な回数したわ」
 合わせていた手を離して、来た道を戻り始めた。
「尽くしすぎていたのかもしれないし、干渉しすぎていたのかもしれない...気がつけば、喧嘩ばかりして、些細なことが積み重なって、私、うまく笑えなくなったの」
 近くに置かれていたベンチに腰掛けると、お兄さんもそれに習って腰掛けた。私は顔を前に向けたまま、独り言のように呟いていた。
「うまく笑えないのが、辛いですか?」
「でも、彼と面白いテレビを見たり、どこかへ出かけるのは面白かったから、全く笑えなくなったわけじゃないのよ。ただ......」
「ただ?」
「遠距離から始まった恋愛が、側にいられるようになると、周りの言葉ばっかり気になって、自分の気持ちがわからなくなったの。彼の言動一つ一つが、私を利用しているんじゃないか、私が嫌いにならないって確信があるから、ぞんざいに扱われているんじゃないかって」
「本当に、そう思ったんですか?」
「わからないの」
 両手で顔を覆うと、涙を堪えるために歯を食いしばった。どう言葉にしたらいいのか、分からなかった。本当に私は彼のことを今でも好きなのだろうか。それとも、もう心は離れていて、ある種の責任感のようなもので彼と付き合っているのか。私は、声を何とか絞り出した。
「付き合った男性は何人かいたけれど、こんなに長く付き合って、深く付き合ったのも、彼だけだから...彼もそれを知っているから、彼の中にも、責任を感じている部分があるんじゃないかって、疑うようになって...」
「ずっと昔にね、好きになった人がいたんですよ」
 お兄さんは、初めて笑顔の時とは違う声を漏らした。
「その人は遠くはなれた所に住んでいたけれど、オレのこと好きでいてくれたから、ずっと手紙や電話でやり取りしてたんですよ。余裕が出来たら、逢いに行ったりもしてました。といっても、年に数えるほどですが。ある時、彼女が近くに越してきて、オレ一生懸命彼女のために時間空けて、彼女との時間を作ってました。なのに...彼女はある日、オレと別れるって言い出したんですよ」
 お兄さんは、遠くを見つめたままゆっくりと話していた。
「何で?」
「今のお客さんと全く同じ事いわれました」
 驚いた私は、目を丸くしてお兄さんの横顔を見つめた。お兄さんは、こちらを向いて、少し寂しそうに笑った。
「きっと、遠くにいる間はお互い時間のある時にしか逢わなかったんですよ。それが、側にいるからって、お互い無理しちゃったんだろうなぁ、って。そう思ったら、なんか、無理するの、馬鹿馬鹿しくなっちゃいまして。逢いに行くのも、彼女の為に何かするのも、《彼女を好きなオレの為》にしてたのに、彼女の為にしてあげているって、気がついたらそう思っていたんですよ」
 お兄さんは、いつの間にか満面の笑みを浮かべていた。私は、その笑顔を眺めることしか出来なかった。

 ほんの少し前のこと、私は彼の考えを探っていた。けれど、彼は私のことを考えているのかどうか、疑うようになってしまった。同じ考えでいてくれる人だから、例え遠くにいても付き合おうって決めたのに、私はその最初の気持ちを忘れてしまった。
 それに気がついて、私はお兄さんに問いかけた。
「ねぇ」
「ん?なんですか?」
「その彼女と、別れちゃったの?」
 お兄さんは、悪戯っぽい笑みを浮かべると、私の肩に手を置いた。
「きっと、お客さんと同じですよ」
 そういってお兄さんは立ち上がると、両腕を力いっぱい空に伸ばした。
「さぁ~て、休憩時間もそろそろ終わりかな。お客さん!」
 お兄さんは、姿勢を正して、私に向き直る。
「また、うちの蕎麦食べに来てくださいよ。そのときには、とびっきりの看板娘、紹介してあげますから!」
 そう言い手を振りながら、お兄さんはお店へと駆けていった。私はその後姿が見えなくなるまで、ずっと眺めていた。

 しばらく呆然としていたけれど、立ち上がって、賽銭箱の前に戻った。無言で手を合わせると、小さな願いを口に出した。
「二重のご縁が、ありますように」

 私と、彼と。
 お兄さんと、彼女と。

 重なり合った縁が、もう一度重なりますように。

(了)
 
-----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
火原 緑青(神奈川県/22才/学生)

 梅雨は、まだ明けそうになかった。

「夏、か......」
 ケータイの画面を見つめながら、大規は独りだけのその場所に身を委ねる。
 七月半ば、雲の隙間から差し込む光が、吹き抜ける風が夏の香りを届ける昼下がり。
 季節を先取りしたセミの鳴き声、遠くに聞こえるお経そして太鼓の音。小さなお堂と誰かを模した像、それらを彩るこけ苔や草。
「夏になったら、何か変わんのかな......」
 ケータイを閉じて、空に向かって枝を伸ばす木々に手を伸ばす大規。
「......ま、何も変わらないんだろうけど」
 どこか諦めたような口調で言葉を漏らした大規へ、じゃり、砂利を蹴る音が届く。
「......わ。本当に、来た」
 続いて細く高い声が耳をくすぐり、思わず声の方へ顔を向ける大規。
「あの、聞いてもいいですか?」
 同い年くらいの女の子がこちらを見つめているのを認めて、身体を緊張させる大規。お堂の傍まで歩いてきた彼女の口が、三言目を紡ぐ。
「二〇八八年は、ステキな未来ですか?」
「........................はぁ?」
 唐突に放たれた言葉に、甲高く抜けた声を上げる大規。
「あ、あれ、違いました?」
「だから、何のこと――」
 言いかけた大規の目の前で、彼女が人差し指を向ける。
「それです」
「......俺のこと?」
「ち、違います、後ろのですっ」
 振り向いた大規の目に、幾何学的な模様が刻まれた石碑と、『一九八八―二〇八八』と刻まれた金属板が映る。『未来カプセル』と命名されているそれらを指して、彼女は口を開く。
「二〇八八年って凄い遠くて、全然想像つかないじゃないですか。でも、私思うんです。きっと二〇八八年という未来はステキな未来だ、って。そしていつか、ステキな未来を伝えてくれる人が来るって、思ってたんです」
 大規は何を口にするべきか迷った。
 想像がつかないといいながら「ステキな未来だ」と言い切り、未来人が来ることを想像する彼女は、言ってしまえば『変なヤツ』。
 けれど、細く差し込む光の下で微笑む彼女に、その通りの感想を言うのは何故だかためらわれた。
「お前、面白いヤツだな」
「......わ。そんなこと言われたの、初めてです。さすが未来人さんシンキングです。私には全然理解できません」
「......せっかく表現を和らげてやったのに、お礼代わりがその言葉か」
「ふふ、冗談ですよ」
 微笑む彼女に溜息を吐く大規。身体の緊張はいつの間にか解けていた。
「......未来を想像するのって、楽しいですよね。未来の世界では、私は何にでもなれて、何でもできる。私が楽しいって思うこと、嬉しいって思うことが、世界でもやっぱり楽しいことで、嬉しいことなんです」
 大規の傍へ歩み寄った彼女が、石碑に手をかざして呟く。振り返った彼女と大規の視線が交差する。
「それって、ステキな未来ですよね」
「............そう、かもな」
 かけられた言葉がまるで、湧水のようにすっ、としみ込んで来るのを感じながら、大規は石碑へと視線を向ける。
「すてきな未来......どんな未来なんだろうな......」
 伸ばした手にぽつ、と当たる冷たい滴。
「ん? 雨――」
 それが雨だと気づいた時には、次々と雨粒が木々を貫き、二人の身体を濡らしていく。
「やば、降ってきやがった。そこのお堂で雨宿りしよう」
 傍のお堂に駆け込む二人、すぐに雨は勢いを増し、敷き詰められた砂利を砕かんばかりに降り落ちる。
 屋根から滴る水滴が、二人の足元で弾けた。
「ったく、傘くらい持って来ればよかったか」
「大丈夫です、この雨はすぐ止みますよ」
 妙に自信ありげな様子の彼女が気になって、言葉をかける大規。
「どうして分かるんだ?」
「匂いが、違うんです。これは梅雨の長雨じゃなくて、夏の夕立だって、教えてくれるんです」
「ふぅん、匂い、ねえ......」
 試しに嗅いでみるものの、大規には彼女の言う違いはさっぱり分からなかった。
「......そういえば、お前」
「のぞみ希望です」
「うん?」
「今、私のこと呼びましたよね? お前、じゃなくて、希望(きぼう)と書いて希望(のぞみ)。それが私の名前です」
「いや、別に名前で呼ぶ必要は――」
 大規の言葉は、「名前で呼んでください」と訴えるような彼女、希望の視線に遮られる。
「......希望」
「はい! 何でしょうか?」
 名前を呼ぶ恥ずかしさの中に、笑顔を向けられたことへの喜びを噛み締めつつ、言葉を続ける。
「希望は、どうしてここに来るんだ? ほら、ここって特に何かある、ってわけでもないだろ。案内図にも載らないような場所だし」
「え? あるじゃないですか、あれが」
 希望が指差すのは『未来カプセル』。
「いや、確かにそうだけど......それだけ?」
「......あれ、私と同い年なんですよ。私と同じ年に生まれた、それだけで特別な気がしませんか?」
「ああ......なるほどな」
 彼女の言葉に納得するように頷く大規。
「何だ、俺と同じ理由だったのかよ」
「......わ。未来人さんが私と同い年なんて不思議です。何か運命を感じます」
「いつまで俺を未来人扱いしやがる......俺は大規だ。大の字に規則の規で、大規」
「大規さん......じゃあ、私からも一つ聞いていいですか?」
「え、あ、ああ、いいけど――」
「大規さんは、この夏何かが変わると思っていますか?」
「えっ......」
 大規は言葉に詰まる。「どうせ何も変わらない」と思っていたのに、希望の目の前でその言葉は言えない、言いたくない気がした。
「私は、変わると思っていますよ」
「......どうして、そう言い切れるんだ?」
 大規の問いに希望はあはっ、と笑って答える。
「分かりません!」
「分かりません、って、お前なあ――」
「いいじゃないですか、分からなくたって。変わらないと思ってれば、変わらないかもしれないし変わるかもしれません。でも、変わると思ってれば、きっと変わるんです。そういうものなんです」
 そう言い切る希望が何だかカッコよく見えて、でも素直に言うのは恥ずかしくて。
「お前、やっぱり面白いヤツだな」
「......わ。また言われました。やっぱり大規さんは未来人さんです。私の想像外のことばかり言ってくれます」
「......そうか、お前に雨に濡れる趣味があったなんて知らなかったぞ。せっかくだから叶えてやる、大人しくしやがれ――」
 苦笑しつつ振り上げた手は、希望がくしゃみをする仕草で止まる。
「っと......大丈夫か?」
「は、はい、大丈夫です......くしゅんっ!」
 大丈夫といいながら二度目のくしゃみをする希望。辺りの空気が、まるで雨が入れ換えてしまったかのように冷え切っていた。
「こんなものしかないけど、まあ、ないよりましだろ」
 言って大規は、ポケットに突っ込んでいたタオルを、希望の頭に被せる。
「あ、ありがとうございます。......わ、大規さんの匂いがします」
「そ、そっか」
「はい、とっても優しい匂いです。大規さんは優しい人です」
「そ、そんなわけねーだろ」
 希望の言葉が照れくさくて、何だかほんわりと温かくて、でもやっぱり素直に言うのは恥ずかしくて。
「お前、とんでもなく変なヤツだな」
「......未来人さんに当たり前のことを言われても、面白くないです」
「お、お前なあ......お?」
 今度こそと振り上げられた手は、飛び込んできた光の眩しさに止まる。
「ほら、晴れてきましたよ」
「......本当だ」
 お堂から降り、濡れた砂利に足を着けた二人を、夏の香りを取り戻した風が迎える。
「いい風ですね」
「そう......だな」
 頷き返す大規、再び差し込む光に目を細めて、そして一息に言葉を紡ぐ。
「何も変わらないかもしれないけど......でも、変わらないと思っているよりは、変わるかもしれないと思っている方が、楽しいかな?」
 ちらり、視線だけ希望に向ける大規。
「そうです! 絶対に楽しいです!」
 希望が返すその笑顔は、今まで見てきた中でも最高の笑顔だと、素直に思えた。

 梅雨明けが発表されたのは、それから間もなくのことであった。

(了)
 
-----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
音込深 烈(東京都港区/26才/男性/専門学生)

平造の飼っていた柴犬のゴンが死んだ。梅雨明け真近かのジメジメした日の朝にゴンは泡を噴いて玄関の片隅で冷たくなっていた。家族で話し合った結果、以前ゴンが貰われてきた頃住んでいた家に近い、深大寺の境内の供養所に翌日連れて行くことにした。平造は車の後部座席にゴンの入った衣装ケースを乗せ深大寺に向かった。その日は梅雨の合間のすがすがしい朝だった。甲州街道をつつじヶ丘の信号から左折してカーブの多いゆるい上り坂を走ると懐かしい風景が眼に入ってきた。まだ小さかったゴンの走り回る姿が平造の眼に浮かんだ。かつてここに住んでいた頃には何も無い畑だった場所に、広いスペースの駐車場の付いたコンビニが建っていた。
―まるで「バクダッド・カフェ」だな。
平造には見慣れない場所―しかもやけに開けた広い道路がそこに続く。この角を曲がると深大寺に向かう参道が右手にある、そう思いながらバックミラーでゴンの入った衣装ケースを見た。オマエの故郷でゆっくり眠れ―平造はそう呟いた。山門に曲がる道の角に小学校がある。六年生の秋までその小学校に通っていた。祖父の他界を切っ掛けに、両親は祖父が住んでいた高津区で祖母との同居を始めた。
―あの小学校は今でもアンナかな。
平造は頭の中で描く、まるでお寺みたいな門構えを思い出していた。参道に曲がる時、横目で小学校を眺めた―あの時のマンマだ。深大寺に緑があるから此処にはそんなモン要らんとでも言うように厳めしい石の塀が続く。またゴンの姿が浮かんだ。兄貴を引っ張りながら駆け出してくる子犬のゴンだ、胸がジンと痛んだ。バスの発着場の外れから深沙大王堂を通り抜け、裏手の小さな池の前から供養所のある階段を目指そうと思った時、眼を覚ますような鮮やかな青い紫陽花の下に光るものを見つけた。それはピンク色の鈍い光沢をした携帯であることがすぐに判った。両手で抱えたゴンの衣装ケースは人目に付き、しかもかなり重かったのでそのまま行き過ぎたが気になって足を止めた。
―女モンだな。
衣装ケースを池の前にそのまま置いて引き返してその携帯を拾い上げた。
―如何しよう?上の供養所の係員に、落し物だって言って預けようか?
平造はそう決めてズボンのポケットにその携帯を入れた。そして池の前においた衣装ケースをまた持ち上げ、立ち上がった。肩に担ぐと、下の湿った路に歪に散らばる木漏れ日に気付き、それから自然と眼が木々に移り空を見上げた。緑が眩しい。鉄製の安っぽい手摺りの付いたコンクリートの階段は小山の上まで続いていた。正面の四角い御影石を張り詰めた石畳の道と比べたら供養塔のある場所は裏街道みたいにひっそりと控えめに見えた。ペットの名前と飼い主の名前が書かれた青い幟が風にたなびいている。二十本ぐらいあるだろうか。

 立ち上る煙を見ながら平造は泣いた。その感情がすっかりピンクの携帯の事を消し去っていた。車まで戻ってキィーを差し込むまで気が付かなかった。シートに当たった携帯のコツンという感触で初めて思い出した。
―ヤバイ、持ってきちゃったよ。
 ため息が出て、余計なことしてしまった、面倒だな、と後悔した。持ち主と連絡つける方法はないかとリダイヤルとか着信履歴を無闇に押してみたが埒が明かない。保存メールに気が付いて押してみる。
―悦っちゃん、無理だよ。いくら待っても俺は行かないよ。娘との約束がある。いいね?
 ヤバイ内容だな、そう思ったが好奇心から平造はその一つ前のメールを見た。
―そうだな、でも今度にしよう。深大寺なんて辛気臭い処、俺の趣味じゃない。
―楽しかったよ、昨日のデート。お台場のレインボーブリッジ見せたかったんだよ。
 悦っちゃんと呼ばれるこの女の子が、不倫らしい年上の相手とのメール交換をしている。そしてあの場所に携帯を落とした、きっと此処で待ちぼうけだったんだろう。
―仕方ない、甲州街道に出てから交番にでも届けよう。
 平造はそう決めて車のエンジンを掛けた。駐車場を出てすぐに、助手席に置いた携帯から着信音が鳴った。YUIのナンバーだ。
「もしもし。」
平造はドキマキしながらその携帯の電話マークを探してプッシュした。こんな時の言葉なんて見つからない。第一相手が誰かも分からない―持ち主の友達か、もしかして無くした本人かもしれない。どういう受け答えが不信感の素を撒き散らせずに済むか、そればかりが頭を廻った。
 「あの、見つけてくれた人ですか?」
 戸惑いがちではあったが、明らかに嬉しそうな声―ホッとした感じだ。どっかで聞いたような声、そんな第一印象だった。携帯を持つ手を右手に持ち替え、車のフロントガラスの向こうの新緑の木々に眼を移した。懐かしい風景―深大寺の山門が左手に見えてきた。
 「はあ、そうなんですけど・・」
 平造は曖昧な返事をしたが、持ち主本人で良かったと内心喜んだ。
 「有難うございます。今、何処ですか?」
 躊躇いを見せながら声の主は訊ねてきた。
 「あ、深大寺の山門の前―車なんです。」
 「え、それならすぐにそっちに行けます。十っ分ほど掛かりますがお待ちいただけますか?」
 平造はゆっくりとブレーキを踏み、車を車道の左脇に止めた。
 「いいですよ、別に急ぐわけじゃないから。」

 そう言って電話は切れた。車をバスの発着所の手前の有料駐車場に止め、歩いて深沙大王堂に向かった。鬼太郎茶屋を右手に見てバス停の裏道を急いだ。そんな裏道で、犬と見間違えるほど大きな外国種の雑種猫が寝そべっていた。茶色と黒と白が混じった可笑しな猫だ。またゴンの姿が眼に浮かんだ。アイツ、猫を脅かすの好きだったな―思わず笑いが込み上げる。
 そんな訳で、彼女が携帯を無くした紫陽花の前で待つ羽目になった。そこが山門からそんなに遠くも無く、左手の格式のある日本蕎麦屋の庭から小さな滝音が聴こえる目立たない場所であることが分かっている、きっと地元の人間に違いない、平造はそう判断した。相手が若い女の子であり、なんとなく期待感があって心が弾んだ。好奇心もあった。相手は自分を何も知らないけど、平造はあのメールを盗み見た、だから相手に関する予備知識があることで立場は違った。
 待ちながら平造は考えていた。大学を卒業する去年まで平造はバンドを組んで張り切っていた。その時の平造は音のシャワーの中で生きていた。調布の音楽フェスティバルにも出た。それが今年は正社員としてコンピューターの会社の新入社員だ。電子音がその音に変わった。
―仲間は俺を詰った、夢を捨てたって。
金色と赤の長髪を黒い七三刈りに切って、毎日電車のラッシュアワーにもまれている。好きでそうなったワケじゃない、夢を捨てたって言われても困る。才能が無いって諦めたわけでもない、只々かったるかった、このままでいいのかって思うと途轍もない不安が押し寄せてくる。一体本当に何が遣りたいのかって自分に聴くと、どうもハッキリしない。毎晩、いや毎朝と言ったほうがいいのかも知れない―白々と空けてゆく空に冷たく蒼い月が掛かる歩道を冷めやらない興奮が残る頭と疲れ切った体を引き摺りながら帰っていく日々。これって本当の自分なんか、平造には分からなかった。
 そしてゴンが死んだ。故郷の深大寺に葬ってやろうと考えた時、俺の中で何かが弾けた。小さい頃のゴンの姿と平造の幼い姿が甦った。不思議なもので、自分というのは外から見えるモンじゃないのに、その時はハッキリと自分の子供時代の姿が頭の中で刻まれていた。なんか懐かしくなって引き摺られるように深大寺まで来てしまった。
 「すみません、お待たせしちゃって。」
 後ろで誰かの声がした、携帯の持ち主、悦っちゃんと呼ばれる女の子。
 「いえ、大丈夫です。」
 そう答えて彼女の顔を見た。何処かで見たことあるよな?平造はそんな気がした。白いちょっと丸っこい頬、細くて目立たない眼元、小さくキュンと絞まった形のいい唇。
 「ひょっとして、平ちゃん?」
 相手のほうがむしろ驚いたようで、女より男のほうが子供の頃と変わらない風貌をしているらしく、彼女にはすぐに分かったようだ。
 「もしか・・悦っちゃん?木元悦子だろ?」
 思い出した―平造が六年まで通っていた深大寺小学校の時の幼馴染の木元悦子だ。いつの間にか悦子は自分と同じぐらいの背丈にすらりと成長していた。女にしては大きなほうだ、しかし女は男よりデッカク見えるから一メートル六十五センチぐらいだろう、平造は今までの経験からそう判断した。

―草もちのお焼き、蕎麦せんべい、ソフトクリーム、田楽、蕎麦、草団子
山門の右手に赤い座布団の茶店、左手に赤い橋のかかった池、金色の鯉がいる。
入り口右手に鬼太郎茶屋。
 平造と悦子は深大寺の茶店を見ながら懐かしい思い出話に話が弾んだ。そうだ、もうすぐ七夕。派手な短冊が重そうに垂れ下がった笹が茶屋の表に飾ってある。話しながら平造はメールに書かれてあった言葉を反芻していた。
―コイツ、辛い恋をしてるんだろうな。
 父親を早くから亡くしていた悦子は、あの頃もどこと無く若い男の先生にくっ付いて歩いていたっけ。お河童頭みたいな短い髪で寂しそうに池を眺めていた姿が甦った。
 「ムカつく、タスポかよ。ここには自動販売機しきゃ無いんだよな。」
 ―そうだよ、七月からタスポカードのスタートってか?
平造は自動販売機にお金を入れてから気が付いた。返却ボタンを押すとお金の落ちる音がむなしく響いた。
 「煙草やめなよ。」
 悦子が寂しそうな笑顔で言った。
 「誰が止めっか!」
 平造は虚勢を張って言い放った。
 「男の人ってみんなそうね。」
 独り言のように悦子がそう言った。平造にはそれがあのメールの男のことだとすぐに分かった。
 「楽焼やりたくない?」
 平造はワザと話題を代えるためにそう言った。
 「そうだね、それいいかも。」
 その話に悦子が乗ってきた。二人で山門の前の茶店に入った。沢山の楽焼―お皿や動物の置物、灰皿、花の絵が描かれた小皿、所狭しと並んでいる。楽焼の風鈴が涼しげな音を立てる。
 「久しぶりだなあ、こんな感じ。」
 悦子が素焼きの動物の並んでいる工房の前に立ちボソッと言った。
 「こんな感じって?」
 「なんか落ち着くって・・ホントは好きなんだよね、こんなダサい感じが。肩肘張ってるのが・・馬ッ鹿みたい。」
 平造はなんとなく嬉しかった。悦子が屈託無く笑ったからだ。
 「ねえ、ねえ、これ良くない?」
 悦子はラッコの素焼きを指差して言った。お腹を上に向けた丸いユーモラスなラッコだ。平造は犬の素焼きを見つけた、しかしその犬は耳が垂れたコッパ スパニエルみたいでゴンのイメージには程遠い。他には狸、梟、猫、ライオン、それと福助―いろんな動物なんかが何段も棚に置いてある。後ろの白いわら半紙が敷いてある三つの長テーブルには、赤や黄色の溶き絵の具と十本ぐらいの筆が突っ込んである丸い筆立てが並んでいる。奥に見える工房では誰かが町興しのウルトラマンの絵を何枚も描いている。
「俺、このライオンがいい。」
ラッコの隣に並んだライオンに決めた。きっと、多分、茶色く塗ったらゴンに似ている。

 「平ちゃん、どうしてここに居るの?なんか用があったの?」
 幼い頃の親しみの籠もった眼で悦子が言った。ソフトクリームを二人で食べていた時だった。
 「覚えてる?俺の家で飼ってたゴン。昨日、アイツが死んだ。ここに埋めてやろうと思ってね。」
 寄っ掛かった欄干に肩肘を付けて悦子は平造を眺め、ハッとしたような顔付をした。白い頬に水面の揺れる光がチラチラと当たっている。
 「お爺ちゃんになったのね。」
 「そう、十五歳だよ、アイツ。」
 「悲しかったでしょ?」
 「まあな。」
 平造はそう言って黙った。悦子は下を向いてしばらく何も言わなかった。
 「カレシいるの?」
 話題を代えようと選んだ言葉がいけなかった―気が付いた時にはもう遅かった。悦子は無表情な眼差しで俺を見詰め、その眼をすぐに逸らした。女ってヤツは勘が鋭い、平造は自分が携帯のメールを見てしまった事を悦子に見破られたなと思った。
 「いるよ。でもカレシって言えるのかなあ。逢いたがるのは私のほうだけみたい。」
 そう言って悦子は池の方に体を向け寂しそうに笑った。
 「そんなカレシ、止めちゃいな。」
 「そうかも。」
 悦子はそのまま横顔を見せてもう一度力なく笑った。
 「その代わり、俺がカレシになるっての、どうかなあ。」
 振り返り、悦子は怪訝そうに平造の顔をまじまじと見た。
 「平ちゃんが?」
 「そう、まだ頼りないガキかも知れんけど、悦っちゃんの期待に応えられるような人間になると思うよ。」
 平造は、鼻を少し鳴らして虚勢を張った。悦子はプッと笑って噴出した。
 「それって、コクリ?」
 平造はムッとして悦子を睨んだ。なんだか自分が馬鹿にされたような気がした。
 「笑ったりして・・ご免ね。」
 「いいよ・・別に。」
 平造はそう応えるのがやっとだった。悦子に笑われて胸の中は恥ずかしさでズタズタになっているのが自分でも分かったが、どうすることも出来ない。
―俺、何言ってんだろ!これって「隙に乗じて」ってヤツ?俺って汚ねーな。
 平造は自己嫌悪に襲われた。ホワイトナイト気取りってヤツ!
 「いいよ、私で良ければ。」
 意外な言葉が悦子の口から出た。
 「私、もう背伸びするのが嫌になっちゃった。平ちゃんといるとなんかホッとする。ありのままの自分でいいのかなあって・・思えてくるから不思議だね?」
 悦子は飛び切り可愛い笑顔で笑った。
 「悦っちゃんのその顔、すっげーいいよ。」
 そう言ってから、平造は照れくさそうに笑った。悦子は何も言わずに水面を見詰めている。そして何を思ったか、バッグから例のピンクの携帯を取り出し少し躊躇した後、平造の胸の前に押し付けてきた。
「平ちゃん、これ池に投げてくれない?」
「どういうこと?それに・・不法投棄は禁止だぜ、ヤバクない?」
「いいの、いいの、早く!」
「俺、これ、拾って渡したんだよ。携帯って、ダイヤルメモリーなんか要るんじゃない?」
悦子は悪意の籠もった眼差しをチラッとその携帯に眼を遣り、少し笑った。
「これ、専用電話なの。だから要らない。」
平造は悦子の感情の激しさに気が付いた。水面の下に流れがあるように一見穏やかに見える心は、何かを投げ入れると時折その激しさを見せる。
「良いん?それでホントに。誰かに怒られても、俺、知らんからな。」
平造は半分その気になっていた。
「弱虫!優柔不断!」
悦子はさも面白そうに笑って平造を見ている。後に引けない、平造は思い切ったようにそれを力一杯に遠くに投げた。石切のように二、三度跳ねて波紋を残し携帯は沈んでいった。その時突然に―平造の頭の心髄に音のシャワーが降り注いだ。胸騒ぎみたいに―それでいて光みたいに透明なシャワーが満遍なく全身を覆った。
―俺、やっぱ音楽止められん。
音のざわめきが再び甦った。社会人になっても続けることは出来る、諦めたんじゃない、小休符だったんだ。平造はそう思った。今まで見たいな音楽とは違った旋律が頭を駆け巡った。

(了)
 
-----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
荒井 敦子(東京都調布市/60歳/女性/会社員)

<<前の3件 23456|7|891011 次の3件>>

紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、メールにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。 何卒ご了承ください。

著作権について

このブログに掲載されている文章、及び画像の無断使用、無断転載、無断流用を固く禁止します。
※作品の転載に関しては、ご本人様のみ可能です。

主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
第5回公募ポスター

第5回公募 募集要項を掲載しました。2009/1/5(月)受付開始。詳しくは募集要項本文をご覧ください。

共催

最近のトラックバック