怖い。私は両手で車椅子をぎゅっと握りしめる。利き足である右脚のギプスが取れたばかりでは、バランスを取ることもままならない。
 後ろで押す夫の肩には力が入っているのだろう。車輪の動きは、まるで星座を結ぶような直線的なラインを描きながら進んでいる。
「もう少しゆっくり」
 山のような言葉から選んだ、最も押さえた要望がそれだった。
「あ、ごめんな」
 夫は何処を見ているのか、どんな顔をしているのか、私からは伺い知れない。ただ、車椅子を押すという初めてのことに戸惑っている様子は、漂う気配からよくわかった。
 タイヤが拾う振動は、細かく身体を震わせる。私は咄嗟に対処出来るよう身を硬くし、飛び出しそうになる体を支える見えないシートベルトを、何度となく求めてしまう。
 外で車椅子に乗るのは初めてだった。
「まさに薫風とはこのことだな」
 林を吹き抜ける爽やかな風に励まされ、夫は落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
 一方私はというと、小学校の遠足以来二十年振りに訪れた神代植物公園を楽しむには、まだ時間がかかりそうだった。
 足置きの下で、アスファルトの小路が勢い良く流れていく。どうやら夫は車椅子を押すコツを掴んできたようだ。それにつられ、私も顔をようやくあげることが出来るようになった。
「葉が擦れる音って、何かに似ていないか」
「わからない」
 素っ気なく答える。恐怖心のかわりにすぐさま別の感情が芽生える。
「六月なのに無患子が落ちているよ」
「......」ムクロジなんて知らない。尋ねる気も起きない。我ながらこの意地の張りかたを持て余すが、今はどうしようもない。
「あとで、深大寺へ行こう。確かあそこに大きなムクロジの木があったはずだ」
 独り言のように、夫は当たり障りのない言葉を次々と繰り出してくる。まるで決して開かない箱をくすぐるかのように。
 車椅子は道の中央から、次第に左に寄ってきた。舗装路の両端は、切り落とされたように落ち込んでいて、アスファルトとの境目には何もない。私は転げ落ちそうな感覚にとらわれながらも、弱みを見せることが夫に隙を与えてしまうようで「怖い」のひとことを言えずにいた。

 あれは五ヶ月前の一月半ば。夫の三十五歳の誕生日のことだった。会社から帰宅する時間に合わせ、予約しておいた赤飯を近所の割烹に取りに行った。
 その店は評判が良く、夕どきの忙しさも重なり、十分ばかり待たされた。私は出来立ての赤飯の折を受け取り、心持ち急ぎながら自転車を自宅まで走らせた。暖かい赤飯を冷めぬよう、マントの内側に忍ばせ、坂道を片手運転で登っていた。
 それは出会い頭だった。
 自宅からほんの五十メートルのところにある十字路は、片側が急な登り坂、交差するもう一方の路は曲がりくねり、非常に見通しが悪い。小さな事故は頻繁に起きていた。
 大通りから侵入してきた白いセダンは、十字路に設置されたカーブミラーに映らず、車側もまた、私の姿が見えなかったという。運悪くミラーの付け根が劣化し、あさっての方向を向いていたのだった。
 スピードを緩めたものの、一時停止しなかった車は、走り抜ける自転車を軽々と飛ばし、私は人形のように電柱に叩き付けられてしまっていた。
 それらは一瞬の出来事で、何故、自分が横たわっているのか、冷たい道路に顔を付けているのか、全くわからなかった。痛さも感じなかった。目の前に散らばった赤飯の折を、ああ、どうしようと案じたことだけが記憶の隅にあった。
 誰かが叫ぶ声や、バタバタと近くなってくる幾つもの足音、そしてサイレンが聞こえたような気がしたが、それもすぐに聞こえなくなっていた。
 慌ただしく看護師が出入りする処置室の前で、駆けつけた私の両親に、まさに平身低頭して謝り続けた車の運転手は、夫だった。私はそれを後に父から聞かされた。
 軽い脳しんとうで、命に別状はない。しかし粉砕骨折した右脚の踵は、完全に元に戻らないかもしれない。
 それが医師の診断だった。
「娘の過失もあると警察の方から聞きました。命に別状はないのだし、今はどちらがということより、お互いにあの子の回復を祈りましょう」
 夫は毎日欠かさず見舞いに来た。
 最初の頃こそ、私たちは互いにかばいあった。また、別々の生活が新鮮でもあった。しかし、約一ヶ月の入院を終え、病院に近い実家から通院するようになってからは、少しずつ夫の態度に変化が生じてきた。
 梅が終わり、桜も散り始める頃になると、夫が実家へ顔を出す機会は、めっきり少なくなっていた。リハビリが一番厳しい時期であっただけに、私は脚だけでなく、精神的にも不安定になりがちな日々を送っていた。
 瞬発力はあるが持続力が無く、一旦面倒だと感じると、いきなり放り出してしまう、夫にはそんな傾向があった。前職も趣味もしかり。もう少し頑張ってみたらと、奮起させるようあの手この手を使い励ますのだが、行動パターンは容易く変わるものではなかった。
 まさか今回の場合も......と考えると、眠剤の世話にならずにはいられなかった。
 一方で脚の状態は回復へ向かっていた。
 ケロイド状の傷跡が何本も残っていることと、少し右脚が短くなったことを除いては。理学療法士に支えられ松葉杖なしで歩くと、以前とは明らかに違う歩行をする自分が鏡に映っていた。
 夫は、仕事が忙しくなったことを、言い訳と共に携帯メールで報告してくるようになった。平日ばかりか休日までも、接待ゴルフや休日出勤と、ありきたりな理由で実家へ足を向けなくなっていた。私は返事をしないことで、かろうじて自分を保っていた。小さな画面に並んだ文字では伝えきれないやり切れなさを、無言で訴え続けていた。
「メールじゃなくて、電話くらいくれてもいいのにね」
 心中を察するように母親は言うが、私はさらに心が苦しくなっていくだけだった。
 思いあまって一度だけ、実家の固定電話から非通知設定で自宅へかけてみた。ゴルフに出かけているはずの夫は......電話に出た。彼以外の人間が、複数で騒いでいる声が聞こえ、私は受話器を取り落しそうになりながら、かろうじて静かにおろした。
 新緑が芽吹く頃、私は杖を使い一人で病院まで行けるようになっていた。夫の言動は相変わらずで、私はそのことに慣れつつあった。
 ちょうどその頃、日帰りバス旅行のチラシが実家町内の回覧板で回ってきた。
『深大寺蕎麦ランチツアー&神代植物公園の薔薇ガイド付き』
 しばらく私につきっきりだった母に勧めると、嬉々として出かけて行った。
 その日は快晴。母も久しぶりに羽根を伸ばしてきたようだった。新調したリュックから、みやげ袋を次々と取り出し「日帰りなのに、一泊旅行くらいの充実感だったわ」と、気負い込んだ様子で一気に報告を始める。
「薔薇はね、午前中の香りが強いんですって。朝一番に行けてラッキーだったわ」
 買ってきたローズウオーターを手首に吹きかける。促されるまま私も手首を差し出す。薔薇の香りがふわりと広がった。
「深大寺の参道は、両側に雰囲気のあるお店が軒を連ねていてね、水の流れる音がどこに居ても聞こえてくるのよ。あぁ、外で聞く水の音って本当に気持ちいいわ」
「蕎麦はどうだったんだ?」父が口を挟む。
「もちろん美味しかったわよ。はい、お父さんには蕎麦ボーロ」
「蕎麦じゃないのか」
「お蕎麦は現地で食べた方が、断然、風情があっていいわよ」
 そこで思い立ったように私の方を振り向く。「そうよ、あなたも行ってらっしゃいな。お父さんに車に乗せてもらって、植物園で待ち合わせすればいいのよ」
「迎えに来てもらえばいいじゃないか」
「免停中だもの無理よ。だからそこはドラマチックに盛り上げるの。最近この子たちあまり会えていないでしょう。そういう時こそ、初心に帰るつもりでデート、でえと!」
 そんなもんかね。父は母の多少強引な思い込みを熟知しているのか、とぼけた表情だ。
「調べたら、帰りはバスが駅まで出ていたわ。園内は車椅子を借りれば大丈夫だし。参道散策は......えーっと、あちこちに椅子があるから杖でも平気ね。階段は......うーん、彼におぶってもらいなさいよ」
 おぶう? 絶対無理! 夫の運動神経の無さはよく知っている。それに恥ずかしい。しかし母は私の言い分など聞く隙を与えず、計画はあっけなく実行に移されることになった。
「それからこれは一番大切なおみやげ」
 手渡されたのは、夫婦円満お守り『赤駒』だった。

 緩やかだが登りの坂道が続いている。夫の息づかいが苦しそうだ。ねえ、大丈夫?
「ん? ああ。......。平気だ......」
 夫の言葉が途切れると、一瞬止まった車椅子が、ゆるゆると後ろへ下がりだした。私は慌てて両脇のブレーキレバーを引いた。
「危ないじゃない!」
 溜めていた想いが必要以上に声を荒げさせる。挑むように振り返った私の目に映ったのは、首を垂れ、肩で息をする彼の姿だった。
 小刻みに震えた細い腕でハンドルを受け止めている。
「ごめん、ちょっと立ちくらみ」
 膨らんで、膨らんで、もうこれ以上耐えられなくなったシャボン玉がパチンとはじけた。
「もう、私の面倒なんてみきれなくなった?」
「......」
「正直に言っていいから」
 無数の楓の葉が波打ち、擦れ合い、川の流れのようにざあざあと音をたてている。二人の張りつめた緊張感は保たれたままだ。
「見舞いに行かなくなったことは謝る。ごめん。ゴルフと嘘をついたのも悪かったと思っている。電話、くれただろう? あの時は、後輩たちとDVDでサッカー鑑賞していた」
 私は彼の次の言葉を辛抱強く待つ。
「俺、駄目なんだよ。自分でもわかってる。お前に何か言われると攻められているようで、どうしていいのかわからなくなるんだ」
 そのつもりがなくとも、言葉の端々にそう思わせる何かが出てしまっていたのだろうか。
「そんなつもりないのに」
「どんなに謝ろうが、見舞おうが、怪我をさせたのは俺だろう。お前の実家に小さくなって行くことは辛かったんだよ」
「うちの両親だってあなたにいろいろと気を使って......」
「でも居心地がいいわけじゃない」
「勝手だよ!」
「その通りだ。お前の言い分は間違ってはいない。俺がいくじなしなんだろう。ただ、誰もがお前の思っているように理想的に動けるわけじゃない」
 私はこみ上げて来るものを喉に感じる。四角四面。昔からそう言われていたことを思い出した。でも、今のこれはそうじゃない。
「俺を長い目でみてくれないか。俺たち、縁あってこうして一緒にいるわけだから」
「その縁から逃げ出そうとしたのはそっちじゃない」
「......」
「永く看て欲しいのは私の方なのよ!」
 私は言い出せなかった言葉を、精一杯の小声に力を込めて返した。夫は「そうだよな」と一言だけ言い、車椅子を押しだした。
「これからどうする?」
「深大寺に連れていって」
 夫のペースでうやむやにしない為に、私には考えていることがあった。
 車椅子を返却してから杖を使い、夫の肩を借りながら歩く。なんとか参道まで出ると、深大寺近くの休憩所に座り一息ついた。水路を流れる水音に混ざり、涼やかな風が盛んに風鈴を鳴らしている。
 そこで私は演技めかして口を開いた。
「神聖な場所へ立ち入るには、着古した自分を脱ぎ捨てることも大切です。あなたは私をおぶって、あそこの階段を昇ること!」
 深大寺の境内へ続く石段を指差す。奥には茅葺きのどっしりとした山門が構え、石段は参拝客が行き来している。
「ええーっ。なんでおんぶなんだよ」
「私だって、恥ずかしいよ。でもこれは、私が自分を壊す儀式でもあるの。だからあなたは、あなたの決意を見せて欲しい!」
 夫はしばらくあたりを見渡していたが、どうにもならないと理解したらしく、私の前に背を見せてかがんだ。
 階段は数えたら十三段あった。その年齢にしては痩せている夫は、杖を持った私を背負っただけで、足元がよろめいている。「もういいよ」という言葉が喉まで上がってくる。
 想像もしなかった軽やかな足取り。うっすらとにじむ首の汗と柔らかい髪がこそばゆく、懐かしい香りすらする。
 信じられないことに、夫は途中で休むことなく一気に昇り切り、一礼までして山門をくぐった。そして境内の玉砂利を踏みしめたとたんに、へなへなとしゃがみ込んだ。と、同時にパラパラと周囲から拍手が聞こえてきた。
 気が付かないうちに、二人は周りの人々に励まされていたのだった。私たちは照れながら、同じように幾度となく頭を下げた。
 これだけやったのだから、きっと大丈夫。深大寺の神様は、私たちの縁をぎゅっと結び直してくれたに違いない。

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<著者紹介>
落合 真奈美(東京都新宿区/女性/自由業)

や、やべえ。
 吉祥寺の駅前で、僕は途方に暮れていた。きっと真っ青な顔を浮かべているだろう。なのに、行き交う人も前を走る車も、僕のことなんか気にも留めてくれない。交差点をせわしく歩いて行く人々はツンケンとしていたし、車はご陽気にクラクションを鳴らしていた。
 思わず僕は時計を見つめた。亜紀が買ってくれた時計は、十時十分前を指していた。
 ああ、これは間に合わないなー、ちくしょう。
 時計を見て絶望するなんて、高校の時の期末試験のとき、全然問題が解けていないのに残り時間が十分しかなかった時以来のことだ。けれど、そんな昔の話をぶり返している暇もない。
 今日、亜紀との約束があるのだ。
 付き合って五年になる亜紀が、この前こんな提案をしてきたのだった。「今度、深大寺に行かない?」
 亜紀の実家は東京・調布の深大寺にある。とはいっても、今まで一度も行ったことがなかった。現在彼女は仕事の都合で二十三区に住んでいるし、そもそも学生時代から一人暮らしをしている。それは学生時代からの付き合いのある僕も知っている。
 さて、付き合って五年にもなる彼女が、自分の故郷でデートなどと提案してくるということはどういうことか。そんなこと、僕がいくら抜けたヤローでも即座に分かる。きっと、自分の親に僕のことを紹介するつもりに違いない。きっと、付き合って五年にもなってプロポーズの一つもない僕にやきもきしているのだ。......言い訳をすれば、プロポーズしてもいいのだけれど、踏ん切りがつかないままにここまで来ているだけのことだ。
 ところが、壊滅的に頭のネジが抜け切っている僕は、大いなる失敗をやらかしてしまったのだった。目覚まし時計のかけ忘れ。目覚めたときにはもう手遅れの時間。慌てて寝癖を整えながら服を着て、取るものとりあえず電車に飛び乗ってもこの遅れは挽回できなかった。そして気づけば待ち合わせの時間の十分前。待ち合わせ場所の深大寺入口まで、バスで二十分はかかるらしい。けれど、約束の時間は十時きっかり。あと十分しかない。
 が、彼女は時間に厳しい。時間に遅れると烈火のごとく怒り、僕のことをタコ殴りにしてくる。いつもならタコ殴りになってしまえばそれで済むけれど、今日はそうもいかない。大事な日なのだ。
 ああもう、どうしたらいいんだぁ!
 吉祥寺の真ん中で叫びそうになった。
 と――。
「おやおや、お困りのご様子だね」
 突然、後ろから声がかけられた。藁にもすがる気持ちで振り返ると、後ろにはお婆さんが立っていた。七十歳くらいだろうか、腰がひどく曲がっていた。
 なんだ、この人。
 そんな僕の心の問いに答えるかのように、上目使いをしてくるお婆さんは口を開いた。
「ああ、私は仏様の使いさね」
 曰く、深紗大王の眷族にして目代なのだという。そんなバカげたことを、座った目で喋っている。
 あ、やべえ。
 思わず僕は一歩のけぞった。関わり合いになっちゃまずい人だ。
 けれど、お構いなくお婆さんは続けた。
「あんた、あと十分で深大寺に行きたいんだろう?」
「へ?」
 何で知ってるの、このお婆さん。
 ははは、とお婆さんは声を上げて笑った。
「私ァこれでも仏様の使いだよ? 人の心くらい軽く読めるってもんさね。......お困りだろう? なら、何とかしてやってもいいよ」
 え、なんとか、って?
「決まっておろう」お婆さんはニカリと笑った。「神通力でお前を運んでやろう」
 するとお婆さんは僕の後ろ袖をつかみ、裏路地まで引っ張った。大の大人であるはずの僕は、お婆さんに襟を掴まれて引っ張られる羽目に。
 誰もいない裏路地で、お婆さんは懐をまさぐり、それを僕の前にかざした。
 それは馬の人形だった。
 藁で体を作ってあって、稲穂の尻尾がふさふさとしていた。藁人形の馬版と表現すると当たる。雄叫びをあげるように、空に鼻先を向けている。シワシワのお婆さんの手の上に立つそれは、ひどく華奢だった。
 お婆さんは言った。
「これで、お前さんを運ぶ」
「ごめんなさい」
 逃げようとする僕の後ろ襟を取ってお婆さんは続ける。
「無論、この馬に人は乗れん。が、ワシが神通力を使えば。はっ!」
 気合い一閃と共にその馬からぼわっと煙が立ち上り、しばらくその馬の姿が見えなくなってしまった。その煙は一瞬にして辺り一帯に広がり、僕の視界を奪う。そうしてしばらくして煙が晴れると、目の前には僕の背とあまり変わらない馬......の藁人形が立っていた。
「騙されたと思ってまたがってみい」
 言われるがまままたがった。もしこれで何も起こらなかったら、裁判沙汰に出来るだろうかと薄ぼんやり考えながら。ちょっと馬の脚が短かったせいで、またがっている僕の足はしっかり地面についていた。
 けれど、お婆さんはそんな僕にはお構いなしのようだった。その馬の前で何度も印を組み換え、何か呪文を唱えていた。けれど。
「喝!」
 またもや気合い一閃。その瞬間、予想だにしないことが起こった。
 ふわり。
 足が地面から離れた。
「え? え? え?」
 とにかく戸惑う。けれど、そんな僕の戸惑いはさらに混迷の度を極める。
 どんどん地面との距離が広がってゆく。お婆さんもどんどん小さくなっていく。いや、それだけじゃない。吉祥寺を行く人々の姿も車たちも、そびえたつビル群もどんどん小さくなってゆく。そう、僕は今浮いているのだ。
 どんどん上昇を続ける藁の馬、そして僕。けれど不意にその上昇が止まった。
 と。
「ヒヒーン!」
 藁の馬がいなないた。そして、手足を空中でばたつかせ始めた。地面でもしこれをやっていたら、走る動作だったのだろう。けれど空の上でのこと、前に行くこともなく......。と高をくくっていた僕が馬鹿だった。僕を乗せた藁馬はぐいぐいと速度を上げてゆく。もう速すぎて息が出来ない。次々に景色が後ろに流れて行ってしまう。不思議と怖さはない。うっすらと目を開けて、僕は先を急いだ。

 深大寺入口に、亜紀は立っていた。
「おーい、亜紀!」
 手を振って駆け寄る。そして彼女の前に立った瞬間、僕に浴びせられたのは思いっきりのグーだった。へぶう! そのパンチをモロに食らう僕の耳に、罵声まで届く。
「遅い! 二分遅刻! 私は十分前から待ってたのに!」
 結局、仏様の眷族の神通力をもってしても、十分で吉祥寺―深大寺間の移動には無理があったらしい。僕は辺りを見渡す。
「あれ? お義父さんとお義母さんは?」
 すると、亜紀は怪訝な顔を浮かべた。
「はぁ? 何言ってんの。今日は父さんも母さんも来ないわよ。そもそも、来るなんて言ったっけ?」
 そうだ。言っていない。ただ彼女の実家のある深大寺でデートしようと話があったから、紹介されるものと勝手に思い込んでいたのだ。深紗大王の眷族の神通力も、とんだ骨折り損なのだった。
 けれど、彼女は何かに気づいたらしい、急に笑顔を浮かべた。
「ねえ! その手にあるやつ」
「へ?」
 僕は右手を彼女の前で広げた。
 それは、僕の乗ってきた藁の馬だった。深大寺につくや、役目を終えた藁馬は元の大きさに戻り地面に転がった。そのままにしておくわけにもいかず、拾い上げていたのだった。
「これ、赤駒じゃん」
「赤駒?」
「うん、深大寺名物の玩具。......もしかして、私にこれを?」
「え......あー、うん」
「うわあ、ありがとう!」
いい方に誤解してくれたらしい。彼女は僕の手から藁馬もとい赤駒をひったくると、ニコニコと微笑みながら指先でつついていた。亜紀は本当に眩しく笑う。
 亜紀を見つめながら、僕は心の中で呟いた。
 この笑顔をずっと見ていたいんだよなァ、僕は。
 その瞬間僕の口から、胸から溢れてしまった言葉が飛び出した。
「結婚してください」
 すると彼女、顔を真っ赤にしてまたグーを飛ばしてきた。
「遅い! 待たせ過ぎ!」
 彼女のグーが僕の鼻を粉砕した瞬間、僕の心の中でお婆さんの声が響いた。
"がんばりなさいな"
 その声に向かって、心の中で僕は返事をした。
"うん、がんばります"
 鼻血をダラダラ流しながらも、僕はなんとなく幸せを噛みしめていた。

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<著者紹介>
谷津 矢車(東京都)

「ですから、もう話し合うことなんてないんです。自分たちでは堂々巡りになるばかりで。そりゃ、娘のことは考えましたよ。でももうきりがないというか。」
キッチンの香苗の声が少しいらだちを含んでいる。狭いアパートの部屋で会話はこちらの部屋へ筒抜けである。私はそっと向かいのソファに座る男を盗み見た。何を考えているやら書棚に目をやっている。やけに潔く切った堅そうな髪、新しそうなのに折り目のないスーツ。編集者にしてもなにかちぐはぐな感じである。電話の会話は聞こえているだろうにしれっとしている。私は焦った。こんな男に香苗の電話を聞かせたくない。
 香苗は育児雑誌に時々のったりするエッセイストで4歳の娘を抱えて離婚調停中だ。大学の同級生で在学中は顔を知っている程度だったのに、たまたま私の近くに引っ越してきてうちのピアノ教室の看板を見かけたそうだ。子ども相手の仕事だから昼は時間が自由な私は、親切で雑用を引き受けている間になんとなくアシスタントのようになっている。彼女は果断でエネルギーに満ちた猛進タイプだけれど、よく気がつく人でさりげなくお礼をしてくれたりするので、私はこの立場が気にならない。お給料を払うと言われたら縛られるようで引きそうだし、ピンチにある彼女を助けたいような気もあって続いている。だから仮にもアシスタントもどきの私としては、この無神経そうな男に香苗の電話を聞かせたくなかった。
今日はちょっとした打ち合わせを始めたところにこの男がやってきた。来るということは知らせてあったようだ。しぶしぶと言った風で家にあげたところで電話がかかり、こうして時間が止まっている。男はいかにも「待つのは気にしていませんから。」風を装っているけれど、一方で「話すまで帰りません。」というオーラもちゃんと出している。電話は長引きそうだ。香苗がこっちに気を遣っていない様子から、この男の仕事を受ける気がないらしいことが分かる。だからってプライベートの電話を聞かせることもないのだが、構わないことで「あなたのことは気にしていませんから」と主張しているのだ。
どうしよう、どうしよう。だんだん密度が濃くなってきた。こんな女所帯の狭い空間にでかい男は空気を吸いつくす気がする。出てくれないかな。どっかへ。「出直してもらえませんか」と言いかけるが、そのくらいではてこでも動かなそうなオーラがある。そりゃ都心の出版社からこんな調布の果てまで出かけてきたのだ。手ぶらでは帰れないか...近くに喫茶店でもあればそこでお待ちくださいといえるし、そもそも自宅に押しかけられずに喫茶店を使えばいいのだ。だが住宅街のここではそんな気のきいた場所はない。ええと、ええと・・・
「あの。深大寺、ご存知ですか?この辺では有名で、あの、ほらゲゲゲの女房っていう朝のドラマに最近出たりするんですよ。」
「ほう」気のなさそうな返事。絶対知らないな。こいつ。
「ちょっと行ってみませんか。私、ご案内しますから」
有無を言わさず立ちあがる。反応が無いので空振りか、と思ってから3秒たって、のっそりと立ちあがる。一応私の意図は察したようだ。いくら独身男だからって(いかにも構ってません、といったなりである。これで奥さんがいたらよっぽど大事にされていないんだわ)人の離婚話に退席するくらいのデリカシーは持つべきだ。
さてと。どうやっていくんだっけ。歩いて10分くらいの近さではある。近すぎて近所の人間はそうそう行ったりはしない。ゲゲゲで人気っていうのも、どこかに書いてあったのの受け売りだ。案内するなんていったけど私だって小学校の遠足以来である。当時は国立に住んでいて小学校2年の遠足が神代植物公園だった。5月のバラの季節、うっとりするような香りの中で絵を描いた気もする。絵を描くのはいまいちだったなあ、なんて思う。今日は梅雨空らしい垂れこめた雲で雨の降りそうな湿った風が吹いている。ご案内するような陽気じゃない無いなあ、と一人で思いながら黙々と歩いてしまっているのに気がつく。相手も黙々とついてくるようだ。あたりはバス通りでさえうっそうとした茂みや張り出した木々が目立つ。夏の木々は暑苦しいくらいに、どこまでも、どこまでも貪欲に四方に触手を伸ばす。
バス通りから参道へ降りていく。並んで歩くにはちょっと狭いから自然と先に立って歩く。「妙なお天気ですね。」
場つなぎにしたってもう少し気のきいたことが言えないものか。我ながら舌打ちするが、狭い歩道をたったと降りながら相手の顔も見ていないのだから、もはやなんだって良く、天気の話題はどんな時でも万能なはずだ。
「・・・」え?無視?という間の後
「いや、梅雨には梅雨の楽しみがありますから」
「・・・・」
ぬれる足もと、畳んでも張りつくぬれた傘。雨が降ると、もうどこにも行きたくない私だ。どんないいことがあるんだ!と心のなかでつっこむくらいなら「あら、どんな楽しみですか?」なんてさわやかに聞ければいいものを、不器用な沈黙で流してしまった。なんでうまく話せないんだろう。参道には名物の深大寺蕎麦屋をはじめ、漬物や、まんじゅうや、干物やの屋台なんかもある。人通りも結構あってゲゲゲの鬼太郎の店には人がたかっている。どこの観光地もそうであるようにガイドブックを持った年配の人が多く帽子にウォーキングシューズ、リュックが標準装備である。眺めている間にこちらも遠足気分になってきた。深大寺は小さなお堂が点在して一帯をなし、そこここに小さな蕎麦屋があってこれまた人気を呼んでいる。そっと隣を盗み見るとまんざらでもない表情をしている。無理やり連れ出されてこんなところに連れてこられて怒ってやしないかと心配したけど、なんだかのんびりした表情だった。隣に立つと意外に背が高い。急に自分の普段着のなりが気になったりする。坂道の途中に花屋もある。植木屋さんといった方が近いような、山野草の小さな鉢や涼しげな桔梗、まだ緑色のほおずき、朝顔なんかを所狭しと並べている。アジサイの大鉢もあった。小さい花がぎっしり固まったまあるい手毬のような水色のアジサイ、はやりのガクアジサイ。思わず見とれた。なかでも薄い水色のとがって重なったガクを持つアジサイが目を引いた。華やかで洋風、モダンな感じだ。
「花火っていう品種です。アジサイはほら、梅雨の楽しみですね。」
彼は楽しそうに言う。
「よくご存じですね。」
私はびっくりして言った。気のきかない冴えない男だと思ったのに、違う人格が現れたようだった。
それから彼はポツリポツリと話し始めた。この4月に突然スポーツ雑誌から育児雑誌に異動になったこと、子どもどころか独身なのにどうしていいかわからず途方に暮れていたこと。とにかく何かアウトドア系の企画をせよと言われて香苗の「春の草で遊ぶ」というエッセイを読んで、この「落ち葉で遊ぼう」バージョンを頼みに来たのだと話した。秋だからもう目前で今日にもOKしてもらわなければと、とにかく自宅に押しかけたのだという。はあ、それでてこでも動かないオーラを出していたのね。でも今の彼は緑に洗われてくつろいだ雰囲気になっている。私はふっと植物園に菖蒲を見に行ってもいいなあ、なんて考えていやいやと否定する。
「申し訳ないことをしました。ああいう場面に居座りたかったわけじゃないんですが。」「こちらこそすみませんでした。お急ぎのお仕事だったのに、こんなところへお連れして」そろそろ戻りましょうと言いかけた時、携帯が鳴った。彼はメールを確認すると急に名刺を取り出して言った。
「いいところへご案内いただいてありがとうございました。いい空気を吸って生き返りましたよ。今日はもう失礼します。先生にはまたご連絡してから伺います。念のためにそちらのアドレスをいただけませんか。」
なんで私はためらいなく自分のアドレスをやったのだろう??そりゃあ、空振りで帰る彼が気の毒だったから・・・?

部屋へ戻ると香苗が言った。「ごめん、ごめん。」そしてニヤリと笑ってこう付け加えた。「でも彼、美雪の好みのタイプじゃなかった?」

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<著者紹介>
花月 彩(東京都府中市/49歳/女性/主婦)

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