約束より結局三十分も早く到着してしまった。深大寺に多く立ち並ぶ蕎麦屋の中でも「市川」は古く小さい。それなのに、念入りに磨かれたような清潔さと、静かな佇まいは二年振りに訪れてもまったく変わっていない。
 二年前に父が亡くなるまでは、母と三人でよく訪れた場所だった。大学教授だった父は留守が多かったが、たまの休日に三人そろうと「市川に行くか!」と私たちを誘った。家からたった一駅先だったが、私にとっては小旅行のように楽しみなことだった。
店の前に立っていると、古い引き戸が開いて、その奥から蕎麦を食べ終えてお腹一杯の私と両親が笑顔で出てくる光景が瞼に浮かんでくる。父はいつも通り日本酒をちびりちびりと飲み、私はその嬉しそうな父の顔を見ながら酒のつまみに好んだ揚げそばに手を伸ばすことが大好きだった。
大学に進学して就職すると、当然に訪れる回数は減ったが、それでも三人で「市川」に行く習慣は不思議と途絶えなかった。
父が亡くなった途端、母と二人で来ることさえなくなってしまった。もっと長生きして当然だと思っていた父の早過ぎる死は、驚きとともに残された私たちの生活に色々な影響を及ぼした。それは死に対する悲しみより、現実的な重量感があった。母との関係もそうだった。父が亡くなっても元通りの関係には戻らず、それは三人いての二人と、本当に二人しかいなくなったことがまったく違うという現実だった。それにイラついて恋人の雅人に八つ当たりが増えると、その関係までもが悪くなっていった。
 思わず、小さな店の前から尻込みしたい気持ちになるが、しっかり背筋を正した。父が亡くなってからの二年、理解不能な母の行動に、ようやく答えを見出せる日が今日なのだ。
「とりあえず」と、心のざわめきを落ち着かせるように言葉に出すと、深大寺まで参拝に行こうとUターンした。気もそぞろな三十分をここで過ごすには、あまりに時間が長すぎる。もう一度背筋を真っ直ぐに正した。

一週間前の土曜日の電話は、一人の夕飯を終えたタイミングだった。電話の音ですぐに相手は分かった。見ていたようなタイミングでの電話はいつも母からだった。
「お母さん?」
「違っていたらどうするの?」
 電話口で笑う声はやはり母だった。
 思わず電話先の相手に聞こえるようにため息をついた。それを無視するように母は、
「ねえ、来週の土曜は休み?市川にお蕎麦を食べに行かない?話があるの」
口には出さなかったが「きた!」という心境だった。黙っている私に、
「雅人さんとデート?仲良くしている?」
きっと雅人は、最近妙に続く休日出勤だと言いかけてぐっと抑えた。来週正午の待ち合わせを決めると、何度目かのため息が出た。
理解に苦しむ母の行動の最初は、父が亡くなった一カ月後だった。急に家を売って私とも別居することを提案したかと思うと、実行に移す勢いはすごかった。さらにそのあと二回引っ越しを繰り返した。二回目は私も知らないうちに、数回転送される郵便物でようやく母の住所が変わったことに気付く始末だった。今は深大寺から徒歩十分程度のマンションに暮らしている。
それでも、私は基本的に何も聞かずに母の言う通りにした。どうしてと母を問いただすことで、母までも失いたくなかった。二人でもめるより、別居を言い出した母に従って、休日に一人で荷物をまとめ、会社に近いところにアパートを見つける方が余程楽だった。
何の相談もしてくれなくなった母への疑問と、責める気持ちは常につきまとうようになり、たまに会っても気まずさとわざとらしい気遣いばかりが表に出た。
こんなことになった原因を一つ一つ羅列したことも、夜中に起きて突発的に考え始めることもあった。答えはいつも分からなかった。いずれはと待ちながら、母が何も話してくれない二年が驚くほどあっというまに過ぎた。
ふと気付くと、深大寺の前まで来ていた。
紫陽花も終わったばかりで人もまばらだが、初夏を待つ緑が瑞々しく目にしみて感じる。
 父の病気が分かる数ヶ月前に、顔合わせ程度に雅人を両親に紹介したときは、まだ紫陽花が笑うようにほころんでいた。「市川」で蕎麦を食べたあと、四人で深大寺に参拝した。その晩「結婚はまだ早いよな!」と赤い顔で言う父を見て、母と苦笑した覚えがある。あれから二年交際は続いていたが、休日出勤が理由だけではなくすれ違いが増えていた。
なんじゃもんじゃの木の下に立つと、待ち合わせまであと十分になっていた。慌てて引き返そうとしたところで、こちらに来る女性の人影があった。
名残惜しそうに深大寺を振り返りながら出てきた母は、私の顔を見ても驚かず、すぐ笑顔になった。
「久しぶり」
「うん。お母さん早いね」
「参拝に寄ったら遅くなって。今から向かうところだったの」
 よそよそしい会話に、あんなに仲が良かったのにと唇を噛んでしまう。父が亡くなったことがすべての元凶のように思えてくる。そう思うことが悲しくて、目の奥が熱くなった。 
母が私の表情を見守りながら、意を決したように手にした紙袋を見せた。
「ねえ、真結。これを見せようと思ったの」
 中には大判のノートが入っていた。新聞や雑誌のスクラップが丁寧にはりつけてある。のぞきこむと、それは賃貸マンションの情報で、それも深大寺周辺の物件ばかりだった。思わず「またか」という思いが頭を過ぎる。
「また引っ越すの?」
「これ、お父さんがずっとしていたのよ。入院してからも新聞や不動産雑誌を買ってくるようにうるさくて」
「お父さんが?家があったのにどうして?」
 思わず問いただすような口調になった。
「真結は一人っ子だけど嫁に出すんだ。俺ら二人、最後は好きな場所でのんびり暮らすぞって。本当にこの周辺が好きだったのね」
 大学教授で頭が固い父は、てっきり私に婿養子でももらえと言うのかと思っていた。だから、長男の雅人との交際にほっこりした顔をしないのだと思いこんでいた。
「でも、それとお母さんが私に内緒で引っ越しばかりするのとどう関係があるの?」
「だって」
 母がちょっと目を斜めにそらした。
「お父さん、自分の病気を知る前に、死ぬとは思わずに探していたの。病気が分かってからも、良い物件を調べては私に細かく意見を言って。どういうことか分かる?」
 答えになってないと思ったが、黙ってもう一度ゆっくりノートに目を落とした。不動産情報の下に一つ一つコメントが書き込んであった。交通事情に始まって、日当たりや見える花まで丁寧に書き込まれてある。右上がりの見覚えのある字だった。
「この字・・・」
「雅人さんから真結へラブレターみたいね」
「へ?」
「これ雅人さんよ。お見舞いに来てくれて、お父さんが不動産情報をはるたびにコピーして、下見に行っては書き込んでくれていたの。いつもお父さん寝たふりだったけど」
「でも、お母さんが何の相談もなく勝手に引っ越すことと関係ないじゃない。私一人で寂しかったのよ」
「寂しかったのは、真結だけじゃないのよ」
冷たいくらいにはっきりした声だった。
「雅人さんの書き込みは、お父さんが私一人で住む心配を察して、それを解決していけるコメントで。お父さんが亡くなって一人でこれを見ていたら、色々なところを見てみようって前向きになったの。今のところは五階で、春には植物公園の桜がきれいに見えたのよ」
そうだ。母が勝手に引っ越して、置いていかれて、自分だけが寂しい気でいた。母は一人で引っ越しをして、一人で気持ちの後かたづけをしていたのだ。そんなことにも、父が一人残る母を思う気持ちにも、その父を思う雅人の行動にも、二年経つ今まで気が付かなかった。
 最後の物件のページの裏の糊が少しはがれかけていた。それを見た瞬間、今までたまっていたものが溢れ出してきた。
『雅人くん、わがままな真結を頼む。もし少し余裕があれば、ついでに妻もたのむ』
『二人ともおまかせ下さい』
母は私が止まっているページを見た途端、声をあげて泣き出した。父が亡くなってから、母が泣くのを見るのは初めてだった。
「来年は、雅人さんと桜を見にきて」
母が今日一番言いたかったのは、この一言なのかもしれない。
 泣き顔を隠すように言った母に、つい最近もケンカをしたことを話してしまった。早く雅人さんのところへ行けという母は、
「お蕎麦を食べてからね」
と笑った私に呆れ顔を見せた。父が亡くなる前の母らしい顔だった。
「だめ!走りなさい」

走りながら、深大寺の神様は怖い顔だぞと、小さい私を震えさせていた父の言葉を思い出した。今なら、それが深沙大王像のことで、いつもは姿を見せないけれど、実は縁結びの神様のことだと分かる。
疑っていた私を雅人は怒るだろうか。すごい形相の雅人と深沙大王が一緒になって笑うところを想像してみると、少しだけ笑えた。ずっと見送っている母の視線を受けながら、懸命に走り続けた。

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<著者紹介>
杉本 絵理(富山県富山市/32歳/女性/会社員)

深沙大王堂を通り過ぎてしばらく往くと、懐かしい山門が見えた。小さい頃によく遊んだなぁ。道路は舗装されて綺麗になっているし、以前はなかったお店もちらほらと見える。
「そりゃ、そうか。もう...八年も経つからな」
僕はポツリと呟き、立ち止まって時計を見た。午後八時五四分。約束の時間まであと五分と少し。上出来だ。五月にしては蒸し暑い夜、ふと目を向けると、山門は静かに佇んでいて、その静謐さはまるで、「落ち着きなさい」と僕に告げているようでもあった。そう、確かに僕は緊張している。何しろ八年ぶりなのだから。山門をくぐれば深大寺の本堂で、その隣には今も変わらず「なんじゃもんじゃの木」が雪のように白い花を咲かせているのだろう。そして、手紙に書かれたメッセージが僕の考えた通りなら、きっとあの木の下で、君が待っているはずだ。僕は、八年前のことをふいに思い出した。
 転勤族だった父の影響で、中学まで過ごした東京を離れることになった。行き先はイギリス。父や母は海外駐在を出世だと喜んでいたけれど、僕はちっとも嬉しくなかった。友達と離れ離れになるし、いきなり英語だなんて言われても、ピンとこない。それに、由香里のことだって...。
 由香里は、幼稚園からずっと一緒の、いわゆる幼馴染みってやつだ。家族ぐるみの付き合いで、どこに行くにも大抵一緒だったように思う。卒業を待たずに渡英すると言われた時、真っ先に考えたのが彼女のことだ。当時はそれが"恋"だなんて思いもよらなかった。だって、好き嫌いよりも近い距離間で僕らは時間を過ごしてきたから。クラスメイトの中には大人びた奴もいて、彼氏だ彼女だと騒いだり、年上の高校生と付き合ったりしていたけど、僕も由香里も、その点はすごく純粋で、恋愛を究極の約束事のように考えていた節がある。
「ねぇ、ヒトツバダコって知ってる?」
 渡英を目前に控えたある日、深大寺本堂の境内に座って二人で話していると、由香里が聞いてきた。
「ヒト...何?」
「ヒトツバダコ。ほら、そこの木」
言って指差した先には、僕らがなんじゃもんじゃの木と呼んでいる木があった。
「なんじゃもんじゃだろ?あれ」
「それはニックネーム。正式名称はヒトツバダコなの」
 なんだか馬鹿にされているみたいに感じた僕は少しムッとしながら返した。僕がもう海外に行くっていうのに、どうして木の話なんか。
「なんじゃもんじゃでいいじゃんか。ってか、それがどうしたんだよ」
 由香里は、微笑みながら繰り返した。
「今はまだ咲いてないけど、ヒトツバダコの花って、白くてまるで雪みたいだなーって思うことない?昔の人はね、すごく綺麗なものを、雪と月と花に例えて『雪月花時最憶君』、つまり、美しい物を見ている時に、遠くにいる君を思い出します、って歌に詠んだりしたんだよ」
 「...イギリスでも、月は見えるけどさ...」
 今思えば、僕はなんて馬鹿な返事をしたんだろうと思う。だけど、夕陽が差し込む境内で、少し大人びた話し方をする彼女を隣に見ながら、心の中にいつもと違った感情が芽生えて、それが僕を素直にさせなかった。由香里の笑顔が、すこし曇って、戸惑い、何かを決意した表情に変わった。
「...イギリスにも桜は咲くのかな、雪は、降るのかな。私には分からないけど、でも、もしも雪が降ったら、月が綺麗だったら、桜を見つけたら、啓は、私の事思い出してくれる?」
 心臓が弾け飛びそうな感覚だった。そして、その瞬間、僕は二つのこと知った。由香里が僕を好きだということ。そして、僕も由香里を好きだということ。
「...なぁ、深大寺ってさ、縁結びの寺だって知ってた?」
 僕は、出来る限り平静を装って話しかけた。
「知ってるよ。深沙大王の話でしょ?」
「由香里は本当なんでも知ってるよな。あれはさ、小島に隔離された恋人を、彼氏が亀に乗って迎えに行くって話じゃん?」
「うん」
「俺はたぶん亀には乗ってこないと思うけど、大学を卒業したらさ、あー...」
「何?」
「卒業したらさ、迎えに来るよ。だからさ、約束しよう。大学を卒業した年に、このなんじゃもんじゃの木の下で会おうって」
「...私ね、啓がいつも羨ましかったの」
 突然話が変わって僕は少し困惑した。今、精一杯の勇気を振り絞っているのに。
「え?」
「だって、啓は五月生まれじゃない?...ヒトツバダコはね、五月に満開になるんだよ。だから、約束して。雪の花を咲かせるこの木の下で、啓の誕生日の夜に、私を迎えに来て」
「...あ、あぁ。そっか。いつ会うか決めてなかったら会えないもんな。そうだよな」
「そうだよ。もう、いつも啓は抜けてるよね。そういうとこ」
そう言った由香里は、いつもの彼女だった。
それから一週間後、僕たち家族は、イギリスへ向かって旅立った。
 イギリスでの生活は単調に過ぎていった。海外生活と言っても、駐在員とその周辺なんてミニジャパンみたいなもので、僕も学校に通いながら、同じような境遇の他の日本人たちと英語の勉強に励んだ。渡英から四年が経ち、両親は帰国したが、僕は進学していたから、一人で残ることにした。
 大学生活は特に刺激のあるものではなかった。コースはどうにもならないほどではなかったし、他の学生のように、毎週末にクラブで踊って、一晩限りの相手を見つけたりするほど人生の刺激に飢えているわけでもなかった。何より、イギリスに来てからというもの、日本にいる時よりも鮮明に、僕は由香里を、その約束を心の中に温めておくことに時間を費やすようになった。
「お前、中学生の時の恋愛なんてガキの遊びだろ?相手も忘れてるよ」
「ユングだかフロイトだかは、真面目すぎて結婚してから遊び始めたらしいぜ。過去の恋愛に囚われんなよ。出エジプトだって!」
多くの友人は、そう僕に言った。勿論、彼女が出来なかったわけじゃない。でも、心の大部分を埋め尽くしていたのは、その相手ではなく相手に重ねた彼女だった。唯一心待ちにしていた彼女からの手紙も、他の女性と関係を持ってしまった罪悪感にさいなまれて返信できなくなり、一人暮らしを始めてから2年と少しで途切れた。
 大学も終わりに近づいたある日、フラットに一通の手紙が届いた。差出人も宛先も書いてなかったけれど、その手紙はなぜか僕の心をかき乱した。封を開けると、中には紙が一
枚だけ入っていた。
『雪月花時最憶君』
たった一行、そう書かれた手紙は、僕に八年前の深大寺を思い出させた。君はまだ、憶えていてくれたのか。もうずっと昔に忘れられたとばかり思っていたのに。イギリスにも桜は咲いたし、雪も降った。夏の月はとても明るくて綺麗だった。五月に君に逢いに行こう。きっと君は、そこにいる。
 ...野良犬が吠えて、僕は我に返った。どのくらいこうしていたのだろう。時計を見ると、午後九時を五分過ぎたところだった。まずい、遅刻だ。高鳴る胸を抑えるように、僕は山門をくぐり、本堂を正面に見ながら、ゆっくりと歩いた。今更ながら、何を君と話せばいいのだろうか、と思う。
 なんじゃもんじゃの木は、その枝が広がる範囲いっぱいに、雪を降らせていた。本当に雪みたいだな、と月並みなことを考えながら、僕は君の姿を探した。果たして、君はそこにいた。白いワンピースに薄水色のカーデガンを羽織り、景色に溶けそうなくらい儚く佇んで、じっと僕を見つめていた。
 八年ぶりの再会は、しばらくの間、静寂に包まれていた。お互い言うべき言葉を見つけられず、中途半端な距離感のまま立ち尽くしていた。
「五分遅刻。相変わらずだね、啓のそういうとこ」
 最初に沈黙を破ったのは彼女だった。
「あ...、ご、ごめん。でもそれを最初に言うことないだろ、八年ぶりの再会だぜ?」
「うん。そうだね。でも、なんだか嬉しくって。あの時と、何も変わってないみたいで」
「そうかな。変わっただろ、俺たち。少しはさ」
「そうかな。私は、啓って全然変わってないと思うよ。背が伸びたくらいじゃない?」
「うるせえな。由香里こそ...」
 と、慌てて後に続く言葉を呑みこんだ。「綺麗になった」なんて、恥ずかしくて言えやしない。
「何よ?」
「なんでもねーよ」
「ふーん。ま、いいや。でも...」
 由香里が一瞬黙った。そして、あの時の、戸惑いと決意の表情をまた見せる
「来てくれて嬉しかった。憶えててくれたんだね」
「忘れるわけないだろ。俺が約束したんだぜ、迎えに来るって」
 言ってから、なんてことを口にしたんだと後悔したけど、もう遅かった。
「うん...。約束したもんね。ありがとね」
その時、微笑んだ彼女の、大人びた笑顔を彩るように、風がそっと、雪の花を散らした...。

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<著者紹介>
渡邉 伸悟(福岡県北九州市/25歳/男性/大学院生)

 わたし達は別れる。たぶん、今日を最後に。
 二月の終わり、深大寺にはぼたん雪がちらついていた。うっすらと雪が積もり、山門の屋根は白く染まっている。歩を進める度に足跡が水っぽく残って、雪を踏みしめる感覚がする。
 ざくざくと響く足音は二つ。わたしの少し前でひろ君が白い地面に足跡を残している。マフラーに埋めた顔の、鼻の頭がうっすらと赤い。
 門をくぐると、道の脇に並ぶ葉を落とした木々が雪を纏っていた。色の少ない冬枯れの木は初夏に溢れる緑とは違う趣がある。周りを眺めながらゆっくり歩いていると、道の少し先でひろ君がこちらを振り返って立ち止まっていた。わたしは慌ててひろ君の元へ駆け寄る。
 ひろ君はわたしを見て、小さく口を開きかけたけれど、何も言わなかった。そしてまたすぐ、わたしに背を向けて歩き始める。わたしは、なんとなく、隣を歩くことも、遅くてごめんと声をかけることも、できなかった。

 きっかけは、青いテスト用紙だった。高一の期末テストの日に、わたしは筆箱を忘れてしまった。その時席が隣だったひろ君が、二つ持っているからと、シャーペンと消しゴムを貸してくれたのだ。でもテストが終わった時にちらっと見たら、ひろ君の答案は真っ青だった。本当は消しゴムもシャーペンも一つしかなくて、ひろ君は青いボールペンで答えを書いたのだ。わたしはその時、青いテスト用紙に、恋をしてしまった。
 ひろ君に告白されたのは、高二の初夏のことだ。公園のベンチでとりとめのない話をしながら、ひろ君が切り出すのを、わたしは二時間も待った。遠くで遊んでいた子供の、水色のワンピースをわたしは今でも覚えている。
 新緑が青々と茂る深大寺は、付き合って初めて二人で行ったところだ。まだ恥ずかしくて、距離を置いたままぽつりぽつりと言葉を交わすだけだった。わたし達は手をつなぐのに二ヶ月もかかったのだ。でも、二人でいることが嬉しくてたまらなかった。
 あの時の距離と、今、わたし達を隔てる距離は途方もなく違う。わたしはひろ君の背中を追いながらぼんやり思った。ひとひら、ふたひら、舞い落ちるぼたん雪は音もなく積もっていく。
 
 「茜」 
 わたしの名前を呼ぶ、ひろ君の声が好きだ。だから、ひろ君が戻ってきたことに気付かないふりをして、名前を呼ばれるのを待った。
 「これ、お茶」
 ひろ君はわたしにペットボトルの熱いお茶を手渡した。手袋の中からでも熱が伝わってくる。
 「ありがとう」
わたしは笑って言ったけれど、ひろ君はすぐに目を逸らした。また何か言おうとしてやめる。白い吐息が微かに漏れた。
 「あの、鐘みたいのなんだろうね」
 わたしは屋根の下にある大きな鐘を指差して言った。
 「さあ。鐘じゃない」
 ひろ君はそっけなく返す。二人してしばらく鐘みたいなものを眺めていたけれど、今度はわたしがすたすたと歩き出した。ひろ君は隣には並ばず、少し後からついてくる。
 微妙な距離を保ったまま、無言で歩き続けていたら、「別に」という、ひろ君のそっけない言葉を、ふと思い出した。クラスメートの男子に、わたしの事を好きなんだろう茶化されて、ひろ君は「別に」と言ったそうだ。
 ごめん。おれ、浪人するから、別れようか。夜の公園でそう言われたとき、わたしは頭が真っ白になった。ごめん、会えなくなるし、茜は別れた方がいいよね。しんと静かな闇の中で白い吐息が揺れていた。真っ白な頭に浮かんだのは、青いテスト用紙でも、水色のワンピースでも、初夏の緑溢れる深大寺でもなく、「別に」という色のない言葉だった。その言葉が照れ隠しだということくらい、わかっていたのに、わたしは思わず頷いてしまったのだ。
 最後のデートの場所に、ひろ君は深大寺を選んだ。初めてのデートと同じ場所を。その意図がわたしにはわからないけれど、だからわたしは今こうして深大寺に来ている。それで、わたし達は別れる。たぶん、今日を最後に。
 わたしは先ほどのひろ君と同じように何も言わずすたすたと歩いた。雪を踏みしめる感覚が少し心地いい。
 「茜」
 ふいに名前を呼ばれ、わたしは少し驚いて振り返った。ひろ君が真っ直ぐにわたしを見ている。
 「どこ行くの?本堂、こっちだよ」
 ひろ君は少し笑いながら、目の前の大きな建物を指差した。わたしの足跡は本堂とは別の場所へ向かおうとしている。
 「あ、ごめん」
 わたしが俯いて言うと、ひろ君はわたしの隣に並んだ。そして小さな声で、行こう、とわたしを促した。
 わたし達は屋根のあるところまで、雪の薄く積もった階段をのぼる。息が白く染まって、音もなく消えた。階段をのぼりきると、それぞれ傘を閉じる。溶けた雪がぽたぽたと傘から滴り落ちた。
 「寒いね」
 なんとなくわたしが言うと、ひろ君は頷き、顔を埋めていたマフラーをほどき始めた。
 「マフラー、巻きなよ」
 そしてマフラーをわたしの首元に巻こうとする。毛糸のふわりとやわらかい感触がした。
 「いいよ、大丈夫」
 わたしが慌てて言っても、ひろ君は聞かない。わざわざ手袋を取って、丁寧にマフラーをぐるぐると巻いてくれる。ひろ君の鼻は真っ赤で、手も微かに震えていた。ふいに、骨ばって男らしいひろ君の手が一瞬、頬に触れた。
 手をつなぎたい。わたしは、自分でも驚くほど強く、そう思った。ひろ君の手に触れたい。どうしても触れたい。押さえ込んで蓋をしていた感情がどっと溢れ出す。
 わたし、ひろ君と、別れたくない。
 「できた」と、ひろ君は微笑みながら、マフラーから手を離す。かじかんで少し赤くなった手が視界の端で見える。マフラーの巻かれたわたしの首元は、泣きたいくらい暖かかった。しんしんと雪が降り続けている。
 「お参りしよう」
 ひろ君はそう言って、段差を一段上がった。わたしもひろ君の後に続く。財布を開けて、小銭を取り出した。勢いよく投げると、賽銭箱の奥へと滑り落ちていった。
 お参りと言っても何を願えばいいんだろう。
願うことなんかひとつしかないのに、もうひろ君の隣にはいられないんだ。
 それでも、わたし達は隣り合って手を合わせた。目を瞑ると、余計にひろ君が隣にいる気配を強く感じる。
 「おれ、よくここ来るんだ」
 ふいにひろ君が言った。わたしは小さく相槌を打つ。そうなんだ。
 「深大寺って、縁結びの伝説があるんだよ。だから、茜に告白する前とかお参りしたし、付き合えた時も、上手くいきますようにって、茜をここに連れて来たんだ」
 ひろ君は一息にそう言った。
 「だから今日も、ここに来れば上手くいくかなって」
 そこで言葉を切った。真剣な瞳が真っ直ぐにわたしを見ている。
 「おれ、別れようなんて言ったけど、その方が茜の為になるかと思ったけど」
 ひろ君の言葉をかみ締めようとすると心臓が驚くくらい早鐘を打つ。
 「やっぱり、おれ、続けたい」
 鼻の奥がつんと痛くなって、涙が浮かぶのを感じる。そうだ、そうだった。ひろ君はいつも、大事なことをするのに時間がかかるんだ。そしてわたしはいつも、受身ばかりで、本当のことを言えずにいる。
 「ひろ君」
 わたしはひとつ息を吸った。声が少し震えてしまうのがわかる。そうして、一息で言った。
 「わたし、ひろ君が好き。わたしもひろ君と、別れたくない」
 ひろ君ははじかれたようにわたしを見た。信じられない、というような顔をして、すぐに安堵の表情が顔中に広がった。ため息を大きく吐くと、白く染まって広がった。
 「よかった」
 小さく呟いたひろ君の手を、わたしは握った。ひろ君の手はやっぱり冷たくて、少し乾燥している。わたしよりも大きい手のひらを暖めてあげるために両手で包み込むようにした。ひろ君は何も言わずにそうするわたしの顔をじっと見ている。
 やがてわたしはひろ君の手を引いた。
 「行こう」
 わたし達は本堂の階段を手をつないだまま降りた。そこから見える景色は雪で白く染まっていて、ところどころに木々の茶や傘の色が見える。わたしはその景色を、一生忘れないだろうと思った。色が少ない寂しい景色で、なんだか寒々しくて、でも、驚くくらい、きれいだった。

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<著者紹介>
大谷 朝子(千葉県浦安市/19歳/女性/学生)

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