絶対に、来る。
 あたしは毎週土曜と日曜、仕事が休みの日は必ずこの辺、つまり深大寺周辺にいる。調布に来て二ヶ月、もう習慣になっている。今日は、バス乗り場から山門へと続く路にあるお茶屋さんで白玉ぜんざいを食べながら、行き交う人たちに目を凝らしていた。
今日も深大寺はほどよくなごやかに混みあっている。年配の夫婦、家族連れ、あたしと同世代のカップル。なんでここに来る人たちは皆一様に楽しそうだったり嬉しそうだったりするんだろう。沈鬱な面持ちで山門をくぐる人を見たことがない。やっぱり縁結びの神様だからか。梅雨晴れ間の陽射しに照らされているせいか、人々の笑顔がいつも以上にまぶしい。あたしはどんな顔をしているだろう、と思ったそのときだった。
視界を見慣れた人物が横切った。
 思わず立ち上がった拍子に椅子が派手な音をたて、他の客がこちらを見る。
 ついに、見つけた。

 「また会いたいね」と言ったあたしに、「会いたいね、じゃなくて。会おうよ」と言った男は、また会うことなくいなくなった。
 本当に、文字通り、いなくなった。失踪したのだ。
 あたしは「キシダケンジの母」と名乗る初老の女性からの電話でそれを知らされた。彼はいつも通り仕事に行くと言って家を出たきり、行方がわからなくなった。携帯は「探さないでください」と書かれたメモと一緒に家に残されていた。「ケンジの行方、ご存知ありませんか」と言う切羽詰った声を聞きながらあたしは、そういえばキシケンさんの本名ひさびさに聞いたな、なんて思っていた。

 キシケンさんとは沖縄のゲストハウスで知り合った。
高校を卒業したあと、興味本位で街のキャバクラでバイトしていたらそれが親にバレて、たちまち近所でも噂になり、家を追い出された。あたしの地元はそんな保守的で閉鎖的な田舎だった。
 それからは住み込みのリゾートバイトを転々としたのち、沖縄のゲストハウスに住みついた。一泊千円の素泊まりの宿。お金のない旅人がホテル代わりに宿泊することもあれば、あたしのように長期滞在する家なしのフリーターもいる。あたしはそのゲストハウスからバイト先のキャバクラに通っていた。
あたしがそこに住み始めて半年ほど経った頃、キシケンさんはやってきた。
東京でサラリーマンをしていたが、離婚して子供とも二度と会わないという取り決めになり、もう何もかもがどうでもよくなった。それで会社を辞めてマンションも引き払って沖縄にやってきたと言う。
キシケンさんは浪人生みたいに見えるけれどあたしより十四歳も年上で、優しくて気が弱く、いかにも東京もんといった感じだった。あたし達は一緒に近くの海で泳いだり、ゲストハウスで酒を飲んだりするうちに仲良くなった。
キシケンさんが別れた奥さんと子供の思い出を語ったのは一度だけだ。
彼は東京の「チョーフ」という街で奥さんと子供と暮らしていた。チョーフにはジンダイジというお寺があり、よく家族で散歩に行った。ジンダイジの近くには「ジンダイジそば」の店がたくさんあり、キシケンさん一家は休みのたびにそば屋めぐりをした。そば屋めぐりをするとき、子供はいつもジンダイジで買ったセロファン製の風車を持ち歩いていた。
そんなキシケンさんの話を聞きながら、「チョーフ」ってなんだかマヌケな響きだな、とあたしは思った。

 ある夜、いつものように浜辺でオリオンビールを飲んでいると、キシケンさんが言った。
「カヤちゃんはこれからどうするの?」
「どうするってなんばよ?」
「この先。ずっとここに住むわけにもいかないでしょ」
 その通りだった。実家を出て四年。職も住居も転々としていたが、いつまでもこんな生活を続けていられないのはわかっていた。だからといってアパートを借りて定住するようなお金もない。住所がゲストハウスじゃ就職もできない。先のことを考えるとどんどん不安になるだけなので、考えることから逃げていた。目標も特に見つけられないでいた。
「俺はそろそろ東京に戻るよ」
「ほんまに?」
「うん。とりあえず実家戻って仕事探して、落ち着いたらまたどっかに部屋借りるよ」
「チョーフに住むの?」
「調布には二度と行きたくない」
 しまった。キシケンさんはきっとまだ奥さんと子供のことを忘れられずにいるのだ。
紺色の波を眺めるキシケンさんは淋しそうだった。あたしも淋しかった。キシケンさんがいなくなったら、淋しい。
「うちも東京行く!」
 キシケンさんが驚いた顔をした。あたし自身も驚いていた。でもあたしの中でそれはもう決定事項になっていた。

 あたしはそれからがむしゃらに働いた。キャバクラの他に昼間はコンビニで働き、お金を貯めた。敷金、礼金、家具、家電、新しい仕事が決まるまでの生活費。沖縄の安い賃金でそれらを稼ぎ出すのは思った以上に大変で、あたしはそれまでの人生で一番働いた。
 もちろん疲れたし、へこたれそうになった。
 そんなあたしを支えてくれたのは、東京へ戻ったキシケンさんの電話だった。ムカつく客にイライラした日、失敗して店長に叱られた日、あたしはキシケンさんに電話した。キシケンさんはいつもふにゃりと笑って励ましてくれた。「また会おうよ」と言ってくれた。それであたしは、よし、また頑張ろう、という気持ちになれた。
 そして貯金が目標金額に達しいざ東京に行こうとした矢先、キシケンさんは失踪した。
 あたしは予定通り東京に行き、シャクだったので調布でアパートを借りてやった。

 ついに、見つけた。
 胸の中でドラマーが力いっぱい心臓を打ち鳴らす。ずっと探していたのに、いざ見つけると即座に行動できない。はっと我にかえって、慌ててお会計を済ませ、外に出た。
 その人は山門へ向かって歩いていた。ピンクと水色の七夕飾りがしゃらしゃらと風に揺れるその下を、あたしはあの狭い肩幅めがけて全速力で走った。そして、その腕を掴んだ。
「! カヤちゃん......」
 ぎょっとして振り向いたキシケンさんは、最後に会った半年前よりも色が白くなっていた。
「すごい偶然......」
「偶然やなか! あんたに会うために毎週こん辺張ってたのよ!」
 大声を出したあたしに、まわりの人たちの視線が集まる。
「なんで......」
「絶対にまたここに来るって思ってたとよ」
 沖縄でも奥さんと子供のことを忘れられなかった男だ。思い出を求めて、彼は必ず深大寺に来る。あたしはそれを待ちかまえていた。
「あんたは未練がましい男やけん、きっとここに来るって思ってたとよ。うちはあんたみたいに未練がましくなかけど、でもあんたに言いたいことがあったから待ってたとよ。だって、また会おうよって言ったのはあんたやなかの!」
 キシケンさんがうつむく。山門の階段の横では紫のあやめが同じように力なくうつむいていた。あたしはあやめの前に置かれた木のベンチに腰かける。キシケンさんが隣に座る。となりのおやき屋さんからいい匂いの湯気が流れてきた。
「......好いとぉばい。今でんあんたのこと好いとぉ」
 キシケンさんが次に言う言葉はわかっていた。ごめん、だ。キシケンさんが口を「ご」の形に開くのを遮って、続ける。
「だけん、つきあって、とは言わなか。またうちのそばにいてほしいとは言わなか。あんたはいなくなりよった人やけん」
 今どこに住んでいるのか、何の仕事をしているのか、あたしは聞かない。なぜ失踪したのかも聞かない。逃げたいなら逃げればいい。あたしは追わない。
 でも、どうしても一言だけ伝えたい。
「ありがとう」
 伝えると、キシケンさんが怪訝そうに顔を上げる。
「これだけ、伝えたかったとよ」
 あたしがアパートを借りて定住しようと思えたのはキシケンさんがきっかけだった。そしてお金を貯めている間、何度もめげそうになったあたしを励ましてくれたのもキシケンさんだった。彼がいなければ、あたしは今の部屋に住むことはなかった。初めてのあたしだけの居場所。手に入れることができたのは、キシケンさんのおかげだ。あたしはこの二ヶ月で、アパートの部屋も調布の街も、大好きになっていた。だから、お礼が言いたかった。
 キシケンさんは何か言おうと口を開きかけたが、結局何も言わなかった。
「うちもう帰るから」
あたしはキシケンさんに背を向けてバス乗り場の方へ歩き出した。帰るのだ。言いたいことも言ったし、なんか勢いで告白もしちゃったし。「まったくとんだ縁結びの神様やけん」思わずひとりごち、それから笑った。
さぁ、帰ろう。あたしの部屋へ。

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<著者紹介>
三浦 舞(東京都調布市/24歳/女性/アルバイト)

 「どうかチャンスを下さい」
 たまたま耳に入ってしまった祈り声の主は、僕の知った顔だった。時折、日曜に境内をふらついていると、スケッチブックを広げて熱心に写生をしている女の子を見かけることがある。その日は、学校帰りで高校の制服を纏っていたせいか、いつもより幾分か大人びているように見えた。夕暮れ時、深沙大王堂前には、人通りがないにも関わらず、彼女は手を合わせたまま深々と下げた顔をあげると、少しだけ辺りを気にしながら、照れ臭そうに石段を駆け降りていった。僕はそっと物陰で彼女の姿を見ていた。
深大寺の深沙大王堂は縁結びの神として知られている。多くの参拝者と同じように、きっと彼女も誰かに恋をしているからやってきたのだろう。高校生にもなれば、好きな人ぐらいいたとしても、おかしいことではない。僕は誰もいなくなった御堂の前に立つと、彼女がさっき置いていった五円玉を手に取った。
賽銭箱がないのにも関わらず、参拝者は御金を置いていく。御縁がありますようにという意味で、九割が五円玉だ。僕はそれを指で弾いて、手の甲で受け止めた。もし、表が出たら恋は叶う。自己流の占い。的中率の高さを自負しているが、お遊びで判じるのは所詮他人の恋路。だから結果がどうであれ、僕自身には関係がない。できれば表であってほしいぐらいの気持ちで挑む。素早く硬貨を覆っていた右手を外した。目に入ったのは年号。裏だ。彼女の恋は叶いそうもない。彼女が知った顔であるせいだろうか。占いの結果に、ほんの少しだけ残念にと思った。
 翌日もその翌日もそのまた翌日も、彼女は参拝にやってきた。その度に彼女が置いていく五円玉を、僕は弾き続けた。やっぱり裏だった。四回連続の裏。僕がこんなことをしても何も意味がないということはわかっている。もしかしたら、違う結果がでるかもしれないという淡い期待があった。
 「随分、熱心だね」
 五日目、石段から降りてきた彼女に遭遇した時、僕は思わず声をかけてしまった。彼女は僕に今まで気付いていなかったようで、はっと立ち止まった。その表情に、気まずさを一瞬だけ浮かべたかと思うと、僕を無視して足早に走り去ってしまった。
彼女は六日間、欠かすことなく連続で参拝にやってきた。御百度参りといって、願い事が叶うように百回参拝するというのがあるが、それでもやるつもりなのか。そう考えると、少し滑稽だった。
 七日目は日曜だった。休日の深大寺は大勢の人で賑わう。少し外れたところにある深沙大王堂も例外ではない。恋人同士で幸せそうに石段を昇っていく姿を横目に、僕は少しだけ温かい気分になりながら、深大寺を散策する。春の麗らかな日差しの中、今日も彼女は来るだろうかと考えながら。弁財天池の前に差し掛かった時、僕は彼女を見つけた。今日は制服ではなく、気取らない私服だった。彼女は弁財天池の畔に並べられた椅子に腰掛け、スケッチをしていた。その表情は真剣そのものだったが、時折手を止めてふっと笑っていた。何かを思い出しているのか、満ち足りた表情だった。
 「今日は拝まないの?」
 僕は彼女の隣にあった椅子に腰掛けながら、尋ねた。彼女はびくりと鉛筆を走らせていた手を止めたが、顔を下に向けたままで、何も返答がなかった。再び鉛筆が紙の上を滑り始めた。後ろから絵を除き込むと、池で泳いでいる鯉を描いている最中だった。水中で自由にかつ優雅に泳ぎまわる鉛筆書きの鯉が、白い紙の上で生き生きとしていた。感心して何も言わずに見ていると、彼女はふと顔をあげて口を開いた。
 「あの・・・」
 「それ、見せてよ」
 僕は彼女が抱えているスケッチブックを指差した。突然のことで、彼女は驚いたような顔をしていたが、スケッチブックを差し出してくれた。その中には、今まで書き溜めたのであろう深大寺の様々な切り取られた景色が、鉛筆書きで収められていた。地味だが、どれも生命力に溢れる絵だった。だが、素人感覚だけれども、何か非常に惜しい気がした。
「良いとか悪いとか基準はわからないけど、僕は好きな絵だ。でも」僕の目には彼女の背後に広がる深大寺の景色が飛び込んできた。「色のついた深大寺の絵も見てみたい」
彼女は照れたように、はにかんでみせた。
「同じような台詞を言われたことがある」
「え、誰に?」と僕はすかさず言った。
彼女は気恥ずかしいのをごまかすように、空を見上げて呟いた。
「好きな人に。でも、色をつけたらつまらなくなってしまうかもしれない」
それから、彼女は好きな人のことを話し始めた。顔見知り程度の同級生だということ、いつの間か視線で追い掛けて気になる存在になっていたこと、 ひょんなことから自分の絵を褒めてもらえたこと、でもまだ勇気がなくて気軽に話し掛けられないこと。好きな人のことを語る彼女は、絵を描いている時と同じで生き生きとしていた。
「まだ友達にもなれてないのに、祈っているなんて馬鹿みたいだよね」
 でも、彼女は開き直ったように無理に渇いて笑ってみせた。だが、僕は彼女に同意できなかった。毎日祈るよりもっと簡単なことがある。馬鹿みたいだと思うならどうして祈るのだろうか。
「あと何回祈ったら気が済む?神様が助けてくれるまで?」
 僕は神様が何もできないことを知っている。彼女は言葉を詰まらせながら「わからない」と呟いた。
 「祈るより、簡単なことあるはずだよ」
試しに色をつけてみればいい。試しに話しかけてみればいい。僕の口調は正論を突きつけるようだった。
 「うん、わかっている...けどね」
 「けど?」
 「やっぱいい...ありがとう」
 彼女はそう言って立ち上がった。そろそろ日が沈み切る頃で、西の空が赤く焼けていた。
僕は、彼女が帰った後も、弁財天池の畔に佇んでいた。気付いた頃には、すっかり日は沈み、闇が辺りを包んでいた。彼女は何を言いたかったのだろうか。ただ伝えればいい、ただ話せばいい、人はそんな簡単なことで躊躇するのだろうか。
ふと、遠い昔に知り合った男のことを思い出した。高嶺の花に恋をした彼は、千通もの恋文を送り続け、恋人と引き離されても諦め切れず長いこと苦悩し、神様に祈っていた。僕は彼が不器用に見えて仕方なかった。会いに行けばいい、ただそれだけのことを、どうして簡単に踏み出せなかったのか。
 翌週、彼女は姿を見せなかった。日曜のスケッチも来なかった。もう来ないのかもしれない。そう思いながら、参拝者が置いていった五円玉で遊んでいると、彼女がやってきた。十日ぶりだった。頬を紅潮させながら息を切らせていた。
「作品展に誘ったの」彼女は興奮冷めやらぬ調子で一息に喋った。
「へ?」
「やっぱ神様っていると思う」
 彼女は満面の笑みで僕の手を取ってはしゃいでいる。心の底から嬉しそうだった。話を整理すると、彼女が所属する美術部の作品展に、勇気を出して好きな人を誘ったところ、見に来てくれたというのだ。
「それだけ?」
僕が拍子抜けしたような声を出すと、
「私にとっては大きな一歩なの」とふくれて、「一枚だけ深大寺の絵に色をつけたんだ」と言った。
「でも、それは君の勇気でしょう?神様のおかげじゃないよ」
僕が冷静に訂正をすると、彼女はわかってないなあという顔をした。
「神様から勇気を貰ったから、頑張れたの。人間って臆病なんだよ」
 そう言うと、彼女は悪戯っぽく笑ってみせた。
彼女は御礼参りに僕を誘った。深沙大王堂の前に立ち、隣で深々と頭を下げている彼女の横で、僕は、神様は何もしてないのにと思っていた。そう、何もできない。僕にそんな力はない。
「色のついた絵、見に来てね」
帰っていく彼女の後姿を見送りながら、器用な男のことを再び思い出した。彼もそうだった。自分で粘ってどうにかしただけなのに、何もしていない僕のおかげだと言った。あの時の言葉の意味がやっとわかった気がした。
先程、彼女が置いていった五円玉を僕は手に取り弾いた。ぴしゃりと手の甲に硬貨の冷たさを感じる。僕は何もしていない。何の力もない。ただひたすら、人の恋路の結果を見守ることしかできない。それなのに、僕は人から感謝され必要とされている。やめた。僕は硬貨の結果を見ずに覆った手で握り締めた。そのまま、弁財天池まで走って投げ入れた。ぽちゃりと音をたてて沈んでいく。彼女の恋の結果は神様も知らない。でも、今はきっと表だと思う。これからも、硬貨は裏になったり、表になったりするだろう。僕ができるのは、それをただ見守ることだけ。ならば、その立場に甘んじよう。僕の存在が彼女の勇気となれ。恋の行方は彼女のみぞ知る。

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<著者紹介>
真平 龍(東京都調布市/24歳/女性/会社員)

小百合が深大寺の森を訪れたのは、門前に軒を連ねる店々がのれんを下ろし、さんざめく紅葉が夕日に粧われ始めたころだった。
この季節だけの、胸を焦がすようなきらめきが、深大寺の森にはある。そのひと時は儚く、だからこそ今の自分にふさわしいと思う。
縁談がまとまり、この街を去ることになって、恋は目の前にあったと気がついた。
もし今が暮れなずむ季節で、わが身から未練の影が長く伸びたなら、きっと気持ちが揺らぐに違いない。後ろ髪を引かれて別れるのはたくさんだ。
参道から消えゆく賑わいを背中で聴きながら、石畳を踏みしめて森を抜け、小百合がバー「ろしやなうまかぼう」に着いたころには、澄んだ帳が下りようとしていた。
「ただいま~、マスター」
 ネオンボードが灯るドアを開けると、マスターが独り仕込みにいそしんでいる。
「おう、お帰りぃ。今夜は早いね」
「閑古鳥が鳴くだろうから、早く来てあげたの。だって世間はボーナスに浮かれてるから」
「そうか、そうだったかぁ。なら仕方ない、のんびりやるかな」
「薄情な常連ばっかりよね、ボーナスや給料日になると値の張る店で飲むんだから」
 ろしやなうまかぼうは、観光客や参拝者が訪れる店ではない。地元の常連客に奉仕する、カウンターだけのささやかなバーだ。
「まあ、五日もすれば戻ってくれるさ。小百合ちゃん、そういう高級な店には?」
 ビールサーバー越しの窓に広がる、深大寺の森を眺めながらマスターが聞く。
「誘われてないよ......、ていうか、ここで夜景を楽しめるのも、あとわずか......」
マスターの視線を追いながら小百合がつぶやくと、ビールグラスをカウンターに置こうとしたマスターの手が一瞬止まる。
「何かあったの? まさか......」
 小百合の左手首にある、ためらい傷に目をやりながら聞く。
「あのね、実は......、結婚するの、私」
「えっ! それは、おめでとう......、だな」
「お見合いしたのが一月ほど前でね。彼の海外赴任が決まって、向こうで式を挙げることになったのが、昨日なの」
 小百合はマスターに視線を貼り付けたままグラスを傾けた。
「そんな、また急に......、まだ三十前だろ、小百合ちゃん美人だし、あせらなくても......」
「恋愛で相手を見つけられなかったっていう引け目はないのよ。それより、マスターを出し抜いたみたいに幸せになって、ごめん」
「お、俺のことなら大丈夫さ。深大寺に通って願かけしてるから」
「そうか、そうよね。他人の私が心配することじゃないよね」
 さらりと言ってはみたものの、後悔の苦汁が咽を流れ落ちる。ほのかだったものがはっきり見えたというのに、遅すぎる。
他人事のような言い様でもしないと、熱いものが逆流しかねない小百合だった。

 当夜のろしやのうまかぼうは、小百合の予言どおり常連客が三々五々来て帰った。マスターは早めに店じまいして、「Moon Shine」というラベルが貼られたボトルを手にとる。
とうもろこしを醸したその酒、ムーンシャインは、月明かりの下でひっそり造られるので、サンシャインの「日向」に対して「月影」と、しゃれて呼ばれる。アメリカ禁酒法時代の産物だが、今も堂々と密造され、好事家に買い取られて熟成の時を重ねた逸品だ。
小百合......、たおやかで謎めいて、まるでこの酒のような女。初めて店に来たとき、左の手首に包帯が巻かれていたな......。
その彼女が常連と呼ばれるようになったある夜、一見客が小百合に声をかけた。
「なあ彼女、となりで飲んでもいいやろ」
 好色そうな物言いだ。
「他のお客さんに、ちょっかい出さないでいただけますか」
席を移ろうとする男を制した。
「となりで飲むだけや」
「それがちょっかいなんです。さあ、もう店を閉めますから、お引取り下さい」
 男を店から出してネオンボードを仕舞う。
「金で寝る女を口説いて、どこが悪い!」
男の吐いた捨て台詞が彼女の耳に届いたかどうか分からないが、何も聞かなかったことにしろ、とバーテンダー魂がささやいた。
不惑の歳を越して独身のマスターは、小百合に想いを寄せつつも、彼女の若さに尻込みしてきたといえる。だが深い関係に発展しなかったのは、むしろ彼女の方に負い目みたいなものがあるからではないか。
思い過ごしかもしれないが、「好きな人の過去なんて気にしないよ」という言葉を、彼女は俺の口から聞きたかったのではないか、そんな目を向けられてきたような気がする。
「大人の諦観は、欲望や執着よりはスマートかもしれないけど、損するよ」
 常連客の一人が言ったように、傷付くのを恐れないで小百合にアプローチすべきだったかと、今は悔やまれてならない。

 マスターに縁談の話した数日後の夜、彼とその母親の三人でウェディングの打ち合わせをしながら、小百合は暗雲を見上げるような動悸を感じていた。
何かが引っかかる。母親に忠実過ぎる彼への違和感か、それとも二人の将来に口をはさんでくる母親へのとまどいか。
「お産はハワイがいいわね、アメリカの国籍を......。聞いてるの? 小百合さん」
 レストランのテーブルを挟んで目の前にいながら、襖を隔てているかのように母親の声が響き、息子はその横でうなずいている。
「先の話はさておいて、指輪のサイズを測るから手を出してくださる」
 母親は小百合の左手をとり、リングゲージに指を通した。
 これが、契約? 婚姻の象徴としてのリングが、略奪した女に足かせをはめた名残だったとしてもかまわない。だがどうして彼でなく、母親が私の指を測っているのか。
小百合の胸の底に冷たい風が吹き、波立つようにわだかまりがせり上がってくる。
「あら、この手首の傷、これはいったい......」
 違う! この人たちじゃない。私が幸せにしてあげたい、幸せにしてもらいたいと思う人は、他にいる。
「あなた、私たちに隠し事があるんじゃないの、正直におっしゃって!」
 母親の声のトーンが上がるのに反比例して、その姿はフェードアウトしていき、小百合の中で沸騰しかかっていたものが噴き出した。
「このお話は......、埋め戻しといてください、失礼します!」
小百合は席を立ち、クリンチのように絡みつく母親の声を振り切って駆け出した。
まだ間に合うはず。帰ろう、私がいるべき場所に、待ってくれているだろう人のもとに。

 小百合がろしやなうまかぼうに着いたとき、ネオンボードの灯は落ちていたが、ドアは開いていた。
「間に合った! マスター、ただいま~」
照明を落とし、広い窓から差し込む月明かりの下、マスターが独りで飲んでいる。
「おいおい、飲みに来る場合じゃないだろう」
「戻って来たの、ホームグランドに」
「え? それって、もしかして......」
「そ、私の過去が気になるようだったから、お互いが傷付く前にリセットしてあげたの」
「俺なら、きみの過去なんか問わないのに」
「マスターなら、そう慰めてくれると思った」
「慰めじゃなくて、そうプロポーズするのさ」
「今はどんな言葉より、おいしいお酒。それ何? 私も同じの、飲みたい」
「ムーンシャインっていってね、月明かりの下でひっそりと育まれたバーボンなんだ」
「私への恋、ひっそりと育んでくれてる人いないかしら」
「いるさ、すぐそばに」
「前から聞こうと思ってたんだけど、ろしやなうまかぼうって、どんな棒?」
「あえて言えば房だけど、光明真言の一部さ」
「それって、縁結びの願かけするとき、マスターが唱えるっていう呪文よね」
「そうだよ。おん、あぼきゃべい、ろしゃなぅまかぼ......」
「それのことだったの、アッハハハハ~」
 小百合は、さも面白いものでも発見したかのように笑い転げる。
「あ~、おっかしい。でも、やっと落ち着いてきたわ」
「じゃあ、生まれ変わったきみに、乾杯!」
ムーンシャインのグラスを鳴らしたとき、月明かりに映える深大寺の森を見て小百合が声を上げた。
「あ、雪! 月夜に舞う雪ってきれい。晴れた昼間に降る雨のことを狐の嫁入りっていうんなら、これは、狸の嫁入り?」
「俺ひょっとして、狸に化かされてる? それならそれで、化かし続けてほしいな」
「思いついたんだけど、ろしやなうまか望っていうの、どうかしら」
「希望の望か、いいね」
「このバーボン、美味しいわ」
「密造酒だからね、秘密めいた味わいが素敵なのさ」
「秘密を持ってる女にも、素敵な味わいがあるかしら」
「あるさ、極上のがね」
「ムーンシャイン・ワルツ......、私と踊ってくださる?」
「もちろん、喜んで」

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<著者紹介>
桜木 らんか(愛媛県今治市/50歳/男性/漁師)

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