雨の日の深大寺。そこの本堂に私はいた。
なんてことはない。只の付き添いだ。ここへ来ることを熱望していたのは、私ではなく私の友人。お供の私はこうして友人のお参りが終わるまで待っている。丁寧な参拝をする彼女の背中。ふと思いつき、両手で長方形を作りカメラのレンズを覗くように見てみる。なかなか良い絵だ。映画のヒロインのようだが今の我が友人の姿を見て誰がそんなことを思うだろうか。
今朝、集合場所に来た友人はいつもと違った。泣き疲れてやつれた顔。涙の跡を消す為か化粧は濃い。その姿は覇気は無いが気迫はあった。よっぽど酷い失恋をしたのだろうか。
境内は静かだった。雨で濡れた砂利を足で玩び、横目で様子を窺う。目の端に映る彼女はどんな気持ちで願を掛けているんだろう。
友人はよく恋をする。よく恋をするから、よくふられる。一昨日も電話の向こうで子供みたいに泣き叫び、いつものように失恋を癒す為の散歩に私を誘った。毎度お馴染みのイベント。場所はいつも彼女が決めていたが、どこででも楽しむ自信はあった。しかし今回選ばれたのは縁結びスポット。私が一番苦手とする場所であった。良縁を求める行為を否定しているわけでは無い。だが縁結びの願掛けに熱心な人たちの中にいるときの居心地の悪さがどうも苦手だった。今日こそ克服すると勇んで来たが見事に玉砕し、落ち着かない状態はずっと続いている。私だけ疎外されているような、と言ったら被害妄想だろうか。
「どうしたの。変な顔して」
気が付くと、友人が隣にいた。どうやら私はしかめっ面をしていたらしい。
「何でもない。それより、気は済んだの」
 慌てて聞くと友人は黙って頷いた。元気が無い。今日は気が済むまでとことん付き合ったほうが良いかもしれない。
「まだお寺の中見て回ろうか。それとも」
 そこで、来る時に見た蕎麦屋を思い出した。
お蕎麦食べたいな。今日は寒いし温かいのがいい。今なら蕎麦とチークダンスが踊れる。
「あのね、ちょっと行きたい所があるんだけど。いいかな」
付き合うと決めたんだから仕方が無い。雨の中、深沙大王堂へ向かい歩き出しながら私は心の恋人お蕎麦にしばしの別れをつげた。

 移動中、友人は何も喋らなかった。話題を振ってみたものの反応は薄く結局私も黙り込んでしまった。傘に隠れた友人の顔はよく見えない。私は普段と違う彼女に戸惑っていた。
 どう声を掛ければいいんだろう。恋愛経験が乏しい私はいい言葉を持っていない。理由を縁が無かった以外に挙げれば、恋愛に対し嫌な思い出があるからだろう。
中学生時代には告白しふられた女友達と、その相手に板挟みにされたことがある。二人と仲が良かったのが仇になった。あの気まずさはもう二度と経験したくない。二回目はつい最近。仲のいい男友達の彼女に在らぬ疑いを掛けられたことだ。直接会い疑いを晴らしたあと、怒りが込み上げてきた。恋愛のいざこざに巻き込まれ私の中で恋愛イコール非常に面倒臭いこととなっていた。そんな私が何故、恋多き女性と友人になり彼女の傷心を慰める立場にいるんだろう。縁は異なものというやつだろうか。
「はぁ、くだらないなあ」
 隣を歩いていた友人が驚いたように顔を上げる。しまった、声に出してしまった。慌てて謝ると彼女は少し笑った。些細な恥ですが、笑ってくれるんだったらいいですよおだ。
「ね、一つ聞いていい?」
 友人が久しぶりに口を開いた。黙って頷く。
「初恋がいつだったか憶えてる?」
 それを私に聞きますか、友人よ。正直答えに詰まる質問だった。返答を期待するまなざしが痛い。
「ええと。たしか、幼稚園、かな?」
 友人はまだこちらを見ている。もう何も言え無いのに。恥ずかしくなってきた。
「でも後から考えれば只の特別な友達ってわけで。そんなませた子供じゃなかったしっ」
 照れ隠しに訳の分からないことを捲くし立てる。嫌な汗をかいてしまった。私の馬鹿。
「ごめん、困らせちゃって」
 友人は笑っていた。からかわれた、のか。
「そっか、でも好きになったことってあるんだ。なんか安心した」
 歩き出す友人の後ろ姿をぼんやりと見つめながら、私はその意味を計りかねていた。恋する人間の気持ちはさっぱり分からない。貸してもらった恋愛小説、諦めずに頑張ってちゃんと読めばよかった。

 数分後、目的地である深沙大王堂が見えてきた。今は御開帳の時期ではないので、その扉は固く閉ざされている。離れ離れになった男女を結びつけるために霊亀を送った仏教の神様か。友人にも送ってくれればいいのに。
 雨粒がビニール傘に当たった時の音が朝よりも大きい。雨足が大分強くなっているようだ。生憎の天気だが、雨に濡れる境内の木を眺めるのも悪くない。
 いつの間にか友人は目を閉じていた。物思いにでも耽っているのだろうか。彼女の様子を窺いながら無意識に傘をゆっくりと回していたことに気が付いた。いつの間にかついた癖。そう言えば、こんな風に傘を回すのが好きだった子がいたはず。そうだ。ずっと忘れていた顔が頭の中で蘇る。大事な思い出だったはずなのに忘れていた自分が情けない。
「ね、ねえ。今回の人ってどれくらい好きだったの」
 瞑想を続けていた友人の顔を見ないように背を向ける。思い切って聞いてみよう。
「なんか気になっちゃって。いつもと様子違うし。何かあったのかなぁって」
 きっと友人は驚いた顔で私を見ているに違いない。気まずいのは承知だったが、いざその空気になると慌てる。
「えと、嫌だったら無理に言ってもらわなくてもいいし。どうしても聞きたいって下世話な気持ちは無いから」
 過剰に気を使う私に、ありがとうと声が掛けられた。怒ってはいない。寂しそうな声だった。
「いいよ。教えてあげる。今回好きになった人は、恥ずかしい言い方なんだけど。きっと、本当の意味での初恋だったんだと思える人だったの」
 本当の、初恋。何だろう。
「その人と一緒にいると、凄く楽しくて、何だか一緒にいるのが当たり前って思うくらい。初めて会ったときか、いつだったのか分からなかったけど、凄く好きになってた」
 穏やかに話す友人が何だか居た堪れなかった。
「それで告白したの。あんなに緊張したのは久しぶりだった。一世一代の告白って言えるくらい。でも、ふられちゃった。今は誰かとお付き合いしたいって思わないって。それなのに同情で付き合いたくないって。今時律儀な人よねえ」
 友人はあくまで明るく喋り続けている。本人は辛いだろうになあ。
「だけど、やっぱり自分の思いが通らなかったのが悔しくて、昨日まではちょっと泣いちゃってた。今日もまだ引きずってるし、全部吹っ切れたわけじゃないんだけど。でも今までの失恋とは何か違う気がするんだ」
 何だろうなあ、と呟く姿は今朝のものとはまるで違い、爽やかだった。ここに来て、憑き物が落ちたのかもしれない。
「多分、この気持ちは一生忘れないと思う」
 一生忘れない思い。彼女の言葉を噛み締めながら、友人に顔を向ける。微笑んでいた。化粧の濃さを抜きにすれば、その表情は紛れも無くいつもの友人のものだ。
「なんかすっきりしたら、お腹空いちゃった。何か食べに行こうか」
 ようやく友人がいつものペースに戻った。よかった。ようやくお蕎麦にありつける。行こう、と歩き出す友人の後ろで私は悩んでいた。先程思い出したことを言うべきか。うん、もう一つ恥をかいておこう。
「あのさ、私も一つ言っていい?」
 振り返った顔から視線を逸らす。
「私、小学校の時。凄く仲がいい男の子がいたんだ。お互いが同等の存在の、ちょっと変わった友達だった」
 友人はひどく驚いていた。普段から恋愛は無理ですと言っている人間が、異性の話をしているのだから、当たり前か。
「私も楽しかった。その子と一緒にいると気が楽で。だから、そんな感じの人とだったら」
そこまで言って口篭る。言えない。お付き合いしてもいいなんて、絶対に。気恥ずかしくなり、困っていると突然、友人は私の手をしっかり掴み、元来た道を戻り始めた。
「何。ちょっと、どうしたのよ。お蕎麦は?」
 友人が振り返る。何故か目が、輝いていた。
「何って、あんたの良縁をお願いしに戻るに決まってるじゃない。あんたの恋愛アレルギーも緩和されてるみたいだし、今のうちよ」
 昔懐かし見合い好きのお節介おばさんと化した友人は止められなかった。長年の付き合いというのは恐ろしい。彼女は私の心の声をしっかり聞き取っていたのだ。
しかし何故、私はこんなことを言ったんだろう。友人が羨ましかったのだろうか。はたまた深大寺の霊験だろうか。なんだかいい気分だ。私の恋愛に対する苦手意識が和らぐ日が来たら、どんな人を好きになるんだろうか。楽しみだな。不安でもあるけれど。
「そうだ、忘れないうちに言っておくね」
 楽しそうな友人が私に話し掛ける。
「彼氏が出来たら、のろけ話とか聞かせてね」
 謹んでお断りします。

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<著者紹介>
藤倉 美音(埼玉県所沢市/21歳/女性/学生)

 真由は会社を出るなり、達也へ電話した。真由と達也は大学からの付き合いで、真由は会社で嫌なことがあると、達也にグチを聞いてもらっている。お互いに就職してから三年。達也は大手の銀行で外回りを経験中、真由は証券会社で事務をしている。
 たった三年。されど三年。新入社員でもなく、だからといってベテラン社員と呼べるほどの立場でもない。どことなく、宙ぶらりんの立場。
 今日、真由は仕事でミスを連発してしまった。
「もう、三年もやっているのに、これぐらいの仕事もまともに出来ないのか」
 延々と上司から説教されてしまった。自分が自分で情けない。
真由はうなだれて席に戻ると「この仕事、私には向いていないのかもしれないな」と呟いた。それほど大きな声で呟いたわけではないのだけれど、隣の席の先輩にはしっかりと聞こえていたらしい。
「たったの三年やったからといって、一体、あなたにこの仕事の何が分かるというのよ」  
パソコン画面に向かいながら、先輩は吐き捨てるように言った。真由に言っているのだろうけれど、その先輩は、自分にも言い聞かせているようだった。
 
「ねぇ、聞いてよ、達也。今日、仕事でミスしちゃってさ、確かに私が悪いんだけど、上司にずっと嫌味を言われ続けたんだよ」
真由は、いつも会社や人間関係のグチをとめどなく話す。達也はそんな真由の話を「そうだよね、分かるよ、その気持ち」「うんうん、そうだよね、真由の言うとおりだよ」「真由が正しい」と、上手に相槌を打ってくれる。この上手な相槌が心地よくて、真由はついつい達也を呑みに誘ってしまう。
真由はたまに、本当のところ達也は自分と呑みに行くのが嫌なのではないだろうかと思うことがある。誰だって、他人のグチを一方的に聞かされるのは嫌だろう。  
以前、そのことをさりげなく達也に聞いてみたことがあるのだけれど「俺、真由と呑むの、嫌じゃないよ」と即答してくれた。それが真意かどうかは分からないが、たまには達也から呑みに行こうと誘ってくることもあるので、とりあえず、自分は嫌われてはいないのだろうと思っている。
達也とは、大学の友達同士で開かれた呑み会で知り合った。たまたま隣同士に座って意気投合。同じゼミだったということもあり、いつしか呑み友達となった。それから、ずっと良い友達の関係が続いている。
正直、達也と恋人同士になったらどのような毎日が待っているのだろうと想像したことがある。
 だけど、達也と恋愛して別れたら、今の良好な関係が崩れてしまう。もう二度と、達也とバカを言い合ってじゃれあうことができなくなってしまうかもしれない。そっちのほうが、真由にとって恐怖だった。
達也のほうはどうかというと、真由に対して「付き合おう」とか「デートしよう」とか決定打を言ってくるわけではなかった。気が向くと「呑みに行こうぜ」と誘ってくる程度。だから、仲の良い女友達として認識されているのだろうと思う。
「そうそう、なんじゃもんじゃの木って知ってる?」
「なんじゃもんじゃの木?」
達也がピーナッツを噛み砕きながら話すから、上手く聞き取れない。
「面白い名前の木だろう?今、確か花を咲かせているんじゃないかな。今度、一緒に見に行こうよ」
「ああ、うん」
 なんじゃもんじゃの木。なんか、変な名前の木。口の中でその木の名前を何回も唱えていると、舌がこんがらがりそうだ。しかも、そんな変な名前の木の花なのだから、めしべとおしべもこんがらがっていて、もじゃもじゃとしているのではないだろうか。
「花を見てみたいけれど、面白い形をしているの?」
「見てみれば分かるって。そうそう、場所は深大寺だから待ち合わせは調布駅な」
 深大寺。確か、ソバで有名なところではなかっただろうか。スーパーの乾燥蕎麦を売っている棚で「深大寺そば」という名前を見たことがある。
「深大寺って、確か、蕎麦が美味しいところだよね」
「なんだよ、花見よりも食い気かよ。まあ、それでもいいか。蕎麦ご馳走してあげるから、一緒になんじゃもんじゃの木を見に行こう」
「うん。蕎麦をご馳走してくれるなら行く」
 ううん、本当は、蕎麦をご馳走してくれなくても、達也から誘われれば、深大寺だろうが北海道だろうが、それこそシベリアだろうが、自分は付いて行くかもしれない。
「じゃあ、決まりな。そうそう、仕事のミスは気にするな。その先輩が言っていた通り、きっと、長年かけなければ分からない何かというものが、仕事にはあるんだよ」
「うん」
 店を出るころには、仕事のミスについて心の切り替えが上手く出来ていた。そして、今度の休日のことで頭がいっぱいになった。昼間の明るい時間に、達也と二人で深大寺へ出掛ける。恐らく、昼間の明るい時間に二人きりで出掛けるのは、これが初めてのことだと思う。それが、嬉しかった。
 
「ほら、これがなんじゃもんじゃの木だよ」
 真由の目の前にあったのは、花がもじゃもじゃとした木ではなかった。
緑の濃い葉をたくさん茂らせ、純白の細長い花びらが氷の結晶のように見える幻想的な大木だった。とてつもなく歴史を感じさせる木で、真由は圧倒されてしまった。
「なんじゃもんじゃって、なんだこれという意味があるみたいだよ」
 達也が解説してくれた。
 なんだこれという名前の付いた大木。この木は、ここまで大きく成長するまで、ずっと「なんだこの木」と思われていたのだろうか。
けれど、きっと近所の人たちに愛され続けた木なのだろう。そうでなければ、得体の知れない木なのだから、とっくに切り倒されていたに違いない。
なんじゃもんじゃの木は、真由に「お前は何者だ」と問いかけている気がした。
自分は何者だろう。三年会社で仕事をしてもミスを連発し、達也とは腐れ縁を続けているというだらしなくてずるい人間。  
だけど、生まれてからたったの二十数年だ。なんじゃもんじゃの木は、みんなに受け入られるまで、何年かかったのだろう。何年、白い花を咲かせ続けているのだろう。今でこそ愛されているのかもしれないけれど、何十年もここに佇んでいれば、その間、切り倒される危機だってあったかもしれない。その間、雷に直撃しそうになったり、台風で倒れそうになったこともあったかもしれない。それらの危機を乗り越えて、今こうして、自分の前に立って美しい花を咲かせている。そして、この木の下に人が集うほどに、愛される存在になっている。
 自分も、叱られても、そして嫌なことがあっても、踏ん張って、頑張って、長年生きていれば、何かを掴むことができて花を咲かせることができるのだろうか。
「私もこの木みたいに、長年頑張らないといけないんだよね」
「長年生きてれば、何かしら見えてくるものがあるだろうしね」
 真由は約束どおり、達也に蕎麦をご馳走してもらった。その蕎麦は、スーパーの袋入りの「深大寺そば」とは程遠い味で、とても美味しくて、思わず笑みがこぼれてしまった。
「真由は、食べているときが一番可愛い」
「それって、食べていないときは可愛くないみたいに聞こえる」
 真由は嫌味を言いながら、それでも達也が「可愛い」と言ってくれたことがとても嬉しかった。その嬉しい気持ちが顔から悟られないように、務めて冷静に蕎麦をすすった。
「そろそろさ、俺たち、恋人同士にならない?」
 真由はびっくりしてむせってしまった。
「深大寺ってさ、縁結びの寺でもあるんだ。こうでもしないと、俺、勇気が出なくてさ。居酒屋で告白しても良かったのだけれど、酔っていない昼間にきちんと告白したかったんだ」
 達也は頭をかきながら、伏し目がちに真由を見た。真由は待ち望んでいた言葉に何度も首を上下させて頷きたいところだけれど、そうすると自分の立場が安っぽく見えそうで、嬉しさをこらえながら外を見た。
 店を出ると、達也は真由に手を差し出した。 真由は達也の手を握ると、今までとは違う空気が二人の周囲を纏っていると感じた。その空気は深大寺の自然が生み出しているとも感じるし、縁結びの神様が与えてくれているとも感じるし、二人で作り出しているとも感じることができた。
「もう一度、なんじゃもんじゃの花が見たい」
「ああ、そうだね」
 なんじゃもんじゃの木に、自分と達也の成長を見守ってねとお願いしいたい。今は何者にもなっていない二人かもしれないけれど、これからどのような花をつけるのか、なんじゃもんじゃの木に見届けて欲しいと思うのだ。

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<著者紹介>
佐藤 祐子(東京都大田区/43歳/女性/専業主婦)

赤、青、黄、透明。
 頭上の緑にかざしてみると、向こう側の景色が見えそうで見えなくなる。初めはひんやりと冷たいのに、手のひらの中でだんだんと温かみを増す、小さな固体。でも、芯は冷たいまま。まるで、人の心みたい。
 
 「やあ」
 しゃがんでいる私の頭上から、はっきりとした、でも爽やかな声が聞こえてきた。振り返ると、人の姿。逆光で顔は見えない。けれど、その人が和装であることは分かった。
 「とんぼ玉、好きなの?」と、その人は言う。でも私は答えない。
 「知ってる?江戸時代には、模様に応じて呼び名が違ったんだよ。今みたいに、一律してとんぼ玉とは呼んでいなかったんだ」
 そう言って、彼は私の隣に並んでしゃがみこんだ。私は手持ち無沙汰となり、目の前に並ぶとんぼ玉を何となく指先で弄っている。
 「君、名前は?」
 その問いかけに、私は彼の方を見た。脱色しているわけではないのに色素の薄い髪と、涼やかな瞳がそこにあった。今この木陰から出て、太陽の下に彼が立ったなら、その髪の色はどんな風に変わるんだろう、と私は思った。
 「しょうこ」
 「漢字は?」
 「『しょう』が平仮名で、『こ』は子供の子。本当は『ガラス』という字になる筈だったのに、親の気が変わったみたい」
 「そう、綺麗な名前だね」
 臆することもなくそんなことを口にする彼に、思わず何も言えなくなってしまう。
 数秒、私たちの間に沈黙が流れた。
 
 「また、同じ会話を繰り返すんですね」
 話し始めた時と同じ姿勢のまま、私は彼に言った。初対面ではない私達の、初対面を繰り返す会話。
 初めて彼に会ったのは、今と同じ場所。生い茂る緑が、まるで地を歩く人を守るかのようにその枝を伸ばし、近くを流れる川の水音と、蕎麦屋の水車がたてる古木の軋んだ音がひと時の間だけ暑さを忘れさせるような、そんな場所。大都市である東京の一角にありながら、ここではアスファルトの熱気にむせかえることも、ない。
 あの時。彼に初めてあったあの時も、私はここでこうして、とんぼ玉を見ていた。そして、彼はたった今とまったく同じことを言った。
 「やっぱり今日も和装なんですね」
 『素敵です』と付け加えて言いたいのに、その一言が私には言えなかった。
 「君だって」と彼が応える。
 ずっとしゃがんでいて足が痺れてきたため立ち上がった私に倣うように、彼もまた立った。彼の言ったように、私も和装。浴衣ではなく、襦袢も足袋も纏っている。襦袢という鎧をなしにふわりと羽織る浴衣が、私はどうしても好きになれなかった。 
 「白地に朝顔か、素敵だね」
 着物の裾部分に咲き誇る大輪の朝顔を見て、彼が呟いた。私の言いたかった言葉をさらりと言えてしまう彼が、少し憎かった。

 初めて彼に会った時、私は近くの大学の国文科に通う一年生であった。東京で生まれて育ったものの、全てのものの移り変わりが速いことに、私は昔からあまり馴染めずにいた。大学に入ってからもそれは同じで、周りの子たちはサークルだコンパだと騒いでいて、一応は私も試してみたものの、やはりしっくりとはこなかった。それよりも、静かな場所で、好きな時間を過ごしている方が、私の気質には合っていた。服装も、今時の華やかで露出の多い服装よりも、『私』をしっかりと包んでくれる着物が好きだった。さすがに大学に和装では行かなかったが、うすうすそんな雰囲気は感じ取られてしまったのか、同級生たちは私を奇異な目で見ていたようだ。
 その日も、私はここ、深大寺に来ていた。特に何が目的というわけでもなく、ふらりとここを訪れ、水の音に耳を澄ませていた。そんな中、軒を連ねる蕎麦屋の中に、とんぼ玉を売っている店を見つけた。色とりどりの、小さなガラスの群れに見入っていた時、彼に声をかけられたのだ。「やあ」という彼の挨拶から、全ては始まった。その時、彼は深大寺の近くにある理系の大学に通う四年生だった。
 あの時どうして私に声をかけたんですか、と過去に聞いたことがあった。そうしたら彼は、「深大寺で、和装の女性がしゃがみこんで一心不乱にとんぼ玉を見ている、お盆も近かったから、まさか昼間の幽霊かと思って気になった」と、およそ理系らしからぬことを言っていた。

 「行こうか、とんぼ」
 彼は私を『とんぼ』と呼ぶ。硝子が転じて、とんぼ玉好きの『とんぼ』。もちろん、私をそう呼ぶのは彼だけだ。
 
 そろそろと歩き始めた私たちを、すれ違う人々が振り返る。それもそうだ、男女揃って和装で歩いているなんて、人の目をひくに決まっている。しかし彼は、一向に意に介していない。
 何軒かの蕎麦屋を通りすぎ、橋を渡って、彼と共に深大寺の山門をくぐり抜ける。お参りをしている間、私の左腕はわずかに彼に触れていた。そこから伝わる熱で、閉じた視界に火花が散った。

 お参りを終え、その足で境内向かって右にある寺務所へ向かう。懐から朱印帳を出し、しばし待っている間、「今日は何をお願いしたんですか」と聞いてみても、彼はふふっと笑いながら、「言わないよ」とだけしか応えなかった。
 「良いお参りでした」という言葉と共に手元に返ってきた私の朱印帳には、『厄除 元三大師』の雄大な墨跡と共に、今日の日付が入れられている。前の頁をめくると、一年前の同じ日、その前の頁は二年前の同じ日の物。彼の朱印帳にも、同じ日付が刻まれている。

 「とんぼ、今年のとんぼはどれにする?」
 山門をくぐり出た所で、彼は言った。それは、私達の恒例行事のようなもの。初めて出会った日と同じ日、同じ場所で再び会い、同じ言葉を交わし、とんぼ玉を一つずつ買って交換する。馬鹿みたい、と人は言うかもしれないが、一つずつ増えていくとんぼ玉を見ていると、胸を締め付けられるような気持ちになる。私の携帯電話には、紐を通されたそれらの軌跡が揺れている。今二つ、今日で三つ。
私達は、一体いくつまでこれを増やせるんだろう。
 
 先程のとんぼ玉の店で、彼は赤色で透き通るような流水模様の入ったものを、私は濃い緑色で、細い細いうす緑の線が表面を滑るものをそれぞれ選び、お互いに交わした。
 「またとんぼが一つ増えた」
 私が、赤色のとんぼ玉に紐を通している時、彼は言った。とんぼ、とんぼ、とんぼ。その言葉が彼の口から発せられる度、私の心は痛いくらいに跳ね上がる。まるで、上り坂を全力疾走した時のように。と同時に、『もっと聞きたい』という貪欲な気持ちが顔を覗かせる。そして、バス停の方角へ向かって歩み始めた彼の背中に、私は思わず声をかけていた。
 ゆっくりと、彼が振り返る。
 木々のアーチをくぐり抜け、必死に地面までその存在を示すことに成功した太陽の光が、彼の姿を光に包んだ。
 「朝顔の花言葉、知っていますか」
 私の声は震えていた。声の震えに共鳴するかのように、三つに増えたとんぼ玉がお互いにぶつかり合い、コツン、と啼いたような気がした。
 突然の私の言葉にも彼は動じることなく、微笑んで、言った。
 「とんぼ」
 その声は、今まで聞いた中で一番やわらかく、私の中にするりと滑り込んでいった。

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<著者紹介>
櫻 杏子(神奈川県鎌倉市/28歳/女性/学生)

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