「ごめん。俺、里香とは付き合えない。別に里香が嫌いなわけじゃない。このままっていうか、友達のままでいたい」友達のままか。人を振る時のお決まりに聞こえる返事。今日里香の中での成功の確率は五十パーセントぐらい。だけど自信はあった。でも彼からの返事は「ノー」。告白の帰り道、里香は雨が降る中、家の近所にある深大寺へ歩いて行った。山門をくぐり、本堂にお参りする。告白前も来た場所。雨のせいか人もまばらだった。今日は結果を報告するためだ。ダメだったことを。涙は出てこなかった。雨が里香の代わりに泣いているようだ。
 里香の告白の相手は金田。高校の同級生だった。大学は別になってしまうので、卒業後に金田に会った時と決めていた。それが今日だった。高校の卒業式を終え、大学の入学式前の春休みで、最初に金田と会った日。里香としては告白するタイミング、その他諸々の、高校時代とは違う、メイクとか、洋服とかの準備も抜かりなかった。そもそも里香と金田は高校時代から、「友達」として、学校外で頻繁に会う程仲がよかった。金田だって里香に告白される前から里香の気持ちに気が付いていたはずだし、金田には現在、付き合っている女の人はいないはずだ。振られるということがこれ程ショックだったなんて。里香の心はずっしりと重い。だから深大寺までの足取りも重かった。振られたことには一定のショックはあるものの、里香は諦められる気がしなかった。深大寺へ報告の際に、「また告白したいので、力を貸してください」とお参りする。里香は告白前よりも倍の時間をかけてお参りをした。里香は深大寺とその周辺は、「近所に住んでいるから」という理由以外で詳しい。それが里香と金田との『友達』のきっかけだったから。
 里香と金田の通っていた高校は調布市内にある。二人は高校で一年生の時に同じクラスだった。文化祭でクラス内の出し物を決定する時、自分達でシナリオを書いて映画を制作しようという話になった。その際ロケ地として利用したのが深大寺と神代植物公園だった。映画自体は素人の高校生で制作したので出来はよくなかったが、この準備を通してクラスの全員が仲良くなり、里香は金田と特に仲良くなった。文化祭の準備のため、深大寺周辺に二人で下見に行ったりもした。金田はクラスのリーダーから場所の確認を頼まれたが、そもそも深大寺と神代植物公園について全く知識がなかったようなので、里香はインターネットでも調べて金田のアシスト作業に徹した。小さい頃からしょっちゅう来ている場所だったし、ネットで調べて知識にも自信があった。資料を金田に渡すと、金田はそれをすごく喜んでくれ、里香に対して、びっくりするぐらいの感謝をしてくれた。「いやぁ、俺調布にずっと住んでいるけど、深大寺のこと全く知らなかったからさ、本当にありがとう」と、何度も何度も里香に言ってくれた。これを機に二人の距離はぐっと縮まったのだ。金田が里香に「必死に感謝」する様子が、とても人として尊敬できると思った。文化祭が終了する頃には、里香は金田に恋愛感情を持つようになった。何より、深大寺は縁結びや、パワースポットとしても有名で、それがきっかけでの片思いであり、里香は金田に対して運命を感じずにはいられなかった。
 金田は元々男女問わず、人に優しく接するタイプで人気者だった。里香は一年生のときに仲良くなって、二年、三年とクラスは違ったが卒業までずっと仲が良かった。金田は里香と話すときに他の男友達と同じ扱いをしなかった。ちゃんと『女子』としての扱いをしてくれた。それがとても嬉しかった。金田のことをいいと思っている女子は他にもいたが、その中でも一番優先されていたのも里香だったことは自身がよく知っている。一年の時の文化祭終了後も時間が合えば一緒に登下校したり、調布駅周辺でお茶をしたり、デートのようなことも沢山してきた。一度だけ文化祭のあと深大寺に二人で来たこともあった。その時は二人で鬼太郎茶屋に入って土産売り場をうろうろした。あのときソフトクリームを食べたっけ。本当にデート気分を味わえた。金田が買っていた妖怪のキーホルダーをこっそり真似して里香も買った。バレないようにカバンの隅にいつも入れていた。勿論金田は知らない。二人だけの秘密みたいでこのキーホルダーはこれからも捨てられそうにない。
 里香と金田は受験期に同じ予備校に通っていた。偶然一緒になった。予備校には里香のライバルの女子がいた。彼女は隣の高校の制服を着ていた子で、同じ制服を着た男子といつも一緒にいた。名前は確か詩織。詩織の「彼氏」と思われる男子と金田は中学の同級生だという。里香は予備校に通っている間、不安でたまらなかった。詩織と彼氏の間に金田の入り込む隙なんて里香の目から見てもなかった。里香は金田の視線の先を見ると、怒りやら嫉妬やらが入り混じった気持ちになり、ヤキモキした。その度に詩織は深大寺にお参りし、気持ちを落ち着けたものだった。いや、縋る思いだった。そして、受験日近くになり、金田からメールがあった。「深大寺ってパワースポットで有名だよね?」と。話を聞くと、どうやら金田は詩織とその彼氏の三人で深大寺に合格祈願に行くという。里香も誘われたが、その日が予備校で欠席できない授業があったため遠慮した。かえってほっとしている自分がいた。里香と金田の思い出の地に他のカップルが混ざるなんて、と胸が締め付けられる思いがした。受験勉強に打ち込み、なんとかこの気持ちを乗り切った。そして卒業式前、金田と詩織、その彼氏が皆同じ大学に行くことになったと金田本人から聞いたのだ。
 雨は止む様子がない。寒い。里香は傘をさしながら深大寺から自宅へ歩いて帰る。ふいに涙と鼻水が出てきた。すると突然雨が強くなった気がした。傘をさしているが靴は勿論、今日の金田の為の、キメキメの洋服も顔のメイクも雨でぐちゃぐちゃだ。もう涙なのか雨なのか自分でも分からなくなり、家に着く頃には泣きながら笑っている自分がいた。
 告白して玉砕した日から三日後、里香と金田は深大寺で待ち合わせをした。里香から誘ってみた。断られるかとも思ったが、金田の「友達として」という言葉に嘘はないようだ。特別ぎくしゃくせずにお互い話ができた。ちょうどお昼時だったので二人で深大寺の蕎麦屋へ入る。里香は金田に振られてからの三日間で考えたことを話すつもりだった。近くに座っている客もおらず、里香は思い切って金田に言ってみた。「いつになるか分からないけど、ううん、何年後かも分からないけど。私はまた金田に告白すると思う」蕎麦をすすっていた金田は里香の『再告白』にびっくりし、むせたようだ。むせながら、「気持ちは有り難いと思う。というかありがとう」と言うのがやっとのようだ。金田は自分の食べているざるそばを見つめながら、ちょっと悲しげに、「いつも里香のことは有り難いと思っているし、これからも『友達として』なら尊敬し続けられると思う。俺は」里香も蕎麦をすすりながら金田の話に聞き入る。『友達』ばかりを強調され、涙が出そうになった。ごまかす為に慌てて鼻をすする。蕎麦を食べるのに集中しているフリをした。そして「うん」と短い返事を金田にしてから、「私も金田のことはずっと尊敬しているよ。きっとこれからもこの気持ちは変わらないと思うから」金田も短く「うん。ありがとう」と笑顔で返事をした。続けて、「でも本当に今は里香の気持ちは受け入れられないよ。恋愛感情はないよ?」「うん、だって金田はあの詩織ちゃんて子が好きなんでしょ?」金田は少しびっくりしながら、「バレてたか。確かにそうだった。でも彼氏もいる人だし。もう未練もない」と言った。また、金田は、「俺、予定では大学在学中に留学する。アメリカの大学に」突然切り出した。「それで留学の費用は自分でなんとかしろって親に言われているからサークルよりもバイトに力を入れていくつもりなんだ。今日も夜、バイトの面接。正直に言うと、今までみたいに里香とは会えないと思う。お互いの大学も近くないし」金田は悲しそうな顔で里香に言った。金田のことだ。嘘じゃない。里香を避けたいから言っているのではない。知っていた。留学のことは高校時代にも何回か聞いていたから。そんな金田を尊敬しているし、好きになった。「ごめん」金田がつぶやく。「ううん。でも金田のことはずっと好きだと思う」金田はまた悲しそうな表情で里香を見る。里香は慌てて「あ。でも大丈夫! 私も充実した大学生活送りたいし、バイトもサークルもしたい。お互い大学に入ったら、今までみたいに会ったりするのは難しいと思う。それは分かってる。でも、何かあった時は連絡してもいいかな? 会ってくれなくてもいい。電話でもメールでもいいから。私も金田に何かあった時は相談にのれる人でありたいし。その時は連絡して。それで、もし、何年か経った時に私の気持ちが変わっていなかったら。その時はまた金田に告白させてください」里香はいすに座ったまま丁寧に金田におじぎをした。涙は出ない。里香の最初で最後の精一杯の強がり。金田が消えそうな声で「ありがとう」とだけ言った。いつの間にか二人とも蕎麦を食べ終えていた。「帰りに深大寺へお参りしていこう」金田は里香に言った。金田と並んで歩いているとき、彼のカバンにキーホルダーがついているのを発見した。あのとき買ったお揃いの妖怪キーホルダー。金田は知らないが里香も持っている二人だけの秘密。里香は今の気持ちに強がりだけじゃないものを感じだ。やはり好きな気持ちは変わらない。さらに振られてへこむかと思ったが、里香は思いの外気持ちが晴れ晴れとしていた。里香はお参りで金田の倍の時間、彼の夢の実現と幸せを祈った。

いち子聡(東京都)

事前審査の結果、今年は22作品が最終選考へと進みました。

最終選考へ進んだ方への電話連絡は完了しております。

電話による連絡がなかった方。残念ですが、今回は落選です。
事務局では個別対応しておりませんので、電話やメール等でのお問い合わせはお控え頂きますようお願い致します。

現在、3先生方を含む最終審査員による選考が行われており、この後、6作品に絞られます。
お電話にてお話させていただきましたが、事前審査を通過された方につきましても、最終選考にて残った方にのみ、再度、電話連絡させていただきます。

最終選考会は11月上旬に行われる予定です。
選考を通過された方は、今しばらくお待ちください。

 八月に入ったばかりの火曜日、都心から自宅のある荻窪を素通りし三鷹駅で降りると、足の向くままに南口からバスに乗り込んだ。
 文字通りなんにも考えず、ただ足が動くものだから、もう参道の中途に差しかかっている自分が不思議だった。
 願掛けに来たんだとしばらくして思い出すと、参道の残りを急ぐ。途端に重くなった足は秒速5センチほどにしか進んでくれない。
 それでも気晴らしにと沿道の蕎麦屋を覗くが、昼をとうに廻った店はひっそりとし、天日干しの蕎麦ざるが風にカタカタと鳴る。
 久しぶりの深大寺は、随分と寂しかった。
 右耳下の腫れに気がついたのは梅雨に入ってすぐ。ぐりっと瘤のようだが痛みは無く、しばらく放っていたが、なかなか微熱が引かないので、仕方なく近所の内科に行った。
 細菌か何かでリンパ腺に炎症が起きていると言った老医師は、急に診断を撤回するや、築地にある専門病院の受診を強く勧めてきた。
 大小の検査に耐え、通院も5回目を迎えた今朝、「戸上さん」と初めて主治医に名前を呼ばれ、一通りの経過診断を聞かされた。
 内容はよく覚えていない。ただ、いつもは億劫そうな医者が妙に迅速で、どんなに早くても一週間を要した予約が首尾よく三日後に取れた。金曜日には結果が伝えられる。
 石段を上がり寺の山門をぬけると、左手にのびる小道に沿って進んだ。草いきれでムッとした藪に挟まれ、頭上には落葉樹が生い茂るその道は、夏の盛りにしては涼しい。 
 幾分か幻想的でもあったから、その先にそこだけ木洩れ陽の注ぐ深沙堂が見えると、現実感があせて、気分が少しだけ楽になった。
 薬師様や延命観音を詣ればいいのに、恋をとり持つ深沙大王に向かったのは、昔何度も母と訪ねていて馴染みだから、それだけの理由だった。
 なぜだかやけに信心深かった母は、「疫病とか病魔だけは嫌でしょ」と大王の神通力を買ってお堂に向かうが、そこには縁結びだの深大寺の寺号の由来だの、明るい理由はなかった。もしかしたら、若くして死んでしまった父と関係していたのかもしれない。
 しかし、結局理由はわからず仕舞いで、参道に近い秘仏が宿るこの堂で、母娘は多くの時間を過ごした。
「あ......変わんないや」
 本当になんにも構えずに踏み込んだ空間は、びっくりするほど昔のままで、切妻屋根を覆う雑木林の配列や自分の重みで全体が傾ぐ赤松の微妙なラインは、ぴったりと幼い記憶に符合していた。
 お堂わきの切石に座ると、ジジジと蝉時雨が頭をめぐり、今にも気が遠くなる。
 人知れぬ痛みや孤独を抱えていた母も、こんなふうに癒されていたのか。
 現実逃避も手伝い、記憶はやがて、三十六年の人生で幾度も掘り返した、手放すことの決してないある思い出をそのまま運んできた。
 物心ついたときから父はおらず、高校を卒業するまでずっと母とふたり、三鷹市の小さなアパートで暮らしていた。
 深大寺の北にある北ノ台小学校をさらに北上した三鷹通り沿いのアパートは、古くて騒々しかったが、居心地はよかったと思う。
 通り向こうには企業の野球場があってナイターが夜を照らし、沿道の劇団から聞こえる発声練習は、憂鬱な朝を少しだけ愉快にした。 
 母を深夜まで待つ幼い娘を気にする隣人は多く、よく世話になった隣の若夫婦から、初めてゼリーではないメロンをご馳走になった。
 もちろん、アパートの外でも言うほどの苦労は無く、放課後は学童と知り合いを転々としたが、おおかた祖母と一緒にいたから、いわゆる悲壮感とは無縁だった。
 調布駅の裏通りにあった祖母の居酒屋では、時々派手な諍いが起きたが、不思議とそこには諦めに似た節度があり、引き際のタイミングという得難い教訓を、幼い娘は肌で知る。
 そして常連客が揃うころ、母は迎えに来ると、決まって自分を自転車後部の荷台にのせて、一路、深大寺付近をめざすのだった。
「うちはねえ、貧乏だけど貧しくはない」
 そう豪語する母は、週に一二度馴染みの蕎麦屋に通い、ふたりで一枚ずつ笊蕎麦を平らげ、ひとり旨そうに熱燗をちびちびやる。
 多分、この習慣は亡くなる直前まで続いていたと思う。
 甘めのつけ汁に蕎麦をたっぷりと泳がせ、くどいくらい咀嚼する母は、決して蕎麦通ではないが、その酩酊する様は見ていて気分が良く、幸せを守るのではなく分け与える、そんな類の酔い方だった。
 その後、良くない事がつづきもしたが、一応腐らずにやってこれたのは、あの酩酊の功徳かもしれないと、本気で信じている。
 そんな母娘だったから、特に反抗することもなく、家事や雑事は協力してやっていた。
 そして中学二年生の春、初めて恋をした。
 それは、どんなに通じていた母にも決して明かせない、行き場のない衝動だったが、次第にその正体が初恋とわかり、絶望に転じた。

 当時所属していた吹奏楽部の同じフルートのパートに、藤原泉という一つ上の先輩がいた。フルートの腕はピカイチで文武に秀で、おまけに透ける肌と薄茶の目をした美人だったから、常に教師のご贔屓に与かっていた。
 彼女に接すると何か自分までが特別になったような、そんな優越感を抱かせてしまう存在。今でいうスクールカーストの頂点に君臨するような、特別の生徒。
 しかもそれでいて、性格だって良かった。
 大人の目や評価の枠外にあっても、後輩や同級生への配慮を怠らず、ちょっとの根回しで、誰もが傷つかない方法でいじめを解決することもしばしば。まさに完璧なひと。
 間違っても、藤原さんに避けられることだけは、絶対に絶対にいやだった。
 五月にしては蒸し暑い日だった。中間試験前の水曜日、早帰りした折り母につかまった。
 これから調布駅近くの果樹園に行くという母は、袖机をもらいに行くからと誘ってきた。
 まあ助手席にいればよいし、末は自分の勉強机になるのだからと、仕方なく承諾した。
 しかし、実際の机は意外に大きく我が家のミニカーには積みきれず、譲り主の好意で、代わりに軽トラをお借りして運ぶことに。
 けれども母は、なにを思ったか、不慣れな軽トラの運転に躊躇しだすと、突然、納屋に立てかけてあった古いリヤカーをせがんだ。
 今にも崩壊しそうな代物で、車輪や持ち手の塗料はすっかり剥げ落ち、触れば赤錆特有の臭いと鉄粉が手のひらに付着した。
 そんな事情から、リヤカーの旅が始まる。
 優に30キロを超す塊を載せたリヤカーは本当に重く、停止の状態から引き始めるには、母と二人、腹筋を張り歯を食い縛ってようやく一歩を踏みだすほどであった。
 逆に坂道では、惰性がついた車輪の下敷きにならないよう相当に気を使った。
 臭い汗が滴る。楽しさなんて微塵もない、ただの羞恥と苦痛の道のり。
 思春期の自分は、こんな姿を知り合いに見つからぬよう、唯それだけを祈っていた。
 しかし事態は、最悪を迎えてしまう。
 幹線道路を避け、迂回のため深大寺の敷地を突っ切ろうと、参道の向かいで信号待ちしていたその時、山門の黒い茅葺の下に目が留まった。全身が強張る。そこに母と並んで慎ましく歩く藤原さんの姿を一瞬で捕えていた。
 穴があったら......そんなものじゃない。万事休す。数多の部員に紛れて借り物のフルートなんかを持つ戸上純という存在を藤原さんが覚えていないこと、それだけに賭けた。
 しかし、藤原さんはやはり藤原さんだった。
 彼女は信号を待って一目散に駆けつけると、矮小な後輩の頑張りを親たちに讃え、意外な、いや最も藤原さんらしい展開をみせる。
 突如、藤原さんは右手の楽器ケースを親に託すと、自分と並んでリヤカー前方のバーを握り、「せーの!」っと力一杯に引き始めた。
 リヤカーはなぜか素直で、順調に滑りだす。
 汗で湿った藤原さんの腕と擦り合うたび、初めて、動悸に酷似した息苦しさを覚えた。
 と同時に、手の甲から汗が噴き上がる興奮と歓喜が湧きおこり、それが一気に体芯へと流れ込む感覚が走る。恋する素晴らしさ。
 しかしそれは、絶望と表裏のものであった。
 「試験前なのに、私達って外に出てるね」そう悪戯っぽく微笑み、ふたりだけの秘密の連帯を感じさせる藤原さんの隣で、自分はあの日、深く深く傷ついていた。
 この坂を登り切れば二度とない時間。確実に報われない恋。共有できない傷だけが残る。
 たまらなく好きな人、彼女の楽園にはきっと入れない......解りきったことなのに、いつまでもあのときの感情が綺麗で、自分を支え続けているのはなぜなんだろう。
 純、そりゃ初恋だからよ! ......母ならそう言うだろうか。今となっては分からない。

 晩鐘の音で思い出が途切れた。
 気がつくと、ついさっきまで感じていた寒さはなく、首筋にじっとりと汗をかいている。
 すると急に笑いがこみ上げてきた。下腹部を締め付ける動悸や明日が待ち遠しい興奮。こんな感覚が蘇るなんて、命の一大事に。
 しかし、もう一度愛しそして愛される時間は残っているのだろうか、誰か教えてほしい。
 小一時間前、うなされたようにこの寺に辿り着いたのが随分と昔に思える。
 立ち上がると妙な胸騒ぎを覚え、お堂に近づく。そして、格子の奥をそっと覗いてみた。
 そこには白木の厨子がひとつ。けれども実は、箱の中に仏はなく、母や父、そしてまだ世界の中心にいる藤原さんがこっそりといて、じっと箱の隙間からこちらを見つめている。
 そんな気がしてならなかった。

広瀬有(東京都国立市/41歳/女性/会社員)
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