「おい、君」固い声が背中に突き刺さる。沙耶はぎくっとして立ち止まった。恐る恐る振り返ると、蒼白い顔をした青年がトンを抱いている。
「君の猫だろ。野良猫にするつもり?」青年の目は、はっきりと沙耶を咎めている。トンは青年の腕の中で彼を見上げ、鼻に皺をよせてミャーミャーと鳴いている。その仕草は、まるで彼に何かを訴えているかのようだ。
「動物は最後まで責任をもって飼えよな。わかったら、さ、連れて帰って」沙耶は青年の顔をまともに見ることが出来ない。あれほど誰もいないことを確かめて捨てたのに......。あ~あ運が悪い、と心の中でぼやいた。
沙耶がしぶしぶ両手を出すと、青年は猫を抱いたまま、沙耶の顔を覗き込んだ。
「まさか、またどこかで捨てようなんて思っていないだろうな」「だいじょうぶ、捨てません」たぶん。たぶんは心の中で付け加えた。
青年は疑り深い目で見下ろしていたが、トンをそっと沙耶に手渡した。猫の扱い方に、この青年はほんとうに猫好きなんだな、と感じる。私だって、としんみりしそうになったときだった。「あ、冷たい」上を向くと、大粒の雨が思いっきり顔を叩いてきた。沙耶は弾かれたように、トンを腕に抱え込んで駆け出した。しばらく走って立ち止まった。後ろを振り返ったが、土砂降りの雨が視界を遮り何も見えない。顔の雨を拭いながら目をこらすと、雨の向こうに佇む青年の姿が見え隠れする。やっぱり彼は私を信じていなかったのだ。沙耶は逃げるように駆けた。
どこをどう走ったのか、気が付くと蕎麦屋や土産店が立ち並ぶ深大寺界隈にいた。雨に打たれ、そのうえ空腹ということもあって、いやに惨めな気持ちになっている。トンもお腹を空かせているのか、腕の中から上半身を反り返らせて降りようとする。沙耶が必死で抱きかかえていると、腕に爪を立てて飛び降りてしまった。蕎麦屋に駆けこむかと思っていると、今来た道を戻っていく。トンの逃げ足は速く、あっという間に見失ってしまった。トンは逃げたんだ、となんども自分に言い聞かせるのだが、なにか後ろめたさが残る。
雨は通り雨だったようですぐに止んだが、沙耶はずぶ濡れだ。髪の毛から雨のしずくが垂れてくる。バス停でバスを待ちながら、妙に孤独だった。
亨と拾ってきて育て始めた猫だもの、捨てたいなんて思うはずがない。亨が部屋に来なくなり、二人の思い出になるものを一掃しないと窒息しそうになって、写真もプレゼントも食器も全部捨てた。そして最後に残ったのがトンだったのだ。
このトンという名前、亨の愛称からつけたから厄介なのである。猫の名前をつける時に、少しもめた。沙耶はトンがいいと言い、亨は、僕かと思うよ。いやだな、と反対した。結局、猫にはトンと呼び、亨にはトンちゃんと敬称をつけることによって区別したのだった。亨はトンと呼ばれるとよく間違えて反応していたが、猫はトンとトンちゃんとをしっかり区別していたのだからすごい。しかし、こんな曖昧な線引きがよくなかった。亨が訪れることがなくなった私の慰めは、トンのはずだった。が、トンと呼ぶたびに亨を思い起こし、淋しくなるばかりだ。いまさら名前を変えても、トンが新しい名前を認識するとは思えない。悩み続けた末に、猫を捨てる決心をした。首輪にトンと名前を書き、泣く泣く深大寺にやって来たのだった。
来たバスに乗ろうとして、ステップに足を掛けた。今にもトンが駆けてきそうに思えて、辺りを見回した。しかし、トンの姿はなく、次の人に押されるようにして車内に入った。

トンがいなくなって一週間が過ぎた。トンが使っていた器やトイレをベランダの隅に片付けると、部屋の中がいやに広く感じる。膝にはいつもトンが乗っていたが、トンがいない膝はやけに寒い。沙耶は膝を抱えた。気がつくと部屋を見回してトンの姿を捜している。捨てようと思ったとき、こんなに寂しくなるとは想像もできなかった。
沙耶はごろんと床に仰向けにころがった。天井を睨んでいると、突如として、あの青年の顔が浮かんできた。その顔は怒っている。きっと約束を破ってトンを捨てたと思っているのだ。沙耶は、がばっと起き上がり、トンを探しに深大寺に行こうと、化粧を始めた。
沙耶はトンが逃げた蕎麦屋の前に立って、あたりを見回した。あちこち歩いてもみたが、どこにもトンの姿はない。深大寺の階段を上りながら、境内に蹲っているトンを想像する。が、ここも期待はずれだった。ここは縁結びの神様だと聞いたことがある。祈ればトンは戻ってくるかもしれない。相手は猫だけど縁結びには違いない、と手を合わせた。
トンを捜しながら、あてもなく歩いていると、いつの間にか猫を捨てようとして、青年に叱られた場所に来ていた。胸がキュンと痛む。
いきなり亨との喧嘩をおもいだす。「トイレの電気を消せよ」「わかった」「これで千回目」「ごめん」謝りながら、千回もトイレに行ったかな、と考えていたら、「その他人(ヒト)ごとの様な態度がむかつくんだ。二千回も同じこと注意させるな」いつの間にか千回も増えている。ガンガン怒鳴る亨に、それを指摘すると「すり替えるな」と言って出て行ってしまい、亨とはそれっきりになってしまった。  
私はいい加減な女なのかなあ。だから亨に嫌われたのかも、とか考えていると、いやに足首がこそばゆい。視線を落とすと、トンが沙耶の足に纏わりついている。「トン」沙耶は叫んだ。しゃがんで、トンが喜ぶ頭ツンツンをやりながら、「トン。ごめんね、ごめんね」と謝っていると、「君、やっぱり猫を捨てたね。あれほど注意したのに」といきなり頭上で男の声がする。顔を上げると、青年が厳しい顔で見下ろしている。沙耶はトンを抱いて立ち上がると、猫の背中に顔をうずめて隠れた。
「それで、今日はトンが心配になって来たの?」 青年がトンと呼んでいるのがうれしくて、沙耶は猫から顔を上げた。「あ、そうそう、そうなんです」「ほんとかな?」まったく疑ぐり深い男だ。そう思いながら彼を見ると、沙耶の視線と彼の視線がぶつかった。沙耶はどきりとした。青年の瞳は、まるで葉の上の水滴が葉の緑を映したように、澄んで涼やかだった。その瞳に見つめられていると、ごまかしは許されないような気がして、沙耶は思わず背筋を伸ばした。
「トンが逃げたんです。ホントです。捨てたんじゃないんです」「逃げたんじゃないよ。僕に助けを求めてきたんだよ」「......」「トンは捨てられるってわかっていたんだよ。僕とトンは、君が捜しに来るのを待っていたけど、君は来なかった」「まるで猫の気持ちがわかるみたい。でも、もう絶対にトンを離しません。約束します」「うん。それがいい」
青年は沙耶に頷いてみせると、よかったな、とトンの頭を華奢な指で撫でている。今日のトンは、沙耶の腕の中で、ごろごろ喉をならして、おとなしい。
「私の名前は、馬淵沙耶と言います。三鷹の」「住所は言わなくてもいいよ。信じているよ」と遮った。
青年は、沙耶が住所を知らせるのは、猫を捨てないことを保証するつもりだと取ったらしい。折角、名乗って相手の名前を聞こうとしたのに。結局、沙耶は青年の名前も住所も聞きそびれてしまった。じゃ、と立ち去る青年の背中に「ありがとう」と叫ぶと、振り返ることもなく右手をあげた。
家に帰っても彼のことが頭を離れない。眠れないまま夜を明かした沙耶は、トンを置いて、ひとり、青年と会った場所にやって来た。春の日差しの中を、しわの深い老女が歩いている。
「あのー、この辺で猫好きの若い男性を知りませんか」知らなくて元々と、声を掛けると、「それはトオル君のことだな。よく知っているよ。最近も茶虎の猫を抱いて毎日この辺に立っていたね」と意外な返事が返ってきた。「その茶虎、私の猫だったんです。その人の家に行きたいんです。教えてくれませんか」「ああ、いいよ。着いておいで」老婆は腰をのばし、それからゆっくり歩きだした。
案内された家には「太田」と表札がかかっている。沙耶が引き戸を開けると、玄関のそばの板場に毛布が敷いてあり、横に猫用のトイレや餌の器が、きちんと片づけてある。トンはここで過ごしていたようだ。
奥に声を掛けると老人が出てきた。沙耶が、猫の飼い主だと名乗ると、「あんた、透が預かっていたトンの飼い主かね」と相好崩した。奥に向かって「おい、透、おまえの兄弟分の飼い主がお目見えだぞ」と声を掛けた。しばらくしてあの青年が現れた。「君か。よくわかったね」「おばあさんに教えてもらった。猫好きな青年と言うとすぐわかった」と沙耶が言うと、青年は「そう」と言った。「あがってもらえ」と老人が声を掛けると、「いや、ちょっと散歩に出てくる」とサンダルを履いて歩き出した。「病院に間に合うように帰ってこいよ」「うんわかってる」と答えた。沙耶は青年に訊きたいことが山ほどある。背の高い透は、深大寺に向かって長いコンパスで歩く。その後を追いながら、「兄弟分って?」「ああ、僕、透っていうから、小さいときにトンちゃんって呼ばれていたんだ。それで」あまりの偶然に沙耶は目を見張った。「もう一つ聞いてもいい? 病院って?」「うーんと、僕、今日入院するんだ。肺の手術。でもたいしたことない。やらないと大学卒業しても就職できないからな」
今になって、あの日、雨に濡れてだいじょうぶだったのだろうか、と心配になってきた。沙耶と同じくらいの年の青年が、いやに大人びて見える。口数が少ない彼を、誠実で信頼できる大人と思えるのは、透の澄んだ瞳にあるのだろうと思った。
「ね、深大寺のお寺に行こうよ」「どうして?」「透さんの病気が治るように祈るの」「ふーん、随分信心深いんだね」猫を捨てたくせに、と声なき声を聞いたような気がして、沙耶は首をすくめた。
ふたりは本堂の前に立った。沙耶は心を込めて手術の成功とこれからの二人のことを祈った。横で透も手を合わせているが、何を祈っているのだろう。
透にむりやり病院名を聞き出し、「お見舞いに行くからね」と言うと「いらないよ」とぶっきらぼうに返してきた。「ううん絶対お見舞いに行く。トンの写真もって」と沙耶も譲らない。すると、トンという名前が出たからか、透は白い歯を見せて笑った。「あ、笑った」「えっ?」「笑わない人かと思ってた」「まさか」と照れたように横を向いた。それから沙耶の目をまっすぐに見た。「トンをかわいがってやれよ。君が現れなかったらトンを家で飼うことにしてたんだ。だが、君は思ったとおり、いい加減なやつじゃなかった」「えっ?」沙耶は耳を疑った。自分をこんな風に言ってくれる人もいるんだ、と透の顔をまじまじと見た。
寺の石段を下りると、透が立ち止まった。「じゃ、ここで。今、深大寺さんにお礼を言ってきた。トンの飼い主が現れるようにって、毎日祈っていたもんだから。ま、入院まで暇だったからな。トンと散歩に来たついでだったんだけど」「そうなんだ......。ありがとう。手術がんばって」「うん。トンによろしく。じゃーな」と言うと、振り向くこともなく家に戻って行った。
沙耶は、空を仰いだ。真っ青な空が広がっている。雨のち晴れか。沙耶はくすっと笑った。

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<著者紹介>
野末 ひな子
(東京都杉並区 /女性/主婦)

わたしがこの街に住むことになったのも、彼の意向をすべてくみ取ってのことだった。
「東京の最先端な感じではなく、古い武蔵野の雰囲気がふんだんに感じられて、公園があって、お寺か神社、それと蕎麦屋のある場所。もちろん家賃も、なるべく手頃で」
初めての東京で、ただなんとなくミュージシャンぽい街だからと下車した吉祥寺駅の、なにも考えずに飛び込んだ小さな不動産屋で、彼は、これだけは譲れないと、家の条件を、ハゲ頭でくたびれたネクタイのおじさん社員に朗々と伝えた。そして、吉祥寺からは少し離れるが、ここらあたりなら条件にあうだろうと紹介された、築四十年二階建て木造アパートの二階の一番奥の部屋に、そのままふたりで住むことになった。彼は、その当時、ミュージシャンとしてはそれなりに人気も出かけていたのだが、社会的にはほとんど無職同然だったので、名義もわたしの名前で契約するしかなかった。わたしは、運よく知り合いのつてで、新宿の個人デザイン事務所に就職することができた。本当は、地元の大阪で、あと一年すれば独立して、自分のデザイン事務所を立ち上げようと計画していた。個人事務所は昔からのわたしの夢だった。彼に出会うまでは。
もしかしたらわたしもどこか不安があったかもしれない。あんなに夢だった独立を、わたしはあっさりと諦めた。諦めたというよりも、この選択のほうが正解だと、あの時は本気で思ったのだった。わたしは、初めて見た彼のライブで、生まれて初めての一目ぼれを体験した。これだけは言えるのだが、わたしは決して彼の人気に飛びついたわけではなかった。
そのころは彼も、まだまったくの無名で、人気だってほとんど無かった。その日のライブも、三十人も入ればいっぱいになるような小さなライブハウスだったが、お客さんはわたしも入れて十人足らずで、ガラガラだった。
人気が出だしたのは、わたしと付き合うようになってだいぶたってからのことだった。
わたしも人並みに、人気がでるようになった彼の心移りや浮気を心配したけど、彼は、わたしが勝手に想像しているミュージャン像とは少しかけ離れていて、名声や、お金には無頓着だった。外で遊んでくることもほとんどなかった。ライブの打ち上げでさえ、いつも途中で退席して、終電前にちゃんと帰ってきた。ミュージシャンならもっとファンを大切にしなさいとわたしが注意するくらいだった。
そんな時は、彼はいつも困った顔をして、部屋の隅で、アンプに繋げていないエレキギターをチャカチャカ爪弾いて、自分の歌を歌って誤魔化すのだった。わたしはそんな彼の姿が好きだった。付き合うようになって一年、わたしが独立のことを、彼に相談しようかどうか迷っていたころ、彼に「東京で勝負したいと思っている」と告げられた。
わたしは「一週間だけ考えさせて」と言い、一週間後には、勤めていた大阪のデザイン事務所に辞表を提出した。彼はだいぶ困惑したようだったが、わたしも東京に行きたかったと言ったら、なんとか納得してくれた。
本当は、どこだって良かったのだ。ただ、彼と離れたくなかった。今考えると、わたしも長年の夢を棄ててまで、無茶したかなぁと思う時もあるのだけど、でも、今だって後悔はしていない。この街に来られたことも。彼と過ごしたこの街での時間も。
1LDKの木造のボロアパートは、大阪なら立派な2DKのマンションに住めるくらいの家賃だった。そのくせ、オートロックなんてもちろんなくて、風呂も、浴槽なしの、シャワー室だけだった。ふたりで続けてシャワーを浴びると、最後のほうは必ず水になった。そんな家だったけど、彼といるとまったく苦にはならなかった。彼も、工事現場でアルバイトを始め、わたしの収入と合わせれば、もう少しマシな部屋に住めそうだったけど、彼は「ボクはここが気にいった」と言って、引っ越そうとはしなかった。部屋というよりも、街の空気が好きになったようだった。
わたしも彼の意見には賛成で、確かに、わたしたちにはこの場所の空気がしっくりきた。都会であることには違いはないのだけど、どこか懐かしい匂いがした。初めての街なのに、この街で見る夕焼けは、遠い子供のころの記憶がよみがえるような、そんな想いにさせてくれた。彼の歌も、この街に来て、前よりもさらに良くなったとわたしは感じていた。
彼は、大阪の街も愛していたが「大阪は蕎麦屋があまりない」とよくわたしに洩らしていた。彼は、蕎麦が好物だった。わたしたちは、このあたりのことについて、まったくと言っていいほど無知で、最初は、なんでこんなに蕎麦屋さんばかりあるんだろうと不思議だった。ふたりで新しい街を歩き、ここらは、深大寺を拠点とした門前町なのだと理解した。
門前そばというのぼりも発見した。
彼は、観光地っぽいところは、ごみごみしてあまり好きではなかったが、ここらの、どこかのんびりとした雰囲気は気に入ったようだった。観光で来ているのではなくて、ここに住んでいるというのも、より深く街の一日が分かってよかったのだろう。まだ人の少ない時間に、よくふたりで、深大寺界隈を歩いた。小学校のすぐ近くに、蓮や、花菖蒲の生えている水生植物園があって、彼と一緒に時間を忘れてぼんやり眺めるのだった。
亀島まで歩いて、また一時間以上たっぷりとすごし、そのあといつも決まって、鬼太郎茶屋に入ろうかどうしようか迷ったあげく結局入らずに、晩御飯の買い物をして、うちに帰るというのが、わたしたちのデートのパターンになった。特別な日は、お気に入りのお蕎麦屋さんで、彼はそばを二枚食べ、わたしはそばの実の雑炊を食べるのが、ふたりにとっては一番の贅沢だった。仕事に明け暮れていたころは忘れていた、四季を思い出させてくれる街だった。だるま市に行ったし、野川の灯篭流しも見た。もちろんそば祭りにも行った。ふたりとも、この街に溶け込めていると本気で感じていた。この街での時間も、あっと言う間に二年が過ぎようとしていた。彼は、吉祥寺界隈のライハウスだけではなく、新宿のほうでも活動するようになり、人気も、東京に出てきた時に、いったんゼロになっていたのが、少しずつ上がってきた。インディーズではあったが、ワンマンでライブできるくらいまで評判になった。小さなライブハウスなら、いつも満杯になった。時々、メジャーレーベルのスカウトマンも、彼のライブを見にくるようになった。ライブが忙しくなり、彼はアルバイトもままならないようになった。ライブが忙しくなっても、なかなか収入には結びつかないのが、この世界の厳しいところだ。働けなくなった彼のかわりに、せめてわたしは収入面で支えようと頑張った。いつのまにか、彼のプロデビューは、ふたりの目標になった。
一度は、夢を諦めたわたしだったが、彼と見る夢はぜったいに叶えたいと思っていた。
でも、彼はどこか疲れているようだった。
ある日、彼と初めて喧嘩をした。彼は、プロデビューしたくて音楽をしているわけではないと言った。わたしはなんだかとても腹が立って、彼にあたり散らした。彼は黙って、部屋の隅でただ座っていた。わたしが一方的にあたった。その三日後、彼はこの部屋を出て行った。元々、わたしの名義で借りていた部屋だったので、彼が出て行くしかなかった。ケータイも繋がらなくなった。わたしはどうすることも出来ず、ただ、彼を忘れるように、また以前のように仕事に没頭するようになった。毎週のように彼と歩いた、深大寺周辺も、ほとんど歩かなくなった。彼との思い出が、よみがえるのが嫌だったのだ。
彼が部屋を出て行って、半年後、突然、部屋の郵便受けに、大きな封筒が届いた。
中を開けると、CDが一枚と手紙が入っていた。手紙は彼からだった。
手紙には「今までほっといてごめん。どうしても、この一枚を完成させたかった。君と暮らしたこの街の匂いや色を、このアルバムに映したかった」と書いてあった。
彼は、わたしの知らないところで、一枚のCDアルバムをレコーディングしていたのだった。手紙の二枚目には「来月発売します」と書いてあって、PSのあとに、彼の今いる場所の住所が記してあった。わたしは、そのアルバムを聴くのも忘れて、すぐに、記してあった住所に向った。彼はわたしを忘れたわけではなかったのだと、嬉しくて涙が出そうだった。でも、その涙は別の涙に変った。
彼は、静かな病室で、半年ぶりに、あの優しい笑顔を、わたしに見せてくれた。
だけど、彼の姿は、半年前とは別人のようだった。彼が、自分の病気に気づいたのは、わたしと東京に来てからしばらくしてのことだったらしい。いつものように声が出ないので、疲れだろうと診てもらった病院で、彼は余命宣告をうけた。わたしにはすべて隠したまま、彼は歌を続けた。彼は、デビューなどどうでもよかった。ただ、一枚だけ、自分のすべてをアルバムに収めたかったのだ。わたしは、まったく気づかずに、あの日、彼にあたってしまった。わたしがごめんねと言うと、彼はボクこそごめんと言った。そして、病室で、ふたりで泣いて、そのあと笑った。
彼が亡くなったのは、それからわずか一か月後のことだった。ちょうどアルバムの発売日だった。彼が出した、最初で最後のアルバム「深大寺物語」は、その後、インディーズチャートで一位を獲った。そのアルバムは、わたしと過ごした季節がぜんぶ入っていた。
あの夕焼けの匂いも。川の音も。
わたしは、今でも、この街に住み続けている。
彼がひょっこり、そこのお蕎麦屋さんから、暖簾をくぐって出てくる、そんな妄想をしながら、彼の歌を聴く。

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<著者紹介>
田中 時尾(大阪府大阪市/31歳/男性/フリーター)

 僕の住む調布の小島町の自宅から深大寺まではチャリなら十分ほどで行ける。
 その日は十二月に入って最初の日曜日。底冷えはしても陽だまりは温かい日だった。
 ジーンズのジャンパーを羽織った僕は、愛チャリのアンカースポーツに乗って深大寺に向かった。
 一週間前までは就職が決まらず悶々としていたがようやく内定を得てペタルを踏む足も軽快だった。小学校三年のときにここに引越してから十年以上も経ち調布が故郷になった。
 深大寺と神代植物公園は僕の遊び場だ。気分がいいときも落ち込んでいるときもいつもここに来た。蕎麦好きの僕は子どものころは親に連れられて食べに来たが、大学に入ってからは一人でも来るようになった。
 僕の心境を反映しているかのように深大寺は一ヶ月前に来たときの憂鬱な秋の空から新年を間近に控え新しい息吹を感じさせる空になっていた。
 お蕎麦屋さんが立ち並ぶ小道を少し歩いてからはずれにあるお店に入った。晴れた日曜日の昼だったのでお客は八割程度入っていた。たまたま空いていた右奥の二人用のテーブルに座り、定番のざる蕎麦を頼んだ。
 すぐ右隣のテーブルには若い女性二人が温かいそばをすすっていて、友だち同士らしく食べるよりも話のほうに夢中だった。僕の真向かいの人はよく見ると左手に箸を持っていた。ピンクのワンピースの下は濃紺のジーンズで椅子の背もたれにベージュのコートをかけていた。薄化粧の顔は小さく、瞳は大きかった。笑うたびにポニーテールの髪が揺れた。
 僕はその人に気を取られた。携帯を見るふりをして彼女に視線をやった。日差しが彼女の横顔を照らして笑い声がするたびに身体が陽光のなかで揺れた。それとなく耳にした会話のイントネーションは明らかに関西系だった。耳を澄ましても会話の内容は笑い声の中で消えていって僕まで届かなかった。
 気になる二人連れが席を立とうとしたとき僕は向かいの人を見つめた。彼女は僕を見て微笑みながら会釈してくれた。そのとき僕の身体に稲妻が駆け抜けて身体が動いた。伝票をとって僕も席を立った。

「あのー、関西のほうからお見えになったのですか?」
 会計を済ませて外へ出た二人に僕は声をかけた。びっくりしたような表情で二人は顔を見合わせた。
「ええ、私はそうです」
 左利きの可愛らしい人が答えた。さっきからウチとかウチラとか言っていたので『私』という響きが新鮮だった。
「もともと二人は京都の高校で同級生だったんですけど私のほうが今年、東京の大学に入ったんで京都から葉月が遊びに来てくれたんです」
 もう一人の人が言った。大学一年生と分かって僕は嬉しくなった。
「僕はもう卒業です。もし良かったら深大寺をご案内しましょうか? この辺は僕の地元なんですよ」
 二人はまた顔を見合わせた。東京の大学に行っていると言った人が小さい声でウチも深大寺は初めてなのというのが聞こえた。
「それじゃあ、お願いします。私は生田絵里といいます。城南大学一年です」
「私は蜜川葉月といいます。京都女子大の一回生です」
 二人はほとんど同時に自己紹介してくれた。
「僕は栄光大学四年の速水涼太といいます。最近就職決まってホッとしているところです」
 言わなくてもいい就職のことなども言ってしまった。彼女たちはすぐに反応してくれた。
「えっ、そうですか。おめでとうございます。今、就活厳しいですからね」
 僕は苦しかった就活のことが脳裏に浮かんできたけど表情をくずして「ありがとう」とだけ言った。
 温かい日差しが指しているうちにと僕は先に神代植物公園のほうへ案内した。
 初冬の公園は花の季節が終わり、わずかに薔薇や山茶花や菊の残り花が最後の命を見せていた。広々とした空間に爽やかな風が若い三人の頬をなでた。
 二人の女性は僕に慣れてくるとギャグや冗談を言ったりして僕を笑わせた。
「関西系の人って人懐こくっていいね」
 僕がそう言うと二人はまた目を見合わせて笑った。
「そんなふうに解説するところが東京系の人よね」
 絵里が言って葉月がそうそうと頷いた。絵里は気づいていた。僕が葉月に好意を寄せていることを。
 だから本堂に参拝するときは葉月を真ん中にその右隣に僕がいるようにして一緒にお参りした。
 葉月はお賽銭をあげるときも左手でした。次の瞬間だった。僕は生涯忘れることができないほどの衝撃が全身を走った。
 僕がお参りをしていて左で手を合わせている葉月を横目で見たときだ。
 彼女の右手の指の付け根に近い第二関節から先の指がないのだ。人差し指、中指、薬指そして小指までも。親指も爪はなく曲がって付いていた。今まで長袖に隠れて右手が見えなかったので彼女が両手で手を合わせたときにそのことが分かった。そのとき僕の目も口も丸くなって唖然としていたに違いない。正直、声が出なかった。声というよりも選択すべき言葉が浮かんでこなかった。
「えへっ、ウチは障害者なの」
 僕の呆然としたような顔に向かって葉月が言った。首をすくめておどけながら事態の深刻さとは無縁のようにカラカラと笑った。
「大変だね」
 僕はやっと声を出した。
「全然。ちょっと不便なことあるけど、全然大丈夫。ねえ、絵里?」
 葉月は絵里に同意を求めた。でも絵里にそんな同意を求める必要はなかった。僕の心の中ではあっという間に異変が起きていた。表層のいい感じの子から深層深く好きという感情が根付き始めていた。それは僕自身にも説明できない出来事だった。
「葉月はね。とてもいい子よ。素直で可愛いし」
 絵里がフォローした。それは彼女にはハンデはあるけどという意味合いが言外ににじんでいた。
 僕は僕の携帯の番号やらアドレスやらのメモを二枚書いて二人に渡した。葉月もすぐに左手で書いたものを僕にくれた。私はいいでしょって言って絵里はくれなかった。
 三月の卒業旅行は京都へ、僕は何度も葉月に言った。葉月も嬉しそうだった。
 深大寺の十二月の夕闇は早かった。彼女たちはJR吉祥寺方面のバスに乗り込み、その後、僕はまた愛チャリに乗った。冷たい夕風が温かく感じられた。


 
 新年は深大寺の初詣で葉月の分まで参拝した。卒業試験が終わるとすぐに休みに入った。
 三月に京都へ行くと言ったら大学の級友の菅山も一緒に行きたいと言った。即、断った。もちろん葉月のことは内緒だ。
 京都はどこへ行っても名所旧跡の観光都市だ。僕は中学の修学旅行以来で土地勘はなかったけど葉月と巡る京都の旅の見所などを研究した。ガイドブック二冊とネット検索などのお陰で僕はかなりの京都通になっていた。
 京都人でも灯台下暗しで京都の観光地は詳しくないと葉月は何度か僕に強調した。だから僕はこの研究成果を生かして彼女をエスコートしたいと思っていた。
 少し気になっていることがあった。彼女とは何度となくメールのやり取りをしていたが彼女のメールの文面がいつまで経っても打ち解けない硬くて丁寧な文章なのだ。あの深大寺のときのお茶目で冗談好きの女の子のメールとは思えなかったのだ。僕はまだ彼女とは一度しか会ったことはないし几帳面で真面目な人なのだろうと思うことにしていた。
 そんな心配するまでもなく葉月との京都巡りの行き先とスケジュールが僕の主導で決まった。
 いよいよ明日の朝に新幹線に乗るという日、つまり旅行の前夜のことだ。彼女からメールが届いた。
『やはり初めに言っておいたほうがいいと思ってメールします。あの深大寺の参拝のときです。私はある人のことを深大寺の縁結びの神様にお願いしました。実は先日、その願いが通じたのかその人からプロポーズされました。もちろん結婚はまだ先のことですけどいずれはその人と結婚したいと思っています。その人は京都大学の医学部の五回生でまだ学生です。私、本当に深大寺の神様に感謝しています。涼太さんには素敵なサポートをしていただいてとても感謝しています。明日はそのこともお話しますね。それでは明日楽しみに京都駅でお待ちしています。葉月』
 僕はメールを見たまま固まっていた。そして笑った。笑いながら言った。葉月おめでとうって。

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<著者紹介>
内田 東良(東京都日野市 /60歳/男性/無職)

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