哲也が自分のアパートの近くに奇妙な名前の木があることを知ったのは、見知らぬメールの相手の書き込みからだった。「なんじゃもんじゃの木」と一度聞けば覚えてしまうおもしろい名前だった。その木がどんな木だろうと彼にとってあまり意味はない。問題はなんじゃもんじゃの木の前でメールフレンドと初対面を果たす事だけが大切なことだった。
 秋空の抜けるような鮮やかな青に細井雲の群れがうっすらと色を淡くしてきた。深大寺に隣接する神代植物公園でバラフェスタをやっているということを彼女のメールから知った。入り口を眺めると大勢の人たちでにぎわっていた。神代植物公園の入り口にはバスを待つ人たちが行列をなしている。
 哲也は一人ではバラフェスタのイベントなどに来ることなど考えたこともなかったが、週末の夕方にバラの芝生でボサノバライブを聞いてみるのもいいかと考えた。それには二人で来るのが良いに違いない。
 熱風を吐き出すバスが大勢の人を詰め込んで通り過ぎた。太った初老の男女がバスの中でひしめいているのが見えた。小さな真紅のバラを抱えている人が目立つ。優雅なバラの香りが漂っていた。
哲也はこの調布でソフト開発の会社に入って三年になるが、会社から歩いて五分のところにアパートがあるため、深大寺の周辺を気晴らしに散策することが多かった。そんな時に、気まぐれにバラの鉢を買った。だが、手入れの方法が判らずネットであちこち調べていた。そのうちに掲示板で親切な人と知り合うことができた。その相手が女性で同じ町内に住んでいることが判り、とうとう会うことになったのだ。
相手の女性は待ち合わせの場所に深大寺の「なんじゃもんじゃの木」の前を指定してきた。しかし哲也は花や植物に関して詳しくない。なんじゃもんじゃの木がどんな木なのか、どこにあるのかもしらなかった。さらに強度の近視でほとんどのものがぼやけて見えていた。なんとか約束の五時に間に合えばいいと考えていた。携帯電話番号や携帯電話のメールアドレスを遠慮して聞き出さずにいたのだった。
 どこをどう歩いているのかバス通を歩いていたが、林があったりして道がわからなくなっていた。
 どこかで道を尋ねないといけない。店らしき所を探し、暖簾をくぐると素朴なそばの匂いがした。笑顔で迎えてくれたおばさんと眼があった。
「あの、このあたりに、なんじゃもんじゃの木ってのがあるって聞いたんですが......」
 笑顔のおばさんは一瞬瞬きをしてから頭を傾げた。
「そうだねえ、なんじゃもんじゃの木ならこの店の前の坂道を登ってさ、突き当たりの嚏字路にある太い木がそれだよ」
 哲也は言われた通に歩いてみた。古いそば屋が何件も並んでいた。水車があったり、龍の形をした鉄の口から水を流していたりと歴史を感じさせた。
 言われた通に歩いていたが、それらしき道にこない。約束の時間は迫ってくるが、たどり着けそうになかった。辺りは木が多いためか夕暮れが早いようにも思えた。果たしてなんじゃもんじゃの木とはどんな木なのかを聞いておけばよかったと後悔した。
夕闇が木立を黒く染め、ムクドリの羽ばたきが木陰から聞こえた。時計を見ると約束の五時を遥かに過ぎていた。目の前にはのっぺりとした大木が立っていた。巨木は大きな枝を力強く広く伸ばしていた。巨木がなんじゃもんじゃの木だと知るのは後のことだった。すっかり暗くなった道を哲也は大きな街道まで戻った。
 彼はアパートに戻ってから、なんじゃもんじゃの木をウェブで探してみた。「その土地の道しるべとなる巨木で、6月にはヘリコプターのような形の白い花が咲く」ということが分かった。彼女はどこからでも見える巨大な木なら目印にいいと思ったのだろう。即座に哲也はメールを打ち込んだ。道に迷ってしまい、どこになんじゃもんじゃの木があるのかが分からなかったことを。さらに勇気を出してあまり眼がよく見えないことを書き添えておいた。それから明日の日曜日にこそ確実に会うことができるようにと自分の携帯電話番号を書き添えておいた。
 メールの前後から想像して、彼女は神代植物園で働いているか、深大寺のどこかの花屋で働いているのではないかと思っていた。バラのことを質問しても即座に的確な答えが帰ってきた。それが趣味からくる知識なのか、専門的な知識なのかは分からない。
 夜中に彼女からメールが届いた。約束の5時から三十分、待っていたこと。バラフェスタでいっしょにライトアップされたバラ園を見にいきたいがライブ演奏には興味がないという。仕事ガ終わった五時になんじゃもんじゃの木の前で赤いふうせんを持って行くという。最後に嫌われるかもしれないと書き添えてあった。
 哲也は不思議だった。赤いふうせんは、こちらから見やすくするためだろうが、ライブには興味がないというのはどうしてなのだ。思ったよりも年長の女性なのかもしれない。それに今回も携帯電話番号を教えてくれなかった。
 とりあえずはバラの栽培のアドバイスのお礼をする。そして神代植物公園でバラ見物といきたかった。
 翌日の日曜日、早めになんじゃもんじゃの木の前に行っていた。哲也はなんじゃもんじゃの木のそばでじっくり眺めた。あまりにも巨木で高さがどこまであるのか分からない。花が雪が降ったように咲くとはどんなものか想像できなかった。そうしている間にも緊張していた。時計を見ると五時までには十八分ある。
 彼女のメールの書き込みを思い出した。
「バラは絶えず病気との戦。害虫にも狙われる。でも心をこめると必ず大輪の花弁をつけて答えてくれる......」
 バラに感情移入する女性とは、何か秘ごとがあるに違いない。
 哲也は普段は箪笥にしまいこんである黒縁の眼がねをかけてきた。部厚い眼鏡をするのは恥ずかしかったが、彼女の姿をはっきりと見ておきたかった。
 カラスの群が騒がしく声を上げて深大寺の屋根の上を飛来した。静けさが増した。
 道路から視線を上に上げると一人の女性がこちらに向かってきた。哲也の胸は締め付けられるように呼吸が止まった。近づいてきた女性の手には赤い物が見えた。風船を持った女性がこちらを見ている。その眼は恥じらいで下を向いた。痩せた肩、乾いて薄い額の上にカールした前髪があった。彼女は顔を上げ真剣な顔をしてから、細い腕を動かした。彼女は自分の耳に手をあてて両手でクロスした。
 黒縁の目がねに張り付いた薄暗い空は動かず凸レンズに隠れた石灰石のような瞳は動かない。二人の間に重い沈黙があった。哲也は彼女の目を見つめてうなずいた。これまで携帯電話の番号を教えてくれなかったことも、ライブには興味がないとメールに書いていたこともなにもかも納得することができた。
 彼女は鞄からメモ帳を取り出してボールペンで書き始めた。
「私は神代植物公園の職員です。バラの栽培が専門です。私の育てたバラたちを見てください。それから、あのバラは元気にしてますか?」
 哲也はポケットから写真を取り出して見せた。バラの写真を覗き込んだ彼女は初めて笑った。哲也は彼女の持っていたメモ帳にボールペンを走らせてお礼の言葉を書いた。顔を見ているよりもメールのやり取りの調子が出てきて切れ目なく文字が出てきた。
 彼女は薬害で高熱から耳が聞こえなくなったという。何年も病気と闘ってきて、花に癒されてきた。そしていつしかバラを栽培する仕事についたのだと言う。
「ねえ、これってチャットしてるのと変わりないね」
 彼女は上目図解をして見つめてから
「これはチャットではありません。筆記ですから......」
「そうか筆記ですか、それならチャーント筆記します」
 哲也は「チャーント」の横線を長く引っ張った。彼女はそれを見て笑い声を上げた。無邪気な笑い声だった。彼女の持っていた赤い風船が振動した。早船哲也はそれを見て思いついた。風船に向かってハミングした。風船は細かく震えた。
「野外ライブに風船を持っていこう。こんな風にするんだ」
 風船を彼女に触らせて声を出してみた。彼女は風船をしばらく触ってからニコニコしてウナズイタ。
 哲也は彼女の前に手を出した。彼女は自然に手を握ってきた。そして二人は神代植物公園に向かって歩いた。
 二人の後ろ姿は、植物公園の大勢の人たちに紛れてしまった。

(了)
 
-----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
大谷 重司(東京都調布市/48歳/男性/鍼灸師)

「俊彦、久しぶりに深大寺に行っておそば蕎麦でも食べようよ!」
姉の香織が僕を昼食に誘ったのは、五月のよく晴れた土曜日の昼前で、なかば強引に連れ出された。
 我が家は調布市の野川のほとりに位置し、深大寺にも徒歩で気軽に行ける距離にある。普段は感じないが、年末年始などの時期には、渋滞の車を尻目に見てかっぽ闊歩することに優越感を見出していた。
 姉はこのところ上機嫌だ。挙式が来月に迫っており、公私ともに充実しているからである。
 「俊彦、今日は恋愛がじょうじゅ成就する方法を教えてあげる。方程式と呼んでもいいかな?」
 「えっ、何それ?そんなの本当にあるの?」
僕は立ち止まり、姉の顔をまざまざと見つめてつぶやいた。
 「ふふっ、あんたも興味があるんだ!」
姉はニヤッと笑い、僕の気持ちを見透かすようにいたずら悪戯っぽい目で僕の顔を見つめ返す。
 「そりゃあ、誰だって気になるよ、そんなことを聞けば!」僕は照れながら言い返す。
 「ごめん。少しからかってみたかったの。でも、方程式は本当にあるのよ。実際に私が実践したんだから!」
 姉は真顔になり、いつになく興奮気味に話しかける。
 「深大寺が縁結びで有名なのは知っていると思うけど、ただお参りすればいいというものではないの。他にも大切なことがあるのよ!」
 ジーパンに赤いトレーナーを着た姉の歩く速度が落ち、会話に熱がこもる。
 綿のスラックスに半袖のポロシャツを着こんだ僕も、姉の熱意が伝わってきたようで次第に汗ばんできた。  
      
 姉は俗にいうみそじ三十路である。大学の同級生との失恋が尾を引き、しばらく暗い生活が続いた。その後、失恋の痛手から立ち直り、勤務先の先輩と職場恋愛を実らせ、寿退社へと着実に人生を歩んでいる。
 「これから言うことは茶化さないで、真面目に聞いてちょうだい。でも前もって話しておくけど、一番大切なことは相手への思いやりなの。忘れないでね」
 今日の姉の言葉にはいつもと違って、妙に説得力があり、素直に僕の心に響いてくる。
 いつの間にか僕たちは住宅街を通り過ぎ、深大寺の門前へと続く歩道を歩いていた。
 歩道の両側にはそばや蕎麦屋が目立ち始め、盆栽・庭石などの造園業、みやげ土産物屋、喫茶店なども視野に入ってきた。

 深大寺は浅草寺についで古い歴史を持つ寺で、厄除け、商売繁盛、縁結びのご利益がある寺として有名である。
僕たちは我が家のしきたりに従って、門前通りから山門へと向かった。門前通りの両側には店頭に各種の土産物を置いた店が立ち並び、老若男女でにぎ賑わっている。
僕たちは門前通りの賑わいを眺めながら山門をくぐった。この山門は桃山時代の建築でケヤキを使い、分厚い草葺の屋根が落ち着いた雰囲気をかも醸しだしている。
本堂を礼拝し、次に良縁じょうじゅ成就を祈願する元三大師堂にも二礼二拍手一礼で礼拝した。
毎年、三月の三日・四日には厄除け元三大師大祭が催され、同時に催されるダルマ市は日本三大ダルマ市の一つとして有名である。
深大寺周辺の土産物屋には大小のカラフルなダルマが居並び、代表的な土産のひとつとなっている。

境内を出ようとした時に姉がおもむろに話しかけてきた。
「俊彦、当たり前のことだけど、お参りはできるだけ好きな相手と一緒にした方がいいのよ。時期は正月でなくてもいいから。深大寺を案内するからと言って、立ち寄ることがポイントなのよ!植物が好きなら、神代植物公園に行った後に立ち寄ればいいの」
「なるほど、自然にふるま振舞えばいいんだね」僕は素直に納得し、次の言葉を待った。
「そして、ダルマを買うの!」
「えっ、どうしてダルマなの?受験とか選挙ならわかるけれど」
「縁起ダルマとしてちい小さなものを買うの。好きな相手と2人で来たときには、二つ買うのよ。そして、ここからがミソなの。ダルマの目にはハートのマークを入れるの。色はできれば赤がいいわねぇ。そして、相手が入れたものを一つずつ持ち合うの」
「うーん。それって、子供っぽくない?相手に馬鹿にされそうだけれど!」
僕は照れ気味に反論したが、姉は強気に言い放った。
「男性には理解できないと思うけれど、女性はかたち形があるものを持ちたがるの。女の習性かもしれないけれど、持つことで不安が解消されるの。女には形あるものが必要だし、なぜかひ惹かれるのよ」
「そう言われると、そんなものかなぁと思えてきたけれど。女って、本当に不可解だね」
「そうよ、だからおもしろ面白いのよ。女は単純に見えて、単純じゃないの。女のさが性は怖いのよ。指輪を欲しがるのも女の習性なの。愛の究極の形としては、妊娠することかもしれないわね。愛の証として子供が欲しくなるものなのよ。これは余計なことだったわ」
僕は複雑な気持ちで姉の言葉の意味を理解しようとしていた。
それを察知したように姉が話題を変える。
「さあ、お昼にしましょう」
僕たちは近くのそばや蕎麦屋に入り、それぞれ好みの蕎麦とビールを注文した。
「ねぇ、俊彦、彼女とはうまくいっているの?正直に話しなさい」
姉はおいし美味しそうにビールを飲みながら、僕の目を笑顔で見つめる。
「うん、まあまあだね」と僕は取りあえずあいまい曖昧に答え、ビールに口をつけた。
僕は二十七歳になるが、結婚についてのあせ焦りはない。姉と同じように、勤務先に恋人がいる。関係はうまくいっていると思っている。
「彼女を大事にしなさいね。さて、さっきの続きだけれど、もう一つ大切なことがあるのよ」
姉が真顔で話し始めた。
「二人で深大寺を参拝した後、名物のおまん饅じゅう頭をお土産として相手の家に持ち帰らせるの。これがとても大事なことなの」
「どういう意味があるの?」と僕は思わず聞き返した。
「現代っ子はカラッとしていて、なかなか気づかないけれど。相手の両親に対するきづか気遣いなのよ。情緒のあるところをそれとなく見せるの」
「なるほど、よく理解できるよ。お饅頭なら、嫌いな人はほとんどいないからね」
「そうなの。気のき利いたところを見せて、ご両親の歓心を得るのよ。お饅頭といえども、お饅頭の効果ははか計り知れないものがあるの!馬鹿にできないアイテムなのよ」
「姉さん、よく判るよ。もちろん、婚約者には実践したんだよね?」
「当たり前でしょ。実践して結果が良かったから教えてあげてるの。あまり知れ渡ると効果が無くなるから、気をつけなさい!」
 「姉さん、ありがとう。必要な時がきたら、試してみるよ」
「馬鹿ね!試してみるのではなく、後がないと思って真剣に行動するのよ。思いやりを持って実践しないと、相手にも気持ちが通じないし、決してうまくいかないから!」
「ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。今日、姉さんが話してくれたことは大切にするよ」
二人とも笑顔でビールを飲み干し、注文した蕎麦にはし箸をつけ始めた。

僕たちは蕎麦屋を後にし、再び歩道を歩き始める。
豊かな自然のなかをゆっくりと歩く。静けさが気持ちよく、一歩一歩踏みしめて歩く。なぜか歴史の重みを感じ始めていた。
僕にとっての深大寺が大きく変わろうとしていた。
姉の話を聞いたからなのだろう。深大寺へのイメージが今までと異なり、より近づきやすいものに思えてきた。
縁結びの神様をまつっている深大寺。その深大寺の周囲には豊かな自然や花と緑が満ち溢れている。
このような環境のなかで、神様は静かに恋人たちを見守ってくれるのだろう。神様にも静かな環境は必要だ、と僕は思う。そうでないと神様だってきっと、間違った判断をしてしまうのではないだろうか。
その結果として、相性の悪い相手と縁を結ばれては泣くに泣けない。
姉の言うとおり、神様にお祈りするだけでなく、思いやりのある行動をとるべきなのだろう。とるべきというよりも、必然的にとってしまうのだろう。
姉のような感性があれば、自然に生きていくすべ術が身につくのかもしれない。そこにちょっとしたエッセンスが加われば、より確かなものになっていくのだと僕には思えた。
そんな姉がいと愛しく思えてきた。何か言わなければと口を開きかけた矢先、僕は腕をつかまれていた。
「いけない。美味しいお饅頭を忘れていたわ!店を教えてあげるから戻りましょう」
僕たちは深大寺へと再び足を向けた。

(了)
 
-----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
柳場 篤(埼玉県入間市/53歳/男性/会社員)

「また行くの?もう暗くなるのに」
「コンクール、近いから」
杏子は授業の終わりとともにあわただしくかばんを肩にかける。
「ねえ、もう水連も終わりなんじゃ・・」
背中にかかる友人の声に聞こえないふりをして、杏子は足早に教室を出た。

杏子の通う都内の美術大学から、電車とバスを乗り継いで45分。
調布市のちょっとした観光名所といえば深大寺である。
杏子はここに隣接する東京都立神代植物公園へ、水連の花を写生するために通っている。
「いつもいつも、がんばってるね」
植物園の受付のおじさんにはもう顔を覚えられたらしい。
閉館間もない時間、ばたばたと走って植物園にくる若者はそういないのだろう。
まっすぐに水連の池に向かい、スケッチブックを広げる。
9月も後半の、ようやっと秋の声の聞こえる今の時期、水連は公園内に建てられた温室にも見ることができる。しかし杏子は、池でひっそりと咲く和ものの水連の、派手でないながら凛とした美しさが好きだった。水面からそっと上に向いて開く桃色の花弁を見ると、自分も少し空を見上げたくなった。
しかし目の前の景色は、広げたスケッチブックのものとは、もう異なっていた。
水連の時期は終わりかけ、絵の中のみずみずしい花弁とは対照的に、しおれかけた花びらが水面にたれている。
もとい、杏子のキャンバスのなかの水連はもう細部まで綺麗に下書きをされ、これ以上写生として手を加える必要もないものにも思えた。
申し訳程度に鉛筆を滑らせて数十分後、閉館の案内が流れはじめた。

スケッチブックを脇に抱え、植物公園を出て深大寺の中を歩く。
ゆっくりと、自然を感じながら。
そして曲がり角の蕎麦屋に差し掛かったとき、無意識に敏感になった目がある姿をとらえ、心臓がどくんと跳ねる。
ちょうど、背の高い青年が屋外のテーブルを拭いているところだった。
深大寺のなかの、ある蕎麦屋の次男坊。名前は将義という。

杏子がはじめてここに来たのは半年前だった。
東京で花の写生なら深大寺よ、と断言した大学の先輩は、その日のうちに杏子を京王線に乗せた。
ひとしきり大きな公園を案内したあと、「深大寺といえば有名なのは蕎麦!」と連れてきたのがこの蕎麦屋だった。
正直、杏子はそのときの蕎麦の味など思い出せない。
何度思い返しても、うつむき加減にエプロンで手を拭くあの後ろ姿が浮かぶばかりだ。
 心臓の音を隠すように、ただただ味のしない蕎麦を夢中ですすっていた。

それから杏子は、時間の許す限り調布に通い続けた。
美大の忙しいスケジュールと、来るまでにかかる時間のため毎日とはいかなかったが、できる限りの時間を尽くして植物園の門をくぐった。
誰かに言い訳をするかのようにスケッチブックを小脇に抱えて。
そして帰り道にわざわざ深大寺のなかをゆっくりまわり、そっと蕎麦屋の様子を伺うのが習慣になった。
どうせここまで来たのだから、中に入って食事をすればいいのに、その勇気はどうしても出なかった。

彼の働く店は、屋外にもテーブル席が設けられている。
客にどんぶりを運ぶ彼の姿を見つけると、杏子は真っ赤な顔を隠すように向かいの土産物屋を物色した。
店頭に置かれたでんでん太鼓や、蒸篭でいい匂いをさせてふかされている草饅頭を見るふりをして、神経は杏子の背中の後ろで仕事をしているはずの将義に集中する。
そのときの杏子の体は、自分でも驚くほど五感がとぎ澄まされ、背中からでも彼の表情が見えるようだった。

事実、彼は大きくよく通る声をしていて、客ともにぎやかに会話していることが多かった。
常連らしい年配客たちとの会話から得たところ、この蕎麦屋の次男坊で、大学4年生。
将義という名前も、客たちとの会話から聞こえてきたものだ。
長男はサラリーマンをしていて、ゆくゆくは自分が店を継ぐつもりだ。
今は親に許しを貰って都内の大学の経営学部に在籍している。
「店をやってくから経営も必要かなって思ったけど、あんまり難しいこと考えるのは得意じゃないっすね。感覚で生きてるんで」   
そう言って心地よい笑い声を響かせる将義の顔を目の端に捉える瞬間、杏子は嬉しさともどかしさのない交ぜになった、言いようのない気持ちになるのだった。

今日も杏子は、スケッチブックを小脇に抱えてあの店の前を通りかかる。
いつもの場所に、彼は、いた。
今日は外テーブルに客は座っておらず、将義は空のテーブルを一つ一つ拭いている。
丁寧な動作だった。地味な作業にも手を抜かないどころか、真剣な目で店を見つめる姿からは店への愛着がにじみでていた。
思わずその姿に見入っていると、ふいに将義が顔を上げた。視線がぶつかる。杏子は条件反射のようにぱっと目をそらす。
不自然に思われないよう先を歩こうとした、そのときだった。将義がこちらを向き、ゆっくりと近づいて来た。
こちら側の店にでも何か用事があるのだろう。そう信じ込んでいる杏子のもとへ将義はまっすぐに歩いてきて、目の前でぴたっと止まると、長い指で杏子の手元を指差した。
「それ、見てもいい?」
杏子のスケッチブックのことを言っているのだと気づくのに数秒かかった。
「え、はい、どうぞ」
なにが起きたというのだろう。
言われるがままに突き出すようにしたスケッチブックをぱらぱらとめくっていた将義は、あるページで手を止めた。
「これ、きれいだな。水連」
それはつい先ほどまで杏子が取り組んでいた作品だった。
「植物園のおっちゃんが、いつも言うんだ。閉館ギリギリまで絵を描いてるコがいるってさ」
「植物園、行かれるんですか」
「ああ、なにしろこんな近くだからな。それこそガキのころは、動物園か遊園地みたいに通ったよ。」
聞けば将義は生まれたときからここに住み、深大寺と植物公園を庭のようにして過ごしてきたのだという。
「水連、今年もきれいに咲いてたな。でももう枯れてきてるだろ?」
 その彼の口調は、自分の店やそばについて話すときのそれと似ていた。
しばらく杏子の水連に目を落としていた将義は、やがて口を開いた。
「これ、ゆずってもらえないかな」
「えっ?」
「店に飾りたいんだ」
あまりの突然な申し出に、杏子は動揺した。そして次の瞬間に発した言葉には自分でも驚いた。
「コンクールに、出そうと思って」
たしかに友人にはそう言っていつも写生に来てはいたが、正直そこまでの執着はなかった。せっかくのチャンスに何を言っているのだと、自分に呆れる。
しかし将義は真剣な面持ちで続けた。
「そっか。上手いもんな、出さなきゃもったいないわ。じゃあ、コンクールに出して、この絵が戻ってきたら、くれないかな。それまで待つよ。もちろん、お礼もする」
そう言われて、断る理由など思いつかない。
「そんな、お礼なんて。この絵でよければ喜んで。まだ完成してもいませんけど」
「ほんとに?じゃあ、よろしく頼むよ」
切れ長の目がいっそう優しくなり、笑ったのだと気づく。吸い込まれそうな瞳だった。
別れ際、手を振り彼は言った。
「その絵、もらえるのだいぶ先だな。入賞作ってなかなか返ってこないんだろ」

翌日から杏子は、ますます水連にうちこんだ。コンクールまではほとんど日がなかったが、その間ひたすらキャンバスに向かった。そしてどうにか締め切りぎりぎりに、あの真っ白な水連の写生画を完成させた。
今まで理由付けでしかなかったはずのコンクールが、急に大きなものになっていた。
コンクールの入賞作なら将義の店に飾られても恥ずかしくない、などと考えたりした。

ところが、残念ながら淡い期待は見事に打ち砕かれた。
杏子の水連は何の賞にも選ばれることなく、早々に手元に返ってきた。
期待を裏切って自分のもとへ戻った絵を抱え、杏子はただ惨めな思いを噛み締めた。
入賞できなかったことよりも、将義に褒められた絵なら入賞も夢ではないのでは、などと何の根拠もなく考えていた自分がばからしかった。

あの水連がただの一枚の絵になって戻った日、杏子はまた植物園に向かっていた。
悲しみと悔しさの中でぼんやりと、「絵ができたら見せて欲しい」と笑った植物園のおじさんを思い出したのだ。
 
植物公園前でバスを降りたとき、見慣れた顔と目が合った。
「よう。あの絵、どうなった?」
なにより嬉しい存在のはずが、今はまともに顔を見ることができなかった。
「落ちました」 
ようやくそれだけ言葉を吐き出し、抱えた絵に目を落とす。
将義はなんでもないことのように言った。
「そうか。審査員も大したことねえな。じゃあさ、返ってきたならゆずってくれよ」
そう言って腕を伸ばす将義に、杏子はあわてて後ずさった。
「だめです。そんな、落選した絵なんてあげられません。飾ってもらう資格ありません」
将義は杏子の剣幕に少したじろいだが、しばし黙ってから静かに言った。
「もらえないなら、交換ならどうかな」
そして、杏子を促してずいずいと歩きはじめた。
一瞬あっけにとられたが、杏子もあわててそのあとをついて行った。

着いたのは将義の家である、あの蕎麦屋だった。
いつも前を通っていたが実際に入るのは二度目だ。
将義は奥から段ボール箱を出してくると言った。
「この中で好きなものと交換。」
何がなんだかわからないまま、杏子は言われるがままに箱を見た。でんでん太鼓や赤駒、だるまなど小さなみやげ物がたくさん入っている。
すぐには気づかなかったが、それには見覚えがあった。
それは杏子が将義の店の前を通る際、いつも背を向けて物色していた土産物屋の土産たちだった。
「いつも、見てただろ。何が欲しいのか、わかんなかったから・・」
ふと顔を上げると、照れくさそうに横を向く将義の姿があった。心なしか頬が染まっている。
「結局、どれが欲しかったの?」
将義はばつ悪そうに頭をかいている。杏子は見上げるほどの位置にあるその顔をまっすぐ見つめ、静かに言った。
「あなたです」
 高いシルエットの姿の向こうで、夏の終わりを告げる蝉の声が、力強く鳴り響いていた。

(了)
 
-----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
山谷 枝里奈(東京都調布市/23歳/女性/会社員)

何だか落ち着かぬ様子のボクはさっきから何杯もお茶を飲んでいた。頼んだあんみつには手をつけず、何度も自分の手鏡で髪型を気にし、その時間が来るのを待っていた。
 ボクよりはるか年上、もう二十歳になったであろうか、そんな女性にボクは恋をしていた。原田夏海。ボクが幼い頃によく遊んでくれた、まるでお姉ちゃんのような人だった。一人っこであまり人と接するのが得意でないボクにそっと手を差し伸べてくれた彼女、いつも優しくて元気いっぱいで、そして笑顔がきれいで。ボクは彼女が大好きだった。
 やがてボクは東京から地方へ引っ越し、彼女との連絡もとれぬまま何年か経った。離れてから気がついた、ボクは彼女を愛してるってことを。きっとそれは初恋だったんだ。そして今も、思いは変わらぬままボクの胸に燃え続けている。
 中学三年生、一番大事なこの夏の時期にボクは彼女に会うためにこの町へ帰ってきた。久々の電話での会話、ダメもとで誘った彼女とのデートがもうすぐで現実になる。いつもの待ち合わせ場所、大師茶屋に午後一時。ちょっと懐かしい集合場所だ。ボクは一時間も早く着いてあれこれと考えていた。今日、思いを伝えなければきっとボクは一生後悔したまま生きていくことになる。ボクは決心した。

 告白しよう。

 そんな勇気が自分にあるのか定かではないが、もうやるしかないんだ。好きだって、その一言が言えればボクはそれだけでいい。後はどうなったって構わない。
 店の外は多くの客で混みあっていた。浴衣を着たカップルがやけに目につく。ボクも今日は張り切って自腹で買った涼しげな色をした浴衣を着た。下駄は百円ショップ、髪の毛は朝一番で美容室でカットしてもらった。準備は万全だ。後は心次第。
 ふと、外を歩く人の中に気になる人を見つけた。色鮮やかな浴衣に、髪を上に結わき、うっすらと頬のあたりに化粧を施した若い女性。どこか見覚えのある、くりっとした瞳。まさか。ボクはその女性をよく観察した。間違えない。夏海さんだ。でもなぜ?まだ約束の時間まで一時間以上ある。ボクと同じことを考えたのか?
 あれこれと考える間もなく、一人の男が夏海さんの前に現れた。ボクは胸が急に締め付けられたような感覚に襲われた。夏海さんと同い年くらい、ボクより全然背が高く、キリリとした顔立ちに今時の男らしい格好いい浴衣を着ていた。ボクは席を立ち上がった。夏海さんと男は会話をしながら、大師茶屋の前を去っていった。ボクは泣き出しそうな思いをぐっとこらえ、店を出た。
 来た時より人が多い。二人が動きだしてすぐ店を出たはずなのに、すでに二人を見失いそうになった。こんなんじゃ目で追っても無駄だ。ボクは瞼を閉じた。人の声、靴の音、蝉の合唱、風の歌。聞きとるものはただ一つ、夏海さんの澄んだ声。聴覚を集中させ、溢れ返った音をかき分けて夏海さんの声を探った。
「・・・それでね」
 見つけた。この道の先、きっと二人は深沙大王堂のある方向へ向かっているはずだ。ボクは気持ちを抑えきれず、とうとう走りだした。
 声を追い、いつの間にか深沙大王堂を過ぎて、趣ある道、緑のアーチを進んで行くと、万霊塔の近くのベンチにちょこんと座る二人を見つけた。ボクは息を切らしながら、二人の会話が聞こえる少し離れた所で気づかれないような突っ立っていた。
「でね、四月にある花祭りなんかすっごいの」
 どうやらこの深大寺で行われる祭りの話をしているようだ。花祭りは確かにボクも好きだった。小さな時は一つの祭りも欠かすことなく、二人でよく行ったものだった。
「そっか。じゃあ来年のは行ってみようかな」
 男が言った。なんて味気ない応答なんだろう。格好はよくても意外と不器用そうな印象だ。彼のどこが好きなんだ?そもそも彼は夏海さんのいったい何なんだ?頼むから、これ以上ボクを苦しめないで。
 二人はベンチから立ち上がり、再び歩き始めた。ボクはその後を音もなく追った。
 道の左側、男が右で夏海さんが左に並び、互い違いにカランコロンと下駄を鳴らす。たまに二人のその音が重なると、ボクは息ができなくなる。道の右側、二人から数メートル離れた所を歩くボク、そのボクを必死に追いかけるボクの影はきっと脆く、隙間だらけの闇であろうとボクは見向きもせずに決めつけた。木陰と重なり、消えた影の足跡をむなしさが辿ってついてくる。
 小川に掛かる橋、夏海さんはその上から流るる水の輝きを見つめていた。ゆっくり、そして静かに川は変わることなく涼しげな音を奏で続けた。さらさらと、それは夏色に染まり、光を跳ね返して夏海さんの肌を照らし出すと、ボクはその光にさえ嫉妬した。好きだという気持ちが過剰に、何もかもを否定しようとする。そんな自分が嫌だった。もう諦めるべきなのかもしれない。初めから告白なんて無理だったんだ。二人の後をついてくること事態、おかしなことだったんだ。
「きれいだねー、水。やっぱ夏の川って見てて楽しくなってくるよね」
「そうだね。でもそれを見てる夏海こそ、楽しく見えるよ」
「それどういう意味よー?」
 いたずらっぼく笑みを浮かべながら、夏海さんは男の顔を見つめていた。男は夏海さんをチラと見、川に視線を移した。
「そのまんまの意味だよ」
 まるで恋人同士のようだ。夏海さんの、男に見せるその笑顔があまりに眩しすぎた。こんなキザな男に、何の取り柄もないボクが勝てるはずがない。しかも夏海さんにとってボクは弟のような存在でしかない。ただそれだけの感覚しかきっとないはずだ。ボクはこんなにも愛でているのに。ボクにとっての夏海さんは、もう面倒見のいいお姉さんじゃなく、一人の恋人なんだ。たった一つの、大切な宝なんだ。この気持ち、伝わって・・・

 好きだ。

 二人は山門をくぐって本堂に向かって行った。ボクは二人のいなくなった橋の上でしばらくたそがれた。今ならこの時間はいくらあっても足りない。できれば気のすむまでずっとこの流れを眺めていたい。できれば、ずっと。
 本堂はどこよりも多く、人々が集まっていた。もうボクは完全に二人を見失っていた。それでも二人がどこに向かうか、それだけは承知だった。ボクは重い足取りで人の流れに逆らってひたすら前進した。
 本堂、賽銭箱に飛び込むお金の放つ高い響き。両手を重ね、心で囁く小さな言葉たち。ボクはそんなのを目にしながら、なんじゃもんじゃの木の木陰で休んでいる二人を見つけた。ボクは自分の腕時計に目を向けた。もうまもなく一時、約束の時間だ。ボクはもうあの店に戻る意味をなくしていた。あそこに何が待っているのか、ボクには分からなかった。
「夏海さ」
 改まった声で男が言う。夏海さんも真面目な表情で男を見る。
「俺、今日短い間だったけど、デートできてめっちゃ嬉しかった・・・で、そのぉ・・・」
 ぎこちなさげに男は言葉に詰まっていた。ボクは誰かが告白しようとしている所を初めて見た。生唾をごくりと飲む。足が震えてまともに立ってなどいられない。
「俺・・・その・・・夏海と一緒にいたいんだ。これからも、ずっと。だから、その・・・ダメかな?」
 間接的に言い切った男は顔を赤らめながら答えを待った。はっきりしろよ。好きなら好きって、しっかり伝えなきゃ、お前の目の前にいる恋人が気持ちよく答えが出せないじゃないか。
 夏海さんは困った様子で視線を地面に落としていた。少し涙目の夏海さんの瞳が瞬きをする度にキラリと光る。
「私、実はね・・・すごく大切で、大好きな人がいるんだけど。それはね・・・」
 夏海さんが男の不安に満ちた顔を見た。夏海さんの唇が震えている。二人の鼓動がそのままボクの胸に届き、連動する。ボクは我慢しきれず、その場から逃げ出した。嘘だ。そんな。嫌だ・・・嫌だ!
 ボクは泣いた。泣いて、走って、石につまずきながら、それでも走って、走って・・・大師茶屋の店の前で立ち止まり、その場で泣き崩れた。愛していた。大好きだった。夏海さんが好きで好きで・・・夏海さんがいてくれたから、どんな苦境も乗り越えられたのに・・・もうボクには夏海さんが見えなくなってしまった。

いないんだ、ボクには夏海さんが。
 
通り過ぎゆく人々の中に、ポツリとしゃがみこんでいるボクはきっと邪魔という言葉以外の何ものでもないであろう。邪魔なものは除外される。それが世界の掟だ。ボクは捨てられ、どこか誰もいない所に屍となって放置される。そういう運命なんだ。
 ふと、ボクの頭の上、温かくて柔らかいものがボクを撫でていた。ゆっくりと顔を上げる。ぼやけた霧の中、確かに目に映る夏海さんの姿。なぜ?なぜここに?こんなに近くに夏海さんがいるのにその実感がなかなか沸いてこない。好きじゃないのか?わざわざ夏海さんが来てくれたんだぞ。伝えなきゃいけないことがあるんだろ?言えよ。
 必死に唇を動かしているのに、言葉が喉に詰まって出てこない。言いたい。伝えなきゃ。ボクは大げさに口を動かして、せめて夏海さんに伝わるように言葉を表した。

 す、き、だ。

 それを見た夏海さんはボクと同じようにわっと泣き出し、ボクを抱いた。しゃがんだまま、苦しいだなんて感じもせずにボクは夏海さんに身を委ねた。
「おかえりなさい・・・私の大切な人」
 ボクの瞳からまた涙の粒が溢れた。夏海さんはボクの帰りをずっと待ってくれていたんだ。こんな幸せはない。こんな素晴らしい人はいない。
 ボクは夏海さんを一生守っていこうと、夏海さんを優しく抱擁した。二人の鼓動は不思議と重なっていた。

 気のせいだろうか。すぐそこの木の影、あの男が微笑みながらこちらを見ていたのは。一つ瞬きをしてみたら、姿は一変、それは人間ではなくなった。そしてボクは、分かってしまった。
 その一言を言わせたのは、ずっとボクらを見守っていた、縁結びの神様だってことを。

(了)
 
-----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
小田切 おすた(東京都町田市/18歳/男性/学生)

「恋に燃えたい、燃えてみたいっ!」――。
 鐘の余韻が早春の乾いた空気を揺らし、烏の鳴き声と交錯して遠くへ流れていく。池に浮いた枯葉が一つところに溜まって動かない。山門前の出店では、そばまんじゅうを蒸す湯気が幟旗を包み、まだ時の流れが遅く、温もりが恋しい季節を実感させる。出店に並んだ達磨の赤が、色の乏しい参道で賑やかだが、白目を剥いたその姿は、どれもが目玉を入れてくれるのを待ち望んでいるかのようだ。刹那、池の鯉の跳ねる音が〝動〟を感じさせた。
「おっと危ない! 踏まれちゃうところだった。こんな日に出てくるんじゃなかったかなぁ。うぅ、怖ゎ...だけどなぁ、オイラだって彼女見つけたいしよぉ」
 人混みを器用に交わしながら、独り言を呟いてみる。流されるように歩く人たちからは、誰も返事などあろうはずもない。
「オイラの初恋、どうせ手ほどきを受けるなら、ちょっぴり歳上がいぃな。熟女はダメさ。お袋みたいな女じゃ、何だか罪深くっていけない。そうだなぁ...オイラより二つ、三つ上が理想だよね。ウフッ」
 いわゆるナンパというヤツである。しかも相手を絞り込んでいるようだ。しかし世の中そんなに甘くはない。ジグソーパズルのピースが一発でピタリと合うことがないように、理想の異性が見つかるなんて確率は極めて低い。多くが妥協し、ピースを強引に押し込んでいるのだ。あるいは、その先の目的さえ達することができれば、それで良しと最初から相手を選ばない場合もあるが。
「あっ、お色気光線を飛ばしてくる女がいる。ダメダメ、あんなションベン臭い小娘なんか、オイラはゴメンだね」
 聞こえたのか、ションベン娘は睨み返している。
「バ〜カ! フンッ、なんだぁ? アッチの白粉臭い年増は。お高くとまってやがる。あの器量で気取るとは、チャンチャラ可笑しいや。こっちもバ〜カ!」
 年増も聞こえたようだが、好意ととったのか、ニコニコしている。
「おっ!? この色っぽい声は...いたーっ!! あの艶はまさしく理想の歳上だ。きっと二つ違いだぞ。さぁ、どう攻める...だけどなぁ...フラれたらどうする...やらずに後悔するより、やって後悔したほうがオイラの生き方には合っているんだ。いくぞ...だけどなぁ...さっきの小娘も年増もこっちを見てるしよぉ...無視されたらみっともねぇよなぁ...」
 意外と女々しい。
「偶然を装えばいぃんだな。さりげなくすれ違って...そう、さりげなく」
 さぁ、気持ちを高めて。
「あ、あ、あのぉ...」
「アタイに何か用?」
「い、いぇ(まさに二つ歳上。フェロモン大放出だぁ〜!)」
「用がないのなら、ちょっと失礼」
「ま、待ってくださ...」
「まだ何か?」
「うっ!」
「あらイャだボク、鼻から血が垂れてますよ」
 おっと、若さが出た。
「あ、いぇ、これはさっき生肉を食べたもんですから、そのぉ」
「まぁ、朝から豪勢ね」
「よ、よかったら一緒に食べませんか? 生肉」
「魚? それとも鳥?」
「さ、魚です」
「ふ〜ん、生魚ねぇ」
「は、はぃ」
「やめておくわ。じゃぁね、そこ、どいてくれる? ボク...というより坊やのいるところ。向こうへゆきたいの、アタイ」
 子供扱いどころか、赤ちゃん扱いだ。さてどうする?
「ぼ、坊や、ですか」
「違って? だってぇ、男の匂いがしないんですもん。ひょっとして...」
「オ、オイラは男です! だからこうしてお姉さんに...」
「アタイに?」
「そうです。お付き合いを...」
「オホホ。可愛いこと云うわね。ママゴトはもういぃわ。アタイはお腹空いてるの」
「だから、魚を」
「魚はアタイ、食べないの。あの生臭さが嫌いなの!」
 もう作戦を変えなさい。魚が餌じゃぁ釣れません。
「じゃぁ鳥だったら...」
「オラオラ! 坊やにお嬢ちゃん、そこでさっきから何乳繰りあってるンでぇ」
 ほら、もたもたしているから、横恋慕が入った。
「お嬢ちゃんって、ひょっとしてアタイのこと?」
「他に誰がいるってんだぃ!」
「失礼ね! この子を坊やと呼ぶのは分かるけど、アタイはお嬢ちゃんじゃないわよ」
「お嬢? ハハッ、確かに違った」
「違う? じゃぁ何よ」
「安っぽいズベ公だな」
「し、失礼ねっ! アタイがズベ公なら、アンタはゴロツキじゃない!」
 坊やはズベ公とゴロツキの罵り合いに加われず、オロオロするばかり。
「ゴロツキとはまた云ってくれるねぇ、ズベちゃんよぉ」
「ンまぁ〜! 憎たらしい!!」
 坊や、ここは割り込むべきよ。
「あ、あのぉ〜」
「なんだ? 坊や」
「何よ、坊や」
「その女性はオイラの...」
「女だとでも云うのかぃ?」
「ちょっとぉ、冗談やめてちょうだいよ! アンタみたいなオシッコ臭い坊やと付き合うだなんて」
 坊や、負けるな。
「オイラだって彼女探しに来てるんだぃ!」
「坊や、だったらアッチにいる、もっと小娘にしときな。お似合いだぜ。このズベちゃんはオレと付き合いたいんだとよ」
「ちょっと! いつアタシがそんなこと云ったのよ」
「分かってるって。男欲しいってぇ匂いが出まくってらぁ。別に相手してやっても、いぃんだぜ?」
「や、やめてよ! 気持ち悪い」
 坊や、ココで男を見せるの。
「よ、よせよ、嫌がってるじゃないか!」
「坊や、声が震えてるぜ」
「や、やるか?」
「相手になってやってもいぃぜ」
「(...ココじゃぁ場所が悪い)」
 坊やは走った。
「おっ! なんでぃ」
 ゴロツキは、ガムシャラに追いかける。
「そっちから喧嘩売ってきながら、いきなり逃げるのか?」
「逃げるんじゃないやぃ。かかって来〜ぃ」
「そ、そんなところをくぐりやがって!」
 坊やは垣根を抜け、続く太めのゴロツキもどうにか抜け出した。さらに人ごみを抜け、塀を駆け昇った。
「意外とすばしっこいじゃねぇか」
 坊やは塀の上を器用に走る。
「こんな細いところを逃げやがって」
 坊やが走ってきたのは駐車場だった。
「ハァハァ...坊や、ココでやろう、ってぇのかぃ。OK。そう唸ってばかりいねぇで、いつでもかかってきな」
 これが坊やの作戦だった。息の荒くなったゴロツキに対して、坊やはさすがに若い。
「いくぞ!」
 後ろに回った。
「速い! クソ坊ずめ、どこ行きやがった」
「そこだ!」
「痛てててッ! 耳に噛み付きやがったな。痛ッ! 今度は背中を引っ掻きやがった」
 坊やにとっては、若さこそ武器だった。
「堪らん!」
「坊やなんて呼ばせない!」
「分かった、分かった! 勘弁してくれ――」
 ゴロツキが逃げたのを見届けたのか、ズベ公がゆったりと、そして腰を振りながら歩いてきた。
「意外と強いのね。気に入ったワ」
「フンッ! どうってことないやぃ」
「でも足を怪我してるわよ。アタイが舐めてやる」
「やめてくれよ、自分でやるから」
「遠慮しないの」
 坊や、まんざらでもないような。
「強い男となら付き合ってもいぃのよ」
「フンッ! なんだぃ、今さら」
 ちょっと強気の坊やである。だがそこはズベ公、恋のベテランだった。
「その強がった態度が可愛いわね」
「くっついてくるなよぉ。そんなところを舐めるなって。よ、よせったらぁ」
「ウフッ、可愛いわ、坊やったら。アタイが〝女〟を教えてあげるから、さ、こっちへいらっしゃい」
 呆気なく陥落した。二匹の猫は、お尻を擦り合わせながら藪の中へと消えていった。早春は、深大寺の猫にとっても恋の季節である。その山門前で、二匹の恋の行方を追う二つの目があった。深大寺門前の出店に並んだうちの一体の達磨である。恋の成就のお礼のためか...と思いきや、どうやらそれは鯉の鱗だった。

(了)
 
-----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
佐竹 喜信(東京都新宿区/46歳/男性/会社員)

ようやく、第3回深大寺短編恋愛小説 正式公募ポスターが出来ました!

第3回 深大寺恋物語 公募ポスター

調布の街中にお目見えしますので、よろしくお願いいたします。

八重はときどき熱い夢を見る。
今日のも変わった夢だった。いつの時代か分からない大昔だ。深い森の奥から突然大軍が攻め寄せる。甲冑の赤い色が鋭く光る。大振りの鉄剣をかざした敵は強く、味方は次々と倒される。敵は土地と水と女を奪いに来た。逃げろ。音は何も聞こえない。身体の芯が震える。気がつくとひとり荒涼とした高台に取り残されていた。そのときだ。小型の馬に跨った単騎の若武者が、遠くから自分を見ていた。はるか向こうだ。でも男の顔がすぐ目の前。なんて美しい顔、と思った瞬間、くらっとなって目が覚めた。・・・・
 今日のバイトは忙しかった。ネット販売の深大寺蕎麦がよく売れた。パソコンでの注文処理と、紹介ページの更新。やっと一息つく。昔からこの土地は水が豊かで、早くから開けた。今でも細い清流が木立の中に幾筋もある。あれは古代からの名残り。森はもうないが、雑木林は残っている。太く古い樹木が多い深大寺界隈を、八重は気に入っている。ことに植物園の裏手の街路樹の道。紅葉の季節はお気に入りの場所だ。深大寺までのわき道から望む八雲台の方角には、もっと大きな森の名残りがある。一度行ってみたいと思っていた。
 ・・・友達からメールが来ている。合コンの誘い。行く気になれなかった。素敵な誰かに出会える可能性はゼロ。行ったら行ったで、お酒や食べ物はそれなりにおいしいけれど、何か新鮮なことが起きる期待はない。八重なんて古風な名前だね、から始まるパターン。へぇー深大寺に住んでるの、府中の方だよね。違うよ調布だよ。そして、結局、それだけ。・・・
 熱い夢を期待するようになった。
 左右に敵と味方が向かい合っていた。周囲は深い森で、真ん中がぽっかりと空いた巨大な円形競技場。どちらの軍勢も動かない。敵は圧倒的に組織立っている。甲冑や武器が斬新で統制の取れた隊列。味方はぼろ毛皮を着て棍棒を構えただけの雑兵ばかり。必死だから迫力が熱気になって伝わる。突然、鐘が鳴り渡った。兵士の手元の銅鐸型の楽器から一斉に音が放たれたのだ。それが突撃の合図。あとは入り乱れての白兵戦。人間はこんなに簡単に殺されるのか。仲間の血の流れが細い川を作っていく。血が透明になる。最後の叫びは同じ言葉で、蹂躙される屈辱と敗者の恨みが、渦巻いて、森に吸い込まれていった。・・・
 あの銅鐸は本当に楽器だったのだろうか。
八重は祭りの準備を手伝いながら思った。金管と打楽器のミックス音。不思議なリズムで腹の底まで響いた。あの音をもっと聞きたい。
 祭りは、有志が集まり、新作の盆踊りがメインの地元密着型。テーマは「ロハスな昔を思い出そう」。屋台も出て結構賑わう。知らない男にまた声をかけられた。この平凡な田舎顔の責任ではないけれど、もっとましな奴はいないのか。・・・
船に乗っていた。大海原だ。いや大河か。船団は大船が5隻。先頭の船が一番豪華。船上の飾り物はまるで祇園祭の山車みたいだ。
 自分はかしづかれている。大勢の女官が話している言葉は日本語ではない。なのに意味が分かる。どうやら自分はどこかに嫁ぐ途中らしい。えっ、結婚願望でこんな夢を?・・と思うということは、やはりこれは夢だ。
 かすんでいた陸地が見る間に迫った。神輿のような乗り物に乗せられて、わっしょい、わっしょい、浅瀬を岸辺まで運ばれる。あ、木陰に隠れたあの影。あれは例の若い男?・・
 
 大学の同級生だった高木君からいきなり電話があった。会いたいという。何年ぶりだろう。そんなに親しくもなかった人。ま、いいか。会うくらいは。深大寺にお参りしたいという。わけが分からない。
 境内から懐かしげに東の方角を眺めて、高木君は今外国にいるのだと言った。なんとなく小汚いし陽に焼けてるし、きっと先進国じゃないなと思って聞いてみた。え、パリ?うっそー。ほんとにそんなんでフレンチかよぉ。ヴィトン、エルメス、ルーヴル・・と言葉を追って想像していたら、違っていた。インドネシアのバリ島に暮らしているのだそうな。なんだ、バリね。
 何のために?・・彼は答えなかった。第一、なんで今頃?。なんで私に?・・・
 質問が次々に浮かんであやうく聞き始めるところだった。不思議とこの人はめんどくさくない。でも聞くのはやめた。彼の方もあまり自分のことは話さない。しょうがないやつ。自分から呼んでおいて。あげくに、何食べる?だってさ。フランス料理くらいご馳走してみろよ。付き合ってあげてるんだから。
 本当にフランス料理に連れて行かれた。高木君が一生懸命話したのは、バリの3大神のこと。シヴァにブラフマにヴィシュヌ。破壊と、創造と、保存の神様。それがどうしたの?
 バリ島のバロンダンスは正義のバロンと魔女ランダの戦いだ。魔女の方が強いから大概バロンが負ける。でもたまに勝つ。2勝8敗くらい。神様同士だから、死んでも生き返り、勝ったり負けたりで、結局戦いはエンドレス。永遠なのだそうだ。で、3つの神様は、要するに破壊して創造してそれを保存して、これも繰り返しでエンドレスだって。つまり高木君によれば、これが世界の秩序と運命を表している。正義は大体が負けても2回くらい勝つから希望を持ってもいいんだって。へーぇ。
 本当に久しぶりのフランス料理はおいしかった。夢に出てくるのかしらと思ったが、しばらく夢は見なかった。・・・・・
 
国は乱立し、大国は砦と館を囲う城壁と防御の水壕を巡らせた。小国は物見櫓の周囲に集落を円環状に配置した。国は奪い、奪われ、征服し合い、大きくもなり、滅びもした。
 自分は先住民の皇女だ。はるか西域で鉄と水を支配した強国が今度の相手。負け戦になる。決戦場は森の中の高台。夥しい死体が丘を埋め尽くすだろう。鉄の鍛冶場を奪われれば武器も農具も作れない。水場を奪われれば暮らしが成り立たない。敵の使者がやってきた。すべてを差し出し国を譲れという。和睦の条件に皇女を欲しいとはっきり告げられて、側近たちは色めきたつ。私が相手の王のもとに下れば、みな殺されずにすむのだ。使者は祭儀の神官の姿で、これは国と国の結びであるという。私は、血なまぐさい鬼の姿を思い浮かべて怖気づいた。結びの神官が言う。いや、王はそれは若々しく、美しい顔立ちをされている。あなたを決して不幸にはしない。いやじゃ、いやじゃ、信じるものか。叫んだ声は声にならなかった。・・・・
 夢から醒めて汗ばんでいたのは初めてだ。
 今日、高木君を空港まで見送りに行くかどうか、迷いながら眠ったせいだ。どっちでもいいようなことを彼は言っていたが、バリ島に戻ればしばらく会えないね、と言ったのは、やっぱり最後に会いたいのだ。
彼が韓国人だったなんて、初めて知った。学生時代は誰もそんなことを言わなかったし、全然違和感はなかったし、とにかく彼は日本人だったもの。就職とかで色々あったのかも。
 最後のデートは、植物園の桜の木の下で、この森がもっと深くて大きかった時代ならよかったね。高木君はそう言った。どういう意味? それって、告白?
 今まで近寄れなかった。間にたってくれる友達もいなかった。自分から声をかける勇気はあったが、そうしたとたん、君に好きになってもらおうと、僕は必死であらゆる努力をしただろう。それで、もし君が僕を好きになってくれたら、それは最高だけれど、それは僕が君を無理やりそうさせたのだと、一生引きずるだろう。だから、何もできなかった。
 え、え、え、・・・なにそれ。ややこしすぎるよ。理屈っぽいよ。なんでもっとストレートに。・・・
八重は空港に行かなかった。
・・・・
花火があり、蕎麦祭りがあり、大晦日に初詣、だるま市・・・また年をとった。そして、やっと、久しぶりに夢を見た。
私は女帝で、大きな国を統べている。森は豊かに広がり、高台に遠い日の戦さの記念碑が建った。神々は死に、奉られ、やがてもっと大きな戦いのときが迫った。
私は寝所で、汗ばんだ肌着を肩から脱ぎ、相手の男の前に立っている。男の顔は影になって見えない。決断のとき。私がこの男を刺すか、あるいは、抱きしめるか。それでこの国の運命が決まる。新たな時代を拓くためには、いっそこの国と、私自身もろともを、この男のもとに差出そうか。・・・
不意に音が始まった。最初は鐘のような金属音。そして、低く太く、竹筒の空洞を渡ってくる地響きが腹に届く。私は落ちていく。舞いながら空中を飛ぶように、落ちていく。
・・・・
目が覚めたとき、開けたままのパソコン画面がちかちかしていた。
エンタキーを叩いた。画像が復活してくる。バリ島のどこかの村の光景。大勢の人が集まって、向かい合った演奏団の競演を聞いている写真。ジェゴグという太い竹筒のガムラン楽隊が、村の代表で競いあう演奏。その脇に写っているのは、間違いなく高木君だ。
昨夜、偶然、この画面に行き着いたのだ。

会いに行こう。八重は思った。
そうだ。会いに行こう。でも、その前に、深大寺でお守りを買わなければ。確か根付の鈴のような、小さな鐘の形をしたのがあった。あれを買おう。身体の中で音が始まりそうだ。これは森の音だ。昔からこの地にあった音。森と水が育んだもの。鉄と、戦いと、人間の血が、聞いてきた音だ。
八重は、その音を聞きに行くのだと決めた。

(了)
 
-----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
八木澤 峻(東京都調布市/51歳/男性/会社員)

小金井街道を真っ直ぐに三鷹方面に向けて車を走らせていると、道が急に右手に大きくカーブする。その手前、緑のこんもりと覆い茂った参道を抜けると深大寺だ。
ここは私の子供時分の遊び場で、春は花見で賑わう時期を避け、少し葉っぱの混じった桜を家族でのんびりと眺め、夏はひんやりとした空気の中、子供の足には広大過ぎる敷地内でクラスメイトと缶ケリをした場所。
ある時を境にピッタリと、私は此処に来るのをやめてしまった。それは小学校6年の秋。今でもハッキリと覚えている。

小学校の高学年にもなれば、男子と女子は以前のように一緒に鬼ごっこをしたりはしない。当時の私達女子の遊びと云えば、誰かの家に集まり、アイドルやTVについてのお喋りをするというもの。そして、その最も盛り上がる話題と言えば、誰それは誰が好きだといった噂話だった。
仲良しグループは十人程の大所帯で、子供ながら其処は社会であり、互いの性質に合った役柄を演じるという図式は存在していた。
絵里ちゃんは、その中で一番体格も大きく、勉強も出来た少女だった。高校生の姉のいる彼女が口にする言葉は少し大人びていて、私達は彼女に一目置き、彼女もリーダー格の自認しているようだった。
ある日絵里ちゃんは、池野君が好きだと皆の前で言い放った。彼はクラスで一番足の速い男の子で、女子にも人気のある男の子だった。他人の噂話なら際限なく盛り上がるくせに、自分にも好きな男子がいるという事は気恥ずかしく、そういう気持ちを何となく誤魔化していた私達は、絵里ちゃんの言葉に潔さと大人っぽさを感じた。絵里ちゃんは、卒業式までに池野君に告白をすると言う。私達にはそれは大事件であり、我が事の様に絵里ちゃんの恋を応援しようと盛り上がった。

私は誰にも言えずにモヤモヤとした。
本当は私も池野君が好きだったのだ。だけど、自分は絵里ちゃんの様な大人に近い感情で池野君を好きなのではなく、仲の良い友達として例えば私が絵里ちゃんや智子ちゃんを好きな様に、彼の事も好きなのではないかと、自分の感情には大人になるにはきっとまだ、何かが足りないのだろうと感じていた。
そして何より、自分の見かけにコンプレックスを感じていた。身体も貧弱で、分厚い眼鏡をかけていた私はお世辞にも可愛い子供ではなく、姉の服を黙って拝借してくる様なマセた絵里ちゃんに比べて、いや、他の少女達の中でも一番見劣りしていた。そして、それを子供ながらに自覚していた。
結局私は、自分の中に芽生えた小さな感情をそのまましまいこみ、他の友達と同じように絵里ちゃんの恋を応援する事にした。小さな頭で考えた、それが精一杯の結論だった。

 池野君の家は深大寺名物である蕎麦屋を営んでいた。
どちらかといえば観光客向けでなく、地元住民向けの街の蕎麦屋の雰囲気で、近所だったこともあり、我が家では私が彼と同じクラスになるずっと前から彼のうちの蕎麦を食べていた。その蕎麦屋の息子が池野君だと知ったのは、3年生で初めてクラスが一緒になった時で、実は私はその時点から彼を少し意識しており、なんとなく彼の店に行くのは恥ずかしかったりした。
蕎麦を食べに行ったところで、彼が店先にいる事など有り得ないのもわかっていたのだが、学区境の蕎麦屋には他の同級生達の家族は訪れなかった様で、それが唯一私と彼を繋ぐ接点のようにも思っていた。

 絵里ちゃんの恋を応援する事にした私は、それ以降、家族で池野君の店を訪れる事を拒否するようになった。母はそれを、私の反抗期と受け取っていたようだったが、自分の気持ちを親に知られる事を、なにより恥ずかしいと感じていた私には都合のよい事だった。

 冬の始まりの頃だった。
 
池野君が風邪を引き、数日学校を休んだ。
私立の中学を受験するという絵里ちゃんは、
その頃はそんなに池野君の話をしなくなっていたが、気を利かせた周りの子たちは彼のお見舞いに行こうと言い出した。
 彼女は勿論大喜びし、私達は十人近くの大人数で彼の家にお見舞いに行く事になった。と言ってもそれは、彼の店に蕎麦を食べに行くという内容で、私達はお小遣いを出し合って花を持って行った。
子供だけの十人もの来店に彼の両親はかなり面食らった様子だったが、息子の人気に気をよくした母親は、ジュースやお菓子を私達に振る舞い、初めてのお見舞いという行為に興奮していた私達は食事を済ませてもなかなか店を出ず、何人かのお客さんが引き戸を開け、中を見てはそのまま帰って行くのを見てもおかまいなしだった。
当たり前だが、熱を出して寝込んでいる池野君本人には会えずじまいで、そろそろ帰りたいなあと感じていた私は何だか居心地が悪くなり、店内をぼーっと見回していた。

すると、店から住居部分に続いていると思われる廊下の暗がりの中に一枚の絵が飾ってあるのが見えた。
絵は額に入ってはおらず、子供が描いた様な人物画で、よくみると見覚えのあるセーターを着ていた。私は、そのセーターをどこで見たのかとぼんやりと考えていた。
濃い目の紫に黒いVネックの縁取り―。
あっと思った瞬間、私は居たたまれなくなった。そのセーターは、私が3年生の頃によく着ていたものだったのだ。
それが、3年生の授業で描かされた「友達の顔」なのだという事に気付いた私は、何故だか恥ずかしさで一杯になり、どうしてそんなものを貼っているのだと腹が立ってきた。
きっと、二重丸を貰ったので両親が喜んで貼ったに違いないと納得した後に、あの絵が私である事に、誰かが気付いたらどうしようと思った。
―どうか絵里ちゃんが気付きませんように―
私は祈り、早くここから出たいと願った。そして池野君を恨みがましく思った。

池野君は翌日から登校してきた。
私は何にも気付かなかった様にした。本当は私があの絵に気付いた事を、池野君自身に気付かれるのが怖かったのである。だが、そんな心配は必要なかった。それより以前に私が彼と親しく話す事など昔からなかったのだ。
絵里ちゃんも誰も、絵には気付いていないようだった。私は安堵し、そのまま小学校を卒業する日を迎えた。絵里ちゃんが池野君に告白する前に、クラス中が、絵里ちゃんが彼を好きだという事を知っていた。それは男子生徒も一緒で、今更告白をする必要もなく、彼らがどうしたのかは知らない。
私は彼らと二度と会うことはなかった。私の卒業と同時に我が家が引っ越す事は、ずっと以前から決まっていたのである。

 月日が流れ、私は東京に戻ってきていた。
多摩地区にあった女子大に進学した私は、
調布からもそう遠くない距離にアパートを借りていたが、一度も深大寺を訪れる事はしなかった。なぜなら私は子供時代の仲間に会いたくなかったのである。
私はコンタクトをし、化粧をしていた。大学にもめいっぱいお洒落をして通った。学生生活はそれなりに充実していたし、男友達も沢山出来た。今更過去の苦い思い出に触れる必要はない。私は充分幸せだった。
―そして、ある日、大失恋をした。

幾日泣いても悩んでも、彼は戻ってこない。
なぜ振られたのかも、さっぱりわからない。
ただ一言、飽きたと告げられたのである。

 私は急に深大寺に行く事にした。

池野君に会いたかったからじゃない。

私は確かめたかった。今の私は、昔の私なんかじゃない。誰が見ても私と気付かないはずだ。そう、私は綺麗になったはずなのだ。眼鏡もない。痩せたすっきりした身体。垢抜けて、見違えるほどになった自分。私はそんな自分を誇りに思っている。満足している。

店の扉は、記憶していたものよりずっと小さく、店内は狭かった。

 私は少しだけ皺の増えた彼の母親に、出来るだけそっけなく注文をし、そのまま窓の外を見た。彼の母親は私に気付かなかった。私は安堵する。遠くに紫陽花が見えていた。
彼も私と同じなら、今頃はきっと何処かで一人暮らしの大学生になっているのだろう。
この店に、彼はいないのだ。
以前と同じ大きな盛の蕎麦が運ばれてくる。
運んできたのは若い男の店員だった。私は出来るだけさりげなく店員の顔を盗み見る。
 
その人は小さく笑って、久しぶりと応えた。

店の奥に人物画が貼られているのが見えた。
額には入っておらず、紫色のセーターは、すっかり色あせて見えた。

私は、急に泣きたくなった。 
 
(了)
 
-----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
藤沢 夏生(神奈川県)

4月20日発売の『散歩の達人 調布 府中 深大寺』に、深大寺恋物語が紹介されました!
何故、深大寺で恋物語なのか、小説公募に結びつくのかを、楽しい視点で文章にしていただいてます。
スタッフ一同、感慨深い面持ちで内容を拝見させていただきました。

嬉しさに、記念撮影したものが以下です。
散歩の達人と、実行委員長

深大寺恋物語第弐集を読んでいるのは、ちょうふどっとこむの宣伝部長くまっきーさん。
笑顔で大前実行委員長が手にしているのは、「目指せ、映画化祈願ダルマ」です。

この写真は載っていません(笑)が、記事はP75に掲載されています。
勿論、私たちの記事以外にも、「こんな場所があったんだ...」「あ、ここ知ってる!」と言う、驚きでいっぱいです。
書店で見かけた際は、是非手に取ってみてくださいね!
ピンクの背景に映える、春らしいネズミ男が目印です。

⇒散歩の達人公式HP

「美里ちゃん! すゑばあちゃんがいなくなったんだって?」
 町内一情報ツウの隣のオバサン、杉村さんが飛び込んできた。病院からの帰り道、ちょっと遅いので母が探しに行っただけなのに。
お天気ならたいてい祖母は病院から歩いて帰ってくる。
「ボケてなかったわよね」
 杉村さんのことばには遠慮がない。
「友だちのところに寄っているのかも」
「ケイタイ持たせた方がいいわよ。あたしだって持ってんだから、ほら」
 スイッチとボタンだけのシンプルな携帯。
「最近物騒だからさ、孫には、なんか、どこにいるか分かる携帯があるらしいのよ、それ持たせろって、息子に言ってんだけどさ。幸子さんがウンて言わないのよ」
(......結局はお嫁さんのグチか。)
「若い人のはなんかすごいんでしょ、音楽聴けたり、買い物できたり...... ちょっとそこまでお買い物いってくるから、見つかったらこっちに電話して。紙きれと鉛筆ある?」
 渡すと自分の電話番号をスラスラ書いた。
 さてはこれで情報を仕入れ、ばら撒いているのか?
 杉村さんの勢いに急かされたわけではないが、少し心配になり母にコールしてみる。
なんだ、また電源切れてる。
電車に乗るとき母は、マナーだと言っていつも電源を切る。なんのことはない、シルバーシートに座る罪悪感を少しでも和らげるためだ。「疲れてるときはいいの」と言っていつも座っている。そして電源を切ったことをそのまま忘れてしまう。相手の電源が切れていれば、自分の携帯も意味がない。
 窓から空を見上げると、夕立が来そうな雲ゆきになっていた。少し心配になってきた。急いで洗濯物を取り込み、カサを三本持って家を飛び出した。
(おばあちゃんはいつも深大寺の入り口を通ってくるから......)
はたして、祖母はそこにいた。
「おばあちゃん!」
 大きい声を出したのに、気づかない。
「おぅばぁあちぃやん!!」
 ゆっくり大声で。しかし祖母は何かを見つめたまま。もしかすると杉村のオバサンの言うとおり...... いやそんなことはない。父も母も私を呼ぶときに、まず兄の名前を言って、すぐ間違いに気づき、言い直して弟の名前、そして最後に「違った、美里!」という。しかし祖母はきちんと私だけを呼ぶ。そんな祖母に限って......。
ふざけて名前を呼んでみた。
「すゑさん!」
祖母は驚いて気づいた。
「美里かい」
「帰り遅いんで、探してたんだよ」
「そうかい、そりゃすまなかったね」
「電話くらいしてよ」
「公衆電話が見あたらなくて......」
「夕立くるよ」
「うん......」
祖母は動こうとしなかった。その視線を追うと、工事の看板があった。
「この木だけ、切り倒すんだって」
祖母が言った。
「道路に面してるだろ、だから排気ガスで、梢が枯れてきて......」
「しょうがないよ。この木、邪魔だし」
「......」
「早く帰ろうよ」
祖母は動かない。
「ばあさん、ちょっとどいてくんないかな、危ねえよ」
黄色いヘルメットの作業員だった。
「この木ほんとうに切ってしまうんですか」
「そうだよ。だからどいてって」
「ここならいいですか」
祖母はやっと少し動いた。
「まあいいけど。気をつけてよ、ケガでもされたらこっちの責任問題だからさ」
「危ないから帰ろうよ」
「......」
祖母はもうそれ以上動かなかった。
「あの木なら、ずっと立ってると思ったのに。せめてあたしが......」
「あの木がどうかしたの?」
祖母は、木を通りぬけて違う時間を見つめているようだ。
「美里よりもうちょっと大きくなったくらいだった、あのひととここで別れたのは......」
「あのひとって?」
祖母は恥ずかしそうに笑った。
「別れる前にあっちの店で一緒におそば食べて。あのひとは、自分のいのちが延びるように縁起かついで、おそばゆっくり食べて。ああ、のびちゃったって、おどけてた......」
祖母が何を言い出したのか分からなかった。
「あたしを描いてあのひとは行ってしまったんだよ」
祖母は遠い目つきをしたままだ。
「おまえは好きな人の前でなら裸になれるかい?」
「え?」
「あのひとはどうしてもあたしを描いておきたいって」
「あのひとって誰よ」
「......」
「わかった、おばあちゃんの昔のカレシ」
「今はそういうんだね。」
「昔は?」
「許婚」
「いい名づけ?」
「あとで辞書ひきなさい」
「はい」
話しながらも、まずは枝が切り落とされていく光景から、祖母は視線をそらさない。
「あのひと、画家のタマゴでね」
「いまは?」
「......」
聞いてはいけないことを聞いた気がした。
「兵隊行く前にあのひとは指輪をくれた。あの木のところでね。帰ってきたら一緒になってくださいって。......あたしに指一本触れず、あのひとは......」
「その指輪、まだ持ってるの?」
「供出っていってね、うちにある金属は全部戦争のために使わなきゃならなかったから」
「じゃ、そのひとの指輪も......」
「溶かされて鉄砲の弾になんかされてなきゃいいけど......」
「......絵はウチにあるの?」
「おんなじような絵がたくさんある美術館に預けてある......」
「どこ? 見たい」
「長野のね......」
 そのとき木を切っている作業場のほうがざわついた。
「なんだこりゃ」
さっきの作業服が声をあげた。
「おい、切った枝ン中になんか入ってンぞ」
同じ作業服が何人も寄ってきた。
「虫じゃねえの」「違うよ」「光ってんな」
好奇心でほじくり出していた。
「なんか書いてあるけど、横文字おれダメ」
「どれどれ」別の作業服が替わった。
「Kousaku Masuda & Rin Gotoだってよ!」
【Rin Goto】!「後藤りん」祖母の名前だ。
気づくと祖母は駆けていた。あわててあとを追う。
「なんだよばあさん」
「それあたしの......、です」
「なんだって」
「おばあちゃんの結婚前の名前なんです」
「結婚前ってったって......何年前よ」
「もう六十年以上前です。あのひとが出征するときにここで最後の別れをしたんです。あのひとはあたしに先に帰れといいました。後姿が見えなくなるまでここにいるからって」
「誰だい、あのひとって」
「おばあちゃんのイイナズケらしいんです」
「で、ここを去るときにこの枝にこれを差したってわけかい」
「そうだと......」
「じゃ何かい、この指輪を包み込むようにして、この枝は太くなってったってわけ?」
「......まさかぁ」
「こんなの兵隊にゃ持ってけねえもんな」
「名前入りじゃ変な所に置いとけないし」
作業服たちは口々に言っている。
私は祖母の左手をとった。
「はめてみてよ」
「でもこれはあのひとのだよ」
そっとクスリ指にはめてあげた。
「ぴったりじゃない」
「むかしは白魚のような指って......」
祖母は少女のように笑った。
作業服が、ヘルメットを脱いで言った。
「りんさん...... この木、切んなくちゃなんないんだけど。ごめんな」
祖母はゆっくりうなずいた。そして木に歩み寄り、幹をそっとなでた。
手の甲の皮と木の幹の皮。同じ時間をすごしてきた分だけ、皺も色もよく似ていた。
祖母にそんな想い出があったなんて。そしてこの木がその想い出を大切に包んでいたなんて。
この木の中で、優しい時間がずっと流れていた。
携帯が鳴った。母だ。
「いたよ、おばあちゃん」
祖母が携帯をのぞきこんだ。
「それは昔の人には通じないのかい」
「あたりまえでしょ」
「......不便だね」
雲が灰色をいっそう濃くし、雨降りの前のあの匂いがしてきた。私は一本だけカサを開き、おばあちゃんと相合傘で、道を急いだ。
 
(了)
 
-----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
岩脇 忠弘(神奈川県川崎市/38歳/男性/事務員)

<<前の10件 1234|5|678910 次の10件>>

紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、メールにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。 何卒ご了承ください。

著作権について

このブログに掲載されている文章、及び画像の無断使用、無断転載、無断流用を固く禁止します。
※作品の転載に関しては、ご本人様のみ可能です。

主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
第4回公募が始まりました。
応募要綱をよくお読みいただいた上、すばらしい作品をどしどしお送りください。
ご応募、お待ちしております!

共催

最近のトラックバック