「もりそば二丁!」
「かけ大盛り、ざる一杯、入ります」
僕はひたすら、蕎麦を湯に入れる。、蕎麦のストックもなくなってきた。隣の作業場で親方が打った蕎麦を調理場に移す。只今、木曜日の午後十二時十五分。深大寺の参拝客が昼食にやってくる佳境の時間。息つく暇もなく、蕎麦を湯に入れ、茹で上がったものを次々と食器に盛っていく。
「もりそば、お願いします!」
店にいるおかみさんに僕が声をかけると、もりそばを両手に抱えながら、
「ごめん。テラス席の食器、片付けに行ってくれる?私、ちょっと手が回らないのよ。」
おかみさんもてんてこ舞いだ。僕は調理場から出て、テラス席のテーブルを片付けていた。
「あの、すみません。ここいいですか?」
後ろから声が聞こえた。
「どうぞ。今、片付けます。」
そう言って僕が振り返ると、若い女性が立っていた。長い黒髪をきちっと束ね、色白で小顔な細身の女性。僕はその女性の凜とした美しさにしばし我を忘れたが、次の瞬間、何もなかったかのように、彼女が座るテーブルを片付けた。
「今、お水とメニュー、お持ちします。」
「メニューは結構です。もりそば、いただけますか?」
「承知しました。冷たいお水、今、持ってきます。」
僕は店に戻り、彼女の水をコップに入れる。普段の接客と同じことをしているはずなのに、なぜかどきどきする。僕はグラスの水を彼女のテーブルに運び、調理場に戻った。次々入ってくる注文のことは上の空。気がつくと、僕はデッキ席の彼女を眺めていた。
 只今午後二時三十分。蕎麦屋の嵐のようなランチタイムが終わり、休憩に入るのはいつもこの時間。僕は、深大寺の境内のベンチに座り、缶コーヒーを一口飲むと、広く多い茂った緑を眺め、大きく息を吸った。ここにくると、心が穏やかになり、自然と活力が蘇る。僕のいつもの休憩タイム。そのとき、少し離れた隣のベンチに、誰かが座る気配を感じた。さっき、蕎麦屋のデッキ席でもりそばを食べていた女性、凜とした美しさに僕が一瞬心を奪われたあの女性が、隣のベンチに座っていた。僕は勇気を振り絞って声をかけた。
「先ほどは、どうも」
彼女は一瞬、ぽかんとして僕を見ていたが、
「あ、さっきのお蕎麦屋さん?こちらこそ、ごちそうさまでした。もりそば、美味しかったです。」
彼女は笑顔で答えてくれた。
「今まで拝観ですか?」
「いえ、写経教室です」
シャキョウ?僕は意外なワードに一瞬、面食らった。
「写経だなんて、渋いですよね。でも、はじめてみたら、すごくはまっちゃって。お経の文字をただ書いていくだけなんですけど、癒されるというか、落ち着くというか。」
彼女は笑って言った。
「じゃあ、僕が毎日ここでこうやってぼーっとしているのと、同じようなものですね。」
僕は笑い返した。
「僕はここに来ると落ち着くんです。田舎を思い出します」
「田舎?」
「長野です。戸隠っていう蕎麦の産地で、僕の実家、蕎麦の実を作ってるんです」
僕は聞かれてもいないのに、無意識のうちに自分のことを話していた。
「長野は、空気も水もきれいです。だから、美味しいそばが獲れるんです。実家の蕎麦もうまいんですよ。あの蕎麦屋に実家の蕎麦を入れさせてもらっていて、そのツテで、僕は三年前からあの店で蕎麦の修行を。」
「素敵ですね。きっと立派な蕎麦職人になられますよ。」
そう話す彼女の横顔は、凜として、優しくて、美しい。
「そろそろ行かなくちゃ。」
彼女の声でふと我に返る。彼女とは、こんな風に偶然に会うことなど、もうないかもしれない。
「写経教室にはしょっちゅう来られているんですか?」
僕は冷静を装いながら、次、彼女と会う機会を探る。
「ええ。写経教室は毎週木曜、やっているんです。私もしばらく通ってみようかなって。」
「だったら、また、うちの蕎麦、食べにきてください。」
僕は必死だ。
「もちろん。あのお蕎麦、本当に美味しかったですもの。また伺います。」
彼女は微笑んで、去っていった。
 僕は、その後ずっと、あのときの彼女の横顔が忘れられなかった。正確に言うと、どんな顔立ちだったのかはぼんやりとしか覚えていない。ただ、あの凜とした美しさは僕に強烈なインパクトを残しており、気がつくと、そんな彼女の面影を自分の心に刻もうとしているのだ。
「最近、なんだかぼーっとしているね。好きな女の子でもできたのかい?」
蕎麦屋のおかみさんにも冷やかされっぱなしだ。僕は、写経教室があるという次の木曜日が待ちきれなかった。彼女にもう一度会いたい。名前も、歳も、どこに住んでいるのか、何をやっているのかも知らない彼女に。しかし、次の木曜日も、その次の木曜日も、彼女は僕の前に現れなかった。
 彼女と初めて会ったあの日以来、もう1ヶ月近くが過ぎようとしている。最近の僕は、すっかりあきらめモードだ。そんなある日の正午すぎ、蕎麦屋はいつものとおり、お客さんでごったがえしていた。
「ごめん。デッキのテーブル、片付けてきておくれ」
おかみさんに言われ、彼女が初めて店に来たときと同じように、僕はテーブルを拭いていた。
「すみません。ここ、いいですか?」
僕の背中越しに、かすかに覚えのある声が聞こえる。振り返ると、そこには、凜とした美しい彼女がいた。
「あの、ここ、いいですか?」
呆然として何も返事をしない僕に、彼女はもう一度、そう言った。
「あ、どうぞ。」
やっと我に返った僕に、彼女は少し笑かけながら、こう言った。
「もりそば、お願いします。」
僕は調理場に戻ってからも、興奮気味だった。
これは現実なのか?あの女性が彼女だとして、僕のことを覚えているだろうか?彼女とまた会えた興奮と同時に、たくさんの不安が僕の頭をよぎる。しばらくしてデッキに目をやると、彼女は、自分がオーダーしたもりそばを美味しそうに食べている。僕はそんな彼女をしばらく見つめ、やっと意を決した。今だ、今しかない。
 もりそばを食べている彼女のもとへ、僕はつかつかと歩いていった。
「あの・・!!」
僕の唐突過ぎる声は、店中に聞こえるくらい大きかった。彼女の箸は蕎麦を口に運ぶ手前で止まっており、面食らった顔で僕を見上げている。
「あ、すみません、お食事中なのに。」
僕は、恥ずかしさで、頭は真っ白、顔は真っ赤だ。すると、彼女は、
「また、もりそば、食べにきちゃいました」
茶目っ気たっぷりに笑った。僕のことを覚えていてくれたのだ。うれしさと安堵で、僕のひざは崩れそうだ。一息ついて、少し落ち着こう。僕は大きく息を吸って、こう言った。
「僕、2時半に、境内のベンチで待ってます。前、お会いした、あの場所で。」
緊張でパニック気味の僕を見る彼女は笑顔だった。
「はい。写経教室が終わったら、立ち寄りますね」
 只今、午後二時二十五分。境内のベンチで、いつもの缶コーヒーを片手に、僕はかなり舞い上がっている。
「お待たせしました。」
僕の背中からあの声がした。彼女だ。僕は、平静を装って、こういった。
「しばらくお会いしていませんでしたよね。」
「写経教室、さぼっちゃってましたから。仕事でニューヨークとロンドンに。個展をやっていたもので。私、これでも一応、書家の卵なんです。」
ニューヨーク?ロンドン?ショカ?
僕と彼女は別世界だ。蕎麦屋の修行小僧とショカでは、格が違いすぎる。
「なんか、すごいですね。すごすぎて、僕にはよくわからない世界です。」
ショックさめやらない僕は、やっとその一言を発する。すると、
「私にもぜんぜんわからない世界です。」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「写経のほうがずっと楽しいです。何も考えずにただ文字と向き合えるのが。だから、日本に帰ったら、真っ先にお蕎麦を食べて、写経に行こうって。それだけを楽しみに、仕事してたんですよ。」
彼女の笑顔が、僕にはまぶしくて、うれしくて、愛おしくてたまらない。もっと彼女のことを知りたい。僕のことも知ってほしい。そんな感情がどんどん湧いてくる。
 そのとき、僕は、はっきりわかった。僕は、彼女に恋をした。

----------------------------------------------------------------
 
<著者紹介>
松岡 由希子(東京都世田谷区/35歳/女性/自由業)

成海(なるみ)の長い黒髪が風に揺れている。裾に花の刺繍(ししゅう)をあしらった白いワンピースは人目を引き、白いハイヒールは楽器のようにコツコツと深大寺通りをこだまする。その音は水生植物園の前でピタリと止まった。成海はその大きな黒い瞳で、フェンス越しに園内の様子を懐かしく覗き込んだ。 
四月の日曜日、空は青く澄み切り日差しは暖かく、多くの家族連れやカップルで賑わっている。成海は静かに瞼を閉じた。そしてテープを巻き戻し再生するようにあの日のことを思い返した。
一面真っ白で雪が舞っている。白銀の反射光が眩しい。そこにいるのは成海と広人(ひろと)だけ。
携帯が鳴り現実に戻される。母からだ。きっと受話器の向こうで気を揉んでいるに違いない。
「成海、今何処なの?」
「今更逃げたりしないよ。始まるまでには戻るから」
実は、今日は成海のお見合いなのだ。

「大学を卒業して就職もせず、さりとて何かに打ち込むわけでもなく、これからどうやって生きてくつもりだ?」
辛辣な父の言葉がパンチのように効いた。厳格さは五十を越えて益々磨きがかかる。相手は父の上司の御子息で丸山大吉さん。名前はおめでたいけど十歳以上も年上。成海の写真選考では失格。丸顔に丸い黒縁眼鏡、眉毛の上で毛先を揃えた坊ちゃんカットは、笑み一つなく色白で神経質そうで・・・。
「見合という堅苦しいものではないのよ」
母が白々しく言い、父が頷く。母は成海の今の年で成海を産んでいる。晩婚化が珍しくない昨今だが母には通じない。気品のある柔らかな面持ちだが押しは強い人だ。この両親が外堀、内堀と埋めて追い詰めてくる。成海に逃げ道などなかった。

先方が渋滞に巻き込まれ遅れるという連絡が入ると、成海は散歩と言って座敷を抜け出した。見合いの会場は深大寺通りに面した水車館近くの会席料理の店だった。正面玄関から出て広い敷地を真っすぐに歩きだすと左手に御堂が見えてくる。大黒天と恵比須尊がこっちを向いてにっこりと笑っている。成海は見守られているようで、溜まった空気がふっと抜けるように落ち着いた気分になった。木漏れ日が差す深大寺通りに出ると無意識に足はあの場所へと向かった。

三年前の二月、当時大学三年生だった成海は、八王子駅から北へ少し歩いたコンビニでバイトを始めた。家の近所でするのは少々憚(はばか)られたので学校の近くにしたのだ。接客業は未経験で不慣れだった成海に優しい笑顔と透る声で助け舟を出してくれたのが広人だった。広人の包容力は成海をいつも安心させた。同じ大学だと分かると二人の距離は急速に縮まった。昼間は閑散としている店内のカウンターに二人並び、手が空いている時はたわいのない会話を楽しんだ。
「就職は地元だっけ?」
広人は一つ上なので卒業なのだ。彼は山梨県から中央本線で八王子まで通っていた。
「ああ、彼女が甲府で働いているから俺も甲府で就職する」
広人に高校の時から交際している彼女がいることは前に聞かされていた。だから彼への想いにも蓋(ふた)をして、いい友達関係を苦しみながらも演じていた。成海が急に黙り込むと広人は薄々感じていた成海の気持ちから逃げるように本棚に向かった
 本棚は入口そばのコピー機隣りにある。雑誌が主だが文庫本と地図もある。本棚の後ろはガラス張りになっていてサンルームのように太陽が差し込むので、昼間は大抵ブラインドを下ろしている。
「広人、仕事中に立ち読みしていいの?」
広人が真剣な眼差しで読んでいたのは『日本の城めぐり』という月刊誌だった。
「広人、お城好きなの?」
成海はカウンターから身を乗り出して広人の本を覗き込んだ。
「ああ。結構行ったよ」
「私の住んでいる調布にも城あるよ」
「え?マジで?」
広人は振り返り大きな声を出した。
「行きたい。案内して」
渇望し瞳を光らす広人に少し驚いた。成海は気後れするように呟(つぶや)いた。
「いいけど・・・」

 三月中旬だというのに、その日は朝からあいにくの雪模様であった。中止にしようかと聞くと広人は童のように今日がいいと駄々をこねた。成海には夢中になれるものが何もない。いつも流されて何となく生きている。だから熱中できるものがある広人が羨ましく思えた。
調布の深大寺には戦国時代に城があった。場所は水生植物園内の小高い丘の上にある。上杉朝定(ともさだ)が北条氏に対抗するために古き郭(くるわ)を再興したらしい。現在、建築物は残っていないが空堀や土塁はまだある。
二人は深大寺でバスを降りると雪が舞う深大寺通りを傘も差さずに歩きだした。首をすぼめている成海を見て、広人は自分の白いマフラーを成海の首にぎゅっと巻きつけた。
「ありがとう。いいの?」
「山梨県人は寒さには慣れているからさ」
そう言って広人は雪で湿った顔を手で拭いながら屈託のない笑みを浮かべた。
水生植物園内は流石にこの天気で人影もなく、おかげで二人だけの貸し切り状態になった。木道の手摺には薄っすらと雪が積もり、寒さを凌ぐため二人とも猫背になっていた。遠くに聞こえる烏の鳴き声が悲鳴に聞こえる。少し前を行く広人が左手で成海の右手を握り締めてきた。
「滑ったら危ないからな。手離すなよ」
広人は前を向いたまま成海を見ようとはしなかった。成海は体中に電気が走り心の中でダンスビートが鳴り響き、返事すらできなかった。右折して泥がぬかる山道に入る。その分広人の握る力が強くなる。
「ここか・・・」
広人は深大寺城の石碑を見て案内板を見て感慨にふけった。そしてありがとうと振り向き様に成海を抱きしめた。息がとまる。冷静になろう。これは愛情の抱擁なんかではない。単なる歓喜の一表現だと成海は心を静めた。しかし第二の波が打ち寄せた。今度は成海の唇を塞いだのだ。甘く切ない感触が唇に残った。成海は俯き広人は黙っている。僅かな時間なのに永遠のように思えた。二人はそのまま無言で今来た道を戻った。

 あれから三年ここには来ていない。白銀は新緑に変わっていた。
「すいません。深大寺城どっちですか?」
突然声をかけられ振り向くと一人の青年が立っていた。年は三十ぐらいで上下紺のスーツ姿、右手にビジネス鞄を持っている。額の汗をハンカチで拭いながら爽やかな笑顔を見せていた。
「ああ、この園内にあります」
成海は視線をそっちへ投げた。
「そうですか。ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をして青年は園内に入った。
「あ、案内しましょうか?」
成海は青年の後を追いかけ声を弾ませた。何かいい感じな人だと思った。
子供達が大声で騒いで走り回るので木道は上下に揺れ軋(きし)んだ。あの日は雪で分からなかったが、園内には様々な草花が木道下の湿地を彩っている。観光地の湿原のようだ。
「お仕事ですか?」
「ええ。でもお客さんの都合でキャンセルになりました」
「どちらからいらしたんですか?」
「横浜です」
「横浜なのにここに城があるなんて、よく分かりましたね?」
「ネットなら何でも分かる世の中ですよ」
「そうですね」
お互いに苦笑してしまった。
水をさすように携帯が鳴った。また母からだ。
「成海、丸山さんお見えになったからすぐに戻ってきなさい」
「やっぱ・・・今日キャンセルする」
「何だって?許しませんよ」
「・・・」
「成海?もしもし?」
成海は電話を切り電源も切った。表情が険しくなり視線が鋭くなった。青年は心配そうに成海を見ている。
「どうかしました?」
「自分の人生なんだから自分で決めなきゃいけないですよね?」
そう言って成海は納得したように大きく頷いた。ためらいはなかった。青年は意味不明なことを言われ言葉に詰まった。
右折して山道に入ると、斜面には薄紫色のシャガの花が一面に咲き乱れ二人を向かえてくれた。石碑付近は林になっている。青年は写真を何枚か撮り、二人は木陰のベンチに座った。青年が鞄から取り出した一冊の雑誌、それは広人も読んでいた『日本の城めぐり』だった。
「あ!それ・・・」
成海はハッとした。青年はその声に驚きながらもページをめくり成海に見せた。
「今度はここに行くつもりなんです」
「あ、私、ついて行ってもいいですか?」
成海は得意そうに城の話を始めた青年をじっと見つめた。

 

<著者紹介>
正村 純(東京都調布市/40歳/男性/ファイナンシャルプランナー)

先月末、11月28日に、第5回の深大寺恋物語の授賞式を無事終えることができました。
当日は深大寺で中開帳が始まったばかりだったため、秘仏拝観に非常に多くの方が列を作ってる中での授賞式でした。
真っ赤に染まった紅葉も美しく、今まで行ってきた10月の授賞式とは違う、非常に趣きのある授賞式でしたよ~。

2009shikiten.jpg

 

第6回の公募もほぼ固まって参りました。
要項がまとまりましたら、またブログにて掲載いたしますのでよろしくお願いいたします。

<<前の3件 123|4|5678910 次の3件>>

主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会

第6回公募の受付を開始しました。
第6回募集要項を必ずご覧ください。
たくさんのご応募お待ちしております。

紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、メールにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。 何卒ご了承ください。
また、下記ミラーサイトにてレビューも公開しております。
→ミラーサイトを見る

著作権について

このブログに掲載されている文章、及び画像の無断使用、無断転載、無断流用を固く禁止します。
※作品の転載に関しては、ご本人様のみ可能です。

共催

最近のトラックバック