『縁結びの神様、深大寺デートの実力』
 自動ドアが開くたびに冷たい風が攻めこんでくる二月のコンビニで、内容も冊子も薄っぺらな地方情報誌を握り締めながら、ぼく斉藤和也は目から鱗が落ちていた。この町から電車でわずか十五分の地にそんな場所があるなんて。僕は生まれてこれまで十九年、彼女がいない。「今年こそ」と決意を新たに、大学入学と同時にやったこともないテニスのサークルに入り、テニスより合コン活動に勤しんだのだが、その努力空しく彼女いない歴がさらに一年増えようとしていた。しかし、そんな残念な僕ともこれでお別れ、二十歳の僕には彼女と仲良く構内を歩くという幸せなキャンパスライフが待っているんだ。その幸せを運んでくれるのはこの深大寺!と、雑誌を握る手に自然と力が入っていた。
 結ばれたい相手はもちろん同じサークルの桜坂ありすだ。年末の忘年会でやっとメアドをゲットし、それ以来何度かやり取りをしている。天真爛漫な彼女の笑顔はそれは眩しく、その笑顔を見るだけで僕の心には光が差し込む。僕にとって彼女は太陽そのものだ。
 その日から僕は深大寺でのデートプランを練りに練った。何度か下見にも行き、完璧なプランが出来上がる頃には、あと2週間で大学での一年が終わろうとしていた。最大の難関はありすちゃんと二人きりで会うことだった。そのために、軽いノリと時間のルーズさでおなじみの林と、噂話が大好きでミススキャンダルの異名を持つユキちゃんに頼み込み、4人でお花見に行くという設定を作り上げた。もちろん二人には当日ドタキャンをしてもらうという、ごく自然な流れとなる。計画を成功させるために二人にご飯をオゴる羽目になったのだが、ありすちゃんの笑顔を一人占めに出来るのであれば、バイト六時間分の投資も安いものだろう。
 そうこうしているうちにデート当日がやってきた。僕は集合場所である調布駅前で、少し緊張しながら完璧に練り上げたデートプランを頭の中で見直していた。お昼前に集合し、まずは二人きりになってしまった状況を説明する。心優しいありすちゃんは間違いなく「せっかくだから二人で桜を見に行こうか」と言うはずだ。深大寺に着いたらすぐに目的である縁結びのお参り、と行きたい所だがここで慌てちゃいけない。お花見に来たのにいきなりお参りでは怪しまれるかもしれない。それはまずい。何としてもさりげなく任務を遂行しなければならない。そこでまずは本堂の周りをゆっくりと散策し、少しずつお互いの距離を縮めるのだ。山門前まで来たら「ちょっと周りを歩いてみようか」と促し、角のそば屋のお団子を回れ右。その先にある信楽焼のたぬきの前に剣玉が置かれていることは下見でチェック済みだ。実はこの一ケ月、プランを立てながら毎日剣玉を練習して、ようやく三回に一回は大皿に玉が乗るようになったのだ。華麗に剣玉を操る僕を見て「かず君凄い!」と絶賛するに違いない。さらに進むと目の前には桜が満開の坂道が飛び込んでくる。ありすちゃんの名前と同じ『桜坂』!感動と羨望の眼差しで僕を見つめる姿が今から目に浮かぶ。そのまま静かな小路をぐるりと周る頃には、すっかり打ち解けた二人の間に笑い声が絶えないだろう。ゆっくり歩いて小腹が空いたらあげそば串の出番だ。そばの香りとほんのりとした甘味が歩き疲れた体に優しく、思わずこぼれる笑顔のままお互い見つめ合ったりなんかして。そして再び山門前まで戻ってきたらいよいよお参りだ。このタイミングなら自然に目的が果たせるはず。ついに僕の幸せなキャンパスライフが約束されるのだ。だがここで油断してはダメだ。デートはまだ終わっていない。その後は境内に祀られているそば守り観音を参拝し、日本中のそばを一人で守るその功績を労いながら、そろそろお腹が空いたね、とバス停までの道の途中にある、界隈でもコシの強さで有名なそば屋に入り、深大寺そばをいただく。そうしてそばのコシに負けず劣らず強く結ばれた二人は、神代植物公園のお花見へと向かう...
 あまりにも完璧なデートプランに自分でも気付かない内ににやけていると、突然後ろから声をかけられた。
「おはよっ、かず君」
緩んだ頬を引き締めながら振り向くと、そこには世界で二つ目の太陽が輝いていた。そのあまりの眩しさに危なくプランを忘れてしまうところだった。
「あれ?ユキちゃんと林君はまだなの?」
辺りを見回すありすちゃんに(計画通り)二人がドタキャンしたことを告げると、「そうなんだぁ...」と一瞬困惑した表情を見せたが、太陽はすぐに輝きを取り戻し、「せっかくだし、二人で行こうか」と微笑んでくれた。あまりにも想定通りの答えにまたにやけそうになるのを堪えながら、僕らはバスに乗り込んだ。こうして僕の縁結び大作戦は幸先の良いスタートを切った。そのはずだった...

 深大寺に着いて門前通りに入ると、彼女は鬼太郎の看板を見つけてお土産物屋に向かって行った。―えっ、お土産は最後じゃないの...。呆気に取られる僕を後目にお店に入って行ってしまった。あわてて追いかけると、ありすちゃんは店内を見渡しながら目を輝かせていた。「かず君、どっちがいいかなぁ」と言って一反木綿とぬりかべのストラップを両手にぶら下げている。「い、一反木綿...かな」と答えると「私も一反木綿大好きなの!」と言いながら、大きな目玉を新たに手にしていた。そうこうしてレジに並ぶ頃には既にお店に入って三十分が過ぎていた。結局彼女は妖怪メモ帳と鬼太郎ボールペンを買って嬉しそうに店を出て、見るとまたもや目を輝かせていた。
「見て見て、ピンク三姉妹がいる」
指差す先を見ると、三人組のおばあちゃんが、偶然なのか揃えたのか、みんなピンク色の服を着てそば屋の前でメニューを見ながら何か言い合っていた。派手な服の割には妙に景色に馴染む三人組だった。「知っている人?」と尋ねてみるが、返ってきた返事は「ううん、きっと仲良しなんだね」次の言葉を探す僕に気付くことなく、彼女は歩き始めた。
 いきなり予定が狂ったがこの程度は問題ないだろう。僕は頭の中でプランをおさらいした。山門前での回れ右に成功したら、まずは剣玉だ。しかし、待ちわびていた信楽焼のたぬきが見えてきた時、またもや予想外の出来事が。彼女が突然、「ジョン!」と叫びながらたぬきを通り越して駆け出したのだ。たぬきに一瞥をくれながら僕も後に続くと、彼女はお茶屋の前で白い大きな犬と戯れていた。一応「知っている犬?」と尋ねてみるが「ううん知らないよ。でもジョンっぽいよね」と言って嬉しそうに首元を撫でていた。僕とジョン(仮)の飼い主と思われるおじさんは、お互い明らかな作り笑顔で会釈をするしかなかった。背後で信楽焼のたぬきが僕を心配する視線を送っている、何故かそんな気がした。
 彼女はジョンをひとしきり撫でると、さらに歩みを進めた。この先にはありすちゃんの名前と同じ満開の桜坂が待ち構えているはず。そのはずだった、どうやら先週までは...。「昨日の雨でだいぶ散っちゃったね」周りの桜を眺めても薄々そんな気はしていたのだが、僅かな期待も見事に散ってしまっていた。
全てが裏目だ。本堂裏の静かな緑の道を、僕は落ち込みながら歩いていた。正直ありすちゃんの予想以上の天真爛漫ぶりに、ちょっと消化不良気味でもあった。陰りを見せた太陽は、うつむく僕を覗き込みながら言った。
「かず君なんだか元気ないね」
―あぁ、(君のせいなのだが)落ち込む僕を気遣うありすちゃんは、やっぱり可愛い...
本堂裏をぐるりと周っていると、忘れ去られたような小さなお墓が道端に現れた。特に気に留めることもなくその前を通り過ぎようとした時、意外な光景を目にした。
「それ、知らない人のお墓だよね。何で手を合わせているの?」
その問いかけに、彼女はしゃがみこんだまま僕の方を向き、優しく微笑みながら答えた。
「何かさ、死んじゃってからも色んな人が自分のことを想ってくれたら何だか嬉しくない?誰かが死んじゃった私を想ってくれたら、その度に私って生きてたんだなー、って思えるじゃない。だからね、沢山の人にそう思ってもらいたいから私も手を合わせるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、目の前の太陽が輝きを取り戻した。いや、今まで以上の眩しさに目の前が真っ白になった。
―ありすちゃん、やっぱり君は...素敵だよ。
よし、この想いを胸にお参りだ!ちょうど一周りして山門も見えてきた。さあ、お参りを提案しよう、と息を吸い込んだその時...
「あっ、さっきの人たちだぁ」
僕らの前に現れたのはまたしてもピンク三姉妹だった。彼女はその姿を追って本堂と逆方向へ駆けて行ってしまった。そしてピンク三姉妹があげそば串を食べながら仲良く歩く様子を満足気に眺めながら、更に信じられない言葉を口にした。
「いけないっ、今日は私がおじいちゃんの病院に行く日だった。もう帰らなくちゃ!」
あぁ、そば守観音よ、日本中のそばは守っても、僕は守ってくれないのかい。何の非もないその後ろ姿に別れを告げながら、僕はありすちゃんを駅まで送ることにした。
結局目的を果たせないまま。

別れ際、やっぱり今年も、と落ち込む僕に向かって、ありすちゃんは振り返って言った。
「今日はごめんね、でもとても楽しかった。桜は間に合わなかったけど、神代植物公園はバラも綺麗らしいよ。また一緒に行きたいね」

―よし、次はバラで縁結び大作戦だ!

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<著者紹介>
山澤 紀啓(東京都八王子市/27歳/男性/会社員)

その日も霧のような雨が降っていた。
連日の雨に加えて、平日の神代植物園は予想通り客足が少なかった。
一眼レフを小脇に抱え、男は白い傘をさして木道を歩いていた。深大寺に隣接する水生植物園には、この時期になると綺麗な花が咲く。
カキツバタ。ハナショウブ。アヤメ。
それらが一番美しいのは、水の滴に打たれしっとりと滑らかな花弁を広げている時だと、男はそう思っている。
水気を含んで滑りやすくなった木道を、丁寧な足取りで歩む。男は紫色の花の傍に腰を下ろした。白い傘をレフ板代わりに、肩に柄を固定してカメラを構えた。
早生(わせ)の花菖蒲がアヤメと共演する、ギリギリのこの時期を狙ってやってきたのだ。
ファインダー越しに映る碧く深く艶やかな花弁。その一枚一枚が、まるで宝石を散りばめたビロードの布のように揺れる。
男はそこを捉えるように、ピントを合わせる瞬間が好きだった。
蜃気楼のような曖昧な幻想の世界から、現実に引き寄せられるかのように、鮮明な色彩がそこに現れるのだ。
男は夢中でシャッターを切った。シャッターを切りながら、視界の片隅に異物を感じた。「あの、すいません」
 ちょうど花盛りの株の中に、青色のくすんだ雨具の背中が見えたのだ。
「ほんの少しだけ、写真を撮らせて貰えませんか」
 あと少しそこから避けて貰えばいい。
 ほんの数歩避けて貰えば、素晴らしい画が撮れる。
 上下していた雨具の動きが止まった。
「お仕事中申し訳ありません、すぐ終わるので」
 申し訳なさそうに男が声をかけた途端、雨具はすっと立ち上がり、男を振り返った。
「何用で?」
 木道に立っている男と同じ目の高さで、雨具を着た人物は男をじっと見た。
「あ、すいません、本当にすいません」
 反射的に男は謝罪した。
「ですから、何の用で撮影されるんですか」
 見れば随分若そうな女性だった。そして背が高い。
「あの、園内を撮影してはいけないという何かありましたか?」
 男は慌てて傘を持ち直した。咄嗟の事で気を取られている間に、カメラが雨に濡れそうになったのに気がついたのだ。
 その様子を不審な目つきで眺めたあと、女はキリッとした口調で答えた。
「園内の撮影はご自由にどうぞ」
「では、そうさせて貰いたくて、あの、お仕事中だというので申し訳ないとは思いましたが」
(少しそこをどけて貰えますか)
 その一言が出ない。その代わり否応なしに悶々とした腹立たしさが男の内部に込みあげてきた。
(確かに作業中に、花の撮影をしたいのでそこをどいてくれとは失礼だったかもしれない)
心の中で反省と苛立ちが交差する。
(いや、だからといって、そういう態度はよくないのではないか。こっちは一応客だ)
 そう言ってやろうと、男が顔をあげた時だった。
 雨具の帽子を取った女の白い手が動く。その手が、フォーカスの掛った映像のように、緩やかに男の目に残像を残した。
 筋のように束なった前髪が顔に掛り、そこから無数の水滴が滴り落ちた。水滴が伝った顔は白く澄んだ肌をしている。目の下のまだらな薄いそばかすが、どこか野生に咲く花びらの紋のようにも思えた。
 男はぞっとした。
 ぞっとしながらも、彼女の顔から視線をそらす事は出来なかった。思わずカメラを持つ手が、彼女を撮らえるべき上がりそうになる。
「そういうご趣味ですか」
 ぶっきらぼうに女は男とカメラを交互に目で追った。
「花菖蒲が好きなんです」
 雨足がいくらか強まってきたような気がして、男は思わず傘を深めに被った。それでも霧のようだった雨は、俄かに水滴に変わっただけで依然として優しく辺りを湿らせているだけだ。
「はなしょうぶ......」
 女が言葉の意味を探るように声を絞った瞬間、その白い肌が紅く彩られた。
 男はまたもその様子に硬直した。
一体何があったのか男は理解していない。
 ただ、白く美しい野生の花のようだと思ったそれが、一瞬にして春先のハナミズキのような紅色に変化したのを、魔法でもかけられたかのように魅入っていたのだ。
「花菖蒲を撮影したかったんですね」
 さっきとは打って変わった、女の柔らかな口調に男はようやく我に返った。
「どうぞ、撮影してください」
「え、ああ、はいありがとうございます」
 言われるまま男はカメラを持ち直した。そして傘を肩にかけ、ファインダーを覗く。
 異物がなくなった花畑は絶好の美しさで男の視野に広がった。
深い色を誇り気に開くアヤメと、揺らめく色とりどりの花菖蒲
まだ早い蕾を空に向けて開花をじっと待つ姿も、全てに美がある。だが、男にはその美しさより気になるものがあった。
心ここにあらずの状態で数枚シャッターを切った後、男は女を向き直った。
「あの、もしや」
 そう言いかけた途端、女の顔がまた紅くなった。
「すみません、最近よく写真を撮らせてくれと言われる機会が多くて。あの、私写真に撮られるのが嫌いで......」
 首に回したタオルをむしりとるなり、女はそれをぎゅっと握りしめて俯いた。
(なるほど、勘違いしたのか)
 思えばおかしな対応だったなと、一部始終を振返りながら男は傘を持ち直した。
 野生の強かな花に見えた女が、今度は野に咲く可憐な小花のように見える。
「いや、私の言葉足らずです」
 頭を掻いて男は笑いをこらえた。
「まだお若く綺麗ですから、随分声をかけられているのですね」
 女はその言葉に少し俯いて「いいえ、そんな」と呟いた。
 帽子を脱いだ彼女の髪から、雨の滴が滴る。その数を目で追って、男は傘を持ち直した。
「雨、強くなってきましたね。お仕事今日はまだ続けるんですか?」
「はい、ヨトウムシの被害を探していたんですが、あと少しですから」
 もっと会話をしたい衝動にかられながら、男はじっと彼女の顔を見た。
「お仕事柄、花菖蒲について詳しいですよね」
 男の言葉に、女は黙って首を振って、それから少し遠慮気味にはっきり応えた。
「ここは色々草木がありますので、特別に詳しいという程ではないんですが」
 なるほど、園内全般の管理をしているからといって、必ずしも花菖蒲に詳しいとは限らないのだ。それを知って男は溜息をついた。それでよかったのだと安堵の溜息だ。
 これ以上、彼女と話しが合うとなると、自分の感情に歯止めがかからなくなりそうだったからだ。
 それほど衝撃的な美だった。姿ではない、その雰囲気に男は惹かれた。
「では、私はこれで。お仕事がんばってください」
 そう言って男が立ち去ろうとしたその背中に、女の声が届いた。
「あの、来月の初めに綺麗な品種が咲きます」
「綺麗な品種?」
 驚いて男は振り返った。
「綺麗な水色の背の高い品種です。ほんの数株ですが。ここではなく、あちら」
 湿地帯のやや奥まった場所に、雨の靄に紛れた緑の葉が見える。早くに咲き始めた早生(わせ)に遮られ、誰もその存在は気がつかないだろう場所だ。
「へえ、水色ですか」
「水の光という品種です」
 彼女の言葉の糸をたぐって、男の脳裏でようやく名前と画像が一致した。
水色掛った中輪の三枚花弁だ。そして遅生。雨でなくとも晴天も似合いそうに透き通った水色に近い紫だった。
(そうだな、まるでこの人みたいだ)
 どこか惹かれる人だった。
野生のような強かさと、誰にも愛されるような可憐な花の表情を持っている。
 もっと色々話をしてみたい。素直すぎる純粋な感情が男の中に湧いてきた。
(だけど、こんなオジサンじゃあな)
 などと自嘲して男は目を伏せた。
「教えてくれてありがとうございます」
 男は丁寧に頭を下げた。視線が自分の靴元に行くまでに、心臓が何度高鳴りしたのだろう。顔をあげたらどんな顔をしようか、そんなことばかり男は考えていた。
「いいえ、先ほどの無礼のお詫びにもなりまんが......あの」
 どうにか顔をあげて笑った男を見て、女はバツの悪そうに少し媚びた笑顔を見せた。
「ハナショウブを花菖蒲と言う方はなかなか居ないんです」
「おや」
 意外な発言に男は目を大きくした。
確かに平たく言えばハナショウブもアヤメもカキツバタも似たような時期に咲く花として、ひっくるめてアヤメ呼ばりしている人は多い。
厳密には開花時期や、生育地、葉などで区別されるが、誰もそこまではあまり気にしない。
女も仕事だ。
ハナショウブとの違いを聞いてくる来園者には、丁寧にその違いについて教えていたが、最初からハナショウブをハナショウブと割り切って来る人とは滅多な会話はした事がなかった。
一度話をしてみたいと女は思っていた。花菖蒲を語る人はどんな人なのだろうと。
意外な質問に男の表情がどう揺れたのか、女が安堵した様子で表情を緩めた。
「お好きなんですね、花菖蒲」
 女の柔らかい声。つい先ほどまで聞いた彼女の声でないような穏やかな声色だった。
(もしや、この女性も花菖蒲が好きなのだろうか)
 同類の気配をその可憐な声に感じて、男は頭を掻いた。そしてゆっくりとした口調で応じる。
彼女の声に負けずと、花菖蒲を愛していますと伝わるように。 
「ええ、好きですよ」
 雨の中、二人は微笑みあった。

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<著者紹介>
蔦川 岬(秋田県仙北郡/31歳/女性/無職)

― お寺や神社でおみくじを引く人はたくさんいるけれど、書いてある運勢どおりに願い事が叶った人はいるのだろうか? ―
 里美がそう思ったのは、「花おみくじ」と書かれた看板を見つけ運試しにやってみようとお賽銭箱に百円玉を二枚入れた時だった。念を込めて一枚引き、ゆっくりと中を開いた。
運勢 『大吉』
願望 『万事好都合にいきます』 
「やったじゃない!大学の授業をサボってまで来た甲斐があったわ」
 小さくガッツポーズを取ったものの、すぐ我に返り、ふぅっと小さく溜息をついた。
「願望が万事好都合にいくのなら、今日ここにはいないはずよ...」
 里美は一週間前に一年ほど付き合っていた彼氏に振られた。傷心の日々を送る彼女がたまたま目にしたのが「縁結びで有名なお寺」とテレビで取り上げられていた深大寺だった。
鮮やかな緑に覆われた境内が映った時に里美はピンと何かを感じた。
「きっと、ここに行けば素敵な事が起こる!」
そう思い、翌日には深大寺に足が向かっていた。何かを信じた時の乙女の行動は素早い。
京王線で八王子の大学まで通っているのでお寺の名前は知っていたが、実際に訪れるのは初めてだった。境内はテレビの画面越しで見るよりずっと明るくどこか懐かしい匂いもした。
「どれどれ、他の項目は何と書いてあるのかしら?」
 里美は花おみくじをもう一度読み直した。
就職 『引立てありて叶う』 

「俺たち、少し距離を置かないか?」
 工藤さんが里美の目をずっと見つめながら言ったあの言葉は今でも忘れる事が出来ない。   
工藤さんは同じ大学のゼミの先輩で里美より学年が一つ上だった。後輩の里美が一目惚れ、果敢にアタックし続けた結果、ついに三年の春からお付き合いが始まった間柄だ。
その日は里美の就職祝いを兼ねたレストランでのデートだった。就職難のこの時代、里美も例に漏れず就職活動で悪戦苦闘の毎日、その間電話で愚痴を聞き続け、励まし続けてくれたのは工藤さんだった。卒業後、就職せず大学院に進んだ工藤さんを今度は私が支えてみせる!と思っていた矢先の一言、里美は目の前が真っ暗になり「なんで?」とも言えなかった...。

「確かに就職は工藤さんの引き立てもあって叶ったけど...。全然ラッキーじゃないわよ」
 あの日以来、工藤さんからメールも来ない。里美がおみくじを読みながら呟いていると、ぽとり、何かが落ちた。
気づいた里美が拾い上げるとそれは綺麗なピンク色の押し花が施してある一枚のしおりだった。
「そうか、花おみくじだから、しおりも付いているんだ!」
 しおりの裏面には「良縁招福」と書かれている。里美は少し嬉しくなった。
「縁起良いから、このしおりは持って帰ろう」
 里美がしおりを鞄の中に仕舞おうとした時、ピロロン、携帯電話の音が鳴った。メールが着信した時のメロディ音だ。工藤さんからかもしれない、里美は急いでメールの中身を確認する。
『就職おめでとう!里美ちゃん頑張っていたから、志望の会社に決まって本当に良かった!今度お祝いするよ!焼肉屋さんで!』
 里美はガッカリしたようなホッとしたような感覚になった。送信相手は工藤さんではなく、同じゼミの同級生である「ダルマ」君からだった。本名は田沼なのだが、高校時代に柔道部に所属するほど体が大きく、しかもぽっちゃり型、何故か日ごろから赤い服ばかり着るので「ダルマ」そっくりに見える所から「ダルマ君」と呼ばれているのだ。
『ありがとう!ダルマ君は今、何しているの?』
 里美はメールを送信した。ダルマ君とは同級生の中で一番仲が良い。就職活動中、里美があまりに愚痴ばかり言うので工藤さんが辟易してしまい、電話に出てくれなくなると、決まってダルマ君に聞いてもらっていたのを里美は思い出した。
ピロロン、すぐにメールの返信が来た。
『今は大学院試験のための勉強中だよ~!』
 ダルマ君は卒業後の進路として就職ではなく大学院を目指していた。試験は確か三週間後、試験の追い込みで一番大変な時期に里美の愚痴を一晩中聞かせ続けてしまっていた事にも気がついた。
「私も就職活動中、ダルマ君に励ましてもらったのだし、気の利いたメールを送らなきゃ!」
 里美は先ほどのおみくじを読み直す。
「あっ!入試という項目があるわ!」
入試 『努力は報いられる』 
おみくじに書かれていた内容をすぐにダルマ君へメールで送ってあげた。
『ダルマ君へ 必ず努力は報われる!あきらめずにガンバレ!』
 このおみくじ、中々良い事も書いてあるじゃない。里美は気分が良くなり、せっかくだからと売店で合格祈願のお守りを買ってみた。
『今、深大寺に来てるよ~!合格祈願お守りを買ったから今度ダルマ君にあげるね~!』
 もう一通メールを送る。おみくじはきっと自分の運勢だけが書いてある訳じゃないはずだ。むしろ、周りの人の願いを叶えてあげてくれた方が嬉しい。
ピロロン、メールの着信音、ダルマ君からだ。格好に似合わず彼はすごくマメだ。
『ありがとう!試験勉強頑張ります!僕の家は調布だから深大寺は近いよ!』
 里美はメールを読んで何故かドキッとした。少し考えた後、ダルマ君へ送る文面を作ってみる。
『よかったら、深大寺でお蕎麦でも一緒に食べない?』
 里美は送信ボタンを押すのを躊躇っていた。やはり、これは自分勝手なメールだろうか?彼氏に振られて寂しい気持ちを紛らわせたいだけなのではないか?
深大寺のおみくじで大吉が出たからと言って、都合よく新しい恋が見つかるのだろうか?
自分の心の声が聞こえてくるが、それでも里美は首を振り、メールの送信ボタンを押した。
「今日くらい、おみくじを信じてもいいじゃない!」
 ピロロン、すぐに返信が来た。
『もちろん!今から深大寺に迎えにいくよ。バス停で待っててね!』
 メールを読み返し、空を見上げるとそこには深大寺の深い緑とは対称的である真っ赤な夕焼けがあった。しかし、赤い空の奥には黒い雲の陰も見える。空模様が自分の気持ちを表しているようで、心苦しくなった。ダルマ君は本当に来てくれるのだろうか?こんな身勝手な私の誘いに応じてくれるのだろうか?
握りしめたおみくじを読み返した。
待ち人 『必ず来ます。信じて待ちなさい』
バス停で待つこと二十分、まっすぐ伸びる石畳の奥からダルマ君が自転車を漕ぎながらやってきた。体が大きいのか自転車が小さいのか分からないが非常にアンバランスなその姿がどこか微笑ましかった。
「遅くなってゴメンね」 
四月に入ったばかりでまだ夕暮れ時になると肌寒いというのにダルマ君の真っ赤なTシャツは汗ばんでいた。里美は首を振り、
「ううん、こちらこそ急に呼び出してゴメン」
 すぐに重い沈黙が流れる...。自分が呼び出したはずなのに二人の会話はそこで止まってしまった。何か話さなきゃと悩む里見を見透かしたかのようにダルマ君が先に口を開いた。
「里美ちゃんに渡したい物があるんだ!」
 窮屈そうなズボンのポケットから小さい布袋を取り出し里美に手渡した。それはお守りだった。「就職祈願・深大寺」と書かれてある。
「本当は、大学で渡したかったのだけど、里美ちゃんは忙しそうだったし、それに...」
 ダルマ君が言いたい事が里美にも分かった。大学ではいつも工藤さんと一緒にいたので、お守りといえど直接渡しづらかったのであろう。モジモジしながら話すダルマ君の顔はいつもより赤くなっているようにも見えた。
「ありがとう。実は私もダルマ君にプレゼントがあるの!ハイ!」
 そう言って先ほど買った「合格祈願・深大寺」と書かれているお守りを渡した。
「二人とも同じ事を考えていたみたいね」
 里美とダルマ君は同時に笑った。心の底から笑ったのはいつ以来だろうか?
「もしかしたら、ダルマ君と私、付き合ったら上手くいくかもよ?」
 肘で小突きながら言うと、ダルマ君の顔から一段と汗が吹き出てきた。
「ねぇ、ダルマ君の自転車の後ろに乗ってもいい?深大寺をグルっと一周してみたいな!」
「えっ?お蕎麦はどうするの?」
「お蕎麦屋さんはまた今度来よう!」
 里美はダルマ君の背中に手を回した。おみくじの項目で一番先に目が行った「恋愛」の項目にはこう書かれていたのを思い出す。
恋愛 『容姿で判断しないこと』
その通りだと思う。工藤さんとはダメだったけれど、私の周りには他にも素敵な人がたくさんいる。深大寺のおみくじはそれを教えたかったのではないだろうか。ダルマ君が運命の人かは分からないが、前向きにさせてくれたのは確かだ。
― おみくじから始まる恋もある ―
大きな背中に寄りかかりながら里美はもう一度、おみくじを読んでみた。
 縁談 『良縁、この人に決めなさい』

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<著者紹介>
加藤 はるき(東京都府中市/29歳/男性/会社員)

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