「ワンちゃんもご一緒できますよ」
コーギー犬を連れている僕たちを見て、蕎麦屋の女性店員が声をかけて来た。神代植物公園脇の蕎麦屋には、外にも席が設けられていて犬を連れていても、ここでなら蕎麦にありつけそうだ。
「ここで、食べていきましょうよ」
サキが言って、僕たちは店員に案内されるままに席に着き、サキは愛犬シンシアを机の脚に括り付けた。シンシアはお座りの格好をして上目遣いに僕たちを見た。
 周囲には樹木が覆い茂り、東京の真夏の昼下がりであっても、どこか山奥の深い森の中にいるかのような居心地だった。僕は長く東京にいる間に、森がもっている薄っすらとした猥雑な匂いを忘れかけていた。ずいぶんと懐かしいような感じがした。
 品書きをちらりと見て、「天ざる      にする」と僕は言ったが、サキはとろろ蕎麦とおろし蕎麦とを迷った挙句、結局「おろし」にすると言った。先ほどの店員に注文を告げると、ひとつ隣の空席を挟んで座っていた年老いた夫婦と思しき男女二人が、僕たちの隣の空席までやってきた。男性は地味なチェックのシャツを着ていたが、女性はピンクのTシャツに白いパンツで、いかにも快活そうだった。二人はもう蕎麦を食べ終え、森の中でくつろいでいたようだ。
「可愛いワンちゃんですね。お名前は?」ご主人が言った。
「シンシアです」
「あら、難しいお名前ね」今度はご夫人が言って、シンシアの頭をなでた。ご主人は大きなレンズのついたカメラを肩から下げていた。それをシンシアのほうに向けて、舌を軽く鳴らすと、シンシアはご主人のほうを向いた。シャッターが連続して切られた。  
 今撮ったばかりのシンシアの写真をデジタルの画面で見せてくれたが、シンシアが、舌を少し出して正面を向いた様子がきれいに撮れていた。
「すごくかわいく撮れてる。おじさんはまるで魔法使いのようですね。なかなか正面を向かせて写真、撮れませんよ」サキが言った。
「二人とも犬が大好きでね、よくこうやって撮らせてもらっているんですよ」 
 そう言うと、ご主人はバッグから写真ホルダーを取り出して、「ほら、これ」と僕たちに差し出した。サキが机の上で開けてみると、ダルメシアンやレトリバー、シェトランド・シープ・ドッグがボールを追いかけたり、お座りしている写真が収められていた。
「犬は飼われていないんですか?」僕が訊ねた。
「二年ほど前に死んでしまってね。今から飼っても、私たちのほうが先に死んでしまうだろうからね」ご主人がそう言うと、ご夫人   も相槌を打つように頷いた。  
 僕はなんだか悪いことを言ってしまったような気がした。
 先ほどの店員が注文したものを運んでくると、二人は僕たちに礼を言って、勘定を済ませ植物公園に向かって歩いていった。

 サキは三ヶ月ほど前に離婚をしていた。結婚生活は三年続かなかったようだ。離婚に至るまで、別居生活を続けていたわけではなく、 離婚届を出すと同時に元の旦那が家を出た。サキはシンシアと3LDKのマンションを引き取った。まだマンションのローンも途方もなく残っているだろうし、そのあたりについてどう折り合いをつけているのか、僕はまったく知らない。離婚の原因についても、元の旦那が悪いのか、サキが悪いのか、それとも互いに悪いのか、そもそも誰も悪くないのか僕には見当もつかない。サキは元旦那のことを悪くも言わなければ、自分がどうだとかも一切口にしなかった。
 僕は大学を出てからは、一度だけサキと二人きりで会ったことがあった。サキが結婚する前のことだ。二人でわりと有名なある劇団の演劇を観に行ったのだが、サキは僕とは違う誰かと行く予定だったみたいで、その誰かに急用ができたため、その代わりに僕が行ったのだ。その誰かというのは元旦那だったのかもしれないし、ただの女友達だったのかもしれない。その時にそんなことはサキに訊かなかった。
 僕たちは演劇を観た後で、軽く食事をしてバーに入った。そのときに就職したばかりの会社のことを互いに話し合ったことは憶えているのだが、どの店に入って、何を頼んだのかまでは憶えていない。どうせ僕はいつものようにビールを飲んでいたのだと思う。
「小宮君、芝居とか好きでしょ。だから、誘ったの」
別れ際にサキはそう言った。僕はとりわけ演劇とか好きなわけでもなく、年に一回観に行くくらいだった。
「また、なにかあったら誘うね」サキが言った。サキと出かけるのは悪くはなかったし、僕も「こちらもね」と言った。
そう言ったきり僕たちが二人で会ったのは、六年ぶりだった。その間にサキは結婚して、犬を飼って、離婚をした。僕は結婚も離婚もしていなかったが、新卒で就職した会社を辞めて、別の会社で働いていた。サキはまだ会社を辞めずに続けていた。

 僕たちは蕎麦を食べ終えると、深大寺の方へ降りていった。僕がシンシアのリードを持った。深大寺でお参りを済ませ、僕たちは野川に出て、左岸を上流に向かって歩き始め、野川公園を目指した。
川原には草が茂り、アスファルトと違ってシンシアも歩きやすそうだった。野川にはカルガモの親子が浮かんでいたり、武蔵野の佇まいが残っていて、僕は飽きることがなかった。
 旦那が出て行った後、サキは一人でシンシアの面倒を見なくてはならなかった。シンシアも旦那が出て行くときに本棚や机が運び出され、ぽつりと空間ができると、それに敏感に反応したようで、しばらく下痢が続いたり、散歩に出てもすぐに帰りたがったらしい。犬は人間よりも神経質で、環境の変化には過敏のようだ。旦那と暮らしていたころは、朝夕の散歩もサキが行ったり、旦那が行ったりと交替でこなすこともできたが、今はサキが一人でこなしている。仕事を持ちながら一人で朝夕の散歩を欠かしてはならないというのは骨の折れることだろうと容易に想像がつく。ペットを育てるための休暇制度なんてあと何百年経ってもできそうにないし、犬を飼うにも綿密な人生設計がいるものだ。
 三日前にサキから突然の電話があった。サキが離婚したと僕は知っていたが、「いろいろ大変だったみたいだね」としか言えなかった。
「あまり遊んでやってないせいで、シンシアもストレスが溜まっているみたい。休みの日以外はずっと一人ぼっちにさせているし」その電話でサキが言った。そうして夏でも犬を歩かせやすいだろうということで、僕たちはこうして深大寺の森にやって来たのだ。

野川公園では、まっすぐ立った何本もの木々が芝生にくっきりと濃い影を落としていた。
「シート持ってきたから、ここに座りましょ」サキはトートバッグからレジャーシートを取り出し、二人で広げて腰を下ろした。売店で缶ビールを二本買って来た。サキと軽く缶をあわせて乾杯をした。木陰で飲むビールはなんとも旨いものだと思った。
「小宮君、犬好きでしょ」
 サキが言った。僕は自分が世間の平均から見てどの程度の犬好きなのか、考えたこともなかった。カメラマン氏やそのご夫人ほどではないにせよ、少なくとも嫌いではないと思った。
「たぶんね」僕は言った。
 四時を回ると、僕は車をとって来ると言って、タクシーを拾い、車を止めた場所に戻った。再び野川公園に戻ると、サキとシンシアを積み込み、サキの家まで送っていった。

 翌月曜日、僕はいつもの平日と同じ時刻の七時五発の中央線に乗った。新宿駅で降りて、通勤前に必ずコーヒー・ショップに寄って、新聞と文庫本を読むのが日課になっている。
 窓越しには同じ方向に向かって舗道を歩く人の流れがあった。その流れの中に確かに昨日のカメラマン氏の姿があった。ノーネクタイで、ジャケットを羽織っていた。追いかけようかと思ってふと立ち上がったが、目の前のアイスコーヒーの入ったグラスを見て、思いとどまった。カメラマン氏はそのまま流れに消えていった。朝から幻でも見たかのような不思議な気分に包まれて、僕はその日ずっと昨日のことを思い出していた。
 そして、その日の夜に僕はサキに電話をして、朝、新宿でカメラマン氏を見かけたことを話した。
「小宮君、明日も張り込んでみてね」サキにそう言われて次の日も同じ時刻にコーヒー・ショップに入り、窓側の席で、外をずっと眺めてみたが、カメラマン氏は現れなかった。そうしてその日のうちに電話でサキに報告をした。次の日もカメラマン氏は現れなかった。
 そうして同じように電話で報告をすると、「ねえ、また土曜か、日曜日に深大寺にまた行ってみようよ」サキが言った。
僕は木陰で飲んだビールが忘れられず、  気の利いた食べ物でもあれば最高だと思った。
「じゃあ、ローストビーフかなにかでサンドウィッチでも作ってきてよ」
「うん、わかった」サキは軽快に言った。
「ねぇ、小宮君。私のこと好きでしょ」
 小首を傾げて舌を出しているシンシアの姿が頭に浮かんだ。

(了)
 
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<著者紹介>
有森 玲(東京都葛飾区/39歳/男性/会社員)

昨年末から公募をかけていた深大寺短編恋愛小説『深大寺恋物語』ですが、締め切りまで残すところ一週間と迫って参りました。
来週の火曜日、7/31必着です。
締め切りを過ぎて届いた作品につきましてはお受け致しかねますので、くれぐれも投稿日にお気をつけください。

最近は守ってくださる方が増えたのですが、まだ、ちらほらと要綱を良く読まずに投稿されている方がいらっしゃいます。

封筒に封をする前やメールを送信する前に、今一度、要綱を読み直し、ご自身の作品と照らし合わせた上でご応募ください。
折角の力作も、要綱に沿っていないと落選してしまいます。
本当に勿体無いです。

何卒よろしくお願いいたします。

 梅雨の合間の曇りの日、俊介と繭は調布駅前のファミリーレストランで向き合いながら座っていた。繭は半分まで飲んだアイスティーに浮かぶ氷を、ストローで何回も転がしながら会話を続けた。
「俊介、ごめんね。バイトとか忙しかったんじゃない?」
「全然。ちょうど、家庭教師先の生徒の具合が悪くて、バイトが休みだったんだ」
「そう、それなら良かった。俊介、いつもサークルが終わるとバイトに忙しそうだったから...みんなとお茶したり、ご飯食べたりしないでしょ。俊介とちゃんと話をしたいと思ったから...」
繭は動かすストローの手を止めて、俊介を見つめ微笑んだ。
俊介は今春、山梨県の自然豊かな山間の町から都内の私立大学に進学し、一人暮らしをしている。大学の学費やら、アパート代やら、親の仕送りだけでは厳しいので、アルバイトをしながら生活費を補っている。
繭も今春から大学生となり、調布にある自宅から俊介と同じ大学に通っていた。
2人が出会ったきっかけは、大学のテニスサークルだった。繭は長身で美しい黒髪の女性であった。凛とした雰囲気と、時折垣間見せる10代女性のあどけなさが入り交じる魅力的な女性だった。
俊介はサークルに入った当時から、繭の存在が気になっていた。魅力的な女性だけに、周囲の先輩や同級の男子学生が注目していることも知っていた。大学の講義が終わった後、キャンパスで繭から声をかけられた時は、正直、喜びよりも驚きの方が大きかった。

「仮病、使っちゃった」
「え!?仮病って...何?」
「今夜ね、サークルの男子の先輩達と1年生の女の子達で誕生会をやることになっているの。新宿のパークハイアットのスィートで」
 サークルには資産家の息子が何人かいて、彼らがグループで高級ホテルやレストランを借りてパーティーをやっていることは、俊介も知っていた。誘われた女の子達が非日常のお洒落な時間が過ごせると、意気揚々としているのを傍目で見ながら、自分とは関わりの無い世界だと感じていた。
 繭ほどの女性であれば、彼らから声をかけられてもおかしくはないと思った。ただ、毎日、毎日、バイトに明け暮れている自分と、親の金で自由気ままに遊んでいる彼らとの立場を比べて、俊介は少し嫉妬した。嫉妬を悟られぬよう、平静を装いながら俊介は尋ねた。
「で、誰の誕生会?」
「私の。今日が19歳の誕生日なの」
「えっ!繭の誕生日だったの!」
 あまりにもあっさりと繭が答えるので、俊介は戸惑った。高級ホテルのスィートで開かれる誕生会。俊介だって山梨の田舎から上京して、流行のドラマに出てきそうなホテル、新宿の夜景、美味しい料理、そんなシチュエーションに憧れを持っている。それを事もなげに断るなんて。
「私ね、誕生会の誘いがあった時に、断るつもりだったの。だって、学生の身分でパークハイアットのスィートっておかしくない?自分できちんと稼いでいる人が誘ってくれるならまだしも、親のすねでしょ。そういうの、すごいイヤ。でもね、一緒に1年の女の子達も誘われて、その子達が乗り気になっちゃって...私が断ると、誕生会自体がなくなっちゃうでしょ。女の子達の無言のプレッシャーに負けてね、断れなかった。でも、当日、病気ってことにしておけば、誕生会も私抜きでやるだろうって、思って」
「ホテルのスィート蹴って、俺とファミレスだぜ。本当に良かったのか?」
「言ったでしょ。親のすねかじりは嫌いだって。それよりも、頑張ってバイトしている俊介の話が聞きたいし...」
 俊介の心臓が少しキュッとした。男子学生の注目を一身に浴びている繭が高級ホテルを捨てて、自分の前に対峙している。
俊介は覚悟を決め、立ち上がり、会計の準備を進めた。事態が読めずにいる繭に対して、右手を差し出した。
「なんじゃもんじゃの光を観に行かないか」

 2人は調布駅から深大寺へ向かうバスに乗った。バスの最後尾の席に2人は並んで座る。バスはゆっくりと駅前のロータリーを出発する。
繭が怪訝そうに俊介に尋ねた。
「なんじゃもんじゃの光って、何?何をしに行くの?」
「あとでのお楽しみさ。誕生日の想い出になるよう、ささやかなプレゼント」
「へぇ〜、じゃ、楽しみにしているね」
 俊介はバスに揺られながら、饒舌なくらい自分のことを話した。バイトで家庭教師をやったり、そば屋で働いたりしていること。実家の両親が教師をしていること。すごい田舎で電車が一時間に1、2本しか走っていないこと。小さい頃は、近くの沢で沢蟹を捕って遊んだこと。
繭は俊介が話す言葉に耳を傾け、にこやかに頷いていた。
 深大寺入口のバス停で2人は降りた。木々が生い茂り、枝の合間から薄墨色の雲が広がっていることを辛うじて覗き見ることができた。
「まだ、7時ごろだっていうのに、全然人がいないのね。ちょっと怖いな」
「大丈夫だよ。ここは俺のテリトリーだから」
 俊介は繭の右手を握り、深大寺の参道に向かった。
 参道に辿り着くと視界が広がった。鬱蒼とした木々が開け、参道の両側にはそば屋や茶屋が軒を連ねていた。とっくに店じまいをしたそば屋、茶屋を通り過ぎると、茅葺屋根の山門が目に入る。山門の前には水路があり、静寂の夜に清水が流れる音が心地よかった。
「私、深大寺って、大学に行く時にいつも通っているけど、中に入るのは初めて。こんな、静かで綺麗な場所だったなんて知らなかった。昼間に来たら、もっと風情が楽しめたでしょうね」
「夜は夜で、趣があるよ。なんじゃもんじゃの光はこれからさ」
 山門をくぐりぬけ境内に足を踏み入れると、敷き詰められた砂利の音が響いた。本堂を正面にして左手に進み、1本の樹木の前に辿り着く。
「これがなんじゃもんじゃの木。ヒトツバタゴっていう木なんだよ。別名、雪の花とも言われる。まだ、少し花が咲いているかもしれないな」
「雪の花...綺麗な名前ね。光っていうことは、この花が光るの?」
「ちょっと違うな。少し待っていてごらん」
 無言のまま、境内にそびえるなんじゃもんじゃの木を見つめていると、右手から幾本かの黄色い光の筋がすうっと流れてきた。光の筋は2人の目の前で緩やかに舞い、なんじゃもんじゃの木に停まる。
「何!?この光!なんじゃもんじゃの光って...」
「蛍だよ」
「東京で蛍!嘘でしょ!すごい!」
 繭は興奮し、声が大きくなりかけたが、静寂な境内にふさわしくないと咄嗟に悟ったのか、小声で俊介にささやいた。
「私、蛍を生で観るの初めて!嬉しい!」
「誕生日プレゼント、喜んでくれたかな?」
「もちろん!!」

 繭は俊介の肩にもたれながら、幾本かの光の筋を見つめていた。俊介は、繭の体温と黒髪の匂いを感じながら話し出した。
「俺、東京に憧れて、大学に進学して一人暮らしを始めた。でも、どこかで田舎の風景を探していたのかもな。何気なく訪れた深大寺だったけど、山梨の実家に似てる雰囲気があってね、一発で気に入っちゃった。そば屋でバイトしているって言ったろ。実は、参道にあったそば屋でバイトしているんだ。」
「本当!?てっきり、駅前のそば屋かと思ってた。随分、本格的なお店でバイトしていたのね」
「バイト帰りに境内をお参りしていたら、さっきの蛍を発見したわけ。すごい感動したよ。だって俺の実家でも、今頃の季節になると、田んぼの脇の川にたくさんの蛍が舞うからね。深大寺が心の故郷に思えた。きっと、願い事が叶うだろうと思って、一生懸命お参りしちゃったよ」
「願い事って、何...?」
「繭、深大寺のご利益って何か知ってる?」
「知らない。学業の神様とか?」
「違うよ。縁結びの神様。繭と付き合えますようにって、ずっと祈ってた。俺、前から繭のことが好きだった」
 一瞬、沈黙が流れた。肩にかかる繭の重みに、俊介は自然と鼓動が高鳴るのを感じた。
「ありがとう」
 繭は俊介の左腕をぎゅっと抱きしめた。俊介は照れ隠しに、声を張り上げ気味に言った。
「誕生日プレゼントの後は、誕生日会だ!バイト先で貰ったそばがあるんだけど、俺の部屋で食べない?」
「そばでお祝い?しっぶーい!俊介、本当に十代なの?私、そば好きだからいいけど、普通のギャルだったらひいちゃうよー。それと、そばを食べるだけだからね。変なことは駄目!」
「大丈夫だよ。俺を信じろよ」
 2人は手をつないだまま山門を下り、足取り軽く参道の石畳を進む。なんじゃもんじゃの光を背にして。

(了)
 
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<著者紹介>
坂井 むさし(東京都西東京市/33歳/男性/会社員)

 苔むした水車が窓越しに濡れ輝く。深大寺のあたりにはいくつもあるなかでは、やっぱりここが一番。慎ましやかな佇まいの店でいつもの蕎麦を待つ週末の昼下がり。春香にとってはこのうえもないひとときである。
 蕎麦湯が出るころには、客は春香と老夫婦だけとなった。彼らが勘定を済ませて立ち去ると、若主人の仁一がテーブルの前に歩み寄ってきた。
 「いつもありがとうございます」
 「週末は皆勤賞ね」
 「毎週、春香さんの姿を楽しみに待っているんですよ」
 「ホメ殺しは勘弁。でも私、ここに来ると癒されるっていうのかな。仕事のこととか忘れられるの」
 「お仕事は何でしたっけ?」
 「会計屋さん、ってところ」
 「すごいな。僕、数字がいちばん苦手なんです。春香さんみたいな人に、週末だけでも帳簿をお願いできたらなあ」
 「そんなの朝飯前。それより私、こういうところで働いてみたい」
 「え?」
 「叔母が小料理屋をやっててね、割烹着で立ち働く姿に、憧れてた」
 「だったら来週、やってみませんか?バイトが休みをとるんですよ」
 「うん、決まり!」
 次の土曜日、いつになく早く目が覚めた。こんなに浮き浮きするのは何年ぶりだろう。またも笑みがこぼれた。一時間も前に着いてしまうと、「臨時休業」の貼り紙に出迎えられた。勝手口に回りチャイムを鳴らす。ちょっと間を置いて顔を出した仁一の目尻に疲れが滲み出ている。
 「どうしたの?」
 「困ったことになりました」
 ―いつもの蕎麦粉の出荷が止められてしまった。あれでないとウチの味が出ない。このままでは店を続けられなくなる。代わりを見つけるにも半年や一年はかかる―
 深沙大王堂までの道のりをゆったりと歩みながら、仁一はそう語った。蕎麦農家の名を聞いた春香は「力になれるかも」とつぶやき、山門の前を滔々と流れる水をしばらく見つめていた。

 翌々日、東京からは三時間ほどの山の中。ジージジーという蝉の声が、さすがに深大寺よりもずっと濃い。
 「片倉さん、おしさしぶりです」
 「あなたは!」
 「妙なご縁がありまして」
 「もう十年、になりますか」
 「お嬢さんはお元気ですか?あのときは中学生でしたね」
 「今はそれだけが悩みで。つきあっている相手がいるようですが、態度がはっきりしない。まったく...。あ、失礼。それで?」
 「頼みがあって来たの」
 「そう言われると、断りにくいな」
 「蕎麦粉を分けてほしいの」
 「あなたが?」
 「知り合いのお店」
 「そうですか。たいがいは断るんですけど。まあ、あなたがわざわざ訪ねてきてまでおっしゃるなら」
 「深大寺の...」
 「あっ!あそこだけは駄目です」
 まったく取り付く島がなかった。帰りのバス停までとぼとぼ歩いていると、後ろから激しいクラクションで追い立てられた。トラックが通り過ぎたあとには、鬼太郎茶屋の目玉餅が路面にべったりと貼り付いていた。渡しそびれた手土産の哀れな末路であった。
 「...というわけ。大きな口叩いておいて、私も頼りないね」
 「そんなことありません。春香さんにそこまでやっていただいて、感謝してます。それにしても、どうして...?」
 最近、仁一の店は蕎麦の味が落ちたという評判が入っている。採算ぎりぎりの線まで品質への執着を徹底する片倉にとっては、断じて許せない。要するにそんな話だった。
 「心当たり、ある?」
 「最近、考え事が多くて」
 「考え事?」
 「将来のこととか...」
 仁一の頬にわずかな赤味がさすと、春香のほうも首筋が熱くなった。五大尊池の水面をかすめながら、きらめく緑と青に彩られた蜻蛉が連れ舞っていた。

 参道から一歩入った路地にひっそりと佇むレンガ造りの珈琲屋。店内の飴色と窓越しの緑が、目にも身体にもすうっとしみいる。ここでぼおっと過ごすのも、これまた春香にとってはお気に入りの週末だった。木と土の匂いが漂う空間で丁寧に淹れられたコーヒー。十年前の記憶が甦ってきた。
 ある企業で経理の不祥事が発生。事件の悪役とされていたのが片倉だった。調査チームの一員であった春香が持ち前の性分で徹底的に洗いなおしたところ、小さな疑問が浮かんだ。調べを進めるにつれ矛盾はさらに膨れ上がり、最後には、片倉ははめられたとの確信に至った。無難にすませようとする上司を断固としてはねのけた春香に対する風当たりが強まると、彼女のほうから辞めたのであった。難を逃れた片倉も半年後に退社。好きであった蕎麦を自分でつくりたいと田舎にこもったのだった。
 店を出てからも思いは巡った。駅まで小一時間、歩くことにした。いつだって自分は筋を通してきた。世の中に対して、片倉に対して。こんどもそうするしかないじゃないか。なによりも、仁一に対して頼りになるところを見せたい。彼のあの言葉。あれはもしや...?だったらなおさら。そうして...。
 家に帰り着いてからも、コーヒーの仄かな甘味の余韻はいつまでも残っていた。

 神代植物園のバラ園を囲むベンチのひとつでは、見ず知らず同士の若者と老婦人が親しげに話している。そうさせる雰囲気がこの界隈には漂っている。ここなら本音で話せそうな気がして、片倉を呼んだのだった。
 ありったけの熱情で説得を試みる春香を、片倉は渋い顔で断り続けた。雷鳴が近づいてきた。
 「悩んでいたんです、彼は。ある女性と、将来をどうしようかと」
 「蕎麦とは関係ないでしょう。失礼」
 「蕎麦とは関係がなくっても、私に関係あるんです」
 「は?」
 大粒の雨が降り始めた。
 「だから、その女性って、あのぉ、」
 ひときわ大きな雷鳴が轟いた。続いた閃光が、走り去る片倉の背中を照らした。
 雨に打たれるままに立ち尽くし、春香の心は叫んでいた。もういい。自分が全国をまわって、あれ以上の蕎麦を仁一に見つけてあげる。大丈夫、見つけてみせる。

 タクシーの窓からは、さすがに涼しさを帯びた風が忍び込んでくる。時差ぼけを覚ますにはちょうどよい。
 あの雷雨の日の翌週に抜き差しならない海外出張に巻き込まれ、気がついたら三週間。やっと帰国がかない、荷物を放り投げて駆けつけたのだった。
 汗を浮かべながらそばを打つ仁一の姿を認めて、春香はほっとした。客席も上々の入り。店を出る間際になって、ようやく仁一が出てきた。
 「片倉さんが送ってくれたんです」
 割烹着姿の若い女性が、後ろからぺこりと頭を下げた。
 「妻です」
 意志の強そうな目もと、口もと。どこか見覚えがある。
 「片倉の娘でございます。以前は父が大変お世話になりました」
 仁一が、ひときわ太い声で続ける。
 「おかげさまで、二人でやっていく覚悟ができました。いろいろありがとうございました」
 春香は、とびっきりの笑みを返した。いや、返そうとした。
 「よかった。じゃ、また」
 きりっと後ろを向くと、振り返りもせず立ち去った。ほんとうは走り出したかった。どこまでも走っていきたかった。青ざめた顔を、震える足を、見られたくなかった。
 よりによって、片倉の娘と仁一とが...。出荷を止めたのも、仁一の曖昧な態度に業を煮やしてのこと。入籍を知り片倉も安堵というわけ、か。
 どこをどう回ったのだろう。ようやく落ち着きが戻ってきた。目の前では、弁財天池の亀が悠々と手足を伸ばして日向ぼっこに興じている。
 「なんてこった」
 まるで道化役じゃないか。そう思うと、たまらなく可笑しくなってきた。笑いが止まらなかった。やがて、亀の姿がぼやけてきた。
 夕の梵鐘が聞こえてきた。ふっと釈迦堂を見返ると、白鳳仏が微笑んだ気がした。緑を揺らして、風が駆け抜けた。

(了)
 
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<著者紹介>
大越 康弘(東京都港区/39歳/男性/会社員)

大通りに出ると、せわしなく車が行き来する音が聞こえてきた。顔に当たる陽射しの強さから、今日が雲ひとつない晴天だと分かる。
気持ちの良い日だった。僕は額に汗を浮かべながら歩道橋を上り始めた。今日も逢えるかな、そんな淡い期待を胸に抱きながら僕は一歩一歩踏みしめる。右手に持つ杖の握り部分で揺れる小さな御守りが、僕の歩くリズムを作っていた。
「深大寺歩道橋っていうのよ」
幼い頃、手を引いて散歩に連れて行ってくれた母親の言葉は今でも鮮明に残っている。あの時初めて、歩道橋に名前があると僕は知った。上り三十六段、下り三十一段。最初の頃は確かめるように頭の中に数字を並べなければ怖くて歩けなかったが、今では無意識に足が進むべき方向を定めてくれる。
深大寺小学校を右手に、その角を曲がると長い下り坂が待っている。そこから高い石垣に沿って歩き元三大師堂を目指すのが、僕のお気に入りの散歩コースだ。小学校低学年の頃からだから、もう十年は歩き続けていることになる。
頭の上からセミたちの声が響いてくる。天に顔を向けると、その振動が顔にじりじりと伝わってくる。しばらくそうして歩いていると、陽射しが途切れた。心地よい水音の響きは下り坂の終点、大樹の下までやって来たことを知らせてくれる。「不動の瀧よ」と、これもまた母が教えてくれた。この世のものには何でも名前があるんだと知ってからは、母親に質問ばかりしていた。交差点や道にだって、僕の瀬田永路っていう名前と同じように名前があったのだ。
不動の瀧からしばらく歩くと、左手に店が並び建つ。「いらっしゃいませ〜」という声に、「瀬田くん今日も帰りに寄ってってね、麦茶入れとくから」という僕に向けられた言葉が聞こえてきた。岩井さんだ。毎日、そうやって声を掛けてくれるとても親切な人で、僕はいつものように「後で寄ってきまーす」と声の主の方に向かって叫び通り過ぎる。
山門の階段はとても急だけど、両隅には竹の手すりがあり、僕は毎日その感触を楽しみながら一歩一歩踏みしめる。最初の頃はザラザラしている竹肌。しばらくすると表面がツルツルしてくる。多くの人がこの手すりを使用しているからだ。ずっとそんなことに神経を向けていたからか、最近は竹の変え時が分かるようになってきた。そろそろだなと思っていると、ある日の朝からまた新しいザラザラした竹になっているのだ。今日の感じからだと、来週か再来週には新しくなるだろう――散歩コースの楽しみは、年月を重ねるたびに増えていく。
 そして、一昨日の大雨の日からまたひとつ新鮮な気持ちを抱きながら、僕は散歩するようになっていた。


 その日は朝から激しい雨が降っていた。危ないので傘はささず、フード付きの雨合羽を羽織って僕は家を出た。
 雨の日は雨音で周囲の音が聞き取りづらく、特に注意が必要だ。人の気配はもちろん、自転車の気配も見逃しがちになる。それに足元が滑りやすくなる。僕はいつもよりアンテナを敏感にさせて参道を歩いた。
 山門から先は、歩数を頼りに僕は方向を定めている。正面から線香の匂いを頼りに四十二歩進むと、香炉の前にやって来る。そこから左に進路を変えて二十五歩で井戸の前。さらに斜め左方向に石床を十二歩ほど歩くと、元三大師堂の敷地へと続く階段がある。ここは十四段と短い。山門と同じく左右に設けられている竹の手すりの感触を確かめ、僕は一歩一歩と踏みしめる。
階段を上りきって十七歩で、ようやく元三大師堂の真正面。石段を三段、木階段を五段上がると賽銭場所に到着する。
 いつものように小銭を投げ入れ手を合わせ終え、ゆっくりと階段を下り引き返し始めた時だった。濡れていた木段の角を踏み外した僕は、足を取られて二、三段ほど転げ落ちてしまった。痛みはなかったが、油断していたこともありしばらく動けなかった。
まずは両手で周囲を探り、立ち上がろうと力を込めた瞬間、その声が頭上から聞こえてきた。
「大丈夫ですか?」
すっと手が伸びてきた。とても細い指だった。僕の左手首をしっかりとつかみ、「立てますか?」と声を掛けてきた。
「だ、大丈夫です」僕は慌てて言うと、彼女に力を借り立ち上がった。
「雨の日は滑りやすくなるんですよ。気をつけてくださいね」
「つい油断してしまって......。もう大丈夫です」僕はそういうと、杖を握っていないことに気づいた。転んだ瞬間に手放してしまったのだ。
「毎日、ここに来られてますよね? あっ私、ここで巫女をやっている山口由美です。何か困ったことがあったら何でも言ってくださいね。だいたい毎日、ここにいますから」言い終えると、彼女は僕の右手に杖を優しく握らせてくれた。
「本当にありがとうございます」
高まる鼓動に負けないぐらいの早足で、僕は逃げるように境内を出た。それでも彼女の柔らかな手の感触と温もりは、僕の両手から消えることはなかった。
翌日は打って変わって良い天気だった。期待と不安を覚えながら、僕はいつものコースを寸分の狂いなく歩く。元三大師堂に続く階段を上ると、呼吸が早くなっている自分に気づいた。今日も由美さんは来ているのだろうか?
ポケットから小銭を取り出し参拝。周囲に何人かの気配を感じる。たぶん老夫婦と親子がひと組だ。少しいつもより時間をかけて拝んでしまったと思い、僕はやって来た方向に向き直り、階段を慎重に下りる。今度はいつ逢えるんだろう、と思った瞬間だった。背中に声が掛かった。
「あの、ちょっといいですか?」
声の主はもちろん由美さんだった。振り向くと、すぐ近くに気配を感じた。
「ちょっと貸してください」
由美さんは僕の右手から杖を取った。何をするんだろうと思いながらしばらく待っていると、また由美さんが口を開いた。
「よし、これで大丈夫かなぁ。私からのプレゼントです」
返された杖の上端に何かが結び付けられていた。僕はそっと触ってみる。お守り?
「ここのお守り、本当によく効くんです。私も同じのをいつも身に付けてるんです」
「あ、ありがとうございます。あの......」
続く言葉は結局、出てこなかった。なぜそんなに親切にしてくれるんですか、とは言えずに僕は家路に就いた。
 家の玄関で靴を脱いでいると、奥の台所から母親が近づいてきた。家の中にはカレーの匂いが充満していた。
「ずいぶん遅かったわね」
そう言ってから少し間を置いて、僕が靴箱に立てかけた杖に気づいたのか尋ねてきた。
「お守り買ってきたの?」
「ううん、もらった」
「誰に?」
「え?」僕は迷った。照れがあったので、その場は「ナイショ」と笑顔を作ってみせた。
「なにそれ」と母親も笑ったが、続けてこう言った。「大事にしなさいね。これ、交通安全のお守りなんだから」
「分かった」
 生まれた時から視力を持っていなかった僕は、これまで周囲の人からたくさんの親切を受けてきた。ずっと、ずっと、支えられ助けられ、今ではひとりで生きていけないということを自覚しているほど、多くの人たちから。でも由美さんの親切は、これまでのものとはまったく違っていた。なんだろう......顔を見ていないはずなのに僕の心の中でイメージが膨らんでいったのだ。声の響きやそこにいるという気配。ふたりの距離には無数の空気の粒があるはずなのに、まるで触れ合っているかのような気分なのだ。
翌日から僕にとっての深大寺の散歩は、明らかに変わった。散歩でなくなった。だから額の汗を気にすることなく僕は今日も、横断歩道を越え、深大寺小学校をなぞるように参道へと入り――山門からの百十歩を寸分の狂いもなく爽快と歩く。杖の先端に付いた、小さな幸せを揺らしながら。
「こんにちは。今日も良い天気ですね」
元三大師堂の前までやって来ると、セミたちの鳴き声に負けないぐらい元気な由美さんの声が響く。
この夏、またひとつ散歩の楽しみが増えた。

(了)
 
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<著者紹介>
鈴木 みつる(東京都大田区/29歳/男性/フリーライター)

深大寺の山門前の小路には小さなベンチがおかれています。ベンチのそばにはわき水の小川が流れ、朝には楓の古木がさしかける枝の間から木漏れ日が水面に映るのです。その水面に新しい蓮が顔を出しました。小さな蓮はつぼみをもたげて、枝をさしかけてくれる古木に話しかけ、参道を訪れる人を眺めておりました。

ある日、すらりと背の高い男の人がやってきました。まっすぐな鼻梁にはなめらかに眉が連り、涼しげな顔立ちですが、若さに不釣り合いなほど痩せていました。
男の人は蓮のそばのベンチに座って小川を眺めていました。
そこへ小さな男の子が駆けてきました。蓮が二人の方に首を傾けたとき、男の子は蓮を見て
「変な花。汚い色だよ。」
と言いました。蓮は驚き、恥ずかしさでつぼみをたれてしまいました。
「蓮は、それは見事な花が咲くんだよ。」
蓮ははっと顔を上げました。男の子はふうんというと、そば屋の方に駆けていってしまいました。それに気づいたそば屋の若旦那は男の人を見るなり驚いた顔でやってきました。
「おまえ、帰ってたのか。」
古木はようやく男の人が誰か思い出しました。昔、そば屋の息子と一緒に参道を通って小学校に通い、その後も時々深大寺に来ていた人でした。しかしいつからかふっつりと足が途絶えていたのです。
「元気だったか。」と笑う男の人を見たとき、友達は何か言おうと迷ったようでしたが、すぐ笑顔でいつ帰ってきたのかと尋ねました。二人で懐かしそうに言葉を交わしたあと、男の人は真剣な顔で「俺がいることを誰にも知らせないでくれ。」と言いました。友達はしばらく黙ると「わかった。」とだけ答え、店にも来てくれよと言って立ち去りました。
男の人は大きい腕時計を手で押さえて見ると立ち上がり、ゆっくり帰って行きました。
蓮はこれまで自分がどんな姿かということを考えたことがありませんでした。この日から蓮は水面をのぞき込むようになりました。蓮はどうにかして美しい自分を見ようとするのですが、くすんだつぼみを確かめてはため息をつきました。

男の人には家族がいました。お母さんは子供の頃になくなり、お父さんは新しいお母さんを迎えました。新しいお母さんは一生懸命に男の人をかわいがってくれました。まもなくお母さんに男の子が生まれました。家族はずっと幸せに暮らしていました。しかしその幸せは壊れました。
男の人は大学を出て、福岡の会社に就職を決めました。しかしお父さんは納得しませんでした。
「どうしてわざわざ福岡に行くんだ。」
「もう決めたんだ。」
「反対しているんじゃない。理由を聞いてるんだ。まさか死んだお母さんの田舎だからか。それともうちを出たいのか。」
「父さんには関係ないだろ。」
「関係ないわけないだろう!」
平穏な家庭の根っこに残っていた小さな痛みは、突然大きな陰になって現れました。
「どんな思いをして育てたと思ってる。」
「じゃあオレがどんな思いで我慢してきたと思うんだ。いつも遠慮して、居場所を分けてもらってると卑屈になってた俺の気持ちにおまえ、気づいてたか?」
「親に向かっておまえとは何だ!」
二人の怒鳴り声に気づいて部屋に入ってきたお母さんは、やりとりを聞くなり「わたしがダメだったの?」と絞り出すように言いました。
「そういうことじゃないんだよ。これ以上惨めにさせるのか?頼むから説明させないでくれ!」
「おまえ、今まで一言もそんなこと言わなかったじゃないか」
といってお父さんは泣き出してしまいました。二人はたまりにたまった悲しみや苦労をこれでもかと吐き出しあいました。そしてその言葉はお互いを深く傷つけたのでした。
二人が争いに疲れ果て、沈黙が流れた時、弟が高校から帰ってきました。いつも通り部屋に入ってきた弟は、父と兄を見るなり、家族の何かが壊れてしまったことを悟りました。弟にとってもそれは心のどこかで予期していたことだったのかも知れません。
弟の帰宅を合図のようにして兄は出て行きました。それきり、兄は家に帰っては来ませんでした。

男の人は調布に戻ってきました。そして毎日のように深大寺を訪れました。男の人は、時々誰に言うともなしに、「あまり時間はないのに」とつぶやくのでした。蓮は男の人がつぶやくたびにそっと葉の陰から男の人を見上げ、男の人が立ち去るときにはその姿を見送るのでした。
男の人が蓮を眺める時間は次第に増えていきました。いつしか男の人は蓮が自分の話を聞いてくれている気がして、蓮だけに気持ちを話すようになりました。
男の人はもうあまり生きられないことを教えてくれました。調布に帰ってきたのは、一番心残りなことを果たすためでした。「でもどうやって帰ればいいんだろう。俺が死ぬってことを、なんて言えばいいんだろう。」
蓮は男の人の話にじっと耳を傾け、涙をぽとりと落としました。蓮の涙は葉の上で弾み、水面に消えました。道行く人には蓮が風に揺れているようにしかみえなかったことでしょう。しかし、男の人は蓮が泣いているように思えてなりませんでした。
男の人はある時からふっつりとこなくなりました。時々そば屋の若旦那がベンチの方を見ては、店に戻って行きました。あの人は大丈夫だろうかと心配する蓮を古木は優しくなだめました。
数日後、別の人がベンチにやってきました。髪は真っ白ですが老人と言うにはまだ早く、背の高いそのおじさんは若旦那とベンチを指さして話しこみました。そしてベンチにくると一時も離れずに座っていました。おじさんが帰ったのは空に月が高く昇る頃でした。おじさんは来る日も来る日もベンチに座って参道の向こうを見つめていました。
そんな日が幾日続いたでしょうか。蓮のつぼみは次第にふくらみ、柔らかな色に変わっていきました。蓮は男の人を待ちこがれ、水面をのぞき込んでは日一日と変る自分の姿を悲しい顔で見つめるのでした。そしてとうとう蓮は花開きました。花の色はまだはかなげでしたが、行き交う参拝客は皆、足を止めて蓮の花に見入るのでした。蓮は咲いた姿を男の人に見て欲しくてたまりませんでした。しかしあの男の人は現れませんでした。
7日目の夜、いつものようにおじさんは帰って行きました。蓮は今日もがっかりして眠りにつきました。ひんやりした空気が降りてきた頃、蓮はベンチのきしむ音で目を覚ましました。顔を上げると、そこにはあの人が座っていました。男の人はいっそう痩せ、頬には深い陰が刻まれていました。
蓮はあれほど花を見せたいと思っていたのに、男の人を前にした途端その気持ちは消えていました。蓮は男の人の顔に刻まれた影をまっすぐにみつめたのでした。そのとき月の光が指し、蓮は昼の光には映らない突き抜けた白さに照らされました。
蓮は男の人の顔にあった迷いのひとかけらが消えたのを見ました。男の人は立ち上がるとまっすぐにおじさんが帰っていった方角に消えていきました。

「ただいま、母さん」
お母さんは小さく声を上げて息子をみつめました。そして確かめるように息子の肩や腕に手を当てると声を殺して泣きだしました。
「ごめんね、父さん」
お父さんは顔を真っ赤にして背中を丸め、息子の頭をぐしゃぐしゃになで、腕をしっかりつかんだまま放しませんでした。
弟は両親に内緒で福岡に兄を訪ねたことがありました。そのときからさらに背が伸び、髪を明るい色にしていましたが、鼻をつまんで泣くのをこらえる幼時のクセはそのままでした。そして一人笑いながら「兄ちゃん、お帰り。部屋そのまんまだぜ」と言いました。
男の人の部屋は、10年前のままでした。出て行った直後、お父さんはこの部屋を閉め切りました。しかし弟が両親に嘘をついて兄を訪ねたころから、お父さんは男の人が残していった荷物を、家族の記憶を頼りに戻していきました。この部屋だけはお父さんが掃除をしました。男の人はお父さんと二人で夜が更けるまでこの部屋で話をしました。

それから7日目の朝、男の人がやってきました。白髪のおじさんと、小柄で優しそうなおばさんと一緒でした。三人は友達のそば屋から出ると蓮のベンチに腰を下ろしました。男の人は座るのさえ大変そうで、腕を上げると時計は肘まで下がりました。おばさんは蓮を見て言いました。
「あなたは小さい頃、蓮の花をとろうとして、あそこの水生植物園の池に落ちかけたのよ。」
「え?」
「おまえ覚えてないのか。」
「お父さんがあわててあなたをつかんで、びっくりした弾みですごく怒ったのよね。」
「ああ、あのとき。」
「あなたそのとき、お花が欲しかったんだって言って泣いたの。わたしとおなかの赤ちゃんにあげようと思ったんだって言ってね。」
「あれ、蓮だったのか。綺麗な花だとしか覚えてなかった。」
「わたしあのとき、一生かけてあなたのお母さんになるぞと思ったのよ。」
お母さんは「ダメだったけどね。」といって涙ぐみ、ごめんね、かわいそうだったねと震える声で繰り返しながら目をぬぐいました。
「俺は子供になろうと思ってなかったんだな。」男の人は蓮の花を見つめて「今は思うよ」と言いました。
男の人は一人ベンチに残りました。男の人は蓮に触らないように気をつけながら、手を花びらのすぐそばにかざしました。蓮はこの人に会うのはたぶんこれが最後だと悟りました。蓮は花びらの水滴を男の人の手の上にそっと落としました。水滴は手の上で輝いて、すうっと消えました。
それが最後の別れになりました。

蓮の季節が過ぎ、8月も末の頃、黒い車と続く数台の車が参道から境内に入っていきました。明るい髪の、喪服に身を包んだ若者が蓮のいたベンチにきました。蓮の鉢には大きな葉だけが残り、小川には相変わらず澄んだ水が流れておりました。古木はこの若者にそっと枝をさしかけてやりました。若者は後から来た両親とベンチをみつめ、一緒に石段を登って境内に去っていきました。

(了)
 
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<著者紹介>
大野 春子(東京都調布市/30歳/女性/教員)

深大寺の桜咲く3月、桜散りゆく3月、俺の愛すべき人がイッた。
彼女はいつも笑っていた。どんな時も、どんなことがあっても。
「ねぇ、りょう」彼女の声がまだ俺の耳元でこだまする。
「ねぇ、りょう」
いつも彼女が言っていた「ねぇ、りょう、ねぇ」

彼女は小柄で少しぽっちゃり目の女の子だった。俺と同じ年で二十五。でも、彼女は幼かった。幼なく見えた。少なくとも、俺には。同業者ではなったが彼女も一応、エンジニアとしてメーカーに勤めていた。

そんな彼女から突然の連絡。うちの母親に。
「りょう、元気? 今どこにいるの?」
「会いたいの。ここに連絡くれるように伝えて。」

約10年ぶりの再会。正直驚いた。
かえでは大学、就職とともに関西に行っていたと聞いていた。そんなかえでが何故俺に・・
怖さ半分、嬉しさ半分で待ち合わせ場所に向かった。
待ち合わせは俺達の地元、調布。

調布駅につくと、かえでが待っていた。
かえでは変わってなかった。一目でわかった。まぁ、幼馴染だっていうのもあるけど。
かえでは俺に気づいて真っ白い手を振った。夏だというのに。
「りょう! 変わってないね!」
オマエもだろーが!!と内心思ったけど、口にはしない。
「元気?」
「うん、りょうは?」
「元気」

普通の会話。
ホントにフツー。
でも、入社3年目の俺には妙に新鮮で、妙に暖かかった。


久々の地元、調布。
一応、デートコースは調べてある。

「おそば食べに行かない?」

彼女はとても素直だった。思ったことをすぐ発するし、悪いと思ったらすぐに謝り、喜び悲しみなどの喜怒哀楽がすぐ表情にでるとても、わかりやすい子だった。まだ子供だったころ、よく感情が表情に出すぎて、喧嘩したことさえある。でも、とても良い子だった。

「別にいいよ。」
折角考えたデートコースも台無しだ。と心の中でつぶやいたが、かえでが行きたいのなら別にいいやと思った。こいつの意見にはよく振り回されてきたし・・・違うな。こいつの行きたいとこなら、俺も行きたいから。


おそばは、昔からある玉乃屋。俺の考えたデートコースの神代植物公園の裏手だし。でも、小さい頃から調布にいるけど、ここには一度も入ったことなかったな。地元なだけに、家が近いからそばは帰って食べるから。

俺達はちょっとお昼には早かったのか、店の中の席へ通された。
かえでとこんな風に外食するなんて、想像もできなかった。

「ねぇ、りょう、何にする?」
「俺、山掛けそば。」
「じゃぁ、あたしも。」

相変わらず、自分で決められない性格だな。かえでは変わらない。俺は、笑った。

腹も満足したし、散歩がてら、深大寺をぐるり一周、そして神代植物公園にきた。ちょうどバラが見ごろを終えていた。もう夏だしな。
そのおかげか人も少なく、ゆっくりと散歩できた。見ごろを終えたといっても、まだバラの香が漂っている。残り香とでもいうのか。

かえでは、基本的に家にいるのが好きな方だ。俺は、そんな彼女をよく連れ出していた。あの頃は彼氏彼女に敏感な時期だったはずなのに、俺達はそんなの関係なしによく二人で遊びに行っていた。親同士が仲が良いというのもあるけど。特にこの深大寺周辺にはよくきた。彼女は自然が大好きだった。植物園もお寺も、そばも彼女は大好きだった。彼女はここにくるととても元気になる。彼女は体が弱いので、遠出は無理だからという理由もあるが、ここで二人とも大満足だった。

日も暮れ、別れの時間が近づいた。
今日一日でかえでに魅せられていた。
また、かえでとこうしてぶらぶら出来るだろうか。

会っている間、俺は彼女に今どこで、何をしているのか聞けなかった。というよりも、聞きたくなかった。せめて、この時間だけは昔のように居たいと思って。でも、別れが近づくとやはり聞きたい。今、どこにいて、何をして、そして、また会えるか。

「それじゃ、りょう、今日はありがと。」
「りょう・・・?どうかした?」

あの頃のかえでが俺を見ていた。

「オマエ、今どこに住んでんの?働いてんの?」

かえでが呆然と立ち尽くす。俺、なんか変なこと言っちまった?

「あれ?おばちゃんから、聞いてないの?私、今川崎にいるの。ちゃんと働いてるよ。」

「そう。。」
絶句してしまった。母親め。そんなこと一言も言ってなかったぞ。
落ち着きを取り戻して、俺は言った。

「なぁ、また会わねぇ?」


かえでが笑みを浮かべた。どういうこと?
かえではかばんをゴソゴソとしだして、携帯を取り出した。
「じゃぁ、番号教えて。」

それから、俺達は何度か会い、付き合いだした。会うところは調布、彼女の家など、様々だ。
かえでは仕事が忙しいらしく、家にはほとんどいない。彼女が働く土日があれば、ふたりで一緒に過ごす土日もある。


彼女はよく泣く女性だった。寂しいといっては泣き、テレビのドラマ、映画、漫画、小説、ありとあらゆるものに感動し、よく涙を流してた。俺は、そんな彼女の涙を拭いてやる男でいたいと思っていた。彼女が泣くときにそばにいるのは、この俺だと思っていた。

そんな彼女にはもう逢えない。今、こんなに逢いたいのに逢えない。


年が明けて、俺は一級建築士の資格を取るために勉強を始めた。
今の仕事は、建築家の補佐的な仕事。正直、給料も今の生活には問題ない。だが、かえでとの将来を考えて資格を取ろうと思いたった。

「俺、資格取ろうと思って。」
「え?なんのために?」

「お前との将来のため。」

「そんなことしなくていいよ」
子供をなだめるような、温かみのあるしゃべり方で言った。
「だって、会える時間少なくなっちゃう」

正直、何でかわからなかった。会える時間が多少少なくなろうと、かえでなら快諾し、応援してくれると思っていた。

長い沈黙のあと、最後の言葉を発した。
「俺の好きなことをやらせてくれよ。」

「わかったよ。頑張ってね。」
彼女は笑顔で理解を示した。
彼女はどんな気持ちだったのだろう。


その後、彼女とは、最近は1ヶ月に1回会えばいいほうだった。俺は、資格試験の勉強に加え、フットサルのチームに入っていたり、バイクに夢中になっていたため、平日の夜も予定があることが多く、更に、彼女と逢う回数が激減した。

俺が、色々なことに夢中になっている間、彼女は何を考えていたのだろう?
大切にしていると思っていた自分がバカだったのかも知れない。
大切なものは、いつもなくなってから気づく。

そんな生活を続けていた3月24日。突然、母親から電話があった。
「りょう、今すぐ家へ帰ってらっしゃい。」
「はぁ??何で?」

「かえでちゃんが、亡くなったわ。」
俺は、絶句した。なんで?その言葉が、頭の中を回りっていた。実家に帰る途中の景色も、遠くに見える深大寺も、自分がどうやって切符を買ったのかすら覚えていない。

かえでとのことを考えていた。
そういえば、会ったのは3週間前だったっけ。最近は、メールばっかりだったもんな。
電話はいつしたっけ?

大切にしていると思ってた。ずっと隣で笑って欲しいと思ってた。ずっと彼女を見ていたいと思ってた。


家に帰るともうかえではいなかった。
家に挨拶に来ていたかえでの母親が言った。
「りょうくん、ありがとう。かえで、こっちに帰ってきて毎日とても楽しそうだったわ。」

葬儀は翌日行われた。俺も参列した。
かえでの葬儀らしく、祭壇が花と緑にあふれていた。
きっと、大好きな調布の土地に帰っていくんだなと思いながら、送った。


資格を取ったら、プロポーズするつもりだった。
俺は彼女を愛している。そう、いまでも。だが、もう逢えない。
彼女は俺に愛をくれた。彼女はいつもそばにいた。よく、電話もくれるし、いつも俺を心配してた。俺は彼女に変なやきもちを焼くし、いざというとき、そばにいてやれなかった。

彼女は俺の名前を呼んだだろうか?

今、何をいっても伝わらないし、伝えられない。彼女の占めていた部分がこんなにも大きかったとは。俺はこの先どうなるだろう。


後で母親に聞いた話だが、かえでは俺達が再会した夏、もう長く生きられないことをわかっていたそうだ。だから、どうしても俺に逢いたいと母親に言ったそうだ。自分のことを一番良く知ってる俺に。小さい頃からずっと好きだった俺に。
再開の場所を決めたのはかえでだった。昔よく遊んだ調布で、縁結びの寺である深大寺。
彼女はそういえば、お寺に祈ってたな。

「何祈ってるの?」
「秘密! 叶ったら、教えてあげる」

「りょうは?」
「俺?」

「俺も叶ったら、教える」
「叶うといいね。」
最後の言葉が少し、弱弱しかったのを覚えている。

1ヶ月後、かえでから手紙が来た。
たった一行の文章なのに、きちんと封書で送られてきた。
「叶わなかったけど、教えてあげる。
"ずっと、りょうと一緒に居たいです"って祈ったの。」


手紙の消印は、3月23日だった。

俺は、こう祈ったんだよ。
「かえでと一緒に居たい」って。

これから、彼女に逢いに行こう。

(了)
 
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<著者紹介>
Lily(東京都/26歳/女性)

既にお手に取っていただいた方もいらっしゃるとは思いますが、
京王沿線生活マガジン『あいぼりー』において、
深大寺短編恋愛小説の公募が掲載されました。
掲載場所は、あいぼりーシーズンセレクション(P20)です。

小さな記事ですが、京王沿線で配布されているかと思うと、
すごく嬉しいですね☆

ホームページにも公開されていますので、
まだの方は是非手に取ってみてください。

京王沿線上にある、和スイーツのお店、美味しそうでしたよ♪

京王グループあいぼりー

 しっとりと落ち着いた緑が生い茂り、土産物や楽焼工房、情緒ある店並が幾つも軒を連ねた深大寺の際。佐々木美奈が足を止めた蕎麦屋は、参道へと続くその一角にあった。
時刻は十時を回った頃。店先に立つ美奈の鼻先を、ふんわりとふくよかな香りが掠めてゆく。美奈は、その正体を知っていた。チラリと店内に目をやると、思った通り、店主らしき人物が蕎麦を打っている。それを見るなり、美奈は顔を歪め、忌々しげに舌打ちした。
大学のサークル仲間、宮本圭悟の挑戦を受けてしまったから、美奈は仕方なくここにいるのだ。そうでなければ、わざわざ蕎麦屋になど足を運ぶ訳がない。
苛々と通りに視線を投げていた美奈は、ふと耳を過ぎった声に、呆気なくその臨戦態勢を解いた。
クーン、クーン。
また聞こえる。すぐ傍だ。身体ごと振り向いてみると、茶色の小さな獣は、そこにいた。
まだ仔犬だった。紫陽花の咲くこの季節、昨夜の雨露を含んだ藍色の花房の下で、黒い宝石のような丸い目が、じっと美奈を見上げている。
どちらかと言えば、尖った雰囲気と評されることの多い美奈だが、こと犬に対してだけは例外だった。
「あんた何しとるの?」
声をかけながら、たちまち下がっていく目尻と緩んだ口元。美奈の表情は優しく崩れる。
九州出身の美奈は、東京に出てきてまだ三ヶ月だった。一人暮らしを始めて何が一番寂しいかと言えば、慣れない人間関係でも環境でもなく、犬が傍にいないことだ。実家で飼っていた茶色の柴犬、ロミは、姉妹のいない美奈の妹分とも言える存在だったから。
紫陽花の下に佇む仔犬は、毛色こそ黒いものの、目元はロミにそっくりの柴犬である。美奈が手を差しのべると、仔犬は嬉しそうに顔を突き出した。尻尾をちぎれんばかりに振りながら、小さな舌で舐めてくる。思わず抱き上げてみれば、うっすらと濡れた毛並みから、雨の匂いがした。
「ジュリっていうんですよ」
丁度表に出てきた店の人が教えてくれた。
「へえ、ジュリね。お前もなかなかいい名前じゃないか」
そう言ってジュリの顔を覗き込んだところで、美奈は当初の目的を思い出した。
圭吾との待ち合わせ場所は、この蕎麦屋の前。彼曰く、開店時間ぴったりにということだったが、この店の雰囲気からすると、どうやら未だ準備中らしい。
「こちらのお店は、何時に開くとですか?」
「すみませんねえ、十一時からなんですよ。もう少しお待ち頂くことになりますが」
はあそうですか、と無難な言葉を返しながら、美奈の機嫌は再び降下した。おおよそ、あと五十分近くある。
どうせ、あのトロそうな奴のことだ。至高の日本蕎麦を食べさせるなどと豪語しておきながら、時間を間違えたに違いない。十時に開くというから、きっちり来てやったというのに。
いっそ、このまま帰ってやろうかとも思ったが、腕の中に閉じ込めたままのジュリを見て、ふと考えた。 
「ね、お姉さん。この子、今日はお散歩すんどる? もしまだやったら、私が連れて行ってもよかですかね?」
思いついたことは、すぐに口に出す。時折そのせいで酷く後悔したりもするのだが、どうしても止められない美奈の性質だった。しかし意外にも、蕎麦屋の女性は、二つ返事で柴犬のリードを渡してくれた。

佐々木美奈とは、四月に通い始めた大学のサークルで知り合った。熊本県出身で、好きなものは犬と紫色の花。少々九州訛りを残した言葉が初々しく、素朴な土の香りがする。
宮本圭吾は、そんな彼女に初対面から好感を持っていた。更に『そば』に目がないというプロフィールまで付加されれば、興味を持たぬ訳がない。圭吾は無類の日本蕎麦好きだったからだ。
ところが先日、サークル内で大学祭の企画が持ち上がった時のことである。圭悟はその席で、日本蕎麦の模擬店を出そうと提案したのだった。
「麺作りからやるんだ。受けると思うぜ」
お前出来るのか、という仲間の言葉に、もちろん、と圭吾は胸を張った。圭吾の蕎麦打ちは、蕎麦職人の叔父直伝だ。そこそこ美味いと言わせられる自信はあった。だが、
「蕎麦店はつまらん」
横合いから水を差したのが、美奈だった。
「なんで駄目なんだよ? あんただって、蕎麦好きなんだろ?」
「私が好きなのは、中華そば。日本蕎麦は好かん」
美奈の言う『そば』とは、中華そばのことだったのだ。それには納得したが、だからと言って、日本蕎麦を一刀両断にしなくても良いだろう。圭吾は無性に腹立たしくなった。
「あんたの好みはそうかもしれねえけど、日本人なら日本蕎麦だ」
美奈は、ふんと鼻で笑った。
「日本人イコール日本蕎麦? ずいぶんと単細胞な展開だね。よか? 日本は海外の多様な文化を取り入れて吸収し、それを自らの食文化に根付かせて来たとよ。中華そばこそが、今じゃ国民人気のNO1なの」
既に話題はサークルの模擬店から、日本と中華の蕎麦対決に変わってしまっていたが、二人の言い争いを止める者はいなかった。
圭悟の脳裏を、ひたすら蕎麦に情熱を捧げた叔父の姿が過ぎった。
いつも蕎麦の温度に気を配り、蕎麦が風邪を引かないようにと工夫を凝らす。頑固なこだわりと溢れんばかりの研究心、水や蕎麦粉のみならず、道具の一つ一つにまで決して妥協はしない。蕎麦好きが高じてサラリーマンから足を洗い、とうとう蕎麦作りに専念するようになった叔父を、圭悟は密かに尊敬していた。
叔父が、蕎麦打ちの最中に急死したのは、五年前の春だった。
「最後まで情熱の中で生きられたのだから、あの人も本望だったと思います」
きっぱりとそう言った叔母の姿に、圭悟は感動を覚えた。
大事なのは命の長さではなく、その中でどう生きるのかという事。蕎麦に捧げた叔父の生き方は、圭吾に鮮烈な思いを残した。
だからこそ、美奈の言葉は許せなかった。圭悟にとっては、日本蕎麦を罵倒する者は、叔父を侮辱するにも等しい。それほどまで言うなら、美味い日本蕎麦というものを食べさせてやる。そして、前言を撤回させてやる。
宮本圭悟が佐々木美奈に挑戦状を叩き付けるに至るまでには、こんな経過があったのだ。
 しかし、その決戦当日。圭吾は必死で目的地へと走っていた。意気込みだけで最終確認を怠っていたのだ。まったく、開店時間を読み間違えるなんて、どうかしている。
 とっくに帰ってしまったと思っていた。だから、黒い柴犬を連れた美奈に蕎麦屋の前で出くわした時、圭吾は思わず言葉を失った。

美奈の実家は、熊本で小さな中華そば店を営んでいた。近くには老舗の日本蕎麦店があって、晦日ともなると店員を増員し、即売店を出す程の賑わいをみせる。それに対して、実家の経営状況はあまり芳しくなく、美奈の父親は、その店に酷く劣等感を持っていた。
「あんな偏狭な性格だから、店も流行らんかったんよ。日本蕎麦のせいじゃなかね」
美奈は小さな声でそう言って、最後の麺をすすった。
本日一番乗りのお客のための蕎麦。新蕎麦にこだわる人なら避けるかもしれない今の季節でも、その艶やかな喉越しと歯触りは、美奈の心を柔らかく解きほぐす。
今時珍しい話だが、美奈は、日本蕎麦を食べたことがなかった。機会を与えられることの無い生活環境に加え、親から叩き込まれた日本蕎麦に対するひけ目とライバル心が、更に美奈の反発心を煽った。そしていつしか、蕎麦と聞いただけで鳥肌がたつようになってしまったのだ。
「本当は、一度食べてみたかったの。けど、親を裏切るみたいじゃなか?」
箸を置いて苦笑する美奈に、圭吾は八割方の期待を持って尋ねてみた。
「んで、結果はどうよ?」
「美味しかったよ、悔しかなあ」
照れ臭そうに顔を背けた美奈の視線の先には、道端一杯に広がる紫陽花があった。その葉陰から仔犬の尻尾がぱたぱたと揺れている。
美奈が好きなものは、犬と青い花。
圭吾が好きなものは、日本蕎麦と土の香り。
心地良いものに囲まれていれば、人間誰でも素直になれるものかもしれない。
「また、散歩に連れていきたかな。ね、今度はいつ食べにくる?」
美奈はそう言って、穏やかに笑った。
「ジュリの都合次第だな」
 圭吾は答えて、仔犬の上で揺れる青い花房に目を細めた。

(了)
 
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<著者紹介>
七草 クルミ(東京都小平市/26歳/女性/グラフィックデザイナー)

※応募締め切りました。ご応募有難うございました。

深大寺短編恋愛小説実行委員会では、より開かれた事前審査を行うため、この度、事前審査委員を公募させていただくことに致しました。

他の事前審査員とのバランスの関係上、募集にあたり多少、条件をつけさせていただいております。
 
ご興味のある方は是非応募ください。

【第3回深大寺恋物語募集事業 事前審査員公募 募集要項】

<事前審査員としてお願いすること>
■8月8日(水)18時前後に予定している「事前審査説明会」に極力出席願います。
■「事前審査説明会」にてお渡しする20〜40作品(紙面)を8月30日(予定)の締切までにお読みいただき、そのうち上位5作品に、10点、8点、6点、4点、2点の点数をつけていただき、その結果をご提出いただきます。

 
<募集条件>
■募集人数:若干名

■年齢:20代〜40代
■性別:不問

■今回の第3回の公募事業に作品を応募していないこと。
■以下の審査基準をもとに審査できること
  1:深大寺・深大寺周辺地域が織り込まれていること
  2:恋愛小説であること
  3:文芸作品として価値のあるもの

■応募方法:
メールのタイトルは「深大寺恋物語・事前審査員応募」
メールの本文に、下記の内容を記載してください。
   ・お名前
   ・性別
   ・年齢
   ・ご住所
   ・お電話番号
   ・ご職業
   ・事前審査員をする上で、アピールできるご経歴など
            
■応募先:chofu☆shop-info.com(☆を@に直してください)

※上記事項をFAXにてお送りいただいても構いません。
 FAX番号:042-487-4280 (実行委員会事務局)

■応募期限:7月18日(水)
※応募締め切りました。ご応募有難うございました。

※応募者多数の場合は、誠に恐縮ですが、事務局にて選考とさせていただきます。
  
■応募結果のご連絡
応募者全員に、7月中にメールもしくはお電話にてご連絡させていただきます。

<お問合せ先>
深大寺短編恋愛小説実行委員会事務局 担当:大前
TEL:042-487-4282 FAX:042-487-4280(お問合せ時間:平日10時〜17時)
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第4回公募が始まりました。
応募要綱をよくお読みいただいた上、すばらしい作品をどしどしお送りください。
ご応募、お待ちしております!

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