私達が出会ったのは、春まだ浅き弥生のこと。大学の卒業旅行の夕食のバイキングの時、
「僕、高本翔次、これからよろしく」
と話しかけてきた。予期していなかったので、「私は、藤元つつじ」
とあわてて名前を言うのが精一杯だった。卒業旅行で「これから」はおかしいと思うだろうけれど、私達は大学院の修士への進学が決まっていて、彼の名前だけは知っていた。彼は他大学の英文科を卒業してから国文科に入学したためか、それまで出会うこともなく、この夜が「はじめまして」になった。
翌日朝方に河口湖畔を散策した時、少し離れて翔次がいた。何となく目があった私は、そっと微笑んだ。そして翔次も、そっと返してくれた。二人の間にぽっと点った灯り。翔次との空気感はこんな風にして生まれた。
卯月になって大学院が始まり、大学四年と比べたらはるかにキャンパスにいる時間は長くなった。彼は調布、私はつつじヶ丘と同じ私鉄沿線に住んでいて、朝からキャンパスへ向かう途中で彼と出会うことも少なくなかった。翔次と「おはよう」で始まる清々しい一日。教室に入ってから出会っても、彼は必ず微笑みを投げかけて、私の緊張をほどいてくれた。年齢は私より五歳上だったので、同級生といっても大きな包容力を感じていた。
皐月に入る頃には、私達は家に帰ってからの電話でも話すようになっていた。
「今度の日曜日、一緒にレポートやろうか」
と翔次が言ってくれたので、
「ねぇ、天気がよかったら、神代植物公園でやらない?」
と私も思い切って問いかけた。
「いいよ」
あっさり翔次の答が返ってきた。その日曜日が晴れますようにと、私は幼子のようにてるてる坊主を作った。そんなお願いが天に届いたのか、日曜日は空が高く青く澄んでいた。
翔次が住んでいる調布からも神代植物公園へ行けるバスはあるが、
「つつじ住む つつじヶ丘まで お迎えに」
と彼がおどけて言い、つつじヶ丘からバスで一緒に向かった。花の季節は過ぎていたが、桜の樹木の並木をバスは進む。バスを降りた場所で、私は桜の樹下から太陽を見上げた。無数の桜の花びらが降りしきるような白い光を感じる。
「私、小さい頃はこの近くに住んでたの。ここに来ると、降るように舞い散る桜の花びら追いかけてた」
少女の目に戻っていた私を、翔次はあったかく見ていてくれた。
「ねぇ、葉っぱごしに太陽を見ると、緑の光が見えるのよ」
とさも私が発見したかのようにはしゃいでも、彼は優しく、
「そうだね」
と私の話を聞いてくれた。公園に入ってちょっと進むと、満開のつつじが私達を迎えてくれる。
「私が咲いてるって、ちっちゃい頃から思ってた」
「確かにすごいな。ここはつつじだらけだ」
そう言って、翔次は掌で軽く私の頭の上から小突いた。彼の茶目っ気は私にはうれしいもので、
「そう、つつじがいっぱい!」
と放った私の声は、伸びやかに皐月の空に溶けていった。園内を進んで、藤棚がある所まで翔次を連れて行くと、
「藤のもとにつつじで、私そのものでしょ」「あぁそれでつつじは、ここで勉強したがったんだな」
「うん」
と頷きながらも、翔次にここに来てほしかったんだよ...と心の中で呟いた。この景色の中に、大好きな翔次と一緒にいたいと思ったんだよ...。私達はもちろん勉強にも精を出し、佐藤春夫の詩に時に意見を交わしながら、レポートを仕上げた。
「ふぅ、やっと終わった。一生懸命やってたらおなか空いたね」
「深大寺そばってつつじの顔に書いてある」
と翔次は私の顔の前でそばという文字をなぞるようにからかい、さっと私の手を掴んだ。「つつじ、行こう」
「はい」
素直にそう答えたくなる翔次の爽やかさが、私の心に響いていた。私達は神代植物公園を奥まで進み、深大寺へ行ける道を辿った。小さい頃箱庭の品々を買い揃えたお土産屋さん沿いに、坂をちょっと下って行くと、見ていて飽きない水車がお店の前にあり、風情のあるたくさんのおそば屋さんが軒を連ねる。
「いっぱいあって迷っちゃうね」
「とにかく入ってみようっか」
と応じる翔次の後に続いて店内に入る。二人とももりそばを注文し、程なく運ばれてきた深大寺そばが、私達の空腹を満たしてくれる。
「さっぱりしてて美味しいね」
「おかわりしたくなるよな」
「勉強して深大寺そばのコース、いいと思わない?」
「うん、また来よう」
私達の楽しい語らいはそれからも尽きなかった。そして、また翔次とこういう時をもてそうなことが、私には何よりうれしかった。
果たして、翔次の言葉に嘘はなかった。水無月は梅雨の合間を縫って、紫陽花を愛でつつ万葉集のレポートをまとめたし、文月は、サルスベリを目にしつつ、修士に入って初めての試験勉強に二人で集中した。もちろん深大寺そばも食べに行き、小さい頃らくやきの絵を描いたお店を、翔次に案内もした。葉月はぎらぎらする太陽の下、暑いさ中だったが、
「自然の中で勉強するのが一番」
と彼は言ってくれ、スイレンで涼を取りながら夏休みの課題に取り組んだ。深大寺では、私が小学生の頃は釣りができるようになっていて、亡き父と鯉を釣った思い出話もした。ようやく暑さをしのげるようになった長月には、揺れるコスモスを目で楽しみつつ課題に追い込みをかけ、ほっとして後期を迎えた。
国文科共同研究室では、私達二人を指して、「もとじ」と呼ばれることもあった。たかもとしょうじとふじもとつつじで、自分達でも気づかない名前の偶然を先輩が見つけ、「二人まとめて速く呼べる」とは言われたものの、やはり仲の良さをからかわれていたのかもしれない。二人の時を楽しく穏やかに過ごせていたので、私達自身はお互いに何も口にはしなかった。私は翔次と一緒にいられればそれでよかった。むしろ気持ちを口にすることで壊れてしまいそうな純粋なものを、必死に守ろうとしていたのかもしれない。
神無月は神代植物公園のバラ園の散策を楽しみに明月記のレポートをまとめ、霜月には菊花展に感嘆した後、源氏物語の課題を二人で長考した。大分風が冷たくなって野外での勉強は難しいとも思われたが、霜月は翔次の誕生月で、お誕生日に神代植物公園に行くのは、二人の暗黙の約束のようになっていた。午後も遅くなって課題を終え、深大寺への道を二人で落葉を踏みしめ歩いていた。
「寒くなったね」
と翔次の方を見ると、彼がそっと肩を抱いてくれた。そして一瞬時がすべて静止したかのようになり、翔次は初めての口づけを私の唇にそっとしてくれた。どこまでも翔次の優しさが心に沁み入るような口づけで、このままいつまでも時が止まっていればいいと、私はその瞬間心底願った。翔次が私の唇から離れた時、「翔次...」と私が囁くと、翔次も「つつじ...」と囁いてくれた。私達二人には、もうそれがすべてのように充分な世界だった。
師走、睦月、如月の冬の季節はさすがに屋外での勉強はやめた。一度二人で勉強の息抜きに訪ねた時、落葉の狭間に黒い玉を見つけ、私は宝物のように大事に拾い上げた。
「これ、小さい時にも両親とここで見つけて、羽根突きの羽根の玉だって、植物図鑑で名前を調べたの。ムクロジっていうんだよ」
夢中になって喋る私を、翔次はいつものようにちゃんと見守っていてくれた。武蔵野の空の下で育んだ想いは、寒い季節も私達の心を温めてくれ、年末年始のレポートの山や、修士の学年末試験を乗り切らせてくれた。
やがて私達が出会った弥生が訪れる頃、翔次は中学校の英語の非常勤講師の職が決まった。翔次には英語の才能もあり、それで仕事に就ける翔次が、急にすごく立派に見えた。「つつじ、ごめん。今準備ですごく忙しくて、お花見に行けない」
「わかってるよ。それより健康に注意してね。応援してるから」
卯月を迎え、彼はいよいよ正式に先生になった。大学院に比較的近い中学だったから修士の授業には来ていたが、なかなか電話もできない忙しさが続いた。彼がまぶしいほど大人に見え、私も真剣に就職を考える時期に来ていた。修論を書きつつ、私は念願の、辞書を作る仕事ができる出版社に就職が決まった。こうして私達がそれぞれの道を歩き始めたのも、まっすぐな、ごく自然な流れだった。
二十五年前、確かに翔次と刻んだ日々だったのに、私は壊れ物のようにあまりに大事にし過ぎて、指の間から砂がこぼれ落ちるように喪失してしまった。...と、少し前までは思っていた。でもそうじゃないと今はわかる。きらめくような日々は明確に刻印され、その後の二人の人生は別々に歩んでも、今もこれほどまでに実り豊かに私の心の襞を震わせてくれる。失われてなんていない。精一杯生きた日々には、喪失なんて無縁だった。これからも、武蔵野の大空のもとの四季の記憶は色鮮やかに、翔次の二十八歳とつつじの二十三歳は輝き続ける。美しい自然の中で、深大寺の神様に見守られて青春を彩った恋は、年月を経てより強く私の心の中で生き続けている。

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<著者紹介>
牧野 さつき( 東京都新宿区/48歳/女性/主婦)

 「とりあえず、お参りしようか。」
車から降りたボクは祖父を誘った。

母から、同居して間も無い祖父の世話を一日頼まれたのは、三ヶ月程前の事だった。知人の娘さんの結婚式に父と揃って出席するので、一日面倒を見て欲しい、と言う事だった。

 祖父母の家は以前、うちから歩いて五分程の所にあった。小学校の頃などは、呼ばれてもいないのに、学校帰りには何故か必ずと言っていい程立ち寄っていた。祖父母の家は暗かった。鬱蒼とした木々が生い茂り、庭には鉢植や盆栽などが所狭しと置かれていた。今で言うガーデニングの様な、洗練さや優雅さなどとはまるでかけ離れた、何か薄気味悪い様な、太陽の光の射さない家だった。家内には小さな居間があり、古めかしい堀ゴタツの周りは、いつの物かも分からない新聞や雑誌のスクラップで埋め尽されていた。その中で、本を相手に一人でパチンパチンと碁盤に碁石を置く祖父と、時代劇の再放送を観ながら静かにタバコをふかす祖母。
 ボクには、祖父母が話しをしている記憶が無い。笑い合っている記憶が無い。口数の少ない、黒々とした眉毛をたくわえた、熊の様な九州男児の祖父と、細身を通り越した、皮膚と骨がくっついている様な、眼つきの厳しい新潟女の祖母。

 祖母の様子がおかしくなったのは、五年程前の事だった。同じ話を何度も繰り返す事から始まり、家の電話機を冷蔵庫に入れたり、馴染みのスーパーに辿り着けなくなったりした。症状の進行は驚く程早く、一年後位には、もうボクが誰かも分からなくなり、色々な事を忘れて行き、そして先月、専門の施設に入居した。

 去年の末、祖父母の家を取り壊す話が持ち上がり、それと同時に祖父はボクの家にやって来た。朝早く出勤し、何だかんだ夜遅く帰宅するボクは、中々祖父と顔を合わせる事も無かった。一日と言う長い時間を二人きりで過ごすなど、勿論初めてだった。ボクは何だか気まずさの様なものを感じた。

 「おばあちゃんのお見舞いに行こうか。」
祖母の施設は少し郊外にある。ドライブがてら、我ながら良い提案だと思った。とりあえず簡単に出掛ける準備をし、車に乗り込んだ。

 何だか不思議と気持ちが昂揚した。彼女以外の人間が助手席に座るのはいつ以来だろう。付き合い出して四年近く、月に何度かある休日は、ほとんど彼女と過ごして来た。大学時代の後輩との運命的な再会、一瞬で恋に堕ちた。今では彼女が隣に座っていても何も感じる事は無い。彼女の反応一つ一つに一喜一憂していた頃が嘘の様だ。特別な会話も無い。ドライブをしていても、彼女は一人助手席で寝息を立てている。会う事を義務の様に感じる事さえある。

「何処かで飲み物でも買おうね。」
エンジンをかけたボクに、祖父は突然言った。
「深大寺に寄ってくれ。」
「良いけど。どうしたの、急に。」
尋ねるボクに、祖父の返事は無い。別段急ぐ理由も無いので、ボクは言われた通り車を進めた。

 何年振りだろう。久し振りの深大寺は幼い頃の印象と全く変わらない。ある一角から、急にそれまでの住宅地とは全く趣の違った、緑豊かな澄んだ空気が現れる。ここが都内で、しかも自分が長年住んでいる場所から数分の所とは思えない程、静かな別世界がそこにあった。
 ボク達は、雰囲気のあるひなびた蕎麦屋の棟々を眺めつつ、並んで歩いた。
 境内に着き、身を清め、お参りをした。ふと隣を見ると、祖父はさらりとお参りを済ませ、静かに歩き出していた。
「何をお祈りしたの?おばあちゃんの事?」
問い掛けるボクに、祖父は何も答えない。
「まだ早いし、折角だからお蕎麦でも食べて行こうか。」
と誘うボクに背を向け、祖父は一番賑やかな門前街とは逆の方向に歩いて行った。
「おばあちゃんに御守りでも買って行こうか。喜ぶよ、きっと。」
そんなボクの言葉が聞こえているのかいなのか、売店などには立ち寄る気配も無く、祖父は静かに歩いて行く。
『何で此処に来たのかな。』
ボクは思った。

 狭い小道に入った。そこはもう参詣者の姿もあまり無い。木々の冷たい静かな空気の中を、祖父の後ろに着いてゆっくり歩いて行く。小さな階段を抜け、ゆるい石の坂道を下った。

 角を曲がると、そこに小さな花屋があった。花屋、と言っても、切り花を花束にしてくれる様な店では無く、鉢植だの苗だの、『植物』と言った物が雑然と並べられている。

「望月さん、お久し振りです。」
突然祖父に向かって、花屋の店主らしき中年の男性が声を掛けた。
「お知り合い?」
ボクの問いに答える事も無く、祖父は店主に言った。
「黄色いのを。」
何と言う注文だろう。ボクの怪訝そうな反応とはうらはらに男性は、
「黄色ですね。ちょっと待って下さい、奥、探してみますので。」
と、いそいそと店の奥に入って行った。すると祖父は、
「トイレに行って来る。」
と、ボクを置いて、勝手知ったる風にその場を離れた。
 一人残されたボクが仕方なく店内をブラついていると、店の奥から先程の男性が嬉しそうな顔をして戻って来た。
「あれ、望月さんは?」
「すみません、今トイレに。」
「そうですか。良かった、奥に一つだけ残っていました、黄色。」
と、小さな球根をボクに見せた。
「いつものヒヤシンスです。在庫があって良かった。」
と、当たり前の様に球根を袋に入れ、ボクに差し出した。
「おばあちゃんにかな。」
ボソッと言ったボクの言葉に男性は、
「お孫さんでしたか。そうですね、こんな大きなお孫さんが居たって不思議じゃないですね。」
と、にこやかに話した。
「祖父とお知り合いだったんですか。」
「ええ。私の父の代からのお客様で。奥様もお変わり無く?」
ボクは、祖母の近況をかいつまんで話した。
「そうでしたか。最近お二人でお見えにならないと思っていたら、そう言う事だったんですね。」
「ええ。これもおばあちゃんへのお見舞いのつもりなのかな。でも、お見舞いに根の生えるモノって、あまり縁起良く無いんですよね。」
 球根の入ったビニール袋を受け取るボクに男性は、
「そうですね。でも、望月さんは良いんじゃないですか、これが。」
と、やわらかに言い、手に持っていたお茶をボクに渡した。
「望月さんご夫婦がまだお付き合いする前らしんですけどね、お二人で此処にいらしたそうなんですよ。その時望月さんが、奥様にヒヤシンスの球根をプレゼントしたそうで。初めてのプレゼントだったらしくて、その時の奥様の嬉しそうな顔が忘れられないって、父が私に良く話してくれました。」
男性は、にこやかに続けた。
「それから年に一度位かな、これ位の時期に花の苗や鉢植を買いにいらして。ボクの代になってからも毎年お見えになっていたんですよ、仲良く二人で。」
と、男性もお茶に口を付けた。
 ボクには想像出来なかった。あの祖父母の若かりし頃が。ボクが知っているのは、温かさや明るさや微笑みなどとはまるで無縁の鬱蒼としたあの家で、静かに厳しくに生きて来た祖父母だ。
「最初のヒヤシンスね、花言葉が望月さんの愛の告白になったみたいなんですよ。」
男性は、いたずらっ子の様に、にこやかに続けた。
「望月さん、奥様にずっと気持を伝えられずにいたらしんです。でね、緊張でガチガチだった望月さんを見るに見かねて、父が紫のヒヤシンスをお勧めしたんだそうです。」
「紫のヒヤシンス?」
「ええ。それで帰り際、トイレに行った望月さんを待っていた奥様に、父がこっそり言ったんですって。『花言葉ってご存知ですか?』って。」
男性は大切そうに続けた。
「その一年後に二人でお見えになった時、お二人はもう結婚されていたそうで、父もすごく嬉しかったみたいで、何度もその話、聞かされました。だから今日も、お見舞いには不向きでも、奥様はきっと、すごく嬉しいんじゃないかな。」
 男性の話に聞き入るボクの目に、遠くからゆっくり歩いて来る祖父の姿が見えた。
「望月さん、用意出来てますよ。」
 祖父は男性に代金を支払った。
「奥様によろしくお伝え下さい。」
男性は祖父とボクに会釈した。球根の入った袋を受け取った祖父は店を後にした。その後ろを追うボクを男性は軽く引き止め、
「黄色のヒヤシンスの花言葉、ご存知ですか?」
と、少年の様に微笑み、店の奥に戻って行った。

 ボクは祖父の後ろをゆっくりと歩いた。祖父の小さくなった背中が切なかった。祖父の隣に居るのがボクである事が切なかった。

 車に乗り込み、祖母の待つ施設に向かった。助手席の祖父は、眠っているのだろうか、黙ってそこに座っている。手にヒヤシンスの球根を持って。
 話す事は無かった。言葉にしたら、声を発したらいけない様な気がした。他の誰も踏み込んではいけない、祖父と祖母の、二人だけの記憶。

 不思議な一日が終わった。両親も帰宅し、自分の部屋に戻ったボクは、男性の言葉を思い出し、パソコンに向かい、ヒヤシンスの花言葉を調べた。

 急に彼女に会いたくなった。ただ、会いたくなった。今度の休みを、少し待ち遠しく思った。

 そこにあった。黄色いヒヤシンスの花言葉。

『あなたとなら幸せ』。

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<著者紹介>
ヒサトミ マキ(東京都三鷹市/35歳/女性/フリー)

 あたたかい柔らかな毛が、わたしの頬に触れている。夜中にふと目覚めた時などにもたらされる、何とも言えない幸せ。ふわふわ三毛の癒し。中学校の友達に言わせれば、ニャンコで幸せを満喫している場合じゃないよ、恋しなさい。ありがたいお言葉だけど、ガサツな男子とコダマを同列に並べるなんて、どうにかしている。ふわふわの至福は、コダマをおいて他にはない。そう思っていた。そして、それは永遠に続くと思っていた。
 コダマは、物心ついた時からいたから、いなくなってしまうなんてことは考えたこともなかった。わたしの膝の上がお気に入りで、寝るときはいつも一緒だった。同じ時の流れを過ごしたのに、コダマはいつの間にかわたしを追い越して、年老いていったのだ。
 今年の冬、家の前の道でうずくまったまま動けなくなり、危うく轢かれかけた。毛布を敷いた籠の中に丸くなって、ほとんど寝たきりになった。それでもコダマはふわふわで、撫でるとわずかに顔をあげて、かすれた声で返事をした。

 深大寺動物霊園の萬霊塔は、春の明るい空に向かってすっくと立っている。六角形の法輪が三十三個積み重なっているそうだ。わたしは、その根元に安置してある十二支観音様のお顔が好きだ。金色の逗子のなか、十二支を配した光背を背にした祈りの姿。ふっくらとした頬に柔らかな優しい微笑みをたたえていらっしゃる。あの世でも、コダマはきっと幸せに過ごしていることだろう。好きだったポリポリと気に入りの毛布と、庭に咲いている花々と。わたしはそこにいられないけど、観音様が見守っていてくれるから、大丈夫だよね。そう自分に言い聞かせる。コダマのいない日々。あの、小さなふわふわがいなくなった、それだけでわたしの毎日は変わってしまった。春休みなのにちっとも楽しくない。友達の誘いにも、出かける気が起こらない。ちょっとしたことで涙が出てしまうもの。
 深大寺の境内では、なんじゃもんじゃの木が花を咲かせている。霊園の階段下の乾門から入るとすぐに、白い霞のような花をつけた木が目に入る。この花の様子は何となく丸くてふっくらしてて、白猫みたいだ。
 灯篭の中に、猫がいる。燈心を置くせまい空間にすっぽりはまって眠っている。はみ出した背中の毛しか見えないけど、そこが一番安らぐのだろうな、とわたしはその毛玉を眺める。触りたいけど触らない。触られたくないらそんなとこにはまっているのだろうから。それから、五大尊池のそばには茶縞の親子。 人に馴れているようでいて馴れきれてない。一定の距離をおいて眺めているから、わたしも その距離で眺め返す。湧水の流れには、水を飲む黒トラ。そっと近寄って横に並んでみる。気配に顔をあげて、じっとわたしを見る。でも、それは親しげな瞳ではない。そうよね、あんたはコダマじゃないもんね。もうどこにもいないと分っているけれど、もう一度会いたい。ふわふわに触りたい。わたしは黒トラに手を伸ばしたが、トラはぱっと身をひるがえして走り去った。
 夕焼けが、門前のお蕎麦屋さんの古い軒の上にひろがっている。お腹が空いてきた。哀しくても、空いてしまうお腹がうらめしい。お土産用のソバ豆の試食品を一つつまんだ。おいしいけれど、もっと虚しくなった。
 深沙の杜には、もうわたしの自転車しかなかった。杜の中は、周りよりも夕闇が早く降りてくるのか、だいぶ薄暗い。ポケットから鍵を出した時、勢い余って鍵が草むらの中に飛んで行った。ため息が出た。草むらを覗き込むと、少し手を伸ばせば届きそうなところに鍵があった。体を平べったくして手を伸ばそうとした時、木の下闇の奥に金色の二つの光が見えた。わたしは目を凝らした。猫だということは確認できたが、様子がよくわからない。うずくまったまま、動く気配はないようだ。そのうちに目が慣れて、それが三毛猫で、さほど小さくはないということが見えてきた。金色の光は、逃げようという気力もないのか、変わらずにこちらに向けられている。弱って、動けずにいるのかもしれない。
「どうしたの。具合が悪いの」
 わたしは声をかけた。ミァとかすかな声がした。弱ったコダマの声にそっくりだ、と感じた瞬間、わたしは草の中を匍匐前進していた。足に怪我をしている。衰弱しているようだった。コダマとは目の色が違っているし、ずっと若いけど、同じ三毛猫だ。大きさも同じくらい。わたしは草をかき分けて、傷に触れないように気をつけながら抱き上げた。抗わなかった。何日もこの草むらで、傷を舐めていたのかもしれない。上着を脱いで、顔だけが出せるようにして包むと、自転車籠に乗せて走りだそうとした。その時、草むらの中から茶トラが走りだしてきて、フウッと全身の毛を逆立ててわたしを威嚇した。猫にそんな態度を取られたことがないので、びっくりしたが「けがしてるから、治療に行くの」と言い捨てて走り出した。 
 動物病院はもう終わった時間だったが、先生は診察を引き受けてくれた。
「コダマちゃんに似てるよね」
 先生は、診察をしながら笑った。
「車かバイクにでも引っかけられたんだろうな。化膿して弱ってるけど、もう大丈夫だよ」

 お母さんは、しまい込んでいた餌箱を出したり、缶詰を棚の奥から引っぱり出したり。「コダマの籠、捨てられなくて」
 そう言いながら、古毛布を敷いて持ってきたくれた。何だか少し嬉しそうだった。ミケは、薬が効いたのか、少しネコ缶を食べて、コダマの籠の中で丸くなって眠っている。夜中に、遅く帰ったお父さんが籠を覗き込んでミケちゃんの頭を撫でていた。ごろごろいう甘え声が、ベッドで半分眠りかけていたわたしの耳に優しく響いた。

 チリチリン。鈴の音がして、大きな茶トラがシッポをピーンと立てて近寄ってくる。スリスリ頬ずりをして、顔を優しく舐めてくれる。ああ、あの時の怒りんぼ猫だと思った。舌のザラザラがちょっと痛い。ころころボー ルが転がる。古い野球ボールらしい。茶トラはぱっと身構えて、ボールにじゃれかかる。パンチで転がす。前足で押さえて齧りつく。こっちの方にも転がってくる。わたしも躍りかかって、跳ね返す。何だかわくわくする。わたしと茶トラは、交錯したり奪い合ったりして遊んでいる。そして毛づくろい。茶トラはわたしの毛を舐めてくれる。安らかな時間。段々に眠くなってくる。
 なんて夢を見た朝、気がつくとミケちゃんはわたしの横に寝ていた。ベッドに上ってこられるくらいになったのだ。ふわふわがベッドの上にいる。それだけのことなのに、心が温かい。この子にも家族がいるかもしれないと心のどこかに引っ掛かっていたが、コダマが弱っているわたしの元にこの子をもたらしてくれたんだ、と考えることにした。
 わたしは、参考書を買わなければならないことを思い出し、家を出た。深大寺を通りかかったとき、観音様にお礼詣りをしなくっちゃ、と思いついた。霊園の階段を上ろうとした時、階段脇の壁に、手作りらしいポスターが貼ってあることに気がついた。猫、探してます。大きな字。嫌な予感がした。見ない。そのまま通り過ぎ、階段を上って行った。
 お線香を供えて手を合わせながら、観音様のお顔を見た。たなびく煙の向こうで、観音様は哀しげな表情を浮かべている。やっぱり無視しちゃダメなんだ。わたしはポスターの前にたたずんだ。ミケちゃんと、大きな茶トラが、寄り添っている写真。猫、探しています。右側の三毛猫(メス)が、三月下旬頃いなくなりました。見かけた方はご連絡ください。そして連絡先。写真をじっと見つめた。似てるけど猫違いかもしれない。夢の中の茶トラ、わたしを威嚇した茶トラ。わたしはポスターの前で葛藤した。写真の中の二匹。ミケちゃんは茶トラに頭を擦りよせて、茶トラは目を細めてミケちゃんの頭を優しく舐めている。ほのぼのツーショット。
 参考書を買うこともすっかり忘れて、家に戻った。部屋に入ると、ミケちゃんが危なっかしい足取りながらも近づいて来て、わたしの足にスリスリした。
「茶トラくんは彼氏なのかな」
 わたしのつぶやきにミケちゃんはニァァとお返事した。わたしはため息をついて、ミケちゃんの顔をなでなでした。
「会いたいよね」というわたしに、またニァァとすり寄る。わたしは、そんなミケちゃんを見ながら、ポケットから連絡先をメモした紙を出した。くしゃくしゃになったメモを膝の上でのばしていると、ミケちゃんがきらきらした目で見上げている。わたしは、携帯電話をカバンから取り出した。

 飼い主さんが訪ねて来る日。わたしは、悔しいような腹立たしいような、もやもやした気持ちでいた。立ったり座ったり落ち着かないでいるうちに、玄関のチャイムが鳴った。わたしは、笑顔を作ってドアを開けた。そこには、背の高い男の子が立っている。イケメンではないけれど、素敵な笑顔。彼はミケちゃんを膝に乗せて、人懐っこく話す。つれあいのチャーがすっかり元気がないこと。ミケちゃんの初めての子供がかわいくて、貰われていく時のことを考えると泣きそうになること。そう、そして、ふわふわのお昼寝の幸せについて。わたしは、相槌を打ちながら、久しぶりに心から笑っていた。

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<著者紹介>
向山 葉子(東京都調布市/49歳/女性/主婦)

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