どうやら、全身に搭載されているあなたを感じるためのレーダーは、鼓膜だけ感度が抜群みたいだった。
 それはあなたが、みんなとはちょっと違うイントネーションでしゃべるってこともあるけれど、そういうことじゃなくて、あなたの言葉はみんなと波長が異なっているっていうか、もっと私の脳細胞を強烈にしびれさせる刺激っていうか、つまりはあなたの声が、いや声だけじゃなくて、たまらなく好きなのだった。あなたを。
 おせっかいなユリは、藤野くんは写真部なんだからもっと誘えるでしょ、夏なんだし海とか、なんて簡単に言う。このまま脳内少女漫画だったらいつになっても変わんないよ、って、睫毛にビューラーをかけながら。
 クラスメイトたちは目の前の大学受験って壁を越えるために、二年の冬くらいから急に恋人って拠点を築きはじめて、私は彼女たちと同列に思われたくなくて、ずっとあなたを誘えないでいた。うそ。ほんとはそうやって、言いわけをつくって、断られるのを怖がっていただけだ。ほんとは隣にいたいくせに。
 だからあなたが、廊下の掲示板に貼られていた鬼燈まつりのポスターを真剣な表情で見ている時、これだって直感したのだった。

 隣の座席にあなたがいるだけで、息が浅くなって唇がみるみる乾く。このままだとバスが深大寺にたどり着く前に唇の表面は砂漠と化してしまいそうだ。ポーチの中からリップを探しているとバスはカーブに差しかかって、カットソーの袖から伸びるあなたの腕が私の二の腕あたりにやわらかく押し付けられるので、もうリップどころじゃなくなる。
「ごめんな」
「ううん」
 すこし声が裏返ってしまう。あなたの声を聞いてからの半年、こんなにもそばで長い時間をすごしたことなんてなかったし、そうできたらいいなって思っていても、実際に起こってみると緊張のせいで幸せを実感する心の余裕すらない。でも、あなたは、なにも気にしていないのかもしれない。
 窓際に座るあなたはゆるやかに流れていく景色を見ながら、首からさげたカメラをなでる。黒色で、いかにも重そうなカメラだ。私からはつむじしか見えないけど、きっとその網膜はシャッターを切るのにふさわしい瞬間をさがしているんだろう。
「ほおずきのお祭り、なんだっけ」
「え、あ、うん。そうそう、ほおずき」
「あんま見たことない、から、どんなのか想像つかないや」
「実が提灯に似てるから、盆の時期になったら死んだ人を導くのに使われるんだって」
「そうなんだ」
 愉快そうに言うあなたの口数は、あまり多くない。まるで言葉を積んでいくよりも、空気とかタイミングとかで伝えようとしているみたいだ。それはきっと、できるかぎり方言を使わないようにしているからだと、私は勝手に、思う。
「でも、そんなにずらっと並んでるわけじゃないっぽいから、期待はずれだったら、ごめんね」
「だいじょうぶだよ」
 香川からきました、と、三年生にあがるタイミングであなたは私のクラスにやってきた。香川県イコール讃岐うどんの図式しかないクラスメイトたちは、週にどれくらいうどんを食べるのかをひらすらに聞き続け、あなたは困ったように、そんな食べないよ、といなしていた。でもあまりにしつこく尋ねるから、声を荒げて、やけんそんな食べんってようるやろが、と言った。大声を聞いたのは、それが最初で最後だった。
「でも、藤野くんの写真、好きだよ」
 私のレーダーが過敏になったきっかけは、正直よくわからない。気づいたらあなたの声のボリュームだけが頭の中で増幅されるようになっていたから。
 はっきりとわかるのは、あなたの写真を好きになったのは、春先にあった写真部の定期展示会だった。大きな桟橋と澄んだ緑色の海、まるまる肥ったオリーブの実、段々になっている水田とこうべを垂れる稲穂、真っ白な風車、砂浜に半分埋まった割れた電球......。針の細いピンで四隅をとめられた風景たちはどれも美しく、奥底になにかしらの物語が息をひそめているような気がした。そして、なんだか、悲しかった。
 ここには香川の写真しかないんだ。あなたは遠い目をして言った。
 どうやって写真を撮るの。たしか、そうやって私は訊いた。
 一枚でぜんぶが思い出せるように。あなたは、しずかに答えた。
「ありがとう」
 くしゃっとほころばせた顔が、吐息が混じった笑い声が、どれくらいの破壊力があるのかを、きっとあなたは知らないから、そんなにたやすく見せられるんだ。ずるい。

「とりあえずお参りして、それから、ごはん食べたりほおずき見よっか」
 あなたは、いいよ、と言う。こめかみあたりにうっすらと汗がかいているのが見えた。
 石畳や水車、そして店先に吊り下げられたほおずきを、あなたがじっくりと見られるように、私はゆっくりと歩く。足を踏みだすたびにカメラが胸のあたりで小さくゆれた。
「真っ白でまぶしいね」
「え」
「地面が」
 ようやく石畳のことを言っているのだと気づいた。光を浴びて、白い粉を一面にまき散らしているみたいだった。
 案内するよ、って胸を張ってみせたものの、ほんとは深大寺にだって一度だけ、それもお母さんに連れられてだるまを買いにきたことがあるだけだった。その時はぜんぜん身動きが取れなくて、小学生の私はお母さんの手を握りながら、気持ち悪いって泣き叫んでいた記憶しかない。だから鬼燈まつりって言葉から、お気に入りのサンダルじゃなくてスニーカーを選んだけど、実際は町内会のお祭りみたいな、のんびりとしたものだった。
 手作りの陶器やら帽子やら小物が並ぶ市を抜けて、本堂に立つ。日の光をさえぎるものがないので、首のうしろに真夏がそのまま降り注いでくる。賽銭箱に五円玉を投げ入れると、乾いた音を立ててすぐに見えなくなった。私たちは両手を合わせて、目をつむった。
 もし幸せがちょっとずつ消費できるんだったら、きっとこうやってたまっていく幸せである程度は暮らしていけるだろうけど、そんなじょうずなことはたぶんできないから、これからも続くよう一心に、祈る。
 目を開けると、もう拝み終えていたあなたは不思議そうな顔をした。
「なにをそんなお願いしてたの」
「その、藤野くんがいいほおずきを撮れますようにって」
「なにそれ」
 動揺に気づいていないのか、あなたは笑った。
 蝉が空の低いところで鳴くのを聞きながら、私たちは境内をしばらく歩きまわる。うんとゆっくりした速度で。でも、あなたは入道雲が立体的だとか、のぼりがどれも赤地に白文字とか、クラスのことをぽつぽつとしゃべるだけで、シャッターを切ることもなければ、ファインダーを覗くことさえしなかった。
 もしかしたら、私にとってものすごく幸せなこの時間は、あなたには切り取る価値すらないのかもしれない。
「もしかして、あんまり、いいとこなかった?」
 どこかぼんやりとした表情でほおずきを見ていたあなたは、私のほうを向いて、よくわからないといった顔をしたけど、すぐに、ああ、と言った。
「あんまし写真を撮るってことを、考えすぎないようにしてるんだ。そればっかり必死になっちゃうと、楽しむってことがないがしろになっちゃう気がするから」
 一枚でぜんぶが思い出せるように。
 あなたの声が頭の中で響いた。私は息を飲んだ。あなたは、思い出すためのピースをすこしずつ増やしているのだ。嬉しいような、情けないような気持ちになって、顔が赤くなっていくのがわかった。
 なんとなくあなたを見られなくて、吊るされたほおづきの鉢植えを眺める。ぷっくりと逆三角形にふくらんだ実は、たしかに提灯に似ているけれど、どうやら照らして導いてくれるのは死んだ人だけみたいだった。縁結びのお寺にあるほおずきなんだから、私たちの関係だって、照らしてくれたなら、いいのに。
 ぴぴ、かしゃ。
 咄嗟に音がしたほうを見る。カメラのレンズが私に向いていた。呆然としていると、あなたは画面をたしかめながら小さくほほえんで、それから、奥野、と私の名前を呼んだ。脳細胞に強烈な刺激がやってきて、私は反射的にそばへかけよって、液晶を覗きこむ。オレンジ色のほおずきをじっとみつめる、わずかに赤くなった私の横顔が映っていた。
「ええ写真やわ」
 あなたの息づかいと一緒に届いたのは、あなたが避けていたはずの言葉だった。私が顔をあげると、あなたは困惑と悲痛が絶妙に混じりあった顔をしていた。
「藤野くんの写真、好きだよ。それから、その言葉も」
 あなたは、ちょっとだけ波長の違う、ありがとう、をつぶやいて、くしゃっと笑う。泣きだしそうなあなたの表情を見て、もういちど、好きだよ、とささやく。

入倉 直幹(東京都/男性)
「あ」
 深大寺本堂のすぐ近く、釈迦堂脇の池の中にゆっくりと動くものを見つけた。
「よっちゃん」
「よっちゃん?」隣で泰弘が聞く。
「ほら、あそこ。池の隣。ミドリガメ」
「あ」

 よっちゃんは小さなミドリガメだ。出会いは私が泰弘と付き合い始めた大学三年生の夏。近所の祭りの縁日で売られていたそのミドリガメが何だか物哀しく見えたので、泰弘にお願いして彼のアパートで飼い始めた。露天商のおじさんが「亀は50年生きるから」と言うものだから、よっちゃんが寿命を全うするとき、私たちもおじいちゃんとおばあちゃんだね、まだ一緒にいるのかな、などといって二人で笑いあったことを覚えている。

「本当にあのよっちゃんかな」
 泰弘が遠慮がちに言う。泰弘は信じていないけど、私は構わない。
「こんなところにいたんだね、よっちゃん」

 よっちゃんはあのアパートにきてから、僅か一ヶ月で失踪した。二人で大学から戻ったら水槽からその姿が消えていたのだ。
 泰弘の「小さなよっちゃんが、この高さの水槽から自分で外に出るなんてありえない。野良猫のせいかな。窓開けっ放しだったし」という推理は、おそらくその通りであった。しかし、私には到底受け入れ難いものだった。なぜなら同棲の真似事を始めて、最初にあの部屋に来たのがよっちゃんだ。初めて二人で育てたのがよっちゃんだ。だから私は「よっちゃんはどうにかして自分の力で出て行った」と主張し、私の鬼気迫る勢いに押された泰弘は最終的にその説に同意した。
 つまり、私にとってよっちゃんは、自分でその水槽から出て行ったのでなければならなかった。断じて、野良猫などに連れ去られてはいけない。そう思っていた。

「そうかなぁ」
 それなのに、目の前にいるこの男は、池の傍でのんびりとくつろいでいるこのミドリガメをよっちゃんだと認めようとしない。いや、そもそも私はこのカメがミドリガメなのか、あるいは他の種類のカメなのかもわからない。それでも。
「よっちゃんだってば」
「そっか。そうしたらきっとそうだ。よっちゃん、15歳くらいになるんだね」
 まただ。またこの男は、適当に話を合わせる。いつだってそうだ。

 結局私は大学時代をそのまま泰弘と過ごし、卒業して文具メーカーに就職した。泰弘も大手家電メーカーに就職し、いい機会だからと私たちは卒業と同時に小金井を離れ、都心のマンションへと引っ越した。そして3年後、「結婚もしないで何年も同棲するなんて恥ずかしい」と言う母のために籍を入れ、晴れて夫婦となった。

「こんな所にいたんだね」
 思わず笑みがこぼれた。懐かしい。
「少し歩かない?」
 怪訝な様子で泰弘が応える。
「あれ、まだお参りしてないけど」
 構わず山門をくぐり、小さな橋を渡ると、泰弘が慌てて追いかけてきた。

 結婚しても生活は何も変わらなかったが、それなりに幸せに過ごしていたように思う。

 山門を出て、蕎麦屋やお土産屋の並ぶ道を歩きながら、泰弘が言う。
「今日ここに誘ってくれてありがとうな」
「どうして」
「よっちゃんいたじゃん」

 私たちは、子供が欲しかった。しかし、初めての仕事もそれなりに楽しかったし、なにより就職したての私たちは生活するのでいっぱいいっぱいだった。もう少し仕事になれたら、給料が上がったら。そうやって20代を過ごした。
 30歳が迫ってきた頃、私たちは子供をつくることにした。しかし三ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎる頃、仕事を辞めれば子供ができる、という義母のアドバイスがきっかけであっさりと退職した。そして、共働きでなくなった私たちは、再び西東京へ戻ってきた。

「よっちゃんいたじゃんって、泰弘あのカメがよっちゃんって信じてないでしょ」
「そんなことないよ」
 退職して西東京に戻ってからも、妊娠の兆候はなかった。毎月がっかりすることに疲れた私は、期待するのをやめた。当然次第に子作りとは疎遠になり、私は毎日泰弘の朝ごはんを作り、洗濯と掃除をした。そして泰弘は出世したのか残業が増えたのか知らないが深夜の帰宅が増え、私は一人で夕飯を食べた。そして子供の話は我が家ではタブーとなった。

 学生の頃の私たちは休みになると自転車で色々なところへ出かけた。小金井公園や井の頭公園、野川公園、近所の小さな公園へ行って、何をするでもなくただ日が暮れるのを待った。深大寺もその頃、よく来た場所のひとつだ。蕎麦は滅多に食べられなかったけど、団子をよく二人で分け合って食べた。ベンチに腰掛け、沢山話をした。

「覚えてるか、縁結びの神様の話」
 池を見つめながら、泰弘が言う。

 ある男がお金持ちの娘に恋をして手紙をたくさん送る。でもその娘のお父さんが、どこの生まれかもわからない男はだめだと怒って、娘を小島に隔離してしまう。しかし男が強く願うと、どこからか大きな亀が現れて、娘のところに連れて行ってくれる。そんな加護をうける男ならばと、お父さんが許してくれる。そしてその二人の間にできた子供が、やがて深大寺を開創することになる。

「覚えてるよ」
 忘れるはずがない。幾度となく、ここに来るたびにその話をした。
 池の水面を見つめる泰弘の顔が、少し緊張している。
「俺は昔、何度もここでお願いしたよ。『有未と幸せになれますように』って。絵馬にもそう書いた」
「うん」
「そして僕たちは結婚した。でも」
「でも?」
「うまくいってない」
「縁結びの神様も、結婚から先は管轄外なのかもね」
 泰弘が振り返ってこちらを見た。
「でも今日、よっちゃんがまた現れた」
「よっちゃんは猫が連れていっちゃったんじゃなかった?」
 さっきから言い出せない言葉がずっしりと、私の頭に重くのしかかっている。子供ができなかったことをきっかけに、私たちは薄暗い影の中で、彩りを失った生活を送っている。
「有未がどうしてここに来ようって言ったか、僕にもわかってる」
 お母さんに買ってもらったお団子をもった子どもが、脇を走り抜けていく。その横でなんじゃもんじゃの木は鮮やかな緑の葉を蓄え、天に伸びている。
「どうしてこうなっちゃったんだろう」
「よっちゃんはさ」
 泰弘が振り返った。
「やっぱり自分で出て行ったんじゃないかな。そしてさっきの亀はやっぱりよっちゃんだ」
 こんな時でも、泰弘はやっぱり適当なことを簡単に口にする。
「だから、もう一度やり直さないか」
「え?」

 この男は何を言っているのだろう。
「ここは縁結びの神様だろ? で、僕たちはよっちゃんにまた会えた。きっとよっちゃんが、僕たちをまた繋いでくれる」
 いつだってそうだ。いつだって適当なことを言ってごまかしてきた。でも。
「ちゃんとお参りしよう」
 目の奥深くに熱がこもる。

 山門に向かう泰弘を追いかけ、声をかける。
「帰りにお蕎麦食べようか」
「いいよ」
 少し赤い目をした泰弘がこちらを振り返る。

 その日の帰り、二人でもう一度池を探してみたけれど、いくら探してもよっちゃんの姿は見つからなかった。

 久しぶりに深大寺に行ったあの日から、2年が経った。今、泰弘が車でこちらに向かっている。ダッシュボードには、深大寺で買った赤い達磨のステッカーが貼ってある。
 時計を見ると23時を回っている。陣痛室に入って2時間、お腹の子はまだ出てくる気配はない。
 私は陣痛に耐えながら、元気な子が無事に産まれるように、ついでに泰弘が間に合うように、神様に祈った。
 よっちゃん、どうかよろしくお願いします。

奏晴太(東京都杉並区/36歳/男性/会社員)
――東京の冬は寒い。
バスの扉が開いて、外に出る時、耳元で彼の声が聞こえたような気がした。
戸田瑶子は彼と付き合い始めて、二度目の冬を迎えようとしていたが、今、待ち合わせをしているのは、その彼ではなかった。
「戸田さん、ここ」
 河合が微笑んで、片手をあげるのが見えた。こんな風に職場以外で会うのは初めてのことだった。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「こら。そっちから誘ったんだぞ」
 河合の冗談めかした言い方に、河合の優しさが感じられた。瑶子も口角をあげて笑顔を作ってみせる。
職場の飲み会で、酔った瑶子が深大寺に行こうと河合を誘ったというのは嘘ではないだろう。河合が嘘をつくような男でないことは、入社してからのこの六年間でよくわかっていた。それよりもわからないのは自分の気持ちだった。去年、一人で過ごした年末年始の寂しさを、また今年も味わうことになることを恐れているのか、それとも自分のことを想っていると知ったことで、河合に甘えてしまったのだろうか......。
参道の石畳の上を参拝客達がゆっくり歩いていく。師走に入り、風はひんやりとしていたが、日差しは明るく穏やかだった。
「まずはぶらぶらしてみるか」
 河合と肩を並べて歩きだすと、どこからか、微かに煙草の臭いがしてきて鼻を掠めた。瑶子は子供のころから、父親の吸う煙草の臭いが大嫌いだった。今でも他人が吐き出すその臭いは苦手だった。それなのに、彼が煙草を吸っている姿だけは好きだった。煙の匂いさえ愛しくなった。彼が瑶子のアパートの部屋から帰ってしまったあとでも、灰皿をそのままにした。何日も何日も吸い殻を見詰めながら、次に連絡がくるのを待った。そして、彼から電話があると急いで灰皿を洗い、棚の奥に隠した。
「見て、これ、面白いよ」
 混雑した土産物店の中で、河合は手にした妖怪の図柄の手ぬぐいを振っている。その河合の姿がふっと自分の姿に変わる。店の入り口に面倒くさそうに立っている彼に、はしゃぎながら微笑みかけている自分の姿――。いつも不機嫌そうで、半分死んだ目をした背の高い男。休みの日に外でデートをしたことなど一度もなかった。いつも唐突な夜の来訪を待っているだけだった。一人きりの週末をもてあますようになった瑶子は、ふと思いたって子どものころ以来、行っていなかった寺や神社に行ってみることにした。一月の終わりに成田山に初詣に出掛け、湯島天神で白梅を眺め、目黒不動尊の桜を一人で見上げた。明治神宮のパワースポットと言われる井戸の水を手に浸し、行ける範囲のあらかたの寺社仏閣をまわったあとで、深大寺まで足をのばした。新緑の美しさと幸せそうな人々の行き交う参道にそれまでにないものを感じた。故郷に帰ったような心地がした。住んでいるアパートからかなり遠くはあったが、春から秋にかけて何度か、一人でこの森を訪れた。秋までは良かった。一人で歩いていても彼のことを思うたびに、幸せを感じた。付き合っている人がいる、心底好きな人がいる、それだけで瑶子は満たされていた。
「どうしたの?」
 怪訝そうに河合が瑶子の顔を覗き込む。
「ううん、......なんでもない。あっちの店、行ってみましょう」
 河合は、瑶子に付き合っている男がいることを知っていた。瑶子が職場で、そのことを隠さなかったからだ。そして、思いがけず、河合から、彼と別れて自分と付き合わないかと言われたのは、先月のことだった。もちろん、瑶子は即座に断った。
灯りの弱かった店内から外に出ると、まぶしさに目を細める河合の横顔が思ったよりも近いところにあり、瑶子は慌てた。
「昼飯、どこの店がいいかなあ。って、まずは先にお参りか」
「......お参りはあとにしてもいい?」
 迷っていた。一年半という歳月が迷いを生じさせていた。これからくる冬が怖かった。河合となら温かな将来を思い描くことは簡単かもしれない。
「そうだな、まずは蕎麦だ、蕎麦」
 河合の肩越しに野点傘が見えた。冬の白っぽい陽光の中で光の粉を撒いたかのように傘の表面が輝いている。その下の赤い日陰の中、小さな女の子を真ん中に挟んで若い夫婦が腰掛けているのが見えた。

 去年の夏、友人に誘われて仕方なく見に行った小さな劇団の舞台が終わり、出待ちをするという友人に先に帰るからと告げ、通りに出た途端、土砂降りの雨が降り出した。バッグから取り出した折り畳み傘を広げて差すと、後ろから走ってくる足音が聞こえた。いきなり男の手が伸びてきて、傘の柄を持った。ぐっと傘が高くなった。舞台に出ていた男だった。
「入れてってよ」
低い声だった。瑶子が驚いて仰け反り、男を見上げると、男は無表情なまま剥き出しの腕で瑶子の肩を抱き寄せた。
「濡れちゃうよ。――腹へったな」
 男は瑶子の部屋に来て瑶子の作ったものを食べ、眠り、そして、翌朝帰って行った。その日以来、瑶子は自分がそれまでとは違う女になったような気がした。
 
 手にしたメニューの向こうから河合の声が飛んできた。
「俺、天ざる。――ほら、早く決めないと。それでなくても嫁き遅れてるんだからさ」
「ひどーい」
河合の冗談に瑶子は笑った。
「それにしても、あんなに酔っぱらっちゃうとはね......」
「たまにはそういうこともあるの」
「......俺のほうが、本当の戸田さんをよく知ってるかもよ」
 河合が真剣な眼差しで瑶子を見つめた。 不意打ちをくらって、瑶子はたじろいだ。元々は生真面目な性格だった。普段真面目な分だけ、酔って本音を吐露してしまったのかもしれない。それとも、河合にだから、気を許してしまったのだろうか。そう思いたかった。
河合の顔から視線を外した先で、年配の男がポケットから煙草とライターを取り出すのが見えた。「ここ、禁煙か」と呟き、手持ち無沙汰にライターの蓋を開いたり閉じたりしている。独特の金属音が店内に響いた。その音につられるようにして、またひとつの記憶が過る。
煙草に火を点ける彼の指先を瑶子はじっと見ている。自分が誕生日にあげたライターを「失くした」と言い、誰かにプレゼントされたに違いない真新しいジッポーを「拾った」と平気な顔をして言った――。そういう男だった。
恋とは一体なんだろう。いつだって一番好きな人には本気で好きになってもらえない。

蕎麦を食べ終えて、二人は店の外へ出た。参道は短く、小川を挟んで山門が見えた。小さいながらもふっくらとした茅葺屋根を載せた風情のある山門だった。
十段ほどの階段を上がりきったところで、瑶子は足を止めた。
「どうしたの」
 河合が向き直る。
「私......」
見上げると山門が瑶子の心の底を射抜くように思えた。他の男のことばかり考えながら、二人を天秤にかけている――。罪悪感という言葉が心に浮かんだ。何も言えずに瑶子は俯いた。河合は瑶子の気持ちを察しているようだった。わざとおどけたような声で言う。
「お寺の門って、山になくても全部、山門っていうんだな。――ここから先は神聖な場所だから、不埒な心のやつは足が止まってしまうんだな、きっと」
「そう。私、嘘つきだから......」
 込み上げてくる言葉を堪えて、唇が震えた。嘘をついているのが辛かった。
「彼と......、彼とここに来たかった――」
「知ってる。あの時、そう言ってたから」
 瑶子は驚いて、河合の目を見た。今まで見たことがないほど強い光がその瞳にあった。
「だけど、もうやめたほうがいい」
「......」
「君がしているのはいい恋愛じゃない」
「恋愛に、いいも悪いも――」
「ある。......あるんだよ」
 河合の声は深く穏やかだった。
「いちばん来てほしいところに一緒に来てくれないような人はいい恋人じゃない」
 涙が零れ落ちていく。
河合が行き過ぎる人に見えないように瑶子の頭を肩に引き寄せた。
「彼のこと考えるのは、もうここまでにして」
瑶子は小さく頷いた。
「さあ、行こう」
 河合が瑶子の手をとる。
 温かな手だった。

玖保アキ子(東京都)
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