今日、彼は私の部屋でこれまでと同じ様子で、一時間にも満たない短い時間を過ごした。この数か月間がまるで嘘のように、とても静かで穏やかな時間だった。彼は私の言葉に優しく微笑み、時に相槌をうち、いくつかの他愛もない話題を口にした。
 本当に、この時間がこれからもずっと続くかのようだった。
 今までと違うことといえば、珈琲に一切ミルクを入れなかったことと、玄関を出る時に、「またね」と言うかわりのキスをしなかったことだ。
 ドアが閉まる寸前、「最後くらい送らせてよ」と言った私に、「そうだね」と彼はやっぱり穏やかな笑顔を私に向けて言った。

 一年で一番昼間が長いこの時期、空はまだかすかな昼の青を残していた。最寄りである『調布市総合体育館前』のバス停に向かう間、私たちは無言だった。何を話せばいいのか、話すべきなのか。もう二人の共通の言葉を失ってしまっていた。
 バス停の前で私たちは並んで、静かにバスを待つ。何度か彼は小さく咳払いをした。「風邪?」と聞くと、彼はうつむき、「ちょっと埃っぽいね」とまるで照れたように小さな声で言った。

 『つつじヶ丘駅』行きのバスは間もなくやってきた。バスは当たり前に私たちの目の前に停車しドアが開いた。彼は短く、「じゃあ」と言って乗り込んでいった。私は小さくうなずいただけだった。
 他に乗客がいないガラガラのバスの一番後ろに座った彼は、もう私のほうを見ることもなく、ただただまっすぐに正面を見据えていた。ドアが閉まる。バスが走り出す。私は彼の後姿を見送った。

言い争う毎日の中で、それでも前向きにと二人で決めた結論だった。お互い納得した別れだった。もう、あんな風にお互い傷つけあうのは嫌だった。積み重なる小さな嘘、心に赤い筋をひくナイフような鋭い言葉、憎しみに満ちた瞳...それまで見たことのないお互いを見せ合い、これ以上相手に絶望するのは嫌だった。
 今ならまだ、きれいな思い出を残して離れられる、そう思った。だから別れることを選択した。まだ少しでも好きだという感情が残っているうちに。思い出までもが穢れてしまわないうちに。
 
バスが遠ざかるにつれ、暮れかけた淡い闇の中に光がにじみテールランプがぼやけていく。二人で過ごした時間も同じように、いつか私の中でぼやけて、あいまいになって、そしてその形すら思い出せないくらいになっていくのだろう。
 嫌だ。
 突然胸の中に強い思いが沸き上がってきた。そんなの、嫌だ。
 彼との思い出が消えてしまうなんて嫌だ。絶対に嫌だ。
 胸の奥で、ざわざわと何がが生き物のようにうごめき出す。鼓動が早くなり、後頭部が焼けるようにじりじりとしてくる。
 追いかけなくちゃ。
 このまま彼を行かせてはいけない。これで終わりにしちゃいけない。だって...だって、まだ彼をなくしたくない。
 別れ話をしているこの数か月、心の奥底に意図的に沈めていた感情がぼこっ、と浮かんであらわになる。
 追いかけなくちゃ。でも、どうやって?
 バスはもうほとんど見えなくなっている。気持ちばかりがあせって、キョロキョロあたりを見回す。深大寺へ続く道のフェンスにかかった"深大寺まで五百メートル"と書かれた看板が目に入った。
 突然思い出した。『つつじヶ丘駅』行きのバスは、『深大寺植物公園』を回り、『深大寺』を経由してから『つつじヶ丘駅』に向かう。しかも『深大寺』で時間調整のため、数分止まることもあったはず。この森を抜けて『深大寺』のバス停まで走れば、追いつくことができるかもしれない。
 深大寺へと向かう道を見通す。暮れていく空を揺らすように、深大寺の森があやしくザワザワと音をたてていた。
 途中のバス停で人がたくさん乗ってくれたら、途中の信号にバスが捕まったら、そうやって深大寺到着までに時間がかかれば...
 深大寺に祀られているのは縁結びの神様だと聞いたことがある。私達が別れるのは、神様がのぞんだことなのだろうか。私は深大寺に向かって駆け出した。神様と、勝負だ。
 人気のまったくない薄暗い道に、私のヒールの音だけが響く。よりによってヒール靴...彼が最後に見る私の姿が、スニーカーやカジュアルなサンダルなんて嫌だったのだ。ほんの少しでもきれいだったと、かわいかったと思ってもらいたかったのだ。
 深大寺の森が、私を嘲っているかのようにざざーっ、ざざーっと大きく揺れる。間に合うわけがないだろう、往生際が悪い奴だ、一度手を放したくせに...
 ヒールの靴は着地するごとにグラグラと揺れる。走りにくいことこのうえない。いつ足をくじいてしまうかわからない。
 私は立ち止まり、そしてヒールを脱いで、バトンのように持って再び走り出した。足の裏を怪我するかもしれない。でもそんなことを恐れていたら、神様との勝負になんて絶対勝てっこない。
 少し走っただけなのに息が苦しい。のどの奥がヒリヒリと痛くなり、脚がどんどん重くなる。森の木々がさらに嗤う。あきらめなよ、間に合うわけがないじゃないか...
 長い坂道を転びそうになりながも駆け下りて、門前に出た。昼間なら蕎麦屋などに並ぶ人々でにぎわっているが、店はひとつも開いておらず、参拝客も見当たらない。昼間の喧騒が嘘のように通りは静まり、眠りにつこうとしていた。自分の呼吸の音がやたらと大きく聞こえる。あと少し、あと少し。お願い間に合って...
 角を曲がった時、止まっているバスがついに見えた。間に合う、そう思ったが、重くなった脚は思うように前に出ない。
 もうそこまでというところで、バスのドアが閉まった。止まって!そう叫びたかったが、声はでなかった。
 バスが動き出す。一番後ろの席に座った彼の、彫像のように動かない横顔が見える。行かないで、お願い、行かないで...
 声にはならなかった。ありったけの思いを込めて心の中で叫ぶ。神様、お願い、バスを止めて。
 通り過ぎるバスの中で、突然、彼がこちらを見た。私に気づいて表情が変わった。一瞬の間。そして、運転手さんに向かって何か叫んだ。
 バスが止まる。ドアが開いて、彼が駆け下りてきた。もう動けずに立ち尽くす私のもとに驚いた顔で駆けてくる。その後で、バスはゆっくり遠ざかっていった。
 言わなきゃ、そう思ったが、息が上がって話せない。ぜいぜいと粗い息をしている私を、彼は何も言わずに黙って見ていた。
 どれだけの時間がたっただろう、彼が空を見上げて大きく息を一つ吐いた。そして細かく瞬きをしながら言った。
「足、大丈夫?」
 予想していなかった言葉をかけられて、すぐには理解ができなかった。何も返せないでいると、
「怪我したんじゃないの?足の裏」
 再び言われて、私は足の裏を見てみた。いつの間にか何かを踏みつけたのだろう、ところどころ血が出ていた。それを見て初めて、足の裏が痛むことに気がついた。
 彼が苦笑いをする。
「なんで無茶するんだよ。せっかくのきれいな足が傷だらけじゃないか」
 だって、あなたをなくしたくなかった、そう言いたかった。呼吸はさっきより苦しくなかったけれど、それでもやっぱり言葉は出なかった。
「ほら」
 彼が背中を向けた。何のことかわからずにぼんやりしていると、彼がこちらを見ずに続けた。
「おぶされよ。そんな足じゃ家まで歩けないだろ」
 彼の言葉をどう解釈していいのかわからずにいると、早く、と彼が促す。私は彼の背中に身体をあずけた。
 首筋から嗅ぎなれた彼の匂いがする。彼の体温を感じて、途端に涙がボロボロとあふれてきた。
「とりあえず足の怪我、手当しないと」
 彼は歩き出す、さっき後にした私の家に向かって。
 彼はそれから何も話さなかった。私も彼の背中で何も言わずに彼を身体で感じていた。
 さっきあんなに怖く感じた深大寺の森のざわめく声が、今はなぜか優しく聞こえる。
「...鼻水、背中についちゃうよ」
 やっと絞り出した私の言葉に、彼はぶっきらぼうに答える。
「鼻水ぐらい、いくらでもつけろよ」
 さっきよりも大股で、彼は歩き続ける。さらにあふれてくる涙を隠すように、私は彼の背中に顔をうずめた。
 足の手当てが終わったら、とりあえず、もう一度珈琲を入れよう。今度は彼の好みで、ミルクをたっぷり入れて。
 話は、それからにしよう。

小山みどり(東京都世田谷区/44歳/女性/会社員)
 その寺の裏通り佇んでいた幽霊に会ったのは梅雨の頃だった。
 その日私は、深大寺南町にある叔父宅の留守番をする事になっていた。
 深大寺に来るのは十二年ぶりの中学生以来で、懐かしさが込み上げる。それで私は夕刻になってから散歩に出掛ける事にしたのだった。
 ところが、道に迷った。
 確か深大寺本堂前の通りを抜け、そのまま武蔵境通りを越え、緑の多い住宅街、季節は六月だったので、花盛りの紫陽花を楽しみながら歩いていたのだが、気が付けば道が分からなくなっていた。二十五歳にあるまじき失態をしでかしてしまい、あげくに頼りの携帯も家に置いて来てしまったから困った。
 薄暮を過ぎ、いよいよ夜の暗さが辺りに降りて来ると、近年体験しない暗さになった。
 というのも、まったく街灯がないのだ。
 灯りのなさに心細くなりながら、どこかとんでもない方向へと連れて行かれるのではないかと不安になる。
 だけど心配とは裏腹に、道は見覚えのある場所へと繋がっていた。
 そう、ここは深大寺本堂の裏手の道だ。
 ようやっと頭の中に自分の現在地が浮かぶ。
 ここからなら家まであともうちょっとだ。
 ほうっと安堵の息を吐き出して、(家に帰れる...)と緩んだ顔を上げると、その家へと抜ける細道がこれまでの比でなく真っ暗である事に気付いて閉口する。
「.........」
 人とすれ違えば、軽く会釈しなくては気まずいほどの細い小道である。
 両側には鬱蒼とした雑木林があり、まるで道を覆わんとするばかりに迫り出している。
 私は唾を飲み込む。
 一度引き返して、そば屋などの並ぶ本堂の表通りへ出ようかと思ったが、もう歩き続けてかれこれ四時間が過ぎている。
 この暗い細道さえ抜けてしまえば、ベタつく汗を流すお風呂も、バスに乗る前に吉祥寺駅で購入した惣菜の夕飯も待っている。
 ええい、行ってしまえ、と私は思い切った。
 そして踏み出すや暗闇。背後に光。
 六月の湿気た風に樹々がざわめき、思わずして鳥肌が立ち、肩が持ち上がる。だが、怖気ている自分に知らん顔をして進む。
(もう、なんでどこもそこもこんなに暗いんだろう...。ここは都内でしょう...)
 誰とも会いませんようにと祈りながら、中盤辺りに差し掛かった時だった。
 緩やかなカーブの切れ目に、横を向いた男が、夜空を仰いでぽつんと立っているのが見えたから、心臓を掴まれた。
 なぜって、その若い男は場違いに着物を纏い、憂いた横顔、宵の下で見るにまさに"幽霊"だったからである。
(つ、ついに見てしまっ...)
 と、愕然とし、背筋に冷たいものを走らせるが、私は慌てて顔を振るった。
 いやいや、待て待て。幽霊だのどうだのなんて、今この場合、問題ではない。というか、怖いから問題にしない。
 問題は、どうであれ、あれの傍をすり抜けなければ帰宅が出来ないという事である。
(回り道...、しようかな...)
 幸い向こうは私に気付いていない。こんな暗闇に着物姿で佇んでいる男など、詳細不問で避けるべきである。
 しかし、私はもう疲れ切っていた。
 ここを通ればもう家なのだと思うと、なかなか引き返す気持ちになれない。
 それで暗がりに佇む着物の男を見ていたのだが、彼の遠い目や、ひどくくたびれた表情を眺めていると、徐々に心配になって来た。
 芥川か、太宰か。着ているもののせいで、まるで不調に追い詰められた作家のようだ。まさか木を見上げてよからぬ事を考えているのではないだろうな...、と頭に過ぎると、私はしばし悩んだ末、自分でも驚くのだが、声を掛けるという結論を出したのだった。
「あ、あの...、どうかされましたか?」
 少々離れた位置から恐る恐ると声を掛けられ、着物の男がぴくりと反応する。
 上を見仰ぐのを止め、ひどく緩慢な動作でこちらに振り返る。
 そして、私の姿を見止めるなり、「ああ、見つかってしまった」というような残念そうな表情をしたのだった。
 私が(やはり幽霊...)と息を呑む間に、着物の男はそんな表情を引っ込めた。そして、代わりに困ったような笑みを作ると、こちらに身体の向きを変え、口を開いた。
「やあ...、驚かせてしまったみたいですみません。ちょっと考え事をしていたのです」
 まともな受け答えが返って来て、私はきょとんとする。と、着物の男が小首を傾ぐ。
「しかし、ここなら誰もいないと思ったのですが、この暗い道が怖くなかったのですか?」
 予想外に話を振られてしまった私は慌てる。「え?えっと...怖かったんですけど、早く帰りたくって。でも歩いて来た道もぜんぜん街灯がなくて暗かったんです。都内なのに...」
 と、地元の人であろうのに、失礼な一言を漏らしてしまい、私はハッと口を閉じた。
 気まずそうにしていたら、話の続きを待っていた着物の男は、ある拍子に「ああ」と一人合点すると、にっこりとした。
 私の背後を指で示す。
「あちらへずっと行った先にに天文台があるのをご存知ですか?ここいらは星がよく見えるよう、光が制限されて街灯を少なくしているのです。暗くて驚かれたでしょう」
 どうも気を遣われたと分かって私は恐縮する。男は、街灯の代わりに足元の照明を多く置いていると付け加え、
「でもここに長くいると慣れてしまうものですよ。暗闇も楽しいものです。ここいらの暗さは昔から変わりません」
 と、長い事小道にいた風な事をいうので、やっぱり幽霊なのかしらと私は思う。
 男の穏やかな口調と小道の暗闇、歩き回った疲れにぼんやりとして、私は次第に現実感がなくなって来た。この着物の男をどう捉えていいか分からなくなって、眉を困らせる。
「...さっきの昔からって...、昔の深大寺ってどんな所だったんです?」
 場つなぎの小さな質問に、暗闇の中で男が袖を揺らし、「ふうむ」とあごを撫ぜたのが分かる。
「お寺は江戸の頃からもうありましたけど、周辺には本当に何もありませんでした。野原や畑ぐらいでしょうか」
「...畑ってやっぱりおそば?」
 私がちょこんと口を挟むと、男は頷く。
「ええ、そうです。そばは稲の代わりです。元々ここらは米を作るには向かない土地なのですよ」
 それを聞いて意外に思った。なぜならここは湧水に恵まれた場所でなかったか。そう、深大寺本堂の隣にだって深沙大王という水神を祀ったお堂があったはずだ。
 水といえば田んぼなのになぜ、と、私が考え込んでいると、ふいに男の声がした。
「ほら、湧き水は冷たいでしょう?米を作るためには溜池を作って一度温めなくてはいけなかったのですよ」
 冷たい清水は、茹で上がったそばを晒すのには具合がよいのですけれどね、と男は笑う。
 心を読まれてしまった私は呆気に取られる。
 以降も男は私の呟きや問いをよく察して、深大寺界隈の歴史や民話などを話してくれた。
 まるで久しぶりに人と話したみたいに、嬉しそうに話す彼の様子に、私も知らずの内に軽く微笑んでいて、そして暗い小道が怖くなくなっていた。
 私達はいつの間にか三鷹通り方面へと歩き出していて、明るい道路が見えた所で男は暗闇に立ち止まり、「では、気を付けて」と私を明るい通りへと送り出した。そして元来た道へと消えて行ったのだった。

 不思議な体験をし、叔父宅の留守番を無事に終えた私は、あれは幽霊だったのか、なんだったのかとしばらく気になっていたのだが、ある日、ひょんな所から答えを貰う事になる。
 私の叔父は深大寺観光の広報を手伝っていて、「お前、散策したのならちょっと感想を頼まれてくれないか」と呼ばれたのだ。
 そして再び叔父宅を訪れた時、なんと、居間にYシャツを着たあの男が、広報担当として座っていたのである。
 お互いに驚き、広報担当、だから詳しかったと理解した時、私は思わず笑ってしまった。
「あの時、なんで着物姿だったんですか?」
 現代着の彼に尋ねるとぎくりと肩を揺らしてまずそうにしたが、やがて「やあ、実は...」と降参して教えてくれた。
 要は毎年恒例の夏の広報を書くのに詰まってしまい、気分を出すために浴衣を着て徘徊していたらしい。しかし先取りし過ぎた夏の様相にも、半ばやけくその打開策にも自ずと恥ずかしさはあったようで、明るい所には出られず、真っ暗なあの道にずっといたのだそうだ。
「そうだったんですか」
 叔父が居間へと戻って来ると、照れ入る彼と、笑っている私の様子にきょとんとする。
 が、取り直して取材を始める事にしたらしい。機嫌のいい叔父がさっそく私を指差す。
「いやなに。この子がこっちに来た時、郷土史にやたら詳しい奴に会ったらしくてな。一緒に歩いたのがえらい楽しかったって何度も俺に話すんだよ」
 第三者の感想を交えて作る郷土史案内マップなんて面白いだろう、と張り切る叔父。
 はたとする彼に、今度は私が照れて赤くなる番だった。

一月(東京都練馬区/34歳/女性/自営業)
見知らぬアドレスからのメール、またしつこい迷惑メールかと思われたでしょうが、詐欺とか勧誘の類いではないのでご安心ください。私は北海道に住む三十代の女性です。電話やメールをする相手が全くいないという訳ではないのですが、そうした日々つながっている人とは違う誰かと話をしてみたい、そんなふざけた思いからあてずっぽうのアドレスにメールしました。直接話したり逢ったりしたいと思っている訳ではないので、連絡先などを聞くつもりもありませんし、ご迷惑ならばどうかすぐに削除ください。でももしも馬鹿げた大人の戯れに少し付き合ってもいいと思われるなら、返信いただけたらと思います。 

そうは言っても、もちろん最初は新手の迷惑メールだと思った。そうじゃないにしても、危ない奴が多い昨今、女性が自分から素性のわからない相手に連絡を取るなんて、この人も相当危ない人かもしれないと思いつつ、それにしては何となく誠実な印象を受けたので、自分を特定する情報を伝えなければいいか、と軽い気持ちでメールを返した。そんな風にして僕らの不思議な「文通」が始まった。 
僕は自分のことはほとんど伝えなかったが、彼女は普通に自分のことを書いてきた。仕事は美術館の学芸員をしていて、花とミスチルとミステリーが好きで、虫とセロリと人混みが大嫌い。二年程前にノラ猫の里親になり、猫の「すもも」と暮らしている。 
もちろん名前や住所を書いている訳ではないが、「どこの誰だかわからない相手にそんな個人情報を教えたら危ないですよ」と送ると、彼女は「相手がどんな人か、少しやりとりをすればわかりますから」と返してきた。 
「悪い奴かもしれないのに」と返信したものの、そういう風に信用されると、きちんとせねばと思ってしまうのも計算づくなのか。 
僕らは、好きなテレビやお昼に食べたものなどたわいない話もしたし、環境問題や海外の紛争についてなど真面目な話もした。最初は興味半分だったが、同年代の独身同士で話も合い、見知らぬ相手ゆえ何も気にせず思ったことを言えるのが楽しくて、いつしか僕は彼女からのメールを心待ちにしていた。 
彼女は東京に友人がいて何度か来たことがあると言い、どこに来たのか聞いてみると、偶然にも馴染みのある深大寺と近くの植物公園の名を挙げた。嬉しくて僕は「実は学生の頃はその辺りに住んでいて、神代植物公園は特別な思い出のある場所なんですよ」とメールしていた。 
「初めて自分のことを教えてくれましたね、うれしいです。それはどんな思い出なんですか?」 
そう聞かれて、今までずっと心の奥にしまい込み、でもずっと引っかかっていた記憶が蘇ってきた。 
大学二年の秋、僕はその植物公園でアルバイトをした。簡単な園内作業の仕事だったが、その頃いつも秋桜の前に座って絵を描いている女の子がいた。特別美人でもないが真剣な眼差しに惹かれるものがあり、僕はいつもその娘を横目で気にしながら作業をしていた。ある時何気なく後ろを通りながら絵を覗き込むと、赤やピンクに咲き誇る秋桜の中に僕の姿が描かれていた。絵のモチーフとしてピッタリだっただけなのだろうが、嬉しくて僕は思わず「これ僕ですか?」と声をかけた。それがきっかけで由貴と話すようになり、いつしか僕らは付き合うようになった。 
由貴は都内にある美大の二年生で、偶然にも僕のゼミの女の子と高校の友達だった。僕らは卒業前までの二年間付き合ったが、由貴はいつもびっくりするようなことをした。 
ドライブ中に道で轢かれた猫を見つけると、「埋めてあげよう」となきがらをダンボールに入れて車で山まで運び、酔っ払いに女の子が絡まれているのを見たら、「やめなさい」と買い物してきたばかりの卵を相手に投げた。そうした由貴の行動にハラハラさせられることは度々で、その後の処理はいつも僕の仕事だった。そして一段落した後に由貴が晴れやかな表情でVサインをし、僕が苦笑いしながら右手を挙げて敬礼を返すのが、僕らの「アイシテル」のサインだった。
曲がったことを嫌い、子供のような素直さを持った由貴を、本当に僕は大好きだった。でもそんな彼女を僕は裏切った。 
四年生になって、由貴は早々に大手の出版社への就職が内定していたが、僕はなかなか就職が決まらなかった。大企業や業種にこだわる僕に、由貴はもっと広い視野を持つように助言したが、僕は聞き入れず、小さな諍いが絶えなくなっていった。そんな時、街で知り合った女の子と仲良くなり、僕はその娘に逃げ場を求めてしまった。 
出逢ってちょうど二年経った秋、僕は由貴に電話で理由も告げず別れたいと言った。由貴はちゃんと会って話したいと言い、二人が出逢った秋桜の前で会う約束をしたが、約束の日に僕はそこへ行かなかった。それっきりお互い連絡をせぬまま、結局僕は卒業間際に希望とは違う小さな食品メーカーに就職した。
身勝手に別れた最低最悪な自分。ずっと胸の奥に押し込んでいた記憶だったが、文字に打ち出すと言葉が溢れてきて、僕は会ったこともない彼女に全てを打ち明けていた。 
「どうしてそんなことをしたんですか?」 
彼女の問いに自分でもうまく説明出来ない。由貴を嫌いだった訳じゃない。ただ由貴の純粋さは時に僕の不実さに光を当て、一緒にいて苦しくなることがあった。自分勝手な言い訳だけど、由貴に見合う人になりたいとの気持ちと実際の不甲斐ない自分とを受け入れられず、彼女から逃げ出したのかもしれない。 
「そうですよね、自分でも理由なんかわからず、意味がないってわかっててもやってしまうことってあるから」 
そう返してもらって、僕は自分の気持ちが少し整理出来た気がしたけれど、そのやりとりを最後に彼女からメールは来なくなった。 

僕は胸にぽっかりと穴が開き、まるで失恋でもしたかのような喪失感でいっぱいだった。僕のひどい行為に呆れてしまったのか、気付かぬ内に何か気に障ることを言ってしまったのか。でも僕らは恋人でも何でもないので、問い詰めることも出来ない。 
そうして一ヶ月が過ぎた頃、電車の中で偶然懐かしい人に会った。ゼミ仲間で由貴の友達の佐奈だった。 
彼女と会うのも十数年ぶりで、せっかくだからと二人でコーヒーショップに入った。ひとしきり近況報告した後、この間のメール以来ずっと気になっていた由貴について聞いてみた。すると思いもしない答えが返ってきた。 
「実は由貴、先月亡くなったの。彼女、大学を卒業してずっとデザイン系の雑誌の編集をやってたんだけど、数年前に大病して仕事も辞めたのよ。大手術をしてしばらく静養してたけど、何とか仕事を復帰できるまでに回復してね。せっかく生き延びた命だから好きなことをしたいって、狭き門らしいけど募集のあった北海道の美術館に就職したの。年に何回か会うくらいだったけど、すっごく元気になってて、自分の絵もまた描くようになって良かったって思ってた。でも一年程前に病気が再発して、半年くらいずっと寝たきり生活だったの。そして先月急に容態が悪くなって」 
あまりにも予想外の話に僕は言葉を失った。 
美術館、北海道、先月から連絡が途絶えた、これだけ一致して偶然ってことはない。思えば、彼女の話で由貴に共通する部分はたくさんあったし、僕はずっとアドレスを変えてなかったから、メールが来たって何ら不思議ではない。 

次の日曜日、僕は一人神代植物公園に来ていた。ちょうど由貴と出逢い別れたのと同じ季節で、園内は秋の花が咲き乱れ、僕はかつて由貴が座っていた場所に腰を下ろすと、一面に広がる秋桜をぼんやりと眺めていた。 
由貴はどうして僕にメールしてきたんだろう。僕のことをずっと許せずにいたのか、それとも気まぐれにちょっと連絡してみようと思っただけなのか。 
由貴の真意はわからない。でも、とにかくちゃんと心を込めて謝らなくちゃ。そしてまっすぐに精一杯生きたことを心から敬い、たくさんの輝く時間をくれたことへの感謝を伝えなくちゃ。僕は由貴へ最後のメールを打った。あの時の気持ちを、そして今の気持ちを。 
スマホのボタンを押すと、ザーっという音と共に画面に送信の表示が出る。そしてすぐに、今度はメールの着信音が鳴った。 
届かないとわかっていたので、配送エラーの通知が来ると思っていた。でも画面を見ると、送信者には、何度もやりとりをした彼女のアドレスが出ていた。 
(え、まさか?) 
急に胸が高鳴り、慌ててメールを開いた。 
タイトルも本文も何もなく、画像が貼り付けてあるだけのメール。画像は一枚の絵だった。出逢った時に彼女が描いていたのと同じ、色とりどりの秋桜。でも、その真ん中に描かれていたのは、あの時の僕ではなく、少し年を重ねた僕と彼女の二人だった。 
やっぱり由貴だったんだね。 
絵の中の僕らが、恋人同士なのか、夫婦なのか、ただ再会しただけなのかはわからない。でも由貴が思っていたことは少しわかった気がするよ。
アドレスがまだあって、来たメールに自動返信されただけなのだろうが、知らなければびっくりするさ。最後まで驚かされてばかりだ。 
秋桜を揺らす風に吹かれながら、Vサインしている絵の中の由貴に、僕は最後の敬礼を返した。

コカネサン(神奈川県厚木市/50歳/男性/公務員)
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主催

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