「男の子と話せるようになりますように」

私は大学進学とともに引っ越してきたこの地にある深大寺にお参りに来ていた。
深大寺は厄除けと縁結びで有名なお寺。お寺で縁結びって不思議な感じがするけど、私はここが好きだ。
ちょっとした観光地になっているこの場所は、そばが有名で参道にはそば屋が立ち並ぶ。まだ食べたことはなかったが、日によっては通りにまで行列が連なるのを見るときっとおいしいのだろう。
ただ・・・
私は引っ込み思案で、一人でお店に入ることすらできなかった。こうして一人でお参りに来ることも、今までだったらきっとしなかったんだろうけど・・・・大学に入学したと同時に、変わりたいと思った。普通の女の子のように、おしゃれして、学校帰りにはお茶をしながら誰かの彼氏の話をしたり、ともかくこの引っ込み思案でうじうじした性格をどうにかしたいと思った。
それから毎週週末になるとここ深大寺に通っている。神頼みなんて、やっぱり暗いかもしれないけどそれでも何もしないよりは私に少しだけ勇気をくれる。
「あの、落としましたよ」
その声に振り向くと、漆黒の髪がさらさらと風に流れ柔らかく微笑む男の人がこちらに向かってハンカチを差し出していた。
お、男の人だ。
私はそのことだけで、思わず身体が固く緊張してしまう。
「あ、ありがとうございます」
顔を見ないままなんとか手を出してハンカチを受け取ると、途端に私のお腹がきゅうっと恥ずかしい音をたてた。
「お腹すいてるの?」
その人の言葉に、私は思わず真っ赤になってしまう。
こんなところに一人でお参りに来て、お腹鳴っちゃうなんてかわいそうな子だと思われてしまうんじゃないかと、受け取ったハンカチを強く握り締めた。
「良かったら、おそば食べに来ない?」
上目遣いで少しだけその人を盗み見ると、その人は笑うだけでもなく、ただ柔らかく私に微笑みかけてくれている。
私はその微笑みに、気がつかない間に首を縦に振っていた。

その人は、文哉さんと言ってこの深大寺のおそば屋さんで週末はアルバイトをしているらしい。その優しい笑顔のせいか、文哉さんはすごく年上に見える。実際はいくつなんだろう?アルバイトなら、大学生かな・・・そう思いながら、彼の隣を歩く。彼は相変わらず優しく微笑みながら、私をそのお店に連れていってくれた。
文哉さんの声は不思議なほど柔らかく私の耳に溶け込み、聞いていてすごく心地いい。
男の人なのに、私、男の人すごく苦手だったはずなのに、お店に向かうまでのほんのちょっとの道のりですっかり打ち解けてしまった。

「そっか、それでお参りにね」
お昼の時間を過ぎた店内はまばらにしかお客さんがいなくて、文哉さんが直々に私のところにそば湯を運んできてくれた。
「・・・男の子とまともに話せないなんて、イマドキ珍しいですよ、ね・・・」
文哉さんはふっと笑うと、「じゃあ、僕は?」と聞いてくる。
本当不思議。初めて会ったのに、初めてじゃないような、文哉さんの声を聴いていると心がふんわりあったかくなるような、そんな懐かしい感じがする。
「君さえよければ、また会いたいな」
そう言って文哉さんはレシートの裏に携帯番号とメールアドレスを走り書きした。


家に帰ると、私はベットに寝転がってそのレシートを見つめた。
「くれたってことは、連絡していいんだよね」
私はドキドキしながら、自分の携帯に文哉さんの番号を登録する。携帯の画面には登録された文哉さんの名前が数少ない名前の一覧に追加され、なんだか私は嬉しくなった。
早速今日のおそばのお礼をしようと、メール作成画面を開いた。
結局あのあと再びお客さんが多くなり、文哉さんとはあまり話せないまま家に帰ってきてしまったのだ。
おそば、おいしかったな・・・
初めて一人で入ったお店。正確には文哉さんが連れていってくれたんだけど、あのおそばのおいしさと、初めてのドキドキ感は今も忘れられない。私は思いつくままにメールを綴った。
送信ボタンを押すと、5分もしないうちに文哉さんからの返信が届く。その内容はさっきの私が送ったメールの内容の返事ではなく、明日会えないかという内容だった。
明日は、特に用事もないし・・・私も文哉さんともう少し話をしたかった。あの柔らかい笑顔を、優しい声をもっと聴いていたい。私は自然と微笑みながら、メールを返信した。

まだあまり土地勘のない私のためにと、待ち合わせをしたのは深大寺の正門前だった。今日は日曜日なだけあって、まだ十一時前だったけど、結構人が出ていて正門前のおせんべい屋さんも隣のおそば屋さんもかなり繁盛しているようだった。
「朱里ちゃん」
私が周りをきょろきょろしていると、後ろから肩を叩かれた。思わずびくっとしてしまった私に文哉さんが「ごめんね」と微笑む。その手が触れた場所は次第に熱を持ち、私の心を再び沸き立たせた。
「まずはお参り、しようか」
文哉さんの優しい微笑みがまるでお日様みたいに見える。私は文哉さんのあとを追って、石段を登った。いつものように手を洗い、いつものようにお賽銭を投げる。ただ違うのは、今日は隣には同じように手を合わせる文哉さんがいること。私はいつに増しても長い間、目を閉じていた。
 気がつけば、文哉さんは微笑むわけでもなくただ優しい瞳で私を見つめていた。
「何をお願いしてたの?」
その言葉に心臓がドキンと音をたてた。
「ふ、文哉さんこそ何をお願いしたんですか?」
私は自分が今お願いしていたことを悟られないように、文哉さんに質問を振り返した。
「僕?僕はね」
並んで歩き出した肩が時折かすかに触れる。お互いの指先がぶつかった瞬間、そのまま文哉さんの大きな手が私の手を包み込んだ。
「ふ、文哉さん?」
私は驚いて文哉さんを見上げた。
「君をデートに誘えますように、って」
少しだけ頬が赤くなっているようにも見える。
「だめ、かな?」
文哉さんの困ったような照れたような笑顔が私の胸を締め付ける。私は返事の代わりにつないだ手を少しだけ強く握り返した。そうして私たちは深大寺の参道を歩き出す。温かい日差しが私たち二人を包み込み、ただ微笑みあっているだけで幸せだった。
『この先も文哉さんの笑顔を見ていたい』
そう願ったことは秘密だけど、私たちはお互いのことを歩きながら、すべて話そうとした。文哉さんは実は同じ大学の先輩だったこと、いつもお昼を一人で食べている私に実はずっと声をかけたいと思っていたこと、そして私に一目惚れだったということ。
 柔らかい微笑みに包まれて、私の心は解き放たれ、私も素直になることができた。本当はもっと普通の子みたいに恋愛をしてみたかった。ふんわりとそこから救い出してくれたのは文哉さん。他の子は暗い、つまんない子だって見放してた私の手を取ってくれたのは文哉さんが初めてだった。
 出会えたのは深大寺の奇跡、なのかな。偶然この土地に住むことになって、偶然深大寺で文哉さんと出会って、偶然が偶然を呼んで出会えた奇跡。
 私は文哉さんの手を握ったままその横顔を見つめると、来週は二人でお礼を言いに行かなくちゃいけないかなとぼんやりそう思った。

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<著者紹介>
神堂 瑠珂(東京都調布市/31歳/女性/会社員)

 木の葉のシルエットが途切れ、遠くに白くて堅そうな満月が現れた。満月は歩くごとに木の葉の陰から出たり隠れたりした。まばたきするみたいに。かすかなせせらぎと、靴が小枝を踏む乾いた音だけが響いていた。 その夜、私たちは野川公園で待合わせた。
 こんばんは。橋の上で私たちは言った。白い息がすっと暗闇に溶けた。私たちは川べりに降り、手をつないで南へ歩いた。ずっと。足元はコンクリートになったり砂利道になったり膝の丈くらいの草に覆われたりした。
 今何時なのかわからなかった。でも、明日の午後四時でない限り何時でもよかった。
 私たちは何も話さなかった。でも彼の手は何度も私の手を握りしめた。

 彼と初めて会った場所は市立図書館だった。私は≪文化≫と≪歴史≫の書架に返却処理が済んだ本を戻していた。金曜の午後6時前。閉館間際で来館者はほとんどいなかった。
 あの、すみません、助けてくれますか。
 声は低く穏やかで訛りがあった。
 本を借りたいですが、どうできますか。
 暗い色の髪と瞳。日本人でないのはすぐにわかったけれど、遠いどこの国にでも馴染じんでしまいそうな不思議な雰囲気だった。よく日焼けして、切れ長の眼は優しそうだった。
 彼が抱えていたのはアイヌの文化に関する本と神道についての本だった。彼はフランスのトゥールーズ出身で、大学で日本文化の勉強をしていて、調布駅近くに住んでいて、北海道に何度か旅行したことがある。カウンターで図書館の利用者登録と貸出手続きをしながら、彼は流暢な日本語でそんなことを次々と話した。
 彼は手続きが終わってからも立ち話を続け、同じ熱心さで私のことを尋ねた。彼は冗談が上手くて、大人びた熱心さと子どもっぽい無心さで話し、よく笑った。私はもっと前から彼と知り合いだったような気がした。
 彼がカードを財布にしまい、肩からかけていたバックパックに本を入れるのを見ながら、あ、この人は行ってしまう。と思った。
 首に下がった黒い紐のペンダント。もっと一緒にいたいのに、どうすればいいかわからなかった。私の気持ちが彼が羽織ったジャケットの袖をつかみ、私の顔を見た彼が言う。
 あの、今日、夕食しませんか。
 私はポケットに入っている彼の名前と電話番号を書いた紙切れに何度か手で触れながら残りの仕事を終えた。

 小さな定食屋で夕食を食べながら、彼は今している神道の研究について熱心に説明した。とてもおもしろい、と話す合い間に何度も挟んだ。それから神道についてどう思う、と私に尋ねた。私はそんなことゆっくり考えたこともなかったから、思いついたことをそのまま言葉にした。
 私は、神道には親近感を感じてると思う。神道って自然を畏れることを大切にしてて、でも自然に対する愛情も含まれてて。自然って誰にでもきっと、怖いけど、懐かしくて温かいものだと思う。自分や自分のまわりの人が自然に属してるって気持ちかな、それが習慣や言伝えになって、代々続いていくのって
よくわからないけど、いいことだと思う。
 霊や魂の存在も素敵だと思う。素敵って、ちょっと変かもしれないけど。
 わかると思う。と彼は相槌を打つ。
 すべてのものに神様が宿ってるって考え方、それって人間の根っこの方にある、原始的な力を表してる気がする。森の神様、河の神様、風の神様。それがいろんなかたちで表現されて、お互いに関係し合ってる。そういう考え方って世界を理解する魅力的な方法だと思う。
 彼はゆっくりうなずいて、それから笑みを浮かべて言った。
 きみの考え方も、神道を理解するとても魅力的な方法と思う。
 話は岡本太郎の芸術に移り、それから彼は私の質問に答えながらフランスの街について話した。
 彼の言葉が、私がいつか映画で見た景色に鮮やかな色を落としていく。私はその景色の中にいる彼を想像する。彼が選ぶ言葉のひとつひとつが私の中にひとつの街を造っていく。
 トゥールーズという私だけの魔法の街。私たちは飽きることなく話し続けた。
 調布駅に向かって歩きながら、彼と私はとても自然に手をつないでいた。街灯やすれ違う自転車の灯りやネオンがいつもよりやわらかかった。
 私たちは日曜日にまた会う予定を作った。彼は深大寺に行こうと言った。

  深大寺に着いたのは夕暮れの少し前だった。お参りの人波は引いてしまったらしく、遠くの方から蕎麦屋の水車が規則的に水を汲み上げる音が聞こえてくる。饅頭を蒸かす湯気。お茶屋の軒の鮮やかな赤い布。土産物屋の店先が子どもの頃を思い出させる。
 私たちは本堂をお参りしてから神代植物公園沿いに西側へまわり、深沙大王堂に出た。蝉の声が消えてしまった季節、まだ青々とした木がざわざわと風に吹かれる音が涼しい。ぴったりと敷き詰められた石畳の上に木の葉の影が踊っている。
 深大寺には何の神様がいるの、と彼が尋ねた。私は、縁結びの神様だから恋人たちの神様かなと答えた。
 えんむすび、と彼が聞き返す。
 ≪えん≫っていうのは、人と人の関係のこと。友達とか恋人とか、人と人をつないでいるもののこと。人と人を出会わせて結びつけてくれるもの。
 私は彼の横顔を見た。
 そうか、その結び目の神様なんだね。
 彼は静かに言った。
 深沙大王堂の裏にある小さな泉の淵に立ちながら、私は島に閉じ込められた恋人に千通の手紙を書いた男の伝説を話した。彼は泉を見つめながら聞いていたけれど、だから深大寺は縁結びの神様なんだって、と私が話を終えたとき、ふと私の顔を見た。私は彼の硬い表情になんだか怖くなって彼の言葉を待った。
 ごめんなさい。
 彼は私の顔をまっすぐ見ながら言った。
 私は、二カ月後にはフランスに帰ります。だから、きみの恋人になれない。きみを幸せにできないかもしれないから。
 私は黙って泉の水を見た。木漏れ日が水面に揺れていた。不思議と穏やかな気持ちだった。こんなにまっすぐな言葉を聞いたのは久しぶりだと思った。
 私が好きなの。
 私は尋ねた。
 彼はもちろん好きだと言った。
 私は彼の顔を見た。彼の不安で真摯な瞳を見た。話すときにはあんなにも活き活きと輝く瞳。
 とても大人びて見えた次の瞬間には子どものように笑う。そして私は彼の歳を知らないことに今気づく。彼の家族。彼の友人。彼の過去。未来。彼について知らないことの終わりのないリスト。埋めるのに一生は短すぎるけれど二カ月は長い。
 でも、恋人になりたい。
 私の唇は言った。
 一緒にいなかったことを後悔するよりは、一緒にいたことを後悔したいの。
 自分が正しいことを言っているのか私にはわからなかったけれど、今まででいちばん言いたいことを言っている気持ちがした。
 本当にそう思うの。
 彼の声はまだ不安そうだった。
 私には彼の近くにいる理由が充分過ぎるほどあった。初めて会った日の彼。それだけでこんなにもたくさんの仕草を覚えている。それが何よりの証明だった。
 彼が帰る日に感じる悲しさよりもずっとたくさんのものを彼は私にくれる。私はそれが見たかった。
 縁結びの神様は縁を結んでくれるけど、つなぎとめるのは人でしょう。
 そう言った私は、それでも怖くなって彼にしがみついた。

 街灯に照らされて夜が目の前で開けた。私たちは武蔵境通りと野川が交わる橋の下にいた。今までに何度も待ち合わせをした橋。最後の散歩の終わり。
 二カ月の記憶が私からこぼれていく。彼の眼に光がたくさん浮かんでいるのが見える。涙のような月の光。
 彼が私の頬を両手で包む。
 行かないで。帰ってくるって言って。
 それを声にしていいのか、しない方がいいのかわからなくて、私はただ彼の顔を見ながら胸の中で繰り返した。
 きみに出会ったことの他に何もいいことがなかったとしても、日本に来てよかった。
 聞き慣れた声が涙をこぼさせる。
 明日の午後四時、彼が乗った飛行機が日本から飛び立つとき、私は彼のことを考えているだろう。思い出をひとつひとつ手にとって眺めているだろう。
 そのひとつひとつはあまりに幸せで、もう私に涙を流させないだろう。
 ありがとう。
 それは私の言葉か彼の言葉か、私の中で聞こえただけだったのか、私にもわからなかった。でも、それ以外のどんな言葉もこの場に相応しくなかった。
 彼の体が私の体を抱きしめる。世界の音がすべて消えて彼の呼吸と私の鼓動だけが脳に響く。彼の肩に涙をが吸い込まれていくように、感情が彼の体温に溶けていく。
 そして野川の神様が、私たちのそばを通り抜けていった。

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<著者紹介>
Ryo(大阪府高石市/23歳/女性/学生)

きっかけはラジオでした。
調布で新生活を始めて二ヶ月程が過ぎた五月の半ば頃だったと思います。ちょうど桜が終わり、自宅近くの深大寺の周りにはピンク色のつつじの花が鮮やかに咲き乱れていましたから。
調布の街は緑に溢れていて過ごしやすく、私は気に入っていました。そんなある晴れた土曜日の午後、私は洗濯をしながらラジオを聴いていたんです。ほら、コミュニティFMっていうんですか。調布から発信されているラジオです。自分の好きな曲が流れていた事もあり、リズムに乗りながら洗濯物を干していたんです。ラジオからは美園新吾という人気パーソナリティーの番組が流れていました。すると静かなピアノの曲をバックに彼は便りを読み始めたんです。何やらリスナーからの便りを読むようでした。
「調布市内の陽子さんからこんなお便りを頂きました。...いつも楽しく拝聴しています。私は所謂シングルマザーです。息子の圭太と二人で細々と生活をしています」
便りはそんな始まりだったと思います。それを聴いた時、私の手は止まりました。陽子と圭太という聞き覚えのある二つの単語が耳に入ったからです。私はボリュームを上げてラジオに聴き入りました。
「...先日、私は帰宅した息子の姿を見てびっくりしたんです。全身泥だらけなんですよ。髪の毛には砂を被っているようでした。その理由を尋ねると友達とサッカーをやっていたって言うんです。親は子供の嘘を簡単に見抜けます。私は圭太の背中に足跡が付いているのを見た時に嘘をついていると確信しました。私は圭太と向かい合って彼を問い質しました。すると圭太は観念したように話し始めました。案の定、圭太はいじめに合っていたのです。一週間程前から始まったといういじめの発端はサッカーの試合の際、圭太のミスのせいで圭太側のチームが逆転負けしたそうなんです。その鬱憤がエスカレートして、毎日圭太を蹴飛ばしたり、鉛筆を隠したり、水溜まりに投げ飛ばしたり、頭から砂をかけたり、靴を投げ捨てたりしていると言うんですよ。でも、圭太は泣きませんでした。いえ、逆に信じられないような事を口にしたのです。ママ、僕は平気だよ。いじめなんて、いじめだと思うから辛いのであって、強い人間になるための試練だと思えば耐えられるもんさなんて言うんですよ。私の方が泣いてしまいました。そんな台詞を幼い息子に吐かせる自分が情けなくて、申し訳なくて仕方ないです。こんな時に男親がいてくれたら頼もしいと思いますね」
私はラジオを聴きながら涙が溢れてきました。便りの主は明らかに別れた陽子であり、圭太とは私の息子に違いありません。夫婦のすれ違いが原因で三年前に離婚しましたが、陽子と圭太がこんなに厳しい想いをして生きているなどとは思ってもいませんでした。
 大学三年生の時、私は陽子と出逢いました。私はいつの頃からか陽子を意識するようになっていました。陽子を特別な目で見ていたし、特別な関係になりたいと思うようになっていました。陽子は名前の通り太陽のような人で、いつも笑顔が絶えなかった。いま振り返ってみても、陽子が笑っていなかった日なんて一度もなかったんじゃないかと思います。私は陽子への想いが募り、ある日、深大寺の境内に陽子を呼び出して自分の想いを告白しました。とても風が強い日でした。陽子が「私もあなたの事が好きだった」という台詞を言ってくれた時、私は生まれて以来、一番と言えるほど嬉しかった。
初めて二人きりでデートをしたのは陽子のアパートの近くの神代植物公園でした。
「見せたいものがあるの」と陽子は言って、辺り一面に咲く薔薇の花を見せてくれました。薔薇の花なんて切り花でしか見た事がなかった私は、咲き誇る薔薇の華麗さに圧倒されたのを覚えています。
「私ね、いつか大好きな人とこの素敵な薔薇を見るのが夢だったの。でも、それがあなたで良かった」
陽子は笑顔でそう言ってくれました。そんな陽子を私は強く抱きしめました。そして、紅く鮮やかな薔薇の前で私達は唇を重ねたんです。結婚したばかりの頃、私は陽子と共にこの神代植物公園を訪れたことがあります。そして二人で話したんです。
「いつか、子供が出来たら三人でここに来ようか」
「そうね。必ず来ましょ。そして、私は子供に教えてあげるつもりよ。ここで初めてパパとママはデートしたのよって」

 ラジオからは、なおも陽子の便りが読まれていました。私は涙を拭きもせず聴き続けました。陽子も圭太もこんな苦労をしていたなんて知らなかった。我が息子が他人にいじめられていたというのに、全身を泥まみれにされたというのに、背中を蹴られたというのに、父親の私は助けてやるどころか、その叫びを聞いてやる事も出来なかった。
陽子と圭太に会いたい。もう一度、やり直したい。一から、いや、ゼロからやり直したい。三人で神代植物公園に行きたい。
想えば想う程、二人の顔や共に過ごした日々が私の脳裏に浮かんできました。
初めて出逢った時の陽子の笑顔、初めて手を握った時の陽子の温もり、初めて唇を重ねた時の甘い感触、初めて身体を重ねた時の互いの愛情、陽子が作った料理の味、陽子さんを嫁に下さいとご両親に挨拶した時の緊張、婚姻届に判を押した時の互いの決意、真っ白なウエディングドレスに身を包んだ綺麗な陽子、共にケーキをカットした時の互いの幸福、新居のドアを二人で開けた時の互いの微笑み、毎朝目覚めると横に陽子がいる嬉しさ、帰宅するとテーブルに料理が並べてある感動、陣痛で苦しむ陽子の格闘、産まれて来た圭太の寝顔、産み終えた陽子の安堵、もみじのような圭太の手、祝福してくれた友人達の笑顔、爺ちゃんだよ婆ちゃんだよと喜ぶ互いの両親、ハイハイして歩く圭太の顔、夜泣きする圭太の声、初めてパパと呼んでくれた時の圭太の姿、親子三人で川の字になって寝た柔らかい布団、圭太を真ん中にして三人で歩いた深大寺の境内、アヒルのおまるにまたがる小さな圭太、保育園の水色の制服と黄色の帽子、チューリップの形をした「けいた」と書かれた名札...想い出す出来事の随所に笑顔が溢れていた。
陽子と圭太にもう一度会いたい。もう一度やり直したい。出逢った頃に戻りたい。私は溢れる涙を拭き、深大寺へと走りました。陽子に自分の気持ちを伝えた想い出の場所が深大寺なんです。
 縁結びの御利益があるとされる深大寺の境内はその日も静寂に包まれていました。湧水の流れる音までもが聞こえました。私は深妙大王堂の前に跪き、そして祈りました。深妙大王は縁結びの神です。もう一度だけ、もう一度だけ、陽子に出逢いたい。圭太を抱きしめたい。そう強く祈りました。
 大学時代に陽子と出逢った事は偶然ではなかったと思います。この縁は必然だった。偶然も五年続けば必然になりますし、縁も十年続けば絆になります。しかし、続けるためには互いの努力が必要です。その縁を絆にまでするという努力を私はしていなかったのです。縁があって男女が出逢っても、それを続ける努力をしなくては縁は続きません。一本の糸を半分ずつ持ち合って、離れないように強く握り合って、縁を絆にまでしていかなくてはなりません。
本当に馬鹿ですよ私は。陽子を失ってから、そんな事に気付いたのですからね。もういまさらそんな事を思ってみても遅いのかもしれません。けれど、私は祈りました。そして、二人のもとを訪れたのです。
いま、私がこうして過去の話をするのは、二度と人との出逢いを無駄にはしたくないからです。人と出逢う事は素晴らしい事だと思います。人は独りでは笑えませんし、前にも進めません。出逢いが自分を前向きに歩かせてくれるのです。
私は陽子という人と出逢い、それを学びました。そして、二人の間に出来た圭太が私と陽子を前向きに歩かせてくれています。もう二度と二人を失いたくはない。ですから、私は縁を絆にまでしていく努力を惜しまずに続けるつもりでいます。
私はいまこうして深大寺の境内の隅に腰をかけながら、二人の姿を眺めています。蝶を追いかけて走りまわる圭太を陽子も追っています。二人とも笑顔で走っています。この笑顔を絶やさぬようにこれからを生きていこうと思っています。

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<著者紹介>
こん たっけ(東京都世田谷区/32歳/男性)
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