今朝は久しぶりに気分がいい。ここ数日どうもすっきりしない日が続いていたのだけれど、秋晴れの天気のせいか・・・洗濯物を干している私に夫が声をかけた。
「神代植物園にバラを見に行ってみる?」
出不精の夫にしては珍しいこともあるものだと思ったけれど、そういえば電車の吊り広告で見たような気がしてでかけることにした。
 臨時駐車場に車を停め、落ち葉をさくさく踏みしめながら門へと向かう。犬を散歩させる人、どんぐりをひろう子供たち、
「日本は平和だ」
夫ののんびりしたつぶやきに思わず笑ってしまった。
 神代植物園のバラ園。ピンクやオレンジ、色とりどりのバラのあいだをぬけながら気を惹かれたバラのだけ説明を読む。大輪のみごとなバラ、可憐な房咲きのバラ、香りの強いバラ、ロイヤルファミリーのお名前がついたバラ・・・そしてメヌエット。
甘いバラの香りが忘れていた記憶を呼び覚ます。

「あー、腹へったなあ。このバラ、食えないかな。」
晃一は情けない顔つきでバラの花を眺めている。さっき深大寺の門前でお蕎麦を食べたばかりなのに、まったくあきれるほどの食欲だ。花より団子、ロマンチックな雰囲気とは程遠い。私は無視してどんどん先に歩いて行った。
 私の機嫌を損ねたと思ったのか、彼は後ろから声をかけた。
「お嬢さん、ちょっと振り向いてください」
はやっているシャンプーのコマーシャルみたいだ。振り向いた私を狙ってワンショット。
「そんなにすましてないで笑って笑って・・・」
愛用のキャノンのカメラで続けさまにシャッターをきる。いっぱしのカメラマン気取りだが、ピンボケだったりぶれていたり、実のところ彼の写真ときたらひどいものだ。このあいだだって私のコンサートで撮ってくれた写真にはひとつとして満足な出来のものが無かった。
「写真はいいからバラを見ようよ!」
そう言う私のうしろにあったバラをさして
「メヌエットだって・・・可愛いな」
そのバラはクリーム色の小さめのバラで、花びらの縁が濃いピンクで縁取られた可憐なバラだった。
「ね、この写真を撮って!」
それから私たちはバラ園をぐるりとまわって深大寺に向かったのだが、五月の明るい午後、植物園でゆっくりしすぎてしまったらしく本堂に行き着いた頃にはもう五時近くなっていた。そそくさと通り一遍の参拝をすませ、車に戻ると、行きつけのお店へと車を走らせた。
「あら、深大寺へ行ってきたの?」
顔なじみのママに声をかけられ、
「そう。今日は神代植物園でバラを見て、それから深大寺へお参りしてきたの。」
「深大寺って縁結びの神様なんですって」
手にしたパンフレットを広げてみると、なるほどそう書いてある。でも縁結びの神様は本堂ではなくて深沙大王堂にいらしたらしい。
「そこへは行かなかったわよね・・・」
相槌をうつでもなく、晃一は食べるのに夢中。
食欲旺盛な彼の食べっぷりを見ていると、なんだかどうでもいいような気になってきた。
 それから数日たって、
「このあいだの写真、できたよ」
とキャンパス近くのケーキ屋へ呼び出された。
五月晴れのいいお天気だったあの日、なんだかみんな白っぽく写っている。期待していなかったからざっと眺めていくと、あのメヌエットだけがとても素敵に撮れていた。
「どう、良く写ってるだろ?」
「本当。このバラきれいに撮れてる」
私はなんだかとても嬉しくなって、うちへ持って帰るとメヌエットの写真をピアノの上に飾った。
 片山先生の門下生のピアノの発表会。ドレスの裾をひっぱりながら、私は緊張して楽屋で出番を待っていた。今日は佳代子先輩がトリでその前が私だ。晃一も来ているはずなんだけど、今はそんなことを考えている場合じゃない。さっきのリハーサルでのちょっとしたミスが気になって、もう一度楽譜を見直したり頭の中でフレーズを繰り返してみたり、そうこうしている内に私の番になった。ライトに照らされたステージに踏み出すと、もう時間の過ぎるのはあっという間。何百時間も練習してきた三十分足らずの曲はあっというまに終わってしまう。一度指先でつむぎだした音は間違えたら消すことができない。まあまあのできだったかな、と思いながらステージ中央で頭を下げるとバックステージへひっこんだ。
佳代子先輩は真っ赤なドレスでリストを華麗に弾きこなしている。舞台の袖で思わずため息が漏れた。
発表会が終わったあとの楽屋裏は緊張感もとけて騒々しい。着替えて楽屋口に出ると晃一が赤いバラの花束を持って待っていた。
「すっごく良かったよ。はい、これ」
「ありがとう」
私はちょっと晴れがましい気分で花束を受け取った。背が高くハンサムな晃一は人目をひく。母が「晃一くん、来てくださったの?どうもありがとう」とお礼を言い、他の友人たちと盛り上がっているところに佳代子先輩が出てきた。
「あらあユキちゃん、素敵な彼氏ね。紹介してよ」
大勢のおとりまきに囲まれながら、佳代子先輩は艶然と微笑む。今度はシックな黒のレースのスーツ姿だ。晃一も満面の笑みで
「いやあさっきのワルツ、素敵でした!」
結局みんなでホールを出てから吉祥寺で打ち上げをすることになったのだが、にこやかに微笑む佳代子先輩と調子を合わせる晃一を見て、バラのとげがちくっと胸にささったような気がした。

夏が来て片山先生の湖畔の別荘にほど近いペンションでの合宿が始まった。毎年恒例のこの合宿には、ピアノの生徒以外、管楽器や弦楽器の男の子たちも参加して、先生の別荘で近隣のかたがたをお招きしてのコンサートが催される。新宿西口から高速バスに乗ったときから遠足気分で、みんな盛り上がっていた中、私ひとりブルーな気分でぼんやりと晃一のことを考えていた。発表会以来、なんだかしっくりこない。新曲を仕上げられなくて結局発表会と同じ曲を弾くことにしたし、ちっとも練習に身がはいらなかった。晃一だって大学院の二年だし、研究室に残るにせよ忙しいんだろうと思いつつ、一抹の不安が胸をよぎる。さっき中央高速でみかけたのは晃一のジープじゃなかったか・・・。
「ねえねえ、佳代子先輩、今度はドビュッシーの花火弾くんだって!」
同級生の奏子(かなこ)の声にはっと我にかえって
「そう・・・夏にぴったりよね」
「それにね、またおひとりでホテルにご滞在」
「ふーん」
相槌をうったものの、さえない私に奏子は
「ユキ、バスに酔った?」
「ううん、大丈夫。」
ペンションから先生の別荘まで奏子と並んで歩きながら、これからの三日間、気持ちを切り替えて頑張ろうと心に決めた。
先生の別荘でのコンサートは二日目に開かれる。一日目の午後はリハーサル。二日目の午後のコンサートのあとには先生主催のバーベキューパーティーがあるし、これ目当てに参加する学生も少なくない。自由時間は湖でボートに乗ったり、自転車で湖畔を一周したり楽しく過ごす。ちょっとはめをはずして飲み過ぎたりもするが、ペンションに帰って寝るだけだし、三年生以上の特権だから私は誘われるままにホルンの山野先輩たちにくっついて近くのホテルのバーラウンジへとでかけていった。
ホテルの駐車場で晃一のジープを見つけたとき、私の疑いは確信へと変わった。ペンションへとってかえした私は翌朝、体調不良を理由にコンサートに出ることなくひとり東京へと引き返した。

「バラのソフトクリームだって。食べる?」
夫の呼びかけに現実に引き戻される。
「なにぼんやりしてるんだよ?」
そういえばこの人が初めてプレゼントしてくれたのは偶然あのメヌエットだった。くったくのない笑顔を見ていると、平凡なお見合い結婚だったけど、この人と結婚して良かったと思えてきた。あれからもう四半世紀・・・
「ねえ、深大寺に行こうよ!」
突然どんどん歩き出した私に面食らったようについてくる夫・・・
「なんで深大寺なの?」
「深大寺ってね、縁結びの神様なんですって」
「縁結び?」
バラ園を抜けて木漏れ日のきらきらした林を通って深大寺門から右手のほうに急ぐ。
「おいおい、本堂はあっちだよ・・・」
「いいの、いいの。」
私は案内図を頼りにまっすぐに深沙大王堂へと向かっていった。万霊塔の先を右に折れると右側に延命観音があった。そこも通り過ぎると目指す深沙大王堂・・・思ったより新しいお社だ。あのときは来られなかったお社。
私は横に並んだ夫と手を合わせると、
「この人との縁はしっかり結んでおけますように。」心からそうお願いした。曲のメヌエットみたいに、これからも変わらぬテンポで手をとりあっていこう。
「戻るときに延命観音にも寄って行こうね!」

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<著者紹介>
Cecil(東京都世田谷区/52歳/女性/主婦)

 六月の半ば、毎日雨が降っていた。テニスサークルの練習も中止ばかり。俺は思い切り暴れたくて、うずうずしていた。
 それに、気になることがあった。美紀の様子がおかしい。ジャーナリズム概論の講義に、三回連続して出て来なかった。いつも一番前の席で、熱心にノートを取っていたというのに。サークルの部室にも顔を出さない。学内のカフェテリアで見掛けた時も、隅のテーブルにひとりで座り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。俺は「似合わねえな」と声を掛けたかったが、できなかった。
美紀はいつも友達の輪の中にいた。元気で、よく笑っていた。それが今は、ひとりにしてくれ、放っておいてくれ、という見えない壁を築いて、その中に閉じこもっている。

夏休み前の期末試験が近付いて、慌しくなった。美紀にまったく会わない日々が続いた。試験期間の最終日に、サークルの慰労会が吉祥寺の居酒屋で催され、久し振りに美紀は姿を見せたのだが、少し痩せて頬がこけ、顔色もすぐれなかった。試験やつれした、というのでもなさそうな気がした。
俺は少し離れたテーブルに座り、目の端で様子を窺った。美紀は時折グラスを手に持ったまま動かなかったり、「ねえ、美紀」と肩を叩かれて「えっ、何?」と聞き返し、「もう、聞いてないし」と呆れられたりしていた。酒が入って周りが盛り上がるにつれて、彼女だけが取り残され、沈み込んでいくように思えた。
「ちょっと美紀、飲みすぎだよ」
隣に座った春香が、グラスを取り上げようとした。俺は美紀の顔を、まじまじと見てしまった。あいつは目をそらせた。
二時間ほどで宴会はお開きになった。美紀は「帰ろうよ」と誘われても「もう少し飲んでいたい」と言い通した。もう一軒の居酒屋で二次会、ショットバーに移動して三次会。最後まで付き合った女子は、酒豪の鈴木先輩の他には美紀だけだった。
俺は彼女の隣に座って、好きな映画の話などをしたが、続かなかった。黙ってウィスキーのロックをちびちびと飲んだ。
「やばい、終電」と誰かが言い、店の外に出た。美紀は少しふらつきながら、駅とは反対方向に歩き始めた。俺は横に並んで「大丈夫かよ」と声を掛けた。あいつは、俺の腕をつかんだ。歩くのをやめ、俺の顔をじっと見つめた。それから、がくりと首を折り、こちらにもたれ掛かってきた。俺の腕を、しっかりと胸に抱き寄せている。
「酔ってるでしょ」
「酔ってるよ」
「家まで送る」
雨が、またパラついてきた。タクシーを止めようと大通りに歩きかけたが、美紀は俺の肩をつかんで「嫌だ、帰らない」と言った。

結局、俺は美紀を部屋に連れてきてしまった。なぜか今日に限って、掃除機を掛けてあった。ゴミも出したし、溜まっていた洗濯物も片付けてあった。内心ホッとしつつ、俺は先に立って中に入り、食卓であり勉強机でもあるテーブルの前に座った。
美紀は少してこずりながら靴を脱ぎ、ドサリ、という感じで俺の横に腰を下ろした。部屋を見回そうともせず、テーブルの一点を見つめていた。
「飲み直すか」
俺は本棚に置いてある、実家からくすねてきた、とっておきのスコッチウィスキーに手を伸ばした。
「それとも、麦茶か何か......」
「ごめん、やっぱり帰る」
美紀はバッグをつかんで、立ち上がろうとした。
「待てよ」
あいつの腕を引っ張っていた。美紀はよろけて、俺は背中を抱きとめたのだが、ハッとして、すぐに彼女から離れた。
「いや......帰るのは、いいんだけど。おかしいじゃない、最近。何、悩んでるんだよ」
美紀は唇を噛み、顔をそむけた。
「話、聞くって。俺でよかったら、話、聞くって」
そう言って、肩に手を置くと、彼女は泣き出した。泣きながら、俺の胸に頭を押し付けてきた。甘い香りがした。俺はそっと、肩を抱いた。
しばらくたって、美紀は泣き止んだ。俺は冷蔵庫から麦茶を出してきて、飲ませた。
「好きな人がいたの」
「えっ?」
「でも、彼は......私だけじゃなかったの」
相手は、フリーの報道カメラマンだった。新聞社でアルバイトをしていて、知り合ったのだという。恋愛の打ち明け話だなんて、最悪だ。それなのに俺は「うん、それで」なんて、言っていた。
男はだいぶ年上だったが、美紀は本気で好きになった。「大事にされて、勘違いしたの」と言った。しばらくして、男に、他にも女がいることに気付いた。それからは、男に会うのが辛くなった。「私、知ってるんだからね」と責め立てることも出来なかった。男から何度もメールが来たが、返事をしていない。もう二度と、同じ気持ちになれない......
土砂降りの雨が、屋根を叩いていた。美紀は毛布に包まって、静かに眠っていた。話し終えて、急に酒が回ったらしく、倒れ込むように横になったのだ。俺はひとり、ウィスキーをあおった。気を失うように、酔い潰れてしまえばいい。そう思って、飲み続けた。
自分のいびきが途切れて目が覚めた。部屋の中が明るかった。ぼやけた視界の中に、美紀の背中が見えた。音を消してテレビを見ていた。俺が起き上がると、あいつはテレビを消した。沈んだ声で「昨日はごめんなさい」と言った。
「酔っ払って、嫌な話、聞かせて......本当、迷惑かけちゃったね」
「迷惑だなんて、思ってねえよ。......嬉しかったよ、話してくれて」

それから、俺たちはバスに乗って出掛けた。雨は上がっていたし、気晴らしに、近くの深大寺を散歩しよう、と美紀を誘ったのだ。
バス停のすぐ横には、門前蕎麦屋が並んでいた。美紀は「おなか空いた。お蕎麦食べよう」と言って、俺の腕を引っ張った。
蕎麦は、ウィスキーでただれた胃にもやさしく、うまいと感じた。美紀はよくしゃべった。俺は専ら聞き役だったが、嫌ではなかった。二人だけで出掛けるのは初めてなのに、何度もこうして、テーブルを挟んで食事をしたことがあるように思えた。
美紀がその男に出会わなければよかった。せめて、聞かなければ、知らなければよかった。俺は蕎麦を、もくもくとすすった。
蕎麦屋を出て、参道を歩いた。空は厚い雲に覆われ、ひんやりとしていた。雨で落ちたのか、柳の葉が道一杯に敷き詰められていた。濡れた濃い緑の世界が、俺たちを囲んでいた。
藁葺屋根の山門をくぐり、深大寺の境内に入ると、太鼓と鐘の音が聞こえてきた。俺達は引き寄せられるように、本堂奥の大師堂へ歩いて行った。
階段を登って行くと、賽銭箱の前で、老夫婦が熱心に手を合わせていた。堂の中にも、数人の男女が正座をして、祈祷を受けていた。三人の僧が並んで経を読む祭壇の左手には、もうひとつ別の祭壇があって、白装束の僧が火を焚いていた。
「ああ、これが護摩だ」
「ごま?」
俺は賽銭箱の横に置かれた護摩木を手に取った。
「これに願い事を書いて、あそこで燃やしてもらう。煙が天に昇って、願いが叶う」
「へえ、詳しいね」
「教養科目『仏教の世界』。おととい試験だったからな」
祭壇の炎は赤々と燃えて、時折、高く火の粉を吹き上げていた。
「護摩には、心の中の煩悩とか業とかを、焼き払う、っていう意味もあるらしいぜ」
「煩悩......」
しまった。つい、調子に乗って、余計なことを言ってしまった。美紀は炎をじっと見つめ、それから目を閉じた。胸の前で手を合わせ、動かない。俺はその真剣な横顔を見ていられなくなって、その場を離れた。
境内を、ひとりで歩いた。沢山の絵馬が奉納されていた。そのいくつかを、なんとなく読んだ。俺は今、何を願うのだろう。美紀は、何を祈っているのだろう。
鯉の泳ぐ池の横を通り、また階段を登って戻って来た。美紀は堂の脇にしゃがんで、猫の背中を撫でていた。俺が近付くと、茶虎模様のその猫は、腹を見せて大きく伸びをした。
「あ、寝ちゃったよ、この子」
美紀は俺を見上げて笑った。
「なあ、植物園に行ってみないか。きっと、バラがきれいだぜ」
「うん」
彼女はそう答えて立ち上がった。まあ、ゆっくりいこうか、と俺は思った。

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<著者紹介>
吉田 大祐(東京都三鷹市/38歳/男性/会社員)

 深大寺の森で遊ぶ風が、ナンジャモンジャの白い花を揺らして山門を通り抜けたとき、黄色い帽子を被った小学生たちがちょうど学校から帰って来たところでした。参道に並んだ蕎麦屋の主人や土産物屋の奥さんたちが、おかえりなさいと声をかけています。子どもたちの黄色い帽子が道いっぱいに咲くたんぽぽみたいに見えて嬉しくなった風は少しはしゃいで、ついうっかり女の子の帽子をひとつ飛ばしてしまいました。そこへ、ひとりのおばあさんが通りかかりました。
「まあ、たいへん。帽子が落ちましたよ。」
深大寺でお参りをすませたばかりのかえさんです。あわてて追いかけようとしましたが、年をとって思うように動かなくなった足は杖をついて歩くのがやっとでした。そのとき、ひょろりと背の高いおじいさんが帽子を拾い上げました。三日にいっぺんは深大寺に散歩にやって来る清司さんです。清司さんは帽子に名前を見つけると、大きな声で女の子を呼びとめました。女の子はすぐ走って来て帽子を受け取ると、
「ありがとう。」
と言って、友だちのところへ戻って行きました。清司さんとかえさんは、やれやれといった顔でにっこり笑うと、どちらからともなくベンチに腰掛けました。風は、生まれたばかりのやわらかな木の葉をそっとゆらして、キラキラと輝く光の粒をふたりの上に降らせました。かえさんが、
「いいところですねえ、ここは。」
と言うと、清司さんも、
「いいところですよ。ここは。」
と答えました。気持ちのいい風に吹かれて、かえさんはゆっくりと話を始めました。
「ずっと田舎で暮らしていたんです。でも、ひとりになってしまったものですから、息子のいるこちらに越して来たんです。驚いたわ。ここにはね、私が生れ育った山に咲いていた花がたくさん咲いているんですもの。」
「ほう。その感じ、少しわかる気がしますなあ。私も昔、小さい兄弟たちを連れて田舎に疎開していましたからね。あれから、もう何十年になるやら。自分の年まで忘れそうなくらい年をとりましたなあ。」
頭をかきながら笑う清司さんの髪は白く、顔には深い皺が刻まれています。
「ええ、私も。」
口元をおさえて笑う、かえさんの手には長い間、家族の食卓を守りつづけてきた証のような色が滲んでいました。それから、かえさんは、さっき見てきたばかりの草花のことを、清司さんは植物園に咲く藤の甘い香りや温室に咲く睡蓮の花の話などをしました。やがて、話は家族のことになって、清司さんが疎開していた頃のこと、かえさんが暮らした山のことなど、時間が過ぎるのも忘れておしゃべりをしました。かえさんは息子の家族と一緒に暮らしていましたが、みんな働いていて忙しく、ゆっくり話をする時間もありませんでした。清司さんは娘の家族が近くに住んでいましたが、いつもはひとりで暮らしていましたから、誰とも話をしないで一日が終ることもありました。さっきまで知らなかった誰かと親しくおしゃべりするなんて、まるで若い頃のようだと、清司さんは胸の奥で眠っていた小さな種が、そっと芽を出したような不思議な気持ちになりました。かえさんがまだ植物園に行っていないことを知ると、清司さんは季節ごとに咲くたくさんの花を見せてあげたいと思いました。
「もうすぐ薔薇の花が咲いて、そりゃあみごとですよ。じきに蕎麦の種も蒔かれるし、水性植物園では田植えもしますよ。よかったら、ご案内しますよ。」
「まあ、楽しみ。私は足が丈夫でないものだから、少しずつ行ってみることにしましょ。」
太陽が西に傾いた頃、かえさんはふいに時計を見てあわてた様子で言いました。
「あら、もうこんな時間。帰らなくちゃ。」
かえさんは丁寧にお辞儀をすると杖をつきながら帰って行きました。清司さんはかえさんを見送った後で、大切なことを忘れていたことに気がつきました。植物園を案内してあげる約束をしたのに連絡先を伝えていなかったのです。清司さんはしまったなあと思いましたが、きっとまた会えるだろうと気をとり直したとき、ベンチの上に藤色の巾着袋を見つけました。手にとってみると紐が緩んで中から絵筆がころりと転がり出ました。袋の中には水彩色鉛筆と小さなノートが入っていました。ノートは花の絵でいっぱいでした。たんぽぽ、はこべ、シロツメクサにシャガの花。かえさんが描いた優しい色使いのきれいな花の絵を、清司さんはいつまでも眺めていたのでした。
 それから、植物園に薔薇の花が咲き、城跡の山に蕎麦の種が蒔かれ、水性植物園の水田に稲の苗が植えられ、紫陽花が咲く頃になっても、清司さんはかえさんに会うことができませんでした。清司さんはかえさんが忘れて行った巾着袋を持って何度も深大寺を散歩しましたが、七夕を過ぎてもかえさんを見つけることができませんでした。そして、暑すぎる夏と、ゲリラ豪雨が度々やって来て、清司さんは散歩に行けない日が多くなりました。夏バテをして体調がすぐれない日はかえさんの絵を眺めながら今度会えたらどんな話をしようかと考えました。
やがて萩の花が咲く頃、清司さんはいつものように散歩に出かけることができるようになって、深大寺に行く度お参りをしました。
「かえさんが元気でいますように。また会って、かえさんにこの絵を返すことができますように。」
元三大師堂には、るんびに様と呼ばれる仏像が人々の健康を願って座っておられます。痛いところを撫でると治ると言われています。清司さんは、るんびに様の膝を撫でて、かえさんがまた散歩に来ることができますようにと願いました。
 そんなある日のことす。秋の風が森を抜けて木の葉を落としていく午後のことです。遠足に出かけた帰りの小学生たちがリュックを背負って帰って来るところでした。ひとりの女の子が転んで泣いていると、ベンチにすわって休んでいたおばあさんが女の子に手を貸して、しゃくり上げる背中を優しく撫でてあげていました。女の子はおばあさんに何かを手渡すと、また友だちのところに駆けていきました。おばあさんは、かえさんでした。
「やっと、お会いできましたね。」
清司さんは、かえさんを見つけました。
「まあ。」
かえさんは嬉しそうに笑いました。
「女の子がね。これをくれたのですよ。」
おばあさんの乾いた手のひらにはどんぐりがひとつ、残されていました。
「すてきな贈り物ですね。それじゃあ、そのどんぐりも描かないといけませんね。」
清司さんは自分の小さな手提げ鞄から巾着袋を取り出すとかえさんに手渡しました。
「まあ、なんてことでしょう。」
おばあさんは何処で忘れて来てしまったかもわからなくて、すっかりあきらめていた巾着袋に驚きました。
「ずっと持ち歩いていたのですよ。お返しできてよかった。ですが、ひとつ謝らなければならないことがあるのです。実は、その中身を見てしまったのです。すいません。」
「まあ、恥ずかしい。でも、大切にとっておいてくださったのね。どうもありがとう。」
それから、清司さんはかえさんのことを心配しながら過ごした季節の話をしました。かえさんは体を壊して入院していた話をしました。入院している間、送る宛ても無いはがきに絵を描いて、それがたくさんになってしまったことも話しました。
「もったいないことですな。私もそんな便りを貰ってみたいものです。」
清司さんが小さくつぶやくと、かえさんは、もっと小さな声で言いました。
「貰っていただけますか?」
「もちろんですとも。」
清司さんは嬉しそうに頷きました。
「だれかに貰ってもらえるなんて、なんて嬉しいことでしょう。」
かえさんはまるで少女のように笑いました。
「道の途中できれいな花をみつけたみたいに嬉しいことが、元気でいたら、まだまだあるものなのね。」
「ええ、ありますとも。まだまだ、道の途中ですからな。そう言えば、いつか話した田んぼにご案内しましょう。稲刈りがすんだ頃だと思いますよ。足の具合はいかがですか。」
「おかげさまで、この頃は調子がいいのですよ。ですから今日は杖も持たず来たのです。」
 清司さんはかえさんを気づかいながらゆっくりと歩きました。水性植物園の田んぼの脇には、高くて大きな梯子のように組まれた木に、刈り取られた稲がかけられていました。
「懐かしいわ。山の家に帰ったようだわ。」
かえさんは稲に顔をつけると、人生のほとんどを一緒に過ごしたその匂いを吸い込みました。数えることも面倒になるくらい、いくつもの季節を生きてきたのです。何か大切なものを胸に抱きしめるようなかえさんに、清司さんは何も聞かず、静かに言いました。
「春になったら、蕎麦といっしょに山菜のてんぷらを食べさせてくれるところがあるんですよ。お互いに冬を元気に越えて、春にはきっと一緒に行きましょう。」
「ええ。それは、楽しみだわ。」
かえさんはもう誰もいない故郷につづく空を見上げました。遠い昨日と今日を結ぶように空はどこまでも広く高く澄んでいました。風がふたりの肩を優しく撫でて吹いて行きます。ススキの穂が揺れて、足下では虫たちが唄い、アキアカネがふたりの散歩道を静かに飛んで行くのでした。

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<著者紹介>
弥山 浩子(東京都西東京市/45歳/女性/主婦)

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