深大寺の森で遊ぶ風が、ナンジャモンジャの白い花を揺らして山門を通り抜けたとき、黄色い帽子を被った小学生たちがちょうど学校から帰って来たところでした。参道に並んだ蕎麦屋の主人や土産物屋の奥さんたちが、おかえりなさいと声をかけています。子どもたちの黄色い帽子が道いっぱいに咲くたんぽぽみたいに見えて嬉しくなった風は少しはしゃいで、ついうっかり女の子の帽子をひとつ飛ばしてしまいました。そこへ、ひとりのおばあさんが通りかかりました。
「まあ、たいへん。帽子が落ちましたよ。」
深大寺でお参りをすませたばかりのかえさんです。あわてて追いかけようとしましたが、年をとって思うように動かなくなった足は杖をついて歩くのがやっとでした。そのとき、ひょろりと背の高いおじいさんが帽子を拾い上げました。三日にいっぺんは深大寺に散歩にやって来る清司さんです。清司さんは帽子に名前を見つけると、大きな声で女の子を呼びとめました。女の子はすぐ走って来て帽子を受け取ると、
「ありがとう。」
と言って、友だちのところへ戻って行きました。清司さんとかえさんは、やれやれといった顔でにっこり笑うと、どちらからともなくベンチに腰掛けました。風は、生まれたばかりのやわらかな木の葉をそっとゆらして、キラキラと輝く光の粒をふたりの上に降らせました。かえさんが、
「いいところですねえ、ここは。」
と言うと、清司さんも、
「いいところですよ。ここは。」
と答えました。気持ちのいい風に吹かれて、かえさんはゆっくりと話を始めました。
「ずっと田舎で暮らしていたんです。でも、ひとりになってしまったものですから、息子のいるこちらに越して来たんです。驚いたわ。ここにはね、私が生れ育った山に咲いていた花がたくさん咲いているんですもの。」
「ほう。その感じ、少しわかる気がしますなあ。私も昔、小さい兄弟たちを連れて田舎に疎開していましたからね。あれから、もう何十年になるやら。自分の年まで忘れそうなくらい年をとりましたなあ。」
頭をかきながら笑う清司さんの髪は白く、顔には深い皺が刻まれています。
「ええ、私も。」
口元をおさえて笑う、かえさんの手には長い間、家族の食卓を守りつづけてきた証のような色が滲んでいました。それから、かえさんは、さっき見てきたばかりの草花のことを、清司さんは植物園に咲く藤の甘い香りや温室に咲く睡蓮の花の話などをしました。やがて、話は家族のことになって、清司さんが疎開していた頃のこと、かえさんが暮らした山のことなど、時間が過ぎるのも忘れておしゃべりをしました。かえさんは息子の家族と一緒に暮らしていましたが、みんな働いていて忙しく、ゆっくり話をする時間もありませんでした。清司さんは娘の家族が近くに住んでいましたが、いつもはひとりで暮らしていましたから、誰とも話をしないで一日が終ることもありました。さっきまで知らなかった誰かと親しくおしゃべりするなんて、まるで若い頃のようだと、清司さんは胸の奥で眠っていた小さな種が、そっと芽を出したような不思議な気持ちになりました。かえさんがまだ植物園に行っていないことを知ると、清司さんは季節ごとに咲くたくさんの花を見せてあげたいと思いました。
「もうすぐ薔薇の花が咲いて、そりゃあみごとですよ。じきに蕎麦の種も蒔かれるし、水性植物園では田植えもしますよ。よかったら、ご案内しますよ。」
「まあ、楽しみ。私は足が丈夫でないものだから、少しずつ行ってみることにしましょ。」
太陽が西に傾いた頃、かえさんはふいに時計を見てあわてた様子で言いました。
「あら、もうこんな時間。帰らなくちゃ。」
かえさんは丁寧にお辞儀をすると杖をつきながら帰って行きました。清司さんはかえさんを見送った後で、大切なことを忘れていたことに気がつきました。植物園を案内してあげる約束をしたのに連絡先を伝えていなかったのです。清司さんはしまったなあと思いましたが、きっとまた会えるだろうと気をとり直したとき、ベンチの上に藤色の巾着袋を見つけました。手にとってみると紐が緩んで中から絵筆がころりと転がり出ました。袋の中には水彩色鉛筆と小さなノートが入っていました。ノートは花の絵でいっぱいでした。たんぽぽ、はこべ、シロツメクサにシャガの花。かえさんが描いた優しい色使いのきれいな花の絵を、清司さんはいつまでも眺めていたのでした。
 それから、植物園に薔薇の花が咲き、城跡の山に蕎麦の種が蒔かれ、水性植物園の水田に稲の苗が植えられ、紫陽花が咲く頃になっても、清司さんはかえさんに会うことができませんでした。清司さんはかえさんが忘れて行った巾着袋を持って何度も深大寺を散歩しましたが、七夕を過ぎてもかえさんを見つけることができませんでした。そして、暑すぎる夏と、ゲリラ豪雨が度々やって来て、清司さんは散歩に行けない日が多くなりました。夏バテをして体調がすぐれない日はかえさんの絵を眺めながら今度会えたらどんな話をしようかと考えました。
やがて萩の花が咲く頃、清司さんはいつものように散歩に出かけることができるようになって、深大寺に行く度お参りをしました。
「かえさんが元気でいますように。また会って、かえさんにこの絵を返すことができますように。」
元三大師堂には、るんびに様と呼ばれる仏像が人々の健康を願って座っておられます。痛いところを撫でると治ると言われています。清司さんは、るんびに様の膝を撫でて、かえさんがまた散歩に来ることができますようにと願いました。
 そんなある日のことす。秋の風が森を抜けて木の葉を落としていく午後のことです。遠足に出かけた帰りの小学生たちがリュックを背負って帰って来るところでした。ひとりの女の子が転んで泣いていると、ベンチにすわって休んでいたおばあさんが女の子に手を貸して、しゃくり上げる背中を優しく撫でてあげていました。女の子はおばあさんに何かを手渡すと、また友だちのところに駆けていきました。おばあさんは、かえさんでした。
「やっと、お会いできましたね。」
清司さんは、かえさんを見つけました。
「まあ。」
かえさんは嬉しそうに笑いました。
「女の子がね。これをくれたのですよ。」
おばあさんの乾いた手のひらにはどんぐりがひとつ、残されていました。
「すてきな贈り物ですね。それじゃあ、そのどんぐりも描かないといけませんね。」
清司さんは自分の小さな手提げ鞄から巾着袋を取り出すとかえさんに手渡しました。
「まあ、なんてことでしょう。」
おばあさんは何処で忘れて来てしまったかもわからなくて、すっかりあきらめていた巾着袋に驚きました。
「ずっと持ち歩いていたのですよ。お返しできてよかった。ですが、ひとつ謝らなければならないことがあるのです。実は、その中身を見てしまったのです。すいません。」
「まあ、恥ずかしい。でも、大切にとっておいてくださったのね。どうもありがとう。」
それから、清司さんはかえさんのことを心配しながら過ごした季節の話をしました。かえさんは体を壊して入院していた話をしました。入院している間、送る宛ても無いはがきに絵を描いて、それがたくさんになってしまったことも話しました。
「もったいないことですな。私もそんな便りを貰ってみたいものです。」
清司さんが小さくつぶやくと、かえさんは、もっと小さな声で言いました。
「貰っていただけますか?」
「もちろんですとも。」
清司さんは嬉しそうに頷きました。
「だれかに貰ってもらえるなんて、なんて嬉しいことでしょう。」
かえさんはまるで少女のように笑いました。
「道の途中できれいな花をみつけたみたいに嬉しいことが、元気でいたら、まだまだあるものなのね。」
「ええ、ありますとも。まだまだ、道の途中ですからな。そう言えば、いつか話した田んぼにご案内しましょう。稲刈りがすんだ頃だと思いますよ。足の具合はいかがですか。」
「おかげさまで、この頃は調子がいいのですよ。ですから今日は杖も持たず来たのです。」
 清司さんはかえさんを気づかいながらゆっくりと歩きました。水性植物園の田んぼの脇には、高くて大きな梯子のように組まれた木に、刈り取られた稲がかけられていました。
「懐かしいわ。山の家に帰ったようだわ。」
かえさんは稲に顔をつけると、人生のほとんどを一緒に過ごしたその匂いを吸い込みました。数えることも面倒になるくらい、いくつもの季節を生きてきたのです。何か大切なものを胸に抱きしめるようなかえさんに、清司さんは何も聞かず、静かに言いました。
「春になったら、蕎麦といっしょに山菜のてんぷらを食べさせてくれるところがあるんですよ。お互いに冬を元気に越えて、春にはきっと一緒に行きましょう。」
「ええ。それは、楽しみだわ。」
かえさんはもう誰もいない故郷につづく空を見上げました。遠い昨日と今日を結ぶように空はどこまでも広く高く澄んでいました。風がふたりの肩を優しく撫でて吹いて行きます。ススキの穂が揺れて、足下では虫たちが唄い、アキアカネがふたりの散歩道を静かに飛んで行くのでした。

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<著者紹介>
弥山 浩子(東京都西東京市/45歳/女性/主婦)

 暮れもさし迫った、とある日のことである。
「初詣は、いつもどこに行くの?」
 赤坂にあるビルの三十八階の窓から、眼下の首都高速を眺めながら緑川祐次は、そう由希子に訊ねた。あと十数分たらずで昼休みが終わろうとしている時だった。
「小さい頃は、明治神宮や門前仲町の富岡八幡宮とかに行ってましたけど、ある年から深大寺に行きはじめて、それからずっと深大寺なんです」
「深大寺か......」
 コーヒーカップを持ったまま緑川は感慨深げにそういった。
「自宅から近いの?」
「近いといえば近いかも。世田谷通りから甲州街道に抜け、三十分足らずで行けますから」
「車で行ってるんだ」
「ええ」
 初詣はいつもどこも混んでいる。深大寺は面倒くさがり屋の父、光雄が、車で乗りつけられる唯一都合の良い場所だった。元旦、おせちを食べながら年賀状に目を通し、前の年に買ったお札や破魔矢をあちこちから集め、それからのろのろと出かけて行くのだ。深大寺につく頃には辺りはすでに暮れはじめている。どこから湧いてきたかと思うほどの沿道を歩く参拝客を尻目に、助手席の母、幸子が必死になって駐車場を探すのだ。お参りを終え破魔矢を手にして帰る人々を後部座席から眺めながら、今年もまた父は、お参りを終えた後いつもの蕎麦屋に入るんだろうな......と、由希子は想像する。誰が決めたわけでもないのに、そういう何でもない慣わしがその家の歴史みたいになるのかもしれない。本堂の前でたくさんの参拝者に押されながら、真剣に手を合わせる母の願いごとは、家内安全はもとより、子どもの受験や就職祈願だったり、そして、ここ数年は適齢期を少し過ぎた由希子の良縁祈願へと移行していた。
「深大寺って、どうやら縁結びのお寺として有名みたいよ」
 本当かどうかは知らないが、深大寺に伝わる「縁起絵巻」というのに記されてあるそうな。由希子が結婚しないかぎり、母の願いごとはこの先もずっと由希子の良縁祈願につきるのだろう。たまったものじゃないと由希子は思っている。
「実は、以前、僕もよく深大寺に行ってたよ」
「そういえば、お住まいは吉祥寺でしたね」
「ああ。学生時代からずっと住んでたから、それこそ初詣はいつも深大寺だった。でも三年前に所沢に引っ越してからは、とんとご無沙汰でね」
 既婚の緑川が、妻と離婚して吉祥寺のマンションを引き払ったというのをいつか誰かから耳にしたことがあった。三十五歳、バツイチ独身。

 入社して初めて緑川に会った時のことを由希子はよくおぼえている。仕事のことで頭がいっぱいだったのか、新入社員の若い娘のことなんてまるで興味がないといわんばかりに、素っ気ない態度だった。会社は外資系の機器メーカーだけあって、社員の誰もがパソコンの技術は高かったし、逐一なににつけても合理的であった。社員はみな社員証とピッチを首にぶら下げている。外部から電話が入るとオフィスの窓側のスピーカーから着信音が鳴り、誰かがピッチにでて対応する。つまり、内線というものがなく電話交換手がいないのだ。何もかもがはじめての経験の由希子にとって、ピッチで外部と対応することさえも戸惑いと不安がつきまとった。そんな時、緑川は何も言わずにさり気なく由希子を助けてくれた。ピッチを持って言いよどむ由希子に代わって、素早く対応してくれたのは一度や二度ではない。新入社員というだけでちやほやする他の男性社員とは違って、緑川は甘やかすことも叱咤もしないかわりに興味も示さなかった。自分を見せないばかりか他人の心の中にずけずけと入ってこない。そんなクールな距離を保ちながら六年の月日が過ぎていた。由希子には淡々と過ぎていった六年だが、人によっては子どもが生まれてから小学生になるくらいの年月である。緑川にしてみても離婚も含めてさまざまな生活の変化はあったはずである。その緑川が、ほとんどの社員が外に食事に行っている昼休みに、どういう風の吹きまわしなのか、珍しくそんなふうに由希子に話しかけてきたのだ。しかもこんな提案までしてきた。
「こういうゲームしてみないか? とにかく初詣は深大寺と決め、時間も場所も決めずに、そこで偶然会えるものなのかどうか、試してみない?」
「あら、面白そうですね。で、もし偶然会えたとしたら?」
「そうだな。僕の嫁さんにでもなるか?」
 紙コップのコーヒーを飲みながら、緑川は冗談とも本当とも思えるそんな言葉を口にして笑い飛ばした。しかし、由希子にとってそれはまんざらでもなかった。

 やがて年が明けた。いつものように父や母、そして弟の四人で深大寺に向かう。
「まったくもう......。今年こそは家族がもう一人増えているかと期待していたのに、飽きもせずまたこの顔ぶれね」
 そう母がいうと、弟の和也は眠たそうな顔で、「今年こそ、最後かもよ」といった。由希子とて今まで一度も恋人がいなかったわけではない。それなりに何度か恋愛を経験している。ただし、いつも一年と続かず、春から夏にかけて付き合い秋に別れるパターンが多かった。だからクリスマスもお正月も女友達か家族とすごすのが恒例になってしまっている。
茅葺の山門をくぐり、本堂の前でお参りをすませ、元三大師堂に向かって歩き始めたその時だった。「なんじゃもんじゃの木」の下にいる一人の男に由希子は目をとめた。その人はブルゾンにジーンズ、それにトレッキングシューズを履き、いたってラフな格好だ。しかも由希子と目が合うと笑いかけてきた。   
「緑川......さん?」
 由希子は茫然と立ち尽くして、見慣れない普段着姿の緑川をじろじろ眺めた。本堂の前で参拝者にもみくちゃにされていた母がやっと人垣から抜け出したところである。父はすでにいつもどおり、お札やお御籤を買うために売場に並んでいる。そんな二人をそれぞれに目で追いながら、由希子は緑川と「明けましておめでとうございます」と、新年の挨拶を交わした。いつも同じ職場でいやっというほど顔を突き合わせているのに、何故か妙に気恥ずかしい。これはいったいどういうことなのだろう。 
「偶然ですね」
「いや、本当。奇遇だ」
 都心のオフィスビルで寡黙に仕事をする緑川とはまるで別人のようだ。彼は、いつも自分を縛り続けている全てのものから開放されているとばかりに、実に穏やかで良い表情をしている。気がつくと母が後ろから由希子のコートを引っぱっているが、由希子はそれどころではない。もしも偶然に出会えたのなら、お嫁さんにしてくれると彼はいっていた。しかし、よく考えてみると、本堂のお参りをすませたあとは、誰もが必ずこの「なんじゃもんじゃの木」の下を通る。時間さえ違わなかったら、会える可能性はかなり高かったはずだ。お神籤を手に戻ってきた父に、母がひそひそと囁いているのが聴こえた。
「今年は、ご利益が早かったみたいよ」
「いやはや、俺の今年のお御籤も、待ち人来たる、だ」
 暮れかかる境内には、冬の夕ぐれの凛とした冷気が漂いはじめている。由起子が家族に緑川を会社の上司であることを紹介すると、母は気を利かしたつもりなのか、父と弟をいつもの蕎麦屋に引きずっていった。
「どうやら、君のご家族に何か感ちがいをされたみたいだね」
 緑川が笑いながら由希子にそういった。
「だって、毎年ここで娘の良縁願いをしてるんですよ」
「そうだったんだ。じゃ、やっぱり僕のお嫁さんになる? いや、なってくれないかな?」
 神様仏様の前だ。その言葉に嘘はないだろう。彼のことは嫌いではなかった。それどころかむしろ好きだった。しかし、緑川はいつも仕事に熱中していて異性のことなどにはまったく眼中にはないという感じであった。この人を振り向かせるのは至難の業だろうと由紀子は諦めていたのだ。それが突然、つき合いもなしに求婚されている。由希子は、戸惑いながらも「はい」と返事をしていた。
 これぞまさしく、母の長年の良縁祈願のご利益かもしれない。由希子は緑川と境内を歩きながらそう確信していた。

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<著者紹介>
北沢 まどか(東京都世田谷区/52歳/女性/主婦)

 ここへ来たのは久しぶりだ。最後の記憶は、高校一年生の時に初めて出来た彼氏の一歩後ろをついて歩く光景だった。しかしその彼の顔は頭の中でぼやけてよく思い出せないし、何をしに来たのか、どんな話をしたのかといった肝心な事は全く思い出せなかった。ただ少し色が薄めの髪に覆われた彼の後頭部と、思春期特有の甘酸っぱい気持ちと、木や土の香りだけが印象深く記憶に残っていた。
 ともかくその記憶から逆算すると、ここへ来たのは実に四年振りという事になる。
 そこへ突然男の声が乱入してきた。
「いいよ、自然だよ。」
 その時私は道端のベンチに座って足を組み、幼い頃によく見かけた名前も知らない米粒程の黒い虫を目で追っていた。
 頭を上げると、道を挟んで向こう側に見知らぬ男が立っていた。甚平姿にサンダルという姿でスケッチブックに鉛筆を走らせながら、手元と私との間で首を頷くように上げ下げしている。端整な顔立ちが犬猫でも可愛がるような笑顔に解れ、いたずらっぽさの残る高校生にも、二十代後半の頼れるお兄さんのようにも見えた。しかし後者に見える理由は、手元を向いた時に光の反射で眼を覆い隠してしまう黒ぶちメガネのせいのように感じた。
「ごめん、自然に集中して。いや、集中したらだめ、あくまでも自然に。後少しで完成だからね。」
 私を描いているようだ。この状況とへんてこな無理難題に戸惑い、一瞬目が泳ぐ。しかし彼の笑顔と、後少しという言葉に背中を押され、再び目線を下げてやった。彼の注文である自然がよく分からず、せめて先程と同じ状態を作ろうとあの虫を探してみたが、見つける事が出来なかった。仕方がないので視界の範囲に想像上の虫を創り、目で追ってみる。前方からシャッシャッという鉛筆の小気味良い音と、遠くから初夏によく聞く鳥の鳴き声だけが聞こえる。この明らかに不自然な状況と、人の良すぎる私自身への情けなさとで、どんどん体が窮屈に小さくなっていく感じがする。早く描き終えてくれる事を願った。「はい、完成。いいよ、なかなか。見る?」
 彼がスケッチブックを右手で差し出しながら近づいて来る。私はおずおずとベンチから腰を上げ、両手でそれを受け取った。
「あ、うまい......。」
 素直に声に出していた。少しうつむきがちにベンチへ座る女性。その表情には喜怒哀楽のどの感情が突出しているでもなく、何か透明感を感じる印象があった。顔自体は自分で思うよりもだいぶ美しくデフォルメされ、照れ臭いながらも悪い気はしなかった。
「うまいね。」
 私は同じ言葉をもう一度繰り返し、幼い子の描いた絵を褒めるようなつもりで笑顔を作り、彼にスケッチブックを返した。
「僕の絵のテーマは自然でね、それは木や花といった言葉通りの自然も含めて、あらゆるモノの自然な姿なんだ。」
 聞いてもいない事を無垢な目で話し出す。仕方がないので私は、お姉さんのようなつもりで話に乗ってやる。
「私が自然だったから描いてくれたの?」
「そうそう、さっきの君は自然そのものでさ、放っておけなかったんだよ。」
「ふーん。でも自然がテーマなら、もっと山とか川とかの方がいいんじゃない? 確かにここも自然が豊富だけど。」
「ここに来る人はね、みんな自然な顔をよく見せてくれるんだ。山や川の自然もいいけど、人の自然な顔ってそれ以上に素敵だし、自然そのものだと思わないかい?」
 そんな話をしながら、気付けば結構な距離を彼と歩いて来ている事に気が付いた。
「ところで君はなんで今日ここに来たの?」
 初めて彼が私の事を聞いてきた。そういえばなんで来たのだろう。大学の友達関係のストレス発散とか、そんな小さな理由があった気もするが、さっきのベンチへ置き忘れてきた。要するにどうでもよくなっていた。
「えと、まぁ、......自然に?」
そう言ってみた。すると彼は途端に、偉人の名言でも聞いたかのような真剣な表情になり、なるほどと何度か頷きながら遠くを見つめた。一応おどけてみたつもりで言ったのだが、予想とは正反対の彼の反応に、逆に私が笑いをこらえる事になった。

 いつの間にか一軒の蕎麦屋にいた。彼が絵のお礼にご馳走してくれるらしい。悪いからと断ったが、「ここの名物の蕎麦を食べないで帰るなんて、自然じゃないよ!」と訳の分からぬ理屈に負かされてしまった。
 彼が早いのか私が遅いのか、随分と食べる速さが違う。私が丁寧に薬味をつゆに入れ、蕎麦を二すすりした間に、彼はもう蕎麦湯を汁碗へ注いでいた。
「随分と丁寧に食べるんだねぇ。」
「こうやってつゆにちょんと付けて食べるのが、正しい江戸の作法なのよ。」
「江戸じゃなくて多摩流だよ。つゆにべちゃってつけた方がおいしいし、自然だよ。」
私はそれが自然かどうかについてはいささか疑問を感じたが、彼の視線に耐えかね、一回だけのつもりで口に運びかけた蕎麦をつゆへたっぷり浸し直した。彼に一瞬視線を向けた後、静かに蕎麦をすすり上げる。
「おいしい......。」
 本日二度目の素直な声を漏らしてしまった。
「でしょ? あ! その顔いただき。」
 汁椀を置き、スケッチブック取り出す彼。
「ちょっと、食べているところは嫌よ。」
「いいからいいから、ね?」
 返事を聞くまでもなく、彼は鉛筆を走らせ始める。止めさせようと思ったが、子供から玩具を取り上げるような罪悪感に襲われ、仕方なく箸を進める。恥ずかしさですっかり不満気な顔をしていたと思うが、たっぷりとつゆに浸した蕎麦は悔しい程美味しかった。
 やがて食べ終わり、私も蕎麦湯を椀へ注ぎかけている所で、絵が完成した。
「できた。ここ最近で一番の傑作だよ!」
 そう言って、スケッチブックを私の見える向きにテーブルへ置く。
 さっきの絵とは、随分と印象の違う絵だった。さっきの絵の中の透明感のあった女性が、目尻をたっぷりと下げて蕎麦を頬張っている。お世辞にも透明感などなく、その代わりに蕎麦湯の湯気のほっこり感が彼女を包んでいる。いや、そのほっこり感は彼女自身から滲み出ているようにも見えた。
「えー、私こんなにニヤニヤしてないし、蕎麦ももっと丁寧に食べていたよー。」
「僕にはそう見えただけだって。」
 絵に視線を向けたまま、彼が答える
「さっきの絵の方がいいなぁ。」
「そう? それじゃさっきの絵は記念にあげるよ。傑作が出来たしね。」
そういうと彼は、先程の絵を丁寧にスケッチブックから切り離し、私へ渡した。
「ありがとう。」
「いえいえ、こちらこそ。」
 そう言うと彼は、蕎麦女の絵を手元に引き寄せ、彼女と同じように目尻を下げて絵を大事そうに撫でた。
 そんな彼の様子を見ているうちに、なんだか私はそっちの絵の方が欲しくなっていた。その素直な気持ちは口から少し出かかったが、結局は出せなかった。私はその口を彼に分からないようにすぼめながら、絵を優しく折ってハンドバッグへしまった。

 陽も少しずつ傾き、どちらから言うでもなく帰路に付いていた。私は彼の一歩後ろを歩き、彼の綺麗に整えられた襟足を見ていた。
(変な人。)
 心の中で彼に呼びかけてみると、涼しくなってきた風が通り抜けた。風は彼のつむじ付近の跳ねっ毛をピロピロと揺り動かし、同時に懐かしい土や木の香りを残していった。
 すると彼が肩を少し震わせながらぷっと吹き出し、こちらを振り向いた。
「僕ってさ、なんか変な人っぽいよね。」
「そう? そんな事ないと思うけど。」
 真顔を取り繕って、首をかしげる私。
 そうだよ、君は変な人だよ。

 やがて入口の観光案内所を通り抜け、外の通りへ出た。
「あ、私バスだから。」
 私は立ち止まって、すぐ右手のバス停に視線を向ける。
「そうか、僕は徒歩なんだ。それじゃあね。」
 スケッチブックを私に向かって振り、通りの歩道を右へ歩き出して行く。
「あの......。」
 そう言いかけた時、彼がこちらへ振返り、私の言葉を遮るように言った。
「僕は授業が無い時は、ほとんどここに来ているよ。君もまた自然にここへ来るよね?」
「うん。そしたらまた自然に会えるね。」
 二人ともほぼ同時に吹き出した。彼の顔は、夕陽の眩しさでよく見えなかった。
 彼は授業と言っていた。私とそれ程歳の変わらない大学生なのであろうか。そういえば彼自身の事を何も知らないままだった。名前や年齢すら聞いていない。そんな事を考えながら彼の後ろ姿を見送っていたが、通りの急カーブにあっという間に消えてしまった。
 私はプツリと切れてしまった視線を今来た道へ向け、そのまま人で活気付いた観光案内所の辺りを見渡してみた。
 ......そうか思い出した、四年前に彼氏とここへ来た理由。あれ? という事は効果無いじゃん。いや、そうでもないのかな。
 私はここの名物である縁結びのお守りを買うために、バス停を通過し観光案内所の売店へ戻った。

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<著者紹介>
鈴木 涼一(東京都多摩市/31歳/男性/会社員)

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