門前の賑わいは、あの頃と全く変わっていない。二年振りに訪れた深大寺で、あの頃と違うのは、私の隣にタケルが居ないことぐらいだろう。
 私にとって、此処は思い出の詰まった大切な場所だ。何もかも、見るもの全てが懐かしい。タケルがこの深大寺の近くに住んでいたことから、私達はこの界隈を定番のデートコースにしていた。
 私が今日此処に来たのは、あの日の約束を果たす為だ。本当は、タケルとの約束だったからもう果たすことは叶わないのだけれど、せめて私だけでもと思い、一年遅れでやって来た次第である。
 何故今更?と訊かれたら、私の人生の新たな第一歩を此処から踏み出そうと決めたから、という事になる。あの果たせなかった約束がある限り、私はいつまでも思い出に、いやタケルに縛られ続けてしまうだろう。
 約束を果たしたところで、その気持ちから綺麗さっぱり足を洗えるかと言ったら、それは分からない。
 でも今は、兎に角やってみるしかないのだ。
 門前に立ち並ぶ店を素通りして、私は境内に入った。今日は、ゴールデンウィークの最終日ということもあり、程良く観光客がいる。
 私は、取り敢えず一般の参拝者同様に手を洗った。別にお参りするつもりはなかったが、折角此処まで来たんだし、深大寺は知る人ぞ知る、縁結びのご利益があるお寺だからお参りして損はない。ということで、私は約束を果たす前にお参りをした。
 ふと傍らに目をやると、護摩木が置いてある。私は、この護摩木にちょっとした思い出がある。それは、タケルとのちょっぴり切ない思い出だ。
 お参りを済ませた私は、タケルとの約束の場所であるナンジャモンジャの木に向かった。
 こんな奇妙な名前の木は、他では聞いたことがないが、本当の名前は「ヒトツバタゴ」というらしい。そして、このナンジャモンジャの花を見に来る事が私達の約束だった。
それは、6月初めのとても暑い日だった。
 私達は、野川公園を散歩していた。二人共、自然溢れるこの公園が大好きで、気候のいい時期には殆ど毎週のように行っていた。
 その日、深大寺に行く予定はなかったのだが、あまりの暑さにどうしても冷たい蕎麦が食べたくなった私達は、深大寺の門前にある蕎麦屋を目指して移動した。蕎麦を堪能した後、何となく流れで参拝しようということになり、この境内に上がってきた。護摩木の思い出も、この時の話だ。
 参拝ついでに、私達はこの護摩木に願い事を書いて奉納した。私はタケルが何を書いたのかが気になって、ちょっと覗き込んでみた。するとそこには、「美希子が幸せになれますように」と書かれていた。美希子というのは私の名前だが、タケルが何故私の幸せだけを願ったのか、それが心に引っかかった。普通なら「美希子と」と書くんじゃないのか。
 しかし、何故かと訊いてしまうと、私がタケルの護摩木を見た事がバレてしまうし、何となくその答えが怖いような気もしたので、結局真相は分からぬままその場を後にした。今思えば、タケルはこの時既に、私達の結末について覚悟を決めていたのかも知れない。
 私が心に蟠りを抱えた事など知らずに、タケルは私の手を取ると、境内をふらふら歩き始めた。その時、この「ナンジャモンジャ」という奇妙な名前の木に出くわしたのだ。名札を見た私達は、変な名前だと言って笑った。
 しかしこの木、名前は変だが深大寺の名物的な存在らしい。四月下旬から五月上旬にかけて白い可憐な花が咲くのだと、近くにいたおばさんが教えてくれた。
 「来年・・・ねえ、来年のゴールデンウィークに花、見に来ようよ。」
 蟠りはひとまず置いといて、私はタケルに来年の約束を提案した。
 「そうだね。何か気になるし。来年見に来ようか。」
 そのタケルの言葉で、私達の約束は成立した。それが果たされることのない約束になるとは、その時の私には知る由もなかった。
そして今、私はナンジャモンジャの木の前に立っている。あの日、タケルと手を繋いで立っていたこの場所に戻ってきたのだ。
 ナンジャモンジャの木は、白い小さな花で飾られていた。これが、タケルと見る筈だったナンジャモンジャの花だ。放射状に開いたその花は、まるで小さな子供が手を開いているかのようでもあり、小さな花火がパチンと開いたようでもあった。一つ一つはとても小さくて、決して綺麗と言えるものではないが、こうして集まって咲いていると、とても可愛らしい。私は携帯電話のカメラ機能で、一枚写真を撮った。
 まだ削除していないタケルのアドレスに、この写真を送ってあげようかとも思ったが、今更そんな事をしたって虚しいだけだ。私はそのまま携帯電話を鞄にしまった。
 その時だ。
 「美希子さん・・・?」
 不意に声を掛けられた。驚いて声のした方を見ると、見覚えのある女性が立っていた。
 「良かった。やっぱり美希子さんだったのね。」
 その人が、タケルのお母さんであることを思い出すのに、それ程時間はかからなかった。
 「久し振りねぇ。こんな所で会えるなんて・・・。どう?元気にしてる?」
 私は、タケルの母との遭遇を喜ぶことが出来なかった。タケルと別れた理由を考えれば、それは当然だろう。私は、タケルの母の無神経さにちょっと苛ついた。
 私がタケルと別れたのは、一昨年の暮れ、クリスマスを間近に控え、カップルが一年のうちで最も浮き足立っている頃だった。
 タケルは、お父さんと同じ会社に勤めていた。タケルのお父さんは、そこそこ名の知れた会社の役員だった。そのお父さんのコネで就職した訳だが、ある時、タケルに社長の姪御さんかなんかとの見合い話が持ち上がった。
 私という存在がありながら、お見合いなどする筈がないと思っていたのに、タケルは社長からの申し出だからと、それを承諾してしまった。そして、先方に気に入られ、あれよあれよという間に結婚が決まった、という何とも時代遅れな、まるで一昔前のドラマのような結末を迎えたのだった。
私には、全くもって理解も納得もできない話だった。タケルはひたすら謝るばかりだったが、そんな事より、私は彼の本心が知りたかった。本当に、私よりその人の方がいいのか、私への想いは冷めてしまったのか、それを聞いたからって何が変わるという訳でもないが、その時の私は、タケルの口から真実を聞かなければ、どうしても気が済まなかった。
でも、結局タケルは何も語ってはくれなかった。
「美希子さんも、この花を見に来たの?」
タケルの母は、私の苛立ちなど全く気付かない様子で話し掛けてきた。
「え?ええ・・・・まあ・・・。」
私は横浜に住んでいる。別れた男の家の近所までわざわざ来たのかと思われるのが嫌で、何となく煮え切らない返事をしてしまった。
「私もよ。タケルから、今ナンジャモンジャの花が咲いてるから、写真撮って送ってくれってメールが来てね。」
メール?タケルと一緒に住んでないのか。
「タケルさん、お元気ですか?」
私は探りを入れるつもりで訊いてみた。
「ええ、元気よ。今、仕事の関係で香港に住んでるの。来月子供が産まれるのよ。だから、私ももうすぐお婆ちゃん。」
そう言って、嬉しそうな笑顔を浮かべたタケルの母に、私も精一杯の笑顔を返したつもりだった。でも、タケルの幸せを心から喜ぶことができない私が、そんなにいい笑顔を作れる筈がない。私は自分の荒んだ心が情けなかった。
しかしその時、私はあることに気付いた。
タケルが、母親にナンジャモンジャの花の写真を送れと言ってきたことだ。これってひょっとして、私との約束を覚えていたからじゃないだろうか。
私は何だかちょっと嬉しくなった。と同時に、この約束を果たす方法を思い付いた。
「私、ちょうど今写真撮ったんですけど、すごく良く撮れたんで、良かったらこれ、タケルさんに送りませんか?」
断られるのを覚悟で申し出た。
「まあ本当?ありがとう。私、携帯電話で写真撮るの苦手なの。良かったわ、見せて。」
意外にも、タケルの母は喜んでくれた。私は鞄から携帯電話を取り出すと、さっき撮った写真を表示した。タケルの母は、画面を覗き込んだ。
「あら、美希子さん。本当、良く撮れてるじゃない。これ頂戴。タケルに送るわ。」
彼女の表情から、それがお世辞でないことが分かったので、私は赤外線通信のやり方を教えながら、写真を送信してあげた。
「タケルさんには、私に会った事は言わないでください。」
私がそう言うと、タケルの母は全て分かっているというような笑顔を浮かべて大きく頷いた。そして、写真をタケルに送信した。
今頃、タケルは私が撮ったナンジャモンジャの花を見ているのかな、なんて思いながら、私も自分が撮った写真を見た。
私達は今、同じ花を見ている。漸く二人は約束を果たす事ができた。
「護摩木なんかに私の幸せを託さないで、あんたが私を幸せにしてよ!」とずっと思ってきた。でも今は、タケルが願ってくれた私の幸せを、私自身の力で見つけていこうと思っている。

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<著者紹介>
革命詩人(千葉県市川市/39歳/女性)

今朝は久しぶりに気分がいい。ここ数日どうもすっきりしない日が続いていたのだけれど、秋晴れの天気のせいか・・・洗濯物を干している私に夫が声をかけた。
「神代植物園にバラを見に行ってみる?」
出不精の夫にしては珍しいこともあるものだと思ったけれど、そういえば電車の吊り広告で見たような気がしてでかけることにした。
 臨時駐車場に車を停め、落ち葉をさくさく踏みしめながら門へと向かう。犬を散歩させる人、どんぐりをひろう子供たち、
「日本は平和だ」
夫ののんびりしたつぶやきに思わず笑ってしまった。
 神代植物園のバラ園。ピンクやオレンジ、色とりどりのバラのあいだをぬけながら気を惹かれたバラのだけ説明を読む。大輪のみごとなバラ、可憐な房咲きのバラ、香りの強いバラ、ロイヤルファミリーのお名前がついたバラ・・・そしてメヌエット。
甘いバラの香りが忘れていた記憶を呼び覚ます。

「あー、腹へったなあ。このバラ、食えないかな。」
晃一は情けない顔つきでバラの花を眺めている。さっき深大寺の門前でお蕎麦を食べたばかりなのに、まったくあきれるほどの食欲だ。花より団子、ロマンチックな雰囲気とは程遠い。私は無視してどんどん先に歩いて行った。
 私の機嫌を損ねたと思ったのか、彼は後ろから声をかけた。
「お嬢さん、ちょっと振り向いてください」
はやっているシャンプーのコマーシャルみたいだ。振り向いた私を狙ってワンショット。
「そんなにすましてないで笑って笑って・・・」
愛用のキャノンのカメラで続けさまにシャッターをきる。いっぱしのカメラマン気取りだが、ピンボケだったりぶれていたり、実のところ彼の写真ときたらひどいものだ。このあいだだって私のコンサートで撮ってくれた写真にはひとつとして満足な出来のものが無かった。
「写真はいいからバラを見ようよ!」
そう言う私のうしろにあったバラをさして
「メヌエットだって・・・可愛いな」
そのバラはクリーム色の小さめのバラで、花びらの縁が濃いピンクで縁取られた可憐なバラだった。
「ね、この写真を撮って!」
それから私たちはバラ園をぐるりとまわって深大寺に向かったのだが、五月の明るい午後、植物園でゆっくりしすぎてしまったらしく本堂に行き着いた頃にはもう五時近くなっていた。そそくさと通り一遍の参拝をすませ、車に戻ると、行きつけのお店へと車を走らせた。
「あら、深大寺へ行ってきたの?」
顔なじみのママに声をかけられ、
「そう。今日は神代植物園でバラを見て、それから深大寺へお参りしてきたの。」
「深大寺って縁結びの神様なんですって」
手にしたパンフレットを広げてみると、なるほどそう書いてある。でも縁結びの神様は本堂ではなくて深沙大王堂にいらしたらしい。
「そこへは行かなかったわよね・・・」
相槌をうつでもなく、晃一は食べるのに夢中。
食欲旺盛な彼の食べっぷりを見ていると、なんだかどうでもいいような気になってきた。
 それから数日たって、
「このあいだの写真、できたよ」
とキャンパス近くのケーキ屋へ呼び出された。
五月晴れのいいお天気だったあの日、なんだかみんな白っぽく写っている。期待していなかったからざっと眺めていくと、あのメヌエットだけがとても素敵に撮れていた。
「どう、良く写ってるだろ?」
「本当。このバラきれいに撮れてる」
私はなんだかとても嬉しくなって、うちへ持って帰るとメヌエットの写真をピアノの上に飾った。
 片山先生の門下生のピアノの発表会。ドレスの裾をひっぱりながら、私は緊張して楽屋で出番を待っていた。今日は佳代子先輩がトリでその前が私だ。晃一も来ているはずなんだけど、今はそんなことを考えている場合じゃない。さっきのリハーサルでのちょっとしたミスが気になって、もう一度楽譜を見直したり頭の中でフレーズを繰り返してみたり、そうこうしている内に私の番になった。ライトに照らされたステージに踏み出すと、もう時間の過ぎるのはあっという間。何百時間も練習してきた三十分足らずの曲はあっというまに終わってしまう。一度指先でつむぎだした音は間違えたら消すことができない。まあまあのできだったかな、と思いながらステージ中央で頭を下げるとバックステージへひっこんだ。
佳代子先輩は真っ赤なドレスでリストを華麗に弾きこなしている。舞台の袖で思わずため息が漏れた。
発表会が終わったあとの楽屋裏は緊張感もとけて騒々しい。着替えて楽屋口に出ると晃一が赤いバラの花束を持って待っていた。
「すっごく良かったよ。はい、これ」
「ありがとう」
私はちょっと晴れがましい気分で花束を受け取った。背が高くハンサムな晃一は人目をひく。母が「晃一くん、来てくださったの?どうもありがとう」とお礼を言い、他の友人たちと盛り上がっているところに佳代子先輩が出てきた。
「あらあユキちゃん、素敵な彼氏ね。紹介してよ」
大勢のおとりまきに囲まれながら、佳代子先輩は艶然と微笑む。今度はシックな黒のレースのスーツ姿だ。晃一も満面の笑みで
「いやあさっきのワルツ、素敵でした!」
結局みんなでホールを出てから吉祥寺で打ち上げをすることになったのだが、にこやかに微笑む佳代子先輩と調子を合わせる晃一を見て、バラのとげがちくっと胸にささったような気がした。

夏が来て片山先生の湖畔の別荘にほど近いペンションでの合宿が始まった。毎年恒例のこの合宿には、ピアノの生徒以外、管楽器や弦楽器の男の子たちも参加して、先生の別荘で近隣のかたがたをお招きしてのコンサートが催される。新宿西口から高速バスに乗ったときから遠足気分で、みんな盛り上がっていた中、私ひとりブルーな気分でぼんやりと晃一のことを考えていた。発表会以来、なんだかしっくりこない。新曲を仕上げられなくて結局発表会と同じ曲を弾くことにしたし、ちっとも練習に身がはいらなかった。晃一だって大学院の二年だし、研究室に残るにせよ忙しいんだろうと思いつつ、一抹の不安が胸をよぎる。さっき中央高速でみかけたのは晃一のジープじゃなかったか・・・。
「ねえねえ、佳代子先輩、今度はドビュッシーの花火弾くんだって!」
同級生の奏子(かなこ)の声にはっと我にかえって
「そう・・・夏にぴったりよね」
「それにね、またおひとりでホテルにご滞在」
「ふーん」
相槌をうったものの、さえない私に奏子は
「ユキ、バスに酔った?」
「ううん、大丈夫。」
ペンションから先生の別荘まで奏子と並んで歩きながら、これからの三日間、気持ちを切り替えて頑張ろうと心に決めた。
先生の別荘でのコンサートは二日目に開かれる。一日目の午後はリハーサル。二日目の午後のコンサートのあとには先生主催のバーベキューパーティーがあるし、これ目当てに参加する学生も少なくない。自由時間は湖でボートに乗ったり、自転車で湖畔を一周したり楽しく過ごす。ちょっとはめをはずして飲み過ぎたりもするが、ペンションに帰って寝るだけだし、三年生以上の特権だから私は誘われるままにホルンの山野先輩たちにくっついて近くのホテルのバーラウンジへとでかけていった。
ホテルの駐車場で晃一のジープを見つけたとき、私の疑いは確信へと変わった。ペンションへとってかえした私は翌朝、体調不良を理由にコンサートに出ることなくひとり東京へと引き返した。

「バラのソフトクリームだって。食べる?」
夫の呼びかけに現実に引き戻される。
「なにぼんやりしてるんだよ?」
そういえばこの人が初めてプレゼントしてくれたのは偶然あのメヌエットだった。くったくのない笑顔を見ていると、平凡なお見合い結婚だったけど、この人と結婚して良かったと思えてきた。あれからもう四半世紀・・・
「ねえ、深大寺に行こうよ!」
突然どんどん歩き出した私に面食らったようについてくる夫・・・
「なんで深大寺なの?」
「深大寺ってね、縁結びの神様なんですって」
「縁結び?」
バラ園を抜けて木漏れ日のきらきらした林を通って深大寺門から右手のほうに急ぐ。
「おいおい、本堂はあっちだよ・・・」
「いいの、いいの。」
私は案内図を頼りにまっすぐに深沙大王堂へと向かっていった。万霊塔の先を右に折れると右側に延命観音があった。そこも通り過ぎると目指す深沙大王堂・・・思ったより新しいお社だ。あのときは来られなかったお社。
私は横に並んだ夫と手を合わせると、
「この人との縁はしっかり結んでおけますように。」心からそうお願いした。曲のメヌエットみたいに、これからも変わらぬテンポで手をとりあっていこう。
「戻るときに延命観音にも寄って行こうね!」

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<著者紹介>
Cecil(東京都世田谷区/52歳/女性/主婦)

 六月の半ば、毎日雨が降っていた。テニスサークルの練習も中止ばかり。俺は思い切り暴れたくて、うずうずしていた。
 それに、気になることがあった。美紀の様子がおかしい。ジャーナリズム概論の講義に、三回連続して出て来なかった。いつも一番前の席で、熱心にノートを取っていたというのに。サークルの部室にも顔を出さない。学内のカフェテリアで見掛けた時も、隅のテーブルにひとりで座り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。俺は「似合わねえな」と声を掛けたかったが、できなかった。
美紀はいつも友達の輪の中にいた。元気で、よく笑っていた。それが今は、ひとりにしてくれ、放っておいてくれ、という見えない壁を築いて、その中に閉じこもっている。

夏休み前の期末試験が近付いて、慌しくなった。美紀にまったく会わない日々が続いた。試験期間の最終日に、サークルの慰労会が吉祥寺の居酒屋で催され、久し振りに美紀は姿を見せたのだが、少し痩せて頬がこけ、顔色もすぐれなかった。試験やつれした、というのでもなさそうな気がした。
俺は少し離れたテーブルに座り、目の端で様子を窺った。美紀は時折グラスを手に持ったまま動かなかったり、「ねえ、美紀」と肩を叩かれて「えっ、何?」と聞き返し、「もう、聞いてないし」と呆れられたりしていた。酒が入って周りが盛り上がるにつれて、彼女だけが取り残され、沈み込んでいくように思えた。
「ちょっと美紀、飲みすぎだよ」
隣に座った春香が、グラスを取り上げようとした。俺は美紀の顔を、まじまじと見てしまった。あいつは目をそらせた。
二時間ほどで宴会はお開きになった。美紀は「帰ろうよ」と誘われても「もう少し飲んでいたい」と言い通した。もう一軒の居酒屋で二次会、ショットバーに移動して三次会。最後まで付き合った女子は、酒豪の鈴木先輩の他には美紀だけだった。
俺は彼女の隣に座って、好きな映画の話などをしたが、続かなかった。黙ってウィスキーのロックをちびちびと飲んだ。
「やばい、終電」と誰かが言い、店の外に出た。美紀は少しふらつきながら、駅とは反対方向に歩き始めた。俺は横に並んで「大丈夫かよ」と声を掛けた。あいつは、俺の腕をつかんだ。歩くのをやめ、俺の顔をじっと見つめた。それから、がくりと首を折り、こちらにもたれ掛かってきた。俺の腕を、しっかりと胸に抱き寄せている。
「酔ってるでしょ」
「酔ってるよ」
「家まで送る」
雨が、またパラついてきた。タクシーを止めようと大通りに歩きかけたが、美紀は俺の肩をつかんで「嫌だ、帰らない」と言った。

結局、俺は美紀を部屋に連れてきてしまった。なぜか今日に限って、掃除機を掛けてあった。ゴミも出したし、溜まっていた洗濯物も片付けてあった。内心ホッとしつつ、俺は先に立って中に入り、食卓であり勉強机でもあるテーブルの前に座った。
美紀は少してこずりながら靴を脱ぎ、ドサリ、という感じで俺の横に腰を下ろした。部屋を見回そうともせず、テーブルの一点を見つめていた。
「飲み直すか」
俺は本棚に置いてある、実家からくすねてきた、とっておきのスコッチウィスキーに手を伸ばした。
「それとも、麦茶か何か......」
「ごめん、やっぱり帰る」
美紀はバッグをつかんで、立ち上がろうとした。
「待てよ」
あいつの腕を引っ張っていた。美紀はよろけて、俺は背中を抱きとめたのだが、ハッとして、すぐに彼女から離れた。
「いや......帰るのは、いいんだけど。おかしいじゃない、最近。何、悩んでるんだよ」
美紀は唇を噛み、顔をそむけた。
「話、聞くって。俺でよかったら、話、聞くって」
そう言って、肩に手を置くと、彼女は泣き出した。泣きながら、俺の胸に頭を押し付けてきた。甘い香りがした。俺はそっと、肩を抱いた。
しばらくたって、美紀は泣き止んだ。俺は冷蔵庫から麦茶を出してきて、飲ませた。
「好きな人がいたの」
「えっ?」
「でも、彼は......私だけじゃなかったの」
相手は、フリーの報道カメラマンだった。新聞社でアルバイトをしていて、知り合ったのだという。恋愛の打ち明け話だなんて、最悪だ。それなのに俺は「うん、それで」なんて、言っていた。
男はだいぶ年上だったが、美紀は本気で好きになった。「大事にされて、勘違いしたの」と言った。しばらくして、男に、他にも女がいることに気付いた。それからは、男に会うのが辛くなった。「私、知ってるんだからね」と責め立てることも出来なかった。男から何度もメールが来たが、返事をしていない。もう二度と、同じ気持ちになれない......
土砂降りの雨が、屋根を叩いていた。美紀は毛布に包まって、静かに眠っていた。話し終えて、急に酒が回ったらしく、倒れ込むように横になったのだ。俺はひとり、ウィスキーをあおった。気を失うように、酔い潰れてしまえばいい。そう思って、飲み続けた。
自分のいびきが途切れて目が覚めた。部屋の中が明るかった。ぼやけた視界の中に、美紀の背中が見えた。音を消してテレビを見ていた。俺が起き上がると、あいつはテレビを消した。沈んだ声で「昨日はごめんなさい」と言った。
「酔っ払って、嫌な話、聞かせて......本当、迷惑かけちゃったね」
「迷惑だなんて、思ってねえよ。......嬉しかったよ、話してくれて」

それから、俺たちはバスに乗って出掛けた。雨は上がっていたし、気晴らしに、近くの深大寺を散歩しよう、と美紀を誘ったのだ。
バス停のすぐ横には、門前蕎麦屋が並んでいた。美紀は「おなか空いた。お蕎麦食べよう」と言って、俺の腕を引っ張った。
蕎麦は、ウィスキーでただれた胃にもやさしく、うまいと感じた。美紀はよくしゃべった。俺は専ら聞き役だったが、嫌ではなかった。二人だけで出掛けるのは初めてなのに、何度もこうして、テーブルを挟んで食事をしたことがあるように思えた。
美紀がその男に出会わなければよかった。せめて、聞かなければ、知らなければよかった。俺は蕎麦を、もくもくとすすった。
蕎麦屋を出て、参道を歩いた。空は厚い雲に覆われ、ひんやりとしていた。雨で落ちたのか、柳の葉が道一杯に敷き詰められていた。濡れた濃い緑の世界が、俺たちを囲んでいた。
藁葺屋根の山門をくぐり、深大寺の境内に入ると、太鼓と鐘の音が聞こえてきた。俺達は引き寄せられるように、本堂奥の大師堂へ歩いて行った。
階段を登って行くと、賽銭箱の前で、老夫婦が熱心に手を合わせていた。堂の中にも、数人の男女が正座をして、祈祷を受けていた。三人の僧が並んで経を読む祭壇の左手には、もうひとつ別の祭壇があって、白装束の僧が火を焚いていた。
「ああ、これが護摩だ」
「ごま?」
俺は賽銭箱の横に置かれた護摩木を手に取った。
「これに願い事を書いて、あそこで燃やしてもらう。煙が天に昇って、願いが叶う」
「へえ、詳しいね」
「教養科目『仏教の世界』。おととい試験だったからな」
祭壇の炎は赤々と燃えて、時折、高く火の粉を吹き上げていた。
「護摩には、心の中の煩悩とか業とかを、焼き払う、っていう意味もあるらしいぜ」
「煩悩......」
しまった。つい、調子に乗って、余計なことを言ってしまった。美紀は炎をじっと見つめ、それから目を閉じた。胸の前で手を合わせ、動かない。俺はその真剣な横顔を見ていられなくなって、その場を離れた。
境内を、ひとりで歩いた。沢山の絵馬が奉納されていた。そのいくつかを、なんとなく読んだ。俺は今、何を願うのだろう。美紀は、何を祈っているのだろう。
鯉の泳ぐ池の横を通り、また階段を登って戻って来た。美紀は堂の脇にしゃがんで、猫の背中を撫でていた。俺が近付くと、茶虎模様のその猫は、腹を見せて大きく伸びをした。
「あ、寝ちゃったよ、この子」
美紀は俺を見上げて笑った。
「なあ、植物園に行ってみないか。きっと、バラがきれいだぜ」
「うん」
彼女はそう答えて立ち上がった。まあ、ゆっくりいこうか、と俺は思った。

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<著者紹介>
吉田 大祐(東京都三鷹市/38歳/男性/会社員)

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