わたし達は別れる。たぶん、今日を最後に。
 二月の終わり、深大寺にはぼたん雪がちらついていた。うっすらと雪が積もり、山門の屋根は白く染まっている。歩を進める度に足跡が水っぽく残って、雪を踏みしめる感覚がする。
 ざくざくと響く足音は二つ。わたしの少し前でひろ君が白い地面に足跡を残している。マフラーに埋めた顔の、鼻の頭がうっすらと赤い。
 門をくぐると、道の脇に並ぶ葉を落とした木々が雪を纏っていた。色の少ない冬枯れの木は初夏に溢れる緑とは違う趣がある。周りを眺めながらゆっくり歩いていると、道の少し先でひろ君がこちらを振り返って立ち止まっていた。わたしは慌ててひろ君の元へ駆け寄る。
 ひろ君はわたしを見て、小さく口を開きかけたけれど、何も言わなかった。そしてまたすぐ、わたしに背を向けて歩き始める。わたしは、なんとなく、隣を歩くことも、遅くてごめんと声をかけることも、できなかった。

 きっかけは、青いテスト用紙だった。高一の期末テストの日に、わたしは筆箱を忘れてしまった。その時席が隣だったひろ君が、二つ持っているからと、シャーペンと消しゴムを貸してくれたのだ。でもテストが終わった時にちらっと見たら、ひろ君の答案は真っ青だった。本当は消しゴムもシャーペンも一つしかなくて、ひろ君は青いボールペンで答えを書いたのだ。わたしはその時、青いテスト用紙に、恋をしてしまった。
 ひろ君に告白されたのは、高二の初夏のことだ。公園のベンチでとりとめのない話をしながら、ひろ君が切り出すのを、わたしは二時間も待った。遠くで遊んでいた子供の、水色のワンピースをわたしは今でも覚えている。
 新緑が青々と茂る深大寺は、付き合って初めて二人で行ったところだ。まだ恥ずかしくて、距離を置いたままぽつりぽつりと言葉を交わすだけだった。わたし達は手をつなぐのに二ヶ月もかかったのだ。でも、二人でいることが嬉しくてたまらなかった。
 あの時の距離と、今、わたし達を隔てる距離は途方もなく違う。わたしはひろ君の背中を追いながらぼんやり思った。ひとひら、ふたひら、舞い落ちるぼたん雪は音もなく積もっていく。
 
 「茜」 
 わたしの名前を呼ぶ、ひろ君の声が好きだ。だから、ひろ君が戻ってきたことに気付かないふりをして、名前を呼ばれるのを待った。
 「これ、お茶」
 ひろ君はわたしにペットボトルの熱いお茶を手渡した。手袋の中からでも熱が伝わってくる。
 「ありがとう」
わたしは笑って言ったけれど、ひろ君はすぐに目を逸らした。また何か言おうとしてやめる。白い吐息が微かに漏れた。
 「あの、鐘みたいのなんだろうね」
 わたしは屋根の下にある大きな鐘を指差して言った。
 「さあ。鐘じゃない」
 ひろ君はそっけなく返す。二人してしばらく鐘みたいなものを眺めていたけれど、今度はわたしがすたすたと歩き出した。ひろ君は隣には並ばず、少し後からついてくる。
 微妙な距離を保ったまま、無言で歩き続けていたら、「別に」という、ひろ君のそっけない言葉を、ふと思い出した。クラスメートの男子に、わたしの事を好きなんだろう茶化されて、ひろ君は「別に」と言ったそうだ。
 ごめん。おれ、浪人するから、別れようか。夜の公園でそう言われたとき、わたしは頭が真っ白になった。ごめん、会えなくなるし、茜は別れた方がいいよね。しんと静かな闇の中で白い吐息が揺れていた。真っ白な頭に浮かんだのは、青いテスト用紙でも、水色のワンピースでも、初夏の緑溢れる深大寺でもなく、「別に」という色のない言葉だった。その言葉が照れ隠しだということくらい、わかっていたのに、わたしは思わず頷いてしまったのだ。
 最後のデートの場所に、ひろ君は深大寺を選んだ。初めてのデートと同じ場所を。その意図がわたしにはわからないけれど、だからわたしは今こうして深大寺に来ている。それで、わたし達は別れる。たぶん、今日を最後に。
 わたしは先ほどのひろ君と同じように何も言わずすたすたと歩いた。雪を踏みしめる感覚が少し心地いい。
 「茜」
 ふいに名前を呼ばれ、わたしは少し驚いて振り返った。ひろ君が真っ直ぐにわたしを見ている。
 「どこ行くの?本堂、こっちだよ」
 ひろ君は少し笑いながら、目の前の大きな建物を指差した。わたしの足跡は本堂とは別の場所へ向かおうとしている。
 「あ、ごめん」
 わたしが俯いて言うと、ひろ君はわたしの隣に並んだ。そして小さな声で、行こう、とわたしを促した。
 わたし達は屋根のあるところまで、雪の薄く積もった階段をのぼる。息が白く染まって、音もなく消えた。階段をのぼりきると、それぞれ傘を閉じる。溶けた雪がぽたぽたと傘から滴り落ちた。
 「寒いね」
 なんとなくわたしが言うと、ひろ君は頷き、顔を埋めていたマフラーをほどき始めた。
 「マフラー、巻きなよ」
 そしてマフラーをわたしの首元に巻こうとする。毛糸のふわりとやわらかい感触がした。
 「いいよ、大丈夫」
 わたしが慌てて言っても、ひろ君は聞かない。わざわざ手袋を取って、丁寧にマフラーをぐるぐると巻いてくれる。ひろ君の鼻は真っ赤で、手も微かに震えていた。ふいに、骨ばって男らしいひろ君の手が一瞬、頬に触れた。
 手をつなぎたい。わたしは、自分でも驚くほど強く、そう思った。ひろ君の手に触れたい。どうしても触れたい。押さえ込んで蓋をしていた感情がどっと溢れ出す。
 わたし、ひろ君と、別れたくない。
 「できた」と、ひろ君は微笑みながら、マフラーから手を離す。かじかんで少し赤くなった手が視界の端で見える。マフラーの巻かれたわたしの首元は、泣きたいくらい暖かかった。しんしんと雪が降り続けている。
 「お参りしよう」
 ひろ君はそう言って、段差を一段上がった。わたしもひろ君の後に続く。財布を開けて、小銭を取り出した。勢いよく投げると、賽銭箱の奥へと滑り落ちていった。
 お参りと言っても何を願えばいいんだろう。
願うことなんかひとつしかないのに、もうひろ君の隣にはいられないんだ。
 それでも、わたし達は隣り合って手を合わせた。目を瞑ると、余計にひろ君が隣にいる気配を強く感じる。
 「おれ、よくここ来るんだ」
 ふいにひろ君が言った。わたしは小さく相槌を打つ。そうなんだ。
 「深大寺って、縁結びの伝説があるんだよ。だから、茜に告白する前とかお参りしたし、付き合えた時も、上手くいきますようにって、茜をここに連れて来たんだ」
 ひろ君は一息にそう言った。
 「だから今日も、ここに来れば上手くいくかなって」
 そこで言葉を切った。真剣な瞳が真っ直ぐにわたしを見ている。
 「おれ、別れようなんて言ったけど、その方が茜の為になるかと思ったけど」
 ひろ君の言葉をかみ締めようとすると心臓が驚くくらい早鐘を打つ。
 「やっぱり、おれ、続けたい」
 鼻の奥がつんと痛くなって、涙が浮かぶのを感じる。そうだ、そうだった。ひろ君はいつも、大事なことをするのに時間がかかるんだ。そしてわたしはいつも、受身ばかりで、本当のことを言えずにいる。
 「ひろ君」
 わたしはひとつ息を吸った。声が少し震えてしまうのがわかる。そうして、一息で言った。
 「わたし、ひろ君が好き。わたしもひろ君と、別れたくない」
 ひろ君ははじかれたようにわたしを見た。信じられない、というような顔をして、すぐに安堵の表情が顔中に広がった。ため息を大きく吐くと、白く染まって広がった。
 「よかった」
 小さく呟いたひろ君の手を、わたしは握った。ひろ君の手はやっぱり冷たくて、少し乾燥している。わたしよりも大きい手のひらを暖めてあげるために両手で包み込むようにした。ひろ君は何も言わずにそうするわたしの顔をじっと見ている。
 やがてわたしはひろ君の手を引いた。
 「行こう」
 わたし達は本堂の階段を手をつないだまま降りた。そこから見える景色は雪で白く染まっていて、ところどころに木々の茶や傘の色が見える。わたしはその景色を、一生忘れないだろうと思った。色が少ない寂しい景色で、なんだか寒々しくて、でも、驚くくらい、きれいだった。

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<著者紹介>
大谷 朝子(千葉県浦安市/19歳/女性/学生)

海水浴に行ったとき、浜辺で寝そべって日焼けするのを『こうらぼし』って言うけれど、サンオイルの代わりに体中にコーラを塗って焼くことだってずっと思ってた。
今、深大寺の池の真ん中に突き出た切り株に、数匹の亀が折り重なるようにして群がって日光浴しているのを見て、それが『甲羅干し』だということを始めて悟った。
この大発見をあかりにも教えてやろうと思って言ったら、ひと言
「あんたって、昔っから馬鹿だよね」
と、呆れられた。
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと絵描きなさいよ。夏休みの宿題終わらないでしょ」
「おまえウチのおふくろみたいだな」
「あんたにおまえなんて呼ばれる筋合いはありません。私にはちゃんと『あかりちゃん』って可愛い名前があるんだから」
「だったら、俺だってあんた呼ばわりされる覚えはないよ。都知事と同じ『慎太郎』って立派な名前があるんだから」
「名前負けね」
いつの頃からだろう。小さい頃はお互いに『あーちゃん』『慎ちゃん』って呼び合っていたのに。中学生になった今じゃ『あんた』『おまえ』なんて呼ぶようになってしまった。で、毎回同じ議論を重ねて結局は『あかり』『慎太郎』って名前を呼ぶことに落ち着く。幼馴染っていうのはこんなもんだろうか。
「でもさ、今更なんで深大寺でスケッチなわけ?他にもいいところあるでしょ」
「近いからに決まってるじゃん。それに」
「それに?」
それに、深大寺に奉られているのが縁結びの神様だからと言えるわけがない。
「いや、なんでもない」
「変なの。ま、いいけどさ。深大寺久しぶりだし。丁度スケッチもしたかったから」
「だろ?近いと逆に足が遠のくからさ。新鮮でいい絵が描けるよ」
なんとかごまかせたみたいだ。
とどのつまり僕はあかりに惚れているらしいのだ。らしいって言うのは自分でも実はよくわかっていないからだ。あかりのことを急に意識しだしたのは、2年のクラス替えで同じクラスになってからだ。1年のときは別々のクラスだったから挨拶を交わすぐらいだったけれど、同じクラスになって毎日顔を合わすようになると、なんだか段々とあかりがまぶしくなってきたのだ。洒落じゃなくて。
あかりにしてもまんざらじゃないらしいのは、態度を見ていればわかる。わかるような気がする。いや、そう思いたい。
このままずっと幼馴染のままか、彼女にクラスチェンジするかはわからないけれど、今日はもやもやした僕の気持ちと、あかりの気持ちを白黒つけるべく、僕はある計画を立てていた。題して『深大寺で手をつなごう大作戦』である。これを遂行すべく僕は美術部のあかりに夏休みの宿題の絵を見てもらうという口実をつけて、深大寺まで連れ出したのだ。
が、元来の凝り性が災いした。僕は、スケッチに夢中になって、下書きがようやく形になった頃には、太陽は既にてっぺんまで来ていた。続きは腹ごしらえをしてからにして、僕らは深大寺名物のそばを食べることにした。
坂道を登って植物園の裏にあるそば屋に入ると僕らは屋外にある木陰の席に陣取った。
しばしの間おしながきとにらめっこして、あかりは十割そば、僕はニ八そばを注文した。
「やっぱ深大寺に来たら、そば食べなきゃね」
「十割そばっていい香り。慎太郎も十割そばにすればよかったのに」
「てやんでい!江戸っ子はニ八と相場が決まってるんでい!」
「あんた多摩っ子じゃない」
「ニ八の方がのどごしがいいんだよ」
「ニ八そばってことはさ、おそばが200gとして160gがそば粉で残りが小麦粉でしょ?40gも損してるじゃない」
「それぐらいの計算できるさ。これでも期末の数学97点だったんだぜ」
「慎太郎、昔っから算数得意だったもんね」
「あかりは数学何点だったのさ」
「何点でもいいでしょ!」
僕はあかりが数学が苦手なのを知っていた。知っていてわざと聞いてみた。好きな子に意地悪したいっていうアレだ。
ちょっぴり気まずくなった僕らはしばらく無言でそばをすすった。
「慎太郎さ、高校ってもう決めた?」
「いや、まだ決めてないけど」
「やっぱさ、近くの普通科高校がいいよね」
「どうだろ。俺、数学が得意だから普通科より理数科の方が向いてるかもね」
「遠くの高校に行っちゃうの?」
「わかんないけどさ。理数科なら私立の男子校とかでもいいかななんて」
「そんなとこ行ったらいっしょな高校に行けないじゃない」
「あかりこそ、女子高とか行ったらいっしょにならないじゃん。あかりんとこのおばさん、あかりを自分の母校のお嬢様学校に入れたがってるって聞いたぜ」
「女子高なんか行かないよ。女子高なんか」
それっきりあかりはうつむいて黙ってそばをすすった。伸ばした前髪が垂れて表情がわからなくなった。ずるずるいう音がそばをすする音なのか、べそをかいたときのはなをすする音なのか僕にはわからなかった。

午後からはスケッチに水彩絵具で色を着けた。照りつける太陽の下、絵具はすぐに水分を失って乾いた。僕はパレットの絵具に何度も水分を補給しなければならなかった。
凝り性の僕と絵に関しては妥協を知らない熱血美術部員のあかりの指導のおかげで、絵が完成したときには日は西に傾きかけていた。
片付けが終わると僕らはせっかくだから、深大寺の周りの店をひと回りすることにした。なにしろ『深大寺で手をつなごう大作戦』も頓挫したままだったし。
「慎太郎、ソフトクリーム食べようよ」
「いいね。俺、バニラね」
「私、マンゴーにしようっと」
僕らはお店のひとにお金を払って、思い思いのソフトクリームを受け取ると、スケッチブックと画材を片手にぶらぶら店を見て歩いた。
「やっぱりソフトはバニラに限るな」
「マンゴーだって美味しいよ」
「シンプルイズベストなの。例えばさ、好きな女の子がいたとして、たまにはマンゴー色も刺激的だけど、やっぱり白がいいわけよ。男としては」
「それなんの話?」
「パンツ」
間髪いれずに、あかりの肘鉄がミゾオチに入った。あまりにもキレイに入ったので一瞬息が止まった。不覚にも手に持っていたソフトクリームをポトリと落としてしまった。
「あー、まだ半分以上残っていたのに」
「慎太郎が変なこと言うから。ゴメン」
「いや、いいよ。俺も悪かったし。それより落としたソフトクリームを片付けなきゃ」
僕は近くのお店の人に声をかけて新聞紙を分けて貰った。落ちたソフトクリームのコーンを拾い、石畳についたクリームを新聞紙で拭きとってまるめると、もう一度お店のひとに頼んで捨ててもらった。
「これでよしっと。拭き取りきれなかった分はアリさんへのプレゼントってことで」
「そういうとこ、慎太郎のいいとこだよね」
「性分なだけだよ」
「私のマンゴーソフトあげるよ。半分以上落としちゃったでしょ?私はもういいから」
「サンキュー。ありがたく貰っておくわ」
僕はあかりの食べかけのマンゴーソフトをひと口舐めた。口の中に甘酸っぱいマンゴーの香りが広がった。
「これってさ、間接キスだよね」
「そんなこと言うなら返せ!」
「ムリーッ」
僕はマンゴーソフトをいっぺんに口に押し込んだ。コメカミにキーンと痛みが走った。
「イテテ。チョー頭イテーッ」
「冷たいものをそんな急いで食べるからでしょ。子供なんだから」
「返せったって、もう食べちゃったよー」
「いいわよ、あげたんだから。食べ終わったんならバス停まで競走よ!ヨーイドン!」
「おい、待てよ、あかり」
全くどっちが子供なんだかわからない。僕はあかりを追いかけて人のまばらになった石畳の上を走った。バス停の手前にある車止めのところで、僕はようやくあかりに追いついた。
「あかり、勝手に競走なんて、ずるいぞ」
「か弱い女の子に対するハンデよ。それよりさ、あれ見て」
言われるままにあかりが指し示す方を見ると、バス停でおじいさんとおばあさんが仲良く手をつないでバスが来るのを待っていた。
「なんか、いいよね。歳をとっても仲良しってさ」
「だね」
しばらくの間、僕らは仲良し老カップルをながめていた。
「あーちゃん」
「なに?慎ちゃん」
なぜか小さい頃の呼び名であかりを呼んでしまった。同じくあかりも小さい頃の呼び方で答えた。
「手つなごうか」
僕はおじいさんとおばあさんに視線を向けたまま言った。怖くてあかりの顔を見ることができなかった。けれども、全部の神経は目の端に映るあかりをとらえて離れなかった。
「ん・・・」
あかりがこくりとうなずいたのが、目の端に映った。
西日が僕らのほほをマンゴー色に染めた。


前山 尚士(東京都調布市/男性/会社員)

 このバラの名前はね、ジプシーの血、というのです。
 なぜ笑うのかって?面白いわね。あなたに似た方のことを思い出したの。その方も私に同じことを尋ねたわ。このバラの名前はなんというのでしょうか、って。
 その方も、バラがとてもお好きでした。本当に、この庭に迷い込んでこられた理由も、あなたとまるで一緒。深大寺を裏手から南に抜けようとして、道を見失ってこのわき道に迷い込んだのです。そう、あなたがいらした植物公園の方からね。
 なぜ、ジプシーの血、というのかしらね。この血のように赤い色のせいでしょうか。目に焼きつくようなこの色が、体の中の血と呼応して、彼の地でジプシーがかき鳴らす、すすりなくようなヴァイオリンや、ツィターのメロディーを思い起こさせるのでしょうか。
 あの方は、このバラの名前を聞いて、ヨーロッパの音楽家の名前をいくつか口にされました。この縁側に座って、バラを見ながら、「これらは皆、友好国の作曲家ですから、まだ聞くこともできるのです。」と微笑まれて。
 そう、あの方と私が出会ったのは、あの戦争の最中のことでした。あの方は航空士官学校の生徒さんで、私はまだ女学校の生徒でした。あんな時代でしたもの、若い殿方と二人きりで庭に座っている姿を見られでもしたら、と、私は気が気でなかったのを覚えています。でもあの方はとてものんびりした方で、そんなことは気にもなさらず、「水を一杯下さいませんか、調布の水はおいしいと聞いているので。」なんて、のんきなことをおっしゃるのです。私は、今にも、家の者が奥から出てきたりしないかしら、と、ひたすらはらはらしていたのを覚えています。
 そう、こんなおばあさんにも、殿方に胸ときめかせる青春の頃があったのです。別れ際、あの方は、もう一度、この庭のバラをじっと見つめていらっしゃった。その視線があまりに真剣なので、私は思わず、「一枝、お持ちになりますか?」と尋ねていました。その時のあの方の晴れやかな笑顔で、私は一度に恋に落ちてしまったのです。
 とはいえ、お互い名前も名乗らず、素性も知れず、もう二度と会うこともかなうまい、と思っていましたのに、所沢の親戚の家に遊びに行った先で、私は偶然あの方をお見かけしたのです。あの方は所沢の陸軍航空学校にいらっしゃって、その日は水練ということで、狭山湖での訓練に参加されていたのでした。ちょうど私達家族が、湖のほとりを散策している時でした。私達の傍らを、隊列を作って走る制服姿の中に、あの方のお顔を見つけた時、私は本当に息が止まるかと思った。あの方もこちらに気づかれて、かるく会釈を返してくださいました。でもそれだけで、私は本当に天にも昇る心地で、真っ赤に染まった頬を家族のものに気づかれないよう、ずっとうつむいて歩いたのを覚えています。
 あの方は航空兵になられるのだ。そう思いました。あの方は空を飛んで海を渡る。狭い狭い操縦席の中で、自分の四囲の全てを風に包まれて、トンボのように儚く、鷲のように雄雄しく、幾千里の彼方まで空を行く。その日から、毎朝私は、朝起きるとまず一番に庭に出て、空を見上げ、両手を広げて目を閉じるようになりました。体中に風を感じたい。あの人と同じ風を感じたい。名前も知らない、ただこの庭で、美しいバラを見ながら、二言三言の言葉を交わしただけのあの方と、この青空で私はつながっている。そう思うだけで、私は幸せでした。
 戦局が次第に悪くなり、深大寺の近辺も灯火管制がしかれ、空襲警報の不安なサイレンが鳴り響く日が増えてくると、私の幸せは不安に変わりました。あの方は今、どこで、どんな飛行機に乗っているのだろう。敵の機銃掃射をかいくぐりながら飛ぶのは、どれほど恐ろしいことだろう。どれほど孤独なことだろう。薄い風防ガラスの向こうは、何一つ体を支えるものとてない虚無の空間が広がっている。機銃掃射で機体が打ち抜かれれば、たとえ小さな傷であっても機体はバラバラになる。あの方はそれでも空を飛ぶのだ。死と隣り合わせの危険の中へと飛び立つのだ。ただ、私達を守るために。
 あの方がどこに配属されたのか、どこの空を飛んでいるのか、それも全く分からぬまま、私の心は、毎日毎日、不安で締め付けられるようでした。そして、夏が過ぎ、秋をむかえ、再び庭のバラがつぼみを開き始めたころ、あの方は突然、再び、私の庭を訪れたのです。
 あの方は立派な航空士官の制服を着て、玄関先で私に向かって背筋を伸ばし、敬礼をされました。私はもう、呆然として涙も出なかった。あの方が覚えていて下さったこと、この日本で、再び会えたこと。その嬉しさよりも何よりも、あの方の厳しい表情が、私の胸を突いたのです。
 あの方は、ご自分の名前を名乗り、飛行第244戦隊所属の少佐であるとおっしゃいました。以前の非礼をお詫びになり、偶然、調布飛行場に着任したので、どうしても私に頼みたいことがあって来た、とおっしゃいました。
 「このバラを一輪、操縦席に飾りたいのです。」あの方はおっしゃいました。「飛燕の操縦席は狭苦しくて、少しでも潤いが欲しくてね。」
 そうおっしゃりながら、あの方は、軍人の癖に女々しい男と笑われますか?と、恥ずかしそうに微笑まれました。私は必死に首を横に振りました。首を横に振りながら、私はただ、涙をこらえておりました。なぜあんなに胸が詰まったのか、私にも分からない。私は群れ咲くバラの中から、なるべく長くもちそうな、丈夫なつぼみを選びに選んで、あの方にお渡ししました。心の奥の底の方で、「これは私です」とつぶやきながら。これは私です。私の分身です。私はいつも、あなたの側におります。操縦席のあなたの側にいて、ともに空を飛び、いつでも、どこでも、あなたとご一緒いたしましょう。
 その願いが届いたのでしょうか。私は確かに、あの方の最期の瞬間を自分で見ることができたのです。体験することができたのです。あれは本当に、不思議な瞬間でした。
 空襲警報が鳴り、私が家族と共に、真っ暗な家の中で小さく震えている時でした。目を閉じた私の周囲で、いきなり風が吹きました。ふわり、と体が浮かび上がったような感覚がして、思わず目を開くと、目の前にあの方がいらっしゃいました。あの方は必死に操縦管を握って、すさまじい風の音が荒れ狂う中を、ひたすらひたすら空高く上っていくのです。その視線の先を追ってみれば、風防ガラスの向こうに見えるのは、禍々しい黒いB29の編隊の影です。あの方は、その影に向かって、ひたすら機体を上昇させていくのです。
 飛燕の操縦席の中は、むせるようなバラの香りで、それは私の体から発せられているのです。あの方は一瞬その香りをかいで、小さく微笑まれました。機体のすぐ側で、風とは違う鋭い音がかすめていきます。B29が機銃掃射を浴びせ、あの方の飛燕の翼が、激しくバンバン、と音を立てました。翼から燃料が霧のように噴出します。それでも、あの方は微笑んでいました。微笑を浮かべたまま、あの方はご自分の飛燕を旋回させて、そのまま、真っ黒いB29の機体の影の真ん中に突っ込んでいったのです。
 その刹那、私の体は、私の家の真ん中に戻っていました。私は思わず、家族が止めるのも聞かず、家の外に飛び出しました。見上げた空に、一機のB29が、真っ赤な炎を上げてゆっくりと落ちていくのが見えたのです。その炎は本当に血の色のように、このバラの花弁のように鮮やかに、私の網膜にくっきりと残像を残してやきついたのです。
 考えてみれば、私は、あの方に4度しかお目にかかりませんでした。お言葉を交わしたのはたったの2度。1度は、本当か幻かも分からない夢のような時間の中で。それでもその4度の出会いで、私は自分の生涯の恋を、全て燃やし尽くしてしまったのだと思います。
私も年を取りました。この家に住んだ私の家族も全てこの世を去り、あの方のことを覚えているのは、私と、この咲き誇るバラだけとなりました。あなたもバラがお好きなら、ジプシーの血、という名を持つバラをご覧になった時、むかしむかしの若者達の、儚い恋の物語を、思い出してやってくださいまし。バラが好きだった少女と、遠いヨーロッパの音楽が好きだった若者が、この空で燃やした恋の炎の物語を・・・

 ・・・老婆が語る物語に耳を傾けていた私が、ふと気づいてみれば、私の傍らに確かにいた、小さな品のいい老婆は姿を消していた。振り返ってみれば、古い、けれど趣味のいい瀟洒な家屋、と見えた家は荒れ果てて、縁側についた私の手のひらは埃にまみれている。はっとして立ち上がってみれば、あれほど豪奢に咲き誇っていたはずの真っ赤なバラは枯れ果てて、茶色く無残な枯れ枝が、雑草の生い茂る庭の中で、初夏の風に揺れているばかり・・・
 と、ふと私は、その初夏の風の中に、濃厚なバラの香りを一瞬嗅ぎ取った。でもそれも一瞬のことで、風はそのかすかな香りの記憶を包み込み、一散に青空の彼方へと駆け上っていく。二人の恋が花開いた、遠い成層圏の彼方へと・・・

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<著者紹介>
北 教之(東京都調布市/44歳/男性/会社員)

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