だるま市から降り出した雨は、二日過ぎても降りやむ様子はなかった。
 深大寺裏門側にある、高台の小さな蕎麦畑の溝を雨水がえぐるように流れていく。
 時刻は午後一時過ぎ。火の気のない物置小屋で、震える脛を抱いていても仕方がない。
 約束の時間には、一時間ほどあったが、清は油障子を引いて、女が待つ深大寺の本堂へと向かった。
 幸子と会うのは、五年ぶりだった。
 清が深大寺村を出たのは、十五の頃。"金の卵"ともてはやされ、浅草で店を構える和傘職人のもとへ徒弟奉公に出されて以来、会っていない。
 親方は本場・加賀で修業を積んだ男だった。朝晩は掃除、飯炊き等でこき使われ、日中は骨作りやろくろなど、傘作りの工程を厳しく仕込まれた。見慣れ聞き慣れで、拳固で殴られることも日常茶飯事。乱暴な下町なまりが染みつく頃には、清の体にがっしりとした肉がつき、背丈も五寸ほど伸びていた。
 幸子も変わっただろうか――。
 頭に残るのは、ふっくらとした頬。人懐っこい垂れ眼がちの瞳、野良仕事で真っ黒になった手。しかし、浅草の寺町を歩く十八の娘は、皆一様に眩しく見える。村娘とはいえ、少しは女らしくなってるはずだ。
 右手には、清がこさえた和傘があった。
 歌舞伎の演目"助六由縁の江戸桜"の主人公・助六が使った傘と同じ。
 農家の娘には少し派手かもしれないが、きっと喜ぶにちげえねぇ。
 心臓が早鐘のように打ち、泥道を踏む音が次第に大きくなってくる。
 この日を待っていたのだ。清は藁葺きの山門をくぐった。

 幸子と最後に会ったのは、浅草へ旅立つ前の晩のことだ。清が早めに床につこうとすると、幸子が訪ねてきた。
「寝入りばなに、気の利かねぇヤツだな」
 両親の手前、わざと不機嫌な言葉を吐いて戸を開く。外は春雨だった。
 濡れた幸子が萎れるように立っていた。
「こんな遅くにどうしたんだい?」
「キヨちゃん、ごめんね。明日早いのに...」
 聞こえていたらしい。慌てて首を振った。
「いや、別に...、いいんだ。別れの挨拶に来てくれたんだろ。ありがとな」
「うん...」幸子は頷くと、深くうつむいたまま、それ以上言葉を発しなかった。
「ちっと歩こう」しとしと降る雨粒を背で受けながら、二人は無言で歩き出した。
 自然と足は深大寺へと向いた。山門がうっすら見えてくる頃、不意に幸子は顔を上げた。
「明日から、油屋さんの所でお世話になることになったの」
 村一番の豪農の屋号を上げた。
「ちゃんが金を借りて、返せなくなったから、住み込みで畑や台所を手伝うんだ」
 幸子の父が、胸の病で働きが悪くなっていることは聞いていた。
「だ、大丈夫か?」声が大きくなった。
 清は女を知らなかったが、大人たちの会話から、油屋の主人が下女に手をつける男だということは知っていた。
 清の表情から、心情を悟ったようだ。幸子は耳を真っ赤に染め、顔の前で手を振った。
「奥様もいるし、器量の悪いあたいなんて、箸にも棒にもかからないから」
「そうならいいけど...、気をつけろよ。お前より若い子を孕ませたって噂も...」
 そこまで言って、ませた口を利く自分が好色に思えて、口をつぐんだ。つられて、幸子の態度もぎこちなくなった。
「それじゃ、あたし、もう帰る」
「帰る方向は一緒だろ」
 清はまだ話足りない気がしていた。
 幸子は清の問いには応えず、ぺこりと頭を下げると、背を向けた。すると今まで感じたことない気持ちが沸き上がってきた。
 物心ついた頃から、小さな村で家族同然に暮らしてきた。でも明日になれば、幸子と気軽に会うこともできなくなる。雨に叩かれる幸子の後ろ姿がいじらしく思えた。
 清は水たまりを割って走り出した。
「五年だ、五年辛抱してくれ」
 追いついて、肩を掴んだ。振り向いた幸子は、目を見開いた。
「奉公を終えたら、必ず戻ってくる。五年後の今日、また会おう。なっ、約束だ」
 一拍置いた後、すがるように見つめ返す瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「いつ...、どこで会うの?」
「深大寺の本堂だ。時間は昼の二時」
「きっとだよ」何度も確かめようとする幸子の両手が、清の手に重ねられた。
 その手の温もりは、雨音と共に清の中へしっかりと根を下ろし、いつしか辛い職人修業の支えとなっていった。

「おかしなこと、考えてはいないだろうね」
 母の米が探るような目で、幸子を見た。
「おいで、和彦」三歳になる孫を呼び、母の前に立たせる。
「この子まで不幸にするつもりかい。あたしも油屋のことは好かんが、生きていくためには、絶対に側から離れたらいかん」
 情に流されてはならぬと、米は諭すように繰り返した。
「分かってるわよ。今この家を放り出されたら、どうなるかってことくらい――」
 幸子が油屋で働くようになって、数ヶ月が過ぎた頃、油屋の妻が流行病で亡くなった。
 幸子が身の回りの世話をすることとなり、油屋の触手が幸子に伸びた。
 翌年に和彦が生まれ、貧困にあえぐ両親も、油屋の離れへ身を寄せることとなった。
 どっぷりと油屋の金に浸かっている今の私を見て、清はどう思うだろう。
 五年前の夜にかわした約束は、半端なものではなかったと思う。幼い二人が夫婦になろう、と誓い会ったわけではないが、心が痛いほどに重なるのを感じた。
 油屋に身を任せるたび、あの人に会うまでの辛抱だと思えたからこそ、耐えることができた。
 けれども、今日深大寺に行かなければ、私を待つ人は誰もいなくなる。明日からは平坦な暗闇が広がり続けるだけだ。
 雨脚が衰えつつあった。幸子は意を決し、身支度を整えると、母の隙をみて母屋を出た。
 和彦に対する負い目がなかったといえば、嘘になる。が、一旦家から出ると、若葉に落ちた滴が跳ね返るように、幸子は走った。
 雨に洗われた参道脇の緑は濃く香り、湿り気を帯びた石は黒々と輝き始める。
 この日を待っていたのだ。心浮き立つ自分を押さえきれなかった。
 ただ、すでに時刻は午後四時過ぎ。あの人は、もう帰ってしまったかもしれない。
 裾を捲り上げ、山門を駆け上がると、本堂には青白い顔で座り込み、頬杖をついている男がいた。清である。幸子が走り寄ると、弾けるように立ち上がった。
 堰き止めていた思いが、一気に溢れ出た。その胸へぶつかるように、幸子は飛び込んでいった。清の胸板は厚く逞しかった。
「会えてよかったぜ。お前のこたぁ、一日たりとも忘れたことはなかった」
 懐かしい匂いに包まれ、言葉が震えた。
「あたしもよ。ずっと...、ずっと待ってた」
 確かめるように、両腕へ力を込めた。
「たまげるほど、別嬪になりやがって。待てど暮らせど来ねえから、約束を忘れたか、はたまた、どこぞの嫁になったかと思ったぜ」
 そう清が囁いて、頬を寄せようとした時、幸子は身を固くした。汚れきった自分には、その資格がないと思った。
 清も慌てて身を引いた。
「す、すまねえっ。つい昔のつもりでよ」
「いえ、違うの。悪いのは、私...、ごめんなさい、本当にごめんなさい...」
「おい、おい、めそめそ泣くなって。俺も浅草で、カ、カカァが待ってるのに、助平心を出しちまった。こっちこそ、すまねえ...。そうそう人生、思い通りにいくわけねぇよな」
 清は末尾を飲み込むように言った。
「そうだ。今思い出したんだけどよ。明日朝一番で仕事があってな、今からとんぼ帰りさ。
 小さな村だ。誰かに見られるといけねぇ、おめぇもさっさと帰りな」
 この人と夫婦になっていたら、どんなに幸せだったことか。切なさが込み上げてきて、失った物の大きさを知った。
「キヨちゃん、もう一遍だけ、約束して」
 清との糸が、ぷつんと切れてしまえば、それまでだ。
「お願いだから、五年たったら、再びこの深大寺で会うと...」
 傘も差さずに、あばよと走り出そうとした清の袖をひっしと掴んだ。
 嘘でもいい。清との約束があれば、生きてゆける。
「おっといけねえ、コイツを渡さずに帰っちまうとこだった」
 清は笑顔を作ると、朱色と白の円が織りなす色鮮やかな蛇の目傘を押しつけてきた。
 開くとパリパリと音がして、油の匂いが広がった。作り手の心を映し出すきめ細かな作り。勿体なくて、差せやしない。
「気にせず差せよ。五年後にゃ、もっと出来のいい傘を持ってくる。もしかしたら十年、いや、それ以上になるかも知れねぇけどよ」
 胸が詰まった。深大寺に来たのは、間違いではなかったと心から思った。
「じゃあな、今度こそ行くぜ」と歩き出した清に、二日ぶりの薄日が降り注ぎ始めた。
 微かに震えながら遠ざかるその背中へ、幸子は「ありがとう」と呟いた。

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<著者紹介>
増子 哲人(東京都世田谷区/35歳/男性/会社員)

「腹、減ったァ!」
 靫彦は大声で言うと、隣を歩く僕の顔を見て、ヘラッと笑った。力の抜けた、無意味で柔らかい笑顔だ
った。
 僕等は、深大寺水車館の前を通り過ぎて、鬼太郎茶屋の方向に歩いている所だった。
 陽が傾いて観光客の姿が減ったからか、ひぐらしの鳴き声が大きく聞こえた。空も木々も建物も、打ち水された石畳も赤く染まり、一日の余韻を味わうような、穏やかな空気が通りに流れていた。
「声がデカイよ」
「お前、気にしィなのなァ」
「お前が、しなさ過ぎんの」
「でも、お前のそうゆう所、オレ、好きよ」
 靫彦は言って、再びヘラッと笑った。
「ヨモギモチが好き」と、違いがないのは分かってる。でも、面と向かって言われた好きに、何と返していいのか分からなかった。僕は口に拳を当てて咳払いした。
 夏休みの宿題に出た自由研究の為に、神代植物公園に来た帰りだった。植物の写真撮影と資料集めを終えると、靫彦が水車館を見たいと言い出した。
 なんであんな物が見たいのか、僕にはまったく分からない。渋る僕に、靫彦が必死に頼み込んだ。言う事を聞かなければ、座り込んで泣き喚きそうな勢いだった。仕方ナシにやってくると靫彦は、大きな水車に、頭のネジが飛んだようにはしゃいだ。
 バカと子供はデカイ物が好きだ。
 僕は少し呆れてそれを見ていた。でも、そのはしゃぎ方は、なんだか見ているこっちも楽しくさせて、なかなか帰ろうとは言い出せなかった。
 僕は、頭を振りながら鼻歌を唄う靫彦を見た。中学の三年間ずっと一緒のクラスだ。性格も趣味も考え方も違うのに、出会ってすぐに仲良くなり、何故かいつも一緒だった。
「なあ、蕎麦、食おうよ」
「鬼太郎のトコで、ぜんざいでも食えよ」
「バカだなァ。お前、賢いのにバカな」
「何で?」
 僕はムッとして言った。頭の作りはトカゲ程度と言われる靫彦に、バカ呼ばわりされたくなかった。
「こんなに腹減ってんのに、ぜんざいぐらいで足りる訳ねェじゃん」
「お前の腹の空き具合なんて知らないよ」
 靫彦は立ち止まってじっと僕を見つめた。戸惑って見つめ返すと、靫彦はヘラッと笑った。僕もつい笑い返す。靫彦は歩き出した。
「おいっ!」僕は靫彦に駆け寄って言った。「今の何だよ?」
「何だか怒ってるぽかったから......いつもオレが笑うと、だいたい許してくれるじゃん。だから笑ってみた」
 靫彦は、あっけらかんと言った。僕は自分の気持ちを見透かされた気がして、気恥ずかしさからカッとなった。
「何だよ、それっ!」
「どこで食う?」
 僕の声に被せるように、靫彦が言った。僕は言葉を失って靫彦を見つめる。靫彦は、僕がカッとした事に気づいた様子もなかった。
「あれ? 今、何て言った?」
 僕は笑い出した。靫彦が不思議そうに僕を見た。僕はいつだって、靫彦に敵わない。
「何、何? 何が面白れェの?」
「顔」
「そりゃ、お前の立派な顔に比べればね」
「立派な顔って何だよ」
 僕がそう言うと、靫彦は両手で僕の頬を挟んで、息がかかるほど顔を近づけた。僕は金縛りに合ったように動けなくなり、息をする事さえできなかった。
「お前の顔って、本当に丁寧に作ってあるよねェ。ゲーノー人になれば?」
 湯気が出そうなほど顔が熱くなり、心臓の音が、周囲の雑踏の音をかき消すほど大きくなる。靫彦は、僕の動揺に気づかないのか、気にしていないのか、じっと僕の顔を眺めながら「てーねーなのねェ」と、バカみたいに呟いた。
「放せよっ!」
 僕は靫彦の手を振り払って、勢いよく身を引いた。背中が、通りかかった老婆にぶつかり、老婆の持っていた紙袋が落ちた。
「あ、ごめんね、バーチャン」
 言ったのは靫彦だった。僕は動揺が収まらず、声を出す事さえ出来なかった。靫彦は、飛びつくようにして紙袋を拾い上げ、ニッコリと微笑んで老婆に渡した。
「ホント、ごめんね」
 靫彦が言うと、老婆は靫彦の笑顔につられて微笑んだ。しかしすぐに、謝らない僕を睨んだ。
「こいつ、繊細で人見知りだから、すぐに声が出ないのよ」
 靫彦は言って、僕の背中を叩いた。
 それを合図に僕が勢いよく頭を下げると、老婆はびっくりして身を引き笑い出した。
「ね、面白いでしょう? こいつ」
 老婆は笑いながら靫彦に向かって頷き、僕等二人に頭を下げて歩いて行った。
「お前が悪いんだからな」
 老婆の姿が小さくなってから僕が言うと、靫彦は不思議そうな顔をした。
「急に......顔なんか近づけるから......」
「ダルマがある蕎麦屋にしよう」
「聞いてる?」
「オレ、あそこの味噌おでん、好きよ」
「蕎麦じゃないの?」
「蕎麦と味噌おでんを食うんだ」
「夕飯、食えなくなるぞ」
「だって、いっぱい食って幸せそうなオレの顔がいいって、前に褒めてくれたじゃん。オレ、お前に褒められるの嬉しいんだ」
 靫彦は軽い口調で言った。
 僕は、呆気にとられて立ち止まった。誰かのたった一言が、こんなにも嬉しく思える事を、僕は知らなかった。
 靫彦は立ち止まると、右手を腰に当て、左手を大きく振って僕を呼んだ。本当は、僕の気持ちを全部知っていて、からかってるのかもしれない。そんな訳ない。靫彦は何も考えていないだけだ。
 僕は何だか悔しくなり、わざとゆっくりと歩いた。靫彦はじれたように、僕が近づいてくる間、ずっと体を揺すっていた。
「おせェよ。わざとゆっくり歩いてさァ」
「先行く、お前が悪いんだろう」
 靫彦が不貞腐れた顔で黙り込み、僕はそれを見て小さく笑った。そのまま観光案内所を通り過ぎて、蕎麦屋の前に来ると、靫彦は亀島弁財天池に顔を向けた。
「井の頭公園のボートって、縁切りだって言うじゃん?」靫彦が言った。「あれって、弁財天が嫉妬するから?」
「確か、そんな話だったね」
「じゃあさ、ここも縁切り?」
「深大寺は縁結びだよ......それに、亀島の由来知らないの?」
 靫彦はコクンと頷いた。
「昔、娘の彼氏が気にいらない親が、娘を離れ小島に閉じこめたんだよ。島に行く方法がなくて困った彼氏が神様に祈ると、亀に変身した神様が、背中に乗せて島に連れてってくれたんだって。神様が助けてくれるなんてスゴイ奴だって、親も彼氏を認めて、二人は結ばれましたって言う話だよ」
「お前、お話、上手だね」
 靫彦が感心した口調で言った。
「それは今、関係ないじゃん」
「じゃあ、ここは縁結びなんだ?」
 靫彦は念押しするように言った。
「何? 誰か好きなコがいんの?」
 僕は、わざと明るい口調で言った。そうしないと、嗚咽に声が震えそうだった。
 靫彦の顔が、あっと言う間に赤くなる。その反応に、思わず僕まで赤くなった。
「蕎麦、食おうぜっ!」
 靫彦はそう怒鳴って店の中に飛び込んだ。僕はその背中を見送り、弁財天池を見た。池の方向から風が吹いて、慰めるように僕の髪を揺らした。
 分かり切った結末だ。そもそも最初から、この思いを口にするつもりはなかったじゃないか。僕は自分に言った。
 行く先をなくした僕の思いが、喉と胸に支えた。息をする度に、堅くて、重くて、熱いその塊の角が当たって、喉と胸が痛む。靫彦が店の中から大きく手を振り、僕を呼ぶ。僕は微笑んで手を振り返した。
 靫彦がヘラッと笑った。
 蕎麦が、思いの支えた喉をスルリと通りますように。
 僕は弁財天に願った。

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<著者紹介>
野中 賢(東京都豊島区/38歳/男性/会社員)

 採用担当者はわたしより二十歳は若いだろうか、履歴書を見ながら質問を続けた。
「それでは、以前は新宿のデパートで和菓子の販売をされていた、と」
「はい、定年で退職しましたが、店長を五年させていただきました」
「オープニングスタッフということで、スタッフも皆一から勉強していくのですが、あなたがこの職場で生かせる強みと言うと何ですか?」
 わたしは、にっこり笑顔でこう言った。
「忍耐です」

 一か月後、研修を経て、わたしはコーヒー店の店員となった。
 今風に言うと、カフェのキャストになった。
 このカフェには、店長を含めて八人のキャストがいるが、わたしは当然最年長である。
 調布駅前にオープンした初日は開店から勤務に入っていたが、まあすごいにぎわいだった。何でも地域でも待望の本格的なカフェということで、わたしたちはコマネズミのように働いた。
 初日ということで当然トラブルも発生する。オーダーを間違えて戸惑う(『テンパる』と今は言うらしい)女の子のキャストのフォローに回ったり、空いた席にすぐ座ってもらえるよう片付けに行ったり、レジで待たされていらいらしているお客さんに謝ったり、コーヒーを作るよりそんな仕事の方が大半を占めた。
「ハルノさん、こんな状態が毎日続くのかなあ」
 ゆっこちゃんという十九歳のキャストが音をあげると、わたしはこう答えた。
「そのうち落ち着くでしょう。大丈夫、何とかなるわよ」
 もうすぐ五時になろうかという頃、梅雨の晴れ間の暑い日差しもようやく傾きかけてきた。レジに入っていたわたしのところに、一人の年配の男性がやってきた。
「いらっしゃいませ、こちらでお召し上がりですか?」
 男性は黙ってうなずいた。
「ご注文がお決まりでしたらお伺いします」
「アイスコーヒー」
「大きさはいかがなさいますか?」
「普通」
 わたしは「トール」のキーを押しながら、その男性がどこかで見たことあるような...と思っていた。
「お会計、320円になります」
 男性は黒い皮の小銭入れから400円出した。ゴツゴツと骨張った大きな手だった。
「80円のお返しになります。あちらのカウンターでお品物が出てくるのでお待ちになってください」
「ナナセさん?」
 その言葉にどきりとして、男性を見ると、大きな目がこちらを見ていた。
 ナナセは、わたしの旧姓だった。
「もしかして...長谷川くん?」
 男性はこっくりうなずいた。
 高校の同級生だった長谷川くんと、わたしは四十年ぶりに再会した。

 それから長谷川くんは、月曜になると店にやってきた。店も一週間ほどで落ち着いたが、午後はそれでも忙しく、あまりゆっくり話す時間もなかった。頼むのはいつもトールのアイスコーヒー、席が空いていればソファで一時間ほど新聞を読みながら飲んでいた。混んでいればカップを手に持ちふらりと出て行った。しばらくはそんな時期が続いた。
「えー、ハルノさんってもうお孫さんいるんですか?」
 月曜日の開店前、店内の掃除をしながらゆっこちゃんがびっくりしたように声を上げた。
「もう三歳になるわよ。男の子だからやんちゃ盛りで」
「でも娘さん夫婦と同居なら、何かと安心ですよね。わざわざ働かなくてもいいんじゃないですか?」
「みんなそう言うけどね、わたしにとっては自立は人生のテーマだったのよ」
 そのときはそれだけ答えた。蝉の声はおしゃれなボサノバでかき消されていたが、今日も暑くなりそうだった。
 夕方、店のゴミ箱の片付けをしていると、長谷川くんが席を立ちこちらに近付いてきた。
「お預かりします」わたしは笑顔で空のカップを受け取った。
「ナナセさんは、そばはお好きですか」
 唐突な長谷川くんの問いに、私は少々めんくらった。
「好きですけど、それが、何か?」
「深大寺の『水月庵』で、私そばを打ってるんです。今度食べにきてください」
 そう言って、長谷川くんは店を出て行った。やや薄くなった白髪頭が見えなくなったとき、はじめてわたしは、長谷川くんが高校卒業後に調理師学校に進学したことを思い出した。
 深大寺。私たちが通った高校も、深大寺の近くにあった。ここ数年行っていなかったが、行こうかな、と思った。

 仕事が休みの水曜日、お昼時にわたしは深大寺を訪ねた。高校までは毎年のように初詣に行ってたが、卒業後ぱったり足が向かなくなった。その後結婚して金沢に行って、十数年暮らしたが、夫と別れて娘を連れて都内を転々とした。両親が亡くなり実家に戻ってきたころ、ようやく離婚が成立した。
 深大寺では、自分と家族の健康を祈ってきた。この年になると、もっぱら願いはそんなものだ。土産物屋などをひやかしながら、わたしは水月庵に向かった。
 バス停から五分ほどのその店は、ひっそりとたたずんでいた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」カウンターから長谷川くんがのぞいてあっと目を丸くした。わたしはにっこり微笑んだ。
 幸いすぐに席に通され、お冷やとおしぼりが運ばれてきた。
「もりそばお願いします」
 盛り一丁ーっと三十代くらいの女性の店員さんがカウンターに声をかけると、へいっと長谷川くんの返事が響いた。店内は会社勤めのおじさんや、深大寺詣での後らしいわたしぐらいの奥様方など、落ち着いた雰囲気だった。
 しばらくして、もりそばがやってきた。そばのざると、つゆの瓶とそば猪口、薬味の皿。ざる以外は、伊万里だった。割り箸を手に取り、ぱちんと割って、さっそくそばを一口すすってみた。
「...おいしい」
 一人だったのでそれからは黙々と食べた。そばはコシがあってのどごしがよく、つゆも辛すぎず食べやすかった。ネギとショウガとわさびを加え、簾からの風を感じながらそばを食べた。女一人でそばを食べられるようになったのは、いつ頃からだろう。そう思ったのは、ざるが空になって一息ついたときだった。
 店員さんがお冷やのお代わりを持ってきたので聞いてみた。
「このお店はいつからやっているんですか?」
「店自体は三十年くらいですね」
「わたし、あの長谷川さんと高校の同級生だったんですよ」
「そうなんですか。あのとおり、まじめな親方で、そば一筋ですよ」
「わたしが働いてるコーヒー店で偶然会って。びっくりしました」
「そういえば、言ってましたよ。駅前にできたカフェに、知り合いが働いていて驚いたって。ああ、それが奥様ですか。お若いですねえ」
『奥様』という響きが少々居心地悪かったが、私はあいまいに微笑んだ。
「お会計!」
 そこに長谷川くんの声が響いて店員さんはあわててレジに戻った。わたしが長谷川くんに会釈すると、長谷川くんもばつが悪そうに目礼した。
「とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「長谷川くんはお変わりないですね」
「ナナセさんもお元気そうで」
「あ、その名字変わったんです。今はハルノです。まあ今は独り身ですけど」
「すみませんでした」
「いいえ、いいんです。長谷川くんにそう呼んでもらえると、少し若返ったような気がします」
 そう、わたしは長谷川くんと再会して、少し若返ったのだ。「少し」だから、昔ほど無茶はできない。でも、今だからできることもあるのだ。
 わたしは伝票を手に会計に向かった。
「ありがとうございました」
 店を出るとき、店員さんとともに長谷川くんがお辞儀をした。
 
 そして月曜日の夕方、レジを終えると、ちょうど五時になっていた。
「お疲れさまでした」
 わたしは制服から私服に着替え、ロッカーを出た。長谷川くんはソファで新聞を読んでいた。
 その背中に近付きながら、わたしは言うべき言葉を考えてどきどきしていた。
 積もる話は山ほどある。だからこそ、ゆっくり歩けばいいじゃないか。
 彼と会うときだけ、わたしは七瀬みどりになれるのだから。

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<著者紹介>
加瀬 ヒサヲ(東京都/29歳/女性)

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