この白い空間が、僕との呼吸を圧迫する。
 僕だけがふくらんで部屋いっぱいになっているのか、新居が僕を飲みこんでしまいそうなのか。
 最後の関係者に電話をかけて、その人に居心地の悪い声で励まされたあと、ようやく僕は僕の孤独から解放された。
 独りになってしまえば、存在の単位は「ひとり」でも「孤独」ではない。
 これから結婚するはずの、好きな人のとなりにいるときがよっぽど孤独だ。
 理解していると思いこんでいるとき。
 笑っているからと安堵しているとき。
 ふたりの隙間から、やがて突然「破談」が顔をのぞかせ、僕がうろたえている間に、恋人は消えた。
 引っ越し日である今朝、彼女は姿を見せず、代わりに女友達だという人が手紙を持って現れた。
 他に好きな男がいて、実は何年も片思いで、その男とは結ばれることはないが、あなたとも結ばれるわけにはいかない、やっぱり結婚できない、ごめんなさい、という内容が短く書かれていた。
 こんな役目嫌なんですと言って、女友達はさっさと帰ってしまった。
 引越し屋のトラックがアパートに到着するまでの間、僕はのべっとした表情で、ひたすら残りの荷造りをした。
 鏡を見なくとも、自分がどんな顔をしているか気味悪いくらいわかった。
 むしろ感情が揺れすぎて針がふっ切れた状態だったのだと思う。
 これから二人暮らしをするはずで、落ち着いたら入籍するはずで、そうかあ、結婚前に同棲したほうがいいって聞くけど、こんなふうになるんなんてなあ。彼女のモノなんて少ないから、新居で処分するか。ああ、結婚するって言っちゃったよ、親だろ、後輩たちだろ、あと会社のチームと上司。ばあちゃんにもだ。なんてやっかいなんだ。
 僕は頭のなかで、ぶつぶつと、とめどなくひとり言をしゃべる。思考の壁の内側に、言葉があふれかえって行き場を失いみるみる腐っていく。
 新居に完全に荷物と自分がおさまるまで、それは続いた。
 そうして、最後の連絡を終えた今、頭のおしゃべりがようやく止んだところだった。
 連絡したのは上司だった。
 こっちでうまく説明しておくから、お前は休暇を一週間に延ばして休めと告げられた。
 素直に「はい」と返事をして、ケータイの通話終了ボタンを押すと、新居全体が沈黙した。僕を圧迫する感覚もなくなった。
 僕は、とりあえず布団だけを床に広げ、疲労と眠気とを抱いて、ひたすら眠った。


 別れた彼女は、夢に現れなかった。
 ひどく深い眠りだったようだ。
 一晩と半日以上眠って、ようやく僕はこの部屋で暮らすために「目覚め」た。
 夕暮れが間もなくやってくる。
 ふたりの収入で家賃を払っていけるマンションで暮らす、という選択が、今は痛いだけだが、僕はしばらくがんばってみようと思っている。それがささやかな抵抗あるいは自分への罰のような気がする。
 休暇三日目にして、ばあちゃんから手紙が届いた。実際には実家に届いた手紙を、母が僕に届けてくれたのだが。母に様子を見に行かせようとする、ばあちゃんのテである。
「ここでやっていくって決めたんなら、それでいいんだよ。しっかりね」
 母は多くを僕に尋ねることなく、乾物の食材やインスタントラーメンなどを置いて帰って行った。
「ばあちゃんも母さんも似ているよな」
 僕はつぶやきながら、片づかない2DKの居間で、ばあちゃんの手紙を読み始めた。

  前略
  連絡をもらって、すぐこれを書いていま
  す。電話じゃうまく言えないためです。
  あなたの住むところを電話で聞いたとき
  から、映画のように思い出しています。
  私は本当は、二十歳そこらで終わる人生
  でした。調布で生まれて、調布の暮らし
  を愛でながら、婚約者となる方とも出会えました。
  ところが病弱な私はある病気を発し、婚約したまま時間だけが過ぎゆきます。私は手術を決意しました。術後命がもたないと医者から告げられても、手を尽くさず死ぬ日を延ばすのだけは嫌でした。
  入院の数日前、私は婚約者に連れられて深大寺に行きました。(あなたの新居から近いところにあるお寺です)広い散策路は身体が辛く歩けません。山門のところで、私はかなり年上の彼に、婚約解消を申し出ました。最期のあがきの前に、彼を自由にしてあげたかったのです・
彼は、
  「お寺におられる神さま仏さまが、もう君の本当の願いをきいてくださった。生きたいという願いだ。どうしても別れようというのなら、退院した君にもう一度出逢おう。自分はもう一度、君に恋をするよ」と言ったのです。
  私が今あなたの祖母でいるということは、私に奇跡が起きたからです。深大寺に延命地蔵があると知ったのは彼が亡くなったあとでした。あの日急に深大寺に行こうと誘ったのは彼のほうでしたから。
  命拾いして、いよいよ結婚できるとなったとき、今度は彼が永遠に彼方の人となりました。運命を恨んだのは当然です。
  だけど、あなたはあなたの運命を恨まないでください。
  まだ、彼のような人に出逢っていないだけです。私はその後もうひとりの運命の人と結婚しましたが、あの恋心はずっと鮮やかに胸にあるのです。
草々
  綾介様

 僕の乾いた胸いっぱいに、慈雨がしみこんでいくようだった。
 こんな話、母さんからも聞いたことがない。
 きっとずっと秘密にしてきたことだったのだ。
 お寺に連れて行ってくれた婚約者と結婚していたら、母さんも僕も生まれていなかった。
 ばあちゃんの人生もまったく別のものになっていたかと思うと、つくづく人生が奇妙で、絡まった糸のように感じる。生涯、その糸をほどいて一本にしていくような感覚。そして、複数の糸を撚りあわせて太くしていくようなものだと。
 深くため息をついたところで、腹が思いっ切り鳴った。
「腹が減ったな。ははは、腹が鳴って恥ずかしいや」
 僕は空腹の底から笑いがこみあげてきて、それがおかしくて笑った。
 夕食を食べに行こう。牛丼がいい。
 僕はばあちゃんの手紙をなくさないよう、仕事の鞄にしまっておくことにした。
 

 休暇の最終日、僕はすっかり整った部屋の写真を撮り、母さんの携帯にメールと一緒に送った。もう大丈夫だから、という証拠に。
 本当はまだ、終わった恋愛と始まらなかった結婚生活のことをしょっちゅう考えてしまう。
 休日の間何度も読み返している手紙をまた読んでいたら、ふと深大寺に行ってみよう、という気持ちになった。
 明日から仕事が再開するし、チームのみんなと顔を合わせるのが辛いけれど、お寺のお守りでもあればいいかも知れない。
 さっそく僕はアクセスを調べて出かけた。
 ばあちゃんの言うとおり、それほど遠くではなかった。
 手紙にあった山門......本物を目の前にすると妙にどきどきした。
 ここで、ふたりは、互いの気持ちを重ねたんだな。
 思えば、「もう一度君に出逢って恋をしたい」なんて、ものすごい告白だ。
 僕にはそんな覚悟ができるだろうか。
 あっ。そうか。
 僕らには、覚悟が足りなかったんだ。
 僕も、別れたあの娘にも。
 不意に沸いた「答え」を、僕は静かに握りしめた。後悔も悲しみも、全部握りしめた。
 それから、ばあちゃんが歩けなかったという散策路を歩いた。
 さすがに疲れて、お堂近くの木陰で涼んでいると、見たことがある顔が横切った。
「あっ、立川さん!」
 僕は思わず彼女を呼び止めた。
「えっ、あっ、先輩! びっくり!」
「会社のときの君とずいぶん違って、びっくりしたのはこっちだよ。今日は日曜日だもんな。お寺めぐり?」
「はい。えと、あの、休めましたか?事情はなんとなく......聞いてます」
「ああ、もうすっかり大丈夫だよ」
 僕は涙声を隠して返事した。
「先輩、おそば食べに行きましょう。深大寺そばって有名なんです。ね! 行きましょ!」
 彼女は僕の腕をひっぱって、元気に歩き出した。彼女の笑顔も、その強引さも心地よく身体に響く。
 でも、この心地よさがこの先ずっと続くのもいいな。僕は都合よく考えてしまう自分さえも、今は許そうと思った。

山田夏蜜(北海道札幌市/36歳/女性/フリーランス)
 カランコロン、カランコロン
小柄な下駄が石段を蹴る音が深大寺の境内に響く。蒸し暑い夏の日、祭りの提灯でオレンジ色に染まる空。参道脇には様々な露店が並ぶ。ヨーヨー釣り、金魚すくい、射的にリンゴ飴、たこ焼き、から揚げ... 優子はそれらを傍目に眺めながら友人の明日香に手を引かれ人ごみの中を掻き分けて本尊の祀られた本堂へお参りに行く。
「急いで早く」
明日香が振り向き急かすように言う。
「待ってよ明日香、早すぎるって」
 慣れない浴衣姿でもみくちゃになりながらやっとの思いで本堂の賽銭箱前に辿り着いた。
私は巾着の口を開け中から小銭入れを取り出し中から五円玉を取り出した。五円玉を握りしめ賽銭箱に入れようとした時声がした。
「たった五円でお願い事叶えてもらおうっての? せこいね」
 私は、はたと一瞬動きを止めた。振り向くと横には自分と同年代の男の子がいた。「あんたには関係ないでしょ」と言おうとしたが声が出なかった。
「どうしたの優子?」
明日香の声で我に返る。「ちゃんとお願いした?」との問いに「ううん、まだこれから」と答えた。私は五円玉を小銭入れに戻すと中から代わりに五十円玉を取り出し賽銭箱に投げた。お願いをし終わると横に居た男の子は消えていた。
 帰りの参道でヨーヨー釣りをした。私はピンクのヨーヨーを、明日香はグリーンのヨーヨーをすくった。ヨーヨーをボヨンボヨンとつきながら左手にはリンゴ飴を持って参道を歩いた。リンゴ飴は甘酸っぱくガリッと噛むと爽やかなリンゴの香りがした。リンゴ飴を食べ終えると近くの屑(くず)籠(かご)入れに棒を捨て再び参道を歩いた。
 参道を十分ほど歩いていると多くの人で賑わう店に出くわした。ダルマ屋だ。ガラス扉の向こうを見ると多くの浴衣を着た客でごった返している。大変な盛況ぶりだった。
「入ってみようよ」と明日香に促されて入店する。奥から「いらっしゃいませー」と声がする。
 中は冷房が効いているのだが人で埋め尽くされとてもじゃないが涼しいと言える雰囲気ではなかった。猫も杓子もダルマ、ダルマである。店内の一角から声がする。人だかりの奥だ。
「このピンクのダルマは、恋愛成就、そっちのは学業成就、そこのおっきいのは家内安全...」
 明日香と二人で人だかりに割って入る。人だかりの一番前に行き私は思わず声を上げた。
「あっ」、相手も「あっ」と声を上げる。
「五円」と私の顔を見て呟く。
「五円って言わないで」
「知り合い?」と明日香が私の顔を覗き込む。
「違う」とすぐさま答える。
「あんたそうだダルマ買ってかない?」
「人のお賽銭にケチつけといて。買う訳ないでしょ」
「王子、このダルマに目入れしてー」と一人の女性客が言う。
「あっ、はいはい了解」
「王子?」
「ダルマ王子」と少年は呟く。手元では器用に墨でダルマの左目に梵字の『阿』の字を目入れしている。見事な文字だと思った。
「はい三千円ね」
「三千円!?」私は開いた口が塞がらなかった。少年の目入れしたダルマは高さ十四、五㎝ほどの小さなダルマである。女性客はありがとうと言って満面の笑みでそれを受け取る。
「高すぎない?」と私は少年に問う。
「お賽銭五円の人にしたらそれは高い買い物かもね」と少年は言う。
「高すぎるんだったらこっちに小さいのも有るよ。六百円、プラス目入れ料五百円で千百円」と五㎝程のダルマを差し出す。
「そんなちっさいので千百円!?」
「お金じゃないんだって」と少年は別の女性客のピンクのダルマに目入れしながら話す。
「ねえ、王子。ダルマと一緒に写真撮って」
と女性客が言う。
「いいよ」
「はいチーズ!」
 まるでアイドルである。その場の空気に飲まれてか、隣にいた明日香が「私もダルマ買おうかな」と言い出し始める。「こんなのサギだって」と明日香に言う。すると私の隣にいた高齢の女性客が目を剥いて私に反撃する。
「あなた、サギなんて言うけれど私は昨年ここのお店でダルマ購入して宝くじが当たったのよ」
「宝くじ?」
「一千万」と耳元でその女性客が囁く。
「いっ...」思わず押し黙る。
「うちのお客は殆どリピーターさんなの、分かった?」と王子は得意気に言う。
「王子が目入れしたダルマはお願い事が叶うことで有名なのよ」と高齢の女性は言う。
「へええ」と明日香が目の前にあった六百円のダルマに手を伸ばす。
「ねえ、優子買ってみない?」明日香が言う。
「二人とも買ってくれるならサービスで二個で目入れもして二千円にまけとくよ」と王子は言う。商売上手である。結局、王子に押し切られ私は明日香と二人でダルマを一個ずつ購入した。目入れする時に王子が何の願掛けか問うた。私が「合格祈願」と答えると意外にも「受かると良いね」と言ってくれた。ダルマを受け取ると左目をマジマジと見た。これで志望校に受かる。半信半疑だった。王子は千円札を受け取りながら「お願いが叶ったらダルマ持ってきて。右目に『吽』の字入れてあげるから」と言った。
 私はその年の二月、第一志望の高校に見事合格した。ダルマのおかげだとは思わなかった。自分が努力したからだ。すぐさまそう思った。しかし明日香は合格が決まって一週間もしないうちに「目入れしてもらいに行こうよ」と言ってきた。しかしあまり気は進まなかった。だって...
「ほら、叶ったでしょ? ダルマさんのおかげだって」王子は当然のことのように言った。
「私たちのこと覚えてるの?」購入したのは半年も前である。
「覚えてるよ、五円さんとそのお友達でしょ?」
「五円さんって言わないで」
王子はクスクスと笑う。
「で、目入れ料取るの?」
「五百円」
「はあ」と私はため息を吐く。王子は丁寧に右目の文字を書き終わると「はいどうぞ」と言ってダルマを渡してくれた。
「これ持ってていいの?」
「寺では奉納したりもしてるけどせっかくだから合格記念に持っておくといいよ」と言った。それより、と言って王子は続けた。
「高校生になったら彼氏なんかも欲しいでしょ? どう恋愛成就。今なら二人で三千円にまけておくよ」
 私は買わなかった。しかし、明日香が一人で二千円かけてピンクのダルマを購入した。
「商売上手よねえ」と帰りに立ち寄った蕎麦屋で明日香が呟く。「商売上手? どこが?」と言いたかったがそれは黙っておいた。かわりに
「絶対ダルマのおかげなんかじゃないって」と言った。しかし、高校に入学して三カ月もしないうちにモテた試しの無い明日香に彼氏が出来た。明日香は予想通り「目入れしてもらいに行こう」と言った。

「五円さんも買っておけば良かったねー」
ピンクのダルマに目入れをしながら王子は言った。私の事はほっといてよ、そう思った。
「それよりどう? 彼氏とずっとうまくいく様に大きめの恋愛成就」
と二〇㎝程のピンクのダルマを差し出してきた。明日香は思わず手を伸ばす。
「四千円」
明日香は財布を取り出そうとする。
「やめなよ! 明日香! 勿体無いって」
 王子の口元には、してやったりの笑みが浮かんでいる。明日香は止めるのも聞かず購入しようとする。私は思わず王子の手の中のダルマを叩(はた)き落とした。ゴトンと重たい渇いた音がする。
「優子! 何すんのよ!」
明日香は怒ったような素振りを見せた。
「明日香! 騙されてるんだって。ぼったくりだよこんなの」
「人聞き悪い事言わないでよ。自分が信じてないからって人の幸せまで邪魔するようなことしないでよ」
 明日香と喧嘩するのは初めてだった。私はいたたまれなくなり店を出た。そして帰り道
の参道を走って駆け抜けた。いつの間にかぽろぽろと雨が降り出していた。濡れながら信号待ちをしているとふと後ろから手を引かれた。振り返ると傘を差した王子が居た。
 
「...相場の倍」
「はあ?」
「だからうちのダルマの代金」と王子が呟く。
「ごめん、あんたの言う通り。ぼったくり」
「そんなの改めて言われなくても分かってるわよ」
「そうでもしないと店やってけなくって」
「そんな風には見えないけど」
「これあげるから許して」
王子の手の中のピンクのダルマの目に書かれていた文字... 右目に『ス』、左目に『キ』...続けて読むと『スキ』
「要らねえよ!」私はダルマにパンチをした。王子はケセラセラと笑った。

MIKA☆(高知県高知市/30歳/女性/フリーター・アルバイト)

 紗香は真剣な眼差しで、ルリオトシブミにレンズを向けていた。体長二ミリ程度のカシルリオトシブミの雌が、産卵のためケヤキの葉を念入りにチェックしていた。ようやく、その中の一枚に目星につけると、葉の端に切込みを入れ折り目をつけ巻き始めた。最終的に葉は俵型へと整形され、後に地面に落ちる事もある。この巻き方が落とし文(オトシブミ)の名の由縁だ。まず、葉を葉巻状に二巻き程度した所で表面に穴を開け卵を産み付ける。産卵後、その穴を塞ぐように再び葉を巻き上げ、仕上げに巻いた葉が戻り広がらないように内側の葉を引っ張り出して、その葉を反転させ蓋のように被せ完成となる。こうして雌が一人で必死に作業する中、雄はというと、ただ惚けたように傍でじっとしているだけだった。
 「ああ、やはり結婚などせず正解だった。」
 アラフィフで未だ独身の紗香は、そんな独り事を呟いていた。様々な職業を兼務しながらも五〇を前に、ようやく昆虫写真だけで食べていけるまでになっていた。
 紗香が虫達と深く関わる切っ掛けとなったのは、その幼少時代にあった。高度経済成長で世の中が活気づき、日中国交回復でパンダブームに沸いていた時代だ。だが、彼女の家では両親が離婚し、まだ二歳だった紗香は施設行きは逃れたものの、引き取られた先の祖父はというと、定年したばかりで五〇代の恋人の家に転がりこんでいたのだ。その家は、市が母子家庭用に貸し出した低家賃物件である事から、周囲が紗香や祖父を見る目は冷たく、幼い彼女の肩身は酷く狭いものだった。そんな中で紗香が見つけた自由な世界。それこそが虫達の世界だったのだ。パンダは見られずとも、彼女は近所の雑木林に白黒模様のオジロアシナガゾウムシを見つけては、パンダに見立てて一人遊びに興じたものだった。
 出来たての揺籃の前で、紗香は虚しさを感じずにはいられなかった。幼い頃から人間関係が不得手で、両親の愛情にも恵まれず一人で生きてきた。これでいいのだと言い聞かせてきた。だが、こんな小さな虫けらでさえ子孫を残すために、然も無い顔で立派に卵を産み残すのだ。それに比べ自分は何て無能なのか? 最近では生理も不規則になって来ている。これからもずっと一人で生き、ひっそりと誰にも涙されずに土へと還るのか?
 何度か結婚話もある事にはあった。学生時代には他の女子同様恋もした。だが、なぜか今一歩踏み出せないまま今に至っていた。結婚話が出る度に、彼女の脳裏をある記憶が過り、目の前の現実が、とても陳腐な物に思えてならなくなるのだ。今でも鮮明なその記憶とは、小学校の卒業式の事。ある男子生徒から深大寺の近くの深沙堂で虫捕りをしようと誘われた。深沙堂の裏には湧水池があり、そこには意外な掘り出し物たる虫達が存在したのだ。虫捕りと聞いて、彼だけでなく他にも沢山友達がやってくるものだとばかり思っていた。だが、待ち合わせの時刻に深沙堂を訪れると、河野博之君一人だけが、堂の前で虫捕り籠も網も持たずに立っていた。
 「あれ? 他の人は?」
 「僕一人だよ。」
 「一人?」
 「僕だけじゃ嫌かい?」
 「別に、いいけど。じゃあ池に行こう!」
 「ああ。」
 裏の湧水池の周囲には、春の訪れを知らせるオトシブミの揺籃が、それは沢山落ちていた。紗香は、その一つを手に取り得意満面と博之君にオトシブミの生態の説明を始めた。揺籃の葉を開き、中の卵を覗き込んで、これはゴマダラオトシブミという種類の卵に違いない等と演説ぶったのである。ひと通りの紗香の演説を聞き終えると、博之君は彼女の掌の上のオトシブミの揺籃を静かに手に取り、ポケットから何やら取り出して、それと交換したのである。
 「あっ! これ私が欲しかったやつだ!」
 「お前、由美ちゃんのパンダのリングみて、欲しそうにしてたもんな。」
 「ありがとう。でも、なんで私に?」
 「この前、上野の動物園に行ったから。」
 「でも、どうして?」
 「・・俺、紗香ちゃんの事が好きだ!」
 「えっ。」
 そう言うと、彼は不器用に私を引き寄せ、そっと額にキスをした。何が起こったのか解らず彼女は固まってしまった。抱きすくめられた彼女の耳には、彼の物か自分の物かすら解らない誰かの激しい心臓の鼓動音だけが響いていた。紗香という少女が恋を知った瞬間だった。博之君は小学校を卒業すると、父親の転勤で新潟の方へと引っ越さねばならなかった。自由に会えない二人は、それは頻繁に手紙のやり取りをした。一日一通では足りずに、日に二通も三通も書く事もあった。しかし、互いに、それぞれの中学にも馴染み、一年もすると手紙の数は激減し、二人の淡い恋は、あっけなく終わりを遂げたのだ。

 彼女は仕事で、ある雑誌社を訪れた時の事。一通の彼女宛てのファンレターを渡された。雑誌の脇役でしかない昆虫写真家にも時折、子供や虫マニアからファンレターが送られてくるのだ。今回も、そうした人達からかと、いつものように、その場で手紙の封を切ると、そこに書かれていた内容に息を呑んだ。
『近藤紗香様
  突然の失礼をお許しください。私は河野博之の息子で和之と申します。父は離婚後、男手一つで僕を育ててくれていましたが、四十代で認知症を発症し、もうすでに先が長くない状態にあります。数年前、家の売却のため整理していた父の私物の中に、あなたと父が交わした四百通以上もの手紙の束を見つけ、何度かあなたにお手紙を書きましたが、出せず仕舞いでした。しかし、もう父には時間がありません。もし、お時間が許されるなら一度だけでも父に会って貰えませんでしょうか? 僕には、もうこうした事しか父にしてあげられないのです。突然の乱暴な申し出である事は承知しております。昔から父に、あなたの名前は聞かされておりました。あなたのお撮りになった昆虫写真の図鑑を見て僕は育ったのです。入院先は、東京RT病院の東棟三〇五号室です。お返事をお待ちしています。
               河野和之』 記されていた彼の入院先は、意外にも紗香の住んでいる場所にとても近い場所だった。彼に会って見たいという気持ちで久しぶりに心躍る一方、不安も大きかった。彼女の記憶の中の博之君は、まだ十二歳のまま、彼だって記憶の中の紗香は十二歳のままの筈だ。そう思うと浮き立った気持ちが一気に萎んだ。しかし、手紙には彼は、もう長くないとある。仕事をしていても何をしていても、紗香は彼の事で頭が一杯で、仕事もままならなかった。意を決し、明日は彼に会いに行こうと鏡の前に立った時の事だ。久しぶりに鏡の中の自分の顔を見て紗香は驚愕した。口周りの皺、長い撮影生活での日焼けジミ。鏡の中には、誤魔化しようのない孤独な生活に酷く疲れた老婆の顔があったのだ。
 こんな自分が会いに行っても彼を絶望させるだけに違いないと、彼女は悲痛な思いで返信を書いた。『申し訳ないが仕事の予定が詰まっておりお伺いできない。』と。だが、手紙を投函した後も彼の事が脳裏から離れない。紗香は博之が入院しているという病院に電話をし、わざわざ病院が混んでいる曜日と時間帯を聞きだした。患者や見舞い客で混んでるという金曜日の午後三時過ぎに病院を訪れ、彼女だと知られないように、影から彼の様子を見ようと思ったのだ。金曜日の午後三時過ぎ、午後の外来診療も始まる時刻で病院は人でごった返していた。病院の東棟に着き三〇五号室を探すと、そのドアは幸運にも開かれていた。静かに中の様子を伺いながらドアの前を通り過ぎて見た。すると病室の奥で、大学生らしい若い男性が、ベットの上の老人の手を制止しながら、こんな言葉が聞こえてきた。
 「父さん、もうこんな紙玉を作るのは止めないと、又看護婦さんに叱られるよ。」
 見ると老人は、ベットの上で上半身を起こし何やら夢中で作業していた。紙玉? 紗香は、その言葉にハッとして我を忘れ、彼の名を口走ってしまった。
 「博之君・・」
 すると老人は、囁くような紗香の声にも拘わらず顔を上げると、舌足らずな口調で彼女にこう返したのだ。
 「ゴマダラオトシブミ・・・ゴマダラオトシブミ・・。」
 老人の脇の若者が驚いたように、病室の入り口に立つ紗香に頭を下げた。
 彼は、彼女が見舞った日から数日後、静かに息を引き取ったのである。そして、彼の残して行った膨大な数の紙玉には、子供のような文字で、こんな言葉が記されていた。
 『深沙堂で待つ。』
 紗香は、彼の残して行った紙玉を、まだ全て開けきってはいない。あえて、確認せずにいるのである。彼の俵型に丸めた紙玉は、まさにオトシブミの揺籃だった。それも紗香にとっては、ルリオトシブミの揺籃だ。ルリオトシブミの雌は、他のオトシブミと違い、その後ろ足に共生菌を持っている。彼らは卵を産みつけた葉の揺籃に、この菌を仕込む事で卵から孵った幼虫の食糧となる葉の栄養価を高める事ができる。彼女は時折、彼の残して行った紙玉を握り締め、深沙堂の湧水池の畔に立つ。そして天を仰ぎながら、彼を想うのである。

福虫登(茨城県)
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深大寺短編恋愛小説実行委員会
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