山門をくぐると今を盛りと咲く梅の香が、千早の身に染み付いた出汁の匂いをそっと洗い流した。フリーのカメラマンとして独立したばかりの千早は、実家の蕎麦屋を手伝ってなんとか生計を立てている。ランチタイムの前に戻ると約束して店を飛び出した十一時前、平日のこの時間だと境内の人影はまばらだ。落ち着いて被写体と向き合うことができる。
白梅の木の枝で毛づくろいする三毛猫は、葵やのハナさんだ。
千早は父の形見である一眼レフを構えた。もはや骨董品だから仕事には使わないが、趣味で撮影する時には一番手に馴染んだこのカメラを使うことが多い。
「精が出るわね」
 団子を焼いている奥さんが声をかけてきた。
「麻ちゃんの写真、楽しみにしてるのよ」
 実家の蕎麦屋の一角には千早が撮った写真を飾ったコーナーがある。「深大寺の四季」と言うヒネリのないタイトルをつけて、界隈の写真を定期的に入れ換えている。多くは植物だが、ご近所さんの日常を切り取ったスナップもなかなか人気があって、ちょくちょく欲しいと言ってくれる人もいる。
「梅も、もう二、三日かしらねえ」
 奥さんの声に、千早はうなずいた。
 花の季節が終わると、いささか厄介だ。千早が本当は何を撮っているのか、カムフラージュしてくれるものがなくなってしまう。今、周囲の者は千早が梅の花にピントを合わせていると思っているのだろう。真の被写体であるハナさんを見ているのは、千早だけだ。だってハナさんは秋の終わりに老衰で亡くなったのだから。

 千早が自分の不思議な目に気づいたのは小学生の時だった。生まれる前から家にいた愛犬ベルが十六歳で天寿を全うした後のこと。
一人っ子の千早にとってベルは兄弟同然だったから、その死を受け入れることは難しかった。千早は朝から日が暮れるまで、灰になったベルが眠っていると教えられた万霊塔の周りをウロウロするようになったのだ。ランドセルを背負って家を出た娘が小学校に行っていないことは、その日のうちに学校からの電話で発覚したが、両親は千早を叱らなかった。その代わり、昼になると母か父が弁当を手にやって来た。
店が忙しい母は千早に弁当を渡すとすぐに帰って行ったが、父はたいてい自分の分も弁当を持ってきて、千早と一緒にそれを食べると並んでしばらくおしゃべりをした。生涯、売れない写真を撮り続けた父は普通の大人とは違っていて、あまり地に足がついていない人だった。それだけに、彼のカメラは不思議なものを捕えた。
 ベルが死んでからはじめて千早がその姿を見た時も、父だけが当たり前のこととして受け止めてくれたのだ。父は、他の大人のように千早のことを笑ったり叱ったり、オロオロ取り乱したりしなかった。
「そうか、ベルがお前を心配して姿を見せてくれたんだね」
 父はそんな風に言った。
「残念ながらお父さんには見えないけれど、写真には写るかもしれない」
 そうして確かに、父が撮った写真にははっきりとベルの姿が写っていたのだ。
「カメラのフィルムは不思議なものでね、人の目には見えないものを焼きつけることがある。その逆もね。デジタルカメラはそういうことが起こらないからつまらないな」
 父はその写真を現像して引き伸ばし、千早にくれた。いつ撮った写真か、お母さんには内緒だよと言って。二ヶ月ほどたつとベルが姿を現すことはなくなったけれど、千早の中にもう絶望的な悲しみはなかった。いつでも振り向けば、陽だまりの中にベルがいる。そう感じられるようになったから。
 それから千早はもとの生活を取り戻し、自分の不思議な目のことはほとんど忘れてしまった。

 思い出したのは、父が若くして亡くなり、あのカメラが千早の物となった時だ。高校生になっていた千早はカメラを下げて、幼い日ベルを見たあたりに行ってみた。
残念ながら父が姿を見せることはなかったが、千早は代わりに沢山の動物を見たのだ。犬や猫だけでなく、ハムスターやイグアナ、カナリア・・・・・・多くは陽炎に揺らめいて覚束ない影だったが、中には生きていると変わらない存在感のものもいた。
もはや子どもではない千早は、自分が見たものについて人に語ることはしなかった。ただ、ひたすらにシャッターを切った。動物たちはみな陽だまりの中で穏やかにくつろいでいる。その姿を留めておきたいと願ったのだ。

ひとしきり写真を撮ると、千早は水路の側に置かれた床几に腰を下ろした。これを食べたら店に戻ろうと、しょうゆ団子を一串注文し、備え付けてあるお茶を入れる。
気がつくとハナさんが、足もとに座っていた。ちょっと太目なのは甘え上手で美味しいものを食べさせてもらっていたからだ。ハナさんが死んだ時、葵やの奥さんは自分が食べさせすぎたからだと後悔したけれど、ハナさんは幸せだったのだと思う。だってこんなに良い表情をしている。
千早は、ちょうだいポーズをするハナさんにカメラを向けた。ちゃんと写っていたら日付は入れずに葵やさんに届けよう。
ファインダーを覗くことに夢中になっていた千早は顔をあげた時、同じ床机に一人の老人が腰掛けていることに驚いた。全く気配を感じなかったのだ。
「ハナさんは、変わらずに美しいですね」
 老人の言葉に千早はぎょっとした。彼の視線は、ちゃんとハナさんを捕えている。自分以外にはじめて見える人に出会い、何と言って良いかわからず黙っていると、老人が話しかけてきた。
「あなたは、見える人なのですね」
「見えるだけなんです」
 あの不可思議な存在たちは、何かを求めている風ではないけれど、それでも伝えたいことがあって姿を見せているのではないかと、千早は思ってしまうのだ。
 老人は小さくうなずいただけで、それ以上は何も言わなかった。間が持たず、千早は聞いた。
「こちらには良くいらっしゃるんですか?」
「いいえ十年ぶりでしょうか。連れがそこの蕎麦屋に行っているのですが、私はお腹が減っていないから、ここで休憩を」 
老人はそう言ったが、団子を焼く香ばしい匂いに落ち着かない様子だったので、千早は一串奢ることにした。年配の人に失礼かと思ったが、彼は鷹揚にうなずいた。
「ご馳走になりましょう」
 それで千早は老人のリクエストであるみたらし団子を買って来た。戻って来ると、ハナさんはちゃっかりと老人の膝に座っていた。
「風が気持ち良いですね」
 千早が入れてあげたお茶を飲んで、団子を食べた老人は柔らかな日差しに目を細めた。
「ほんの子どもだった頃、夏になるとこちらの親戚に預けられたことがありまして、そこの境内で可愛らしい女の子に会いました。相手は二つばかり年下でしたでしょうか。私たちは仲良くなって夏中一緒に遊びました。一夏、また一夏と過ごすうち、いつか恋をしたのですよ。ですが周囲に結婚を反対されました。私の家の者は家柄がどうのこうのと彼女にケチをつけ、私たちを引き離しにかかりました。古い時代のことです。背負う物も多く、お互いに捨てられないものもあった」
 恋人たちは引き離された。
深大寺に伝わる恋物語では、身分違いで引き離された恋人たちは思いを成就することができるのだが、現実はそう簡単ではない。
「最後に会った時、私たちは誓いました。いつか色々なことから自由になったら、深大寺でまた会おうと。はじめて会ったこの季節に」
「それで今日はこちらへ?」
「ええ」
「お会いできたんですか? その方に」
 老人は、目を細めてうなずいた。
「ええ、会えましたよ」
 老人は、そっと膝の上の猫を撫ぜた。
「ここは縁結びのご利益があるそうですね」
「はい」
「私たちの恋は実らなかったけれど、出会えて良かったと思います。出会えたことが幸福だったと」
 老人は向かいの蕎麦屋から出てくる初老の夫婦の姿に目をやった。
「ああ、連れが来ました。もう行かなければなりません。記念に写真を撮っていいただけませんかな」
「ええ、もちろん」
 千早は請われるままに、ハナさんを膝に抱いたままの老人の写真を撮った。
「住所を教えてください、写真を送りますから」
「いえいえ。あなたの店に伺いますよ。素敵な写真コーナーがあるとか」
 誰から聞いたのかそんなことを言って、老人はハナさんを膝から下ろした。別れを告げた後、彼は優しいまなざしを千早にくれた。
「あなたにも、良い恋が訪れますように」

 それからハナさんの姿を見ることもなくなり、季節は一つ動いたが、老人が店を訪れることはついになかった。そうなることを初めからどこかで知っていた千早は、実家の蕎麦屋の一角にハナさんの写真を飾った。
陽だまりの中、三毛猫のハナさんと寄り添うのは見事な毛並みのラグドールだ。

栗太郎(東京都国分寺市/44歳/会社員)
 あの人がいなくなって、一月が過ぎた。

 住宅街の隅にある、無個性な戸建ての二階の部屋で、ベッドに寝転んで文庫本を読んでいたら、階段を上ってくる足音が聞こえた。身体を起こして机の上の時計を見ると、もう十時半で、朝食を食べてからからもう二時間ほどが経過していた。大学の講義で使うその本を、ばさ、と無造作にベッドの上に放って、私は扉の方を見た。ノックもなしに扉が開き、この家のもう一人の住人たる男が顔を出した。
「仮にも女子大生の部屋なんだけど」
 わざと仏頂面をして出迎えると、無精ひげを生やした男が、しまった、と目を丸くした。
「ごめん......」
「朔冶さんはほんと、そういうとこ無神経だと思う。そんなんだから、」
 ちらと男の表情を見上げると、眉間に深い皺を刻んで、陰鬱そうに項垂れていたものだから、慌てて言葉を止めた。ノックをしなかったことは水に流してあげて、明るい声を出す。
「ていうかどうしたの? 何か用事? 書類、私が書くやつとかあるの?」
「あ、いや、そうじゃなくて」
 いつもの能天気そうな表情に戻っているのを見て、私は内心ほっとする。朔冶さんは、窓の外へと視線を転じた。釣られて私も、彼と同じ方向を見る。閉め切った窓の向こうには、真っ青な夏の空が広がっていて、太陽がてっぺん近くで輝いていた。
「......散歩に行かない?」
 どこか気の抜けた声を聞いた私は、外を眺めたまま、何も考えずに頷いていた。

 今年買ったばかりの、真っ白い、ヒールのちょっと細いサンダルを履いて家を出た。コンクリート上に黒々と影をつくる太陽は、冷房の効いた部屋から見るのとは全く違う、高い攻撃力を持っていて、じりじりと肌を焼いてくる。白いシャツの背中を追って数歩ほど歩くだけで、あっという間に汗が噴き出す。ヒールを履いてもちっとも追いつくことのできない百八十二センチの男は、当然歩幅も大きい。追いかけようとするから余計に暑くなるんだと諦めて、途中からは影を睨みつけて歩いた。信号のところで追いついて、私はようやく彼の隣に並ぶ。
「歩くのが速いよ」
「......気を付ける」
 その言葉通り、信号が青になってからは、無理をせずとも彼の斜め後ろくらいを歩き続けることができた。きっともう、私の部屋にノックなしに入ってくることもないのだろう。
 深大寺の参道に足を踏み入れてしまえば、陽光を遮る木々のお陰で、いくらか涼しくなった。あの家に住み始めてもう三ヶ月が経つけれど、こんなに近所にある深大寺には未だ来たことがなかった。道の両脇に並ぶ茶店やら土産屋やらが珍しくて、辺りを眺めながら歩いていると、不意に斜め前を行く男が「あ」と声を出し振り返った。
「その靴、はまりやすいから危ないよ」
 彼が指差しているのは側溝だった。ヒールが穴にはまってしまう、ということらしい。道の真ん中へ寄りながら、ついでに前へと距離を詰めて隣に並んでしまう。
「気が利くんだ」
 からかうように言うと、見上げた先の口元に、悲しそうな、しかしそれでいてどこか慈しむような笑みが浮かべられた。
「一花ちゃん、はまってたから」
 彼の口から一日に一度は聞く、あの人の名が、今日もまた発せられる。
「よく履いてた、あの真っ赤な靴のヒールがさ、はまって抜けなくなってたんだよね。遠くからでもすっごい困ってるの分かったから、俺が手伝って。二人がかりで何とか抜けて、ありがとうございます、って言う顔がとんでもなく可愛くて、びっくりした」
 あの人のことを話すとき、朔冶さんの表情と声はぱぁっと花が開いたように明るくなる。毎日のことだから、もう相槌を打つのも面倒で、無言になって隣を歩いた。
「それでさ、お礼にお茶でも、って、あそこに行ったんだ」
 指差された先を見ると、何の変哲もない茶店だった。周りにあるほかの店と、外観はほとんど同じで、よくこの位置から分かったな、と感心してしまう。
「折角だし寄って行こっか。抹茶が美味しいんだよ」
 正直あまり気が進まなかったけれど、美味しい抹茶、というのは純粋に気になって、茶店まで足を進めた。しかし、木製の扉には、「休業日」と大きく筆文字で書かれた貼り紙がしてあった。肩を落として意気消沈する彼に、「間が悪いね」とだけ声を掛けて、また歩き出した。
 山門をくぐるとすぐに、朔冶さんは本堂へと小走りで向かってしまった。木々の間を通り抜けていく風の、静かでかつ存在感のある音に、目を細める。こういった場所特有の、ひどくのんびりとした空気が流れていて、私は一瞬、ここが東京都内だということも忘れてしまう。説明書きの立て札があったから、何とはなしに目を通した。
「......縁結びの神様」
 顔を上げると、熱心に手を合わせている後ろ姿が見えた。私は神様じゃないけれど、彼が何を神頼みしていたのかは簡単に分かってしまう。
「何お願いしてたの」
 戻ってきた彼に、それでもあえて、尋ねた。すると彼は、照れ臭そうに頬を掻いてから答えた。無精ひげに少し隠れた、唇がくしゃりと歪む。
「一花ちゃんが早く戻ってきてくれますように、って」

 初めて訪れる場所で、行きたいところなんて何もなかったから、彼の歩くままに私も歩いた。気付くと、深大寺同様、やはり存在だけは知っていた植物園に来ていた。見たことのない背の高い木や、色鮮やかな大きな花は、確かに物珍しくはあるけれど、それ以上の感想は正直言って浮かばない。適当に眺めながら、少し蒸し暑い園内を進む。
「抹茶を飲みながら、思い切って、恋人はいるんですか、って訊いたんだ」
 BGMは、朔冶さんの思い出話。
「そうしたら、長い睫毛を伏せて、夫を先月亡くしたの、って言うもんだから。不謹慎だけど、あぁすごく綺麗だなって思っちゃったんだ」
 当時に戻ったかのように、興奮した面持ちを向けられる。私の浮かべる暗い表情に、あ、と彼の太い眉毛が下がった。
「ごめん......」
 どうやら、死んだ父親のことを思い出して悲しくなっているように見えたらしい。夫を亡くしたばかりで縁結びの神様の元へやってくるあの人と、そんな女を心から愛している、目の前の男の神経を疑っているだけなのに。しょんぼりとしている中年の男、という絵面が面白くて、思わず小さく笑ってしまう。
「ほんと、朔冶さんは無神経」
 からかうと、彼は私が落ち込んではいないと分かったらしく、安堵めいた息を漏らした。
「......そろそろ俺のことも、お父さんって呼んでくれたらいいのに」
「知り合って三ヶ月くらいの人をお父さんって呼べるほど、私の神経は太くないよ」
「そっか、残念。......あ、これ」
 不意に朔冶さんが立ち止まる。
「何?」
 彼の見上げる先を見ると、ひときわ目立つ真っ赤な花が咲いていた。なぜ足を止めたのか分からず、今度は朔冶さんの顔を見る。また、例の悲しそうで嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「一花ちゃんが初めて見たとき、この園内で一番かわいい、ってはしゃいでたやつだ。何か子供みたいで、おかしくてさ。全然忘れられないや。......ほんと、早く戻ってきたらいいのにな」
 ふらりと恋をして、再婚をして、ふらりと出て行くような女だ。きっと今頃も、またどこかの縁結びの神様のところにいるんじゃないだろうか。浮かんだ考えは口にしないで、植物園を出た。

 太陽はちょうどてっぺんへと昇っていて、暑さが更に増していた。私と朔冶さんとの間は、また人一人分ほど開いていた。この道をまっすぐ行けば、あの無個性な家へと辿り着く。暑さのせいで、私たちは無言だった。耳をつんざくような蝉の声に邪魔されないよう、「ねえ」と声を張ったら、喉が渇いていたこともあってか変に甘えたような声が出てしまった。少し前を行く朔冶さんが振り返る。日に焼けた顔が此方を見る。
「そば屋が沢山あったでしょ。寄って行こうよ。お腹空いた」
 本当は、別にそばじゃなくても、たとえば茶店とかでも良かった。だけど、そばアレルギーのあの人と、彼は一度たりとも深大寺のそば屋を訪れていないはずだ。
「美味しい店、よくわかんないよ。他のものだったら、一花ちゃんと行ったとことか、美味しいとこ連れて行けるんだけど」
 眉が、困ったように下げられる。
「いいよ、美味しくなくても。私、そば好きだから」
 強い口調で小さな嘘をつくと、朔冶さんは迷いを帯びた背中を向けて、また歩き出す。置いて行かれないように、あわよくば隣に追いつけるように、ヒールを鳴らす。この土地で落ちた恋の思い出を引き連れて歩くその後ろ姿に、私は恋をしている。

谷口 美希(東京都三鷹市/20歳/女性/学生)
  あたりが急に騒がしくなったのは、零時まであと三十分に差しかかった頃だった。境内に向かってぞろぞろ集まり始める人々が、夜更けの参道に明るいざわめきを作り出している。誰もがみな楽しそうな顔を浮かべているのは、特別な夜がもたらす高揚感のせいだ。
 満員で賑わう門前の店から出ると、鋭い冷気が肌を刺した。ストーブに近い席だったおかげで、天ぷらそばを食べ終える頃にはすっかり身体も温まったはずなのに、やはりそう甘くない。すぐに鼻先が痛くなるのを感じて、ぼくは小さく肩を震わせた。
「寒いね」
 待機列の最後尾に並んだとき、陵子が耐えかねるように身を摺り寄せてきた。この時期がつらくなってきたのも、互いに四十を過ぎてからだ。そうかな、と、本心とは真逆のことを言いながら、ぼくはマフラーを外して彼女の首に巻き足してやった。肩に手を回すと、恥ずかしそうに陵子が「もういい歳よ」と囁いたが、かまうもんか、と、ぼくはさらに強く抱き寄せていた。
 睫毛の長い瞳がふとぼくを見上げ、そしてゆっくり滑り落ちてゆく。静かに微笑んだまま、陵子はぼくの胸に頭を寄りかからせた。
 柔らかな髪が、ふわりと甘く香る。ひどく懐かしい感覚がこみ上げてきて、思わずぼくは瞼を閉じていた。
 あの日と、同じ匂いに──...... 
 瞬間、眩しい景色が目の前に蘇った。大学二年の夏休み。割れんばかりの蝉しぐれが降り注ぎ、生い茂る木々の合間から強い陽射しが石畳を白く映し出していた。
 道端の水路に流れてゆく湧き水の音。そば屋の軒先にぶら下がった丸い提灯。風に溶け込む、線香の匂い。
 あの日、ぼくは汗だくになって陵子を探していた。明け方のバイトを終え、帰ってウトウトし始めたところに、彼女の母親から連絡が入ったからだ。娘が家を飛び出した、と。
 確かに最近、様子がおかしいとは感じていた。けれど、風邪を引いただけよと微笑む顔に、それ以上の言葉を呑み込んでいた。
 思いもよらなかったのだ。
 ふたりの間に、命が芽生えているなんて。
 話を聞いたとき、衝撃のあとに残ったのは、迷いよりも強烈な怒りだった。自分の迂闊さを悔いたのは、妊娠させたからじゃない。どうして、陵子が悩んでいることに気付いてやれなかったのか。
 ──きっとここにいる。
 高校時代、互いの家が近いせいもあって、部活帰りに門前通りで出逢うことも珍しくなかった。無駄話をしながら、店先の小間物に触れたり、焼き立ての団子を齧ったりするひとときが、いつのまにか、ふたりの約束事になっていた。どちらからともなく指を絡め合うようになったのも、ごく自然な流れだった気がする。
 ぼくたちにとって、大切な場所。今も変わらない場所。だから、きっと、ここに──......
 ふと、一休庵のそば打ち場の前に見覚えのある人影が立っているのに気付き、ぼくは足を止めた。
「陵子......」
 ゆっくりと廻る水車を見つめる、睫毛の長い瞳。風にそよぐ、柔らかな髪。蝉しぐれがいっそう大きく鳴り響き、一瞬、まるでどこか遠くから映像を見ているような錯覚がした。肌には汗が滴っていたのに、身体は緊張して冷えきっていたのを憶えている。
 ふたりの距離が近づいたところで、彼女はようやく視線を上げた。
「産もう」
 息を揺らせながら、ぼくは陵子に向かって言った。陵子は瞠目したが、やがて瞳に涙を溜め、何を言ってるの、と切なげに微笑んだ。
「あなたの人生を変えてしまうのよ」
「なら、きみの人生を変えるのも俺だ」
 ぼくは陵子の肩を掴んだ。互いにまだ二十歳を過ぎたばかりの子供だったかもしれない。世の中の厳しさも、自分の甘さも知らなかった。それでも、きっと乗り越えてみせると心だけは頑なだった。
「どうなるかわからない先の未来より、今、この一瞬をきみと生きていたい。だから」

 俺、と。

「──......」
 後ろの客に押されて、ぼくは我に返った。腕の中では陵子が、かじかんだ両手を揉み合わせ、白い吐息をかけている。あの日、ぼくの胸に頭をもたせかけ、頷きながら涙を落とした彼女が。
 もう二十年も前のことだ。 
 大学を卒業するまでは親に助けてもらう形になったが、就職が決まってすぐ、ぼくたちは一緒に暮らし始めた。互いの若さが苦労を呼び、絆が揺らぐほどつらい時期も、幾度となくあった。そんなとき、そばを食べに来るふりをしてひとりここへ来ると、不思議なくらい心が落ち着いた。そしてまた、初志を取り戻していく。陵子も同じようにしていたと知ったのは、生活が安定してからずっとあとのことだ。
 生まれた娘はすくすく健康に育ち、ふたりが通った高校を出て、吉祥寺でキャンパスライフを満喫している。紆余曲折は当然のようにあったけれど、それなりにまともな大人になってくれそうだと、とりあえずは安心したところでもある。
 だが。
 今年の夏、陵子の病が発覚した。手術を終え、安静を取り戻しているが、長くはもたないだろうと医者に告げられていた。
 深大寺で年越しをしたい、と言い出したのは陵子の方だ。弱った身体で夜に外出などもってのほかだと反対したものの、これが最後の願いになるかもしれないと思うと、押し切られるしかなかった。
 大事を取って車で行こう。免許を取ったばかりの娘が今、駐車場で待ってくれている。
 ──せっかくだし、ふたりで恋人時代を思い出しながら行ってらっしゃい。
 生意気な言葉とは裏腹に、切なげに笑ったその顔は、母親の若い頃によく似ていた。
「二十年、か」
 溜息交じりに言うと、陵子が不思議そうにぼくを見上げた。
「何?」
「いや......」
 投薬のせいで、陵子はときおり記憶が飛ぶようになっていた。日常生活に影響は少ないけれど、同級生の顔や、昔よく行った店の名を思い出せないことが多くなっていた。
 初めて口づけを交わした日に咲いていた、紫陽花の艶やかな色。湧き出す水の音。雨上がりの、澄みきった空気。
 きみはいったい、どこまで憶えているのだろう。大切な想い出の後ろには、いつも同じ風景があったことを。
 本当に、これでよかったのか。若さゆえに前のめりだったぼくの想いが、きみの人生を奪い取ってしまったのではないか。そんなことない、と返してくれるのを期待する、ただ自分を安心させたいがための愚問に過ぎない。だからずっと訊けずにいた。なのにどうして、今になってこんなにも答えが欲しくなるのか。──......
 人混みがつらいと陵子が言ったので、ぼくたちは列を外れ、参道の端に身を寄せた。境内は混雑していて、中に入るのは諦めるしかなさそうだった。冷え切った屋外にいるのも身体にさわる。さすがに陵子もわきまえたようで、ここでいいわ、と、睫毛の長い瞳で淋しそうに山門を見つめていた。
「来年はお父さん一人になっちゃうかもね」
 ぽつりと、陵子が漏らすように言った。
「馬鹿なことを言うな」
 ぼくは思わず真顔になっていた。
「そうじゃないの」
 陵子は首を振ると、ゆっくり腕を上げ、左の方を指さした。古い水車のある場所を。昔と変わらないままの笑顔を、浮かべて。
「どうなるかわからない先の未来より、今この一瞬をあなたといられたから。私はずっと、幸せだった」
「陵子......」
 ふいに、鼻先が痛くなった。 
「ふふ。泣かないの」
「寒さがしみるだけだ」
 強がってみたものの、視界は霞み、吐息が熱くなっていく。歯を食いしばらなければ、すぐにでも喉元から何かが溢れ出してしまいそうだった。
 そっと、陵子がぼくの指に触れた。握りしめてくる手を、ぼくは握り返した。強く。もっと、強く。
「痛いよ」
 陵子は苦笑いしたが、振りほどこうともしなかった。
 手のひらの冷たさを。そして、ほんの少しの体温を。ぼくは忘れない。きっと、忘れられない。
 やがて、境内から僧侶たちの唱える経の声と、彼らが打ち鳴らす鈴の音が聞こえてくる。
「今年が終わるのね」
「ああ」
 まもなく迎える時刻とともに衝かれる梵鐘に、古い年の記憶を預けていく者もいれば、刻みつけていこうとする者もいる。
 ──ぼくたちは。
 笑い、迷い、泣きながら、一緒に歩いてきた。来し方、行く末、想い出をひとつ、またひとつ、積み重ねて。
 今、この一瞬を残していくんだ。
 暦を越える鐘の音が、武蔵野の夜空に響き渡っていった。

千坂佳央(神奈川県)
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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

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