「腹、減ったァ!」
 靫彦は大声で言うと、隣を歩く僕の顔を見て、ヘラッと笑った。力の抜けた、無意味で柔らかい笑顔だ
った。
 僕等は、深大寺水車館の前を通り過ぎて、鬼太郎茶屋の方向に歩いている所だった。
 陽が傾いて観光客の姿が減ったからか、ひぐらしの鳴き声が大きく聞こえた。空も木々も建物も、打ち水された石畳も赤く染まり、一日の余韻を味わうような、穏やかな空気が通りに流れていた。
「声がデカイよ」
「お前、気にしィなのなァ」
「お前が、しなさ過ぎんの」
「でも、お前のそうゆう所、オレ、好きよ」
 靫彦は言って、再びヘラッと笑った。
「ヨモギモチが好き」と、違いがないのは分かってる。でも、面と向かって言われた好きに、何と返していいのか分からなかった。僕は口に拳を当てて咳払いした。
 夏休みの宿題に出た自由研究の為に、神代植物公園に来た帰りだった。植物の写真撮影と資料集めを終えると、靫彦が水車館を見たいと言い出した。
 なんであんな物が見たいのか、僕にはまったく分からない。渋る僕に、靫彦が必死に頼み込んだ。言う事を聞かなければ、座り込んで泣き喚きそうな勢いだった。仕方ナシにやってくると靫彦は、大きな水車に、頭のネジが飛んだようにはしゃいだ。
 バカと子供はデカイ物が好きだ。
 僕は少し呆れてそれを見ていた。でも、そのはしゃぎ方は、なんだか見ているこっちも楽しくさせて、なかなか帰ろうとは言い出せなかった。
 僕は、頭を振りながら鼻歌を唄う靫彦を見た。中学の三年間ずっと一緒のクラスだ。性格も趣味も考え方も違うのに、出会ってすぐに仲良くなり、何故かいつも一緒だった。
「なあ、蕎麦、食おうよ」
「鬼太郎のトコで、ぜんざいでも食えよ」
「バカだなァ。お前、賢いのにバカな」
「何で?」
 僕はムッとして言った。頭の作りはトカゲ程度と言われる靫彦に、バカ呼ばわりされたくなかった。
「こんなに腹減ってんのに、ぜんざいぐらいで足りる訳ねェじゃん」
「お前の腹の空き具合なんて知らないよ」
 靫彦は立ち止まってじっと僕を見つめた。戸惑って見つめ返すと、靫彦はヘラッと笑った。僕もつい笑い返す。靫彦は歩き出した。
「おいっ!」僕は靫彦に駆け寄って言った。「今の何だよ?」
「何だか怒ってるぽかったから......いつもオレが笑うと、だいたい許してくれるじゃん。だから笑ってみた」
 靫彦は、あっけらかんと言った。僕は自分の気持ちを見透かされた気がして、気恥ずかしさからカッとなった。
「何だよ、それっ!」
「どこで食う?」
 僕の声に被せるように、靫彦が言った。僕は言葉を失って靫彦を見つめる。靫彦は、僕がカッとした事に気づいた様子もなかった。
「あれ? 今、何て言った?」
 僕は笑い出した。靫彦が不思議そうに僕を見た。僕はいつだって、靫彦に敵わない。
「何、何? 何が面白れェの?」
「顔」
「そりゃ、お前の立派な顔に比べればね」
「立派な顔って何だよ」
 僕がそう言うと、靫彦は両手で僕の頬を挟んで、息がかかるほど顔を近づけた。僕は金縛りに合ったように動けなくなり、息をする事さえできなかった。
「お前の顔って、本当に丁寧に作ってあるよねェ。ゲーノー人になれば?」
 湯気が出そうなほど顔が熱くなり、心臓の音が、周囲の雑踏の音をかき消すほど大きくなる。靫彦は、僕の動揺に気づかないのか、気にしていないのか、じっと僕の顔を眺めながら「てーねーなのねェ」と、バカみたいに呟いた。
「放せよっ!」
 僕は靫彦の手を振り払って、勢いよく身を引いた。背中が、通りかかった老婆にぶつかり、老婆の持っていた紙袋が落ちた。
「あ、ごめんね、バーチャン」
 言ったのは靫彦だった。僕は動揺が収まらず、声を出す事さえ出来なかった。靫彦は、飛びつくようにして紙袋を拾い上げ、ニッコリと微笑んで老婆に渡した。
「ホント、ごめんね」
 靫彦が言うと、老婆は靫彦の笑顔につられて微笑んだ。しかしすぐに、謝らない僕を睨んだ。
「こいつ、繊細で人見知りだから、すぐに声が出ないのよ」
 靫彦は言って、僕の背中を叩いた。
 それを合図に僕が勢いよく頭を下げると、老婆はびっくりして身を引き笑い出した。
「ね、面白いでしょう? こいつ」
 老婆は笑いながら靫彦に向かって頷き、僕等二人に頭を下げて歩いて行った。
「お前が悪いんだからな」
 老婆の姿が小さくなってから僕が言うと、靫彦は不思議そうな顔をした。
「急に......顔なんか近づけるから......」
「ダルマがある蕎麦屋にしよう」
「聞いてる?」
「オレ、あそこの味噌おでん、好きよ」
「蕎麦じゃないの?」
「蕎麦と味噌おでんを食うんだ」
「夕飯、食えなくなるぞ」
「だって、いっぱい食って幸せそうなオレの顔がいいって、前に褒めてくれたじゃん。オレ、お前に褒められるの嬉しいんだ」
 靫彦は軽い口調で言った。
 僕は、呆気にとられて立ち止まった。誰かのたった一言が、こんなにも嬉しく思える事を、僕は知らなかった。
 靫彦は立ち止まると、右手を腰に当て、左手を大きく振って僕を呼んだ。本当は、僕の気持ちを全部知っていて、からかってるのかもしれない。そんな訳ない。靫彦は何も考えていないだけだ。
 僕は何だか悔しくなり、わざとゆっくりと歩いた。靫彦はじれたように、僕が近づいてくる間、ずっと体を揺すっていた。
「おせェよ。わざとゆっくり歩いてさァ」
「先行く、お前が悪いんだろう」
 靫彦が不貞腐れた顔で黙り込み、僕はそれを見て小さく笑った。そのまま観光案内所を通り過ぎて、蕎麦屋の前に来ると、靫彦は亀島弁財天池に顔を向けた。
「井の頭公園のボートって、縁切りだって言うじゃん?」靫彦が言った。「あれって、弁財天が嫉妬するから?」
「確か、そんな話だったね」
「じゃあさ、ここも縁切り?」
「深大寺は縁結びだよ......それに、亀島の由来知らないの?」
 靫彦はコクンと頷いた。
「昔、娘の彼氏が気にいらない親が、娘を離れ小島に閉じこめたんだよ。島に行く方法がなくて困った彼氏が神様に祈ると、亀に変身した神様が、背中に乗せて島に連れてってくれたんだって。神様が助けてくれるなんてスゴイ奴だって、親も彼氏を認めて、二人は結ばれましたって言う話だよ」
「お前、お話、上手だね」
 靫彦が感心した口調で言った。
「それは今、関係ないじゃん」
「じゃあ、ここは縁結びなんだ?」
 靫彦は念押しするように言った。
「何? 誰か好きなコがいんの?」
 僕は、わざと明るい口調で言った。そうしないと、嗚咽に声が震えそうだった。
 靫彦の顔が、あっと言う間に赤くなる。その反応に、思わず僕まで赤くなった。
「蕎麦、食おうぜっ!」
 靫彦はそう怒鳴って店の中に飛び込んだ。僕はその背中を見送り、弁財天池を見た。池の方向から風が吹いて、慰めるように僕の髪を揺らした。
 分かり切った結末だ。そもそも最初から、この思いを口にするつもりはなかったじゃないか。僕は自分に言った。
 行く先をなくした僕の思いが、喉と胸に支えた。息をする度に、堅くて、重くて、熱いその塊の角が当たって、喉と胸が痛む。靫彦が店の中から大きく手を振り、僕を呼ぶ。僕は微笑んで手を振り返した。
 靫彦がヘラッと笑った。
 蕎麦が、思いの支えた喉をスルリと通りますように。
 僕は弁財天に願った。

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<著者紹介>
野中 賢(東京都豊島区/38歳/男性/会社員)

 採用担当者はわたしより二十歳は若いだろうか、履歴書を見ながら質問を続けた。
「それでは、以前は新宿のデパートで和菓子の販売をされていた、と」
「はい、定年で退職しましたが、店長を五年させていただきました」
「オープニングスタッフということで、スタッフも皆一から勉強していくのですが、あなたがこの職場で生かせる強みと言うと何ですか?」
 わたしは、にっこり笑顔でこう言った。
「忍耐です」

 一か月後、研修を経て、わたしはコーヒー店の店員となった。
 今風に言うと、カフェのキャストになった。
 このカフェには、店長を含めて八人のキャストがいるが、わたしは当然最年長である。
 調布駅前にオープンした初日は開店から勤務に入っていたが、まあすごいにぎわいだった。何でも地域でも待望の本格的なカフェということで、わたしたちはコマネズミのように働いた。
 初日ということで当然トラブルも発生する。オーダーを間違えて戸惑う(『テンパる』と今は言うらしい)女の子のキャストのフォローに回ったり、空いた席にすぐ座ってもらえるよう片付けに行ったり、レジで待たされていらいらしているお客さんに謝ったり、コーヒーを作るよりそんな仕事の方が大半を占めた。
「ハルノさん、こんな状態が毎日続くのかなあ」
 ゆっこちゃんという十九歳のキャストが音をあげると、わたしはこう答えた。
「そのうち落ち着くでしょう。大丈夫、何とかなるわよ」
 もうすぐ五時になろうかという頃、梅雨の晴れ間の暑い日差しもようやく傾きかけてきた。レジに入っていたわたしのところに、一人の年配の男性がやってきた。
「いらっしゃいませ、こちらでお召し上がりですか?」
 男性は黙ってうなずいた。
「ご注文がお決まりでしたらお伺いします」
「アイスコーヒー」
「大きさはいかがなさいますか?」
「普通」
 わたしは「トール」のキーを押しながら、その男性がどこかで見たことあるような...と思っていた。
「お会計、320円になります」
 男性は黒い皮の小銭入れから400円出した。ゴツゴツと骨張った大きな手だった。
「80円のお返しになります。あちらのカウンターでお品物が出てくるのでお待ちになってください」
「ナナセさん?」
 その言葉にどきりとして、男性を見ると、大きな目がこちらを見ていた。
 ナナセは、わたしの旧姓だった。
「もしかして...長谷川くん?」
 男性はこっくりうなずいた。
 高校の同級生だった長谷川くんと、わたしは四十年ぶりに再会した。

 それから長谷川くんは、月曜になると店にやってきた。店も一週間ほどで落ち着いたが、午後はそれでも忙しく、あまりゆっくり話す時間もなかった。頼むのはいつもトールのアイスコーヒー、席が空いていればソファで一時間ほど新聞を読みながら飲んでいた。混んでいればカップを手に持ちふらりと出て行った。しばらくはそんな時期が続いた。
「えー、ハルノさんってもうお孫さんいるんですか?」
 月曜日の開店前、店内の掃除をしながらゆっこちゃんがびっくりしたように声を上げた。
「もう三歳になるわよ。男の子だからやんちゃ盛りで」
「でも娘さん夫婦と同居なら、何かと安心ですよね。わざわざ働かなくてもいいんじゃないですか?」
「みんなそう言うけどね、わたしにとっては自立は人生のテーマだったのよ」
 そのときはそれだけ答えた。蝉の声はおしゃれなボサノバでかき消されていたが、今日も暑くなりそうだった。
 夕方、店のゴミ箱の片付けをしていると、長谷川くんが席を立ちこちらに近付いてきた。
「お預かりします」わたしは笑顔で空のカップを受け取った。
「ナナセさんは、そばはお好きですか」
 唐突な長谷川くんの問いに、私は少々めんくらった。
「好きですけど、それが、何か?」
「深大寺の『水月庵』で、私そばを打ってるんです。今度食べにきてください」
 そう言って、長谷川くんは店を出て行った。やや薄くなった白髪頭が見えなくなったとき、はじめてわたしは、長谷川くんが高校卒業後に調理師学校に進学したことを思い出した。
 深大寺。私たちが通った高校も、深大寺の近くにあった。ここ数年行っていなかったが、行こうかな、と思った。

 仕事が休みの水曜日、お昼時にわたしは深大寺を訪ねた。高校までは毎年のように初詣に行ってたが、卒業後ぱったり足が向かなくなった。その後結婚して金沢に行って、十数年暮らしたが、夫と別れて娘を連れて都内を転々とした。両親が亡くなり実家に戻ってきたころ、ようやく離婚が成立した。
 深大寺では、自分と家族の健康を祈ってきた。この年になると、もっぱら願いはそんなものだ。土産物屋などをひやかしながら、わたしは水月庵に向かった。
 バス停から五分ほどのその店は、ひっそりとたたずんでいた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」カウンターから長谷川くんがのぞいてあっと目を丸くした。わたしはにっこり微笑んだ。
 幸いすぐに席に通され、お冷やとおしぼりが運ばれてきた。
「もりそばお願いします」
 盛り一丁ーっと三十代くらいの女性の店員さんがカウンターに声をかけると、へいっと長谷川くんの返事が響いた。店内は会社勤めのおじさんや、深大寺詣での後らしいわたしぐらいの奥様方など、落ち着いた雰囲気だった。
 しばらくして、もりそばがやってきた。そばのざると、つゆの瓶とそば猪口、薬味の皿。ざる以外は、伊万里だった。割り箸を手に取り、ぱちんと割って、さっそくそばを一口すすってみた。
「...おいしい」
 一人だったのでそれからは黙々と食べた。そばはコシがあってのどごしがよく、つゆも辛すぎず食べやすかった。ネギとショウガとわさびを加え、簾からの風を感じながらそばを食べた。女一人でそばを食べられるようになったのは、いつ頃からだろう。そう思ったのは、ざるが空になって一息ついたときだった。
 店員さんがお冷やのお代わりを持ってきたので聞いてみた。
「このお店はいつからやっているんですか?」
「店自体は三十年くらいですね」
「わたし、あの長谷川さんと高校の同級生だったんですよ」
「そうなんですか。あのとおり、まじめな親方で、そば一筋ですよ」
「わたしが働いてるコーヒー店で偶然会って。びっくりしました」
「そういえば、言ってましたよ。駅前にできたカフェに、知り合いが働いていて驚いたって。ああ、それが奥様ですか。お若いですねえ」
『奥様』という響きが少々居心地悪かったが、私はあいまいに微笑んだ。
「お会計!」
 そこに長谷川くんの声が響いて店員さんはあわててレジに戻った。わたしが長谷川くんに会釈すると、長谷川くんもばつが悪そうに目礼した。
「とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「長谷川くんはお変わりないですね」
「ナナセさんもお元気そうで」
「あ、その名字変わったんです。今はハルノです。まあ今は独り身ですけど」
「すみませんでした」
「いいえ、いいんです。長谷川くんにそう呼んでもらえると、少し若返ったような気がします」
 そう、わたしは長谷川くんと再会して、少し若返ったのだ。「少し」だから、昔ほど無茶はできない。でも、今だからできることもあるのだ。
 わたしは伝票を手に会計に向かった。
「ありがとうございました」
 店を出るとき、店員さんとともに長谷川くんがお辞儀をした。
 
 そして月曜日の夕方、レジを終えると、ちょうど五時になっていた。
「お疲れさまでした」
 わたしは制服から私服に着替え、ロッカーを出た。長谷川くんはソファで新聞を読んでいた。
 その背中に近付きながら、わたしは言うべき言葉を考えてどきどきしていた。
 積もる話は山ほどある。だからこそ、ゆっくり歩けばいいじゃないか。
 彼と会うときだけ、わたしは七瀬みどりになれるのだから。

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<著者紹介>
加瀬 ヒサヲ(東京都/29歳/女性)

      1

驟雨だった。
あの時のように、細かい雨が絹糸のように体にまつわり、落ちてゆく。
展示場の軒下にはいって、ハンカチで洋服をふきながら、あの時の幻を見つめていた。彼が恋しかった。

上京して、三鷹の近くの大学の付近で、アパートを借りての一人暮らし。
憧れていた学生生活のはじまりだった。父親が事故で亡くなったのは、私が中学の時だった。母親の仕送りでまがりなりにも、これから、十八歳の一人暮らしがはじまる。貧しくても、希望に光り輝いていた。朝昼の二食は、学食ですまし、夕飯は自炊した。お米を買い野菜を買い、肉や魚を買った。毎日がおままごとのように過ぎた。
母親が、故郷の仙台でいけばな教室を開いている。幼いころから花を生ける母のそばで、あそびながら、この花は薔薇ですよ 菊ですよ葉蘭、南天 カトレアなどなど、聞かされていた。そのせいか、花や、樹木が好きになっていた。神代植物園は、暇ができると、よく足をはこんだ。無理に大学で友人をつくるより、私にとっては、ずっと自然だった。

あの時も、梅雨空のなか、読書につかれた目を、緑や、花でいやされたくて なんとなく来てしまった。樹木に囲まれると、母といるように、安らいだ。くちなしの木の下まで来て、不意にシャワーのような雨につつまれた。
「あ、どうぞ、傘に入ってください。梅雨の時はしょうがないですねえ、
雨が待てしばしがなく、降ってきますからねえ。でも、雨にぬれて、生き生きする植物をみるのが好きなんですよ」
見知らぬ男性だった。四十代だろうか、話しなれた風で、傘をさしかけてくれた。ブルーのカラーシャツが清潔そうな印象だった。
1諸に園内をぐるりとまわった。さりげなく、お茶も誘われて、深大寺のそばの喫茶店に行った。父親に接しているような、親近感で、学内の愚痴なんかも、知らず知らずに、しゃべっていた。

      2

 あれ以来、時々、神代植物園であった西川哲也が、誘いの電話をくれた。
渋谷の劇場への誘いとか、やはり、渋谷にあるロシア料理とかへの招待だった。
「ここは、シアターコクーンといって、お芝居のほかに、海外から呼び寄せたオペラや、音楽の演奏会も行われるのですよ」
「コクーンなんて、変な名前ですね」
「そうですね、聞きなれない言葉だけど、繭という意味のようですよ
ここで、蜷川芝居のギリシャ悲劇を見たときは、感動しましたよ。紅ちゃんは
今日のような、お芝居は、また、蜷川芝居とは、趣きが違うけど、お好きですか」

「あ、劇団旅人という名前は聞いていましたが、はじめてみました。お芝居のテーマというか、作者が なにをいいたがっているか、わかったような気がします。
役者さんたちもすばらしかったわ。このような、世界もあるのですね。新鮮な驚きです」

観劇のあとはロシア料理店に案内された。
西川は 慣れた感じで、ウエイターに料理の注文をし、ワインも何年ものが美味しいとか熟知した感じでオーダーしていた。慌てて、私は未成年者ですと言ったら、えっと、ひどく驚いた。
もう二年で飲めますからと言ったら、また驚いた風で、若い人の年は見当もつかない、とうろたえていた。

          3

 西川との、ときどきの交流は楽しく、私の貧しい学生生活を華やかにいろどってくれた。明日、会いたいという電話が来た日は、胸がはずんで、その夜は、なかなか 寝付かれなかった。そんなこんなで大学の生活にも、慣れてきたが、内気な私には、友人は、なかなかできなかった。。
クラブは演劇クラブにはいった。西川に案内された、お芝居の影響からか、クラブをえらぶのに時間はかからなかった。
彼らはチエホフのかもめをとりあげていた。いい役はみんな、先輩のもので、こちらは衣装がかりとか、小道具とか、使い走りに毛の生えたような裏方ばかりだった。
先輩とのつきあいは、むずかしく、大学の講義には、ついてゆけたがクラブのしきたりには、心の中で反発していた。

 「先輩は、そんなものですよ、どこの世界でも・・・・。彼らに理屈はないのですよ。先輩風を吹かせたいだけなんだから・・・。反発しないで、スルーすればいいのですよ。それよりも、クラブに入ったおかげで演劇のアウトラインがわかってきたでしょ。そうして、本物のお芝居を見れば、味わいが1段と深くなる筈です」
「そうかもしれませんね。でもね、先輩が私の台詞をきいて、君のなまりを治すには二年か三年かかるなあ。アクセント辞典を買って練習しなさい。と言うのよ」
「それは、厳しいですね、まるで プロの世界だ。まあ、高みをねらって努力するのはいいことですよ。なまりと言うか、方言にはいい味があって、僕は好きですが、なおせたなら、社会にでた時もおおいに役に立ちますよ」
西川の言葉は人生の先輩として、重みがあった。
急に西川と連絡がとれなくなって、一ヶ月になる。何か気にさわることを言ったのかしら?お仕事が忙しいのかしら。心を痛めたが、思い当たることもなく、あきらめかけていた時、メールが入った。

「桂木紅子さん 始めまして。急にメールを差し上げてごめんなさいね。わたしは、西川哲也の妻です。あなたのことは、伺っておりました。神代植物園で夫と偶然にお会いしたのですね。彼はとても、喜んでおりました。死ぬまぎわに若いお嬢さんと知り合えたことを。
彼は末期癌でした。息をひきとってから、1ヶ月たちました。ようやく落ち着きましたので、メールをさしあげる決心がつきました。彼は、癌の宣告をうけてから、気持ちを落ち着かせるために、よく植物園にでかけておりました、樹木やお花が好きで、見ていると、穏やかに死を迎える準備ができそうだと言っておりました。あなたのことを、くちなしの花の精が急に目の前に現れたようだったとはなしておりました。彼は劇団旅人の役者でした。
紅子さんをスカウトしたいなどと冗談を言っておりましたが・・・。もう、今は天国で、お芝居を演じているでしょう。
紅子さんのような若い方が、あんなおじさんと付き合ってくださって、有難うございました。彼は最後のお芝居を 若いお嬢さんと演じられて、役者冥利につきると言っておりました。かさねて、有難うを申します。紅子さんには、輝かしい未来があります、もう、哲也のことはお忘れください。おからだお大切におすごしください、では、失礼いたします」
ショックで、何も考えられなくなった、食事も胃が受け付けなくなった。何日も起き上がれなかった。奥様への連絡も、携帯が不通になっていてできなかった。やっとの思いで深大寺におまいりして、彼の冥福を祈った。
植物園にはいると、雨が落ちてきた。あの時と同じだが、傘をさしかけてくれる彼はいなかった。

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<著者紹介>
伊東 ポピー(神奈川県藤沢市 /54歳/女性/主婦)

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