やはり自転車で来て正解だった。神代植物公園北の交差点を曲がり、公園内を横断する並木道に入った瞬間、舞子はそう確信した。雨に濡れた植物のむせ返るような匂い。アスファルトの上に木漏れ陽が描く複雑なまだら模様。頭上を通り過ぎていく木々放つ圧倒的な生命力。それら全てが渾然となった官能を胸いっぱいに吸い込むと、今までの惨めな気分が何処かへ飛んで行き、躰が軽くなるのを感じた。
 ペダルを漕ぐ脚に力を入れる。七月の風が全身を通り過ぎる。木々の葉から落ちてくる水滴が頬の上で弾けるのが心地良い。いつもなら学生鞄が収まっている、ハンドルの前の買い物かごには、愛用のバッグがひとつ。その中には、初めて書いたラブレターが大切に収められていた。
 その手紙を、舞子は徹夜で書き上げた。書き終わったのは朝の七時。夜半過ぎから降りだした雨は、その頃には土砂降りになっていた。やっとの思いで書き上げたというのに気分は最悪だった。どっちみち、この雨じゃ、手紙を出しに行くことすら出来ない。いっそ全てを無かった事にして、眠ってしまおうか。しかし、枕を抱えてリビングのソファに転がってみても、眠気は一向に訪れなかった。九時を過ぎた頃、雨足が弱くなってきたのに気づいた。あれよあれよいう間に雨が止み、雲の切れ目から強烈な夏の日差しがこぼれてきた。
 舞子は自分の部屋に戻ると、便箋を三つ折りにして封筒に入れ、表にブルーブラックのインクで丁寧に宛名を書いた。内容をもう一度読み返す勇気はなかった。スティック糊で封をした時、果たしてこれで良かったのだろうかと、少し不安になった。
 初めて書いたラブレター。しかし、その内容には、はなはだ自信がない。そもそも、ラブレターとはどんな物なのか、舞子にはよく分からない。夜通し書いた手紙も、こうして夏の日の下で見ると、あまりに現実感が薄く、儚いものに思える。本当に、これを投函する勇気が、自分にあるのだろうか。

 舞子は、自分が感情よりも、理性の勝った人間だということを承知していた。言葉で明確に表現出来ないことや定義できないこと、あるいは客観的な評価基準がないことが、彼女はとても苦手なのだ。友人たちが、服のセンスの良し悪しや、音楽や食べ物の良し悪しについて、何の苦も無く論評しているのを聞いて、いつも羨ましく思っていた。しかし、その評価基準を問い詰めて、友人たちを呆れさせるような事はしない。それくらいの分別は彼女にもあった。成績が良いという事で、ただでさえ特別扱い......というかほとんど変人扱いされているというのに、これ以上、揶揄いのネタを自分から提供する事はない。
 こんな性格は、こと恋愛に於いては、かなりやっかいだ。理性が発達し、情緒が未発達な人間にも、恋愛という物は容赦なく襲ってくる。そして恋愛感情に支配されたとき、舞子はいつも、極度の混乱状態に陥るのだ。何事にも白黒つけなければ気が済まない彼女の性格は、微妙な駆け引きや非言語コミュニケーションが重要な恋愛に、まったくもって向いていない。
 そんな舞子がラブレターを書くということ自体、無謀な挑戦だったのかもしれない。昨夜、真っ白な便箋を前にした時の絶望的な気分が、再び蘇ってきた。いったい、ここに何を書けというのだろう?
 自分の素直な気持ちを便箋に移せばいい。
 おそらく、それが正解なのだろう。しかし、それは舞子には通用しない。なぜなら、その素直な気持ちこそ、彼女の最も理解し難いものなのだから。強いて言葉にすれば、ただ「好き」としか言いようがない。真っ白な便箋の真ん中に、黒い大きな文字で「好き」。それが舞子の素直な気持ちだった。
 だが、それではラブレターにならない。「好き」は、ただの出発点。問題は、それをどう展開させるかだ。いろいろ苦心して、彼女が考え出したのは二つ。ハウマッチとホワイだ。あなたのことを、どれだけ好きなのか。なぜ好きなのか。その時は、いいアイデアだと思った。これなら私でも書けるかもしれない。
 ところがやってみると、これが簡単にはいかない。舞子は万年筆を手に取り、まずハウマッチの方から取り組んだ。「10を最高としたら7.5くらい」それが彼女にできるせいぜいだった。便箋を破り捨て、気を取りなおしてから、ホワイに取り掛かる。一時間後、なぜあなたを好きなのかについて、便箋五枚にわたって延々と論証している自分に気づいた。ラブレターで相手を言い負かしてどうするつもり?舞子は、自分がほとほと嫌になってきた。
 学習机に頭を乗せてぼおっとしていると、表で雨の音がするのに気づいた。もう、深夜の四時半を廻っている。やはり自分にラブレターなんて無理だ。いや、そもそも恋愛そのものが無理なんだ。優等生の舞子に恋愛なんて似合わない。
 すると、胸の奥に小さな怒りの火が点るのを感じた。恋愛なんて、私がしたくてしている訳じゃない。いつも、こちらの意思など無視して、突然降り掛かってくるではないか。今度だって、一ヶ月前には何とも思ってなかったクラスメートが、いつの間にか私の中で世界の中心みたいになってしまった。何でこんなふうになったのか、こっちが知りたいくらいだ。そう思った瞬間、ついさっきまで自分がホワイについて、便箋のうえでさんざん論証を重ねていた事に思い当たった。その全てが、何もない想定の上に、論理を積み重ねただけの、空虚な詭弁だと突然気づいたのだ。そうだ、なぜ彼を好きなのかなんて、私自信、全く分かっていないのだ。
「私には分かりません。どうしてあなたを好きになったのか」
 気が付くと、便箋にそう書いていた。すると、この一ヶ月間、心の上にのしかかっていた重みが、少しだけ軽くなった気がした。
 そういう事だったのか。自分の心に素直になるってこういう事なのか。分からない事を、分からないと素直に認め、そのまま受け入れる。無理に理由を追求しようなどとはせず、むしろ分からない事、それ自体を大切にする。なぜならそれが、自分というものだからだ。不思議なことに、舞子は自分の何かが、初めて分かったような気がした。舞子は、心を空っぽにし、ただペンを走らせた。心がどんどん軽くなるような気分だった。
 書き上がったのが、朝の六時。そして、清書にさらに一時間。雨は日の出と共に激しさを増し、その頃には土砂降りになっていた。
 
 自転車のスピードを上げると、樹木の葉を通して落ちてくる光の粒が躰を駆け抜け、まるで光のシャワーを浴びているようだ。なんて美しいんだろう。もし私に絵が描けたなら、この景色を素敵な水彩画にして彼に贈りたい。もし私に音楽の才能があったら、現在の気分をピアノの小品にまとめて、彼にそっと聴かせたい。そう考えると、自然に笑みが浮かんできた。
 自分は、これからどうするつもりなんだろう。ペダルを漕ぎながら、舞子は不思議に思った。どうやら自分は、あの手紙を出すつもりはないらしい。神代植物公園北の交差点を左に曲がった時点で、それは分かっていた。少しばかり、勇気が足りなかったのだろう。真っ直ぐ行けば目の前は郵便局。なのに、自分は交差点を曲がってしまった。
 この道の先は、五叉路になっている。そして、そこを右に折れて少し行けば、深大寺へ降りる参道だ。深大寺は、縁結びの寺として有名な古刹だ。こんなに近所に住んでいるというのに、舞子は一度も深大寺を訪ねたことがなかった。
 縁結びの寺で願を掛ける。いつもだったら、そんな発想をしたとたんに、彼女の中の理性が騒ぎ出し、現実世界での効用と、宗教施設での儀式的行為の間に因果関係を見出すことの無意味さを論証し、ただちに馬鹿な考えを退けていたはずだ。しかし、今回はそうではなかった。夏の空気があまりに気持ちよかったせいか、一晩、眠っていなかったせいか、彼女の中の理性は、今日は妙に大人しかった。ひとつだけ確実なのは、深大寺の森へと続く参道を、このまま自転車で降りて行ったとしたら、それは素晴らしくいい気分に違いないという事だ。

 山門の近くに自転車を駐めた。ラブレターの入ったバッグを手に取り、参道を少し歩いた。雨に濡れた深大寺の森が美しかった。さっきまで雨が降っていたせいか、人通りは少なかった。蕎麦屋や土産物屋が、参道脇に席を整えたり、商品を並べたりしていた。
 境内に入り、両手を清め、深沙大王堂の前に立った。木に囲まれた、思ったより小さなお堂だった。雨上がりの静謐な空気が喉の奥に流れ込み、自転車を漕いでいたときとは、また違った心地良さを覚えた。バッグから封筒を取り出し、手にとった。私の気持ち。それをどこまでこの手紙に託すことが出来たのだろうか。私は、もう一度、この手紙を投函する勇気を持つことができるだろうか。
 両手を合わせ、その間に手紙を挟み、しずかに眼を瞑った。風が頬を優しく撫でた。
 どうか、わたしの気持ちを、伝えることができますように。

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<著者紹介>
榊 貴之 (東京都稲城市/49歳/男性/会社員)

―あ、また。
瀬里葉は、唇を噛み締めている自分に気が付いた。
どうも最近、こうすることが癖になってしまっている。この間も先輩に、「お客様をお迎えする窓口で、ムスッとした顔しないの!」と注意されてしまったところだ。
耐えているのだ、と瀬里葉は思う。彼がいなくなった淋しさを、唇を噛む痛みでごまかし、紛らわせようとしているー。
バスの窓に映る、どう贔屓目に見たところで平凡な、二十四歳の女(それが現実だ)と目を合わせ、瀬里葉は心に言い訳した。


 今まで、単なる部下の一人でしかなかった瀬里葉からの突然の告白に、彼はさぞかし戸惑ったことだろう。でも、せめて最後に、気持ちだけでも伝えておきたかったのだ。
 彼は、
「自分には、君はもったいない」
と言った。その前の十数秒の沈黙が、まるで罰ゲームを受けているみたいに感じられた。
「友達が入院したとか、親の介護が、とか......飲みに行くと、必ずそういう話題になるんだ。君にはまだ、想像もできないだろうけど。......僕はもう、そういう年なんだよ。......だから、」
こちらが気の毒になるほど、彼は頭を下げた。
―僕なんか、止めたほうがいい。

 その答えを、どう受け止めていいのか悩んだ。
(......私じゃ、駄目ですか? そんな言い方をされると、諦めきれない)
思い出して、瀬里葉は再び、唇を噛んでいた。
(あの時は、怖くて聞けなかった。)
だからこそ、はっきりした答えをもらうために、何よりも、彼に会いたくて、瀬里葉は、深大寺行きのバスに乗ったのだった。

深大寺のある調布市は、人の多いことを除けば、瀬里葉の田舎とよく似ていた。カラフルだけれどどこか無機質な、大手チェーンの店が立ち並ぶ中に、昔からの古い家や商店、そして深大寺を中心として大事に守られてきた自然が、仲良く、新たな時を刻んでいた。
 深大寺入口のバス停で降りると、繁った木々の影響だろうか、いっそう空気がひんやりとした。桜が、枝先まで残らず花を咲かせているというのに、今日はあいにくの曇り空。せっかく新調したシフォンブラウスも、上着の下に隠さなければならないくらいの肌寒さだった。
瀬里葉の目指す蕎麦屋は、観光案内所の近くだった。参拝を終え、名物の蕎麦を食べて帰ろうかと、楽しそうに思案している家族連れの間を、瀬里葉は一人、肩をすぼめて通り抜けた。
いつかこんな風に、ベビーカーを押して、愛する旦那様と出掛ける休日が、瀬里葉のささやかな夢だ。けれど今の彼女にとっては、持て余すほどの夢でもあった。
 山門へ向かう道を地図通りに進むとほどなく、目的の蕎麦屋は見つかった。見つかったけれど、心に準備をさせたくて、瀬里葉は少し離れたところで立ち止まった。
店は繁盛しているようだ。入り口でたむろする客たちの隙間から見えた懐かしい姿に、瀬里葉は思わず泣きそうになった。店の入り口で蕎麦を打っていたのは、彼―菰田周吾その人だった。

 入社以来、瀬里葉の真面目さを誰よりも認め、どんな失敗でもフォローし、励まし、時には叱咤してくれた菰田は、先月末で銀行を辞め、蕎麦の手打ち職人へと転身した。
 菰田から退職の話を聞いた時、瀬里葉は、心を半分えぐられたような衝撃を受けた。自分が勤めている間に、上司である菰田がいなくなるなんて、考えたこともなかった。それだけ瀬里葉は菰田に頼っていたし、彼は銀行にとって、もとより瀬里葉にとって、必要な人だと思っていた。
「平日は銀行マン、休日は蕎麦打ち。実はここしばらく、二束の草鞋の生活をしていたんだ」
秘密基地の場所を打ち明ける子どものような瞳で、菰田は無邪気に言った。
「四十の手習いだよ」
と。大したことではないよ、と照れた。
けれど今、すぐそこで蕎麦を打っている彼の目は真剣だった。

ガラス越しに、珍しげに見守る参拝客には目もくれず、ひたすらに蕎麦を打つ。手の動きに合わせて、上半身も力強く、リズミカルに上下した。細身の菰田は、全身の力を振り絞って蕎麦を打っているようだった。
(すごい......)
何かに引き寄せられるように、瀬里葉の足が、一歩、二歩と進んだ。
蕎麦を打ち始めて、まだ数年とは思えなかった。途切れのない動き。ぶれない目線。あまりの集中力に、瀬里葉ははっとさせられる思いだった。
「どんなに忙しくても、お客様に、決して雑な対応をしてはいけない。笑顔で丁寧に、かつ、迅速な仕事をすること。それがプロの仕事だ」
よく注意された。瀬里葉は真面目で一生懸命だけれど、自分のことに一途になりすぎて、周りが見えていないことがある―。

(......あの頃に比べて、私は、少しは成長しましたか?)
 湧き上がった思いは、上司であった菰田に対しての問いかけではなく、自分自身への、遠回しの戒めだった。
 菰田がいなくなってしまってからは、心にぽっかりと穴が開いたようだった。仕事中も、菰田のことを思い出しては、ぼんやりとしていた。
「窓口で、ムスッとした顔して座ってないの!」
そこには、いつか菰田に言われたようなことを、いまだに注意されている自分がいた。
 気難しい客の対応に手こずったり、苦手な業務に尻込みしたり。いつまでたっても、仕事は「やらされるもの」で、給料は「がまん料」であって、胸を張って窓口に座っていられる瞬間なんてなかった。
上を目指そうなんて思わない。自分はこの程度、この程度がいいのだと、大した努力もしないで、限界を作ってしまっている自分。
 菰田との間に、大きな溝を感じた。

 そうすれば菰田が気付いてくれるかのように、瀬里葉はしばらくじっと、菰田だけを見つめていた。
いつまでも一人前になれない瀬里葉のことなど知らずに、菰田はきっと、明日も真摯に蕎麦を打ち、また一歩、ベテランの蕎麦職人へと近付いていくのだろう。菰田にとって瀬里葉は、告白の前も後も、単なる部下の一人に過ぎなかったのだ。それを証拠に、彼はすでに新たな道を歩み始めている。それも、ずっと、ずうっと先を。
 瀬里葉は、唇を噛んでいることに気付いたが、構わず、余計にぎゅっと噛み締めた。バスの中でもそうだった。菰田に会いに行くというのに、不思議と、楽しみな気持ちばかりではなかった。
―そう。きっと本当は、初めからわかっていたの。......ただ、会いに行く口実を作っていただけ。仕事も手につかない自分の弱さを、菰田さんのせいにしようとしていたんだ......。
 明日からの現実が、「いい気味だ」と笑って待っている気がした。

 思い出に浸る瀬里葉の前を、桜吹雪が横切った。
「ワー」
五歳くらいの女の子が、力いっぱい手を広げ、桜のシャワーを全身で受け止めようとしている。その目の前に広がる無限の未来を、できるものなら分けて欲しい、と強く思った。
風に吹かれ、次々と散っていく花びら。その最後の姿を慈しむかのように、瀬里葉も、空に向かって手を伸ばした。
躊躇いもなく枝から離れる花びらは、もう「きれいね」と見上げられなくなることを、惜しくはないのだろうか。はかない重さしかない花びらは、風に煽られると、簡単にその身を投げ落としてしまう。
(......ううん。躊躇いがないわけではない。惜しくないはずもない。......ただ今は、踏ん張れるだけの力がないの。)
瀬里葉は、手のひらに乗った花びらに語りかけていた。
(―私も、同じね。)
 
 瀬里葉は、店の前を逃げるように離れると、山門をくぐり、本堂へと向かった。
 深大寺は、縁結びのお寺であるらしい。予定では、菰田の打った蕎麦を味わい、久し振りの会話を楽しみ、その後で、思いを確かめるため、お参りに誘うつもりだった。
 瀬里葉は、羽織っていた上着を脱ぐと、本堂の前へと進んだ。
ずっと好きだったのに、ずっと会いたかったのに、でも今は、まだ会えない、と思っていた。
(なくしたものを嘆いて、欲しがるばかりで、そのくせ、流されるまま。......たとえこの先、自分が何者にもならないまま、桜の花びらのように散ってしまう日が来たとしても、それも仕方がない、と諦めてしまうの?)
 指先までぴたりと揃えた両手が、熱くなっていくのを感じた。
(会いたかった。今でも会いたい。すごく会いたい。本当は。)
 桜は、すっかり花びらを落とすと、緑の葉っぱを伸ばし、また、新たな花を咲かせる準備を始める。落ちた花びらは、けれど、さっき出会ったあの女の子のように、眩しい未来の中にいる。花びらが散っていくことは、生まれ変わるために、必要なことなのだ。
 くるり、とまわれ右をした瀬里葉の顔は、さっきまでとは違っていた。
―いつか。また、いつか会いましょう。
 今日ここへ来たことには、ちゃんと意味があったのだ。
 瀬里葉の言葉を繰り返すように、木々が揺れた。
 いつか、いつか。

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<著者紹介>
城東 真由美 (大阪府大阪市/27歳/女性/会社員)

  約束の時間だ。
亨は携帯電話をポケットにしまうと、自転車のスピードを落として彼女の姿を探した。いや、探すフリをした。顔も年齢も思い出せず、亨にはわかっているのは性別と名前だけ。待ち合わせをするのに十分な情報とは言えないだろう。
昨夜、知らない女からメールが届いた。首をひねったのは、覚えのないその名前がケータイに表示されたからだ。アドレス帳に登録されている・・? いぶかしく思いながらもメールを開くと、こんな内容だった。
「先日は楽しかったですね。とても素敵な式、披露宴でした。五島さんはだいぶお酒が入っていましたけど、明日の約束は覚えてるでしょうか・・? 私は今週ずっと楽しみにしていました。十一時に神代植物公園の正門前で待っています」
亨はしばし呆然とし、それからフルスピードで頭を働かせた。まっさきに思い浮かんだのは悪友たちの顔だ。先週参列した同期の結婚式には、こういういたずらを仕掛けそうなやつが何人かいた。しかし探りの電話を入れてみると、どうも違う。
胸のあたりに、いやーな感覚がわきあがる。確かにあの日は飲み過ぎた。新郎は亨の親友で、彼の結婚は自分のことのように誇らしかった。両親への感謝の言葉には思わず涙が出たくらいだ。酒のまわりもいつになく速く、二次会の途中から記憶がない。おそるおそる記憶をたぐると、なんだかやけに盛り上がって熱く語った気がする。誰かの肩をばんばんたたいていたような気もする。そのへんまで思い出すと心臓がぎゅっとなって、亨は考えるのをやめた。酔った勢いで女をデートに誘ったらしい格好悪い事実は、いまさらどうしようもない。肝心なのは明日だ。
To go or not to go.
文面からすると亨が誘ったような雰囲気だ。それを前日になって断るのはいかにもひどい。一方で、この南沢あずさなる女性がどんな人なのかまるでわからない。どんな話をしたのかも覚えていないのだ。美人かもしれないし、十人並みかもしれない。すごく楽しいかもしれないし、退屈な時間になるかもしれない。うーん、と亨はうなった。
そして今日、お気に入りのマウンテンバイクにまたがり、定刻に亨はここにいる。心理学を専攻していた友人によると、なぜか人は確率が低い方に賭けたがるという。太古の人々が信じたように、希望とは魔物だ。
自嘲した亨は、人待ち顔で辺りを見まわす。こうして向こうから声をかけてくれるのを待つしかないのだ。果たして、女性の声が亨を呼んだ。
「あの、五島さんですよね」
少し離れたところに立つショートヘアの女が、のぞきこむようにして亨を見ている。
「こんにちは。南沢です」
「あ、どうも」
 白いパンツとサンダルが涼しげなあずさも、ほっとしたように笑う。
「近くにいるのに、五島さんたら全然気づかないんだもん」
 あずさがちょっととがめるような目をして、いたずらっぽく笑う。目をひく美人ではないが、優しげな笑顔が素敵だ。
「ごめんね。なんだかこないだとはずいぶん印象が違って見えて」
 適当にごまかすと、あずさが目を見開く。
「すごい、よくわかりましたね! 私、髪切ったんですよ。男の人は気づかないって言うけど、五島さん鋭いですね」
 げ、そうだったんだ。
「短いのも似合うよ」
あずさは亨を見つめて瞳をきらめかせ、小さな声でありがとうと言う。想像していたより素直で可愛らしいあずさに、亨は嬉しくも意外な気がした。酔っ払いとデートの約束をしたり、前夜に確認メールを入れてくるあたり、したたかな大人の女性だろうと想像していたのだ。
「これからどうする?」
「とりあえず植物園!」
子どものように入り口を指さすあずさの表情に、亨もなんだか楽しくなってくる。
他愛のない話をしながら、並んで青葉の中をのんびり歩く。あずさは亨の話をにこにこと聞き、ときには草花についておもしろい話をしてくれる。誘ったのは亨だが、場所を決めたのはあずさのようだ。すっぽかさなくてよかったと亨はしみじみ思った。
お昼は蕎麦を食べることにして、雑木林を抜けて深大寺門から外に出る。あずさがよく行くという店に入り、まずは深大寺ビールで喉を潤した。甘くてフルーティな黒ビールだ。五月の風がオープンエアの店内を吹き抜けていく。さわさわという音に目線を上げると、青空が見え隠れする緑の天井。
「いいねえ」
思わずつぶやくと、向かいのあずさがにっこりする。
「生き返るでしょう」
「うん」
「植物園はどうですか」
「楽しい。気に入った」
「ほんと? よかったあ」
「午後も楽しみだよ」
「五島さん、あたしのこと覚えてなかったでしょ」
「え」
あまりの不意打ちに亨はかたまる。
「似合うって言ってくれたけど、本当はショートヘアは好みじゃないし、パンツよりスカートが好き。でしょ」
 亨がよっぽど狼狽した顔をしたのだろう。あずさがはじけるように笑った。
「ごめんなさい。こないだのこと全然覚えてないみたいだから、ちょっと仕返し」
そう言うと、空になった亨のコップに丁寧にビールを注ぐ。その間になんとか冷静さを取り戻した亨は、ようやく思い至る。
「そうか。こないだ話したんだね」
 あずさが微笑む。
「記憶、少しはあるんですか。それともまったく・・?」
「ごめん」
亨は手を膝に置き、テーブルに頭がつきそうなくらいに頭を下げる。あずさが許してくれるまでそうしているつもりだったが、蕎麦が運ばれてきたので仕方なく亨は顔を上げる。あずさはきゅっと口を結んで亨をにらんでいたが、瞳の奥には楽しげな光が踊っている。亨が視線をそらさずにいると、あずさがこらえきれずに表情を崩す。どうやら怒るよりおもしろがる方に転んだようだ。
 しばらくの間、二人の間には蕎麦をすする音だけが響いた。手打ちの十割蕎麦はのどごしがよく、亨は一気にたいらげてしまう。
「その髪、本当に似合ってるよ。ショートも悪くないって、今日はじめて思った」
 あずさは数秒間またたきもせずに亨を見返していたが、首をひねるとビール瓶を手にとって疑うような目つきを亨に向ける。亨は思わず声をあげて笑った。
「ただのビールだよ。酔っぱらってないって」
茶目っけのある笑みを残しながら、あずさは亨をじっと見て言う。
「髪を切ったっていうのは嘘なの。もともとショートなんです。五島さんね、こないだ、ショートヘアは好みじゃないって何度も何度もあたしに言ったんですよ。正直泣きそうになっちゃったくらい」
 うわ、最悪だ。
亨はテーブルに目を落とす。
「でも、時間がたったら今度は怒りがメラメラ燃えてきて。好みじゃないならなんで誘うのよってね。喜んで行くって返事した自分にも腹が立ったし」
 不意にあずさの言葉が途切れ、亨がそっと目を上げると、顔を傾けて亨の顔をのぞいているあずさと目が合った。思いがけず愛おしげなまなざしに、亨は心をからめとられる。亨を見つめたまま、あずさが手を伸ばして亨の頭をさわった。悔しいけれど、春風になぶられているような心地よさだ。思わず自分の手を重ねようとすると、あずさはするりと手を引いて、何事もなかったように残りの蕎麦を食べはじめる。行き場のなくなった手を握りしめた亨は、もうあずさから目が離せない。
植物園に戻る前に周辺を散歩することにした二人は、風景画や似顔絵が並ぶ坂道を抜け、乾門と書かれた小さな入り口をくぐった。深大寺のお堂は華美でもなく質素でもなく、境内には明るく清新な空気がみなぎっている。ムクロジやヤマモモなど野趣あふれる樹木が寺院らしい。茅葺の山門から外に出るまで亨とあずさはほとんど口をきかなかったが、気まずかったわけではなく、しゃべらなくても通じ合うものが二人の間に流れていた。参道には饅頭屋や土産物屋が軒を並べ、緑を映す水路からは青々とした風が立ちのぼるようだ。
流れを見やったあずさが、思い出したように亨を振り返る。
「深大寺の水神様にはどんなご利益があるか知ってる?」
誘うように試すように、いたずらっぽい瞳が亨を見上げている。主導権は完全にあずさのものだ。だから亨は、できるだけさらりと言う。
「縁結びの神様には、もう用ないでしょ」
あずさが目を見開く。
アドバンテージをひっくり返すのも、恋愛の楽しみのひとつだ。くるりと景色が変わる。亨は笑顔で手を差し出してあずさの反応をうかがう。あずさは嬉しそうに亨を見つめ返し、手をとった。

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<著者紹介>
遊亀 紫野 (埼玉県蕨市/34歳/女性/会社員)

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