石垣のある坂を下りながら、ふぅん、とタカシがつぶやいた。感動でも、相づちでもない、乾いたつぶやきだった。
「結構、人がいる。」
そば屋の前の行列に目をとめて、「ここで食う?」と聞く。
「まだ、お腹、すいてない。」
通りがかりの女子高生が、ちらっと振り返りさざめくように笑った。
「~に似てない?」「ね。」
背が高く、浅黒い肌に鋭いまなざし。俳優の誰かに似ているらしく、タカシは時々、周囲の目をひく。不愉快そうなため息をついて、
「似てるって、いやだな。」とタカシは言う。
「かっこいい人に似てるって言われるなら、いいんじゃない。」
「自分を否定されてる気がする。」と、眉をしかめる。
「しかも、あいつ、おっさんじゃん。」
思わず笑った。30前の俳優をおっさんだと言い切る傲慢さは、ある意味、爽快だった。
年齢よりも幼く見える私とは逆に、タカシは大人びている。まだ20歳なのに、25、6歳に見えなくもない。高校の頃から野球を続けていて、筋肉質で体つきがしっかりしていることと、落ち着いた雰囲気のせいだ。父親が不在の家庭環境で育ったことも関係があるのかもしれない。
日差しが強いので、車道沿いから、右手の、木々が生い茂る砂利道に入った。緑の香り。空気が変わる。
「喉、乾いたな。」
「あそこで何か飲もうか。」
古い民家を改装したような、趣のある店の前にビールと書かれた赤い旗がひらめく。
「ところで、誕生日に深大寺に来たいって、なんで?」
「なんでって。」
「バイト代でたばっかだし、もっと派手なとこでもよかったのに。」
「つまらない?」
タカシはぐるりと首をめぐらし、空をあおぐ。
「思ってたより悪くないけど。」
店で、深大寺ビールを二本買った。時代劇にでてくるような長方形の椅子が、水路沿いに並んでいたので座る。手になじむ茶色い瓶は、染みるように冷たかった。
「実はね」どこまで話そうか、そう考えながらビールを一口飲む。
「ここ、思い出の場所なんだ。」
「へぇ。」タカシもビールを口に含む。
「どんな?」
興味もなさそうにたずねられ、ふっとおかしくなり、口が軽くなる。
「ここから、7~8分歩けば実家なの。父も母も、多分、今もそこに住んでる。」
タカシの目が細められ、強さと鋭さを増す。触れたら切れそうなほど、だが、触れてみたいと思わせる危うさのある表情。
あぁ、私は、この表情を知っている。
胸の奥がうずくように痛んだ。
「...んだよ、それ。」
低い声でタカシがつぶやく。
声まで似ている。
私はタカシを見つめる。いや違う。私が見ているのは、タカシの向こう側にいるあの人だ。
...ただいま
私は思い出を引き寄せる。今も、自分も、タカシも、何もかもがどうでもよくなる。
私は、ただ、あなたに逢いたかった。

あの人に初めてあったのは、中学3年生の夏休みだった。当時、母と義父の折り合いが悪く、私は近所の母の実家によく預けられた。
数年前に祖父がなくなり、祖母だけが住む古い平屋の一軒家は、いつも静かだった。気を使う義父もおらず、母の怒鳴り声も聞こえない空間は、唯一の安らぎの場所だった。
ある日、いつものように祖母の家の玄関を開けると、見知らぬ男が立っていた。家を間違えたのではないかと慌てたが、夏の日差しと蝉の声が降り注ぐ廊下は、間違いなく見慣れたものだった。
彼は無言で振り返った。
鋭いまなざしに、射すくめられた。
身動きができなくなった。呼吸すら忘れた。
どれくらいの時間、そうしていたのか。長いような短いような不思議な時間が過ぎた後、祖母が廊下の向こうから現れた。
「あらあら、二人ともお帰り。」
彼は視線をそらし、祖母と入れ違いに、廊下の奥へと歩み去った。戸惑う私に、祖母はいつものように優しく笑った。だが、そこには少しだけ困ったような表情が混じっていた。

彼について、はっきりとは何も教えられなかった。祖母の家を訪ねても、部屋に閉じこもっているのか、外出しているのか、顔を合わせることもなかった。祖母と母は、よく小声で秘密めいた話しをするようになった。好奇心を抑えきれず、私はいつも聞き耳をたてた。内容は、やはり彼のことで、言葉の断片をつなぎ合わせ、一週間もすると大体の事情を察することができた。彼の生い立ちや、なぜ、今、祖母の家に滞在しているのかも。
祖母が友人と出かけて留守の日のことだ。
いつもように合鍵で中に入り、喉が渇いていたのでキッチンに向かった。家の中は静かで、人の気配がなかった。
すっかり油断して、キッチンの扉を開けたら、彼がいた。入り口に背を向ける位置に座り、気だるそうにテーブルに頬杖をついていた。電気もつけず、何をするでもなく、時間の流れが止まってしまったかのように、じっとしていた。
彼は、ゆっくりと振り返った。いつかの鋭いまなざしを思い出し、体がすくんだ。
だが、彼は私を見ると「お帰り」と笑った。
彼の声を聞いたのは初めてだった。思っていたよりずっと耳に心地よい低い声で、私はうつむいて「どうも」とつぶやいた。早足に彼の横を通り過ぎ冷蔵庫を開ける。麦茶のポットを取り出す指先が震えた。顔が熱くてたまらなかった。きっと真っ赤だ。夏の暑さのせいだと思ってくれるようにと、願った。
麦茶をグラスに注いでいると「あ、ついでに俺の分も」と頼まれた。昔からの知り合いに話しかけるような、気さくな言い方だった。テーブルにグラスを置くと、今度は「座りなよ。」と前を指さした。
採光の少ないキッチンは薄暗く、どこか夢の中のようなおぼつかなさがあった。
向かい合っても、顔をあげられず、浅黒い肌と脱色された茶色の髪をそっと盗み見た。猫背がちで、全体に投げやりな雰囲気。余り周囲にはいないタイプだったし、外であったら、かかわり合いになろうとは思わないだろう。だけど、彼の微笑みはとても優しげだった。私の心臓は不自然に震えた。
「あのさ。」彼が言う。「俺のこと嫌いでしょ?」
予想外の台詞だった。答えようもなく黙っていると、「ま、人に好かれたことなんかないから、いいんだけどね。」
と、勝手に皮肉めいた言葉を続ける。
「いいえ。」なんだか腹が立ったので、きっぱりと首を振った。「嫌いじゃない、です。」
しばらくの沈黙のあと、
「深大寺、行こうよ。」
彼は唐突に立ち上がった。ぐずぐずと迷っていると、腕を強くひっぱられた。掌が触れた場所に、痛みにも似た熱さがはしった。

誘ったのは、どっちだったのか。
覚えていない。でも、多分、私だったと思う。
私は彼と二人の時間を望んだし、そうなるように仕組んだ。彼も私も、自暴自棄で投げやりだった。でも、それだけじゃなかったと、私は信じている。

「俺が誰か知ってる?」
夏の終わり、山門付近の遊歩道を歩きながら、彼が聞いた。私がうなずくと、彼は、ほっとしたような、悲しいような、複雑な顔をした。
「おばあちゃんの初めての子供なんでしょ。」
わざと軽く言ってみせる。
「そ。つまり、お前のお母さんの異父兄弟。」
彼も軽く返す。会話がふっと途切れた。これ以上、踏み込めない話題だった。
「この年になってさ、最後の最後にあいたいのが、母親って笑えるよな。」
彼は、来年で37になるという。...もし、誕生日をむかえられるなら。
数歩先の彼の背中は、病魔に蝕まれ、日に日に痩せ衰えていた。
もし私が最後に誰かに逢うなら、彼がいい。叶わないと知りながら願った。少なくとも親には逢いたくない。
母は、義父との関係を修復しつつあった。私にあんなひどいことをした男を、許そうとしていた。母も義父も絶望的に憎い。それでも、私は一つだけ義父に感謝している。義父が私の無知と無垢を引き裂いたことで、新しい自分が生まれたからだ。以前の私なら、彼に近づく勇気はなかっただろう。
遅れて歩く私を、彼が振り返った。鋭く澄んだ目に、とらえられる。私は駆け寄った。

結局、彼は次の誕生日をむかえることはなかった。それと同時に、私は家を飛び出した。
苦しみと喜びを繰り返し、気づけば20年以上が過ぎ去り、私は彼と同じ年になった。

「母さん」と、呼びかけられ我に返る。彼の幻はどこかに消え、目の前にはタカシがいた。
「曇ってきたし、そば食って帰ろう。」
「母さんの実家には、興味ない?」
少し考えてから「ないよ。」と、タカシは立ち上がり歩き出す。その背中は、真っ直ぐで力強い。思わず、笑いと涙が同時にこぼれた。


宮沢瞬(東京都)
 都心から電車で数十分、更にバスに乗って数十分、彼女が僕を連れて行った先は、深大寺という場所だった。
 春と夏の間の季節、抜けるような空の色を見上げて、湿気と濃い緑の匂いでむせ返る。
「悠君のお父さんとお母さんがね、私と一緒に遊んでおいでって」
 そう僕に話しかける彼女は、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
「行こう」
 そう言って、彼女の腰ほどしか身長のない僕に手を差し伸べる。僕はその掌に触れていいものかしばし悩み、撫でる様にそっと繋ぐ。  
 すると彼女はぎゅっと握り返して来て、少し意表を突かれた。
「いっぱい楽しい事しようね」
 緩やかに、しかし力強く僕の手を引かれた。
彼女のさらさらとしたロングヘアと白いワンピースが揺れる。僕はしばらくそれを見つめながら歩いた。
 ふと「全部知ってるよ」と言おうと思ったが、彼女の微かに震える声に気付いてしまい、言葉を飲み込んだ。きっと、優しい人なのだ。
 彼女はころころと表情を変えながら話しかけてきた。
「悠君、お花が咲いてるよ」
「悠君、あっちまで競争だよ」
「悠君、はぐれちゃ駄目だよ」
 彼女は僕が寂しくないように沢山の言葉をかけてくれた。手が離れたら繋ぎ直してくれた。決して表現が豊かな訳ではなかったが、大人達に静かに嘘を吐かれ続けていた心には、裏表のない言葉が心地よかった。

「悠君、お昼ご飯、お蕎麦でいいかな」
 日が高くなった頃、彼女が少し恥ずかしそうに笑った。そろそろ御飯時である。彼女が指差した先には、蕎麦屋ばかりがぎゅっとひしめき合っていた。
 それぞれの違いが分からず、彼女を見上げる。彼女はさっと幾つかの店先を見た後、その内の一つに入る事を決めた。
 店員に促され、窓際の席に着く。
「そろそろ長袖じゃ暑いね」
 と頬を膨らませ一息ついた後、何を頼むか聞いてきた。外食なんて久しぶりの僕は、勝手が分からずに
「同じものでいいです」
 とぶっきら棒に答えてしまった。
 彼女とぽつりぽつりと話していると、注文の品が運ばれてきた。微かに、蕎麦粉の素朴な香りがした。
 誰かと出かけて食事をする。その尊い凡庸さに、当てられてしまったのかもしれない。 
 それは、本当に突然だったのだ。
 この季節には嬉しい、さっぱりとした味を堪能していると、突然鼻の奥がつんとした。
 ああ、不味い。
 そう思った時には既に涙は目に溜まり、溢れ落ちるのを待つだけだった。
 最初に感じたのは羞恥だった。両親でもなく、親しい友人でも無い彼女の前で泣くのは、幼いながらに恥ずかしいの一言だった。
 凄まじい勢いで考えた結果、蕎麦をすすりながら、鼻をすする音を誤魔化すことにした。
それが幼かった僕に出来た、プライドを守る唯一の術だった。
 しかし、細やかな抵抗虚しく、どんどん視界は揺れていく。眉間に皺を寄せ、奥歯を噛み締めて我慢しようとしても、涙は次々に溢れてきて、遂に箸を置いて手の甲で拭わなくてはいけなくなった。
 正面に座っていた彼女は、何かを言おうと口を開け、しかしそのまま閉じてしまった。
 僕は情けなくて、恥ずかしくて、とうとう自分の膝を見たまま顔を上げられなくなってしまった。
 どれくらい時が流れただろう。隣の席が微かに軋む音がした。
 はっと顔を上げると、いつの間にか彼女が隣に腰掛けていた。そして腕を広げ、そのまま僕の頭をそっと抱いてくれた。
 喉の奥から、何かがせり上がってくる。確かな震え。暗い感情。涙を、もう止めることはできなかった。
 誰を責めることも出来なかった。誰を責めれば良いのかすら分からなかった。
 お父さんとお母さんのどちらについて来たいかと言われた。三人で一緒にいたいと言えなかった。
 新しいお家は広いよと言われた。狭くても良いからこのままが良いと言えなかった。
 言えなかった言葉を吐き出す様に、僕の身体はしばらく嗚咽と共に震え続けていた。
 ぽんぽんと、彼女が僕の頭を叩く。彼女の白いワンピースの胸元に、僕の涙が滲んでいった。
 心が張り裂けそうだった。明るい未来なんて来ない気がした。それでも僕の元に、明日はやってくる。暗くのし掛かってくる現実を思い、今この瞬間だけは彼女に縋った。
 彼女の悲哀を帯びた瞳が、下を向く僕を見下ろした気がした。
 
 彼女に縋った僕の心の意味は、その時はまだ分からなかった。深大寺が縁結びで有名と知ったのは、それからずっと先の事である。

 いくつもの季節が流れて、僕は再び深大寺に訪れた。
 あの頃とは名字は違うが、心はあの頃に戻ったようだった。
 今思えば、この深大寺から数駅先に行った所には賑やかな観光名所が幾つもあった。そちらへ連れて行かなかったのは、家族に対して神経質だった僕への、彼女なりの配慮だったのだろうか。
 彼女との待ち合わせは、境内の中である。
「悠君、久しぶり」
 彼女は僕よりも目線が低くなり、顔に残っていた幼さが無くなっていた。すっきりとしたセミロングの髪と、ネイビーのタイトスカートがよく似合っている。
 僕を見る眼差しは、ただただ真っ直ぐだ。
「お久しぶりです」
「うわ、声低くなったね」
「もう子供ではないので」
「そっか、そうだよね。私も歳をとるよね」
 あはは、と軽く笑い、少し俯く。
「そろそろ行こうか。いっぱい楽しい事しようね」
 そのまま、あの頃をなぞるように共に歩く。
「悠君、お花が綺麗よ」
「悠君、あそこまで走ってみない」
「悠君、余所見してはぐれないでね」
 もう子供と呼ぶには難しい年頃の僕を、あの頃のまま名前で呼ぶ。彼女の言葉も当時の様だった。

「悠君、お昼ご飯、お蕎麦でいいかな」
 少し悪戯っぽく笑いながら、彼女は聞いてきた。
 ひしめき合っているお蕎麦屋さんの中から、今度は僕が一件を選び、席についた。
「どれにしますか」
「うーん、悠君と同じので」
 少しぶっきら棒に彼女が答える。
「...からかわないで下さい」
 明るい印象の彼女だが、根に持つタイプらしい。
 ほのかな蕎麦の香りを堪能し、箸を手に取った所で、僕はなるべくさりげなく言った。
「ご結婚、おめでとうございます」
 自然に、けれどしっかり言おうと思っていたのに上手くはいってくれなかった。喉はいつの間にか乾いていて、最後は掠れてしまった。それを誤魔化すように、急いで蕎麦に手を伸ばす。
「ありがとう」
 少し間を置いて返ってきた、その言葉を聞いた途端、目の前の景色が歪み始める。やがて、僕の目尻から零れ落ちていく。
 鼻をすする音を、蕎麦をすする音で誤魔化す。プライドの護り方が、何も変わっていない。
 彼女は真っ直ぐな眼差しで僕を見つめてくる。彼女はもう、僕の隣には来てくれない。
 彼女は確かに今僕の前にいるのに、これから先、彼女の隣にいるのは、僕ではない誰かなのだ。あの時僕の頭を撫でてくれた指には、シンプルな指輪が光っている。
 仕方ない。
 幾ら縁結びの神様だって、十二歳の年の差と、過去の事とはいえ親族という間柄には勝てないのだ。
 彼女が僕をまだ名前で呼ぶのは、名字の変わってしまった僕の扱い方に、少々戸惑っただけの事なのだ。たった、それだけのことなのだ。
 彼女はいつの間にか、窓の外を眺めていた。
きっと僕に気を使い、どこでもないどこかを眺める事に決めたのだ。
 髪型が変わっても、服の好みが変わっても、眼差し変わっても、その少しだけ悲しい優しさだけは変わっていない。
 窓から入ってくる風に、彼女の短くなった髪が揺れる。
「僕は髪の長いあなたも好きですよ」
 そう言いたかった。言ったら何かが変わったかもしれない。勿論、何も変わらないかもしれない。けれど、言えなかった。
 言いたい事が言えないままなのも、苦しいくらいあの頃のままだ。僕の弱さも、変わっていない。けれど、この涙は自分で止めなくてはならない。
 風と共に、緑のむせ返るような匂いが流れてくる。遠くでセミが鳴く声が聞こえる。
 ああ、今年も夏がやってくる。

柊硝(東京都/23歳)
「ほおずき市?」
出張先のホテルに妻から電話がかかってきたのは、午後十一時を少し過ぎた頃だった。シャワーを済ませホテルの部屋で缶ビールに手を伸ばした瞬間、携帯電話が鳴った。

―そう。深大寺でね、明後日からやるんだって。行ってみない?

電話の向こうで妻が言う。ほおずき、ほおずき・・・あまりピンときていない僕に気付いたのか、妻が続けて言う。

―あのオレンジ色のさ、風船みたいな植物だよ

あぁあれか、と合点がいくと同時に疑問が湧く。そんなもの見に行ってどうするんだろう?
「うん・・・時間があればね」我ながら気のない返事だとは思ったが、出張先にわざわざかけてくる電話としては少し実のない話のような気がしてしまった。
その後も電話の向こうで何か話していたが、適当に返事をして話を切り上げてしまった。悪いとは思ったが、どうせ明後日になれば会えるのだ。

三日間の出張を終え、帰途に着く。東京へ向かう新幹線の中で家に帰ったら何をしようか・・・と思案していた。帰ったらちょうど週末だ。小学生になったばかりの愛娘、美香を連れてどこか行こうか・・・などとあれこれ考えているうちにあっという間に調布駅に着いた。

「ただいま。」
いつも通り玄関の扉を開けたが、何か違う。家全体が静まり返り、人気がない。
「ただいま」と先ほどより大きめに声を出してみたが返事はない。おかしいぞと思いつつ靴を脱ぎかけたそのとき後ろから声を掛けられた。
「お帰り。早かったね。」
突然予想外のところから声を掛けられ身を強張らせたが、妻の美晴だった。
「ただいま・・・どこか行ってたの?」
「うん、今美香をおばあちゃんの家に送ってきたとこ。」
「おばあちゃん家?」
「え?前に言ったじゃない。美香が『小学生になったから、ひとりでおばあちゃん家に泊まりたい!』って言うからこの週末にって。」
「え・・・あ、そうだったね」確かにそんなようなことを言っていた気がするがすっかり頭から抜けていた。
「お昼は?食べてきた?」
「いや、まだ。」
「私も。少し遅めだけど、ランチしよっか。」
そう言って妻はそそくさとキッチンへ行き、準備を始めた。その間に僕はスーツケースを片付け、三日分の洗濯物を洗濯機に突っ込み、さっとシャワーを浴びた。
部屋着に着替えリビングへ戻ると、キッチンにはいつも通りの妻の姿があり、慣れた手付きで料理の支度をしていた。そんな妻を眺めつつ僕はソファに寝転がり、寛ぎながらテレビを見ていた。
妙に静まり返る家の中に響く、リズミカルな包丁の音。僕の見ているテレビの音。何気ない休日のはずだが、いつもよりゆっくり、ゆったりと感じられる。

「お待たせー」キッチンから妻が料理を運んでくれる。僕の好きなオムライスだ。
食卓につき、手を合わせる。そこで再び妙な静寂を感じる。そうか...久々の二人きりなのだ。いつもならここに美香がおり、賑やかな食卓になっているはずだ。
気付いた途端、妙に照れくさくなる。二人きりなんていつぶりだろう。
「二人なんて久々だね。」
僕と同じことを考えていたのか、少しはにかんだように妻が言う。そうだね、と相槌を打ちながらよく冷えた缶ビールに手を伸ばす。プシュッ、と開けふと妻の方を見る。
「あれ?アルコールフリー?らしくないね」妻の持つ缶のラベルを見て尋ねる。学生時代の妻はかなりの酒豪だった。大学のサークルで出会い、2つ下だった彼女は先輩の飲み会にまで顔を出すほどのお祭り好きでよく知られていた。自分も飲み会となれば俄然やる気を出すタイプだったので、あの頃は始発までどちらが飲み続けられるか、なんて遊びもよくやったもんだ。
「うん、最近はね。ダイエット、ダイエット。」
「ダイエット?太ったの?」
「三十七にもなればねー。」
そう語る妻をしげしげと眺め、確かに昔に比べればふっくらはしたものの、三十七歳にしてはなかなかのプロポーションじゃないか、と心の中でひとりごちる。そういえば、冷蔵庫の中の缶ビールがなかなか減らなくなったのはいつからだろうか。
改めて妻を見る。出会って十八年、結婚して十年。思えば美香が生まれてからというもの、なかなかゆっくりと話す機会も減っていた。

「なぁ」
「うん?」
「ほおずき市、行こうか。」
「ほんと?」嬉しそうに妻が笑う。最初に好きになったのは、この笑顔だったっけ。

夕方ごろ、支度をして家を出る。夏の夕方特有のこもったような空気に体が包まれ汗がじわじわと噴き出してくるが、不思議と不快感はなかった。
家から深大寺までは歩いて十五分もかからないはずだ。調布に住むようになって気付けば六年。京王線で新宿まで約三〇分、通勤に便利でかつ緑豊かなところが気に入って選んだこの街だったが、こんなにゆったりした気持ちで歩くのは初めてかもしれない。
「ここを曲がった先にね、スーパー銭湯があるんだよ。」
さすがに妻は僕より詳しいらしい。きっと美香を連れて町を散策することもあるのだろう。
「天然温泉なんだってー。すごいよね、都会の真ん中に天然温泉。」

夏の夕暮れに染まる妻の横顔をさりげなく覗き見る。西日を浴びて少しまぶしそうに目を細めながらも前を見つめるその姿に、僕はどこか懐かしさを覚えていた。

「わぁ。なんだか懐かしいなー。」
深大寺に着くなり、妻がはしゃいだ声を上げる。ほおずき市は正確には鬼燈祭りというようで、ほおずきの展示・販売はその中のイベントの一つのようだ。
しかし祭りの名を冠しているだけあって想像以上に多くのほおずきが並んでいた。門外漢にはどれも同じ様に見えるが、きっと種類も様々あるのだろう。色鮮やかなオレンジが深大寺の境内を飾る。
「懐かしい?」
「小さい頃ね、おばあちゃん家の玄関先にほおずきの鉢植えがあったの。よく鳴らして遊んでた。」
「へぇ...そんな風に遊べるんだ。」
「今時の子は知らないだろうなぁ。他にもっと面白いものがあるもんね。」
そう言いながらしゃがみこみ、並んでいるほおずきを愛おしそうに眺める妻。そんな妻の姿を見るのは久しぶりのような気がして、なんだか新鮮だった。

ふと見回してみると、境内では他にも手作りの手芸品・工芸品が売られていたり、東北復興支援の物産展が行われていたりと大勢の人で賑わっていた。また出し物もあるらしくプログラムを見ると猿回しなんてものもあって、想像以上に趣向を凝らした祭りのようだ。美晴も珍しいものを見るかのようにキョロキョロと周りを見ながら楽しんでいる。

二人で過ごすのも、二人でこうやって出掛けるのも本当に久しぶりだな、と考えながら並んで歩いていると自然に美晴の手を取っていた。指が触れた瞬間、美晴は少し驚いたようだったが離すことはなくそっと握り返してきた。美晴は右手、僕は左手。学生時代と変わらない。

「ねぇ。」
ふいに美晴が声をあげる。
「ん?」
「深大寺にゆかりある神様、知ってる?」
「え...知らないけど」そもそも寺なんだから神様じゃなくて仏様じゃないのか?なんて僕の心の声は聞こえるはずもない。
「じゃあいいや!」と言った美晴は少し照れたように笑いながら顔を逸らし、ぱっと手を離して東北物産展の方へ歩いていってしまった。
なんだろう?と気になった僕はポケットからスマートフォンを取り出し、インターネットで「深大寺 神様」と調べてみた。

山口 友紀恵(東京都江戸川区/26歳/女性/会社員)

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