成海(なるみ)の長い黒髪が風に揺れている。裾に花の刺繍(ししゅう)をあしらった白いワンピースは人目を引き、白いハイヒールは楽器のようにコツコツと深大寺通りをこだまする。その音は水生植物園の前でピタリと止まった。成海はその大きな黒い瞳で、フェンス越しに園内の様子を懐かしく覗き込んだ。 
四月の日曜日、空は青く澄み切り日差しは暖かく、多くの家族連れやカップルで賑わっている。成海は静かに瞼を閉じた。そしてテープを巻き戻し再生するようにあの日のことを思い返した。
一面真っ白で雪が舞っている。白銀の反射光が眩しい。そこにいるのは成海と広人(ひろと)だけ。
携帯が鳴り現実に戻される。母からだ。きっと受話器の向こうで気を揉んでいるに違いない。
「成海、今何処なの?」
「今更逃げたりしないよ。始まるまでには戻るから」
実は、今日は成海のお見合いなのだ。

「大学を卒業して就職もせず、さりとて何かに打ち込むわけでもなく、これからどうやって生きてくつもりだ?」
辛辣な父の言葉がパンチのように効いた。厳格さは五十を越えて益々磨きがかかる。相手は父の上司の御子息で丸山大吉さん。名前はおめでたいけど十歳以上も年上。成海の写真選考では失格。丸顔に丸い黒縁眼鏡、眉毛の上で毛先を揃えた坊ちゃんカットは、笑み一つなく色白で神経質そうで・・・。
「見合という堅苦しいものではないのよ」
母が白々しく言い、父が頷く。母は成海の今の年で成海を産んでいる。晩婚化が珍しくない昨今だが母には通じない。気品のある柔らかな面持ちだが押しは強い人だ。この両親が外堀、内堀と埋めて追い詰めてくる。成海に逃げ道などなかった。

先方が渋滞に巻き込まれ遅れるという連絡が入ると、成海は散歩と言って座敷を抜け出した。見合いの会場は深大寺通りに面した水車館近くの会席料理の店だった。正面玄関から出て広い敷地を真っすぐに歩きだすと左手に御堂が見えてくる。大黒天と恵比須尊がこっちを向いてにっこりと笑っている。成海は見守られているようで、溜まった空気がふっと抜けるように落ち着いた気分になった。木漏れ日が差す深大寺通りに出ると無意識に足はあの場所へと向かった。

三年前の二月、当時大学三年生だった成海は、八王子駅から北へ少し歩いたコンビニでバイトを始めた。家の近所でするのは少々憚(はばか)られたので学校の近くにしたのだ。接客業は未経験で不慣れだった成海に優しい笑顔と透る声で助け舟を出してくれたのが広人だった。広人の包容力は成海をいつも安心させた。同じ大学だと分かると二人の距離は急速に縮まった。昼間は閑散としている店内のカウンターに二人並び、手が空いている時はたわいのない会話を楽しんだ。
「就職は地元だっけ?」
広人は一つ上なので卒業なのだ。彼は山梨県から中央本線で八王子まで通っていた。
「ああ、彼女が甲府で働いているから俺も甲府で就職する」
広人に高校の時から交際している彼女がいることは前に聞かされていた。だから彼への想いにも蓋(ふた)をして、いい友達関係を苦しみながらも演じていた。成海が急に黙り込むと広人は薄々感じていた成海の気持ちから逃げるように本棚に向かった
 本棚は入口そばのコピー機隣りにある。雑誌が主だが文庫本と地図もある。本棚の後ろはガラス張りになっていてサンルームのように太陽が差し込むので、昼間は大抵ブラインドを下ろしている。
「広人、仕事中に立ち読みしていいの?」
広人が真剣な眼差しで読んでいたのは『日本の城めぐり』という月刊誌だった。
「広人、お城好きなの?」
成海はカウンターから身を乗り出して広人の本を覗き込んだ。
「ああ。結構行ったよ」
「私の住んでいる調布にも城あるよ」
「え?マジで?」
広人は振り返り大きな声を出した。
「行きたい。案内して」
渇望し瞳を光らす広人に少し驚いた。成海は気後れするように呟(つぶや)いた。
「いいけど・・・」

 三月中旬だというのに、その日は朝からあいにくの雪模様であった。中止にしようかと聞くと広人は童のように今日がいいと駄々をこねた。成海には夢中になれるものが何もない。いつも流されて何となく生きている。だから熱中できるものがある広人が羨ましく思えた。
調布の深大寺には戦国時代に城があった。場所は水生植物園内の小高い丘の上にある。上杉朝定(ともさだ)が北条氏に対抗するために古き郭(くるわ)を再興したらしい。現在、建築物は残っていないが空堀や土塁はまだある。
二人は深大寺でバスを降りると雪が舞う深大寺通りを傘も差さずに歩きだした。首をすぼめている成海を見て、広人は自分の白いマフラーを成海の首にぎゅっと巻きつけた。
「ありがとう。いいの?」
「山梨県人は寒さには慣れているからさ」
そう言って広人は雪で湿った顔を手で拭いながら屈託のない笑みを浮かべた。
水生植物園内は流石にこの天気で人影もなく、おかげで二人だけの貸し切り状態になった。木道の手摺には薄っすらと雪が積もり、寒さを凌ぐため二人とも猫背になっていた。遠くに聞こえる烏の鳴き声が悲鳴に聞こえる。少し前を行く広人が左手で成海の右手を握り締めてきた。
「滑ったら危ないからな。手離すなよ」
広人は前を向いたまま成海を見ようとはしなかった。成海は体中に電気が走り心の中でダンスビートが鳴り響き、返事すらできなかった。右折して泥がぬかる山道に入る。その分広人の握る力が強くなる。
「ここか・・・」
広人は深大寺城の石碑を見て案内板を見て感慨にふけった。そしてありがとうと振り向き様に成海を抱きしめた。息がとまる。冷静になろう。これは愛情の抱擁なんかではない。単なる歓喜の一表現だと成海は心を静めた。しかし第二の波が打ち寄せた。今度は成海の唇を塞いだのだ。甘く切ない感触が唇に残った。成海は俯き広人は黙っている。僅かな時間なのに永遠のように思えた。二人はそのまま無言で今来た道を戻った。

 あれから三年ここには来ていない。白銀は新緑に変わっていた。
「すいません。深大寺城どっちですか?」
突然声をかけられ振り向くと一人の青年が立っていた。年は三十ぐらいで上下紺のスーツ姿、右手にビジネス鞄を持っている。額の汗をハンカチで拭いながら爽やかな笑顔を見せていた。
「ああ、この園内にあります」
成海は視線をそっちへ投げた。
「そうですか。ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をして青年は園内に入った。
「あ、案内しましょうか?」
成海は青年の後を追いかけ声を弾ませた。何かいい感じな人だと思った。
子供達が大声で騒いで走り回るので木道は上下に揺れ軋(きし)んだ。あの日は雪で分からなかったが、園内には様々な草花が木道下の湿地を彩っている。観光地の湿原のようだ。
「お仕事ですか?」
「ええ。でもお客さんの都合でキャンセルになりました」
「どちらからいらしたんですか?」
「横浜です」
「横浜なのにここに城があるなんて、よく分かりましたね?」
「ネットなら何でも分かる世の中ですよ」
「そうですね」
お互いに苦笑してしまった。
水をさすように携帯が鳴った。また母からだ。
「成海、丸山さんお見えになったからすぐに戻ってきなさい」
「やっぱ・・・今日キャンセルする」
「何だって?許しませんよ」
「・・・」
「成海?もしもし?」
成海は電話を切り電源も切った。表情が険しくなり視線が鋭くなった。青年は心配そうに成海を見ている。
「どうかしました?」
「自分の人生なんだから自分で決めなきゃいけないですよね?」
そう言って成海は納得したように大きく頷いた。ためらいはなかった。青年は意味不明なことを言われ言葉に詰まった。
右折して山道に入ると、斜面には薄紫色のシャガの花が一面に咲き乱れ二人を向かえてくれた。石碑付近は林になっている。青年は写真を何枚か撮り、二人は木陰のベンチに座った。青年が鞄から取り出した一冊の雑誌、それは広人も読んでいた『日本の城めぐり』だった。
「あ!それ・・・」
成海はハッとした。青年はその声に驚きながらもページをめくり成海に見せた。
「今度はここに行くつもりなんです」
「あ、私、ついて行ってもいいですか?」
成海は得意そうに城の話を始めた青年をじっと見つめた。

 

<著者紹介>
正村 純(東京都調布市/40歳/男性/ファイナンシャルプランナー)

先月末、11月28日に、第5回の深大寺恋物語の授賞式を無事終えることができました。
当日は深大寺で中開帳が始まったばかりだったため、秘仏拝観に非常に多くの方が列を作ってる中での授賞式でした。
真っ赤に染まった紅葉も美しく、今まで行ってきた10月の授賞式とは違う、非常に趣きのある授賞式でしたよ~。

2009shikiten.jpg

 

第6回の公募もほぼ固まって参りました。
要項がまとまりましたら、またブログにて掲載いたしますのでよろしくお願いいたします。

僕は二十五歳にして初めて精神的疲労というものを痛感する。
チームを組んで仕事をしていた契約社員が辞めて仕事が急激に忙しくなった。仕事に忙殺されて数少ない友人との付き合いも悪くなった。彼女が僕との関係には先が見えないと言って僕を棄てていった。要するに僕は疲弊し、孤独になったのだ。
僕は休日出勤してオフィスに独りのときにはだいたいベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタを聴いている。他のどんなときよりもそのときがよく音楽を理解できる気がするからだ。あるいは休日のオフィスに独りで働いている人間と晩年のベートーヴェンには何かしら共通点があるのかもしれない。
 そんなわけで今日も僕はベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いている。

 僕は休日にはよく深大寺にいる。僕にとって精神的疲労を解きほぐしてくれる数少ない場所だ。普段は人気の無い早朝に来るけれど、今日のように仕事帰りのときはどうしても夕方になってしまう。でも夕方の深大寺も悪くない。黄昏時の寺にはどこか特殊な雰囲気がある。しかし今日はいつもより幾分早く深大寺に到着したのでまだ黄昏は訪れていない。特殊性を欠いた純粋に澄んだ青空と四月の豊かな緑が深大寺を壮麗に飾っている。そんな情景を石段の上に座りながら僕はぼーっと眺めている。空というのは不思議だ。様々な啓示に満ちている。印象派の画家、アルフレッド・シスレーはキャンバスに空を大きく描いた。彼にとって対象の中心は鮮やかな花や瑞々しい緑や光をきらびやかに写す水面ではなく、日々刻々と移りゆく空だった。そこには無限と無常を感じさせる何かがある。また、『戦争と平和』のアンドレイ公爵はフランス軍との戦闘において仰向けに倒れたとき、頭上に確固として存在する青空を見上げてその存在の絶対性と普遍性に激しく心打たれた。でも僕は空を見ていてそんなに強く心揺らいだことはない。たぶん、啓示というのは示される側にも何かを求めるのだろう。
 ふと子どもの遊び声が聞こえてくる。無邪気で、快活で、楽しそうな声。それはモーツァルトのディベルティメントのように聞こえる。そして僕に彼女と行ったクラシック・コンサートのことを思い出させる。メインはモーツァルトの交響曲三十六番『リンツ』で、彼女はその音楽に最大級の賛辞を送っていた。リンツ交響曲。優れた曲だ。モーツァルトはこの傑作を僅か四日間で完成させたらしい。彼の四日間に比べれば、と僕は思う、僕の二十五年間なんて折れたタクトよりも無価値だ。

「そこ、どいてくれる?」という女性の声が聞こえる。
 振り向くと、携帯用の折り畳み椅子に座ってキャンバスを持った女性が僕の二メートルほど後ろにいる。
「何故?」と僕は訊ねる。
 彼女はため息をつく。「この格好見てわからないの? 絵を描くときにあなたが邪魔になるからよ」
「なるほど」と言って僕は頷く。「いいよ。でも条件がある」
 彼女は露骨に訝しげな表情をする。「何?」
 僕は彼女の持つキャンバスを指差す。「その絵を見せて」
 彼女はひとしきり品定めをするように僕を眺める。神経質なしわが眉間に寄る。口元が頑固そうに固く結ばれている。似ている、と僕は思う。それは僕の胸をほんの少し震わせる。やがて彼女は諦めたように首を振ると、仕方ないか、と言って僕が提示した条件を受け入れる。僕は立ち上がって彼女の後ろに回り、その絵を見る。
まず目に付いたのは明るく鮮やかな色使いとかなり激しい筆致。下からやや上を見上げるような視点で、キャンバスの中央に空が広がり、その両脇を様々なタッチとトーンで描かれた新緑の木々が囲む。また画面下には鮮やかでカラフルに描かれた石段があり、その中央には麦藁帽子を被った子どもが二人並んで座っている。
「印象派が好きなんだ」と僕は言う。
 彼女は頷く。
「まだ空が未完成なのかな?」
 彼女は頷く。「もっと太陽の光を輝かしく表現したいんだけど、なかなかね」
 うーむ、と僕は唸りながらその絵を眺める。
「感想は?」と彼女は訊ねる。
「温かくて、優しい絵だ。僕がもっと若かった頃のことを思い出させる」
 彼女は僕の言ったことについて考える。また眉間にしわが寄るけれど、それはさっきよりも幾分神経質さが和らいでいる。やがて彼女は絵筆を握り空に色を塗り始める。僕は彼女の後からその姿をじっと見ている。彼女は特に何も言わなかったので、僕はそのまましばらく画家の創作を見続ける。
「ところで」と彼女は絵筆を動かしながら言う。「あなたが振り向くまでに二、三回呼びかけたんだけど、あなたは全く聞こえてないようだった。何か考え事?」
 僕は頷く。「シスレーとアンドレイ公爵とモーツァルトと別れた彼女について考えてた」
 ふぅん、と彼女はつぶやく。「どちらかというと混乱しているのかしら?」
「どちらかというとね」と僕は答える。
「それは彼女と別れたから?」
「さあ、どうかな? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。よくわからないよ」
「どうして彼女と別れたの?」
「特におもしろい話じゃないよ。芸術的霊感も与えられないと思う」
「構わないよ。芸術的霊感も啓蒙的教訓もいらない」
僕はどう言おうかと考える。どう言えばそこにある内面的な問題を正確に伝えられるだろうか? でも結局僕は客観的事実を簡潔に言うことにする。自分に正確に説明できないことを他人に説明できるわけがないのだ。「一言で言ってしまうと、彼女が僕を棄てていったんだ」
「そう。何か言ってた?」
「僕との関係には先が見えないって言ってた」
「それで、あなたはそれについてどう思うの?」
「いったい先の見える人間がどこにいる? と思う」
 彼女は筆を止めて考える。そして僕の方を振り向く。「ねぇ、私は思うんだけど、あなたは少し変わってるんじゃないかしら?」
「そうかな? 自分じゃよくわからない」と僕は正直に言う。
「そうよ。少なくとも私は深大寺の石段に座ってアンドレイ公爵について考えてる人間を見たことがない」
「改めた方がいいのかな?」
「必要無いんじゃない、別に。その意味をだいぶ拡張すれば、パーソナリティと呼べるかもしれない」
「逆の立場だったらどうする?」
「決まってるじゃない」と彼女は断言する。「即刻改めるわ」
 僕はちょっとショックを受ける。すぐに言葉が出てこない。
「冗談よ」と言って彼女は笑う。
 つられて僕も微笑む。実に久しぶりの感覚だ。そういえば、と僕は思う、心から笑ったのなんていつ以来だろう?

「さてと、そろそろ帰らなきゃ」と彼女は言って帰り支度をする。
 気が付くとあたりには黄昏の予感が満ちている。僕は彼女のてきぱきとした作業をぼんやりと見ている。慣れた手つきだ。
「深大寺にはよく来る?」と僕は訊ねる。
 彼女は頷く。「休日はだいたいいるよ」
「奇遇だね。僕もそうなんだ。でも僕は今日初めて君を見た。どうしてだろう?」
「見ることと認識することは違うよ」
「要するに、お互い視界に捉えていたとしても特に気に留めていなかった、ということかな」
 彼女は首を振る。「私は覚えてたよ」
 僕は彼女の言っている意味がわからない。でもすぐに理解する。「まさか」
「あなたくらい特徴的な外見と雰囲気を持った人は、深大寺に限らずそうはいないよ」
 僕は適当な言葉を探す。でも何も思いつかない。その間に彼女の準備は整う。
「さようなら」と彼女は言う。
「また会えるかな?」とほとんど反射的に僕は訊ねる。
 彼女は微笑む。でも何も言わない。そして振り返って石段を下りていく。僕は石段に座ってずっと彼女を目で追う。ふと僕は彼女の名前を訊いていなかったことを思い出す。もちろん僕の名前も伝えていない。
まあいいさ、きっとまた会える。
やがて彼女が見えなくなってからも僕はその場所にいる。深大寺境内はピークを過ぎたとはいえまだ賑やかだ。しかしそこには寺特有の静謐さが粒子のように散りばめられている。僕は目を閉じる。肌に風を感じる。瞼に夕陽を感じる。ここには彼女の微笑みの余韻がある。やがて僕はゆっくりと目を開く。そして空を見上げる。空は金色に輝いている。僕はそこに何かの啓示が見えたような気がしたけれど、それが何なのかはもう少し先になってから知る。

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<著者紹介>
吉岡 雄二 (東京都調布市/26歳/男性/公務員)

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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
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現在、第6回深大寺恋物語募集事業事前審査員を公募しています。募集要項をご覧の上、ご応募ください。

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