「情人節(ちんれんじえ)と言います」
周さんが穏やかな声で、ちょっと不思議な音律を奏でるように、彼の母国語を口にする。私は彼の、この落ち着いた優しい声が大好きだ。
「昔は七夕のことですが、今は西洋の習慣が入ってきて、バレンタインデーのこともそういいます」
丁寧な日本語でゆっくりと話す周さん。
最初は、異国の言葉だからゆっくり喋るのだと思っていたのだけれど、実は母国語でもゆっくり話すのだ。彼の穏やかな性格をよく表している。
「今年、中国のお正月は、2月14日、情人節です」
日本でバレンタインデーの宣伝を繰り返している中、日本では旧正月にあたるその日を中国の両親の元で過ごすために、周さんは一時帰国をする。
「来年の情人節、一緒に過ごしたい。ずっと、一緒に過ごしたい。それはダメでしょうか」

周さんは中国からの研修生だ。地域のコミュニティーサークルに参加したとき、知人に引き合わされた。
紹介された時、留学生だと聞いたので、若いのに落ち着いた感じの人だなぁ、と思ったのだが、後で本人に聞いたら、日本の大学院に研修留学してきている企業研修生だそうで、一つ年上だった。
「古刹名刹が好きだそうだから、ぜひ深大寺を案内してあげて頂戴」
どうせ家の近くだし、社交辞令のつもりで、簡単に、いいですよ、と言ったら、周さんがすごく嬉しそうに、
「いつ行きましょう、私はいつでもいいです。土曜日、日曜日、とてもヒマなので、」
その思いっきりの笑顔に、今さら、ダメと言えなくなってしまった。

「あぁ、大きい木ですねぇ。きれいですねぇ。」
周さんは大木を見上げて笑った。
「なんじゃもんじゃの木ですよ」
私が言うと、周さんが目をパシパシッ瞬く。
「なんじゃ?」
「なんじゃもんじゃ。これはなんというものだ、という意味なんだそうです」
「なんという・・・ヒトツ、バタゴではないのですか」
「昔の人は、木の名前、学名が良くわからなかったのでしょう。」
ふんふん、と興味深げに頷いて、周さんは再び大木を見上げる。
「ほら、あれ、」
周さんがふいに空間に向かって指を差した。
私は彼が、あれ、と指差したものを見ようとしたが、その、あれ、が何かを見つけられなかった。周さんが指差す先にあるのは、美しく濃い緑色の深大寺の森だけだったからだ。
「ほら、あそこです。葉っぱが一枝だけ、揺れています」
目を細めて見る。確かに、固まった緑色の束の中で、ただ一枝だけが、光を跳ね返して、サワサワと動いている。
「きっとあそこに風の道があるのです。不思議ですね。ほんとうに、あそこだけに風が通っているなんて、」
風の道。なんて美しい不思議を、この人は見つけることができるのだろう、と思った
誰も気にとめないような、小さな、けれど確かにそこにある美しさ。
私が周さんに関心と好意を持ったのはその時だったと思う。風は私たち二人の間にも、道を通したらしい。

私たちはそれから度々、会うようになり、お互いを特別な相手だと思うようになるのに、そんなに長い時間はかからなかった。
どちらもテーマパークなどにあまり興味がないことがわかって、二人のデートはもっぱら寺社巡りや自然観察ばかり。
何気ないご近所散歩や商店街のそぞろ歩きも、二人なら楽しい。
そして、二人のお気に入りは、もちろん、思い出の場所、深大寺。
「深沙大王は、もともとインドの神様ですね。悪い神様だった。三蔵法師、7回も食べちゃったです。服の飾りに7個、頭の骨つけているのは、あれ三蔵法師の骨」
周さんがいたずらっぽく笑いながら言う。
「縁結びの神様なのに、悪口言っちゃダメよ」
「悪口、違いますよ。物語です」
周さんは日本蕎麦が大好き。深大寺に行く度に、いつも違うお店を選んで入る。
「中国にはお蕎麦はないの?」
「ありますよ。でも、作り方、違います。味も全然違います。日本のお蕎麦おいしいです」
暖かい蕎麦の方が良いけれど、冷たい蕎麦もおいしい、と言って、ざる蕎麦も喜んで食べる。嬉しそうに、楽しそうに。
周さんの目はいつもきらきらと輝いている。生きていることを楽しんでいる。こんな人の側にいたら、きっと、一生、楽しい日々を送れるだろう。
そう思って、私は周さんを両親に紹介した。
「今時になく、真面目でしっかりした青年だ」
「優しい人だねぇ」
周さんは父にも母にも大好評だった。だから安心していた。それなのに。

「ちょっと、困りました」
周さんが寂しそうな苦笑いを見せた。
「ひどいわ、お父さん、周さんのことあんなに褒めてたのに、」
周さんの研修期間があと二ヶ月余りで終了することになった初夏のある日、周さんは私の家に、二人の結婚を認めて貰えるようにと挨拶に来た。
ところが、父が猛烈に反対したのだ。一人娘を異国に嫁に出すわけにはいかない、と。
周さんは、あきらめない、と言い、何度でも心からお願いする、と言ってくれた。でも、寂しい、悲しい。周さんと引き離されてしまうかもしれないなんて、思ってもみなかった。
私たちはいつものように深大寺の境内をゆっくり歩いた。でも、二人の気持ちは、足元にしっとりと落ちる影のように暗い。
「縁結びの伝説になった男の人も、大陸から来た人だったそうです」
深沙堂の池のほとりで周さんがポツンと言った。
「娘さんのお父さん、やっぱり他所の国から来た男のお嫁さんにするの、嫌だったのかもしれません」
愛する二人を引き裂き、池の小島に娘を閉じ込めてしまったという伝説。
こんなに悲しそうな、暗い目をした周さんを初めてみる。
「私は閉じ込められたりなんかしないもの。周さんと一緒に行くわ」
「でも、お父さん、お母さん、悲しいのは良くないです」
どうしたらいいのだろう。このままでは、二人の間は、池よりずっとずっと大きい海で隔てられてしまう。
周さんは、ふぅっと一つ、大きく息を吐き出した。
「深沙大王にお願いしてみましょうか」
ふんわりと優しく笑って、周さんが私の顔を見る。
「伝説みたいに、亀が助けてくれるかもしれませんから、」
私達は両手を合わせて、深沙大王をお祈りした。悪い神様、なんて言ってごめんなさい。お願いします。私たちを一緒にいさせて。

「亀、出ました! 亀!」
周さんがいつになく興奮した声で電話を掛けてきたのは、深沙大王をお参りした数日後。
「日本の会社に出向、OKだって言いました。私、しばらく中国、帰りません!」
いつかは中国に帰るかもしれない。でも、直ぐにじゃない。だから、お父さんも許してくれるかもしれない、と。
「お父さん、きっと、わかってくれます」
私は携帯電話を握り締めた。
本当だった。深沙大王にお祈りしたら、亀が現れて周さんを私のところに連れてきてくれた。深沙大王さま、有難うございます!
「亀、来ましたね。お祈りして良かった」
周さんが電話口で笑った。嬉しそうに笑った。きっと、電話の向こうで、周さんの目はきらきら輝いているに違いない。
それから直ぐ、私達はもう一度、父に話をした。父は苦虫を噛み潰したような顔をして、うむむっ、と唸っていたけれど、ダメとは言わなかった。母はただ、うふふっ、と笑っていた。
両親と話をした帰り道、私たちは深大寺に立ち寄った。
深沙大王と亀にお礼を言って、境内を戻りかけたところで、
「ほら、あれ、」
周さんがなんじゃもんじゃの木を指差した。
「風の道?」
周さんがにっこり笑って首を振る。
「花嫁さんの帽子みたい」
 なんじゃもんじゃの木は、初夏の真っ白な花をいっぱいに咲かせていた。

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<著者紹介>
山田ノ案山子(東京都中野区)

「今日、どこかに行ってみようか?」そう母が切り出したのは、ようやく家の片付けも一段落ついた日曜の朝だった。
ここ東京の調布市へ引っ越してきたのはちょうど一週間前だ。ひとりっ子の光治は現在小学四年生。転校の手続きはなんなく終わり、すでに新しい学校へ通っている。まだ新しい友達はいないが、特に慌ててはいない。それは転校というごく一部の人間にしかできない希少な経験が初めてではないからだろう。
「行く!」
朝食のパンをかじりながら光治は目を輝かせた。待ち焦がれていた初めての東京散策。行きたいところは山ほどある。原宿、秋葉原、それからそれから......
「深大寺に行ってみない?」
 じんだいじ?
「なにそれ?」
「知らないの? 近くにある大きなお寺よ」
「お寺~?」
「有名らしいのよ。お蕎麦屋さんがたくさんあるんですって」
 やだよ、お寺なんて。じじくさい。
「参道がとても素敵なんですって。良いお店紹介してもらっちゃった。お昼はそこで食べましょう」
 母さん、もう友達できたんだ?人見知りしない性格は相変わらずだと、光治は心の中で呟いた。
「原宿行きたかった」
「もっと大きくなったらね」
 そして昼の一時過ぎ。二人は深大寺へとやってきた。参道はすごい人混みでバスからは更にたくさんの人が降りてくる。お寺がこんなに混んでいるなんて。
「今日、お祭り?」光治は素直に尋ねた。
「違うわよ。迷子にならないでよ」
 本堂でのお参りを済ませた二人は、参道に並ぶお店を見物していた。蕎麦屋がたくさん、団子屋、煎餅屋。屋台じゃないのが不思議な感じだ。
「食べたいものある?」
「うーん、かき氷」
 暑かったから。
「何それ? 売ってないでしょ」
「あるよ、ほら」
 道行く人の頭を避け、軽く飛び跳ねながら光治の指差すその先には確かに氷の旗が見える。母は光治に千円札を手渡した。
「じゃあ買ってらっしゃい。お母さん、そこのお煎餅屋さんに並んでるから」
 人混みをすり抜け、光治は何軒か先に見える氷の旗を目指した。そこは団子屋さんだった。おいしそうな焼きたての団子と、蕎麦饅頭が売っている。そして隅にあるかき氷のコーナー。団子と饅頭はすごい人だかりなのに、かき氷機の前は閑散としていた。
そこに光治と同い年くらいの少女が静かに立っていることに気が付いた。光治と目が合う。一瞬の沈黙の後、少女は目を逸らした。焦った光治もかき氷に意識を戻す。しかし店員さんは団子や饅頭で手一杯。仕方なく誰かの手が空くのを待つことにした。再び目の前の少女が視界に入る。やっぱり東京の子もかき氷は好きなんだ。そう安心した矢先、饅頭売りのおばさんの手が空いた。すかさず光治が話しかける。
「すいません、かき氷ください!」
「はいよ! 美沙」
 美沙と呼ばれた目の前の少女は、ゆっくりとかき氷を作り始めた。その光景を呆然と眺める光治をよそに、氷は立体的な造形を描いていく。
「何味ですか?」
「え......じゃあ、いちご」
 おぼつかない手つきでシロップをかける。よく見るとエプロンも着けている。かき氷が完成すると、無愛想に光治へ手渡した。
「三百円です」
 ......店員さん???
 あまりに異質だった存在の少女のことで、しばらく光治の頭はいっぱいだった。あの子、何で働いてるんだろ?数多くある東京への好奇心より、そのことが気になって仕方がなかった。来週。そうだ、来週もう一度行ってみよう。たまたま今日だけ手伝っていただけだと思うし。日曜日、ひとりで行ってみよう。光治は一週間が待ち遠しくて仕方がなかった。
 一週間後、光治は再び深大寺へと向かった。「そんなに気に入ったの?」と、母親に茶化されたが、少女のことを知られたくなかったので、「まあね」とだけ答えた。
 先週より少し早い時間に家を飛び出し、うる憶えの道を辿っていく。相変わらずの賑わいを見せている参道へと入り、緊張しながらあの団子屋を覗くと、やはり例の少女美沙はいた。
 相変わらずの無愛想。かき氷の人気も全くない。光治は来る前に母から受け取った三百円を握りしめ、美沙の前に立った。
 美沙の目が丸くなる。どうやら光治のことを覚えていたようだ。
「一つください。いちご味」
「......はい」
 美沙はゆっくりとした動きで、四角い氷を機械にセットする。どうやら光治が今日初めての客だったようだ。
「いつも働いてるの?」
 突然光治が話しかけたので、美沙の動きが止まる。美沙は少しだけ光治の顔を覗き見ると、すぐにまた目線をかき氷機に戻し、ゆっくりと頷いた。続けて光治が尋ねる。
「何年生?」
「......四年」
「四年? 同い年じゃん」
 興奮気味でつい声が大きくなる。周りの大人がこっちを見た。
「すごいな、働いてるなんて......え、でも四年って、どこ小?」
「深大寺小」
「俺も深大寺小だよ!」
 光治は引っ越してきたばかりで、まだ知り合いも少ない。四年は三クラスあるから、残りの二クラスのどちらかなのだろう。
「知ってる。私も四年一組だから」
 光治は大きな声を出しそうになったのを必死で抑えた。代わりに目がまん丸になって痛くなるほど見開いていた。そんな顔を見て、美沙が少し笑った。
「俺も、四年一組!」
 同じクラス!でもこんな子いたっけ?やばい、クラスの子に気付かないなんて。実は毎日顔を合わせていたなんて......
 美沙は再び氷作りに取り掛かっていた。光治は氷どころではなかったのだが。
「三百円です」変わらぬ調子で美沙は言った。
 次の日、学校で注意深くクラスメイトの顔を眺めていると、確かにいた。高野美沙。一番窓側の席の後ろから二番目。昨日よりずっと子供っぽく見える。休み時間も特に誰とも遊ぼうとせず、机に伏して眠っていた。
 何度か話しかけようとしたが、勇気が出なかった。男子と女子の垣根は高い。実際、話しかけたら多分在らぬ噂が広まるに違いない。それも学年中に。もやもやした時間が続き、その日授業は終わってしまった。
「かき氷ください。いちご味」
 ようやく話すことができたのは、二週間後の日曜日。学校ではなくやはり例の場所だった。美沙はいつもの驚いた表情。これが見たくて光治は話しかけているのかもしれない。
「どうして?」いつも来てくれるの?美沙は尋ねた。
「カッコイイと思ってさ」
「......学校のみんなにはバカにされてる」
「そうなの?」光治は素直に不思議だった。
 俺はカッコイイと思う。まっすぐな光治の言葉に、美沙は少し赤くなった。そして同時に会話の終わりを告げる合図、「三百円です」
 それからというものの、日曜日が来る度に光治は美沙の元を訪れた。学校では相変わらず一言も喋っていない。ただかき氷を作る間、その一分やそこらが心地良くて。美沙も徐々に笑顔を見せるようになった。
そんな小さな幸せがしばらく続いた八月。光治は、母から信じられない言葉を聞いた。
「来週、引っ越しだって」
 父の仕事の影響で、全国の地方を転々としてはいるが、こんなに早く引っ越すのは初めてだ。東京は場繋ぎだったと聞かされる。
 夏休み真っ最中。学校はない。このまま誰にお別れを言うわけでなく引っ越すことになるという。「嫌だ!」こんなに強く思ったのは初めての引っ越し以来だ。もちろん光治が反対しても仕方ないのは分かっている。でも......それでも、もう一度、もう一度だけ話したい。引っ越しは来週。次の日曜日が最後!
 当日、光治は信じられないほど早く目が覚めた。昨日あれだけ眠れなかったのに。言えるだろうか。いや、言ったところでどうにかなるわけでもない。ただ覚えていてほしかった。もう一度、大きくなって一人でも暮らせるようになって、もう一度戻ってきたいと思ったから、だから。
「引っ越すことになった」
 光治は勇気を出して伝えた。美沙は氷を作ることも忘れ、光治の真剣な目を見つめた。そのまま時を止めてしまうわけにはいかない。美沙は無言で完成したかき氷を手渡した。三百円、光治も何も言わずに手渡した――
 二人の恋の話はここでおしまい。十年も昔の小学校の出来事なんて覚えている人の方が少ないかもしれない、それでも。変わらず店の手伝いを続ける美沙はその日。だいぶ低くなったけれども心地良い、とても懐かしい声を聞くことになる。
「すみません、いちご味ください」
 そしてあの日言えなかった言葉を、今度は笑顔で言えるに違いない。
「三百円です」

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<著者紹介>
渡邊 農夫也(神奈川県川崎市/32歳/男性)

  いつものとおり、散歩に行こうと言い出したのは隆だった。
静謐な深大寺と、緑が目に優しい神代植物公園。それから美味しい蕎麦屋に魅せられて、休日はよく深大寺付近を一緒に散歩する。
少なくとも、あの辺の蕎麦屋を全制覇するくらいは行っていて、二人のお気に入りの店もできた。植物公園の入り口付近の店だ。
散歩の途中に、毎回そこで蕎麦を食べる。
それから植物公園を散策する。お給料日前や、お財布が厳しいときは、入園料のかからない水生植物園や林間散策路を二人でゆっくりと辿る。季節を彩る様々な花に見とれているうち、花の名前にすっかり詳しくなった。
この習慣はずっと続いていて、殆んど破られたことはない。雨が降っても風が強くても、今日みたいに喧嘩していても、一緒に行く。
 そういえば喧嘩の原因はなんだったっけ?
 ああそうだ。隆がトイレットペーパーを使い終わったのに、新しいのを出しておかなかったからだ。用を足す前に気付いたのがせめてもの救いだったけど。
 いつもの散歩道を一緒にたどる男を、ちらりと見る。
新島隆。私と同い年だから二十五歳。背は私より十センチ大きいのに、細身なので体重はあんまり変わらない。会社員だから普段はぱりっとしたスーツを着ているけど、私服はだいたいジーンズだ。日曜日だから、今日もジーンズとダッフルコートのラフな格好だ。
深大寺のそばにあるアパートで一緒に暮らし始めたのは、お互い大学を卒業するときだ。早いもので、もう三年になる。
どういう人なのかもっと知りたかったし、一緒に住むのが当たり前な気がした。彼がいてくれたらそれだけでいいって思ってた。
そのはずだったんだけどな。

一緒に暮らして、良かったことももちろんあった。だけど、それと同じくらいイラつくこともあった。原因はどれも下らないことだ。
例えば、隆が脱いだら脱ぎっぱなしにすることとか、酔っ払って帰ってきて服のままで寝るとか、トイレに入って便座をあげたままにするとか。
どれも些細なことだけど、塵も積もれば山となるように、下らないことも積もり積もって喧嘩になる。私も働いているので、疲れて帰ってきて部屋が荒れ放題だとがっくりするし、イライラする。人間だもの。
「まだ怒ってるのかよ。悪かったってば。怒ると可愛くねえぞ、恭子」
 黙りこんでいた隆が、ふいにそう言った。
私はそっぽを向いた。可愛くなくて悪かったわね。
「蕎麦おごってやるからさあ。機嫌直せよ」
 それでも譲歩する隆に、不本意ながら少しほっとする。
「......天ざる、大盛りだからね。デザートにあんみつも食べたい」
「おう、わかった。思う存分食え。なんならそば粉クレープとかそば饅頭も食っちまえ」
 そう言って笑う隆の指先をぎゅっとにぎる。
くやしいけど、こうやって笑うとき細くなる目元が好き。意外にきれいな歯並びも好き。ちょっと掠れた声も好き。私の手を握り返してくれる指先も好き。
 幾つかある欠点を全部を並べてみても、好きな気持ちのほうがそれを上回る。
 だけど、もしかしたら隆は、もう私のことをそれほど好きじゃないのかな。
 だって、一緒に暮らし始めて決して短くはない時間が過ぎたのに、隆は『結婚』という単語を一切口にしない。
隆との生活に私が不満を抱くように、彼にだってきっと私に対する不満があるのだろう。
彼からしてみれば、私は口うるさくて可愛くない女なのかもしれない。
世の中には、私よりもっと優しくて可愛い女の子なんて、掃いて捨てるほどいる。
そういう子に、隆が恋をしちゃうことだってじゅうぶんあり得る。
その場合、私は捨てられちゃうのかな。
自分でも嫌になるくらい悲観的だけど、ついついそんなふうに思ってしまう。
 私たちはこのままいつか、道を違えてしまうのだろうか。そう思うと胸が詰まった。

 天ざる大盛りとあんみつを食べたら、違う意味で胸が詰まった。
おいしかったけど、さすがに食べ過ぎた。
「なに黙りこんでるの」
 はちきれそうなおなかを抱えてぐったりしていると、隆に訊かれた。
「お腹がいっぱいでちょっと気だるいだけ。隆だって今日は無口じゃん」
 そう指摘すると、隆はそうかあ? と首をかしげた。自分で気づいてなかったのか。
普段なら会社であったこととか、ちょっとしたことを面白おかしく喋るのに、今日はなんだかいつもと違う。さっきから、どことなくぼんやりしている。根に持つタイプじゃないから、喧嘩のせいじゃないとは思うけど。
「そうだよ。なんか悩みでもあるの? もしかしたら恋煩いだったりして」
 冗談めかして訊いたら、隆が目を丸くした。
「恋煩い? 誰が誰に?」
「さあね。そろそろ行く? ごちそうさま」
 隆がお会計を済ませていたので、私は席を立った。
「どういたしまして。あ、植物公園に行く前に、深大寺をお参りしようぜ」
 そう言って隆は私の手を取った。
薄暗い石段を下りて、山門の並びにある小さなお店を眺めながら歩いていたら、不意に隆が手を離した。
「ごめん、ちょっと先にお参りしてて。すぐ行くから」
「わかった」
 どうしたんだろ。トイレかな。
そう思いつつ一人で境内に入った。見るともなしに、なんじゃもんじゃの木を見上げる。
 あてもなく境内を散策していると、社務所の脇にあるおみくじの箱が目に入った。
ひとつ引いてみようかな。でも、あんまり良くないのがでたら嫌だな。そう思いながら箱をじっと見た。ここのおみくじには、ひとつひとつに押し花が入っていて、お守りになる、と書いてある。
 そういえば、私たちが付き合い始めたきっかけも花だった。私の誕生日に、隆が小さな薔薇の花束をくれた。そして告白してくれた。
薔薇を見ると、あの日のことを思い出す。
私が神代植物公園を好きな理由の一つは、見事な薔薇園があるからだ。
今は二月なので、艶やかな椿や可憐な梅が冷たく澄んだ空気を甘い香りで包んでいる。
薔薇が咲くのは、もう少し先のことだ。
その頃の私たちは、どうなっているのかな。

それにしても隆が来ない。
寒いし、早く来ないかな。そう思って山門を振り返ったとき、ちょうど姿を現した。
「おまたせ。なに、おみくじ引くの?」
「ううん、ちょっと見てただけ」
「ふうん。俺、引いてみようかなあ」
「へえ、珍しいね。今までそんなの引いたとこ、見たことない。どうかしたの?」
「べつに」
 そう言って、鞄からお財布を出して二百円払う。それからおみくじを引いて、難しい顔で開く。読み終わると、表情がゆるんだ。
「良かった、まあまあだ」
 覗き込むと、なんと凶だった。
「全然まあまあじゃないじゃん。初めて見たよ、凶なんて」
「いいの。勇気が出た」
 おみくじを木に結びながら、隆は微笑んだ。
「勇気? なんの?」
「これを渡すための」
 そう言うと鞄をごそごそして、箱を出した。片手に乗るくらいの小さな段ボール箱だ。
「恭子にやる。あけてみて」
 いったいなんだろう。落とさないように慎重に箱を開ける。そこにはマグカップのようなものがあった。山門の入り口付近にある、らくやきのお店で買ったものみたいだ。
あのお店では、焼き物のお買い物のほか、陶芸や絵付けも楽しめる。絵付けは二十分でできるそうなので、いつか一緒にやろうねって隆と話したことがある。
「箱から出して、よく見て」
 訳がわからないながらも箱から出す。
中身は思った通りマグカップだったけど、そこに描かれていたのは、思いがけない言葉だった。
『いつもありがとう。だらしない俺だけど、良かったら結婚してもらえますか?』
 それから、マグカップの箱の底に、むきだしのままで転がっているものがひとつ。
綺麗な石のついた華奢な指輪。
「......ねえ。まさかこれってプロポーズ?」
「もちろん。一緒に住み始めてそろそろ三年たつし、恭子が嫌じゃなかったら...」
 私はひとまずマグカップを隆に渡した。
それから指輪を箱から出して、左手の薬指にはめてみた。ぴったりだった。涙が出そうになったけど、ぐっとこらえて微笑む。
「ありがとう、嬉しい。私も隆と結婚したい」
 隆もほっとしたように笑みを浮かべた。
「良かった。こっそりこれを用意してたけど、今日喧嘩しちゃったし、断られるかと思った。さっき恭子が言った通り、確かにお前に恋煩いでもしてたみたいだな。だけどおみくじの恋愛運も縁談も悪くなかったからさ」
「それでまあまあだったんだ」
 私は吹き出した。
 どうやら私たちの散歩は、この先もずっと続いていくようだ。

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<著者紹介>
綾稲 ふじこ(埼玉県/31歳/女性/会社員)

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