「はい、とろろとなめこ。あと、蕎麦湯ね」
 注文の蕎麦はすぐにきた。いそいそと薬味をのせ、箸先から逃げるなめこを追いかけていると、隣で洋太が苦笑した。へたくそ、と、店の人に木杓子を頼んでくれる。
「不器用だな、千尋は。ほんとに『ふつつかな孫』を、よろしくされちゃった」
 洋太は目元をほころばせ、会ったばかりの千尋の祖母の真似をした。
彼らの婚約の報告に、何をいうより先に、仏壇に線香を一本立てた祖母。白檀のくすんだ香りがただよう中で、孫娘をよろしくと、ふかぶか彼に頭を下げた。
 千尋は頬を少しふくらませ、蕎麦椀の底を探りつつ、洋太の顔を窺った。そこにいるのが誰か、改めて確かめるように。
 二人が腰をおろした床机の前には、小さな焚き火が燃えている。水車が回る蕎麦処か、野点の茶屋かと迷った末、花冷えの公園を抜けてきた彼らの心を惹いたのは、やはりこの火のあたたかさだった。
 と、春先の風に、蕎麦の湯気があおられて、洋太の眼鏡がさっとくもった。彼は静かに手を上げて、指先でくもりを拭いとる。
 千尋はそれをじっと見つめた。その指先は、さっきまで、確かに別のものだった、と。
        *
 それは、花見客で賑わう神代植物公園の門をくぐり、しだれ桜の並木道のあたりまで来たときのことだった。
 千尋はふいに、静けさを感じた。
 二人の周りにはたくさんの人がいて、滝となってほろほろ零れおちるしだれ桜を、みな浴びるように見上げていた。談笑する人もいたけれど、どの声も奇妙に遠かった。
 気づいたときには、父と手をつないでいた。
 さっきまで触れていた、少し汗ばんだ洋太の手はどこにもない。かわりに握っていたのは、日向くさく、かさかさとかわいた手。
 ――そうだ。私たちは今日、野川沿いの祖母の家に行った帰り、ここへどんぐりひろいにきたのだっけ。千尋はぼんやりそう思い、けれどもすぐに頭をふった。
 違う。それは二十年も前のこと。父はもう、とうに亡くなった。今、私と一緒にいるのは洋太のはず。洋太はどこ? 問いかけようとするが、声にはならない。
「どうした? 疲れたのか」
 上から、父の声が降ってきた。振り仰いだ目の高さに、皺のよったポロシャツのお腹。背が、いつのまにか縮んでいる。もう少し首を傾けると、黒ぶち眼鏡の、紛れもない父の顔が、こちらを見つめていた。
 貝や石、蝉の抜け殻に、おもちゃの鉄砲弾。そんなものを集めるのが、父が教えてくれた何より楽しい遊びだった。二人で変なものをひろって帰っては、いつも母を呆れさせた。それは確かに、その頃のままの父だった。
 見回せば、公園も秋の景色に変わっている。足元に散り敷いた落ち葉の、あたたかな重なりの陰から、父はどんぐりを一粒ひろうと、千尋のほうに差し出した。
 彼女は急に身構えた。父が亡くなってからというもの、幾度となく見た夢を思い出して。
 たとえばふらりと会社から帰ってきて、何もなかったように父はいうのだ。ずっと外国に出張してたんだ。事故? 何の話だい。
 でもそれはいつも嘘で、いつも夢は消えてしまう。ただ、「おとうさんはもういない」という事実だけを残して。 
 今日もまた、何かが父のふりをして、私を騙しにきたのかもしれない。千尋は思った。
 そんな彼女の緊張が伝わったかのように、父はちょっと困った表情を浮かべ、心もち、つないだ右手に力をこめた。
「これ、何の実だかわかるか」
「え」
「なんじゃもんじゃの実だよ」
 千尋は差し出された手のひらの上を見た。
 へえ、変な名前。あの頃なら、きっと素直にそう答えたろう。が、今の彼女は知っていた。人の名前も算数の答えも、わからないものは全部「そりゃなんじゃもんじゃだな」とごまかすのが、いつもの父のやり方だった、と。それで何度、はぐらかされてきたことか。
 が、そんな疑いを見透かすように、父は、ただにやりとしてみせる。そして、さえぎる間もなく、次々にどんぐりをひろいはじめた。
「これも、これも、これも。ほら、なんじゃもんじゃがいっぱいだ」
 そう言って、どんどん先に歩いていく。父は様々な実をひろっては、ズボンのポケットに押し込んだ。と、奇妙なことに、父のポケットはふくらまず、千尋のスカート――もうとっくに捨てたはずの、サスペンダーつきの綿のスカート――のポケットが、少しずつふくれていくのだった。彼女はそれを布の上からまさぐりながら、父の後を追った。
 青空を掃くパンパスグラスの茂みを踏み分け、ばら園の小径を抜けるうち、千尋は誰を追っているのか、次第にわからなくなってきた。父の背中は、時おり点滅するように、洋太の背中を映し出す。千尋の中でも、桜を見上げる今の自分と、どんぐりを探す幼い頃の自分とが、ぐるぐる渦を巻きだした。
 頭上にかぶさる桜の梢は、淡白い花に満ちあふれては、またみっしりと赤い焼け色に紅葉する。まわりのあらゆる樹々たちも、一瞬で二十年分の背丈を伸ばしては、即座にするする枝を縮めた。まるで二本のフィルムを、映写機でいっぺんに回しているかのように。
「ちょっと、待って」
 いつのまに早足になったのか、だんだん息が切れてきて、千尋は父を呼び止めた。
 そこは、深大寺門のあたりだった。父は門の脇に立ち、娘が来るのを待っている。俯く視線の先をたどると、二人の間を隔てるように、どんぐりの海が広がっていた。
 ひろってもひろっても、ひろいきれないほどのどんぐり。それは遠い日、親子をひどく昂奮させた、宝物のような眺めだった。
「ほら、好きなだけひろえ」
 ズボンの脇で手をふくと、父は海ごしにそう呼びかけた。千尋は駆けよろうとしたが、なぜか、どんぐりを踏むことができなかった。
 いつのまにかぱんぱんになったポケットの重さを持てあましつつ、彼女は叫んだ。
「もういい、もう十分ひろったよ。それより、こっちに戻ってきてよ」
 その声は、大人の千尋のものだった。対岸の父は、驚いたように目をみはる。そして、少しだけ寂しそうにいった。
「そうか」
 そうだよ、千尋は心の中でまた叫んだ。
 すると、父が声もなくいうのがわかった。
 よかった。そんなら、もう帰ろうな。
 ――その瞬間、やわらかな春の匂いが勢いづいた。急速に、秋の空気を塗りかえる。
 千尋ははっとして、足元のどんぐりに手を伸ばした。しかしどの実も、もうひろうことはできなかった。
 どんぐりはみな、地面に根を張っていた。殻が割れ、みずみずしい薄緑の実がはじけ、細い双葉が立ち上がる。それらは思いがけず強い力で土をつかみ、決して離れようとはしないのだった。
 父は呆然とする娘を、静かに見守っている。
 千尋は、もう取り返しがつかないという思いと、強い切なさとに襲われた。
 行ってしまう。まだ、大切な何かを忘れているような気がするのに。
 ......そうだ。会ってほしい人がいる。今、一番、誰よりも、父に会わせたい人が。
 私は、あれから、とても大事な人に会ったのだ。
 待って、あと少しだけ。
 けれども、父は戻らなかった。
 そのかわり、明るい何かが、春一番の嵐のように、彼女をめがけて吹きつけた。
「へえ、すごいね、コナラが芽を出してるよ」
 それは、洋太の声だった。
 同時に、ぱん、と膜が破れるように、世界が再び裏返った。
        *
 くもりを拭うと、洋太は眼鏡をかけ直す。
 あのときから、彼はずっと彼のまま。
 ――あれは一体、何だったのだろう。
 千尋は、ますますじっと、洋太を見つめた。
「なんだよ」
 ううん。かぶりをふって、食べ終えた器を机に置く。洋太は首をかしげたが、二つの器に蕎麦湯をつぐと、携帯電話を取り出した。
 ゆっくり開き、ほらほら、と彼女に写真を見せる。その中に、小さな小さな芽があった。
「面白いな。どんぐりって、こんなふうに芽を出すんだね。これが大きな木になるなんて、少し不思議な感じだな」
 しきりに感心しているその様子が、何だか妙に可愛くて、それがなぜだか嬉しくて、千尋も「そうだね」と頷いた。

 鼻をなで、湯気がふわりと立ちのぼる。
 その上に乗せ、幻の余韻を、天に送った。
 ――おとうさん、もう、大丈夫だよ。
私はちゃんと見つけたから。まだ、ほんのちっぽけなかよわい芽。でも、それにさえ、ともに喜べるこのひとを。
 風は冷たくても、あたたかな土に守られて、その芽は茎を伸ばすだろう。
 やがて茎は幹となり、水と光にむくむくとみなぎる。二人の上に枝を張り、深緑の葉をそよがせる。そこに宿る鳥の鳴き声を聞いた気がして、千尋はふっと微笑んだ。
 洋太に向かって、軽く器を持ち上げる。
 彼は一瞬きょとんとしたが、すぐに気づいて応えてくれた。
 蕎麦椀を、グラスがわりにこつんと鳴らす。
「カンパイ」
 何に育つかわからない、なんじゃもんじゃの樹の下で、そして二人は乾杯をした。

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<著者紹介>
沢渡 ともみ(埼玉県越谷市/25歳/女性/会社員)

 だるま市から降り出した雨は、二日過ぎても降りやむ様子はなかった。
 深大寺裏門側にある、高台の小さな蕎麦畑の溝を雨水がえぐるように流れていく。
 時刻は午後一時過ぎ。火の気のない物置小屋で、震える脛を抱いていても仕方がない。
 約束の時間には、一時間ほどあったが、清は油障子を引いて、女が待つ深大寺の本堂へと向かった。
 幸子と会うのは、五年ぶりだった。
 清が深大寺村を出たのは、十五の頃。"金の卵"ともてはやされ、浅草で店を構える和傘職人のもとへ徒弟奉公に出されて以来、会っていない。
 親方は本場・加賀で修業を積んだ男だった。朝晩は掃除、飯炊き等でこき使われ、日中は骨作りやろくろなど、傘作りの工程を厳しく仕込まれた。見慣れ聞き慣れで、拳固で殴られることも日常茶飯事。乱暴な下町なまりが染みつく頃には、清の体にがっしりとした肉がつき、背丈も五寸ほど伸びていた。
 幸子も変わっただろうか――。
 頭に残るのは、ふっくらとした頬。人懐っこい垂れ眼がちの瞳、野良仕事で真っ黒になった手。しかし、浅草の寺町を歩く十八の娘は、皆一様に眩しく見える。村娘とはいえ、少しは女らしくなってるはずだ。
 右手には、清がこさえた和傘があった。
 歌舞伎の演目"助六由縁の江戸桜"の主人公・助六が使った傘と同じ。
 農家の娘には少し派手かもしれないが、きっと喜ぶにちげえねぇ。
 心臓が早鐘のように打ち、泥道を踏む音が次第に大きくなってくる。
 この日を待っていたのだ。清は藁葺きの山門をくぐった。

 幸子と最後に会ったのは、浅草へ旅立つ前の晩のことだ。清が早めに床につこうとすると、幸子が訪ねてきた。
「寝入りばなに、気の利かねぇヤツだな」
 両親の手前、わざと不機嫌な言葉を吐いて戸を開く。外は春雨だった。
 濡れた幸子が萎れるように立っていた。
「こんな遅くにどうしたんだい?」
「キヨちゃん、ごめんね。明日早いのに...」
 聞こえていたらしい。慌てて首を振った。
「いや、別に...、いいんだ。別れの挨拶に来てくれたんだろ。ありがとな」
「うん...」幸子は頷くと、深くうつむいたまま、それ以上言葉を発しなかった。
「ちっと歩こう」しとしと降る雨粒を背で受けながら、二人は無言で歩き出した。
 自然と足は深大寺へと向いた。山門がうっすら見えてくる頃、不意に幸子は顔を上げた。
「明日から、油屋さんの所でお世話になることになったの」
 村一番の豪農の屋号を上げた。
「ちゃんが金を借りて、返せなくなったから、住み込みで畑や台所を手伝うんだ」
 幸子の父が、胸の病で働きが悪くなっていることは聞いていた。
「だ、大丈夫か?」声が大きくなった。
 清は女を知らなかったが、大人たちの会話から、油屋の主人が下女に手をつける男だということは知っていた。
 清の表情から、心情を悟ったようだ。幸子は耳を真っ赤に染め、顔の前で手を振った。
「奥様もいるし、器量の悪いあたいなんて、箸にも棒にもかからないから」
「そうならいいけど...、気をつけろよ。お前より若い子を孕ませたって噂も...」
 そこまで言って、ませた口を利く自分が好色に思えて、口をつぐんだ。つられて、幸子の態度もぎこちなくなった。
「それじゃ、あたし、もう帰る」
「帰る方向は一緒だろ」
 清はまだ話足りない気がしていた。
 幸子は清の問いには応えず、ぺこりと頭を下げると、背を向けた。すると今まで感じたことない気持ちが沸き上がってきた。
 物心ついた頃から、小さな村で家族同然に暮らしてきた。でも明日になれば、幸子と気軽に会うこともできなくなる。雨に叩かれる幸子の後ろ姿がいじらしく思えた。
 清は水たまりを割って走り出した。
「五年だ、五年辛抱してくれ」
 追いついて、肩を掴んだ。振り向いた幸子は、目を見開いた。
「奉公を終えたら、必ず戻ってくる。五年後の今日、また会おう。なっ、約束だ」
 一拍置いた後、すがるように見つめ返す瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「いつ...、どこで会うの?」
「深大寺の本堂だ。時間は昼の二時」
「きっとだよ」何度も確かめようとする幸子の両手が、清の手に重ねられた。
 その手の温もりは、雨音と共に清の中へしっかりと根を下ろし、いつしか辛い職人修業の支えとなっていった。

「おかしなこと、考えてはいないだろうね」
 母の米が探るような目で、幸子を見た。
「おいで、和彦」三歳になる孫を呼び、母の前に立たせる。
「この子まで不幸にするつもりかい。あたしも油屋のことは好かんが、生きていくためには、絶対に側から離れたらいかん」
 情に流されてはならぬと、米は諭すように繰り返した。
「分かってるわよ。今この家を放り出されたら、どうなるかってことくらい――」
 幸子が油屋で働くようになって、数ヶ月が過ぎた頃、油屋の妻が流行病で亡くなった。
 幸子が身の回りの世話をすることとなり、油屋の触手が幸子に伸びた。
 翌年に和彦が生まれ、貧困にあえぐ両親も、油屋の離れへ身を寄せることとなった。
 どっぷりと油屋の金に浸かっている今の私を見て、清はどう思うだろう。
 五年前の夜にかわした約束は、半端なものではなかったと思う。幼い二人が夫婦になろう、と誓い会ったわけではないが、心が痛いほどに重なるのを感じた。
 油屋に身を任せるたび、あの人に会うまでの辛抱だと思えたからこそ、耐えることができた。
 けれども、今日深大寺に行かなければ、私を待つ人は誰もいなくなる。明日からは平坦な暗闇が広がり続けるだけだ。
 雨脚が衰えつつあった。幸子は意を決し、身支度を整えると、母の隙をみて母屋を出た。
 和彦に対する負い目がなかったといえば、嘘になる。が、一旦家から出ると、若葉に落ちた滴が跳ね返るように、幸子は走った。
 雨に洗われた参道脇の緑は濃く香り、湿り気を帯びた石は黒々と輝き始める。
 この日を待っていたのだ。心浮き立つ自分を押さえきれなかった。
 ただ、すでに時刻は午後四時過ぎ。あの人は、もう帰ってしまったかもしれない。
 裾を捲り上げ、山門を駆け上がると、本堂には青白い顔で座り込み、頬杖をついている男がいた。清である。幸子が走り寄ると、弾けるように立ち上がった。
 堰き止めていた思いが、一気に溢れ出た。その胸へぶつかるように、幸子は飛び込んでいった。清の胸板は厚く逞しかった。
「会えてよかったぜ。お前のこたぁ、一日たりとも忘れたことはなかった」
 懐かしい匂いに包まれ、言葉が震えた。
「あたしもよ。ずっと...、ずっと待ってた」
 確かめるように、両腕へ力を込めた。
「たまげるほど、別嬪になりやがって。待てど暮らせど来ねえから、約束を忘れたか、はたまた、どこぞの嫁になったかと思ったぜ」
 そう清が囁いて、頬を寄せようとした時、幸子は身を固くした。汚れきった自分には、その資格がないと思った。
 清も慌てて身を引いた。
「す、すまねえっ。つい昔のつもりでよ」
「いえ、違うの。悪いのは、私...、ごめんなさい、本当にごめんなさい...」
「おい、おい、めそめそ泣くなって。俺も浅草で、カ、カカァが待ってるのに、助平心を出しちまった。こっちこそ、すまねえ...。そうそう人生、思い通りにいくわけねぇよな」
 清は末尾を飲み込むように言った。
「そうだ。今思い出したんだけどよ。明日朝一番で仕事があってな、今からとんぼ帰りさ。
 小さな村だ。誰かに見られるといけねぇ、おめぇもさっさと帰りな」
 この人と夫婦になっていたら、どんなに幸せだったことか。切なさが込み上げてきて、失った物の大きさを知った。
「キヨちゃん、もう一遍だけ、約束して」
 清との糸が、ぷつんと切れてしまえば、それまでだ。
「お願いだから、五年たったら、再びこの深大寺で会うと...」
 傘も差さずに、あばよと走り出そうとした清の袖をひっしと掴んだ。
 嘘でもいい。清との約束があれば、生きてゆける。
「おっといけねえ、コイツを渡さずに帰っちまうとこだった」
 清は笑顔を作ると、朱色と白の円が織りなす色鮮やかな蛇の目傘を押しつけてきた。
 開くとパリパリと音がして、油の匂いが広がった。作り手の心を映し出すきめ細かな作り。勿体なくて、差せやしない。
「気にせず差せよ。五年後にゃ、もっと出来のいい傘を持ってくる。もしかしたら十年、いや、それ以上になるかも知れねぇけどよ」
 胸が詰まった。深大寺に来たのは、間違いではなかったと心から思った。
「じゃあな、今度こそ行くぜ」と歩き出した清に、二日ぶりの薄日が降り注ぎ始めた。
 微かに震えながら遠ざかるその背中へ、幸子は「ありがとう」と呟いた。

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<著者紹介>
増子 哲人(東京都世田谷区/35歳/男性/会社員)

「腹、減ったァ!」
 靫彦は大声で言うと、隣を歩く僕の顔を見て、ヘラッと笑った。力の抜けた、無意味で柔らかい笑顔だ
った。
 僕等は、深大寺水車館の前を通り過ぎて、鬼太郎茶屋の方向に歩いている所だった。
 陽が傾いて観光客の姿が減ったからか、ひぐらしの鳴き声が大きく聞こえた。空も木々も建物も、打ち水された石畳も赤く染まり、一日の余韻を味わうような、穏やかな空気が通りに流れていた。
「声がデカイよ」
「お前、気にしィなのなァ」
「お前が、しなさ過ぎんの」
「でも、お前のそうゆう所、オレ、好きよ」
 靫彦は言って、再びヘラッと笑った。
「ヨモギモチが好き」と、違いがないのは分かってる。でも、面と向かって言われた好きに、何と返していいのか分からなかった。僕は口に拳を当てて咳払いした。
 夏休みの宿題に出た自由研究の為に、神代植物公園に来た帰りだった。植物の写真撮影と資料集めを終えると、靫彦が水車館を見たいと言い出した。
 なんであんな物が見たいのか、僕にはまったく分からない。渋る僕に、靫彦が必死に頼み込んだ。言う事を聞かなければ、座り込んで泣き喚きそうな勢いだった。仕方ナシにやってくると靫彦は、大きな水車に、頭のネジが飛んだようにはしゃいだ。
 バカと子供はデカイ物が好きだ。
 僕は少し呆れてそれを見ていた。でも、そのはしゃぎ方は、なんだか見ているこっちも楽しくさせて、なかなか帰ろうとは言い出せなかった。
 僕は、頭を振りながら鼻歌を唄う靫彦を見た。中学の三年間ずっと一緒のクラスだ。性格も趣味も考え方も違うのに、出会ってすぐに仲良くなり、何故かいつも一緒だった。
「なあ、蕎麦、食おうよ」
「鬼太郎のトコで、ぜんざいでも食えよ」
「バカだなァ。お前、賢いのにバカな」
「何で?」
 僕はムッとして言った。頭の作りはトカゲ程度と言われる靫彦に、バカ呼ばわりされたくなかった。
「こんなに腹減ってんのに、ぜんざいぐらいで足りる訳ねェじゃん」
「お前の腹の空き具合なんて知らないよ」
 靫彦は立ち止まってじっと僕を見つめた。戸惑って見つめ返すと、靫彦はヘラッと笑った。僕もつい笑い返す。靫彦は歩き出した。
「おいっ!」僕は靫彦に駆け寄って言った。「今の何だよ?」
「何だか怒ってるぽかったから......いつもオレが笑うと、だいたい許してくれるじゃん。だから笑ってみた」
 靫彦は、あっけらかんと言った。僕は自分の気持ちを見透かされた気がして、気恥ずかしさからカッとなった。
「何だよ、それっ!」
「どこで食う?」
 僕の声に被せるように、靫彦が言った。僕は言葉を失って靫彦を見つめる。靫彦は、僕がカッとした事に気づいた様子もなかった。
「あれ? 今、何て言った?」
 僕は笑い出した。靫彦が不思議そうに僕を見た。僕はいつだって、靫彦に敵わない。
「何、何? 何が面白れェの?」
「顔」
「そりゃ、お前の立派な顔に比べればね」
「立派な顔って何だよ」
 僕がそう言うと、靫彦は両手で僕の頬を挟んで、息がかかるほど顔を近づけた。僕は金縛りに合ったように動けなくなり、息をする事さえできなかった。
「お前の顔って、本当に丁寧に作ってあるよねェ。ゲーノー人になれば?」
 湯気が出そうなほど顔が熱くなり、心臓の音が、周囲の雑踏の音をかき消すほど大きくなる。靫彦は、僕の動揺に気づかないのか、気にしていないのか、じっと僕の顔を眺めながら「てーねーなのねェ」と、バカみたいに呟いた。
「放せよっ!」
 僕は靫彦の手を振り払って、勢いよく身を引いた。背中が、通りかかった老婆にぶつかり、老婆の持っていた紙袋が落ちた。
「あ、ごめんね、バーチャン」
 言ったのは靫彦だった。僕は動揺が収まらず、声を出す事さえ出来なかった。靫彦は、飛びつくようにして紙袋を拾い上げ、ニッコリと微笑んで老婆に渡した。
「ホント、ごめんね」
 靫彦が言うと、老婆は靫彦の笑顔につられて微笑んだ。しかしすぐに、謝らない僕を睨んだ。
「こいつ、繊細で人見知りだから、すぐに声が出ないのよ」
 靫彦は言って、僕の背中を叩いた。
 それを合図に僕が勢いよく頭を下げると、老婆はびっくりして身を引き笑い出した。
「ね、面白いでしょう? こいつ」
 老婆は笑いながら靫彦に向かって頷き、僕等二人に頭を下げて歩いて行った。
「お前が悪いんだからな」
 老婆の姿が小さくなってから僕が言うと、靫彦は不思議そうな顔をした。
「急に......顔なんか近づけるから......」
「ダルマがある蕎麦屋にしよう」
「聞いてる?」
「オレ、あそこの味噌おでん、好きよ」
「蕎麦じゃないの?」
「蕎麦と味噌おでんを食うんだ」
「夕飯、食えなくなるぞ」
「だって、いっぱい食って幸せそうなオレの顔がいいって、前に褒めてくれたじゃん。オレ、お前に褒められるの嬉しいんだ」
 靫彦は軽い口調で言った。
 僕は、呆気にとられて立ち止まった。誰かのたった一言が、こんなにも嬉しく思える事を、僕は知らなかった。
 靫彦は立ち止まると、右手を腰に当て、左手を大きく振って僕を呼んだ。本当は、僕の気持ちを全部知っていて、からかってるのかもしれない。そんな訳ない。靫彦は何も考えていないだけだ。
 僕は何だか悔しくなり、わざとゆっくりと歩いた。靫彦はじれたように、僕が近づいてくる間、ずっと体を揺すっていた。
「おせェよ。わざとゆっくり歩いてさァ」
「先行く、お前が悪いんだろう」
 靫彦が不貞腐れた顔で黙り込み、僕はそれを見て小さく笑った。そのまま観光案内所を通り過ぎて、蕎麦屋の前に来ると、靫彦は亀島弁財天池に顔を向けた。
「井の頭公園のボートって、縁切りだって言うじゃん?」靫彦が言った。「あれって、弁財天が嫉妬するから?」
「確か、そんな話だったね」
「じゃあさ、ここも縁切り?」
「深大寺は縁結びだよ......それに、亀島の由来知らないの?」
 靫彦はコクンと頷いた。
「昔、娘の彼氏が気にいらない親が、娘を離れ小島に閉じこめたんだよ。島に行く方法がなくて困った彼氏が神様に祈ると、亀に変身した神様が、背中に乗せて島に連れてってくれたんだって。神様が助けてくれるなんてスゴイ奴だって、親も彼氏を認めて、二人は結ばれましたって言う話だよ」
「お前、お話、上手だね」
 靫彦が感心した口調で言った。
「それは今、関係ないじゃん」
「じゃあ、ここは縁結びなんだ?」
 靫彦は念押しするように言った。
「何? 誰か好きなコがいんの?」
 僕は、わざと明るい口調で言った。そうしないと、嗚咽に声が震えそうだった。
 靫彦の顔が、あっと言う間に赤くなる。その反応に、思わず僕まで赤くなった。
「蕎麦、食おうぜっ!」
 靫彦はそう怒鳴って店の中に飛び込んだ。僕はその背中を見送り、弁財天池を見た。池の方向から風が吹いて、慰めるように僕の髪を揺らした。
 分かり切った結末だ。そもそも最初から、この思いを口にするつもりはなかったじゃないか。僕は自分に言った。
 行く先をなくした僕の思いが、喉と胸に支えた。息をする度に、堅くて、重くて、熱いその塊の角が当たって、喉と胸が痛む。靫彦が店の中から大きく手を振り、僕を呼ぶ。僕は微笑んで手を振り返した。
 靫彦がヘラッと笑った。
 蕎麦が、思いの支えた喉をスルリと通りますように。
 僕は弁財天に願った。

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<著者紹介>
野中 賢(東京都豊島区/38歳/男性/会社員)

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