梅雨は、まだ明けそうになかった。

「夏、か......」
 ケータイの画面を見つめながら、大規は独りだけのその場所に身を委ねる。
 七月半ば、雲の隙間から差し込む光が、吹き抜ける風が夏の香りを届ける昼下がり。
 季節を先取りしたセミの鳴き声、遠くに聞こえるお経そして太鼓の音。小さなお堂と誰かを模した像、それらを彩るこけ苔や草。
「夏になったら、何か変わんのかな......」
 ケータイを閉じて、空に向かって枝を伸ばす木々に手を伸ばす大規。
「......ま、何も変わらないんだろうけど」
 どこか諦めたような口調で言葉を漏らした大規へ、じゃり、砂利を蹴る音が届く。
「......わ。本当に、来た」
 続いて細く高い声が耳をくすぐり、思わず声の方へ顔を向ける大規。
「あの、聞いてもいいですか?」
 同い年くらいの女の子がこちらを見つめているのを認めて、身体を緊張させる大規。お堂の傍まで歩いてきた彼女の口が、三言目を紡ぐ。
「二〇八八年は、ステキな未来ですか?」
「........................はぁ?」
 唐突に放たれた言葉に、甲高く抜けた声を上げる大規。
「あ、あれ、違いました?」
「だから、何のこと――」
 言いかけた大規の目の前で、彼女が人差し指を向ける。
「それです」
「......俺のこと?」
「ち、違います、後ろのですっ」
 振り向いた大規の目に、幾何学的な模様が刻まれた石碑と、『一九八八―二〇八八』と刻まれた金属板が映る。『未来カプセル』と命名されているそれらを指して、彼女は口を開く。
「二〇八八年って凄い遠くて、全然想像つかないじゃないですか。でも、私思うんです。きっと二〇八八年という未来はステキな未来だ、って。そしていつか、ステキな未来を伝えてくれる人が来るって、思ってたんです」
 大規は何を口にするべきか迷った。
 想像がつかないといいながら「ステキな未来だ」と言い切り、未来人が来ることを想像する彼女は、言ってしまえば『変なヤツ』。
 けれど、細く差し込む光の下で微笑む彼女に、その通りの感想を言うのは何故だかためらわれた。
「お前、面白いヤツだな」
「......わ。そんなこと言われたの、初めてです。さすが未来人さんシンキングです。私には全然理解できません」
「......せっかく表現を和らげてやったのに、お礼代わりがその言葉か」
「ふふ、冗談ですよ」
 微笑む彼女に溜息を吐く大規。身体の緊張はいつの間にか解けていた。
「......未来を想像するのって、楽しいですよね。未来の世界では、私は何にでもなれて、何でもできる。私が楽しいって思うこと、嬉しいって思うことが、世界でもやっぱり楽しいことで、嬉しいことなんです」
 大規の傍へ歩み寄った彼女が、石碑に手をかざして呟く。振り返った彼女と大規の視線が交差する。
「それって、ステキな未来ですよね」
「............そう、かもな」
 かけられた言葉がまるで、湧水のようにすっ、としみ込んで来るのを感じながら、大規は石碑へと視線を向ける。
「すてきな未来......どんな未来なんだろうな......」
 伸ばした手にぽつ、と当たる冷たい滴。
「ん? 雨――」
 それが雨だと気づいた時には、次々と雨粒が木々を貫き、二人の身体を濡らしていく。
「やば、降ってきやがった。そこのお堂で雨宿りしよう」
 傍のお堂に駆け込む二人、すぐに雨は勢いを増し、敷き詰められた砂利を砕かんばかりに降り落ちる。
 屋根から滴る水滴が、二人の足元で弾けた。
「ったく、傘くらい持って来ればよかったか」
「大丈夫です、この雨はすぐ止みますよ」
 妙に自信ありげな様子の彼女が気になって、言葉をかける大規。
「どうして分かるんだ?」
「匂いが、違うんです。これは梅雨の長雨じゃなくて、夏の夕立だって、教えてくれるんです」
「ふぅん、匂い、ねえ......」
 試しに嗅いでみるものの、大規には彼女の言う違いはさっぱり分からなかった。
「......そういえば、お前」
「のぞみ希望です」
「うん?」
「今、私のこと呼びましたよね? お前、じゃなくて、希望(きぼう)と書いて希望(のぞみ)。それが私の名前です」
「いや、別に名前で呼ぶ必要は――」
 大規の言葉は、「名前で呼んでください」と訴えるような彼女、希望の視線に遮られる。
「......希望」
「はい! 何でしょうか?」
 名前を呼ぶ恥ずかしさの中に、笑顔を向けられたことへの喜びを噛み締めつつ、言葉を続ける。
「希望は、どうしてここに来るんだ? ほら、ここって特に何かある、ってわけでもないだろ。案内図にも載らないような場所だし」
「え? あるじゃないですか、あれが」
 希望が指差すのは『未来カプセル』。
「いや、確かにそうだけど......それだけ?」
「......あれ、私と同い年なんですよ。私と同じ年に生まれた、それだけで特別な気がしませんか?」
「ああ......なるほどな」
 彼女の言葉に納得するように頷く大規。
「何だ、俺と同じ理由だったのかよ」
「......わ。未来人さんが私と同い年なんて不思議です。何か運命を感じます」
「いつまで俺を未来人扱いしやがる......俺は大規だ。大の字に規則の規で、大規」
「大規さん......じゃあ、私からも一つ聞いていいですか?」
「え、あ、ああ、いいけど――」
「大規さんは、この夏何かが変わると思っていますか?」
「えっ......」
 大規は言葉に詰まる。「どうせ何も変わらない」と思っていたのに、希望の目の前でその言葉は言えない、言いたくない気がした。
「私は、変わると思っていますよ」
「......どうして、そう言い切れるんだ?」
 大規の問いに希望はあはっ、と笑って答える。
「分かりません!」
「分かりません、って、お前なあ――」
「いいじゃないですか、分からなくたって。変わらないと思ってれば、変わらないかもしれないし変わるかもしれません。でも、変わると思ってれば、きっと変わるんです。そういうものなんです」
 そう言い切る希望が何だかカッコよく見えて、でも素直に言うのは恥ずかしくて。
「お前、やっぱり面白いヤツだな」
「......わ。また言われました。やっぱり大規さんは未来人さんです。私の想像外のことばかり言ってくれます」
「......そうか、お前に雨に濡れる趣味があったなんて知らなかったぞ。せっかくだから叶えてやる、大人しくしやがれ――」
 苦笑しつつ振り上げた手は、希望がくしゃみをする仕草で止まる。
「っと......大丈夫か?」
「は、はい、大丈夫です......くしゅんっ!」
 大丈夫といいながら二度目のくしゃみをする希望。辺りの空気が、まるで雨が入れ換えてしまったかのように冷え切っていた。
「こんなものしかないけど、まあ、ないよりましだろ」
 言って大規は、ポケットに突っ込んでいたタオルを、希望の頭に被せる。
「あ、ありがとうございます。......わ、大規さんの匂いがします」
「そ、そっか」
「はい、とっても優しい匂いです。大規さんは優しい人です」
「そ、そんなわけねーだろ」
 希望の言葉が照れくさくて、何だかほんわりと温かくて、でもやっぱり素直に言うのは恥ずかしくて。
「お前、とんでもなく変なヤツだな」
「......未来人さんに当たり前のことを言われても、面白くないです」
「お、お前なあ......お?」
 今度こそと振り上げられた手は、飛び込んできた光の眩しさに止まる。
「ほら、晴れてきましたよ」
「......本当だ」
 お堂から降り、濡れた砂利に足を着けた二人を、夏の香りを取り戻した風が迎える。
「いい風ですね」
「そう......だな」
 頷き返す大規、再び差し込む光に目を細めて、そして一息に言葉を紡ぐ。
「何も変わらないかもしれないけど......でも、変わらないと思っているよりは、変わるかもしれないと思っている方が、楽しいかな?」
 ちらり、視線だけ希望に向ける大規。
「そうです! 絶対に楽しいです!」
 希望が返すその笑顔は、今まで見てきた中でも最高の笑顔だと、素直に思えた。

 梅雨明けが発表されたのは、それから間もなくのことであった。

(了)
 
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<著者紹介>
音込深 烈(東京都港区/26才/男性/専門学生)

平造の飼っていた柴犬のゴンが死んだ。梅雨明け真近かのジメジメした日の朝にゴンは泡を噴いて玄関の片隅で冷たくなっていた。家族で話し合った結果、以前ゴンが貰われてきた頃住んでいた家に近い、深大寺の境内の供養所に翌日連れて行くことにした。平造は車の後部座席にゴンの入った衣装ケースを乗せ深大寺に向かった。その日は梅雨の合間のすがすがしい朝だった。甲州街道をつつじヶ丘の信号から左折してカーブの多いゆるい上り坂を走ると懐かしい風景が眼に入ってきた。まだ小さかったゴンの走り回る姿が平造の眼に浮かんだ。かつてここに住んでいた頃には何も無い畑だった場所に、広いスペースの駐車場の付いたコンビニが建っていた。
―まるで「バクダッド・カフェ」だな。
平造には見慣れない場所―しかもやけに開けた広い道路がそこに続く。この角を曲がると深大寺に向かう参道が右手にある、そう思いながらバックミラーでゴンの入った衣装ケースを見た。オマエの故郷でゆっくり眠れ―平造はそう呟いた。山門に曲がる道の角に小学校がある。六年生の秋までその小学校に通っていた。祖父の他界を切っ掛けに、両親は祖父が住んでいた高津区で祖母との同居を始めた。
―あの小学校は今でもアンナかな。
平造は頭の中で描く、まるでお寺みたいな門構えを思い出していた。参道に曲がる時、横目で小学校を眺めた―あの時のマンマだ。深大寺に緑があるから此処にはそんなモン要らんとでも言うように厳めしい石の塀が続く。またゴンの姿が浮かんだ。兄貴を引っ張りながら駆け出してくる子犬のゴンだ、胸がジンと痛んだ。バスの発着場の外れから深沙大王堂を通り抜け、裏手の小さな池の前から供養所のある階段を目指そうと思った時、眼を覚ますような鮮やかな青い紫陽花の下に光るものを見つけた。それはピンク色の鈍い光沢をした携帯であることがすぐに判った。両手で抱えたゴンの衣装ケースは人目に付き、しかもかなり重かったのでそのまま行き過ぎたが気になって足を止めた。
―女モンだな。
衣装ケースを池の前にそのまま置いて引き返してその携帯を拾い上げた。
―如何しよう?上の供養所の係員に、落し物だって言って預けようか?
平造はそう決めてズボンのポケットにその携帯を入れた。そして池の前においた衣装ケースをまた持ち上げ、立ち上がった。肩に担ぐと、下の湿った路に歪に散らばる木漏れ日に気付き、それから自然と眼が木々に移り空を見上げた。緑が眩しい。鉄製の安っぽい手摺りの付いたコンクリートの階段は小山の上まで続いていた。正面の四角い御影石を張り詰めた石畳の道と比べたら供養塔のある場所は裏街道みたいにひっそりと控えめに見えた。ペットの名前と飼い主の名前が書かれた青い幟が風にたなびいている。二十本ぐらいあるだろうか。

 立ち上る煙を見ながら平造は泣いた。その感情がすっかりピンクの携帯の事を消し去っていた。車まで戻ってキィーを差し込むまで気が付かなかった。シートに当たった携帯のコツンという感触で初めて思い出した。
―ヤバイ、持ってきちゃったよ。
 ため息が出て、余計なことしてしまった、面倒だな、と後悔した。持ち主と連絡つける方法はないかとリダイヤルとか着信履歴を無闇に押してみたが埒が明かない。保存メールに気が付いて押してみる。
―悦っちゃん、無理だよ。いくら待っても俺は行かないよ。娘との約束がある。いいね?
 ヤバイ内容だな、そう思ったが好奇心から平造はその一つ前のメールを見た。
―そうだな、でも今度にしよう。深大寺なんて辛気臭い処、俺の趣味じゃない。
―楽しかったよ、昨日のデート。お台場のレインボーブリッジ見せたかったんだよ。
 悦っちゃんと呼ばれるこの女の子が、不倫らしい年上の相手とのメール交換をしている。そしてあの場所に携帯を落とした、きっと此処で待ちぼうけだったんだろう。
―仕方ない、甲州街道に出てから交番にでも届けよう。
 平造はそう決めて車のエンジンを掛けた。駐車場を出てすぐに、助手席に置いた携帯から着信音が鳴った。YUIのナンバーだ。
「もしもし。」
平造はドキマキしながらその携帯の電話マークを探してプッシュした。こんな時の言葉なんて見つからない。第一相手が誰かも分からない―持ち主の友達か、もしかして無くした本人かもしれない。どういう受け答えが不信感の素を撒き散らせずに済むか、そればかりが頭を廻った。
 「あの、見つけてくれた人ですか?」
 戸惑いがちではあったが、明らかに嬉しそうな声―ホッとした感じだ。どっかで聞いたような声、そんな第一印象だった。携帯を持つ手を右手に持ち替え、車のフロントガラスの向こうの新緑の木々に眼を移した。懐かしい風景―深大寺の山門が左手に見えてきた。
 「はあ、そうなんですけど・・」
 平造は曖昧な返事をしたが、持ち主本人で良かったと内心喜んだ。
 「有難うございます。今、何処ですか?」
 躊躇いを見せながら声の主は訊ねてきた。
 「あ、深大寺の山門の前―車なんです。」
 「え、それならすぐにそっちに行けます。十っ分ほど掛かりますがお待ちいただけますか?」
 平造はゆっくりとブレーキを踏み、車を車道の左脇に止めた。
 「いいですよ、別に急ぐわけじゃないから。」

 そう言って電話は切れた。車をバスの発着所の手前の有料駐車場に止め、歩いて深沙大王堂に向かった。鬼太郎茶屋を右手に見てバス停の裏道を急いだ。そんな裏道で、犬と見間違えるほど大きな外国種の雑種猫が寝そべっていた。茶色と黒と白が混じった可笑しな猫だ。またゴンの姿が眼に浮かんだ。アイツ、猫を脅かすの好きだったな―思わず笑いが込み上げる。
 そんな訳で、彼女が携帯を無くした紫陽花の前で待つ羽目になった。そこが山門からそんなに遠くも無く、左手の格式のある日本蕎麦屋の庭から小さな滝音が聴こえる目立たない場所であることが分かっている、きっと地元の人間に違いない、平造はそう判断した。相手が若い女の子であり、なんとなく期待感があって心が弾んだ。好奇心もあった。相手は自分を何も知らないけど、平造はあのメールを盗み見た、だから相手に関する予備知識があることで立場は違った。
 待ちながら平造は考えていた。大学を卒業する去年まで平造はバンドを組んで張り切っていた。その時の平造は音のシャワーの中で生きていた。調布の音楽フェスティバルにも出た。それが今年は正社員としてコンピューターの会社の新入社員だ。電子音がその音に変わった。
―仲間は俺を詰った、夢を捨てたって。
金色と赤の長髪を黒い七三刈りに切って、毎日電車のラッシュアワーにもまれている。好きでそうなったワケじゃない、夢を捨てたって言われても困る。才能が無いって諦めたわけでもない、只々かったるかった、このままでいいのかって思うと途轍もない不安が押し寄せてくる。一体本当に何が遣りたいのかって自分に聴くと、どうもハッキリしない。毎晩、いや毎朝と言ったほうがいいのかも知れない―白々と空けてゆく空に冷たく蒼い月が掛かる歩道を冷めやらない興奮が残る頭と疲れ切った体を引き摺りながら帰っていく日々。これって本当の自分なんか、平造には分からなかった。
 そしてゴンが死んだ。故郷の深大寺に葬ってやろうと考えた時、俺の中で何かが弾けた。小さい頃のゴンの姿と平造の幼い姿が甦った。不思議なもので、自分というのは外から見えるモンじゃないのに、その時はハッキリと自分の子供時代の姿が頭の中で刻まれていた。なんか懐かしくなって引き摺られるように深大寺まで来てしまった。
 「すみません、お待たせしちゃって。」
 後ろで誰かの声がした、携帯の持ち主、悦っちゃんと呼ばれる女の子。
 「いえ、大丈夫です。」
 そう答えて彼女の顔を見た。何処かで見たことあるよな?平造はそんな気がした。白いちょっと丸っこい頬、細くて目立たない眼元、小さくキュンと絞まった形のいい唇。
 「ひょっとして、平ちゃん?」
 相手のほうがむしろ驚いたようで、女より男のほうが子供の頃と変わらない風貌をしているらしく、彼女にはすぐに分かったようだ。
 「もしか・・悦っちゃん?木元悦子だろ?」
 思い出した―平造が六年まで通っていた深大寺小学校の時の幼馴染の木元悦子だ。いつの間にか悦子は自分と同じぐらいの背丈にすらりと成長していた。女にしては大きなほうだ、しかし女は男よりデッカク見えるから一メートル六十五センチぐらいだろう、平造は今までの経験からそう判断した。

―草もちのお焼き、蕎麦せんべい、ソフトクリーム、田楽、蕎麦、草団子
山門の右手に赤い座布団の茶店、左手に赤い橋のかかった池、金色の鯉がいる。
入り口右手に鬼太郎茶屋。
 平造と悦子は深大寺の茶店を見ながら懐かしい思い出話に話が弾んだ。そうだ、もうすぐ七夕。派手な短冊が重そうに垂れ下がった笹が茶屋の表に飾ってある。話しながら平造はメールに書かれてあった言葉を反芻していた。
―コイツ、辛い恋をしてるんだろうな。
 父親を早くから亡くしていた悦子は、あの頃もどこと無く若い男の先生にくっ付いて歩いていたっけ。お河童頭みたいな短い髪で寂しそうに池を眺めていた姿が甦った。
 「ムカつく、タスポかよ。ここには自動販売機しきゃ無いんだよな。」
 ―そうだよ、七月からタスポカードのスタートってか?
平造は自動販売機にお金を入れてから気が付いた。返却ボタンを押すとお金の落ちる音がむなしく響いた。
 「煙草やめなよ。」
 悦子が寂しそうな笑顔で言った。
 「誰が止めっか!」
 平造は虚勢を張って言い放った。
 「男の人ってみんなそうね。」
 独り言のように悦子がそう言った。平造にはそれがあのメールの男のことだとすぐに分かった。
 「楽焼やりたくない?」
 平造はワザと話題を代えるためにそう言った。
 「そうだね、それいいかも。」
 その話に悦子が乗ってきた。二人で山門の前の茶店に入った。沢山の楽焼―お皿や動物の置物、灰皿、花の絵が描かれた小皿、所狭しと並んでいる。楽焼の風鈴が涼しげな音を立てる。
 「久しぶりだなあ、こんな感じ。」
 悦子が素焼きの動物の並んでいる工房の前に立ちボソッと言った。
 「こんな感じって?」
 「なんか落ち着くって・・ホントは好きなんだよね、こんなダサい感じが。肩肘張ってるのが・・馬ッ鹿みたい。」
 平造はなんとなく嬉しかった。悦子が屈託無く笑ったからだ。
 「ねえ、ねえ、これ良くない?」
 悦子はラッコの素焼きを指差して言った。お腹を上に向けた丸いユーモラスなラッコだ。平造は犬の素焼きを見つけた、しかしその犬は耳が垂れたコッパ スパニエルみたいでゴンのイメージには程遠い。他には狸、梟、猫、ライオン、それと福助―いろんな動物なんかが何段も棚に置いてある。後ろの白いわら半紙が敷いてある三つの長テーブルには、赤や黄色の溶き絵の具と十本ぐらいの筆が突っ込んである丸い筆立てが並んでいる。奥に見える工房では誰かが町興しのウルトラマンの絵を何枚も描いている。
「俺、このライオンがいい。」
ラッコの隣に並んだライオンに決めた。きっと、多分、茶色く塗ったらゴンに似ている。

 「平ちゃん、どうしてここに居るの?なんか用があったの?」
 幼い頃の親しみの籠もった眼で悦子が言った。ソフトクリームを二人で食べていた時だった。
 「覚えてる?俺の家で飼ってたゴン。昨日、アイツが死んだ。ここに埋めてやろうと思ってね。」
 寄っ掛かった欄干に肩肘を付けて悦子は平造を眺め、ハッとしたような顔付をした。白い頬に水面の揺れる光がチラチラと当たっている。
 「お爺ちゃんになったのね。」
 「そう、十五歳だよ、アイツ。」
 「悲しかったでしょ?」
 「まあな。」
 平造はそう言って黙った。悦子は下を向いてしばらく何も言わなかった。
 「カレシいるの?」
 話題を代えようと選んだ言葉がいけなかった―気が付いた時にはもう遅かった。悦子は無表情な眼差しで俺を見詰め、その眼をすぐに逸らした。女ってヤツは勘が鋭い、平造は自分が携帯のメールを見てしまった事を悦子に見破られたなと思った。
 「いるよ。でもカレシって言えるのかなあ。逢いたがるのは私のほうだけみたい。」
 そう言って悦子は池の方に体を向け寂しそうに笑った。
 「そんなカレシ、止めちゃいな。」
 「そうかも。」
 悦子はそのまま横顔を見せてもう一度力なく笑った。
 「その代わり、俺がカレシになるっての、どうかなあ。」
 振り返り、悦子は怪訝そうに平造の顔をまじまじと見た。
 「平ちゃんが?」
 「そう、まだ頼りないガキかも知れんけど、悦っちゃんの期待に応えられるような人間になると思うよ。」
 平造は、鼻を少し鳴らして虚勢を張った。悦子はプッと笑って噴出した。
 「それって、コクリ?」
 平造はムッとして悦子を睨んだ。なんだか自分が馬鹿にされたような気がした。
 「笑ったりして・・ご免ね。」
 「いいよ・・別に。」
 平造はそう応えるのがやっとだった。悦子に笑われて胸の中は恥ずかしさでズタズタになっているのが自分でも分かったが、どうすることも出来ない。
―俺、何言ってんだろ!これって「隙に乗じて」ってヤツ?俺って汚ねーな。
 平造は自己嫌悪に襲われた。ホワイトナイト気取りってヤツ!
 「いいよ、私で良ければ。」
 意外な言葉が悦子の口から出た。
 「私、もう背伸びするのが嫌になっちゃった。平ちゃんといるとなんかホッとする。ありのままの自分でいいのかなあって・・思えてくるから不思議だね?」
 悦子は飛び切り可愛い笑顔で笑った。
 「悦っちゃんのその顔、すっげーいいよ。」
 そう言ってから、平造は照れくさそうに笑った。悦子は何も言わずに水面を見詰めている。そして何を思ったか、バッグから例のピンクの携帯を取り出し少し躊躇した後、平造の胸の前に押し付けてきた。
「平ちゃん、これ池に投げてくれない?」
「どういうこと?それに・・不法投棄は禁止だぜ、ヤバクない?」
「いいの、いいの、早く!」
「俺、これ、拾って渡したんだよ。携帯って、ダイヤルメモリーなんか要るんじゃない?」
悦子は悪意の籠もった眼差しをチラッとその携帯に眼を遣り、少し笑った。
「これ、専用電話なの。だから要らない。」
平造は悦子の感情の激しさに気が付いた。水面の下に流れがあるように一見穏やかに見える心は、何かを投げ入れると時折その激しさを見せる。
「良いん?それでホントに。誰かに怒られても、俺、知らんからな。」
平造は半分その気になっていた。
「弱虫!優柔不断!」
悦子はさも面白そうに笑って平造を見ている。後に引けない、平造は思い切ったようにそれを力一杯に遠くに投げた。石切のように二、三度跳ねて波紋を残し携帯は沈んでいった。その時突然に―平造の頭の心髄に音のシャワーが降り注いだ。胸騒ぎみたいに―それでいて光みたいに透明なシャワーが満遍なく全身を覆った。
―俺、やっぱ音楽止められん。
音のざわめきが再び甦った。社会人になっても続けることは出来る、諦めたんじゃない、小休符だったんだ。平造はそう思った。今まで見たいな音楽とは違った旋律が頭を駆け巡った。

(了)
 
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<著者紹介>
荒井 敦子(東京都調布市/60歳/女性/会社員)

 父が、太平洋戦争中の思い出で唯一、楽しげに語ってくれたことがあった。
 昔は北多摩郡と呼ばれた調布市深大寺で生まれ育った父。野川の流れがゆっくりと作り出した河岸段丘の坂を登った先、深大寺一帯には、武蔵野の典型的な風景があった。
 父の少年期である昭和10年代といえば、屋敷林や雑木林があり、そして深大寺がいずまい正しくどっしりと構えていて、深山幽谷という言葉がぴたりと合う趣があった。
 しかし、日中の緑多き風景も、少しばかり陽が陰ると、生垣の影から妖怪がわっと出てきそうな雰囲気になり、幼い父にとってはむしろ寂しい印象があったようだ。
 物心つくころには太平洋戦争が始まっていて、近くの調布飛行場から飛び立つ戦闘機にあこがれたり、近所にあった高射砲陣地のあたりに入り込んだりした悪戯小僧だった。しかしその悪戯が禍して、陸軍の兵隊にビンタをくらい、そのおかげで父の左耳は聴覚を失ってしまった。
 調布市を含む多摩地域一体というのは、調布飛行場をはじめとして陸軍の関連施設や軍需工場がたくさんあって、それらを狙った空襲はとてもひどかったそうだ。
 そのうち、子供らは疎開をさせられることになって、父も親元から離れ、長野県の親せきの家に預けられることになった。
 当時の家族構成といえば、祖父母同居、兄弟といえば6人も7人もいたりというのが当たり前の時代であったが、父の家は珍しく一人っ子の家だった。正確には兄が3人いたのだが、肺結核やらなんやらで皆死んでしまって、その生き残りが末っ子の父だったというわけだ。だからいきなり武四郎というのだ。
 私の父、井上武四郎はその疎開先、長野県豊科での思い出がたいそうお気に入りで、酒を飲むとかなりの頻度で口の端に上る話題だった。父は親元を離れること自体、そんなに寂しくも思わなかったというのだが、疎開先ではやはりよそもので、子供らの遠慮のないいじめがきつかったらしい。
 水田がどこまでも広がる豊科の田園風景というものは、調布のそれとはまた趣がちがって、緑の稲はどこまでも広がっていた。そしてその向こうには雄大な穂高連峰の山並みがあった。そして夏から秋には稲穂の上をわんわん飛ぶトンボの数も半端なものではなく、圧倒されるほどの賑やかさだった。
 ある日の夕方、近所の川べりにいると、いつの間に近くに来たのか女の子が声をかけてきた。お下げ髪の女の子は一見して年が近いように思われた。
 父ははっきりと言いはしないが、寂しかったのか、はたまた地元のガキ大将にいじめられて悔しかったのか、泣いていたのに違いなかった。なぜなら、ジャガイモのような顔の父に、女の子の方から声をかけてくるなんてことはあり得ないのだ。そしてこれもはっきりは言わなかったのだが、相当に可愛い女の子だったに違いない。
 疎開先の親せきの家には年の近い子供がいなかったから、女の子とはいえ、まともに会話ができて嬉しかったのだろう、思いつくまま父は話しこんだそうだ。話をしているうちに、その娘は2つ年上だということがわかった。やはりみすぼらしくも哀れをさそう父に仕方なく声をかけてくれた優しい年上の女性だったのだ、と私は確信した。
 あっという間に陽もおちて、帰る段になった頃、ようやくお互いに調布の住人だと知れるのだった。さて、父としては、また会いたいという気持ちになるのは、無理からぬことで、一応お互いに名乗りあって分かれたものの、その娘とはその後あうことはなく終戦、父も深大寺に舞い戻って、母と結婚したのだった。

 古い人間の父は、子供の頃の思い出とはいえ、口にすることは今までまずなかった。しかし、2年前に母が亡くなってから、多少饒舌気味になり、こんなことも打ち明けるようになったのだ。
 父の話にはまだ続きがあって、これは私としても驚いたことで、東京へ帰ったらもう一度会おうと約束をしたというものだった。彼女も調布の住人だったからこそ思い切れたのかもしれなかった。
 戦時中に得られる情報といえば、彼の「大本営発表」しかなかった。東京に本当に帰れるのかどうかさえ怪しいものだと、子供の父でさえも情報の信ぴょう性を疑っていた。それでも、父は別れ際、しかもその娘の姿が見えなくなろうという時にようやく「お互い調布に戻ったら、今日、同じ日に深大寺の山門で会おう!」と叫んだのだという。大したものだ。これを約束といっていいものかは大いに疑問なのだが、父の中ではそういうことになっているのだ。

 父が亡くなり三周忌法要を常演寺で執り行った。親せき連中もそこそこの数で、両親の思い出話をしていたとき、父の疎開先での話しをしてみた。一同は父の「初恋の話」を聞いて、大いに受けていたのだが、母の妹にあたる叔母は笑わず、少し妙な顔をして聞いていた。私はそれが気になり、弟に仕切り役を任せ、叔母に声をかけてみた。
 「いやね、良ちゃん。私、今と似た話しを聞いたことがあるんだけどね。私たちも長野に疎開していたことがあってね...。」
 と語りだした叔母の話しによれば、母の姉妹と父はどうやら同じ長野県の豊科地方に疎開していたらしいのだ。私が母はなぜ戦時中の話しをしなかったのだろうかと問うと、空襲による両親の死が原因だと叔母は教えてくれた。そうするとあの川辺で父と出会った女の子は母だったのか。
 しかし、父が長野で出会ったのは母ではなく、どうやら母の双子の妹のほうだということがだんだんとわかってきた。
 母は末子の叔母を含めた3人姉妹で、調布市下石原で生まれた。母は真帆といい、妹は美帆といって、双子の姉妹だった。
 そして、美帆叔母は戦争が終わって実家に戻ってほどなくして、肺結核であっけなく死んでしまったのだそうだ。美帆叔母は長野で出会った少年、つまり父との再会を亡くなる直前まで楽しみにしていたことを母たちに語っていたのだそうだ。
 「美帆はこっちに戻ってくること自体しんどくてね、死ぬ前まで深大寺の山門に行きたい、行きたいって言ってたの。そのとき美帆が言っていた男の子の名前は忘れてしまったけれど、まさか武四郎さんだったとわね。」
 「父さんは見合いで母さんと出会ったって言っていたけど、母さんと結婚を決めたのは美帆さんの面影を母さんに見つけたからなのだろうか。」
 「そうかもねえ。」
 
 たくさんの参詣客を迎え入れている深大寺の山門は過去本堂の火災にも耐えて、創建当時の姿を伝えているそうだ。そして、ここで祀られる深沙大王という神様は縁結びの神様であるらしいことを最近知った。
 ここに来るという想いが適わなかった母の妹、美帆叔母の無念さを考えると胸が詰まった。父と母がめぐりあって結婚したのも、美帆叔母の想いがそうさせたのだろうか、それとも深沙大王のお慈悲だったからなのだろうか。
 「父さんの初恋かあ...。」
 橙色の夕焼けに映える深大寺の山門を振り返ると、坊主頭のジャガイモ顔の父が待ちぼうけをくらう姿が思い浮かんでしまい、つい吹きだしてしまうのだった。

(了)
 
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<著者紹介>
唯坂 陣(東京都調布市/40歳/男性/会社員)

 十五年勤めた会社に辞表を出したという夫・弘が、突然宣言した。
 「俺は、脱サラして蕎麦屋をやる」
 
 ぽかーんとする聡子を他所に、彼の決意表明は続く。
「まずは、美味い蕎麦の味を覚えようと思う。俺はこれから東京に行って来るから」
 弘の言葉も、どこか現実味に欠け。
「何言ってるの? 正気なの? ねえ、私達は?」
 とりあえず事情だけでも説明してもらわなければならないと後を追う聡子に、
「大丈夫。二週間で戻る。俺は、蕎麦マスターになるぜ」
 何ともアホらしい言葉を残し、玄関の扉が閉まった。
 それが、一週間と二日前だ。

 それからというもの、毎日送られてくるメールに怒りの言葉を返していたのも最初だけ。あっけらかんとした夫の態度に、聡子はもはや諦めに似たものを感じ始めていた。きっかり八時半に届くそのメール以外に何の連絡も寄越そうとしない弘は、一体何を考えているのだろう。妻にひと言の相談も無く会社を辞め、それを「男のロマンだ」等と言った日にはタダでは済まさない、と思う。
 弘が東京のどこに行ったのか、聡子にはだいたいの察しがついていた。深大寺だ。
 東京の大学に在学中、好物の蕎麦を食べにちょくちょく深大寺まで出掛けていたというのは彼から聞いて知っていた。
『前にも言ったと思うけど、とにかく凄い数の蕎麦屋なんだ。毎日こんなに蕎麦が食べられるなんて、俺は凄く幸せだ』
『どの店も、つゆの味が少しずつ違う。俺は、今日の店が今のところ一番かな。さらっとしていて、しかし、飽きない。もう一枚食べたいって思わせるんだ』
『今日の店は、麺が最高! コシといい、のど越しといい、記憶のまんまだ。本当に美味い!』
 まるで、子供のようなはしゃぎよう。メールの返信を打ちながら、聡子は溜息をつく。
『毎日、お蕎麦を食べているのですか。たまには、野菜やお肉も食べて下さい』
 メールはそんなそっけない文章になった。帰ってきて体でも壊されては堪らない。自分が勤める花屋のパートだけでは到底家計を維持できないのだから、弘にだって積極的に職探しに出てもらわなければならないのに。......本音を言えば「離婚」の二文字だって、頭をかすめ無くもない。
『大丈夫! 食べ歩きも兼ねて、かなりの量を散歩しているから。ここは、いいよ。緑も多い。都会でこんなに美味しい空気を吸えるとは思わなかった』
 だったら、そのメタボ化しつつある体型を少しでも改善してきなさい、と聡子は言いたくなる。
 高校の同級生で弘の大学卒業と同時に結婚したふたりだったが、弘は着々と腹周りの贅肉を増やし、高校球児だった頃のさわやかな面影はどこを探しても無い。お互い様なのだから仕方の無い事だとは思えど、中年らしい肉付きになった夫の背中を眺める聡子は昔をつい懐かしんだりする。

「ねえお母さん、お父さん、いつ帰ってくるの?」
 一人娘の花菜(かな)は、今年中学生になった。いずれ進学を望む彼女にとっても、父親の脱サラは大きな事件らしい。
「さあねえ。......何、あんた寂しいの?」
「まさか。お父さんがいないのは、いつもと一緒。ただ、こっちにも色々とツゴウがありますから」
 水色のパジャマが、冷蔵庫から麦茶を取り出している。確かに思春期に入って父親との距離を取りつつある彼女には、父親の不在は歓迎すべきものらしい。弘が聞いたら、さぞ悲しむことだろうが。
「お父さん、そんなに家にいなかった?」
「そうよ。ウチは、週末家族ですら無いでしょ。同じ家にいるけど、ほとんど顔合わせたことないもの」
 「週末家族」とは、面白い事を言う。
 野球に一途だった少年は、会社に一途なサラリーマンになった。業績につれ肩書きも上がり、経済的な面でなんら不満は無かったけれど、日曜日ですら家に居ない弘に聡子はいつしか何も期待しなくなっていた。

『聡子、花菜、元気か? こっちの蕎麦屋さんの歴史はすごいよ。みんな、先代からの味をしっかりと受け継いでるんだ。親子とはとても思えないほどの厳しい修行をして、美味い味を守っていくんだと』
 メールの文面は、饒舌だ。毎晩疲れた顔をして帰宅し、家では笑顔すら見せなくなっていた夫と同一人物とは思えないほど。
 夫婦の会話が無いと気付いた頃には、既に取り返しのつかない時期に来ていた。会社で戦い、ぼろぼろになって眠るだけの場所。弘にとって、家とはいつからそんな存在になってしまったのか。
『花菜が、いつ帰ってくるのかと聞いています』
 「自分が」聞いているように思われるのは癪なので、聡子はちょっとした意地を張る。
『あと、二、三日で帰るよ。もう少しで、全軒制覇するんだ。色々なつゆの味、麺の違いがある事が解ったよ。今なら俺、グルメ本だって書けそうだ』
 その情熱は、どこから来るの? 本当に、いつもの貴方なの。聡子は心の中でだけ尋ねる。
『そう。お腹壊さない様に、気をつけてね』
『ばーか。蕎麦は消化が良い、健康の面でも優れた食べ物なんだぞ』
 はいはい、そうですか。
 もはや脱力するしか無い。話し合いは弘が戻ってからになるだろうと、痛むこめかみを揉み込んだ。

 弘が帰るという約束をした二週間まで、あと一日。恒例となってしまったメールを待ちながら、聡子は家のソファに座っていた。花菜は自分の部屋に篭って勉強しているし、考えてみれば、弘が家にいた頃となんら変わり無い。ただテレビだけが、画面から乾いた笑い声を立てている。
 軽やかな音がして、机に置いた携帯がメールの受信を知らせる。
 パチン、と携帯を開く聡子。夫婦の決戦は明日になるかしら、とディスプレイを見つめた目が、大きくなる。
『今日は、植物園に行ってきたよ。知っているかい? ここには薔薇が沢山あるんだよ。すっごい薔薇』
 薔薇? そんなものを眺める趣味が夫にあっただろうか。聡子はますます夫という存在が解らなくなる。趣味も無く、たまの休日も横になって寝ているだけ。たまに聡子が店の売れ残りの花を持ち帰って花瓶に生けても、話題にすらしなかったのに。
『それ見たらさ、聡子を思い出した。いつだったか仕事で薔薇の棘を取って、掌を傷だらけにしていただろ?』
 薔薇を売る時、棘を取るのも花屋の仕事だ。以前ちょっとしたドジで、手を傷めてしまった事がある。しかし弘はそれを知っていたのだろうか。聡子の心臓がドクドクとうるさい音を立て始める。
『聡子、頑張ってくれてるんだ、って思ったんだ。でも、俺はそのままにしてしまった。ごめんな。大丈夫か、いつもありがとう。あんまり無理するなよ。って言ってやれば良かったんだよな。』
 思わず息を呑んだ聡子の目から、溢れ出す熱いものがある。
 結婚して十五年。自分達は、何を無くしてしまっていたのだろう。互いの顔を見ることすら忘れ、相手を思い遣ることも無く。自分だってここ何年もの間、弘に優しい言葉のひとつもかけてやった事があったろうか。
『今まで迷惑かけて、すまない。これからも、一緒に居て欲しい。俺達の大事な「花」を二人で育てて行こう』
 花が好きな聡子。だったら、と言って弘が考えてくれた子供の名前が「花菜」だった。
「馬鹿ねえ、そういう事は、直接言ってくれなきゃ」
 ずず、っと鼻を啜り上げながら、ボックスティッシュを引き寄せる。メールには、写メが添付されているようだ。ティッシュで鼻を押さえながらファイルを開けば、満面の笑みを浮かべた弘の顔。隣に映るのはどこかの店主だろうか。店先にかかる暖簾の下で、肩を組んでいる。
 それは、いつか青空の下で見た、野球少年の顔。
 あの頃と同じ。純粋に、ひたむきに、自分の夢に向かっていこうとする弘の顔だった。

 蕎麦の美味い土地には、美しい水が流れるという。かつて、弘が教えてくれたことだ。
 清流に洗われ、弘も何かを思い出したのかもしれない。ずっと昔に無くしたはずのもの。萎れた花が息を吹き返すように、人の心もまた。
 手を取り合って向かう明日へ。ふたりに取って大切なものが、きっとひとつ増えるから。


「店の名前は《ホームラン軒》でいいかな」
 でもそれじゃあラーメン屋さんみたいよね、と思いながら、聡子は携帯の通話ボタンを押した。

(了)
 
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<著者紹介>
さくら(長野県伊那市/31歳/女性/主婦)

 小さな頃からその周辺で遊んでいて、深大寺は私の庭みたいなものだった。四本並ぶ大きな桜の内どれが一番大きいのかも、道の横に隠れている黒い石も、私に知らないものはなかった。私はそこの全てを知っていた。
 だけどその池は私の知らないモノだった。
 突然現れた池。それは本当に突然だった。私の記憶が確かなら、そこには地面が続いていたはずだ。毎日のように遊んでいたのだ、間違いはない。だのに今は目の前に池がある。近くに川もなかった場所なのに、今では水の満ち満ちた池がある。
 池の水は澄んでいて、でも底までは見えそうもない。深いわけじゃない、なにかが邪魔をしているのだ。
 大きさは両手を広げたほど。周りの雑草は、誰もここを手入れしてくれる者がいないことを語っている。きっと誰も知らない場所なのだ。私はなんだか、池に心が引かれた。
 私は池に何度も通うようになっていた。でも、それは誰にも言わない。ここに池があることも、私が来ていることも。縁に座って池を眺めると、風が吹いて水面を揺らした。葉っぱが落ちてきて波紋を作った。たまに私は池の表面を撫でてみた。山と谷が交互に並んでリズムを作る。反射して、打ち消しあって、干渉し合って、水面全体に広がっていく。けれど波紋は次第に薄れ、すぐにもとの平らな水面へ。池を見ているだけで、日が暮れるのも忘れる。
 いつの間にか私は、そこに池があることが自然に思うようになっていた。
 健くんと出会ったのもそんな頃だ。新しい学校で、私はテニス部のマネージャーとなった。健くんは同じ学年で、同じ頃に入部した。テニスの成長は早くもなく遅くもなく、特に目立つこともなかったけれど、時間があると私は健くんを目で追うようになっていて、一年もするころには私は彼を好きになっていた。
 私は学校が楽しくなった。そして、学校からの帰りには、いつも池へと行っていた。池は、ほんの小さな波だったこともあれば、大波だったこともあった。私はその変化をみるのがなによりも楽しみだった。

 その日も、私はいつものように池に行った。他の誰もいない、私一人だけの時間と場所。
 しかし、その日の池には先客がいた。
 先客は、私がいつも座っているところに陣取って、じっと池を見つめていた。だけど、やってきた私に気付くとゆっくりと頭をこっちに向けて、短い四本の足を順番にゆっくり動かし私へと近づいてきた。私は小さく悲鳴を上げたと思う。爬虫類というものが全般苦手なのだ。
 それは頭を持ち上げ、千切れんばかりに伸ばしながら私を見上げ近づいてくる。凹凸のないその頭は、妙な光沢を持ちながら、所々にしわが走り、根元に近づけば近づくほど、筋が増え、異様なグロテスクさを見せ付けた。
 甲羅は、岩のように角張りごつごつしながら、しかし皮のように柔らかそうでもある。身を守る鎧のように見えて、ただ臓器を収めるためだけの、握れば潰れそうな袋のようにも見えた。
 カメだった。カメはゆっくりと私に近づいてくる。私は、カメが距離を詰めたのと同じだけ、ゆっくりと後ろに下がった。それでもカメは近づいてくる。しかし距離は縮まらない。カメは諦める気配はない。私たちは池の周りを何週もした。
 空が暗くなってきたので、私は帰った。

 池にいる時はいつも座って、風や葉っぱの作る水面の波紋を見ていたのだが、ある時私は、もっと大きな波が見てみたくてどうしようもなくなった。池の周りを歩き回り、人の頭ほどの石を見つけた。池の縁ぎりぎりに立って、石を落とす。石は池に向かってななめに落ちていく。池は、石を受け入れるのに一瞬だけ抵抗したが、すぐに包み込み、大きな飛沫を上げて私をびしょ濡れにした。次の日わたしはくしゃみが止まらなかった。
 健くんとの喧嘩もそんな具合だった。私は彼に喜んでもらいたくて色々なことをした。マネージャーの雑用だって進んでやった。ユニフォームの洗濯だって、備品の後片付けだって、選手への連絡事項だって嫌な顔せずにやった。
 でも、健くんは、それが当たり前のことだと思っていたようだった。私は健くんに褒めてもらいたかったのに、全然褒めてくれなかった。いや、健くんは全く気付いていなかった。
 私は不満を露わにした。そして、喧嘩になった。
 帰りに池に行くと、またあのカメがいた。カメは私を見つけると、のっそりと近付いてくる。私はカメの速度に合わせて後ずさる。
 池を周回しながら、私は考えていた。このカメは私と同じだ。カメは私に触れたくて近付いてくるのに、私が逃げてそれは果たせない。健くんに喜んでもらいたくて行動するのに健くんが喜んでくれない、私と同じだ。
 カメに同情した。自分がいくら望んでも、相手が全然応えてくれない、それほど悲しいことがあるだろうか。
 私は足を止めた。カメは着実に歩を進め、間を詰める。頭を持ち上げ、私をまっすぐ見つめたままだ。私はしゃがみ、カメを待つ。
   ほら、触りたいんでしょ。
 近付いてきたカメの頭を撫でようと、私は手を伸ばした。カメは変わらない目で私を見つめている。
 カメの頭は一体どんな感触がするのだろうか。光沢を見る限り、ぬるぬるしているだろうか。それとも乾いてざらざらだろうか。温かいのかな。生温かいのか、冷たいのか。
 カメなんて見るのもいやだ。触るなんてもってのほかだ。けれど、私はこのカメに触れてあげなきゃいけない。このカメは私と同じだ。求めているのに、得られない。そしてそれを悲しんでいる。私が触れてあげなきゃ、このカメは泣いてしまう。
 だけど。
 カメは、ふいと顔を背けると、歩き出した。私とは違う方向に。
   え?
 どうして? あなたは私に触れたいから近寄ってきたんでしょ?
 カメは一度だけ振り返り、こう言った気がした。  同情はいらない。そして、カメはそのまま姿を消した。
 カメはただ望んでいただけだった。自分が望む通りの結果を得るために、努力していただけだ。私に対して何も要求してこなかった。私が無理をする必要は何もなかった。私が何かすることなんて、カメは望んでいなかったんだ。だからカメは帰った。私に触れられることなく。
 私はどうだ。健くんからの見返りを期待していた。そして要求した。そして、それが得られないことに不満を述べた。勝手に健くんに対して行動して、健くんの不作為に怒っていた。でも、私が健くんに何かするのが私の自由なように、健くんが私に何もしないのも健くんの自由なんだ。見返りを期待した行動で、見返りが得られないからって、怒るのはおかしいことだ。間違っていたのは私だった。
 次の日、池に来ると、カメは縁に腰を下ろして池を眺めていた。私はカメの横に座った。
   私、健くんに謝ってきた。あなたのおかげよ。ありがとう。
 カメは言葉が理解できないという風に頭を上げた。いつものように私を見上げる。倒れそうなくらい全身を立たせ、千切れそうなくらい首を伸ばして。
 私はカメに手を伸ばした。カメの頭はすべすべしていた。ちょっとだけ温かい。でも不快なものじゃない。
 カメは私を受け入れてくれていた。目を閉じて気持ちよさそうにしてくれる。あごを撫でるとぴくんと跳ねた。首をさすると上下に揺らした。けれど、もう十分というように頭を上げると、カメは池へ歩き出した。水面を見つめるカメを見て、私は少し怖くなった。カメが溺れてしまうんじゃないかと思い。
 カメは頭を水面につけ、少し揺らした。波紋ができる。広がって、しだいに薄れていく。
「あ」
 地上でのゆっくりとした動作が嘘のように、カメはあっという間に池の中へと消えていった。大きな波紋が私の心に広がる。

(了)
 
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<著者紹介>
渡辺 雅幸(東京都八王子市/20歳/男性/学生)

気が狂うほどの蝉時雨。
ネクタイを引き千切る勢いで首から外すと、日盛りの住宅街を足早に歩き出す。
「ふざけるな」
水原高志は声に出してみる。更にもう一度、今度はもっと大きな声で、
「ふざけるな!」
真夏の陽射しを避けて、この古い街並みを歩く人など誰もいない。猫ですら日陰を探して暑さに腹を波打たせているんだろう。誰に迷惑をかけるわけじゃない。もっと大きな声で叫んでやろうと息を吸い込んだ時、高志の後ろに駆け足で近づいてくる足音が聞えた。
「ごめんなさい」
高志の腕に榊美奈子の細い手がからむ。だが振り払ってさらに足を速める。
「ねえ、怒るのも分るけど」
「最初っからイヤならイヤと言えばいいんだ」

今日は彼らにとって特別な日になるはずだった。営業まわりのサラリーマンの高志だが、最近の省エネブームを良いことに、お得意さんの前でもよほどでないと上着を着ないで済ませている。ネクタイだって移動中はだらりと緩めて涼をとる。けれど今日だけはそうはいかない。なんと言っても美奈子の父に結婚の申し込みに行くのだから。高志はクリーニングから返ったばかりのスーツに腕を通し、首にはネクタイをきっちり締め、榊家を指定された午後一時の五分前に訪れた。美奈子から一時に来て、と聞いたとき、最初に高志の頭に浮かんだのは昼飯はどうすればいいんだ?の疑問符だった。
「そりゃあ、ウチで一緒にって事でしょ」
「緊張してメシ食えるかな」
「大丈夫よ、顔はいかついけど、まあ優しい人なんだから」
そうだよな、やっぱビールで乾杯とかなるんだろうし、ここはひとつ気合で乗り切ろうと密かに高志は思っていた。だが。優しい人が約束をすっぽすか?

「......ごめんなさい」
頬が青ざめた美奈子が扉を開けた。水色のフレンチスリーブのブラウスの色が、顔に映っているのかと思うほどだ。
「お父さん、いないの」
「いないって......俺、時間まちが」
「そうじゃないの」
最後まで聞かず高志の言葉を美奈子が遮る。
「本当にさっきまでいたの。だけど急に」
美奈子の父は、大事な友人との約束を思い出した、と家を飛び出して行ったというのだ。

「ふざけるな、なんの為にわざわざ深大寺くんだりまで来たと思うんだよ」
美奈子を振り切り、通りかかったタクシーに乗り込む高志。
「どちらまで」
「駅」
「駅って、どこの」
行き先を調布駅と決める。そこから急行で新宿に出よう。誰か友達を呼び出して酒を付きあわせるんだ。昼間だからって構いはしない、休日なんだ、それくらいいいだろうと携帯電話の電話帳を次々にスクロールする。三鷹通りを走りだしたタクシーの中、高志の腹がぐうと鳴った。美奈子の父と会食する為に減らして来たわけではない。朝から緊張の余り、何も口に入れてないのだ。深大寺五差路を過ぎたあたりで、事故渋滞にひっかかった。イライラと車は進まない。またもぐぐぐうと腹の音。運転手にも聞えたのだろう。くくっと小さな笑い声がした。

木陰に入ると、暑さが和らぐ。汗をぬぐい木々の下を行く。運転手に腹の音を笑われて頭にきたのではない。ああ、本当に腹が空いたと思った瞬間に、高志の頭に深大寺の蕎麦と言う言葉が浮かんだのだ。いつか連れてってあげる、父のお気に入りの蕎麦屋がとてもおいしくてね、と美奈子が話したことがどこか頭に残っていたのかもしれないな、と高志は思う。途端、顔も知らない美奈子の父への腹立ちが沸きあがってきた。俺がどれだけの気持ちを抱えてこの街へ来たと思うんだ。結婚を反対するなら、俺の顔を見て、面と向かってやってみろ!

 「ビールと板わさ、それに天ざる」
店に入るなり、振り向いた店員に投げるように注文を告げ席を探す。昼時を過ぎたとは言え、店内はまだまだ客で埋まっている。どこまでツイてないんだ、と高志が思った時、店員が店奥にある扉を指し示した。
「中庭にお席ありますから、よかったら」
この暑いのに外の席かと思ったが、意外や緑が繁った中庭は風が通り、むしろ店内よりも涼しげに感じる。おまけに静かだ。中年の男がひとり、蕎麦がきをつまみに日本酒を飲んでいるだけだ。粋なもんだ、と高志は男の隣の床几に腰を下ろした。

 運ばれてきたビールを飲み干す。と、猛烈な空腹を高志の腹が思い出した。まだ来ない蕎麦に焦がれつつ板わさでしばしなだめる。隣の中年男は浮かぬ顔でちびちびと酒を舐めている。さっきから携帯電話を取り出しては溜息をついている。高志もポケットで震える携帯電話を抜き出した。液晶表示が何度目かの美奈子の電話着信を伝える。無視だ、無視。だが、ビールで喉を湿すと高志は通話ボタンを押した。

「良かった。やっと出てくれた」
「美奈子? なに」
「今どこ? 駅?」
「なにって、メシ」
「え?」
「朝からなんも食ってないの。おまけに昼飯お預けされて大変なの」
「ごめん。ね、どこ? まだ近くでしょ? 行くよ」
「いいよ、来んなよ。ってか俺達どうなのよ」
空きっ腹のビールがきいたのか、高志の舌はぺらぺらと良く廻る。いけない、やめろと思うそばから高志は言っていた。
「終わりだな、こんなんじゃ」
「......別れるってこと? どうして」
「どうしてって。仕方ないだろ、親父さんに嫌われちゃってんだから」
「そんな事ない。お父さん、会えば高志のこときっと気に入ってくれる」
「って、会ってくれないんじゃ無理だろ」
「また時間作って。ね、次は絶対」
「......美奈子、俺達本当に結婚できんのか」
「......するんじゃなかったの?」
「一人娘だろ、美奈子。おまけにお袋さん早くに死んじゃって。そんなじゃ親父さん、よっぽどの男でないとさ。俺なんかじゃ」
「やめてよ、そんなことないって」
「親父さんの今日のすっぽかしで判るって。駄目なんだよ、俺なんかが美奈子の相手じゃ」
「高志......!」
昼酒はまわるって本当なんだと高志は思った。そんなことはない、美奈子に何度もそう言ってほしくて次から次へと屁理屈つけた言葉を探す。ああ、自分はこれっぽっちのビールで酔っ払っているのか。蕎麦だ、さっきの注文忘れてないか、早く持ってきてくれ、空きっ腹に酒はよくないんだよ。携帯を耳にあてたまま、店員の姿を探し立ち上がる。と、隣の中年男が遮るように前に立った。いぶかる高志に直立不動の姿勢で中年男が口を開く。
「本日は誠に失礼いたしました」
失礼なのは今目の前に立ち、邪魔をしてることだろと思った時、もう一度か細い声で中年男が言う。
「わたくし、美奈子の父であります」
しきりに頭を下げる榊の頭を上げさせるのは大変だった。すみません、すみません、本当に、すみません、すみません、と何度も何度も繰り返す。
「あの子が嫁に行くと思っただけで胸が詰まってしまって」
目に涙を滲ませ頭を下げる榊に、ああこれではどんな男が相手でも結婚は無理か、と高志が絶望しかけた時、私のせいで別れるなんて言わないでくれとまたひとつ榊が頭を下げた。

 榊に呼び出されかけつけた美奈子も加えた中庭のにわか宴会は夕刻の、閉店時間まで続けられた。酒に酔った高志が我にかえったのは新宿に向かう京王線の中だ。慌てて美奈子宛てに携帯メールを打つ。

>折角親父さんと会ったのに失敗した!
>失敗? 何を?
>俺、親父さんに例の挨拶してないよな。
>もしかして、お嬢さんをお嫁さんにくださいってヤツ?
>してないよな、俺。失敗した。
その次の携帯メールをじりじりと待つ。今までと違って返信が遅い。着信と同時に画面を開く。
>本日、ご丁寧な挨拶をいただきました。こちらこそ娘をよろしくお願いします。来週の日曜の午後一時、拙宅へのお越しをお待ちしております。榊

地下へもぐった京王線が速度を落とす。電車の窓に高志の顔が映っているのが見える。瞳を全開にした自分の顔。だがそれはすぐにプラットホームの光にはねかえされ、消えた。

(了)
 
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<著者紹介>
時乃 真帆(東京都大田区/44歳/女性/事務職)

 高熱にうなされていた私が一命を取り留めたのは、奇跡というほかなかった。
 原因不明の病気というのは現代においてもままあるもので、でもそれが自然の摂理と言えるならば、もう仕方がないのかな、とも思う。
 けれども、21歳になったばかりの、女子大生の私が、いまこのまま人生を終わらせるのは、とてももったいない気がした。
 苦しい、けれども生きたい。多分、生まれてはじめてそう思った。
 だから、病院のベッドの上で目を覚ました時。消毒液のにおいで、ここが天国ではないと分かった時。生き延びたのだと分かった時。 
涙が、にじんだ。
自分の呼吸が、いとおしかった。
 光が優しく、まぶしかった。

 『そんな、耳が、聞こえないんですか?
 声も出ないなんて...』
 医者と私の前で、母親は泣き崩れた。
 『いやだ、いやです。』
 母親の唇は、しきりにその言葉をつむいでいたけれど、音なし映画みたいに―私の耳には、母の嗚咽は届かなかった。
 もう私の鼓膜と喉が、一生、震えることはないと知った。
 半年前の出来事だった。

 ―深大寺が好きだ。
 昔から好きだったけれど、音を失った今、なおさら思う。
 高熱によって、聴覚と声帯は半年前に失った。けれども、視力が残ってくれたことはありがたかった。おかげで私は好きな絵を存分に描くことができたし、深大寺の深い緑や神代植物公園の極彩色の花々を楽しむことができた。
 鮮やかな植物公園も、縁結びで名高い寺も、私のスケッチにもってこいの場所だった。
 今。
 私は、待っていた。
半年ぶりに。
 深大寺の入り口で、彼を。

 肩をたたかれ、振り返る。
 『待った?』
 彼の唇が、その形に動いた。
 私は笑って、首を振った。
 『ひさしぶり』と、音をつむがない唇を、そう動かした。

 正直に言って、私の世界から音が消えたこの環境を、私はそれほど悲観していない。
 今も時々泣いてしまう母には悪いが、音がない分、好きな絵に集中できるし、私が好きな人は、みんな私の目の前にいてくれる。
 今日、私のスケッチに付き合ってくれるこの友人も、私のために涙を流してくれる母も。

 石段を登り、お参りをする。
 優しく深い味のお蕎麦をすする。
 スケッチする。彼は写真を撮る。
 店先で饅頭を買う。
 並んで食べる。
 またスケッチする。彼は写真を撮る。
 縁結びの神様にお願いする。
 ―私たちが、いつか恋人同士になれますようにと。

 昔。
私の世界にまだ音があふれ、私がそのことを当然の、毎日の出来事としてとらえていた頃。
 「今、写真撮ったでしょ?」
 私は振り向いて、彼に話しかけた。
 「うん。」
 彼は素直にうなずいた。
 「私を撮ってたでしょう?ストーカー?」
 彼は、今度は首を横に振った。
 「写真部だから。」
 大学の、美術サークルの教室で。
 キャンバスに向かって、油絵を描きなぐっていた私を、彼は撮っていた。
 「すごい迫力だね。」
「絵が?」
「いや、描く姿が。」
パシャ、と、また音がして、光った。
 彼はまた私を撮った。そして笑った。
「鬼気迫る姿だった。」
 これが出会いだった。
 私はこの絵を、彼はこの時の写真を、共に大学の文化祭に出展して、私たちは友人になった。
 絵や写真についてを語り合う、友人に。
 
 ああ、でも。声が出ているうちに、『好きだ』と伝えておけばよかった。

 深大寺のそば屋で。
 おばちゃんが、私に注文をとりに来た。
 ―彼はトイレで席を外していた。
私はポケットから、小さなノートを取り出し、最初の1ページ目を、おばちゃんに見せた。
『私は耳が聞こえません。話すことができません。申し訳ないのですが、筆談でお願いします。』
見終わると。
おばちゃんは、私の顔を見て、分かったようにうなずくと、一度店の奥に引っ込んだ。
けれどすぐに戻ってきて、手には紙とペンが握られていた。
『ご注文は?』
と、おばちゃんは、丸い、優しい字で綴る。
『おすすめは、天ぷらそば』
私は、自分のノートに綴る。
『おいしいんですか?』
おばちゃんは大きくうなずいて、『もちろん。そばはここの名物ですもの』と記載した。
私は笑って、じゃあそれを、と頼む。
彼の分のそばも一緒に注文して。

『またきてね』と、帰りがけ、おばちゃんはレシートの裏に文字を書いて渡してくれた。

音がなくなってから、私はいかに自分が『優しさ』に鈍感だったかを知った。
こういう温かさは世界にあふれていたのに、私はそれを見落としていた。
見ない振りをしていたのかもしれない。
ああ、絵に描きたいなと思った。
目に見えるそのままの風景ではなくて、見えないはずの、でも心に届く、心打つものを。私が素通りしてきてしまったものを。
描きたいな、と。
私のお向かいで、熱心にそばを食べていた、彼の、隣で。
できることなら、ずっと。

 そば屋を出て、私はまた道端でスケッチをはじめ、彼はそんな私を撮った。
 シャッターを切る音は、もう耳に届かない。
 分かるのは、目に見える刹那の光だけだ。

 緑の森の中に、見える光を私は描く。
 それは彼の存在であり、おばちゃんの優しい文字であり、そしてきっと、木々の生命力。私が失いかけ、憧れてやまないものたちだ。

 続いていた、シャッターの光が止んだ。
 彼が、何かを言ってきたのが分かった。
 私は、スケッチブックから顔を上げる。
 そろそろ太陽が傾きかけてきていた。
『将来は、画家になるの?』
彼の唇が、そう動いた。
私は、『わからない』とスケッチの裏の白紙に書いた。『でも、なりたいと思う』と。
彼は『向いてると思うよ』と言った。
私はうなずいて、
 『あなたは、写真家?カメラマン?』文字を書いて、尋ねた。
 『なれれば、いいね』
 筆談を交えたこのやり取りは、ひどくまどろっこしくて。慣れていない彼に、少しだけ申し訳なくなった。

 『そろそろ帰ろうか』
 彼は言った。そして私に手を差し出す。
そう、日が沈むと、筆談がやりにくくなる。
 私はうなずいて、彼の手を取って、立ち上がった。
 けれども、彼はまだ手を離さない。
 不思議に思い、彼を見上げる。
 目が合う。
 距離の近さに、めまいがして、スケッチブックが滑り落ちる。
後ろに下がろうとした。でも、
 『きみを』
 白い私の手のひらに。
 彼が、指で文字を綴った。
 『撮り続けたいんだ』
 『できれば』
 『ずっと』
                

 「すごい迫力だった」

 そう言ってシャッターを切った彼が、まぶたの裏を過ぎた。
 私も、あなたの、隣で―

 ずっと、描きたいと思っていたの。
 『好き』
 萎えた喉を震わせ、彼に伝える。
 私が音を失っても、何も変わらないでいてくれた彼へ。
 『あのね、すき』
 ―だ い す き―
 ずっとあふれ出しそうだった想いを、ようやく今、届かない声でつむぐ。

 抱き寄せられて、耳元で、彼が何かをつぶやいた。
 もう使われなくなったはずの鼓膜の奥が震える。
 縁結びの神様が、私の死んだ耳に彼の声を吹き込んでくれたのかもしれない。
 「ずっと、すきだったよ。」
 懐かしい、彼の声で。
 ひどく甘い、耳鳴りだった。

(了)
 
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<著者紹介>
四季(東京都調布市/23歳/女性/会社員)

枝先を切らた樫の木は体全体をぐるぐると包帯まきにされ、静かに目を閉じて眠っているように見えた。まるで麻酔がきいているかのように。黙ってその木を見つめていると、ついさっき切り離された木の枝がクレーン車のロープにぶら下げられて、不安そうに宙を浮く姿が視界に入ってきた。一本の太い枝から何本かの細くて長い枝が分かれ、そこからまた無数の細い枝が伸び、わずかに葉をつけていた。雲の少ない青い空に自分が切り離した枝のシルエットが漂う。
「今、どんな気持ちなんだと思う?」
仕事を終え、ぼんやりと空を眺めていたので急に話しかけられビクリとし、手に持っていた缶コーヒーをこぼしそうになった。その姿が滑稽だったのか、隣にはサナエさんが笑って立っていた。彼女はまるで気配を感じさせなかった。
「どんな気持ちって、何がですか?」
「あの木のことよ。枝を全部切られちゃって寒そうね。まぁこれから夏になるから丁度いいのかもしれないけど、木を見る側からしたら枝が無いのは可哀想だし惨めよね。夏はやっぱりたくさん葉をつけててほしいわ。それに切られた枝もまさか自分が空を飛ぶなんて思ってもなかったでしょうね」
サナエさんはクスリと笑いながら話した。
「あなたも同じこと考えてたんでしょう?」
「え?」
「ずーっと、あの木を見つめて、ぽけーっと立ってたからさ」
「いやー、そんな深く木のことなんか考えてないですよ。俺はただ、あの木を見て一仕事終わったっていう気分に浸ってただけで・・・。あの木が一段落したんで、明日からは中庭の方に取り掛かりますね」
なんだか、彼女にすべてを見透かされているようで適当な嘘で会話をぼかした。彼女は寂しそうな表情をしながら、ただひたすら包帯でぐるぐる巻きになった木を見つめていた。
「昔はよくあの木に登って遊んだんだよ」
「ええっ、あんな高い木に?」
「うん」
「意外とやんちゃなんですね」
「おじいちゃんがね、こっそり木に梯子をかけてくれたの。お母さんたちは危ないからって木登りは絶対に許してくれなかったんだけどね。おじいちゃんはあたしが木に登りたがってるの、分かっていたらしくって。協力してくれたの。お父さんとかお母さんが見ていない隙に小屋からはしごを出してきてね、登るの。おじいちゃんとあたしは共犯者だったんだ、見つかったことは一度もなかったんだよ」
「今も登ったりするんですか?」
「三年前にね共犯者が死んじゃって。おじいちゃん、体も弱くなってたし、二人で悪さしてたのは子供の時だけ」
「そうなんですか」湿っぽい話をからっと話す彼女に、なんて言葉を発したらいいのか分からなかった。
「明日も来るんだよね?」
「はい」
「じゃ、明日またね」
彼女は静かに微笑み小さく手を振ってパタパタと庭の砂利道を駆け玄関に姿を消した。
彼女と初めて会ったのは二週間前だった。枝先が死んでしまった木の切断と庭の手入れの仕事でこの家にはじめて来たのは七月の初めだった。これまでたくさんの家の庭を見てきたが、こんなも花に彩られ草木が茂る家を私は見た事がなかった。夏椿の白、百日紅のピンク、紫陽花の紫、金糸梅の黄色、ノウゼンカズラの赤、他にも名前の分からない花々が庭中に咲き乱れ、この世に存在する色のすべてが集まっているようだった。足を一歩踏み入れた瞬間、まるで不思議の国にでも迷い込んだ感覚を味わったのを今でも覚えている。
中庭に行くと真っ白なワンピースを着た女性がホースで草木に水をかけていた。ホースの先からいくつもの水滴が空中を舞い、キラキラと世界を輝かせていた。その水滴が彼女の瞳に映り、まるで涙を浮かべているような、潤んだ切なそうな表情に見えた。
一瞬、轟々と激しい風が吹き草木がなびき、花が散り、彼女のワンピースの裾がひらりと舞ったのと同時に、水滴が彼女を濡らした。風がやみホースの水の流れも、スカートも草木もすべてが元道理になると呆然と立ち尽くす私に彼女は笑顔を向けた。
「パンツ見えた?」
「あ、はい」
それが私と彼女の初めて交わす会話だった。

仕事が終わると仕事の先輩と蕎麦を食べて帰るのが日課になった。河内先輩は、蕎麦の正しい食べ方なんだと言って、山葵だけを食べてみろとせがみ私はいやいや山葵だけを口に運んだ。ツンとした刺激が鼻の先を刺し、涙目になると河内さんに笑われた。
深大寺の蕎麦を初めて食べた時、ずいぶんとまばらだなと思った。一本一本が短かったり長かったり、薄かったり厚かったりしていた。それらは均等な形をしていない。機械ではなくすべて人間の手によって作られたものの気配が漂っていた。口に運ぶと芳醇な蕎麦粉が香り、浸した蕎麦つゆと刻み海苔や、葱、わさびが、それぞれの味で私の口の中を楽しませてくれる。
「お前、あの娘と仲いいのか?」河内さんが不意に質問してきた。あの娘ってサナエさんの事かなと、なんとなく思った。
「あの娘、引きこもりらしいな」
「え?」
「もう何年も家から一歩も出てないらしいぞ。こないだな、あの娘のお母さんと話す機会があってな、そんな事ほのめかしてたんだよ。若いのにな、お前と同じくらいだろ年も」
そう言われると確かに、ほぼ二週間サナエさんの家に通っているが、彼女はいつも家にいるし外に出たところなんて見た事がなかった。
「病気かなにかですかね?」
「いやぁ、そこまではさすがに聞けなかったけどよぉ、見た目は健康そうだし、精神的なもんなんじゃねぇのか?」
私は黙って残りの蕎麦をすすった。蕎麦湯が運ばれてきたので麺つゆに注いだ。真っ黒だった液体が白身を帯びて薄まっていく。口に広がる蕎麦湯の香りをゆっくりと飲み込んだ。

中庭の木の剪定に取り掛かったその日、仕事をしていると太鼓や笛の音が耳に入ってきた。ここへ来る途中も浴衣を着て涼しそうに歩く人達とすれ違った。季節はすっかり夏になろうとしていた。毎日触る木々の葉は生き生きと緑色を増し、この庭に咲く花々も競って個を主張するかのように彩を増す。前よりもいっそう強く。それらを見ていると眩暈がしそうだった。本当にこの庭は迷宮のようだ。
刈り終わった葉を集めていると縁側にサナエさんが立っていた。
「お疲れさん」彼女は缶コーヒーを私に向けて投げた。驚いて缶コーヒーを落としそうになる私の姿を見て、彼女はいたずらっぽく笑った。
「庭、きれいになったね。ありがとう、色々とやってくれて。お母さんも満足してたよ」
「それなら、よかったです」
「水かけてもいいかな?」彼女はホースを引っ張り出し、刈り終わったばかりの木に向けて水をかけはじめた。その姿は初めて彼女に会った時の光景そのものだった。
遠くからどーんと低い太鼓の音が響いた。
「あぁ、今日はお祭りなんだ。そんな季節なんだね」
「お祭り見に行きません?」彼女は驚いたような表情を見せた後、すぐさま困惑した表情になった。
「行きたいけど、行けるかな・・・」私は黙って俯いて困っている彼女の手を引いて庭の外に出た。後ろを振り返ると俯いたままだったが彼女に抵抗はなかった。
木々に囲まれた道を下ると、太鼓の音が近づき、心臓に響いた。赤提灯に囲まれた空間には色とりどりの浴衣を身にまとった人達が音に合わせて踊っていた。人だかりに近づくと彼女は瞳を潤ませ始めた。今まで見たことのない弱々しい顔に私も少し動揺した。
「人ごみはだめですか?」彼女はコクリと頷いた。人だかりを抜け、蕎麦屋が立ち並ぶ通りを歩くと、葱の香りや、饅頭を蒸す甘い湯気の香りが鼻を刺激した。
「あ」彼女が小さく何かに反応した。細い坂の前で立ち止まり嬉しそうに見上げていた。「・・・懐かしい、この坂、よくおじいちゃんに手を繋いでもらって登ったんだ」
「登ってみます?」
「・・・うん」人気のない坂を彼女と二人で登った。
お団子屋や花屋が並ぶ坂を上ると矢印で延命観音と書かれた道が現れた。人の気配はなくうっそうと茂る木々が夕方の影を作っていた。
 風が少し吹いた。ざわざわと葉が揺れ私の心の中にそのざわめきが響いた。
彼女の手を引き歩こうとすると彼女は動かなかった。
「久しぶりに外に出たの。・・・わくわくするけど少し怖いの」あの庭では見せたことのない弱々しい顔でそうつぶやいた。初夏の冷たい風が汗を冷やし、自分の腕に鳥肌が立つのがわかった。
「大丈夫ですよ、怖いことなんかなにもありません」
坂の下からは人のざわめきが聞こえた。
そして太鼓の重低音が・・・
どーんどーんと心臓にまで響く太い音は鳴り止まなかった。

(了)
 
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<著者紹介>
桐島 千明(東京都調布市/23歳/女性/会社員)

連日三十度を超す真夏日だった。貧乏学生のぼくが住む三鷹のおんぼろアパートは、クーラーの効きがいまいちで常に暑い。
それに比べここ深大寺は、いつでも不思議と涼しさを感じさせる。それは神秘的ともいえる、内なる静けさに故のあるような気がしてならない。
緑の多いこの界隈の景色が好きで、ぼくは自転車を漕いで往復三十分の道のりを、月に幾度かやってきていた。むろん、この近くに住む美里さんと知り合ってからは、理由はそれだけではなくなってしまったのだが――。
ぼくは二年前に入学祝いとして親父に買ってもらった一眼レフを、境内に立つナンジャモンジャの木を仰ぎ見るように構えてみた。完全な夜にはまだ早いが、空は徐々に光を失いつつあるようだった。鳴き声から何匹かの蝉を探すように、ぼくはレンズの向きを動かしながらファインダーを覗いていた。
とそのとき、誰かがぼくの肩をとんとんと叩いた。振り向くと、美里さんが笑いながらぼくの頬に人差し指を立てていた。
「ちょっ、恥ずかしいからやめてくださいよ」
「だって、ぜんぜん気づかないんだもん」
美里さんは、辺りに二十数軒がひしめき合う、名物の深大寺蕎麦を食べさせる店で働いている。
ぼくたちはこの深大寺周辺でよく会っていた。けれど、それは決して恋人としてではなかった――ほんのつい最近までは。

美里さんと初めて出会ったのは、ちょうど一年前の八月、野川の灯籠流しでだった。
闇にぼんやりと浮かんで流れる千基近くの灯籠。それぞれに想いを乗せてゆらゆらと運ばれていく、その幽玄な儀式を写真におさめようと、ぼくは出向いたのだった。
宵闇迫る野川で、読経や御詠歌、雅楽の調べを聞いていると、なんだか俗世の些事がばかばかしくなってくるほど、ぼくは厳粛な気持ちに包まれた。
あまり風のない夜で、なかなか流れていかない灯籠は、まるで現世に想いを残す死者の魂をそのまま表しているようで、ぼくはやるせなさに身を締め付けられながら、夢中でシャッターを切り続けた。三脚を持ってくればよかったな、と思ったが後の祭りだった。
その帰り道、見物客で雑然とする御塔坂橋を歩いていると、ひとりの女性とぶつかった。拍子に、持っていた携帯電話を取り落とした。
「ごめんなさい!」
 ......美しいひとだった。ぼくよりいくつか年上に見えた。やわらかにうねる臍まで届きそうな長い髪が、華奢なからだをなぞるように覆っている。ノーブルな顔立ちは、そのTシャツにジーンズというラフな服装には似つかわしくないほどだった。
「あ、いえ、こちらこそ......」
 ぼくはどぎまぎしながら傍に落ちていた電話を拾い上げ、一礼すると足早にその場を去った。停めていた自転車に飛び乗り、フルスピードでペダルを漕いだが、先ほどの彼女の残像がまぶたにちらついて仕方なかった。
アパートの近くまで帰ったとき、カーゴパンツのポケットで電話が振動しているのに気づいた。マナーモードにしてたかな、と訝しがりながら出てみると、驚いたことに相手は橋でぶつかったあの彼女だった。
「私も携帯落としちゃったんだけど、どうやらあなたのと機種も色も同じだったみたい」
ストラップのついていない黒い携帯電話は、あのとき取り違えられてしまったらしい。
慌てて取って返したぼくらは、無事に電話を交換した。でもなんだかこれっきりになってしまうのが口惜しくなり、ぼくは一方的にしゃべる形で三十分ほども立ち話をしたあと、強引に連絡先を交換してもらったのだった。彼女は美里さんといって、思った通りぼくより六つ年上だった。
それからは、大学の講義やサークル活動、ガソリンスタンドのバイトの合間を縫っては、写真を撮るために、もとい、美里さんに会うために、以前にも増して深大寺付近にやってくるようになった。ときどきは美里さんの働く店で、蕎麦に舌鼓を打ったりもした。
最初は戸惑っていた美里さんだったけれど、徐々に打ち解けてくれて、ぼくらはいろんな話をするようになった。好きなものについて、嫌いなものについて、おもしろかったことや、子どものころの話......いくらでも尽きることがなかった。深大寺、神代植物公園、深大寺城跡、カニ山など、この辺り一帯はぼくらの定番デートコースとなった。季節の移り変わりとともに、ぼくの写真におさまる植物は、彼岸花、金木犀、山茶花、梅、桜、紫陽花へと変わっていき、百日紅の花が見ごろになる、美里さんと初めて出会った夏になるのはあっという間だった。
でも、ただそれだけだった。
ぼくらの関係は決して恋人同士ではなく、どちらかというと姉と弟という感じで、その一線を越えることは絶対になかった。美里さんの、ここから先は進入禁止、という目に見えないバリアによって阻まれていたというほうが正しいかもしれない。もどかしくはあったけど、ぼくは彼女の気持ちを尊重したかったから、決して無理をしようとはしなかった。いや、実際は、彼女に嫌われてしまうかもしれないことがこわくて何もできなかったのだ。
それなのに――。
八月に入ってすぐのあの日、ぼくはどうかしていたのだ。なぜだか日増しに美里さんが心ここにあらずとなっていくようで、焦りと不安がマグマのようにぼくの奥で煮えたぎっていた。何かあったの、と訊いたところで、首を横に振るばかりの彼女に苛立ってもいた。
雲の多く残るどんよりとした夜空の下、学友と飲んだ帰りで、ぼくは泥酔していた。勝手に美里さんのマンションの下まで押しかけると、携帯電話で彼女を呼び出した。
何事かとすぐに表に出てきてくれた美里さんを、いきなりぼくは乱暴に抱き寄せた。
「やめて!」
結果、必死にもがいて抵抗する美里さんを転ばせてしまい、肘に怪我をさせてしまった。
ぼくはよろよろとその場にしゃがみ込んで嘔吐した。みっともなくて涙が出た。いっそ自分の存在を消してしまいたかった。どこをどう帰ったのかも思い出せない。翌日目覚めるとすでに遅い午後で、ぼくは自己嫌悪で何度も枕に自分の頭を叩きつけた。
あれから一週間余り、美里さんからは何の連絡もなかった。当然こっちから電話などかけられるはずもなく、ぼくはどん底まで落ち込んだ。ろくに食事も喉を通らず、周囲が心配するほどぼくは一気にやつれたようだった。
もう絶対終わった。そう思っていた矢先、ふいに美里さんから電話がかかってきた。
「明日の夕涼みの会、いっしょにいかない?」
 夕涼みの会は、深大寺参道で行われるイベントで、確かコンサートなどの催し物もあるちょっとした祭りのようなものだ。ぼくに断る理由などあるはずもなかった。
いつもなら人もまばらになる深大寺の夕暮れ、この日ばかりは多くの人で賑わっていた。金魚すくいやヨーヨー釣り、綿あめなんかの夜店が並び、無性に郷愁をくすぐられる。
美里さんは仕事帰りなのに、わざわざ浴衣に着替えていた。紺地に白い花が描かれた粋なもので、それはとても彼女にしっくりと似合っていた。普段は隠れているうなじが思いのほか白くて、ぼくは照れとこの間の気まずさから、足早に彼女の前に立って歩いた。からころと美里さんの下駄の音も速くなった。
ぼくたちはどちらもずっと無言で、人ごみを避けるように本堂の裏手へと進んだ。
沈黙を破ったのは美里さんのほうだった。
「私ね、むかし......婚約者がいたのよ......三日前は彼の命日だったの」
 美里さんはぽつりぽつりと静かに話した。
高校生のときからつき合っていた彼氏と結婚の約束をしていたこと、その彼が七年前に交通事故で亡くなったこと、直後に発覚した妊娠と流産、月日を追うごとに彼との思い出が風化することへの憂い、そして新しい恋をすることの罪悪感――。
「でも、あなたと出会ってからようやく、一歩踏み出す勇気が出たの。もしかしたらあなたともう二度と会えないのかもしれないって、そう考えたら、はじめてこたえがみえてきた......。こんな私だけど、全部受け入れてくれるのなら、よかったらこれからも......」
 ぼくは無言で美里さんを抱きしめた。今度は美里さんもぼくの背中に手を回してくれた。

「そろそろいこうか」
今日は野川の灯籠流しだ。年毎、亡くなった彼のご両親が戒名を入れた灯籠を流しているのだという。
「毎年ね、彼の命日が近づくと決まって心がざわついた。でも、過去に囚われて今をなおざりにするのは、間違ってるよね。過去は過去として、大切な思い出として、ずっと心にあればいいんだよね」
 野川に着くと、ちょうど灯籠流しが始まっていた。色とりどりの灯籠は、ゆらゆらと厳かな光を放ちながら水面に浮かんでいる。
またも三脚を忘れてきたぼくは、必死でカメラを安定させながらシャッターを切った。
ときどきカメラに熱中しているふりをして、美里さんの横顔を盗み見た。けれど心の中までは見ることができない。
正直、自信なんてなかった。それでも、ぼくは美里さんと歩んでいきたい。これが正真正銘の気持ちだ。今が過去の積み重ねならば、未来は今の積み重ねなのだ。そうやってやっていくしかない。
視線に気づいた彼女がそっと微笑んだので、ぼくは慌てて川面に向かいカメラを構え直した。                

(了)
 
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<著者紹介>
森 香奈(大阪府堺市/37歳/女性/会社員)

こちらで紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、メールにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。

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