「渋滞で一人遅れてるんだ!もう間に合わないっ。君、頼むよ、代わりに演(や)ってくれっ」
 予報通りにパラパラと降り始めた雨を避け、神代植物公園の大温室に入るや否や、突然、男性からハンドベルを突きつけられた。
「えっ...?」
 呆気に取られて、二十歳くらいの男性とハンドベルを交互に見比べる。休憩室の方から、ラテンギターの弾き語りが聴こえてくる。どうやらコンサートが開かれているらしかった。
「きらきら星は知ってるだろ?『ラ』のベルの出番は二回だけ、簡単だよ。もう時間がない、あのギターの次なんだ。マジで頼むよっ」
 彼は強引にハンドベルを私の手に握らせようとし、慌てて振り払った瞬間、リーンっ、と真夏を跳ね返す涼やかな音色が響き渡った。
「無理よっ、そんな急に言われても困る、だいたいハンドベルなんてやったことないし」
 私は警戒心も露わに彼を睨みつけた。よりによって何で私なの?誰か他にいるでしょ?
「本当に困ってるんだ、どうか頼むよ」
この空のように半泣きの必死な形相で懇願され、思わず私は怯んだ。『神』という名を冠したこの公園(ばしょ)で、情けを無視したらバチが当たるだろうか......。数秒ほど逡巡した後、観念して不承不承、ハンドベルを受け取った。
「...ミスしたって、文句は言わせないからね」
「ありがとう!大丈夫、絶対君はミスらない」
彼は一転して、大温室の睡蓮のようにパっと華やかな微笑を咲かせ、確信的に断言した。
「な、何を根拠に、」
「ヤバイっ!もう出番だ、行くよ、急げっ」
ラテンギターの旋律が止まり、慌てて彼は私の腕を掴んで休憩室の方に走り出す。
「ちょっと待ってよっ」
 もつれそうになる華奢なサンダルで、既に他のメンバーが待つ簡易ステージに駆け上る。
「皆さん、本日は、コンサートのテーマである睡蓮のような美人の飛び入り参加です!」
 彼が軽快な口調で客席に私を紹介すると、観客たちはまばらな拍手をした。私は、二十人足らずの観客と右手のハンドベルを見下ろしながら、皮肉げに自嘲の笑みをこぼした。
ハンドベルだって?きらきら星だって?こんなわずかな観客を相手に、しかも植物公園の温室なんかで?一年前、大ホールでソロコンサートを開いたこの私が?...嘲笑(わら)っちゃう。
「『ラ』の出番は二回。ドドソソララソの『ララ』だけだから。『ソ』のオレの次に鳴らして」
 隣に立つ彼が、素早くこっそり耳打ちする。
最初のベルが鳴り、演奏が始まる。私は緊張しつつも、なんとかミスなく役目をこなした。
「ブラボー!ノーミスじゃん、グッジョブ!」
 彼は満足げに笑い、ピっと左手の親指を立てて見せた。私もホッとして、笑って応じる。
皺だらけの手で懸命に拍手をする老夫婦。ニコニコとそっくりな笑顔で拍手をする高校生カップル。小さな手のひらで力いっぱい大きな拍手をする無垢な男の子。ここには二つとして同じ拍手などない。一人一人の素朴で純粋な優しい感動が、私にまっすぐに届く。
かつて、大舞台で演奏した時のような盛大な拍手でも喝采でもなかったけれど、長らく忘れていた充足感や手応え、悦びが、確かな浸透力で私の内部へじわじわと染みこんできた。
「ありがとう、マジで助かったよ。お礼に、深大寺名物の蕎麦を奢るよ。昼飯まだだろ?」
 休憩室を出ると、彼は気さくに誘ってきた。
「まだだけど...。あ、それよりねえ、さっき、絶対君はミスらないって断言したのって...」
「ああ、大温室の人だかりの中で、手だけを見て選んだ。形の良い甲、長くて細くて、しなやかな指。楽器の才能がある手だったから」
 彼は指先で私の手を示す。私は驚愕の余り言葉を失い、彼を凝視したまま立ち竦んだ。
「あ~、無事に終わって安心したら、急に腹減っちゃったよ。早く蕎麦食いに行こうぜっ」
彼に促され、複雑な心境で温室を出ると、いつの間にか雨は止んでいた。中庭の池には、満開の睡蓮が咲き誇る。真夏の太陽を存分に享受し、白く気高く清廉に、暑気を振り払う涼しげな佇まいで池に漂う。不意に彼は立ち止まり、愛おしそうな眼差しで睡蓮を眺めた。
「今日のコンサートは、ウォーターリリーコンサートって言って、睡蓮がテーマなんだ。ウォーターリリーって、睡蓮って意味だよ」
「そう言えば、さっきそんなこと言ってたね」
「睡蓮は、朝陽が昇って明るくなると花が開き、暗くなると閉じるんだ。夜が来れば、ちゃんと眠る花、だから『睡蓮』って言うんだ」
 ハっと胸を衝かれた。夜、眠る花...。眠りを失った私には、睡蓮の健やかさが急に眩しく映った。一瞬にして睡蓮に心を奪われる。
 ねえ睡蓮、昼は灼熱の太陽を謳歌し、夜には冴え冴えと光る冷たい月影にその熱を溶かして眠り、あなたはどんな夢を見ているの?   
私も眠りたい。太陽と月の光を乱反射させた水面に神秘的にたゆたえる睡蓮のように、厳かな静謐と安息に抱かれて眠りたい...。
「太陽に愛されている花なのね」
 純白の気品を振り巻いて、燦然と浮かぶ睡蓮を羨みながら呟いた。夜になっても眠れない私は、太陽に愛されていないのだろうか?
「君が飛び入り参加したら、急に雨が止んだ。晴れ女、君も充分、太陽に愛されてるじゃん」
 彼はまるで私の心を見透かしたように、すっかり晴れ上がった空を仰いで言った。彼の言葉は、嵐の前の突風のように私の心を吹き抜け、渦巻いていた暗雲を一気になぎ払った。
「じゃあ、その晴れ女に感謝して、深大寺一とびっきりおいしいお蕎麦をご馳走してよ」
 照れ臭くて、強気に言い放ち、歩き出した。 

彼は深大寺通りに面した蕎麦屋に連れてってくれた。打ち立ての新鮮な麺は、もちもちと弾力があり、プツっと潔く噛み切れて本当においしかった。私は、ざる蕎麦を食べ終えるまでに、彼の名は翔で、二十一歳の大学生で、音楽サークルに所属し、フルートやハンドベルをやっていることを知った。翔は、天ぷら蕎麦を完食するまでに、私の名は舞で、町田に住む二十五歳だということを知った。
蕎麦屋を出た後、旧暦の七夕飾りで華やぐ山門前を歩いていると、彼は心配げに尋ねた。
「舞さん、顔色悪いけど大丈夫?気分悪い?」 
「大丈夫よ。ただ、夜眠れないだけだから」
「眠れないって...、不眠症ってこと?」
 翔は驚いたように、目を見開いた。
「ん...、まあ、そんな感じかな」
「なにか、眠れない理由でもあるの?」
 遠慮がちに問われ、不思議と私は初対面の翔に、躊躇いなく自然に話していた。
「翔くんの直感通り、私、これでもそこそこ名の知れたピアニストだったの。それが一年前、コンサート本番で大失敗をして、もうボロボロ。批評家たちにも目茶苦茶こきおろされた。それから...弾けなくなっちゃったんだ。未だに、何度もあの時のことを夢で見るの。だから寝るのが怖くなって、いつの間にか眠れなくなっちゃった。...なんか弱いよね、私」
 極力、感情を交えずに淡々と話した。何も答えず黙って歩く翔に、にわかに不安になった時、彼はフラリと通りがかりの土産物屋に入った。そして、紙縒付きの短冊を買うと、店主にペンを借り、何やら短冊に書き始める。
近づいて覗き込んだ瞬間、ハッと息を呑んだ。
『舞さんが眠れますように。 翔』
「昔から、どうにもならないことは、後はもう神頼みって決まってる。深大寺の神様経由で、彦星と織姫に願い事を届けてもらおうぜ」
翔は、店の前に飾られた笹に短冊を結びながら軽やかな口調で言った。
熱い感情が渦になって込みあげてくる。
「...ありがとう」
泣きそうなのを堪えると、声が低く掠れた。どんなに共感を訴える慰めの言葉より、親身で的確な助言よりも、遙かにずっと救われた。
「極めつけに、ついでに深大寺に寄って、祈願していこう。舞さんが爆睡できるようにさ」
 わざとおどけて言う翔の心遣いが染みた。何十枚もの祈りが捧げられた笹に、新たな願いを託した金色の短冊が、ひときわ奔放に一陣の風に揺れていた。

「舞さんは、マリーゴールドか。『オレンジ色の花が、希望と心の輝きを呼び、幸運を招きます』だって。へえ、舞さん良かったね!」
 参拝の後、深大寺本堂の回廊で、『花おみくじ』を引くと、オレンジ色のマリーゴールドの押し花が添えられたお守りが入っていた。
真夏の陽射しに照らされた翔の横顔を、私は眩しげに眼を細めて見上げた。数時間前に偶然出逢ったばかりの彼が、私に希望の序曲を聴かせてくれた。燻っていた心が、徐々に輝きを取り戻す。止まっていた時間が、ゆっくりと流れ始める。今日帰ったら、ほったらかしのままのピアノを調律してみようか...。
「オレは矢車草だ。人と人との縁を結ぶって」
 翔は、ピンク色の押し花のお守りを見せた。
「そう言えば、深大寺って恋の神様なんだよ」
 意味深にお守りを私に突きつける翔に、ドキっと鼓動が高鳴る。四歳下も有効...かな?
「ねえ、舞さん、今度、深大寺の山門で野外コンサートをやるんだ。オレ、ソロでフルート演(や)るからさ、良かったら観に来てよ」
 得意げに誘う翔に、頷こうとした瞬間、ふっとある企みが脳裏を掠めた。
「ねえ、そのコンサート、一曲、追加可能?」
「えっ?」
「フルートとピアノのデュオなんてどう?曲は勿論、『きらきら星変奏曲』で」
「あ~っ、いいねっ!それ最高っ!」
 私たちは同時に共犯者のように笑い出した。絡み合うソプラノとバリトンの笑い声(デュオ)は、恋の前奏曲(プレリュード)。いつまでも響き続ける延音記号(フェルマータ)。深大寺の恋の神様に聴こえるように、二人だけの新たなる自由な恋の狂詩曲(ラプソディー)を奏でよう。     
笑い声は夏空に弾け、響き渡る。久しぶりに、今夜はぐっすりと眠れそうな気がした。真夏に咲く、真っ白な睡蓮の夢を見ながら...。

(了)
 
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<著者紹介>
星野 有加里(静岡県島田市/女性/教員)

 六月も終わろうとしていた土曜日の早朝のこと。突如母が激しい腹痛を訴え、救急車で病院に運び込まれた。幸いにも命に関わることではなさそうだったが、それでも検査を含めて数日入院しなければならないとのことだった。私は急いで家に戻り、とりあえずの入院生活に必要な母の身の回りのもの一式を病院に届けなければならなかった。
 母の部屋に入るのは久し振りだった。私が高校に入った頃から母は年頃の娘を気遣ってか私の部屋に入らないようになり、それと同時に私も母の部屋に入ることを遠慮するようになった。部屋は朝の混乱ぶりとは恐らく関係なく、まるで泥棒に荒らされたかのようにぐちゃぐちゃに散らかっていた。母は毎朝私より早く起きて出かけ、私より遥かに遅くに帰ってくるキャリアウーマンだからそれは仕方ないことだし、そもそもこれが母の性格と言えなくもない。けれどここまで散らかっていると、日頃掃除ぐらいしてあげるのに、と思ってしまう。
 この散らかった部屋のどこに何があるのか、入院生活に何が必要なのかも分からないので、とりあえず私は手当たり次第に母のタンスや押入れを開け、下着やら服やらタオルやらを大きな旅行鞄に詰めていった。鞄がいっぱいになった頃に母がいつも使っていたバスローブを入れてないことを思い出し、とりあえず大きな洋服ダンスを開けた時に私はそれを見つけた。赤いフエルト生地のブックカバーが掛けられたそれは、手にすると少し埃っぽいにおいがした。ぱらぱらと頁をめくると、そこには今より丸みがかっているけれど確かに見覚えのある字が躍っていた。それは母の学生時代の日記だった。

「ひろくん」「ひろくん」「ひろくん」「ひろくん」
 とにかくこの日記には「ひろくん」がやたらと登場する。迷うべくもない。向井大と書いて「むかいひろ」。私が生まれてすぐに亡くなった父の名である。実のところ私は父に余り関心はない。母もこれまで余り父のことを話すことはなかった。ただ私が母と一緒にお酒を飲むようになってから、つまりここ一、二年、母は父の話をぽろりぽろりとするようになった。この年で好きになってしまったビールの苦味を堪能しながら、私はとりとめもない母の話を聞いてあげた。
 だから私が父について知っていることは極めて断片的で、僅かなものだ。ラグビーをやっていて筋骨隆々だったこと、身長が一八五センチもあったこと、無類の蕎麦好きだったこと、江ノ島デートで泳げないことが発覚したこと、デートと言えば父が一人暮らしをしていた近所の深大寺という古いお寺だったこと、などなど。今私がすぐに思い出せることといえばこれぐらいだ。
 父にはそれほど興味はないが、若い頃の母には興味がある。私は荷物を詰めることも忘れて母の日記に夢中になった。どの頁をめくっても「ひろくん」「ひろくん」「ひろくん」「ひろくん」であり、そこには今の母の自立した女の強さなどこれっぽっちも見当たらない夢見る乙女の日記だった。けれども私にはそんな母の意外な一面がたまらなく可愛く思えた。お相手の「ひろくん」は、出不精で、愛想がなくて、無口で、私には余り魅力的に思えないのだけれども、母にはそこが堪らなくいいらしい。思わず熱中しすぎて、私は危うく母の荷物を午後の面会時間内に届けられないところだった。

「心配かけたわね」
 病院に戻ると、痛み止めのおかげか母にはいつもの力強さと笑みが戻っていた。
「もう大丈夫なの?」
「胆石の疑いがあるらしいわ」
 母はそう言うとにこりと笑った。
「無理しちゃダメよ」
 言っても聞かないのは分かっている。
「月曜に大事な会議があるのよ。どうしても行かないと」
 私は日記のとあるフレーズを思い出す。
『ひろくんの背中をずっと見ていたい』
 目の前の母が日記と同一人物だとはとても思えなかった。
帰りの電車で私は再び母の日記を開く。
『嫌がるひろくんを強引に連れ出す。ひろくんは一週間ぶりの外出。いつもと変わらず深大寺。雨の中のデート!』
 明日、母の見舞いの前に深大寺に行こうと思う。写真を撮って母に見せたらどんな顔をするだろう。

 翌朝、私は雨の中、京王線つつじヶ丘の駅に初めて降り立った。私は傘も差さずにロータリーに止まっていたバスにスカートを翻して飛び乗った。バスに乗り二〇分も走ると辺りの緑がぐんと濃くなった。雨のせいか緑が青々としている。終点の深大寺で降りたのは私だけだった。まずは一通り歩いてみる。短い表参道の正面に存在する古い山門にカメラを向ける。ただの古いお寺かと思っていたものの、予想外に門前町が広がっており風情がある。蕎麦屋があり、蕎麦まんじゅうやリンゴ飴が売られているこの風景は恐らく江戸時代よりそれほど変わらないだろう。ましてや母の学生時代とはほとんど変わっていないに違いない。私は小さな池の前にある蕎麦屋に入り再び母の日記を開く。
『いつもと同じひろくんが奥、みさが手前。いつもと同じとろろ蕎麦。でもいつもより新鮮なのはひろくんが無精ひげ姿だってこと!』
 私が座ったこの席にもかつて母と「ひろくん」が向かい合って座ったのかな。でも私の前には誰もおらず、ちょっとだけ寂しくなる。そんな寂しさを蹴散らすようにつるつるととろろ蕎麦を食べ、私は店を出る。雨は相変わらず降り続いている。

 ようやく山門をくぐり古い境内へ突入すると、境内は雨のせいかびっくりするほど静かで、そして誰もいなかった。
『いつもと同じ願い事。もうお百度参りができたんじゃないかな』
 日記に書かれていた母の願い事は叶ったのだろうけれど、結果的に母は女手ひとつで私を育てるという重荷を背負ったのだ。そんな母を思うと素直に本堂にお参りする気にはなれず、札所に足を向けた。仏様に正面から向かい合いたくない心境というのもあるのだ。
「あっ!」
 だが出会いはこんなところに転がっていた。そこで売られていた鬼の御札は我が家のリビングに私が物心付いた頃から貼られているものだった。私が何度聞いても母がきちんと説明してくれなかったその鬼の御札は、説明によれば角大師と言い、かつて元三大師様が疫病神を追い払ってくれた時の仮のお姿だという。つまり私は生まれてから二〇年間、ずっとこの元三大師様に見守られてきたことになる。御札は毎年新しくなった。そのことは母が今でも毎年ここに来ていることを意味し、それは、つまり、同時に、母が今でも「ひろくん」を想っていることを意味しているような気がした。
 私は動揺したまま本堂を、そして元三大師堂を見て回る。
『いつもと同じ願い事。もうお百度参りができたんじゃないかな』
 私は立ち止まり、雨の中で若き日の母と「ひろくん」の面影を追った。
 母と父は大学在学中に付き合い、卒業して数年で結婚し、そして私が生まれた。父はすぐに死んでしまったが、今でも母は父を愛している。そういうことなのだ、きっと。

 随分と長いこと境内にいたせいか、私はなかなか現実に戻れなかった。もう一度お土産屋を見て歩く。甘いものでも食べれば現実に戻れるだろうと考えてみる。
「すみませーん」
 店員が出てくる気配は全くない。
「ごめんくださーい」
 少々恥ずかしいが声を上げて叫んでみる。
「蕎麦まんじゅうくださーい!」
 やがてどたどたという音が店裏から聞こえてきて、次いでからんからんというサンダルの音と共に店員が飛び出してきた。
「いらっしゃい!」
 私は蕎麦まんじゅうを指し、財布を取り出そうとバッグに手を入れた。
「あげるよ!」
 驚いて顔を上げるとそこにはなんと同じサークルの悟先輩が立っていた。
「先輩?わっ!えっ?こんなところで何してるんですか!」
 私は蕎麦まんじゅうを食べる前に現実に戻ることができた。
「俺はここのバイト長いからね。向井は何してるの?」
 私はちょっとだけ考えてみる。
「お父さんに会ってました」
「お父さん?この雨の中で?」
 私は頷いて、悟先輩からもらった蕎麦まんじゅうを一口食べた。甘さが口の中いっぱいに広がった瞬間、悟先輩の苗字が広崎で、同級生からは苗字の上を取って「ひろ」と呼ばれていることを思い出した。
 これが「ひろ」と私の出逢いになった。

(了)
 
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<著者紹介>
渡部 夏之介(神奈川県川崎市/35歳/男性/会社員)

 その男のすることを見て、涼子は思わず噴き出してしまった。寺で柏手を打ったのである。そんな涼子に男が気づき、二人の目が合う。境内には蝉の声。
「......すいません......」
 涼子が謝ると、男の方は笑いながら首を横に振った。気にするなという意味らしい。
「やっぱり変ですよね。僕もそう思います」
 なんだ、変と分かっててやったのか、と涼子は心の中でつぶやいた。しかし、ならば何故。すると男が
「あの、変ついでにお尋ねしたいのですが、この辺りに"モンゼン"という蕎麦屋さんがあると思うんですが、ご存知ないですか?」
 やっぱり変だ。"門前"ならその名の通りこの寺の門前にあって、ここ深大寺に来る途中で見かけないはずはない。キャリーバッグを引いているところを見ると、どうやら旅行者のようではある。しかしそのバッグの中にはガイドブックを入れていないのだろうか。
「......お店までご案内しましょうか」
「わぁ!いいんですか?それは有り難い」
 お店の前に連れて来ると、男は、あれ?あれ?と繰り返しながら辺りを見回した。
「あれ?ここは通ったはずなんだけどな」
 当たり前だ、と涼子は心の中でつぶやく。
「あ、そうだ。お礼と言ってはなんですが、何か召し上がって行かれませんか。もちろん私がおごりますよ」
「いえ、結構です」
 涼子は能面のような無表情で断った。


「あー、やっぱりそばしふぉんケーキだけでもおごってもらえばよかったなー」
 昨日のことを思い出しながら涼子はつぶやいた。門前のそばしふぉんケーキは涼子の大好物である。
 神代植物公園の中は夏の草花で彩りに溢れていた。涼子は卒業研究に行き詰まると、気晴らしによくここを訪れていた。
 さくら園まで来たところで、涼子は昨日の男を見つけてしまった。男は花の無いジンダイアケボノを見上げている。やっぱり変だ。関わらないようにしよう。そう思って通り過ぎようとしたが、残念なことに目が合ってしまった。
「あっ!昨日はどうも!」
 あなたのおかげで旨い蕎麦にありつけましたと男はにこやかに言い、お辞儀をする。
「......今、何を見てたんですか」
 涼子は疑問を素直に言葉にした。あぁ、やっぱり見られちゃってましたか、これはお恥ずかしい、と男は照れくさそうに笑いながら
「......アサガオ...を見ていました」
「...幻覚剤か何か服用でも」されてるんですか、と途中まで言葉にして、はっと涼子は口をつぐんだ。男はきょとんとしている。
「いや、あの、私、ICUの学生で、メジャーが生物で、その、ゼミの先生がこの前"アサガオの種子には幻覚作用がある"って言ってたのを思い出して、つい......」
 涼子は慌てて弁解しようとしたが、時既に遅し。男は空を見上げて黙り込んでしまった。目には涙を浮かべている。
 なにも泣くことはないじゃないか、と涼子は心の中で小さく反発する。すると男がぽつりとつぶやいた。
「...幻覚...だったのかもしれない...」
 境内と同じ蝉の声。身動きのとれない気まずい空気。沈黙の中、涼子は我慢出来なくなり、口を開いた。
「あ、あの!何か召し上がりませんか!え、園内に、その、あぁ、そう!おいしい喫茶店があるんですよ!」


 その男は佐藤康太と名乗った。福岡の商社マンだが、今は溜まりに溜まった有給を消化している最中なのだということだった。
「えっと、小林さんって呼んでいいのかな。すいませんね。何だか気を遣わせてしまって」
 まったくだ。何で女子大学生が社会人に気を遣わねばならんのだ。
「あー、それで、他に何か聞きたいことはありますか?」
「柏手」
 涼子はぶっきらぼうに言い放った。
「...怒ってます?...まぁいいや。あれはですね...あれは、そのー...恋人がよくやっていたんです。ありがたそうなものにはいつも。それで僕もやってみたくなって」
「...やって..."いた"...?」
「...ええ。本人はその...半年前に、病気で」
 しまった。重い話に首を突っ込んでしまった。康太がつとめて明るく振る舞うのがかえて痛ましい。
「彼女はこの辺りの出身でして。それで、何て言うのかな、彼女と同じ物を見聞きしたくて、感じたくて」
「それで柏手。じゃあアサガオは?」
「彼女、アサガオが好きだったんです。それと入院中に一度だけ"神代公園には私だけのアサガオがある"って言ったことがありまして。なんでも一番好きな種類の種をどこかに埋めたみたいなんです。でもこれだけ広い公園でしょう?探しても一体どれが真希のものかわからなくて...それで、せめて心の中だけでも...木々一杯につるをからませて、空に向かって咲き誇るアサガオ達を想い描こうと思って...」
 女々しい。が、こんなに一途な男性も今時珍しい。次第に小さくなっていく男を見ていると、涼子は更に尋問を続けたくなった。
「それで、幻覚かもしれないというのは」
「...何だか全てが嘘だったような気がしてしまって...。アサガオは見つからないし、門前の蕎麦を前にしても、そこに彼女の笑顔はありませんから」
 そう言いながら、康太は急にふふふと笑い出した。
「彼女、可笑しいんですよ。どこの蕎麦屋に連れて行っても、不服そうな顔をするんです。"深大寺の、それも門前の蕎麦しか認めない"って。それでも蕎麦は好きだから、もの凄い勢いで食べてしまうんです。でね、本当はおいしかったくせに"まぁまぁね"って言うんですよ」
 言い終えると、康太はふいに寂しげな表情になった。
「...一度、門前の蕎麦を前にした彼女を見てみたかった」
 気まずい沈黙リターンズ。重みが増さないように、慌てて涼子が口を開いた。
「い、いつまでこちらに?」
「...明日の夜の便で。だから昼過ぎには空港へ向かうつもりです」
 そう...ですか、と、涼子は俯きがちにつぶやいた。

翌朝、康太の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。着信・小林涼子。
「どうしたんですか、こんな早くに」
「今すぐ深大寺まで来て下さい!」
「何かあったんですか?」
「いいから早く」
 身支度もそこそこに深大寺へ向かうと、そこには涼子がいた。康太を急かすように手招きしている。
「早く!早く!」
 そう言うや、涼子は駆け出した。康太は言われるまま後ろをついてゆく。着いた場所は"神代植物公園・深大寺門"。
「見て」
 そう言いながら涼子が指差した先には、目の覚めるような、美しい青のアサガオが数輪咲いていた。
「私、思ったんです。折角アサガオを植えても公園が開く時間には花がしぼんじゃうって。でも、だとすると真希さんは、公園が開かなくても見られる場所にアサガオを植えたかもしれない。だったらきっと、公園の周囲のどこかだって。それで探したら、ここだけアサガオが咲いてたんです。だからきっと、これが真希さんのアサガオです。」
 涼子の言葉は途中から康太に届かなくなっていた。康太は膝をつき、両手ですくい上げるようにして花に手を添えた。朝露を涙が打つ。康太が涙声で、精一杯言葉を出す。
「...綺麗な青ですね...まるで...まるで夏空を写し取ったような」
「"ヘブンリー・ブルー"って言うんです。"天上の青"」
 涼子の言葉を聞いて、康太は泣き崩れてしまった。もう涼子の言葉は届かない。どんな言葉をかければいいのかも分からない。ただ、今は小さく見えるその背中を、涼子は強く抱きしめたくなった。

(了)
 
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<著者紹介>
豊田 耕志(神奈川県/25歳/男性)

 小学四年生の頃、初めて好きな人ができた。もっとも、恋焦がれるというものじゃなく、気になってしまうくらいだったような気もする。ただその日は今でもはっきり覚えている。
 四時間目に理科の実験があった。実験といっても机の上じゃなくて、公園で草木や虫を観察するというものだった。
 先生は列の先頭に立って笑顔で、しゅっぱあぁつと言った。それぞれの小さな手にはルーペか虫眼鏡が握られていた。空は晴れていた。雲一つなく、落ちてきそうなくらい青い。
「ねえ、昨日言ってたことって本当?」
 隣を歩いていたユウジが聞いてきた。コイツとは記憶がないからの付き合いだったから良く分かる。僕は聞こえないフリをした。なぜなら、前後の八個の耳がこっち向かってピンとたっているのを感じたから。
「ねえ 本当?」
 こうなったら、コイツは何百回でもこの質問を繰り返すに決まってるんだ。だから小さな声で、ウンと言った。本当に小さい声だったはずなのに、前を歩く二人と後ろを歩く二人が目を輝かせて近付いてきた。体が途端に熱くなる。僕はそれを夏のせいにした。
 僕ら六人でいつも一緒に下校していた。棒切れでチャンバラをしたり、追いかけっこをしたり、前の日のテレビの話をしたりした。きっとその延長だったんだ。昨日はなぜか『好きな人』の話になった。言いだしっぺはユウジ。オレも言うからみんなも言ってよ。何の取引なのかさっぱり分からなかったけれど、他の仲間はコレでもかというくらいに乗っていた。ユウジは恥ずかしそうに、オレの好きな人は、マリなんだよねと言った。で、二番目が― 。トップで選ばれたマリはクラスのマドンナ。頭が良くて、笑うと可愛らしいえくぼができた。
「オレも一番は同じ。三番は違うけどね。」
 いつの間にか、この話は進んでいた。そして、盛り上がっていた。他の仲間もユウジと似たり寄ったりの『好きな人』を発表して、マリのここがいい、あの子のそこは直した方がいいなどと、お節介な意見交換をしていた。ねえ、ケンタはどうなの? ユウジの目がキラキラしていた。怖いくらいに。その言葉を合図にみんながピタリと話すのをやめる。怖いくらいに。目を逸らして、逃げようとしたけれど、へんてこなフォーメーションで囲まれ壁際に追い詰められてしまった。どうせ、すぐに忘れちゃうだろうと思い、多分、柏木さんかなと呟いた。一瞬空気が止まる。みんながびっくりしていた。僕はもっとびっくりしてしまった。反射的に囲いを破って走り出す。言ったことをすごくすごく後悔した。
行列をそれないように歩きながら、ユウジはなぜかうれしそうに笑っていた。この顔は何かをたくらんでいるに決まってるんだ。そこから公園に着くまでは、どのへんが好きなの? どうして好きなの? いつから好きなの? 質問攻めだった。知らない、わからないとしか言えなかった。信号で、全体とまれの合図がかかったところで、柏木さんの後姿が目に飛び込んできた。こんな話をしているせいか、僕は少し栗色の長い髪を見つめてしまう。勿論、それがユウジの目に留まり、更に攻勢をヒートアップさせてしまったんだ。
 公園に着いた。木の葉っぱは太陽の光を集めて、つやつやしていた。セミの声が遠くから、近くから聞こえてくる。ただそれより間近で質問攻めは続いてた。僕がはっきりとしたことを言わないせいで、それは終わりそうな気配を見せなかった。探索開始の号令がかかっても、僕の周りの引っ付き虫は離れようとしない。マドンナ・マリは何人かの女友達と手をつないで、どこかを目指して歩いていった。どうしてみんなと同じマリじゃなくて、柏木さんなんだっけ。そういえば― 。一つだけ思い当たることがあった。
それは小学校に入ったばかりの頃だった。僕は文字通り、迷える子羊だった。たまにユウジと話すくらいで、後はぼんやりしてた。その日の昼休みも校庭の片隅にある砂場に座っていた。ぽこーんぽこーんと跳ねるボールの音を聞きながら、一輪だけ咲いていたたんぽぽを見ていた。気がつくと影が二つになっていた。振り向くと、ハイ、あげると言って彼女は唐突に何かを手渡してきた。そしてすぐにどこかへ走り去った。何も言えないまま、その後姿を眼だけで追いかけた。僕の手の平にはシロツメグサでできた小さな輪っかが乗っていた。こんなものと投げ捨てようとしたけれどできなかった。その頃からだった。柏木さんの後姿に目がいくようになったのは。
 草叢を団子になって僕らは歩いていた。ユウジはまだ食い下がってくる。ただ、その理由をうまく言葉にできそうになかった。だから、黙ったまま。時々、手に持った虫眼鏡を振り回す。けれど、ムキになればなるほど、コイツ等は満面の笑みを湛える。どうしたらいいんだろ。草の匂いの染み込んだ風が吹く。それさえ熱を冷ましてはくれない。
「やっぱり好きじゃない。」
「あれはウソだよ、ウソ。これでいい?」
 僕は噛み締めるようにそう言った。眩し過ぎて見上げられないくらいに太陽は光っていた。下を向くとコソコソ蟻が歩いている。目の前で仲間たちがどうしよっかと相談している。僕は、僕の胸の奥は、さっきまでの熱が一斉に集まって焦げるように痛む。
「じゃあ、証明してよ。」
代表者になったユウジが言った。他のみんながハトのようにバラバラに頷く。いいよ、そう答えていた。
 僕は柏木さんを探した。後ろにはコバンザメが五匹。僕はまだ名前すら呼んだことがなかった。席が近くになって、たまたま目が合っても逸らしてしまう。後姿を見つけると、泣きそうなくらい何かが乾いた。だから、だからこそ、変てこな噂を立てられる訳にはいかなかった。歩く。緑を踏む。見つけたいという気持ちと同じくらい、いないで欲しいと思う。体中が汗で濡れていた。やがて、何もかもと裏腹に切ない後姿を発見する。
「どうするの? どう証明するの?」
「いいから、だまってろ。」
 僕は彼女の方へ向かって歩き出す。彼女は友達と二人で小さな花を見ている。構わず近付いていく。目と目が合った。息を呑む。今度は逸らさないように。虫眼鏡を強く握って。
「あのさ、一緒に探さない?」
 柏木さんは困ったような瞳で僕を見る。そんな眼で見て欲しくなかった。お願い、と嘆願する素振りをして、目を閉じ、両手を合わせる。彼女はいいよと言った。僕の胸はドキドキしていた。耳はヒリヒリした。
「じゃあ、この辺でおもしろいものを見つけたら教えあいっこするのでいい?」
僕は頷く。ガチガチのロボットみたいに。彼女たちと少し距離が空くと、どういうつもり? どうするの? どう証明するの? 五匹のハイエナが寄ってくる。大丈夫だよ、任せとけとだけ答える。だれど、正直なところこの先は全く考えていなかった。断られるもんだと思っていたから、それで誤魔化してしまおうとしていたから。
 僕は焦っていた。それに追い討ちをかけるように、ユウジが彼女の方へ向かって歩き出す。他の四人もそっちへ流れていく。そして、小さな花を中心にして輪を作る。柏木さんとなにかを話し始める。笑い声が聞こえる。あんな風に笑うんだ。喉がカラカラに渇いていた。ユウジがこっちに来いよと目で合図を送ってくる。でも行けそうにないよ。悔しくて仕方なかったんだ。歓声が上がるたびに僕の想いは遠のいていく。でも、どうしようもなくて。だったら証明してやろうと思ったんだ。僕はゆっくりと歩き出した。
この前の理科は虫眼鏡を使った実験だった。ものをよく見るんじゃなくて、太陽の光を一点に集めて黒い紙を燃やすというものだった。すごく楽しかった。だから、紙だけじゃなくて、落ち葉や小石を焦がして回った。
 誰にも見つからないように近付いていく。光はたくさんある。後は集めるだけ。本当はこんなことしたくない。でもそうせずにはいられなかった。もし、昨日のことを話されたら嫌われちゃうかも。もしかしたら、初めからそうなのかも。だったら―。何度もやっていたから簡単だった。白い足に写った不細工な光をキレイな丸にする。ユウジが僕に気付き、なにやってんだと言うのと同時に、イタイという叫び声が聞こえた。
 目の前に仁王立ちした先生が手のひらで僕の頬を殴った。やっていいことといけないこと。お前なら分かるだろ、ジンジンしたけれど、胸の奥はもっと痛かった。
あの後、彼女は泣いて、仲間の一人が僕を突き飛ばした。体に力が入らず、そのまま地面に尻もちをつく。しょうがねえなと言ってくれる味方も、よくやったなと肩を叩いてくれるヤツもいなかった。僕だって泣きたかった。でも我慢して、我慢して、彼女のほうは見れなくて。逃げ出したい、そう思ったんだ。
 学校帰り、ユウジが一緒に帰ろうと誘ってくれたけど、今日はいいやと言って笑った。トボトボといつもとは逆の方へ向かって歩く。
 お寺は僕にとって夏のお店みたいなものだったから、お祭りで露店がやるときくらいしか行ったことがなかった。
 門を抜けると、樹の影がたくさんあるせいでひんやりとしていた。脇目も振らず、まっすぐお寺のほうへと進む。我が家の決まりが『男は人前で泣くな』だったけれど、もう我慢しなくていいよね。ヒックヒックとしながら、賽銭箱の上でがま口の財布を開く。チャリンチャリンと百円玉が落ちていく。胸がいっぱいになった。土砂降りみたいに涙が出てきた。ジャラジャラするのも忘れて、祈った。
 ゴメンナサイ、ゴメンナサイ。
 手と手を握り合わせて。何度も何度も。

(了)
 
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<著者紹介>
麻生 ケイ (東京都町田市/26歳/男性/アルバイト)

 この時間にこの場所に来るのは何年ぶりだろうか。かつては東参道の坂を下り歩いてきたものだが、いまでは足腰が弱ってしまいタクシーに乗って来ざるをえない。駅前から離れていても息子夫婦と暮らす吉祥寺では夜の静寂はかつて自分が味わってきたそれとは全く異なるが、木々に囲まれたこの場所にはあの日の静寂が残っている気がした。星の明かりが木々の闇に溶け込むような薄い影を地面に落とす。静かだ。山門前の蕎麦屋や茶屋も、日没と共に暖簾を片付けるのか、人影を見かけることはない。まるであの日と同じに思える。いま、一人であること以外は。
 
 思い出すのも億劫になるくらい昔のことだ。六十年、いやもう七十年と数えたほうが近い。戦争が始まる前、私はたびたび多喜子と共に夜の深大寺を訪れた。家と家で結婚をすると言われていた時代だ。私たちのような恋愛は珍しかったかもしれない。私たちはお互いの意志で将来を約束した。手を取り合い、唇を重ねるために、この暗く静かな場所に良く訪れた。手を繋ぐことさえ人目を憚る、そんな時代だった。
 やがて戦争が始まり、私は南方へと行くこととなった。戦地へ向かう前のあの夜、多喜子は青地花柄の浴衣を着ていた。長い髪を後ろで団子にまとめ、初夏の夜の星の下に浮かび上がる姿は涼しげで美しかった。並んで歩いた。山門を抜け、本道でお祈りをし、乾門を通り、坂を下る。その時間が失われることが歩みを止めることなく二人で歩き続けた。私は頭のどこかで死を予感していたのかもしれない。歩き続けていればこの時間は消えてなくなってしまわないと錯覚していた気がする。延命観音の前で多喜子が立ち止まった。ちょっと疲れてしまったと私に微笑みかけ、そして小さく囁いた。
「きっと大丈夫。またここに来ましょう」
そして多喜子は唇を私の唇に重ねた。何度も。約束を交わすように。
 
 多喜子のきっと大丈夫だという予感は当たり、戦争が終わり、私は生きて帰ってきた。しかし完全に死の予感から逃れられてはいなかった。生の喜びと、再開の期待を胸に帰国した私は多喜子の死を知らされた。空襲による死。命日は五月二十五日だったという。そういう理不尽な時代があったことを、いまでも認めたくないし、認めるつもりもないが、現実としてあの戦争の頃は死がありふれた時代だったのかもしれない。それでも私はひどく動揺した。悲しみや衝撃もあったが、次の一歩をどの方向に出せば良いかすら分からなくなっていた。私は自分の死はある意味では覚悟できていたのかもしれない。だが、多喜子の死はそうではなかった。
 
 その後の時代はこの国の中でも特別だったのではないかと思う。全てがめまぐるしく成長を続ける中で、その流れは踏み出すことさえ出来ない私をも未来へと運んでいった。とにかく生きるために働き始めた会社は、最初は小さかったが、やがてどんどん大きくなり、生活が安定すると親戚に薦められた見合いで妻と出会い、一緒になった。働く中で私は多喜子の記憶を封じ込めていった。思い出せば動けなくなる。しかし時代はそれを許してはくれない。日々は速い速度で進んだ。そんな中で私は妻と生活を築き、生きた。息子二人、娘二人も無事に育ち、今では六人の孫と二人のひ孫までいる。
妻のことは生涯大切にした。それが愛するということであれば、私は妻を愛し続けた。大きな喧嘩をすることもなく、周囲からは仲の良い夫婦だといわれた。その妻も半年前に他界した。多喜子のことは結局最後まで妻に話すことはなかった。
 
 あの後一度も深大寺に来たことがなかったわけではない。妻に誘われて訪れたときには近くにこんないいところがあったのか、と少し驚いて見せた。さほど演技をしたわけではない。私の中では夜のその場所、その風景こそが特別なものとして存在してはいたが、私はそれを心の中の直接触れることの出来ないガラス玉に閉じ込めていた。そしてそれを柔らかい場所に押し込めていた。壊れないように。しかし直視せずに済むように。
 辿るだけで夢をみるのと同じほどの長い歳月を経て、今晩、私は夜に再びこの場所を訪れた。五月二十五日。多喜子の命日。妻が他界してしまったことで、多喜子への想いが浮かび上がってきていた。それを自分に対し誤魔化すつもりはない。頭では、それは妻に対する裏切りなのかもしれないと考えた。しかしなぜか自責の念は全くなかった。私より十歳近く若かった妻の死が、私に自身の死の予感を再び持たせたのかもしれない。
 夕方にリビングのテレビの横のカレンダーが目に入った。日付が私の目から脳に入り記憶を刺激した。多喜子のことを思い出し、何十年ぶりに自然に一粒だけ涙が流れた。数年前から杖生活だ。ただ周りを見回して、私の歳で寝たきりや車椅子ではないことには感謝を感じる。いろいろ考えたが、どうしてもうまい説明が見付からずに、出掛けてくる、心配するな、とだけ書置きして家を出た。
 
 初夏ながらこの場所は相変わらず涼しい。旅館などもあり人が全くいないわけではないはずだが、風が笹を揺らす音にあらゆる気配は掻き消されてしまうように思う。あの日と同じように私は歩く。いまは一人、ひたすら歩くのだが、振り向けば何分も前の自分の残像がすぐ後ろに見える。歳をとるということはそういうことなのだろうか。いずれ自分も何かに追いつかれてしまうのだろう。そうなる前に、歩く。予感の中で何かを探すように歩く。
 やがて、いまでは急な坂を上り、少し左に入り、延命観音の前。風の音。息が荒い。同時に空気の冷たさを感じる。期待し、予感していたこと。地面に小さな白い花。そこから視線をあげていく。そして青地花柄の裾が見える。
「どうして」
 望み、しかし驚き、答えを望む。夢だとして、現だとして、その意味を望む。しかし声はない。杖を手放し、そして無理やりに背を伸ばす。強引に時間を取り戻す。あの頃の自分になるために力を入れて背を伸ばす。目の前には、あの日のままの多喜子がいた。寸分違わない。あの日のままだ。まだ声を発さない。若い姿のままの多喜子に話しかける。それが普通のことではないことは分かる。しかしそれを欲してやまない自分がいる。
「待っていたのか? わしは歳をとった。約束も守れんかった。別の女と一緒になり、子供も、孫もおる。おまえはわしを恨むだろう。わしの後悔はあの日おまえの心配をしてやれなかったこと。わしは自分の心配だけをしていた。おまえが死んでしまうことは考えてなかった。自分のことばかりを考えてしまった。そしてやっと、こんなに歳をとってここへ来た。さあ、好きにしてくれ。黄泉へでもどこへでも連れて行ってくれ」
 しかし多喜子は答えない。私の姿を何度も眺める。その声を待つ。
「多喜子。おまえは幻なのか? 幻でもいい。おれを連れて行ってほしい」
分からなくなる。多喜子。おまえは私の中の多喜子なのか。おまえそのものの多喜子なのか。
「多喜子。おまえはわしを恨んでいるだろう。多喜子、わしはここに来た。おまえに連れて行かれるために」
多喜子は最後に私の目を見つめた。そしてゆっくりと首を横に振った。
「約束は、二人でするもの。そしてそれぞれが想いを果たすもの。うれしい。ただ会いたかった」
 声が風に乗り耳へ届く。あの日のままの声が。そして眼差し。多喜子の目は微笑んでいた。夜の闇の中でもはっきりと多喜子の視線の色が私に届く。私は震える。溢れ出してくる。心の中のガラス玉が割れた。封じ込められていた、あの日の声が、色が、空気が溢れ出してきた。そしてそれは目の前の多喜子の姿と重なった。
「多喜子、おまえは」
 言葉が続かない。私は泣く。涙は流れない。それが悲しい。多喜子の手を取ろうとする。しかしそれは叶わない。
「ありがとう」
多喜子が微笑む。間違いなく、それは多喜子だ。そして霧散するように、目の前の多喜子は消えた。多喜子の気持ちだけが胸に残った。悲しくて、しかし涙すらまともに流れない自分が悔しかった。私は膝を付いたまま、涙なく泣いた。
 
 ゆっくりと坂を下る。どこか遠くから風呂桶が何かに当たる音と、子供がはしゃぐ声が聞こえる。家族で風呂に入っているのだろう。静寂はもうそこにはない。気が付けば夜にも関わらず、バス停にはバスが停まっている。茶屋も全部が閉まっているわけではなかった。犬を連れた孫と同じくらいの若者が、元気な声で「こんばんは」と言いながら私の側を駆け抜けていった。時間は動き出していた。私はその中を再び、今度は多喜子の想い出と、杖をついて歩き始める。

(了)
 
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<著者紹介>
伊勢 湊 (東京都稲城市/34歳/男性/会社員)

「失恋ですか?」
 頭上で声が聞こえ、私は半ば条件反射で顔を上げた。その反動で、片手で差していた傘の露先から水滴が落ち、鼻の頭を弾く。
 今日は朝から曇り空が続いていて、昼過ぎには天気予報で言われていた通り、雨も降り出した。折畳み傘を持参していたため、雨に打たれる事にこそならなかったものの、やはり外出、しかも遠出を決めた日に雨が降れば、良い気分とは言えない。
「......はい?」どう答えるべきかと逡巡した末、私の口をついて出た言葉には、微かに険が含まれていた。唐突に「失恋したのか」と問われて、面食らわない女性も少ないだろう。
 私の言葉に、声の主は驚いたような顔をした後、一拍置いて詫びるような口調で言った。
「違いましたか? すみません。こんな雨の日に、一人でじっと縁結びのお守りを睨んでらっしゃるから、てっきりそうなのかと」
 そう言って、苦笑に近い笑顔を私に向けて来たのは、私と同じように、授与所に並べられたお守りの前に立つ一人の青年だった。年の頃は、二十代の半ばといったところだろうか。半袖のシャツにジーパンというラフな格好で、片手は大きなスーツケースのドライブ部分を握っている。旅行客かもしれない。
 私は目に付いたストラップタイプのお守りを一つ、手に取ると、そのまま目線の高さまで持ち上げ、軽く揺すった。すると、金色の小さな鈴が、ちりんと控えめな音を立てる。
「そう、失恋したんです。私じゃなくて、私の友達が。すっかり塞ぎ込んじゃって」
 自分でも驚くほど暗く沈んだ声で、私は言った。友達が、と言ってしまったが、実際に失恋したのは友達なんかではなく、私だ。
 三年間も付き合っていたというのに、終わりは拍子抜けするほど呆気ないものだった。
 この場所――深大寺には、電車を数本乗り継いでやって来た。が、やって来たは良いものの、自分は一体ここで何をしているのだろう、と思う。縁結びで有名な場所だからと言って、別に彼とよりを戻したいなどと、未練がましい思いを抱いているわけでも無いのに。
 お守りを元の場所に戻すと、私は、今度は声に出して同じ言葉を口にする。
「終わっちゃうのって、呆気ないもんですね」
 青年は私の言葉に、僅かに眸を見開いたようだった。次いで、何故か深く息を吸い込むと、嘆息するように息を吐き出し、不安と諦めのない交ぜになったような笑顔を見せた。
「そうですね。どんなに頑張ったって、終わる時はすぱーんと終わっちゃうもんです」
「すぱーんと、ですか」その、どこかさっぱりとした表現が可笑しくて、私は思わず苦笑に近い笑みを口許に浮かべた。すぱんと、か。
 授与所に背を向け、本堂と向き合うように立ちながら、空を見上げる。そこには今の自分の心境を丁寧に反映したかのような、重く暗い、鈍色の雲が広がっていた。あの雲の上で太陽が輝いている、だなんて。出来の悪いジョークにしか思えない。
 私がそんな事を考えているとも知らず、青年は私と同じように空を見上げると、おもむろに口を開いて、呟くように、言った。
「僕、雨って嫌いじゃないんです」
 人懐こい人だな、と思いながら、私は適当な相槌を打った。多分、へえ、だとか、そうなんですか、だとか、当たり障りの無いものだったはずだ。意識して言ったというよりは、半ば無意識的に言葉を返した感じ、だった。
 そんな私に構わず、青年は言葉を続けた。
「少し先の未来にも、希望を持てるんですよ。もしかすると、五分後にも雨は止むかもしれない。ひょっとすると明日まで降り続けるかもしれない。でも、ずっと降り続けることはまず無いから。いつかは晴れるんですもんね」
「なんだか詩人さんみたいですね。雨が降るたんびに、そんなこと考えているんですか?」
 そんなつもりは無かったのだが、小馬鹿にするような口調になってしまった。取り繕おうと、慌てて再度口を開いたが、しかし青年が気にする素振りも見せずに笑顔を見せたため、口を閉ざす。つられてこっちまで笑顔になってしまいそうな、柔らかな笑顔だった。
「よく言われますよ。気取った表現だって。そんなつもりは無いつもりなんですが」
「そんなつもりは無いつもり」
 青年の言葉を歌うように反芻して、私はまた少し笑った。不思議だ。もう絶対に笑う事など無いとさえ思っていたのに、自分は今、こうして笑っている。彼と別れてからずっと針山のように刺々していた心が、青年と言葉を交わしているうちに、自然と穏やかになっていくようだった。――私は青年のスーツケースに視線を転じると、何の気無しに問うた。
「ご旅行、ですか?」
 すると、青年は困ったように微笑んだ後、暫くの間黙ったまま本堂を眺め、やがて私の問い掛けとは関係の無い事を口にした。
「僕は昔、この辺りに住んでいたんです」
 囁くような、静かな口調だった。このまま雨音に溶け込んでしまいそうな、感じの。
 私の返事を待つ事なく、青年はぽつり、ぽつりと、突いただけで壊れてしまう宝物にでも触れるかのように、言葉を紡ぎ出していく。
「絵を描くのが好きだったもので、学生の頃は休日になると必ず、ここに来ては様々な物をスケッチしていました。あの本堂は勿論、右側にある鐘楼に、それから元三大師堂の横にある池。五大尊池と言うのですけど、池を泳ぐ錦鯉が美しくて、どうしてもノートに収めたかったんですが、生き物ですからそう都合良く動きを止めてくれる事も無くて。結局はあまり上手く描く事が出来ませんでした」
 そう言って苦笑しているものの、その瞳にはどこか楽しげな光が宿っていた。思い出を懐かしむような、しかしどこか悲しげな眼差しだ。彼の視線の先には、スケッチブックを片手に深大寺を散策した、中学生の頃の自分が映っているのかもしれない。
 そんな彼を見ていた私は、ふと思い立ち、ひょっとしてと思いつつ、控えめに訊ねた。
「あの......もしかして、絵描きさんですか?」
「まだまだ、卵ですけどね」
 暗に肯定され、私は何故だか嬉しくなった。
 この人は昔から絵を描くのが好きで、きっと将来は絵描きになりたいと思っていたのだろう。それで、本当に夢を叶える事が出来たのだ。そう思うと無性に幸せな気分になれた。
 しかし、温かな気持ちで微笑む私に向かって、青年は、それはもう唐突に口を開いた。まるで今までの会話は全て前振りに過ぎないのだ、と言わんばかりの気迫、があった。
「......これから僕は、日本から遠く離れた国へ行って来ます。とても貧しい国で、子供たちは読み書きも出来なければ、絵を描いたり、見たりする機会も無い。そんな子たちに、絵を教えてあげたいと、僕は思うんです」
 そう言った彼は、恐らく不安だったのだろう。もしかすると、ずっと誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。自然とそう思った私は、だから黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「でも、その国は危険な国で――......地雷は当たり前のように埋まっているし、病原菌の蔓延している場所もある。正直、無事に帰国出来るかどうか、分かりません」
 それに、と青年は付け加えた。続きを口にする事を、躊躇っているかのようだった。
「僕には、僕を待っていてくれる人がいません。両親は早くに他界していますし、唯一の血縁である兄も、就職せずに絵ばかり描いている僕に愛想を尽かして、家族の縁を切られてしまいました。だから向こうで子供たちに絵を教えるという目的を達成した時、僕はどこかに帰る意味も理由も、無くなってしまう」
 諦めたような口調が、ひどく悲しかった。
 それでも青年は、話を聞いてもらえた事で少しは気が楽になったのか、幾らか申し訳なさそうな、どこか情けない様子で告げた。
「すみません、初対面のあなたに変な話をしてしまいました。誰かに聞いて欲しくてつい」
「でも、あなたは帰って来たいんでしょう?」
 青年の言葉を遮って、私は静かに訊ねた。
 彼はと言うと、どこか驚いたような、複雑な表情になった後、悩むような素振りを見せつつも緩慢に頷く。なら、答えはひとつだ。
「だったら、帰って来て下さい」自分でも驚くほど、その言葉はすんなりと飛び出していた。「とりあえず、日本では私があなたの帰りを待っていますから。帰国はいつですか?」
 いつの間にか、雨は止んでいた。
「二、三年後の予定ですが......」
「だったら三年後ですね。三年後の今日、ここに来て下さい。待ってます。あなたが行く国の子供たちと描いた絵を、見せて下さい」
 そう言って、私は笑った。笑えていた。
    *
 日傘を差しながら、私は深大寺の山門をくぐり抜けた。今日は天気も良く、観光客の数も多い。私は授与所の前までやって来ると、小さく息を吐いて傘を畳み、辺りを見渡した。
 三年と聞いた時は「長い」と感じたが、過ぎてしまえばあっという間だった。私は短かった髪を伸ばし、化粧の仕方も少し変えた。
 三年の間に私は少し変わったが、深大寺とその周辺は、当時と比べ少しも変わった様子が無い。そして私はその事を、嬉しく思った。
 もう一度辺りを見渡す。カメラを構えて、娘と思しき少女を撮る父親、仲良く手を繋いで歩く老夫婦、砂利を蹴散らしながら走る幼い子供達。その中で、私はたった一人を探す。
 やはり三年前の約束など、覚えていないのだろうか。それとも、帰りたくても帰れない状況とか。そう言えば相手の名前も聞いていなければ、自己紹介もしていない。段々と不安になり、私は俯いて暗い表情になる。
 すると、そのとき。
「失恋ですか?」
 すぐ側で、笑みを含んだ声が聞こえ、私は私は泣きそうになりながら顔を上げた。

(了)
 
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<著者紹介> 
(東京都港区/15歳/女性/学生)

恋をしていたのだ。
十八歳の夏。夏至も近づこうという季節。その頃ぼくは、夜が明けるのを合図に、歩くのを日課にしていた。薄暗いうちに家から人気のない道に出てしばらく行き、川を渡って、坂を下る。するとそこはぼくのお気に入りの場所、深大寺だ。早朝の薄く明けゆくやわらかな陽射しを受けて、たおやかに浮き上がる木々の緑。あたりは鳥のさえずりと小川の流れる音しかしない。ぼくはそんな静かで楚々とした空気の中を歩くのが好きだった。
その日も、ぼくは朝露に輝く草叢や、木漏れ日の下を歩いていた。深い緑を透かして溶け込むように射す光のもとで、風に揺れる枝の音や小川のせせらぎの音が心地よかった。と、その中にいつもと違う音がするのに気づいた。音ではない。音色だった、ゆっくりと繰り返し音程を変えながら繰り返される笛の音色。
朝方の深大寺で、曲の練習をしていることは、珍しくはない。しかし、それはなにかちがった感慨を与える音色だった。ひとことで言えば、曲の練習には聴こえなかったのだ。どちらかというと、流れるように変化しながらつづく、ひとつのフレーズのようだった。ぼくは、音色に惹きつけられ、それが聞こえるほうへと足を向けた。なぜなら、その音色はとても、美しかったから。
音色の主はすぐに見つかった。
一本の大きな樹に寄りかかるようにして、ひとりの女性がいた。彼女は両手で縦笛の穴を押さえて、一心に吹いていた。肩まで流れた髪にさえぎられて、顔はほとんど見えなかった。そのときの姿は、いつまでもぼくの心のすみに残ることになった。彼女の傍らには、苔むした石垣と清水が流れていて、そちらを向きながら、彼女は一心に笛を吹いていた。あたりには流れ出る清水の、鈴の音のような響きと、笛の音だけが聞こえた。ぼくと彼女以外誰もおらず、ふたりだけだった。
ぼくは、なぜかどぎまぎして、少し足早に彼女のわきをすり抜けて、歩を進めた。ぼくはそのとき、彼女のほうをちらっと見た。
笛の上を何度も試すように、ためらい、うごく、細く白い指先。ときとぎ当たる木漏れ日で、一瞬銀色に輝く髪。一陣の風が、その髪を少し揺らせたように見えた。このときの印象がぼくの胸に残った。ぼくは、家に帰りついてからも、ほんの一瞬見た彼女の姿をなんとなく思い出していた。
いや、ちがう。思い出さずにはいられなかったのだ。夜になり、シーツにくるまっているとき、心の中で何度も立ち現れる彼女の姿は、朝見たときよりも一層、はっきりと焦点を結んでみえるようだった。それまでぼくは、こんな感じで人のことを思い出すことは、一度もなかった。
 翌朝、ぼくはいつもより早く起きて、深大寺まで向かった。なにかにせきたてられるように。早足で。
笛の音はしなかった。最初ぼくは、彼女はいないのだと思った。しかしそうではなかった。彼女は昨日とおなじ樹の下に佇んでいた。笛を持っていたが、奏でてはいなかったのだ。ぼくは彼女がいないと思って歩き続け、不意に彼女の前に来てしまい、正面から彼女を向き合ってしまった。ちょっとどぎまぎしていると、彼女は、ぼくを見て、小さく会釈した。ぼくも軽く頭を下げると、「きのうもお会いしましたね」と彼女は言った。そのとき、ぼくが不思議そうな、顔つきをしていたからだろう、彼女は小さな声で、自分が何をしているのか話してくれた。
「わたしね、ここの木と緑、清水と小川の声を聴きに来ているの。木とか小川の声を聴くのには、朝、とっても早くがいちばんなの」彼女は分かるでしょといった顔つきをした。「ここに来たら、目をつぶってね、深呼吸して息を整えるの。朝の空気って澄んでいてきもちいいでしょ。それを静かに吸って、ゆっくりはきだす。それから耳を澄ます」と、彼女はあたりの木々を見渡し「そうすると声がね、声がいっそう良く聴こえてくるのよ」
「どんな声です?」
「ひとことでは言えないけれど、近くの、この水のしずくが落ちる音とか、遠くの風が枝を通りすぎる音とか、いろんな音が聞こえてくるでしょ。音は音色。音色の奥に声を持っているの」と、彼女は手を伸ばし、石垣からつたい落ちる清水に触れた。
「ささやき声や喜びに満ちた声。それが聴こえてくるまで、ここでじっとして、待っているの」
「それからどうするんですか」
「それを写し取るのよ」
「うつしとる?」
「そう、この笛を使ってね」と彼女は一息ついて「でも今日はあなたが来た」
ぼくはちょっと恥ずかしくなり、あたりの景色を見た。鳥のさえずりが大きくなったように感じた。
「ううん、気にすることはないわ。もし聞きたければ、そのあたりにすわって」
言われるままにぼくは石の上にすわって、彼女の様子を見ていた。しばらくすると彼女は、縦笛を口にあて、ひとつの音色を奏ではじめた。静かで控えめな音。その音色は、朝日に照らされはじめた木々の間を抜けて、森の中へと吸い込まれていった。それから少しずつ音程を変え、いくつかに区切られた音を、丁寧に重ねるように吹いた。そんなことを何度か繰り返していくうち、笛の音色は、流れのあるひとつのまとまりになってきた。
 たぶんそれは正確に言うと音楽ではなかったのだろう。少なくとも、ぼくがいままで聞いたことのないものだった。しかしそれは美しかった。高くなったり低くなったりしながら、樹の間を流れていく音色は、周囲の木々と緑に問いかけているようだった。ぼくは、彼女のおもいが伝わってくるのを感じた。朝の空気の中で、彼女はあたりの木々と話しているようだった。
しばらくして、その独特な演奏が終わると、「また明日も来ればこの続きを吹くわ」といって、彼女は去っていった。ぼくは、そこにひとり取り残され、佇んでいた。
翌朝から彼女の演奏を聴きに行くのがぼくの日課になった。彼女ははじめ笛だけを持ってやって来たけれど、あるときから一冊のノートを持ってくるようになった。そのノートは五線譜のノートで、彼女はそれを広げ、片手で笛を拭きながら、思案し、メロディを書きとっていた。ノートにはさまざまな音符が記されていった。書き込まれた音符をすべて消すと、また書き直したり、重ね書きしたりするのだった。五線譜は、たちまち音符でいっぱいになった。
ぼくは、そんな彼女の姿を、傍らにいて、ずっと見ていた。鉛筆を片手にして、ページをめくる彼女。今でもぼくは、そのときの彼女のしぐさ、瞳の動き、口元、そして髪の毛の一本一本まで、つぶさに覚えている。その夏、彼女の姿と、あたりの木々や石垣、なにもかもが忘れられない景色となって、ぼくの心の中に焼きつき、同時に、彼女に対するぼくの気持ちも、大きなしゃぼん玉のように膨れ上がっていった。
彼女とぼくは、夏のあいだ、そんなふうにふたりの時間を共有していた。ぼくらのまわりでは季節が移り、せみの鳴き声も変わっていった。しかしぼくは彼女の住所や名前を聞くこともなかったし、彼女もぼくについて質問してきたことはなかった。興味がなかったわけではない。ただ、聞かなかった。彼女にはそんなことなどどうでもいい、とでもいうような、不思議な力があった。だからある日、彼女が来なくなってしまったとき、ぼくには彼女の消息を調べるすべがなかった。今にして思えば、ぼくはその日が来るのを、怖れをもって予期していたのかもしれない。
 それは突然だった。
 二週間ほど経った朝、いつものようにぼくは、樹のところに行ってみると、そこに彼女の姿はなかった。樹も景色もいつもどおりだったけれど、彼女だけが欠けていた。ぼくは、しばらくあたりを見渡したけれど、柔らかな陽に照らされた草花以外何も動くものはなかった。
 しかしいつも彼女がいた樹の下に、白いノートが置いてあるのに気づいた。ノートの上には、飛ばされないようにというのだろう、石が載せてあった。
 彼女は来ていたのだ。
 ぼくは石をどけ、ノートを慎重に取り上げた。いつも彼女が持っていたノート。ページを広げると、何週間ものあいだに書き付けられた音符が散りばめられていた。何ページも続くものもあれば、数小節分の、断片のものや、走り書きでなにが書かれているのか、判別できないものもあった。
 そして最後のページには、丁寧な字で、文章がつづられていた。
「あなたにこれをあげます。ここで、わたしが聴いた、この森の言葉たちです。それは、わたしと一緒にあなたも聴いたのです。残念ながらそれはまだ未完成。でも、ここでわたしが聴きとった音楽は、この夏、一度かぎりのものです。この楽譜のなかには、鳥の、樹の、小川のささやき、が記されています。そのなかには、あなたの存在もはいっているのです。ずっとそばにいてくれた、あなたの」
 ぼくは、ノートを閉じて、しばらく立ちつくしていた。不思議と哀しくはなかった。ノートを抱えて、ぼくは彼女のことを想った。縦笛を吹く姿や、その音色。微笑んだり、考えごとをする彼女の横顔が、浮かんでは消えた。それはみんなまぼろしのようだった。
 夏の陽射しが、強くなったように感じた。それにつれて鳥のさえずりも大きくなって、まるで話しているかのように聴こえた。ぼくにはそれら、夏の朝のさまざまな音ひとつひとつが、音色になって聴こえたように感じた。いや、まさに、聴こえていたのだ。この楽譜のなかにある彼女の音楽は、この自然の、すべての音からつむぎだされたものなのだから。
 ぼくはノートを、彼女の音楽を、胸にあてて耳を澄ましていた。耳元を撫でるように一陣の風が吹いて、木立の葉を揺らし、さざめかせていた。ぼくはうれしさとも、哀しさともわからない、涙をためていた。それからノートの何も書かれていない最後の一枚を破り、折りたたんで近くの枝に結びつけた。その五線譜は風にたなびいて、ぼくに音楽を奏でているようだった。

(了)
 
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<著者紹介>
ハヤミ ケイ (東京都狛江市/46歳/男性/自営業)

「バス・ストップ」というイギリスの古いバンドの曲があり、僕はこの曲を今朝も、バスに乗りながら聴いている。そして僕の視線の先には常に彼女がいる。
僕が彼女を知ったのは、深大寺植物公園前のバス停の列で、今年の春の、ある雨の朝、先頭に並んで一心に文庫本を読んでいる姿を見た途端、僕は彼女に恋をしていた。
僕が聴いているこの曲は、男の子が女の子に、雨の日に傘を差し出して、恋が始まるという内容で、僕の場合はそう巧くはいかなかった。だけど僕は彼女に恋をしてしまった。
僕はバス停に、高めのフェンスに囲まれた植物園を横目に見ながら、かなり歩いていく。
二歳下の妹はバス停まで行くのが面倒臭くないかと聞く、本人は自転車通学だからだ。
僕は彼女と会えるのと、四季折々に姿を変えるこの道が好きで、苦に思ったことはない。
彼女を初めて見た時は、桜が咲いていて、道路脇を両列並んでいるのを楽しみ、梅雨の時は、まるで夜の暗い原生林の様な植物公園の横を歩き、明けて夏が訪れると、光り輝く様な木々の緑の眩しさに目を細めて歩いた。
夏休みが終わり、残暑も過ぎた頃は紅葉が風に吹かれ落ち葉は舞い踊り、木々の葉が大部分落ち、すっかり寂しくなると冬を迎えた。
その間、僕は季節と共に彼女の変化を楽しんだ。梅雨の前には衣替えで、暗い色調の制服から、目の冷める白いシャツと空色のスカートの彼女に見蕩れ、そして再び冬服に着替え、寒さが増すと、冬服のセーラー服の上に、同色のコートを着て、可愛らしいマフラーに、白い顔をうずめている彼女を見る事ができた。
季節の移り変わりは、彼女の服装だけでなく、彼女自身も変化させた。
梅雨の鬱陶しさが去り、暑さが本格的になると、彼女は背中の真中辺りまでの長かった髪を、肩の辺りまで切り揃えた。
それは初夏が、彼女の新しい髪形と共にやってきたような印象を僕に与えた。
僕は吃驚したが、それはとても好ましく思えた。実際、見蕩れてしまったほどだった。
その髪を切った日、僕は彼女と初めて目を合わせた。普段なら込んでいて座れない座席に彼女は座れていて、後から乗って来た僕を、上目遣いに見ていた。
彼女の手は切り揃えた髪を、所存なさそうに触りながら、僕の事を密やかに、しかし、しっかりと見上げてきたのだ。
まるで自分の新しい髪型はどうか?と、問うて来ているように感じられ、心の中で『似合ってる。本当にすごくいいよ』と意気地のない僕は口に出せずに何度も繰り返した。
ただ伝わるかどうか解らないけれど、肯定の意思を込めて微かに微笑んで見せた。
僕の意を汲んでくれたのか、彼女は頬を赤くし、小さく頷きながら、窓の外へ目をやり、もう一つ小さく頷いた。
秋を越す頃、再び彼女は髪を伸ばし始め、束ね方による髪型の変化は僕を楽しませた。
しかし僕は彼女の事を殆ど知らなかった。
名前などは論外、解っているのは、バスを降りた調布駅で下り電車に乗る事と、その制服から割り出した、中学生である事、そしてチラと覗き込んだときに確認した、胸元のバッジで三年生であるという事だけだった。
僕は高校三年なので歳の差は三つ。
僕は付属高校に通って、成績もそこそこだったので進学は決まっていたが、彼女は今、受験勉強に励んでいるのだろう。
そう考えると、彼女に対して『がんばれ』と、これも声にならない声で応援した。
そしてある冬の朝、彼女はバス停に居なかった。受験の為に時間帯が変わったのだろう。
僕は次の春にまた、彼女に会えるのだろうかと思いながら、バスに乗り続けた。
僕にとっては長い冬が終わり、桜の開花と共に春が訪れた。
そしてまた、彼女に出会うことができた。
同じように列の先頭で、薄茶色のブレザーの上着とチェック柄のスカートを身に着け、文庫本に目を落として、バスを待っていた。
僕は大学に無事進学し、野暮ったい学生服から私服に着替えて、新しい生活を迎えていた。それにその日は、彼女に会える希望を胸に、自分なりに精一杯のお洒落をしていた。
これまではなかったことだけど、彼女の視線が文庫本から離れて宙を泳いだ。そしてその視線は、眩しそうに彼女を見つめる僕のそれと、一瞬絡み合った。
僕は目が良い方で、彼女の目に安堵の色が浮かんだのを見て、それが僕を見た時だという事を確信した。
同時に都合のいいように考えるのは、恋している人間が良く陥る罠だと自省もしたけれど。
視線を外した彼女から、僕は目を離せなかった。久し振りに見られた事と、先程の意味ありげな視線、何より彼女の淡い桜色に塗られた唇に、目を奪われたのだ。
次の朝、僕は少し早目に家を出た。自分の心が抑えられなくなってしまったからだ。
今日こそは、列の先頭の彼女に近づいて、何か一言でも話しかけるつもりだった。
しかし予想外の出来事が起こった。僕がこれなら先頭の彼女の次に並べると思って、バス停に向かっているとき、彼女もまたバス停に向かっているのが見えたのだ。
バス停にはもう人が二人並んでいて、僕らは鉢合う様に丁度その後に並ぶことになった。
僕の横に彼女がいる。桜色の唇で大人びた彼女が横に立っている。
それだけでもう、心臓は破裂しそうだった。でもどうして、遅れたことのない彼女が今日に限って......妄想かもしれない、馬鹿馬鹿しいと笑われるかもしれない、でも僕は彼女が意図的に遅れてきたのではと考えてしまった。理由は僕と同じ、僕の近くで並ぶために......。
その日は何もできなかった。顔を俯けて僕と同時にバスに乗り込む彼女、僕は何か話掛けたかったけど、何も言えずにバスを降りた。
次の日こそが正念場と、僕は前夜から意気込んで、バス停に向かった。
僕は馬鹿だった。
バス停では、彼女と同じ制服を着た少年が、並んで楽しげに話し合っていた。
遠くからそれを確認した僕は、足を遅め、いつものように最後列に並んだ。
駅に着くと二人は、並んで改札を通っていき、僕はその場に取り残された。
桜色の唇は、僕ではなくアイツの為......。
僕は駅を後にして歩き始めた。当ては特になく、甲州街道を過ぎた辺りで、自分が深大寺の方へと向かっていることに気が付いた。
僕はそのまま歩き続け、深大寺の境内まで来て、今朝の光景を見るまでは普段は賑わうこの辺りの店を、彼女と歩くことまで考えてたことを思い出し、益々足取りが重くなった。
そして深大寺の中の、色々な所を登ったり降りたり、暫く彷徨った後、側に隣接する小さな青渭神社に来ると、賽銭箱の前に座って、目の前を通り過ぎる車を見ながら、涙ぐんでいるのに気づいて、目を拭って家に向かった。
次の日も学校を休み、その後は調布駅まで自転車で通い、バスとは縁を切った。
ある夜、妹が「今から料理道具を譲って貰いに行く、遅いから付き合え」と言ってきた。
妹は菓子造りが趣味で、通っている教室の先生から、教室が終わった後、古い道具を譲って貰えるというので、時間柄、護衛兼、荷物持ちとして同行させられるらしかった。
妹は足取り軽く進んでいくのだが、その先は植物園の方だったので、僕は苦い記憶を思い出し、対照的に重い足取りでついていった。
散り送れた桜が舞う中、僕の気も知らず、妹は植物園のバスターミナルに向かっていく。
去年一年間の様々な記憶が甦り、僕は耐えきれず、真剣に妹を残して帰ろうとした時、あのバス停に人が立っているのに気が付いた。
僕は目を見張った。そんなことは有得ない、どんな偶然が働こうと。しかし、現実に実際、彼女があのバス停で、夜桜の花弁の風に巻かれて、こちらを向いて立っている。その彼女に妹が駆け寄っていった。
そして僕を手招きすると妹は、彼女とは大分前に料理教室で知り合った事、最近、元気がないので相談に乗ると、これまで何度か聞いていた、好きになった相手が、自分を避ける様に、姿を見せなくなった事、もしかすると高校でしつこく迫ってくる上級生と、一緒に居る所を見たからではないかと悩んでいるという事を、彼女は語ったのだという。
彼女の小さな胸を痛めさせている、相手の事を詳しく聞いていく内に、妹は状況と相手の容貌から、我が兄ではないかと疑念を抱き、写真を見せて面通しし、確認を取った後、さてどうしたものかと頭を捻ったそうだ。
僕はしっかり、妹の言葉を聞きながらも、視線は彼女から外す事が出来なかった。
料理道具云々は方便で、僕と彼女を引き合わす口実だったのだ。
僕は呆然としながらも、一つだけしなければならないことは、はっきりと解っていた。
あの曲の男の子は雨の中、傘を差し出し女の子を恋人にした。今日は雨が降っていないし、僕は傘を持っていない。
だけど彼女に傘を差し出す時が来た。
「こ、ここの植物園、小さい頃来たきりで、最近は来てないんだ。今度一緒にどうかな?」
我ながら心もとなく情けない傘だなぁと思いながらも、彼女の返事を待った。
「私も引っ越してきてから、まだ一度も......お願いできますか?」
彼女は僕の差し出した、見えない傘の中に入ってきてくれた。
僕は去年の春に恋に落ちて、今年の春に恋を手に入れた。
最後の桜が、僕らの間を風に吹かれて舞い上がっていった。

(了)
 
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<著者紹介>
福本 驚 (東京都調布市/33歳/男性/会社員)

 高校三年の夏休みは、プールの監視員のバイトで素敵な恋を見つける予定だった。水泳部で鍛えた腹筋は、この時のために部活を引退後も維持していたのに。
 バイトの説明会の日にお腹を壊すなんて最悪だ。昨日、妹と争って食べたスイカが悪かったのか、パンツ一枚でクーラーをガンガンにつけたまま寝たのが原因なのかは分からないけど、スニーカーを履くとお腹がキューキューと音を立てて、僕を玄関から出すことを阻止した。
 そうして、僕の夏休みは近所にある深大寺の参道にある土産物屋で山盛りした氷の上に、イチゴのシロップを掛けることになった。
 真夏の境内で、お年寄りを相手に金時のつぶ餡を氷にのせるバイトも案外いい事がある。きっと、深大寺の縁結びの神様が、あの日僕のお腹に入って暴れたんだろう。
 バイト先の土産物屋のおばちゃんは、今年の猛暑にすっかり体調を崩し大学生の娘さんが店を手伝うことになった。
 僕よりも二歳年上のお姉さんが、短いデニムのパンツにチョコレートブラウンのタンクトップで僕の前をウロウロする度に揺れる胸元に、僕の視線は釘付けだ。もちろん、チラ見だけど。
 僕はダラダラと続く深大寺までの坂道を、立ち漕ぎでママチャリを走らせる。額に当たる風は木々に冷やされて街の中よりも涼しい気がする。
道端には僕の知らない花々が咲いているが、そんなものには目もくれず、僕はバイト先にまっしぐらだ。
「憲ちゃん、今日も暑いからカキ氷が売れそうね」
 店先にホースで水を撒いていた祥花《しょうか》さんは、憲一郎という名前の僕のことを憲ちゃんと呼んでくれるが、百八十を越える身長に水泳で鍛えた身体と、濃いめの体毛をもつ僕としては、ちょっと照れ臭い。
 朝から雷雨の予報があった夕方に、山の方で出来た黒い雲が深大寺の上に大粒の雨と雷を連れてきた。
「憲ちゃん、早く店先に出した物を仕舞って」
 ビーチサンダルを履いた祥花さんと僕は、慌てて店の中に土産物を入れて、古くなった入口の引き戸を閉めたけど、横殴りの雨は容赦なく店の床を濡らした。
僕が古いタオルを引き戸の桟に挟んで侵入を防いでいると、雨に濡れた髪を後ろでひとつに束ねた祥花さんの顔が目の前にあってビックリした。
 もっと、ビックリしたことは雷の音に驚いた祥花さんが僕に抱きついてきたこと。
 夕立に濡れた二人の身体は、雨の雫と汗でベタベタしてたけど離れたいなんて思わなかった。雷が鳴るたびに強くしがみつく祥花さんに、調子に乗った僕は自分の唇を顔の前に持っていってみた。
 すると祥花さんの大きな瞳が、驚いたようにパチクリとなったけど僕の唇から逸らさずに閉じた。僕だってキスぐらいはしたことがあったから、鼻で浅く呼吸をしてから唇を重ねた。
 深大寺の境内から雲がなくなり、また憎らしい太陽が参道を照らすまで、祥花さんは僕の胸に顔を埋めた。ときどき、グシュン、グシュンと鼻を鳴らすのは風邪をひいたからじゃないのは、後になって分かったことだけど。
 翌日から僕のママチャリを漕ぐ速度は、さらに加速されたけど期待するような展開が無いままに夏休みも残り一週間になってしまった。
「あの人を知ってますか?」
 朝から店の前を行ったり来たりする男性が気になって祥花さんに尋ねると、
「変質者ではないから、無視していいわよ」
と、どうやら知り合いのようだ。
 真夏にネクタイをして、時折ハンカチで汗を拭きながら店に入りそうで入らない三十代の男性は、変態じゃないかもしれないけど不審者だ。
僕と目が会うと照れ臭そうに下を向いたり、小さな笑顔を向ける男性に、話しかけようと思ったけど、祥花さんの冷たい視線がそれを許してはくれなかった。
「イチゴミルクに餡子を乗せてよ」
 部活の帰りにカキ氷をたかりに来たのは、中学二年になった妹の空《そら》だ。
 空は山盛りの氷にたっぷりのシロップをかけた上に、もう一度、氷をのせてつぶ餡をトッピングした特製メガかき氷を食べてもお腹を壊さないのだから、同じ兄弟でも胃腸の強さは違うらしい。
 空がメガかき氷を食べ終わると、きょうも予報どおり山から雷雲が流れてきた。この前のように稲光はないけど、参道に落ちる雨は元気にダンスを踊っている。
 僕と空が引き戸を閉めて外の様子を窺うと、びしょ濡れのまま大きな木の下でガタガタと身体を震わせた男性が立っていた。
「中に入れてあげなくていいの」
 空の言葉に僕が祥花さんのほうを見ると、唇をきつく結んだ横顔で何も言わなかった。
「風邪ひいちゃうよ」
 祥花さんのただならぬ雰囲気に、図々しさが売りの空も恐る恐る言って僕の後ろに隠れた。
「いいのよ。彼が悪いんだから」
 屋根を叩く雨の音は、一層激しくなり電気が消えた。
「あの人は、私の大学の講師なの」
 真っ暗になった店の中で、祥花さんは溜息をつきながら話を始めた。
 熱心に質問にくる祥花さんを好きになった男性と、もともと男性のことが好きだった祥花さんは、映画を見たり食事をしたりと健全にデートを楽しんだ。
 でも、大学の講師と女子学生の恋は、ふたりの想いとは関係なく面白可笑しく噂となって広がり、そのことを気にした男性は祥花さんに別れを告げた。
「『恋人より出世が大切な男が、今更何しに来た』って感じですね」
 話を聞いた空は、震えながら外に立つ男性に唾でも吐き掛けそうな勢いで怒っている。
「そういうこと、私には憲ちゃんがいるからね」
 暗闇の中で、僕の肩に顔を乗せてた祥花さんの顔が濡れていたのは、雨の雫だけじゃなかった。頬を伝って落ちる暖かい雫の源泉を辿ると、きつく瞑った黒い目なのを僕は知っていた。
僕とキスをした時に鳴らしていた鼻も同じように、苦しい思いが溢れ出てきたのだということも。
「お兄ちゃんでいいの?」
祥花さんの言葉を真に受けた空が、思いっきりソプラノで聞き返した。
「お兄ちゃん、良かったね。恋人も出来ないまま十八歳の夏が終わるのかと思うと、不憫でならなかったんだよ」
妹よ。ありがとう。
 翌日から、不審な男性は見かけなくなり、不憫な僕は残り三日間で告白をしないと空に馬鹿にされる羽目になった。
「お兄ちゃんは、間抜けで気が効かないタイプだけど、背も高いし見ようによってはカッコイイんだから、頑張って告白して男らしいところを見せてよね」
 麦茶の二リットルペットボトルをラッパ飲みする、空は僕よりも男らしい。
 今日の予報も夕方から雷雨だ。今日を逃しては、次の夕立までチャンスは来ない気がしていた僕は、午後から山のほうばかり見ていた。すると、不審な男性が汗を拭きながら歩いて来て店の前を通過した。
 そして、また何か言いたそうにしながら通過した。
 黒い雲の塊は、予報どおり深大寺の上に来て森の中に漂っていた熱気を水煙で包んだ。
「本当に風邪ひいちゃうじゃんね」
 閉めた店の引き戸から、見える男性のスーツの袖口からは雨が滴り落ちていた。
僕は、『祥花さんが好きです』という代わりに、
「あの人のことが好きなんですか」
という言葉が口から出ていた。
「卒業まで待っていて欲しいって言ってくれれば良かったのよ」
僕は祥花さんの大粒の夕立に、たまらず外に飛び出した。
僕は靴の中までビショビショにした男性の背中を押して木の下から追い出し、代わりに僕が夕立が通り過ぎるまで、この木に厄介になることにした。
男性が僕の教えたとおり
『僕を待っていて欲しい』
と言えたのかを心配しながら。

(了)
 
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<著者紹介>
ハル(東京都杉並区/男性/会社員)

 その晩、電話越しで私たちは喧嘩した。
 遠距離恋愛から、ようやく側に暮らせるようになって、もう何度目になるか知れない喧嘩だ。
 喧嘩の理由は、些細なこと。
 私の機嫌が悪いから、いちいち口煩い、自分の非を認めない...私の言葉が、あの人に迷惑をかけているらしい。
 彼は進学の為、地方から東京に越してきた。不慣れな土地では心細かろうと、マメに毎週通っていたのがよくなかったのだろう...彼は夏休みに入って、その日のうちに里帰りした。
 何気なく帰りの日程を聞くと、7月の半ばから、9月頭まで丸々いないという。大学が始まるぎりぎりまで休むつもりなのだろう。
 側にいられなかった分だけ、これからは出来る限り一緒に......思っていたのは、私だけらしい。8月生まれの私と、夏休みにいられないということは、今の彼氏彼女の関係は、偽りではないかという錯覚に見舞われる。
「別れちゃいなよ」
 のろけすらこぼしたことのない私が心の声をふと漏らすと、友人たちにそう口にされる。私自身はそれを望んでいない...そう思うのだが、彼の気持ちはどうなのだろうか。
 聞けば、好きだよ、と決まり文句が帰ってくる。喧嘩中は、答えたくない、と言われる。
 ではなぜ、一緒に誕生日を祝ってくれないのだろうか。夏休みだからって、どうして丸々実家に帰らねばならないのか。

 今日幾度目になるかわからないため息をついていた。
「お客さん、どうかしたんですか?」
 深大寺の蕎麦屋のお兄さんが声をかけてくる。苦笑しながら、私は「なんでもない」と答えて、できる限り平気な顔をしてお茶をすすった。
「さては、恋の悩みで来たんですね~?」
 常連客だと知っているだろうに、そのお兄さんは笑顔を浮かべていた。
「たまたま近所だから、ここに食べに来てるだけよ」
「そうそう、どうせ近所なんですから、深大寺にお参りして、その恋を成就させちゃってみては?深大寺は、縁結びのご利益があるんですよ~」

 恋なら、実っている。......と思う。

 言葉を飲み込んで、何とか笑顔を浮かべる。
「そんなに御利益在るんなら、お兄さんと縁を結んでほしいって言ったら、できるのかしら?」
「勿論、できますよ」
 お兄さんは、屈託のない笑みを浮かべると、そそくさと奥に引っ込んで、「オレ、ちょっと休憩もらいますね~」といって、腰に巻いていたエプロンを取って出てきた。
「じゃ、行きましょうか?」
「え、どこに?」
 差し出された手を見て目を丸くしていると、お兄さんは私の手を無理やりとった。

 深大寺は何度か訪れたことがあったけれど、男性と見て回ったのは初めてだ。彼と回ったことすらない。長い付き合いなのに、なぜだろう。そんなことを考えているうちに、賽銭箱の前に立っていた。
「ほら、お祈りして下さい。五円玉と、あと二十円、かな。二重のご縁、ですよ」
 言われるがままにお賽銭を投げて、手を合わせる。

 自分は、誰との縁を結んでもらいたいのだろうか。

 目を閉じたままのため息は、お兄さんにも聞こえたらしい。肩に、大きな手が置かれた。
「自分の気持ちを誤魔化すから、ちゃんとしたお願いが出てこないんですよ」
 目を開けると、お兄さんの顔がこちらを向いていた。私は視線をあわせることができなかった。
「ねぇ、お客さん...彼氏と喧嘩でもしたんですか?」
「喧嘩なら、短い期間に結構な回数したわ」
 合わせていた手を離して、来た道を戻り始めた。
「尽くしすぎていたのかもしれないし、干渉しすぎていたのかもしれない...気がつけば、喧嘩ばかりして、些細なことが積み重なって、私、うまく笑えなくなったの」
 近くに置かれていたベンチに腰掛けると、お兄さんもそれに習って腰掛けた。私は顔を前に向けたまま、独り言のように呟いていた。
「うまく笑えないのが、辛いですか?」
「でも、彼と面白いテレビを見たり、どこかへ出かけるのは面白かったから、全く笑えなくなったわけじゃないのよ。ただ......」
「ただ?」
「遠距離から始まった恋愛が、側にいられるようになると、周りの言葉ばっかり気になって、自分の気持ちがわからなくなったの。彼の言動一つ一つが、私を利用しているんじゃないか、私が嫌いにならないって確信があるから、ぞんざいに扱われているんじゃないかって」
「本当に、そう思ったんですか?」
「わからないの」
 両手で顔を覆うと、涙を堪えるために歯を食いしばった。どう言葉にしたらいいのか、分からなかった。本当に私は彼のことを今でも好きなのだろうか。それとも、もう心は離れていて、ある種の責任感のようなもので彼と付き合っているのか。私は、声を何とか絞り出した。
「付き合った男性は何人かいたけれど、こんなに長く付き合って、深く付き合ったのも、彼だけだから...彼もそれを知っているから、彼の中にも、責任を感じている部分があるんじゃないかって、疑うようになって...」
「ずっと昔にね、好きになった人がいたんですよ」
 お兄さんは、初めて笑顔の時とは違う声を漏らした。
「その人は遠くはなれた所に住んでいたけれど、オレのこと好きでいてくれたから、ずっと手紙や電話でやり取りしてたんですよ。余裕が出来たら、逢いに行ったりもしてました。といっても、年に数えるほどですが。ある時、彼女が近くに越してきて、オレ一生懸命彼女のために時間空けて、彼女との時間を作ってました。なのに...彼女はある日、オレと別れるって言い出したんですよ」
 お兄さんは、遠くを見つめたままゆっくりと話していた。
「何で?」
「今のお客さんと全く同じ事いわれました」
 驚いた私は、目を丸くしてお兄さんの横顔を見つめた。お兄さんは、こちらを向いて、少し寂しそうに笑った。
「きっと、遠くにいる間はお互い時間のある時にしか逢わなかったんですよ。それが、側にいるからって、お互い無理しちゃったんだろうなぁ、って。そう思ったら、なんか、無理するの、馬鹿馬鹿しくなっちゃいまして。逢いに行くのも、彼女の為に何かするのも、《彼女を好きなオレの為》にしてたのに、彼女の為にしてあげているって、気がついたらそう思っていたんですよ」
 お兄さんは、いつの間にか満面の笑みを浮かべていた。私は、その笑顔を眺めることしか出来なかった。

 ほんの少し前のこと、私は彼の考えを探っていた。けれど、彼は私のことを考えているのかどうか、疑うようになってしまった。同じ考えでいてくれる人だから、例え遠くにいても付き合おうって決めたのに、私はその最初の気持ちを忘れてしまった。
 それに気がついて、私はお兄さんに問いかけた。
「ねぇ」
「ん?なんですか?」
「その彼女と、別れちゃったの?」
 お兄さんは、悪戯っぽい笑みを浮かべると、私の肩に手を置いた。
「きっと、お客さんと同じですよ」
 そういってお兄さんは立ち上がると、両腕を力いっぱい空に伸ばした。
「さぁ~て、休憩時間もそろそろ終わりかな。お客さん!」
 お兄さんは、姿勢を正して、私に向き直る。
「また、うちの蕎麦食べに来てくださいよ。そのときには、とびっきりの看板娘、紹介してあげますから!」
 そう言い手を振りながら、お兄さんはお店へと駆けていった。私はその後姿が見えなくなるまで、ずっと眺めていた。

 しばらく呆然としていたけれど、立ち上がって、賽銭箱の前に戻った。無言で手を合わせると、小さな願いを口に出した。
「二重のご縁が、ありますように」

 私と、彼と。
 お兄さんと、彼女と。

 重なり合った縁が、もう一度重なりますように。

(了)
 
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<著者紹介>
火原 緑青(神奈川県/22才/学生)

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