神林明香音は、午前は花屋でアルバイト、昼間はカルチャースクールでフラワーアレンジ教室の助手をし、夕方からはレストランやクラブに生花を飾るディスプレイの仕事をしていた。大学は園芸か造園科を希望していたが、高校2年の終わりに父が亡くなり、フラワーアレンジの専門学校に進んだ。今は母文子と二人で暮らしている。軽トラックで走り回るようになって髪をバッサリ切った。数年たった今ではすっかり小麦色の肌になった。
 幼馴染みの伊志田颯人は海外青年協力隊に参加して農業支援を目的に2年の任期でタイに渡った。1年後、梨の礫だった颯人からほぼ毎日のようにメールが届くようになった。
「交換日記じゃあるまいし。颯人タイでちゃんと仕事しているのかなぁ」
「いいじゃない。颯人君も寂しいのよ。でも、せっかく農学部から食品会社に就職したのに3年で辞めて近所の『神代庵』で働くとは思わなかったわ」
「お蔭で颯人は蕎麦を打てるようになったし、私も蕎麦が好きになって良かったよ」
「でも、それから協力隊に参加してタイに行くとはねぇ」
「お母さんの予想外ばかりだね、ハハハ」
 明香音も1年前までは得意先のレストランのシェフ達と食事やカラオケに行ったり、クラブのイケ面バーテンダーに熱を上げたこともあった。しかし、颯人とのメールが日課になってからはディスプレイの新規開拓やNFD資格検定(フラワーデコレーター)の勉強に精を出していた。以前よりも新聞やニュースを見るようになった。
 タイのランはカラフルで日持ちがするのでディスプレイにも多用していた。トムヤムクンやタイカレーは明香音の好物だが、それ以外タイの事はあまり知らなかった。
 颯人を通して、タイの農村では家事や農作業の為に学校に行けず、未だに字の読み書きが出来ない子どもたちが大勢いることを知りショックを受けた。それについて颯人とはメールで意見交換を重ねた。おかげでタイを身近に感じられた。送られてきた写メやテレビでタイの番組を見て文子と話題にした。
「颯人でも人の役に立てることがあったんだから有り難い話だよ」
「またそんなこと言って。颯人君は小さな頃から優しかったわよ」
 半年ほど過ぎた頃、颯人からのメールが暫く途絶えた。
「颯人どうしたんだろう?メール5日も来ないんだけど」
「忙しいんじゃない。心配なの?」
「そんなことないけど、今まで3日以上来ないことなかったからさ」
 モヤモヤした気持ちを抱え毎日仕事を終えてからメールを待つ日が続いた。6日目にようやく颯人からメールが届いた時には、思いも寄らぬ安堵感が押し寄せた。同時に頭に血が上り、直ぐに明香音は返信した。
〔まったく、連絡ないから崖からでも墜ちたかと思ったよ]
[心配してくれたのか?]
[なわけないでしょ!風邪で頭やられたんじゃない]
[相変わらずキビシーなぁ。病気の時くらい労わってくれよ。こっちじゃ大事にされてんだよ]
 数日高熱で臥せっていたと分かり、本当に胸のつかえが取れ、熱いものが込み上げた。(私、颯人のことが好きなのかな?でも兄弟みたいに育ったからなのかなぁ)。
 明香音は半年後の自分を想像して一人で真っ赤になった。ベッドにもぐり、ここ数日の睡眠不足を解消するかのように大爆睡した。
 帰国が近いとの内容を最後に颯人からのメールが途絶えた。多忙だからだろうと、今度は心配せずに連絡を待った。
 明香音はこの1年で自分のビジョンを明確にした。近い将来自分の店を持ち、ネットで今より広い地域を相手に自分の花を提供すること。そして、何かタイの子どもたちにできることを探す為、今は開店資金の調達と資格検定昇級試験の勉強を優先することだった。
 一方的に自分の近況メールは送っていたが、颯人からのメールが途絶えて十日たった。
 仕事がオフで昼過ぎに起きてきた明香音を待ち構え、文子が言った。
「今、バラ園フェスタやっているわよ。今年こそ行くんじゃなかった?」
「そういえば、そうだったなぁ」
「早く行かないと又終わっちゃうわよ」
 5~6年前から神代植物公園でバラ園フェスタが春と秋に開催されていることは近所で見掛けたポスターで知っていた。ライトアップされたバラたちの香に包まれて音楽を聴きたいと思っていたが、毎年行きそびれていた。 
 文子に背中を押されてやっと自転車で出掛けた。調布体育館から正門に向う木立ちの中を走っていると緩んだ風が頬に心地良かった。 
 若葉が空を覆いはじめ、葉越しに差す光が少し眩しく、ペダルを漕ぐごとに青い臭いが明香音を元気にした。この辺りの緑の多さに改めて感激した。
 植物公園の正門から入ると満開のつつじに歓迎された。樹齢40年以上の針葉樹林を抜け、個々に凛と咲いているしゃくやくを眺め、子どもの頃からお気に入りの球根ベゴニアの温室に入った。ここは明香音にとってディズニーランドだった。天井から迫るカラフルに咲き誇る大輪のベゴニアたちに囲まれるとワクワクして、久々におやゆび姫になれた。
 温室を出てバラに圧倒されていると肩を捕まれ「わっ!」と驚かされた。
「明香音! あぁ母さんたちにやられたな」
「颯人帰ってたんだ。連絡くれればよかったのに」
「ワリ、昨日帰ったけどバタバタしててさ。けど明香音、色黒くない」
「うるさい......」
 明香音はドキドキするのを誤魔化しながら 久しぶりに会う颯人と面と向い会った。真黒に日焼けして白い歯が浮立ち、精悍になった颯人にしばし見とれた。明香音は手持ち無沙汰と気恥ずかしさで黙ってバラ園から足早に藤棚を抜けて階段を上ると売店の前にでた。慌てて颯人も後を追ってきた。
「ここも何年振りだろう、懐かしいなぁ」
「私たち、よく放牧されていたわよね」
「あの人達の話は、俺たちそっちのけで長いからなぁ、今もね」
 子どもの頃には広いと思った芝生広場も今では一面見渡せる。明香音はかつてお弁当をよく食べた雑木林のベンチに颯人と向かい合って座り、今度は瞳をじっと見つめた。
「私、落葉を踏むとサクサク音がするのが好きだったな」
「僕は枯れ葉蒲団に転がるのだな」
「颯人君は見えなくなっても、お腹が空くと戻って来たから誰も心配しなかったわね」
「ヒドいなぁ、ワハハ」
 二人で深大寺をお参りしようと植物園の深大門を出ると、赤い毛氈の茶店が並んでいる。
「ねぇ、遠足に鬼太郎茶屋で駄菓子買って持って行ったよね」
「良く覚えているなぁ」
「だって、颯人私の目玉のおやじキャンディー全部食べたじゃない」
「そういえばお腹すいたな」
 石畳の坂を下り花屋を横目で見ながら参道に出ると、最初に目に入った軒先に向かった。明香音は小豆おやきを、颯人は野沢菜おやきを歩きながら食べた。
 階段を上り『天台宗浮岳山深大寺』と書いてある山門をくぐり、手水でお清めをしてから、本堂前の常香楼の煙を互いにかけ捲った。ちょっと触れた颯人の腕は逞しかった。鈴を鳴らして賽銭を入れ本堂に手を合わせた途端、 "ありがとうございます"が、心の底から自然に明香音の口をついて出た。満開のなんじゃもんじゃの木を見上げると、大声で叫びたいほど笑みがこぼれた。
 左手奥の元山大師堂では、賓頭盧尊者の頭を撫でながら
「颯人の頭が少しでも良くなりますように」「こらっ!」
 明香音は颯人と久しぶりに大笑いした。 夢中で話していたので東参道の終点の多聞院ばしまで歩いていた。 
 明香音は戻りながらハッ! と思い出して急に落ち着かなくなった。
「ついでに開福不動堂もお参りして行こう」
颯人が階段を上りはじめた。
「いいよそこは......参道に戻ろう、ねぇ颯人」
「えぇ?なんか変だな。行くよ」
 颯人が足早に階段を上り境内に入り(思いの儘にノート)に近づいた。明香音は必死で前に立ちはだかったが、颯人は制止を振り切りノートをペラペラと捲った。
「ダメ! 見ないで!」
《颯人が1日も早く無事に帰って来ますように》3日前の書き込みだった。
「明香音、お参りしてくれたのか」
「だって!いつ帰るって教えてくれなかったじゃない」
 颯人は黙って明香音を引き寄せた。
「会いたかったぞ」
「私も......」
 明香音の瞳から涙が溢れた。
 颯人と手を繋いで階段を下りると、もう陽が傾き始めていた。
「おやきだけじゃお腹すいたな。取りあえず蕎麦食いながら一杯やるか」
「もう颯人ったら。でも、あとでライトアップしたバラ園にもう1度行くわよ」
「これからは何度でも行けるよ」
 2人は泣き笑いしながら、賑やかな売り子や呼び込みの声がする参道を再び通り、蒸籠の蒸気をくぐりながら『神代庵』に向った。

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<著者紹介>
櫻 染子(東京都/女性/専業主婦)

 大学進学のために始めて上京してから、東京生まれの人は皆怖いのかと僕は思っていた。
 でもクラスメートとして君に会ったときに、そうでもないのかなと初めて思ったんだ。
「だって二十三区出身じゃないですから」
 拗ねたように言われたけれど、そんな違い、よその人間にはわからない。現に昔の僕にはぴんと来なくて、どう答えたらいいのかわからなかった。
 そのときの女の子と結婚することになるなんて。
 あのときの僕には予感の欠片もなかったとは、君にはとても言えない。

「手土産、これでよかったのかな。もっと高いものがよかったんじゃないか?」
「食べきれないよ。もったいないでしょ」
 君は呆れたように言う。先週、君は先に僕の実家に挨拶を済ませたから明るい。今度は僕の番と言うことで、少し楽しんでいるようにさえ見える。
「大丈夫、これお母さんの好物だから」
「お父さんの好物はいいんだ?」
「いい」
 はっきり答えるけど、本当にいいのかなあ。
 普段乗ることのない、クリーム色の電車ががたごと揺れる。
「そういえば不発弾発見されたの知ってる?」
「ああ、ヤフーで見た。よく今まで見つからなかったもんだね」
「ね、びっくりした。ずっとあの側電車で通ってきたのに」
 一応すこしよそ行きの服を着てきた君と、一番のスーツの僕。
 彼女の実家に伺うのは久しぶりだ。
「やだ、緊張してるの」
 彼女はちょっと笑う。
「会ったことあるじゃない」
「それとは違うだろ」
 言い返したけど君は真剣に聞いてない。
 食事くらいはしたことあるけれど、今日は結婚の申し込みなんだから。
「大丈夫うちのお父さん、殴ったりするタイプじゃないから」
 もの凄いこと、さらりと言うなあ。
「ね」
 でもにっこり笑われると、怒っていられない。しょうがないから窓の外の流れる景色を見つめる。
 緑の多い住宅街は、日頃僕の馴染んだオフィス街とも、僕が一人暮らしを続けている学生街とも違う。
 彼女が育ったこの町を見ると、なんだか彼女っぽいといつも思う。
 きれいで、でも攻撃的な感じじゃなくて、優しいけどしっかりもので、少しやんちゃで涙もろい。
 それが、僕の結婚したい女の子だ。

「まあまあ、遠いところに」
 玄関のベルを鳴らすと、まずは彼女のお母さんが飛び出てきた。
「いえ、新宿から特急使いましたので」
「それでもねえ。......あら、お気遣いなく」
 手土産を受け取ったお母さんの反応は良くて、好物を持ってきた彼女の作戦は当たりだったらしい。
「お父さん、草むしりしてるから」
「大丈夫、日射病とか? 外暑くて......麦茶飲んでいい?」
 いつもしっかりものの彼女の顔が、実家では少し変わる。
 少し甘えたような、たぶん娘の顔なのだ。
 彼女の気づいていないそれを覗くのは、ちょっと秘密めいた楽しみだ。
「スリッパ、いらないでしょ?」
「美香」
 お母さんがたしなめるが、僕はうなずいた。
 たぶん彼女流の気遣いなのだ。僕を「お客さん」にしないための。
 なんだったら草むしりだって手伝おうと僕は決心する。新宿の丸井で買った八万のスーツだけど、今日のためなら惜しくない。

「待たせちゃったね」
 草むしりはやはり暑かったらしくて、お父さんはシャワーを浴びてから現れた。ほんとよ、と彼女が悪戯な口を聞く横で、お邪魔してます、と僕は慌てて頭を下げる。
 お父さんは僕らの到着で草むしりを中断したので、結局僕は手伝いをしなくて良かった。それでよかったのかもしれない。言われたらなんでもやるつもりではあったけれど、僕もお父さんと二人きりになる心の準備がまだできていなかったから。
 昼食はビールで乾杯して、和やかに始まった。
 お母さんが取ってくれた、近くから取ったという寿司は食べきれないほどあった。こっちは家で準備したらしい、涼しく冷えた蕎麦がつるつるとおいしくて、勧めるられるままにお替りをする。
「このあたりのお蕎麦は有名なのよ」
「深大寺ですよね、よく見ます」
 彼女のことがあるせいで目に付くのかもしれないが、結構都内でも深大寺蕎麦を謳っている店があることには気がついている。
「あらそうなの、どうお父さん?」
「そうだな、わりに見るな」
「やだお父さん、ビールもう二杯目なの?」
 僕はこっそり、お父さんとお母さんの会話を聞いていた。
 お父さんは彼女に顔が似ているし、お母さんには将来の彼女の姿をだぶらせてしまう。ふたりはいつも穏やかに仲が良くて、それを見るたび僕は少し安心する。
「そういえばこないだ一緒に神代植物公園行ったよ。温室に」
 彼女が口を挟んだ。
「ああ、お父さんたちも行ったわよ。温室は行かなかったけど」
「なんで、温室がいいのに」
 彼女はその公園が好きなので、結構僕らは遊びに行く。それから深大寺のほうに抜けるか、調布か、吉祥寺か。付き合い出しは結構渋谷や新宿にも出たけれど、最近はもう、仕事の疲れか(年とは思いたくないけど)そういうデートのほうが気楽だ。
 そこで沈黙があって、僕は今だと思った。
「あの、お父さん」
 隣に座った彼女が緊張したのがわかる。

「お嬢さんを僕にください」

 もう少し前振りをするつもりだったのに、頭の中にあった台詞がするりと出てしまって、一気に僕は本題に入ってしまった。
 失敗した、と僕は硬直する。
 お父さんはその僕の目の前で、コップのビールをじっと見つめた。
 それから一気にそれを開けた。
「一志君」
 お父さんが僕の名前を呼んだのは、初めてかもしれない。いつも君、とか、ほら、とかそんな感じだったのだ。
「はいっ」
「今日は泊まっていきなさい」
「お父さん」
 彼女が口を挟むけれど、お父さんは僕をまっすぐ見た。
 負けまいと、僕も力を込めて視線を返す。
「明日一緒に深大寺にお参りに行きましょう。我が家では大きなことがあると、いつも家族で報告に行くんですよ」
「お父さん、一志さん明日は」
「わかりました。ご一緒させてください」
 彼女に目で合図して、僕は腹の底からの声で返事した。
 明日の予定は、後で友達に謝っておこう。
 お父さんが満足そうにため息をつく。僕は慌ててビールを注いだ。

 返事はOKなんだろうか。僕はお父さんを見るけれど、穏やかな表情からは読み取れなかった。
 家族で報告、にいれてもらえるん、だからたぶんそうだと思うけど。
 とりあえず、明日まで確認する時間はたっぷりある。
 お父さんが僕にビールをついでくれようとしたので、僕は急いで自分のカップを干して差し出した。僕があまりお酒が強くないことを知っている彼女が僕を肘でつつくけど、無視をした。
 だってこんな日は、一生に一度だけだろう。
 目を閉じてぐっとコップを干す。目の裏に、深大寺の参道の濃い緑が浮かんだ。
 僕は明日、あの坂をこの人たちと登るのだ。
 じわじわと腹の底が熱くなってくる。

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<著者紹介>
和倉 ちとせ(東京都品川区/35歳/女性/会社員)

大学生のアキラは、釈迦堂前で何度も腕時計を見ながら気をもんでいた。待ち合わせの時間からもう既に一時間が経とうとしていた。こんな事は今までになかったので、アキラは何か得体の知れない不吉な予感が先ほどからずっとしていたのである。
 ここは、アキラとクミのデートスポットである。この釈迦堂は深大寺の一角にあり、山門から入った左手にある建物である。このお堂の創建は昭和五十一年と比較的新しく元々は国の重要文化財である白鳳仏を安置する目的で建立された。深大寺明細帖には、「立像にあらず、座像にあらず」と記されており、クミがとても面白がり、いつしかこのお堂前が二人にとっての待ち合わせ場所になった。
 八月もお盆に入り、アキラはいつもなら実家の福島へ墓参りを兼ねて帰省しているところだが、今年は大学が夏休み中は目一杯アルバイトで稼ぐ予定を立てていた。
 それというのも、アキラにはイタリアへ行って、古代ローマ時代の遺跡を見て回りたいという目的があったのだ。大学で西洋史を専攻しているアキラは、特に古代ローマ建築に興味を持ち、一年の時から卒論のテーマにしたいと考えていたほど入れ込んでいた。
  再びアキラが腕時計に目を落とした時は、もう六時半を回り、いよいよ尋常ならざる状況であることが疑いから確信へと変わった。
 アキラは足早に山門へとって返し、いつもクミがやって来るはずの通りへと目をやる。
 そして、通りを行き交う人々の中にクミ姿を求めて目を凝らしていた。門前町としての風情を残す深大寺の通りにも、そろそろ夜の帳が降りようとしていた。
クミとアキラは、同じ福島の出身であった。同じ高校に通学しており、同じクラスにもなったこともあるが二人は言葉を交わしたことが一度もなかった。当時、アキラはクミを美人で近寄りがたい存在で、自分とは違う世界の人と捉えていた。クミもまた、アキラを遠くからちょっと格好良いスポーツ好きな青年として見ていたことが後になり二人が付き合うようになって分かった次第である。
 地方の田舎町から上京してきた二人にとって、この深大寺は東京という都会の冷たいイメージとは異なり、何故かほっと出来る安らぎの空間となっており、二人の絆をより深める切っ掛けになった寺でもあった。
 アキラは、クミの身に何かあったのではないかという思いを必死に打ち消しながら懸命にクミの姿を捜していた。
 クミの澄んだ瞳は、いつも明るく輝いている。笑うと両頬に笑窪ができ、益々彼女を魅力的な女性にしていた。少しばかり色黒であるが、そこがまた魅力的であった。
  三年前に都内にある予備校の夏季講習会で二人はたまたま出会った。アキラは、すぐにクミが分かったものの、なかなか声が掛けられず、講習が始まって三日目にやっとの思いで声を掛け、会話をするようになった。
 クミの方は、私が声を掛けるまで全然気が付かなかったようで、そのことはアキラを少しばかり気落ちさせた。
とにかくアキラは予備校生でありながら、それ以来とてもウキウキとして、毎日が満ち足りた気分であったことを思い出していた。
とその時、「チリーン、チリーン」とそば屋の軒に下がった風鈴が鳴った。アキラが音のする方へ目をやると何とそこにいつの間に来たのかクミが笑顔で立っているではないか。
 アキラは、目の前のクミの姿にホッとすると同時にクミの方へ既に走り出していた。両手でクミを抱きしめると、彼女が本物であるかどうかを確かめるように何度も腕に力を入れて抱擁し、深いキスをした。
  「アキラ、どうしたの?少し変よ、それより痛いわ」と言ったクミは私の腕から逃れようとしてもがいた。
  「いや、ゴメン。あまり遅いから何かあったんでないかと心配したんだ。」
 アキラはクミの言葉に漸く我に返って、
「心配したぞ。一体、何があったんだ」
アキラはクミに矢継ぎ早に質問をした。
  クミは、アキラの心配性のところがとても好きであり、時に鬱陶しくもあった。しかしそれは、自分に対する愛情の深さ故であると考えるようになってからは何かとても心地よいものに変わっていった。
  「実は私、ここへ来る途中もう少しで、車に撥ねられそうになったのよ」
  咄嗟にアキラが叫びながら「けがは?」アキラの目は、クミの体をアナライズするように傷や出血の痕跡を探し始めた。
  「ううん、大丈夫。安心してアキラ」
 「私、こんなに平気よ。怪我もしていないから。それに今日は何故かとても気持ちがいいの、私変ね。」
  「ああ、でも私、アキラに貰ったあのブレスレット無くしちゃったのよ」
 「その場で何度もその辺を捜したの。気がついた時はこんな時間になってしまったの」 「アキラ、待たしてゴメンね。それにブレスレットも見つけられなくて・・・」
  アキラはうんうんと頷きながらクミの話を聞いていた。クミは一通りアキラに自分の身に何が起きたかの説明をした後急に、
  「ねえ、私お腹空いちゃった。何か食べない?」というとはにかみ笑いをした。
 「そうだな、じゃあそばでも食うか?」
  アキラはその笑顔に、これまで何度も救われている。彼女といると何でこんなに幸せな気持ちでいられるのかとても不思議だった。そしてこの満ち足りて穏やかな心地よさが愛だとその時、アキラは実感していた。
  二人はそば屋の暖簾をくぐり、右奥のテーブルについた。店内はいつもより人数が少ないように感じた。子供の頃、そばは年寄りの食べ物といったイメージがあったが、最近は健康食ブームに乗り、若い女性の間でも注目されるようになってきた。ここ深大寺そばは、江戸時代に米の生産が適さず、そばを栽培するようになったことからその歴史が始まる。農民達は出来たそば粉を寺に納め、寺ではそばを打って来客にもてなし、それが深大寺そばのブランドとして発展してきた。
  食物栄養学を学んでいるクミによれば、血圧の高い高齢者にも、そばに含まれるルチンという物質が血圧を下げるのにとても効果があるそうだ。アキラは一度彼女の通う大学の学園祭に行った時、特設ステージ場で、クミがパネラーの一人として研究室の成果を発表しているところを見たことがある。真っ白な白衣に、黒縁の眼鏡をかけ、髪を一本に束ねたクミは、理知的でとても格好良く見えた。
 男は、女性の凛々しさや格好良さにも魅了されるものなんだとアキラはその時感じた。そして、親友のマサカズが当時、大学の附属病院に勤務する男勝りのような看護師に熱を上げていた気持ちがこの時、よく分かったのである。アキラとクミは、いつものように向かい合って、天ぷらそばセットを食べた。
この日のそばがいつもより美味しく感じたのは、クミの事を沢山心配してお腹が特に空いたせいなのかもしれないとアキラは思った。
クミの右腕には無くしたブレスレットの跡がリング状にうっすらと残り、細くしなやかな腕をこの日は一段と細く見せていた。アキラがクミに贈ったブレスレットは、アルバイトで貯め、初めて買ったものでそんなに高価な物ではなかったが、クミは宝物のように大切にしていた。アキラはそのことをずっと気恥ずかしく感じていたのである。
  恐らく今日も無くしたブレスレットを必死になって暗くなるのも忘れて捜したのだろう。
アキラは、そんなクミの姿を想像しているとそのいじらしさと可愛さで思わず涙が溢れそうになるのであった。
 クミは本当にいい女だと思う。また、自分には不釣り合いなくらいもったいないとも思うのであった。
 二人はそばをすすりながら、互いに一緒にいることの幸せを体中で感じていた。幸せな時間とは、こんなにもゆったりと流れ、時間の観念さえも無くしてしまうものなのか。
 つい先ほどまで、何度も腕時計を見ながら気をもんでいた自分が、今は間もなく寮の門限時間が迫ろうとしているのも忘れるほど夢中でクミと話し込んでいる。二人は蜜豆とコーヒーを口にしながら、学校やバイトのことなどいろいろと話をし、いつものように有意義で満ち足りた一時を過ごして分かれた。
  私は今、郷里の高校で倫理を教えている。クミと最後に会ってから既に二十八年の歳月が流れていた。その後、私は六つ年下の今の妻と見合いで結婚し、高校一年生になる娘と三人で人並みに幸せな家庭を築いている。
  今年もあの八月十二日がやって来る。私は毎年この日が近づくと、もう二十八年前にもなるのに昨日のことのようにはっきりとあの日の出来事を思い出すのである。私はあの日の不思議な出来事を誰にも話してはいない。
未だ、あの日の事が信じられないからではない。私はあの出来事は本当にあった事であると確信している。だから、この不思議な出来事を人に話してしまったら、もう二度とクミには会えないような気がしたからである。
  そば屋の風鈴の音とともに突然現れたクミ、彼女は、実はもうこの世の人でなかったことを私は夜勤明けのバイト先にかかってきた彼女の母親の電話で知った。クミは事故に遭い、すぐに近くの病院に運ばれて緊急処置を受けたが、その甲斐もなく亡くなった。
 あの時、私が一緒に楽しい一時を過ごしたのはクミの魂そのものだったに違いない。
あれ以来、私はいつかクミに会えるかもしれないという虚しい妄想を抱きながら生きていた。しかし、そうした妄想を抱くことはもう終わりにしようと思う。そして、今のこの素朴な幸せの中で妻と娘と共にしっかりと生きていこうと決心したのである。

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<著者紹介>
ムラ アキラ(福島県福島市/49歳/男性/教員)

薔薇が咲いたらまた連絡ください
馨からの返信が喬の携帯電話の液晶に光り、暗い部屋の中の喬の顔を白く浮き上がらせた。喬は明かりをつけて本棚からアルバムを取り出すと、大学時代の友人が集まった写真を探し、馨の姿を見つけた。そこにいる馨は仲間に肩を抱かれ、写真に撮られる恥ずかしさを隠そうとするように、体を斜めにして少し口元を緩め、困ったようにあいまいな微笑を浮かべていた。
アルバイトのために遅れて友人の別荘を訪ねた喬は疲れの抜けぬまま酒に酔い、林間の涼しさにすぐに眠ってしまったのだが、その後サークルの部室で仲間たちが集まった写真を見て、どうして誰も起こしてくれなかったのかと怒り、あまりよく寝ていたからとみんなに笑われたことを思い出した。もう何年も昔のことだ。
 喬は冬の間に引っ越ししたことを、少ない友人に連絡していたところに馨へ連絡することを思いついたのだった。アルバムの集合写真の隣には色とりどりの薔薇の中に笑顔で腰をかがめた馨の写真がある。これはうまく写ったからといって馨に手渡された写真だ。
 本当は薔薇が咲き始めたころに、馨にもう一度連絡をしなくてはいけなかったはずだ。だが喬は連絡をしないまま、植物公園の噴水の周りで、鮮やかな色を保っていた薔薇はしおれ、その庭園の周りに紫陽花の咲く時期までも過ぎてしまっていた。喬はまた馨の短い返信を読み返し、携帯の目覚ましのアラームを設定して電話を閉じる。明かりを消して喬はベッドの上に横たわる。自動車が静かに角を曲がる音が聴こえた。

かりかりと乾いた音が電柱の上から聞こえてきて、信号待ちをしている喬の右腕に鳥肌を立たせた。振り返ると腹を上に向けた蝉が、電柱のそばのアスファルトに転がっていた。それは今ただ動きを止めているだけなのだろう。誰かが足先で触れたときに驚くような羽音を立ててアスファルトの上を滑っていく光景を喬は想像した。殻を脱ぐのが早すぎたのだと喬は思う。仲間の出てくる前に命が切れてしまうなんて。信号が変わり喬は自転車のペダルを踏み込んで坂を下る。
この道路は昔の道の名残だと喬は自転車に乗りながら思う。深大寺に暮らしていた人たちの通った道。いったいどれくらい昔からこの道を歩いていたのだろうかと、ぼんやりしながら自転車を走らせる。ゆるやかに左右に曲がる道はすぐ先が見えず、振り向くと走ってきた道はまるで消えてしまったかのように思える。自転車の速度を上げると、買い物から帰るビニール袋を提げた親子や犬と散歩する人が街灯の下に現れては暗闇に消えていく。夕闇の中で道路に水を撒いていた人が家の中に入っていく。水にぬれた道路を喬の自転車が横切って音を立てる。十字路は直角に交わらずに思いがけない方向から車が現れてきたことが何度もあって、ここに住み始めてから喬は道路に立ったミラーの確認をするようになった。もう少しでお盆になる。喬は仕事帰りにそのことだけを考えるようになっていた。疲労はそれまで抜けないだろう。

ビールが切れたのを口実に、夜の涼しさを求めて喬は買い物に出かける。ドアを開けると思ったよりも蒸し暑いことに気づく。夏の熱気はアスファルトの中に閉じ込められ、夜の間にため息のように吐き出される。畑のほうから湿った冷たい空気が流れ込むのを喬は感じた。闇の中に水が滴り落ちるように蝉の音が響いている。鳴いている蝉の数を想像する。木々の中にひそんでいるのは数匹だろう。もう次の日付を迎えようとしているのに、夜空はまだ夕焼けの落ちたすぐあとのような赤みを薄い雲に映していた。都心の光が雲に映っているのだろうかと思いながらコンビニエンスストアまで歩き、駐車場でひらけた空をもう一度見上げると、西の空まで薄く赤みを残している。真夜中の夕焼け、と喬は思いつく。
ベッドに腰掛けてビールを飲みながら喬は携帯電話を見る。誰からもメールはない。携帯を閉じて横になる。気楽に連絡を取れる友人は減っていくと喬は考える。それはあるときから急に始まったと思う。結婚、引っ越し、東京を離れるもの。そういった連絡が来るたびに、それぞれの生活から喬は切り離されていくように感じる。自分の居場所を知っている仲間はもうほんの数人だけだろう。みんなそれぞれの星座を夜空に形づくる。小さいものや大きいもの、複雑なもの、単純なもの。それぞれの星座が完結して薄い雲の向こうの夜空に瞬いているのを喬は感じる。その夜空の星座の中を流れていく星。目を閉じた喬は想像する。あれは僕の星じゃない。
馨の背中の白さを喬は横になったまま思い出す。まだ二人とも大学生のときのことだ。それから二人は学生以外の何かになるとは想像できていなかった。少なくとも喬にとっては。はじめて見た馨の背中は、ナイフで剥いたばかりの林檎のように白かった。自分で自分の背中を直に見ることはできない。それだけで喬は馨にささやかな優越感を抱いた。背中に指を滑らせようとすると、くすぐったいと笑って震える馨の髪が揺れていた。指を組んでひざを抱えた馨の手が見える。耳の複雑な形がむきだしになる。こちらを向いてほしいと喬は思う。でも馨はこちらを向いてくれない。声に出そうとするところで、喬は目を覚ます。

とても暑い。喬はTシャツを脱いでベンチに腰をかけた。植物公園のそばの広場にはベンチが置いてある。目の前に四角く緑に切り取られたように短い草の野原が続き、その周りを高い木々が取り囲んでいる。お盆の東京の空は澄み渡り、湧き上がる雲の白さと空の青さのコントラストが普段よりもずっと強く感じる。草の青い匂いが渦を巻いて喬を包み、裸の上半身に染みこむようだ。細く白い雲のラインを斜めに作りながら、旅客機の機体が白く輝くのが見える。
コンビニの袋からペットボトルを取り出すと、喬は腕に冷たい水をかけ、それから帽子にも水をかけてかぶりなおす。背中に帽子から滴る水を感じながら、喬は水を飲んだ。お盆休みはそれほど人出がないだろうと思ったが、これほど人がいないとは思わなかった。日焼けをしたいと思っていた喬には好都合だった。ぬかるみにできた水たまりにカラスが群れている。
濡らした帽子が乾いてから喬はリュックからカメラを取り出して、サンダルを脱いだ裸足の足先と、目の前の四角い草原の空き地と青い空と雲が同時に写るように工夫しながら写真を撮った。黒いカメラが日ざしを受けてあっという間に熱くなっていくのが、カメラを握る手のひらから感じられた。しばらくの間、構図を変えて撮ってみた後でカメラをしまい、もう一度水を飲んでからTシャツを着て喬は立ち上がった。
 百日紅が咲いているはずと思い喬は植物公園に来た。公園に入り、すぐ右に曲がって百日紅の林に向かい、手のひらを青空に向けて広げているような百日紅の枝と桃色の花をカメラで写す。薔薇の植えてある噴水を撮ろうとして、誰もいない庭園の中に思いがけず薔薇が満開であることに喬は気づいた。カメラを持ってきて正解だったと思う。見る人のいない中で咲く薔薇は触られなかったためか、ひとつひとつの花弁が汚れずにいて美しい。噴水のある池は水が抜かれていて、無人の庭園の中に咲く薔薇の間を歩きながら、喬は何枚も写真を撮っていた。
 馨は結婚するのだ、それがいつなのかはわからないが、そうなのだと友人から連絡を受け取っていた。それが喬をためらわせていたのだった。だがこの薔薇の強烈な色彩の中で喬は決めていた。馨をこの薔薇の中で写真に写して、もう一度彼女の声を聞きたい。返信はもう戻ってこないかもしれない。でも、もう一度馨に連絡をしよう。薔薇が咲いたと。そしてこの薔薇の中にいる二人の姿を想像しながら、喬は薔薇のほかに誰も写らないカメラのシャッターを切った。

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<著者紹介>
北川 淳(東京都調布市/32歳/男性/会社員)

ヨーコを預かることになってしまった。
それは数少ない完全にオフとして扱える休日で、わたしは昼間からワインを飲み、優雅なひとときを過ごしていた。
そこへ一本の電話が水を差した。
〈お姉ちゃん、久しぶり〉
 妹の美夏だった。四つ下で、思いついたら即行動のアクティブなやつだ。いつも忘れかけたころにひょっこり連絡を寄越す。
「いまね、今日は最高だなって思ってたの」
〈思ってた、ってことはなにが言いたいの?〉
「あら、べつに他意はないけど」
〈けど、なに? ......まあ、いいや。ねえ、お姉ちゃん、お願いがあるんだけど〉
それはもうわかっていた。美夏が連絡をしてくるときはそういうときだけだ。しかし心に余裕のある、こんな日にかけてくるなんてどうやら鼻が利くらしい。
「聞くだけ聞いてあげる」
〈お姉ちゃん、ワンちゃん好きだったよね?〉
「ワンちゃんよりミスターのほうが好き」
 返答がお気に召さなかったと見える。耳元に大きなため息が届いた。
〈またワインでも飲んでるんでしょ?〉
「わるい? せっかくの休みでなにも縛るものがないんだもん。そりゃ飲むわよ」
〈寂しい。でもお酒で寂しさは消せないんだよ? だって寂しさって人恋しさだから〉
 急にまじめなことを言うから言葉が内側に響いて重さを帯びたように感じた。
〈お姉ちゃん、この世にあるほとんどは待ってるだけじゃなにも変わらないんだよ〉
 たしかに一理ある、と思ったけれどわたしはこう答えた。
「Let it beって考え方もあるよ」
〈......ま、そうだけどさ。話戻すけど、ここでいう『ワンちゃん』は犬のこと。わかる?〉
「わかってるよ、そんなこと」
 酔ってるけど勘が鈍るほどではない。はぐらかそうとしたのにムダだったようだ。お願いの一端が見えてしまった時点でわたしの負けだった。こちらから折れることにした。
「ヨーコをどうすればいいの?」
〈やっぱりできる女は話が早いね。葉子お姉様、だから好きだわ〉
 それから美夏は預ける理由やヨーコの好きなもの、好きなこと、やって欲しいこと、やらないで欲しいことをつらつらと並べ立てた。
 わたしはときおり相づちを入れる優秀な聞き手になり、ひとしきり話を聞き終わってから重要な質問をした。
「で、いつまで?」
〈......三ヶ月くらい?〉
 この言葉を最後に美夏はツーツーとしか喋らなくなった。かけ直しても「ルスバンデンワサービスセンター」などと極めて機械じみた声しかださなくなった。あんにゃろう。
 どうしたってヨーコを連れてくるときに顔を合わせるんだから、そのときにはっきりさせてやる、と息巻いたが、甘かった。
 電話から数日後の朝、玄関先に手提げのケージが置かれていた。リボンの付いたシャトーなんとかって高そうなワインが添えられて。

ヨーコを預かって欲しい理由はイギリスに滞在するかららしい。いま付き合ってるイギリス人の彼が一時帰国するから付いていくのだそうだ。
わたしの知る限り、妹は過去にこっぴどくフラれることが何回かあって、それでも気が付けば次の恋ってやつにちゃんと落ちていた。
痛い目はとくに遭ってないが、落ちることにいちいちためらう、この姉とはちがう人種のようにさえ思えてくる。
「あんたもさ、イギリスに連れて行ってもらえたらジョンに逢える確率が増えたのにね」
 足元にいたオノ・ヨーコが名前の由来という小さな居候に語りかけた。
「ま、恋に生きるばかりが女じゃないよ。名前が同じ者同士、仲良くいこうじゃないの」
 ヨーコはツンと鼻を上げ澄ましたような顔つきをした。「いっしょにしないでもらえる?」なんていうみたいに。
 さらにテーブルに体当たりした。危うくもらったシャトーなんとかが倒れるところだった。こんにゃろう。

 ヨーコがリードをぐいぐい引っ張りながら進む。時おり空気を嗅ぐようにして、まるで行き先をわかってるみたいだ。
ヨーコは水が好きなんだ、と美夏が言っていたのを思い出して、湧水で有名なお寺に向かって散歩していた。
「水の匂いでもするわけ?」
 するとヨーコはさっきからやってるように鼻先を上に向け、そこにある空間を嗅いだ。「この匂いがわからないの?」とでも言わんばかりに。
「わかんないわよ、そんなの」
 うりうりとからだを撫で回してやると身をよじって離れた。うちに来てひと月経つが、まだわたしたちの距離は遠いらしい。
 小学校の角を折れて参道の坂を下ってしばらく行くと道の脇に水路が見え始め、夏の手前の陽光を反射させていた。
ヨーコはそのキラキラが気になってしょうがないらしく引っ張ってないと落ちそうなくらい身を乗り出して眺めていた。
いつまでもそうしていそうなヨーコを抱き上げ、山門の石段脇にあるベンチに座った。
土曜で天気もよいとあって人が多い。おそば屋さんや甘味処に吸い込まれてく人たちやお土産を手に取る家族連れなどが目に付いた。
お寺に入ってくカップルもいた。
眺めてると石段で彼女がつまずいて彼氏が腕を取って助けた。彼氏はホッと肩を撫で下ろし、彼女は舌を出した。でもふたりともどこか楽しそうだった。
そういえばこのお寺は縁結びのご利益があるんじゃなかったかな。
縁という言葉が浮かぶと昨日のことが急に思い出されて思わず言葉がついて出た。
「返事、どうしよう」
 ヨーコを降ろすと首を軽く傾げた。「なんのこと?」って感じに。
 昨日の帰り、退社がいっしょになった会社の後輩に「休みの日に僕とごはんでも行きませんか?」と誘われた。返事が決められず、まごついてると「じゃあ返事がどちらでも決まったら連絡ください」とケータイ番号の書かれたメモをもらった。
 背はそれほど高くなく、清潔感があって、控えめだけど暗くはない。わるくない。だからこそ、適当に付き合ったりしたらわるい。
「きらいとかじゃないんだ。でもね」
急にリードがぐいっと引っ張られ話の腰が折られた。見るとヨーコが犬のくせにネコのポーズを決めて、やってきたオス犬に近づき、ブンブンとシッポを振っていた。
「こら! ダメだったら」
「元気なワンちゃんね。かわいいわ」
 目を線にして微笑む、柔らかな空気を醸すご婦人だった。水色の帽子が似合っていた。
その色は、彼のネクタイを思い出させた。
「ワンちゃんのお名前、なんていうの?」
「ヨーコっていうんです」
「うちのは、ジョンっていうのよ」
「ジョンって、もしかしてジョン・レノンから取ったんですか?」
「ジョン万次郎ってご存知? 主人はその人から取ったって言ってたんだけど」
「知りません」とわたしは笑った。
「あたしもなの」とご婦人も笑った。
 ベンチの端に寄るとご婦人が腰を下ろした。
「あなたのお名前は?」
 ちょっと迷ってから「わたしも葉子なんです」と告げた。
「あら、おんなじ名前なのね」とご婦人は驚いてからやっぱり笑顔になった。
 じゃれ合う二匹に目を落とすと、わたしたちの間には沈黙が落ちた。ご婦人はヨーコを撫で、ヨーコはその手を舐めた。
その薬指には銀色のリングが光っていた。わたしはすこし速度を速めた鼓動を感じ、そっと視線を外した。
 水分を吸い込んだような瑞々しい風がふたりと二匹を撫でていった。
 冷たさが心地よくて目をつむった。どうやらわたしの身体はあるものを意識して熱を帯びてるらしい。
 電子音が聞こえた。ご婦人はケータイを取り出し、二言三言通話して切った。
「主人を迎えに来たんだけど先に家に着いちゃったみたいだわ」
 参道の先でご婦人と別れた。ヨーコがシッポを振って、わたしは手を振った。応えてくれたシッポと手のひらが小さくなっていった。水色の帽子が角に消えた。
 ヨーコは腰を下ろして、いつまでもご婦人とジョンが歩いていったほうを眺めていた。一途な背中はなんだか切なかった。
 縁は一期一会なこともある。それを本能で知ってるのかもしれない。
ヨーコが吠えた。呼びかけるようなその声は「別れ、なんて始める前に考えること?」と叱られたように感じた。
しゃがんでヨーコと目を合わす。ヨーコの瞳にわたしが映っている。撫でてやると手の匂いを嗅いでふわりとシッポを振った。
 恋するメス犬は、仲間の匂いをわたしに見付けたのだろうか。
待ってるだけじゃなにも変わらないのよね。もしかしたら臆病で踏み出すことのできない姉に「こいつを見習え」とお手本を置いていってくれたのかも。
「きっと大丈夫」
ヨーコはようやく重い腰を上げ、わたしたちも帰路についた。
途中、わたしはポケットからケータイを取り出し、コールボタンを押した。

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<著者紹介>
矢須田 青吾(神奈川県大和市/29歳/男性/会社員)

「気をつけて、そこ段になってる」
 弱い風が吹き、石畳に落ちた影がわずかに形を変える。五月の、日々密度を増す陽光が参道端の木々に降る。茂る葉は緑の交響。緑に影を落とすのもまた緑。
 僕は彼女に片腕を貸し、より一層歩調を落とす。鞠は数年前事故に遭い、その後遺症で片足が悪く、杖を使って生活している。だから石畳のように段差のある場所では慎重に歩かなくてはいけない。
 土産物店や菓子を売る色鮮やかな店々を通り過ぎ、深大寺の山門をくぐる。その先に、僕が彼女に見せたいそれはあった。僕がほら、と指し示すと、鞠は驚きの声をあげた。
「花が咲いたとこ、見るの久しぶり」
 ヒトツバタゴの木は、滴り落ちる光がそのまま時を止めたような繊細な花弁を身いっぱいに咲かせ、自ら発光しているいるようにも見えた。古くは六月雪と呼ばれたそうだが、まさに枝は、新雪を積もらせたように陽を受けて輝いている。
「あんまり明るい白なんで『海照らし』って呼ぶ地方もあるんだって」
 この日のために調べた知識を伝えながら、僕は鞠の横顔を伺う。表情を変えることの少ない彼女が、ごくわずかな微笑を浮かべている。久しぶりに陽を浴びた鞠の肌は、少し長く歩いたせいか、軽く上気している。
 しばらく無言で花を見つめたあと、鞠は僕を向いて言った。
「連れて来てくれてありがとう、マハ。でも、どうしてここに私を連れて来たの?」

 マハ、という名前はチャド人の母がつけた名前だった。チャドでは一般的な『マハマット』という名を縮め、父がそれに漢字を当てて『真葉』にしたのがが僕の名前。母の国で子供たちの支援活動をしていた日本人の父と、フランス語ができたため、現地人と父らの通訳をしていた母が結婚し、二人は日本に来て僕が生まれたのだった。
 鞠とは、小学生の頃からの付き合いになる。母の血をより色濃く受け継いでいる僕は、周囲に溶け込もうと必要以上に陽気にし、よく喋る子供だった。その際仲間の関心を買うためにちょっとした出来事を酷く大げさに話し、面白くするために独自のエピソードを付け加える。子供ながらの努力が実って友達は多くでき、鞠もその中にいた。
 活発な少女だった鞠とは、放課後もよく遊んだ。深大寺の境内に、野川にかかる橋に、そこらじゅうの路地裏に。僕の記憶の中ではいたるところに鞠と僕との幼い影がある。
 鞠は利発な少女だったが、素直で騙されやすいところがあった。小学校の時は「新月の夜に弁財天池で泳ぐと、弁天様が願いを叶えてくれる」という僕の嘘を実行しようとして母親に呆れ怒られたし、中学校のときは「深大寺のとある蕎麦屋には裏メニューがあって、『亀島ください』と言うと亀の肉が載った蕎麦が出て来る」という嘘を実行して大恥をかいた(これは鞠に凄く怒られた)。
「マハだから、仕方ないか!」
 僕に散々騙され、どんな恥をかいた後でも鞠は笑って、必ずそう言った。回を重ねるごと僕の嘘は洗練され独創性を増し、それらを実行することはいつしかなくなっていったけれど、鞠はいつも笑ってそれを聴いてくれていた。僕は鞠のことを好きだったのだろう。ただその頃はそれを理解できず、物語とも嘘ともつかない何かを語り続けて彼女の時間を僕のものにすることが精一杯だった。
 鞠から恋人ができたことを知らされたのは、別々の高校に進学して暫くのことだった。即座に「おめでとう」と言えたものの、僕は生まれて初めて知る酷い欠落感を顔に表さないようにするのに必死だった。
「マハだってすぐ彼女できるよ。ハーフで格好いいもの」
「俺はチャドに、生まれた時に決められた美人の許嫁がいるからいいんだ。結納で百頭の牛を向こうの家族に贈らないといけないから今から貯金が大変で彼女どころじゃないよ」
「もう、また! 大体マハ、お母さんの国に行ったことないでしょ。それに生まれたときの許嫁なんて美人かどうか分からないし」
 マハの嘘久しぶりだなあ、鞠はひとしきり笑った後に、心持ち真面目な声で言った。
「私はいつか行ってみたいな、マハのお母さんの国。チャドだけじゃなくて他の国にも。誰も行ったことのないところに行って、それを伝える文章を書く仕事がしたい」
 そう言う鞠が見せた顔は、もう僕の知らない顔だった。その頃の僕と言えば入ったばかりのサッカー部に夢中で、いかにパスの精度を上げるか? が毎日の関心ごとだった。女の子はどうしてこう、僕らより先に大人になろうとするのだろう? 僕は中学を卒業したまま立ち止まっていたけど、鞠は違った。そしてこれからも違い続けるのだろう。
 それきり鞠とは疎遠になってしまった。会える訳がなかった。それでも僕は、物語を作り続けることをやめなかった。グラウンドでボールを追いかけている間も、大学に入って女の子と付き合うようになって、その子と同じベッドにいるときも、それは止めることのできない習慣になっていた。そうすることによって鞠が戻って来てくれる、なんて思っていた訳じゃない。ただ僕は、立ち止まっていたのだ。鞠と過ごした時間の中に。新しい物語を作り続けることが立ち止まっていないことの証明になるような気が、その時はしていたのだ。そうして僕は自分自身を騙すことにさえ成功し、そのたゆまぬ訓練の成果は、なんと僕を物書きにした。
 鞠に再会したのは、大学を卒業して数年後、僕がなんとか文章で食べていけるようになったころだった。鞠が交通事故に遭い足を悪くし、家に引きこもっていると人づてに聞いて、深大寺そばの彼女の家を訪ねたのだ。
「この足に人工骨とボルトが入っているの」大型トラックのタイヤに2度も轢かれたのだというくすんだ赤の傷跡を鞠は見せてくれた。またいつ折れるか分からないんだって、と鞠は言う。「でも、治ろうとすることがそんなに大切と思えなくなって来ちゃった。今の時代、家でできる仕事もいっぱいあるし」
 病院と自宅の往復以外出かける気になれない、という鞠を外に連れ出すのは大変だった。幾度も家を訪れ、昔話を避けながら、楽しい話題だけを僕は話し続けた。時には事実を大げさに、作り話を加えながら。そう、まるで幼い頃に戻ったみたいに。数カ月も、まるでシェヘラザードのごとく語り続けたあと、時折笑顔を見せるようになった鞠を僕は深大寺へ誘った。野川の桜が散って、ヒトツバタゴの白い花が咲く五月の初めだった。

「あのね鞠、これは俺が友達のチャド人から聞いた話なんだけど」
 ヒトツバタゴの葉と花が鞠の白い頬に淡い影をつくる。まだ微笑の余韻が残るその顔に、僕は話しながらも見とれる。
「ヒトツバタゴの親戚にあたる木がチャドにも生えていて、現地語でパパラシオ、っていうんだ。チャド湖のそばにある小さな部落に何故か一本だけ生えてる。現地のシャーマンたちがその葉を祈祷に使うんだけど、年に一度咲く花には、もっと凄い力があるんだ。その花を食べると、どんな怪我でも治っちゃうんだよ。現に俺の友人の大叔父って人は、失くした右手が生えて来たんだって。まさかって思うだろ? でも写真で見たんだ。ねえ鞠、俺はチャドに行こうと思う。母の親戚が向こうに住んでるから車を借りて、サバンナを走ってその部落に着いたら、シャーマンにお願いして花を貰ってくるよ。こんな白い花がサバンナに咲いているのは凄く不思議な眺めなんだろうな。花を貰ったら、すぐ日本に引き返して来るよ。鞠に食べて欲しいから。足りなかったら何度でも取りに行く。それで鞠が自由に歩けるようになったら一緒に」
 僕はその先を言えなかった。いつしか鞠の顔は、諦めと優しさの混ざった笑顔になっていた。僕は自分がどんなに酷いことを言おうとしていたのかようやく気付いた。
「マハ、ヒトツバタゴの木は東アジアとアメリカにしか生えてないの知ってるよ。私ずっと深大寺のすぐそばに住んでるんだもの。ここにも何度も来てるし。今回は大失敗だね」
 僕は「マハだから」といってまた笑ってもらえるとでも思っていたのだろうか。鞠、ごめん、鞠、と謝り続ける僕に、鞠は言った。
「マハの小説読んだよ。あのヒロインは私でしょう? ねえ、マハ。あなたはもう、あなたの時間を進めないとだめ。あなたはまるで中学生のまま大人になっちゃったのね」
 これだから、女の子ってやつは。その時の僕は酷く傷ついた表情をしていたかもしれない。鞠は杖を持たない方の手で僕の頬に触れる。一瞬ふらついた鞠の身体を僕は支える。
「マハ、今までたくさんの物語をありがとう」
終わった。僕は思った。
「マハ、新しい物語を書いて。大人になったマハの物語が読みたい。私もリハビリ頑張ってみるから。そしていつかお母さんの国に生えてる、パパラシオの木を見せてくれる?」
 鞠は上目遣いに僕を見て、一瞬ののち、本当に輝く笑顔を見せてくれた。僕はそのまま彼女を抱き寄せた。まるで雪が急速に溶けていくような、身体中が熱い流れに支配されるような、素敵な感覚だった。
 「帰りに、蕎麦食べていこうか?」
 「いいよ。でも亀はなしだからね?」
 歩き出す僕らの影にヒトツバタゴの白い花弁が一枚、散り落ちた。雪はいつか溶ける。そして新しい大地に、僕は僕の物語を育てる。それが奇跡を呼ぶパパラシオの木になればいい。僕は祈った。

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<著者紹介>
高橋 ヒゲスキー(東京都調布市/33歳/女性/会社員)

「はい、とろろとなめこ。あと、蕎麦湯ね」
 注文の蕎麦はすぐにきた。いそいそと薬味をのせ、箸先から逃げるなめこを追いかけていると、隣で洋太が苦笑した。へたくそ、と、店の人に木杓子を頼んでくれる。
「不器用だな、千尋は。ほんとに『ふつつかな孫』を、よろしくされちゃった」
 洋太は目元をほころばせ、会ったばかりの千尋の祖母の真似をした。
彼らの婚約の報告に、何をいうより先に、仏壇に線香を一本立てた祖母。白檀のくすんだ香りがただよう中で、孫娘をよろしくと、ふかぶか彼に頭を下げた。
 千尋は頬を少しふくらませ、蕎麦椀の底を探りつつ、洋太の顔を窺った。そこにいるのが誰か、改めて確かめるように。
 二人が腰をおろした床机の前には、小さな焚き火が燃えている。水車が回る蕎麦処か、野点の茶屋かと迷った末、花冷えの公園を抜けてきた彼らの心を惹いたのは、やはりこの火のあたたかさだった。
 と、春先の風に、蕎麦の湯気があおられて、洋太の眼鏡がさっとくもった。彼は静かに手を上げて、指先でくもりを拭いとる。
 千尋はそれをじっと見つめた。その指先は、さっきまで、確かに別のものだった、と。
        *
 それは、花見客で賑わう神代植物公園の門をくぐり、しだれ桜の並木道のあたりまで来たときのことだった。
 千尋はふいに、静けさを感じた。
 二人の周りにはたくさんの人がいて、滝となってほろほろ零れおちるしだれ桜を、みな浴びるように見上げていた。談笑する人もいたけれど、どの声も奇妙に遠かった。
 気づいたときには、父と手をつないでいた。
 さっきまで触れていた、少し汗ばんだ洋太の手はどこにもない。かわりに握っていたのは、日向くさく、かさかさとかわいた手。
 ――そうだ。私たちは今日、野川沿いの祖母の家に行った帰り、ここへどんぐりひろいにきたのだっけ。千尋はぼんやりそう思い、けれどもすぐに頭をふった。
 違う。それは二十年も前のこと。父はもう、とうに亡くなった。今、私と一緒にいるのは洋太のはず。洋太はどこ? 問いかけようとするが、声にはならない。
「どうした? 疲れたのか」
 上から、父の声が降ってきた。振り仰いだ目の高さに、皺のよったポロシャツのお腹。背が、いつのまにか縮んでいる。もう少し首を傾けると、黒ぶち眼鏡の、紛れもない父の顔が、こちらを見つめていた。
 貝や石、蝉の抜け殻に、おもちゃの鉄砲弾。そんなものを集めるのが、父が教えてくれた何より楽しい遊びだった。二人で変なものをひろって帰っては、いつも母を呆れさせた。それは確かに、その頃のままの父だった。
 見回せば、公園も秋の景色に変わっている。足元に散り敷いた落ち葉の、あたたかな重なりの陰から、父はどんぐりを一粒ひろうと、千尋のほうに差し出した。
 彼女は急に身構えた。父が亡くなってからというもの、幾度となく見た夢を思い出して。
 たとえばふらりと会社から帰ってきて、何もなかったように父はいうのだ。ずっと外国に出張してたんだ。事故? 何の話だい。
 でもそれはいつも嘘で、いつも夢は消えてしまう。ただ、「おとうさんはもういない」という事実だけを残して。 
 今日もまた、何かが父のふりをして、私を騙しにきたのかもしれない。千尋は思った。
 そんな彼女の緊張が伝わったかのように、父はちょっと困った表情を浮かべ、心もち、つないだ右手に力をこめた。
「これ、何の実だかわかるか」
「え」
「なんじゃもんじゃの実だよ」
 千尋は差し出された手のひらの上を見た。
 へえ、変な名前。あの頃なら、きっと素直にそう答えたろう。が、今の彼女は知っていた。人の名前も算数の答えも、わからないものは全部「そりゃなんじゃもんじゃだな」とごまかすのが、いつもの父のやり方だった、と。それで何度、はぐらかされてきたことか。
 が、そんな疑いを見透かすように、父は、ただにやりとしてみせる。そして、さえぎる間もなく、次々にどんぐりをひろいはじめた。
「これも、これも、これも。ほら、なんじゃもんじゃがいっぱいだ」
 そう言って、どんどん先に歩いていく。父は様々な実をひろっては、ズボンのポケットに押し込んだ。と、奇妙なことに、父のポケットはふくらまず、千尋のスカート――もうとっくに捨てたはずの、サスペンダーつきの綿のスカート――のポケットが、少しずつふくれていくのだった。彼女はそれを布の上からまさぐりながら、父の後を追った。
 青空を掃くパンパスグラスの茂みを踏み分け、ばら園の小径を抜けるうち、千尋は誰を追っているのか、次第にわからなくなってきた。父の背中は、時おり点滅するように、洋太の背中を映し出す。千尋の中でも、桜を見上げる今の自分と、どんぐりを探す幼い頃の自分とが、ぐるぐる渦を巻きだした。
 頭上にかぶさる桜の梢は、淡白い花に満ちあふれては、またみっしりと赤い焼け色に紅葉する。まわりのあらゆる樹々たちも、一瞬で二十年分の背丈を伸ばしては、即座にするする枝を縮めた。まるで二本のフィルムを、映写機でいっぺんに回しているかのように。
「ちょっと、待って」
 いつのまに早足になったのか、だんだん息が切れてきて、千尋は父を呼び止めた。
 そこは、深大寺門のあたりだった。父は門の脇に立ち、娘が来るのを待っている。俯く視線の先をたどると、二人の間を隔てるように、どんぐりの海が広がっていた。
 ひろってもひろっても、ひろいきれないほどのどんぐり。それは遠い日、親子をひどく昂奮させた、宝物のような眺めだった。
「ほら、好きなだけひろえ」
 ズボンの脇で手をふくと、父は海ごしにそう呼びかけた。千尋は駆けよろうとしたが、なぜか、どんぐりを踏むことができなかった。
 いつのまにかぱんぱんになったポケットの重さを持てあましつつ、彼女は叫んだ。
「もういい、もう十分ひろったよ。それより、こっちに戻ってきてよ」
 その声は、大人の千尋のものだった。対岸の父は、驚いたように目をみはる。そして、少しだけ寂しそうにいった。
「そうか」
 そうだよ、千尋は心の中でまた叫んだ。
 すると、父が声もなくいうのがわかった。
 よかった。そんなら、もう帰ろうな。
 ――その瞬間、やわらかな春の匂いが勢いづいた。急速に、秋の空気を塗りかえる。
 千尋ははっとして、足元のどんぐりに手を伸ばした。しかしどの実も、もうひろうことはできなかった。
 どんぐりはみな、地面に根を張っていた。殻が割れ、みずみずしい薄緑の実がはじけ、細い双葉が立ち上がる。それらは思いがけず強い力で土をつかみ、決して離れようとはしないのだった。
 父は呆然とする娘を、静かに見守っている。
 千尋は、もう取り返しがつかないという思いと、強い切なさとに襲われた。
 行ってしまう。まだ、大切な何かを忘れているような気がするのに。
 ......そうだ。会ってほしい人がいる。今、一番、誰よりも、父に会わせたい人が。
 私は、あれから、とても大事な人に会ったのだ。
 待って、あと少しだけ。
 けれども、父は戻らなかった。
 そのかわり、明るい何かが、春一番の嵐のように、彼女をめがけて吹きつけた。
「へえ、すごいね、コナラが芽を出してるよ」
 それは、洋太の声だった。
 同時に、ぱん、と膜が破れるように、世界が再び裏返った。
        *
 くもりを拭うと、洋太は眼鏡をかけ直す。
 あのときから、彼はずっと彼のまま。
 ――あれは一体、何だったのだろう。
 千尋は、ますますじっと、洋太を見つめた。
「なんだよ」
 ううん。かぶりをふって、食べ終えた器を机に置く。洋太は首をかしげたが、二つの器に蕎麦湯をつぐと、携帯電話を取り出した。
 ゆっくり開き、ほらほら、と彼女に写真を見せる。その中に、小さな小さな芽があった。
「面白いな。どんぐりって、こんなふうに芽を出すんだね。これが大きな木になるなんて、少し不思議な感じだな」
 しきりに感心しているその様子が、何だか妙に可愛くて、それがなぜだか嬉しくて、千尋も「そうだね」と頷いた。

 鼻をなで、湯気がふわりと立ちのぼる。
 その上に乗せ、幻の余韻を、天に送った。
 ――おとうさん、もう、大丈夫だよ。
私はちゃんと見つけたから。まだ、ほんのちっぽけなかよわい芽。でも、それにさえ、ともに喜べるこのひとを。
 風は冷たくても、あたたかな土に守られて、その芽は茎を伸ばすだろう。
 やがて茎は幹となり、水と光にむくむくとみなぎる。二人の上に枝を張り、深緑の葉をそよがせる。そこに宿る鳥の鳴き声を聞いた気がして、千尋はふっと微笑んだ。
 洋太に向かって、軽く器を持ち上げる。
 彼は一瞬きょとんとしたが、すぐに気づいて応えてくれた。
 蕎麦椀を、グラスがわりにこつんと鳴らす。
「カンパイ」
 何に育つかわからない、なんじゃもんじゃの樹の下で、そして二人は乾杯をした。

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<著者紹介>
沢渡 ともみ(埼玉県越谷市/25歳/女性/会社員)

 だるま市から降り出した雨は、二日過ぎても降りやむ様子はなかった。
 深大寺裏門側にある、高台の小さな蕎麦畑の溝を雨水がえぐるように流れていく。
 時刻は午後一時過ぎ。火の気のない物置小屋で、震える脛を抱いていても仕方がない。
 約束の時間には、一時間ほどあったが、清は油障子を引いて、女が待つ深大寺の本堂へと向かった。
 幸子と会うのは、五年ぶりだった。
 清が深大寺村を出たのは、十五の頃。"金の卵"ともてはやされ、浅草で店を構える和傘職人のもとへ徒弟奉公に出されて以来、会っていない。
 親方は本場・加賀で修業を積んだ男だった。朝晩は掃除、飯炊き等でこき使われ、日中は骨作りやろくろなど、傘作りの工程を厳しく仕込まれた。見慣れ聞き慣れで、拳固で殴られることも日常茶飯事。乱暴な下町なまりが染みつく頃には、清の体にがっしりとした肉がつき、背丈も五寸ほど伸びていた。
 幸子も変わっただろうか――。
 頭に残るのは、ふっくらとした頬。人懐っこい垂れ眼がちの瞳、野良仕事で真っ黒になった手。しかし、浅草の寺町を歩く十八の娘は、皆一様に眩しく見える。村娘とはいえ、少しは女らしくなってるはずだ。
 右手には、清がこさえた和傘があった。
 歌舞伎の演目"助六由縁の江戸桜"の主人公・助六が使った傘と同じ。
 農家の娘には少し派手かもしれないが、きっと喜ぶにちげえねぇ。
 心臓が早鐘のように打ち、泥道を踏む音が次第に大きくなってくる。
 この日を待っていたのだ。清は藁葺きの山門をくぐった。

 幸子と最後に会ったのは、浅草へ旅立つ前の晩のことだ。清が早めに床につこうとすると、幸子が訪ねてきた。
「寝入りばなに、気の利かねぇヤツだな」
 両親の手前、わざと不機嫌な言葉を吐いて戸を開く。外は春雨だった。
 濡れた幸子が萎れるように立っていた。
「こんな遅くにどうしたんだい?」
「キヨちゃん、ごめんね。明日早いのに...」
 聞こえていたらしい。慌てて首を振った。
「いや、別に...、いいんだ。別れの挨拶に来てくれたんだろ。ありがとな」
「うん...」幸子は頷くと、深くうつむいたまま、それ以上言葉を発しなかった。
「ちっと歩こう」しとしと降る雨粒を背で受けながら、二人は無言で歩き出した。
 自然と足は深大寺へと向いた。山門がうっすら見えてくる頃、不意に幸子は顔を上げた。
「明日から、油屋さんの所でお世話になることになったの」
 村一番の豪農の屋号を上げた。
「ちゃんが金を借りて、返せなくなったから、住み込みで畑や台所を手伝うんだ」
 幸子の父が、胸の病で働きが悪くなっていることは聞いていた。
「だ、大丈夫か?」声が大きくなった。
 清は女を知らなかったが、大人たちの会話から、油屋の主人が下女に手をつける男だということは知っていた。
 清の表情から、心情を悟ったようだ。幸子は耳を真っ赤に染め、顔の前で手を振った。
「奥様もいるし、器量の悪いあたいなんて、箸にも棒にもかからないから」
「そうならいいけど...、気をつけろよ。お前より若い子を孕ませたって噂も...」
 そこまで言って、ませた口を利く自分が好色に思えて、口をつぐんだ。つられて、幸子の態度もぎこちなくなった。
「それじゃ、あたし、もう帰る」
「帰る方向は一緒だろ」
 清はまだ話足りない気がしていた。
 幸子は清の問いには応えず、ぺこりと頭を下げると、背を向けた。すると今まで感じたことない気持ちが沸き上がってきた。
 物心ついた頃から、小さな村で家族同然に暮らしてきた。でも明日になれば、幸子と気軽に会うこともできなくなる。雨に叩かれる幸子の後ろ姿がいじらしく思えた。
 清は水たまりを割って走り出した。
「五年だ、五年辛抱してくれ」
 追いついて、肩を掴んだ。振り向いた幸子は、目を見開いた。
「奉公を終えたら、必ず戻ってくる。五年後の今日、また会おう。なっ、約束だ」
 一拍置いた後、すがるように見つめ返す瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「いつ...、どこで会うの?」
「深大寺の本堂だ。時間は昼の二時」
「きっとだよ」何度も確かめようとする幸子の両手が、清の手に重ねられた。
 その手の温もりは、雨音と共に清の中へしっかりと根を下ろし、いつしか辛い職人修業の支えとなっていった。

「おかしなこと、考えてはいないだろうね」
 母の米が探るような目で、幸子を見た。
「おいで、和彦」三歳になる孫を呼び、母の前に立たせる。
「この子まで不幸にするつもりかい。あたしも油屋のことは好かんが、生きていくためには、絶対に側から離れたらいかん」
 情に流されてはならぬと、米は諭すように繰り返した。
「分かってるわよ。今この家を放り出されたら、どうなるかってことくらい――」
 幸子が油屋で働くようになって、数ヶ月が過ぎた頃、油屋の妻が流行病で亡くなった。
 幸子が身の回りの世話をすることとなり、油屋の触手が幸子に伸びた。
 翌年に和彦が生まれ、貧困にあえぐ両親も、油屋の離れへ身を寄せることとなった。
 どっぷりと油屋の金に浸かっている今の私を見て、清はどう思うだろう。
 五年前の夜にかわした約束は、半端なものではなかったと思う。幼い二人が夫婦になろう、と誓い会ったわけではないが、心が痛いほどに重なるのを感じた。
 油屋に身を任せるたび、あの人に会うまでの辛抱だと思えたからこそ、耐えることができた。
 けれども、今日深大寺に行かなければ、私を待つ人は誰もいなくなる。明日からは平坦な暗闇が広がり続けるだけだ。
 雨脚が衰えつつあった。幸子は意を決し、身支度を整えると、母の隙をみて母屋を出た。
 和彦に対する負い目がなかったといえば、嘘になる。が、一旦家から出ると、若葉に落ちた滴が跳ね返るように、幸子は走った。
 雨に洗われた参道脇の緑は濃く香り、湿り気を帯びた石は黒々と輝き始める。
 この日を待っていたのだ。心浮き立つ自分を押さえきれなかった。
 ただ、すでに時刻は午後四時過ぎ。あの人は、もう帰ってしまったかもしれない。
 裾を捲り上げ、山門を駆け上がると、本堂には青白い顔で座り込み、頬杖をついている男がいた。清である。幸子が走り寄ると、弾けるように立ち上がった。
 堰き止めていた思いが、一気に溢れ出た。その胸へぶつかるように、幸子は飛び込んでいった。清の胸板は厚く逞しかった。
「会えてよかったぜ。お前のこたぁ、一日たりとも忘れたことはなかった」
 懐かしい匂いに包まれ、言葉が震えた。
「あたしもよ。ずっと...、ずっと待ってた」
 確かめるように、両腕へ力を込めた。
「たまげるほど、別嬪になりやがって。待てど暮らせど来ねえから、約束を忘れたか、はたまた、どこぞの嫁になったかと思ったぜ」
 そう清が囁いて、頬を寄せようとした時、幸子は身を固くした。汚れきった自分には、その資格がないと思った。
 清も慌てて身を引いた。
「す、すまねえっ。つい昔のつもりでよ」
「いえ、違うの。悪いのは、私...、ごめんなさい、本当にごめんなさい...」
「おい、おい、めそめそ泣くなって。俺も浅草で、カ、カカァが待ってるのに、助平心を出しちまった。こっちこそ、すまねえ...。そうそう人生、思い通りにいくわけねぇよな」
 清は末尾を飲み込むように言った。
「そうだ。今思い出したんだけどよ。明日朝一番で仕事があってな、今からとんぼ帰りさ。
 小さな村だ。誰かに見られるといけねぇ、おめぇもさっさと帰りな」
 この人と夫婦になっていたら、どんなに幸せだったことか。切なさが込み上げてきて、失った物の大きさを知った。
「キヨちゃん、もう一遍だけ、約束して」
 清との糸が、ぷつんと切れてしまえば、それまでだ。
「お願いだから、五年たったら、再びこの深大寺で会うと...」
 傘も差さずに、あばよと走り出そうとした清の袖をひっしと掴んだ。
 嘘でもいい。清との約束があれば、生きてゆける。
「おっといけねえ、コイツを渡さずに帰っちまうとこだった」
 清は笑顔を作ると、朱色と白の円が織りなす色鮮やかな蛇の目傘を押しつけてきた。
 開くとパリパリと音がして、油の匂いが広がった。作り手の心を映し出すきめ細かな作り。勿体なくて、差せやしない。
「気にせず差せよ。五年後にゃ、もっと出来のいい傘を持ってくる。もしかしたら十年、いや、それ以上になるかも知れねぇけどよ」
 胸が詰まった。深大寺に来たのは、間違いではなかったと心から思った。
「じゃあな、今度こそ行くぜ」と歩き出した清に、二日ぶりの薄日が降り注ぎ始めた。
 微かに震えながら遠ざかるその背中へ、幸子は「ありがとう」と呟いた。

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<著者紹介>
増子 哲人(東京都世田谷区/35歳/男性/会社員)

「腹、減ったァ!」
 靫彦は大声で言うと、隣を歩く僕の顔を見て、ヘラッと笑った。力の抜けた、無意味で柔らかい笑顔だ
った。
 僕等は、深大寺水車館の前を通り過ぎて、鬼太郎茶屋の方向に歩いている所だった。
 陽が傾いて観光客の姿が減ったからか、ひぐらしの鳴き声が大きく聞こえた。空も木々も建物も、打ち水された石畳も赤く染まり、一日の余韻を味わうような、穏やかな空気が通りに流れていた。
「声がデカイよ」
「お前、気にしィなのなァ」
「お前が、しなさ過ぎんの」
「でも、お前のそうゆう所、オレ、好きよ」
 靫彦は言って、再びヘラッと笑った。
「ヨモギモチが好き」と、違いがないのは分かってる。でも、面と向かって言われた好きに、何と返していいのか分からなかった。僕は口に拳を当てて咳払いした。
 夏休みの宿題に出た自由研究の為に、神代植物公園に来た帰りだった。植物の写真撮影と資料集めを終えると、靫彦が水車館を見たいと言い出した。
 なんであんな物が見たいのか、僕にはまったく分からない。渋る僕に、靫彦が必死に頼み込んだ。言う事を聞かなければ、座り込んで泣き喚きそうな勢いだった。仕方ナシにやってくると靫彦は、大きな水車に、頭のネジが飛んだようにはしゃいだ。
 バカと子供はデカイ物が好きだ。
 僕は少し呆れてそれを見ていた。でも、そのはしゃぎ方は、なんだか見ているこっちも楽しくさせて、なかなか帰ろうとは言い出せなかった。
 僕は、頭を振りながら鼻歌を唄う靫彦を見た。中学の三年間ずっと一緒のクラスだ。性格も趣味も考え方も違うのに、出会ってすぐに仲良くなり、何故かいつも一緒だった。
「なあ、蕎麦、食おうよ」
「鬼太郎のトコで、ぜんざいでも食えよ」
「バカだなァ。お前、賢いのにバカな」
「何で?」
 僕はムッとして言った。頭の作りはトカゲ程度と言われる靫彦に、バカ呼ばわりされたくなかった。
「こんなに腹減ってんのに、ぜんざいぐらいで足りる訳ねェじゃん」
「お前の腹の空き具合なんて知らないよ」
 靫彦は立ち止まってじっと僕を見つめた。戸惑って見つめ返すと、靫彦はヘラッと笑った。僕もつい笑い返す。靫彦は歩き出した。
「おいっ!」僕は靫彦に駆け寄って言った。「今の何だよ?」
「何だか怒ってるぽかったから......いつもオレが笑うと、だいたい許してくれるじゃん。だから笑ってみた」
 靫彦は、あっけらかんと言った。僕は自分の気持ちを見透かされた気がして、気恥ずかしさからカッとなった。
「何だよ、それっ!」
「どこで食う?」
 僕の声に被せるように、靫彦が言った。僕は言葉を失って靫彦を見つめる。靫彦は、僕がカッとした事に気づいた様子もなかった。
「あれ? 今、何て言った?」
 僕は笑い出した。靫彦が不思議そうに僕を見た。僕はいつだって、靫彦に敵わない。
「何、何? 何が面白れェの?」
「顔」
「そりゃ、お前の立派な顔に比べればね」
「立派な顔って何だよ」
 僕がそう言うと、靫彦は両手で僕の頬を挟んで、息がかかるほど顔を近づけた。僕は金縛りに合ったように動けなくなり、息をする事さえできなかった。
「お前の顔って、本当に丁寧に作ってあるよねェ。ゲーノー人になれば?」
 湯気が出そうなほど顔が熱くなり、心臓の音が、周囲の雑踏の音をかき消すほど大きくなる。靫彦は、僕の動揺に気づかないのか、気にしていないのか、じっと僕の顔を眺めながら「てーねーなのねェ」と、バカみたいに呟いた。
「放せよっ!」
 僕は靫彦の手を振り払って、勢いよく身を引いた。背中が、通りかかった老婆にぶつかり、老婆の持っていた紙袋が落ちた。
「あ、ごめんね、バーチャン」
 言ったのは靫彦だった。僕は動揺が収まらず、声を出す事さえ出来なかった。靫彦は、飛びつくようにして紙袋を拾い上げ、ニッコリと微笑んで老婆に渡した。
「ホント、ごめんね」
 靫彦が言うと、老婆は靫彦の笑顔につられて微笑んだ。しかしすぐに、謝らない僕を睨んだ。
「こいつ、繊細で人見知りだから、すぐに声が出ないのよ」
 靫彦は言って、僕の背中を叩いた。
 それを合図に僕が勢いよく頭を下げると、老婆はびっくりして身を引き笑い出した。
「ね、面白いでしょう? こいつ」
 老婆は笑いながら靫彦に向かって頷き、僕等二人に頭を下げて歩いて行った。
「お前が悪いんだからな」
 老婆の姿が小さくなってから僕が言うと、靫彦は不思議そうな顔をした。
「急に......顔なんか近づけるから......」
「ダルマがある蕎麦屋にしよう」
「聞いてる?」
「オレ、あそこの味噌おでん、好きよ」
「蕎麦じゃないの?」
「蕎麦と味噌おでんを食うんだ」
「夕飯、食えなくなるぞ」
「だって、いっぱい食って幸せそうなオレの顔がいいって、前に褒めてくれたじゃん。オレ、お前に褒められるの嬉しいんだ」
 靫彦は軽い口調で言った。
 僕は、呆気にとられて立ち止まった。誰かのたった一言が、こんなにも嬉しく思える事を、僕は知らなかった。
 靫彦は立ち止まると、右手を腰に当て、左手を大きく振って僕を呼んだ。本当は、僕の気持ちを全部知っていて、からかってるのかもしれない。そんな訳ない。靫彦は何も考えていないだけだ。
 僕は何だか悔しくなり、わざとゆっくりと歩いた。靫彦はじれたように、僕が近づいてくる間、ずっと体を揺すっていた。
「おせェよ。わざとゆっくり歩いてさァ」
「先行く、お前が悪いんだろう」
 靫彦が不貞腐れた顔で黙り込み、僕はそれを見て小さく笑った。そのまま観光案内所を通り過ぎて、蕎麦屋の前に来ると、靫彦は亀島弁財天池に顔を向けた。
「井の頭公園のボートって、縁切りだって言うじゃん?」靫彦が言った。「あれって、弁財天が嫉妬するから?」
「確か、そんな話だったね」
「じゃあさ、ここも縁切り?」
「深大寺は縁結びだよ......それに、亀島の由来知らないの?」
 靫彦はコクンと頷いた。
「昔、娘の彼氏が気にいらない親が、娘を離れ小島に閉じこめたんだよ。島に行く方法がなくて困った彼氏が神様に祈ると、亀に変身した神様が、背中に乗せて島に連れてってくれたんだって。神様が助けてくれるなんてスゴイ奴だって、親も彼氏を認めて、二人は結ばれましたって言う話だよ」
「お前、お話、上手だね」
 靫彦が感心した口調で言った。
「それは今、関係ないじゃん」
「じゃあ、ここは縁結びなんだ?」
 靫彦は念押しするように言った。
「何? 誰か好きなコがいんの?」
 僕は、わざと明るい口調で言った。そうしないと、嗚咽に声が震えそうだった。
 靫彦の顔が、あっと言う間に赤くなる。その反応に、思わず僕まで赤くなった。
「蕎麦、食おうぜっ!」
 靫彦はそう怒鳴って店の中に飛び込んだ。僕はその背中を見送り、弁財天池を見た。池の方向から風が吹いて、慰めるように僕の髪を揺らした。
 分かり切った結末だ。そもそも最初から、この思いを口にするつもりはなかったじゃないか。僕は自分に言った。
 行く先をなくした僕の思いが、喉と胸に支えた。息をする度に、堅くて、重くて、熱いその塊の角が当たって、喉と胸が痛む。靫彦が店の中から大きく手を振り、僕を呼ぶ。僕は微笑んで手を振り返した。
 靫彦がヘラッと笑った。
 蕎麦が、思いの支えた喉をスルリと通りますように。
 僕は弁財天に願った。

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<著者紹介>
野中 賢(東京都豊島区/38歳/男性/会社員)

 採用担当者はわたしより二十歳は若いだろうか、履歴書を見ながら質問を続けた。
「それでは、以前は新宿のデパートで和菓子の販売をされていた、と」
「はい、定年で退職しましたが、店長を五年させていただきました」
「オープニングスタッフということで、スタッフも皆一から勉強していくのですが、あなたがこの職場で生かせる強みと言うと何ですか?」
 わたしは、にっこり笑顔でこう言った。
「忍耐です」

 一か月後、研修を経て、わたしはコーヒー店の店員となった。
 今風に言うと、カフェのキャストになった。
 このカフェには、店長を含めて八人のキャストがいるが、わたしは当然最年長である。
 調布駅前にオープンした初日は開店から勤務に入っていたが、まあすごいにぎわいだった。何でも地域でも待望の本格的なカフェということで、わたしたちはコマネズミのように働いた。
 初日ということで当然トラブルも発生する。オーダーを間違えて戸惑う(『テンパる』と今は言うらしい)女の子のキャストのフォローに回ったり、空いた席にすぐ座ってもらえるよう片付けに行ったり、レジで待たされていらいらしているお客さんに謝ったり、コーヒーを作るよりそんな仕事の方が大半を占めた。
「ハルノさん、こんな状態が毎日続くのかなあ」
 ゆっこちゃんという十九歳のキャストが音をあげると、わたしはこう答えた。
「そのうち落ち着くでしょう。大丈夫、何とかなるわよ」
 もうすぐ五時になろうかという頃、梅雨の晴れ間の暑い日差しもようやく傾きかけてきた。レジに入っていたわたしのところに、一人の年配の男性がやってきた。
「いらっしゃいませ、こちらでお召し上がりですか?」
 男性は黙ってうなずいた。
「ご注文がお決まりでしたらお伺いします」
「アイスコーヒー」
「大きさはいかがなさいますか?」
「普通」
 わたしは「トール」のキーを押しながら、その男性がどこかで見たことあるような...と思っていた。
「お会計、320円になります」
 男性は黒い皮の小銭入れから400円出した。ゴツゴツと骨張った大きな手だった。
「80円のお返しになります。あちらのカウンターでお品物が出てくるのでお待ちになってください」
「ナナセさん?」
 その言葉にどきりとして、男性を見ると、大きな目がこちらを見ていた。
 ナナセは、わたしの旧姓だった。
「もしかして...長谷川くん?」
 男性はこっくりうなずいた。
 高校の同級生だった長谷川くんと、わたしは四十年ぶりに再会した。

 それから長谷川くんは、月曜になると店にやってきた。店も一週間ほどで落ち着いたが、午後はそれでも忙しく、あまりゆっくり話す時間もなかった。頼むのはいつもトールのアイスコーヒー、席が空いていればソファで一時間ほど新聞を読みながら飲んでいた。混んでいればカップを手に持ちふらりと出て行った。しばらくはそんな時期が続いた。
「えー、ハルノさんってもうお孫さんいるんですか?」
 月曜日の開店前、店内の掃除をしながらゆっこちゃんがびっくりしたように声を上げた。
「もう三歳になるわよ。男の子だからやんちゃ盛りで」
「でも娘さん夫婦と同居なら、何かと安心ですよね。わざわざ働かなくてもいいんじゃないですか?」
「みんなそう言うけどね、わたしにとっては自立は人生のテーマだったのよ」
 そのときはそれだけ答えた。蝉の声はおしゃれなボサノバでかき消されていたが、今日も暑くなりそうだった。
 夕方、店のゴミ箱の片付けをしていると、長谷川くんが席を立ちこちらに近付いてきた。
「お預かりします」わたしは笑顔で空のカップを受け取った。
「ナナセさんは、そばはお好きですか」
 唐突な長谷川くんの問いに、私は少々めんくらった。
「好きですけど、それが、何か?」
「深大寺の『水月庵』で、私そばを打ってるんです。今度食べにきてください」
 そう言って、長谷川くんは店を出て行った。やや薄くなった白髪頭が見えなくなったとき、はじめてわたしは、長谷川くんが高校卒業後に調理師学校に進学したことを思い出した。
 深大寺。私たちが通った高校も、深大寺の近くにあった。ここ数年行っていなかったが、行こうかな、と思った。

 仕事が休みの水曜日、お昼時にわたしは深大寺を訪ねた。高校までは毎年のように初詣に行ってたが、卒業後ぱったり足が向かなくなった。その後結婚して金沢に行って、十数年暮らしたが、夫と別れて娘を連れて都内を転々とした。両親が亡くなり実家に戻ってきたころ、ようやく離婚が成立した。
 深大寺では、自分と家族の健康を祈ってきた。この年になると、もっぱら願いはそんなものだ。土産物屋などをひやかしながら、わたしは水月庵に向かった。
 バス停から五分ほどのその店は、ひっそりとたたずんでいた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」カウンターから長谷川くんがのぞいてあっと目を丸くした。わたしはにっこり微笑んだ。
 幸いすぐに席に通され、お冷やとおしぼりが運ばれてきた。
「もりそばお願いします」
 盛り一丁ーっと三十代くらいの女性の店員さんがカウンターに声をかけると、へいっと長谷川くんの返事が響いた。店内は会社勤めのおじさんや、深大寺詣での後らしいわたしぐらいの奥様方など、落ち着いた雰囲気だった。
 しばらくして、もりそばがやってきた。そばのざると、つゆの瓶とそば猪口、薬味の皿。ざる以外は、伊万里だった。割り箸を手に取り、ぱちんと割って、さっそくそばを一口すすってみた。
「...おいしい」
 一人だったのでそれからは黙々と食べた。そばはコシがあってのどごしがよく、つゆも辛すぎず食べやすかった。ネギとショウガとわさびを加え、簾からの風を感じながらそばを食べた。女一人でそばを食べられるようになったのは、いつ頃からだろう。そう思ったのは、ざるが空になって一息ついたときだった。
 店員さんがお冷やのお代わりを持ってきたので聞いてみた。
「このお店はいつからやっているんですか?」
「店自体は三十年くらいですね」
「わたし、あの長谷川さんと高校の同級生だったんですよ」
「そうなんですか。あのとおり、まじめな親方で、そば一筋ですよ」
「わたしが働いてるコーヒー店で偶然会って。びっくりしました」
「そういえば、言ってましたよ。駅前にできたカフェに、知り合いが働いていて驚いたって。ああ、それが奥様ですか。お若いですねえ」
『奥様』という響きが少々居心地悪かったが、私はあいまいに微笑んだ。
「お会計!」
 そこに長谷川くんの声が響いて店員さんはあわててレジに戻った。わたしが長谷川くんに会釈すると、長谷川くんもばつが悪そうに目礼した。
「とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「長谷川くんはお変わりないですね」
「ナナセさんもお元気そうで」
「あ、その名字変わったんです。今はハルノです。まあ今は独り身ですけど」
「すみませんでした」
「いいえ、いいんです。長谷川くんにそう呼んでもらえると、少し若返ったような気がします」
 そう、わたしは長谷川くんと再会して、少し若返ったのだ。「少し」だから、昔ほど無茶はできない。でも、今だからできることもあるのだ。
 わたしは伝票を手に会計に向かった。
「ありがとうございました」
 店を出るとき、店員さんとともに長谷川くんがお辞儀をした。
 
 そして月曜日の夕方、レジを終えると、ちょうど五時になっていた。
「お疲れさまでした」
 わたしは制服から私服に着替え、ロッカーを出た。長谷川くんはソファで新聞を読んでいた。
 その背中に近付きながら、わたしは言うべき言葉を考えてどきどきしていた。
 積もる話は山ほどある。だからこそ、ゆっくり歩けばいいじゃないか。
 彼と会うときだけ、わたしは七瀬みどりになれるのだから。

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<著者紹介>
加瀬 ヒサヲ(東京都/29歳/女性)

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