深沙大王堂を通り過ぎてしばらく往くと、懐かしい山門が見えた。小さい頃によく遊んだなぁ。道路は舗装されて綺麗になっているし、以前はなかったお店もちらほらと見える。
「そりゃ、そうか。もう...八年も経つからな」
僕はポツリと呟き、立ち止まって時計を見た。午後八時五四分。約束の時間まであと五分と少し。上出来だ。五月にしては蒸し暑い夜、ふと目を向けると、山門は静かに佇んでいて、その静謐さはまるで、「落ち着きなさい」と僕に告げているようでもあった。そう、確かに僕は緊張している。何しろ八年ぶりなのだから。山門をくぐれば深大寺の本堂で、その隣には今も変わらず「なんじゃもんじゃの木」が雪のように白い花を咲かせているのだろう。そして、手紙に書かれたメッセージが僕の考えた通りなら、きっとあの木の下で、君が待っているはずだ。僕は、八年前のことをふいに思い出した。
 転勤族だった父の影響で、中学まで過ごした東京を離れることになった。行き先はイギリス。父や母は海外駐在を出世だと喜んでいたけれど、僕はちっとも嬉しくなかった。友達と離れ離れになるし、いきなり英語だなんて言われても、ピンとこない。それに、由香里のことだって...。
 由香里は、幼稚園からずっと一緒の、いわゆる幼馴染みってやつだ。家族ぐるみの付き合いで、どこに行くにも大抵一緒だったように思う。卒業を待たずに渡英すると言われた時、真っ先に考えたのが彼女のことだ。当時はそれが"恋"だなんて思いもよらなかった。だって、好き嫌いよりも近い距離間で僕らは時間を過ごしてきたから。クラスメイトの中には大人びた奴もいて、彼氏だ彼女だと騒いだり、年上の高校生と付き合ったりしていたけど、僕も由香里も、その点はすごく純粋で、恋愛を究極の約束事のように考えていた節がある。
「ねぇ、ヒトツバダコって知ってる?」
 渡英を目前に控えたある日、深大寺本堂の境内に座って二人で話していると、由香里が聞いてきた。
「ヒト...何?」
「ヒトツバダコ。ほら、そこの木」
言って指差した先には、僕らがなんじゃもんじゃの木と呼んでいる木があった。
「なんじゃもんじゃだろ?あれ」
「それはニックネーム。正式名称はヒトツバダコなの」
 なんだか馬鹿にされているみたいに感じた僕は少しムッとしながら返した。僕がもう海外に行くっていうのに、どうして木の話なんか。
「なんじゃもんじゃでいいじゃんか。ってか、それがどうしたんだよ」
 由香里は、微笑みながら繰り返した。
「今はまだ咲いてないけど、ヒトツバダコの花って、白くてまるで雪みたいだなーって思うことない?昔の人はね、すごく綺麗なものを、雪と月と花に例えて『雪月花時最憶君』、つまり、美しい物を見ている時に、遠くにいる君を思い出します、って歌に詠んだりしたんだよ」
 「...イギリスでも、月は見えるけどさ...」
 今思えば、僕はなんて馬鹿な返事をしたんだろうと思う。だけど、夕陽が差し込む境内で、少し大人びた話し方をする彼女を隣に見ながら、心の中にいつもと違った感情が芽生えて、それが僕を素直にさせなかった。由香里の笑顔が、すこし曇って、戸惑い、何かを決意した表情に変わった。
「...イギリスにも桜は咲くのかな、雪は、降るのかな。私には分からないけど、でも、もしも雪が降ったら、月が綺麗だったら、桜を見つけたら、啓は、私の事思い出してくれる?」
 心臓が弾け飛びそうな感覚だった。そして、その瞬間、僕は二つのこと知った。由香里が僕を好きだということ。そして、僕も由香里を好きだということ。
「...なぁ、深大寺ってさ、縁結びの寺だって知ってた?」
 僕は、出来る限り平静を装って話しかけた。
「知ってるよ。深沙大王の話でしょ?」
「由香里は本当なんでも知ってるよな。あれはさ、小島に隔離された恋人を、彼氏が亀に乗って迎えに行くって話じゃん?」
「うん」
「俺はたぶん亀には乗ってこないと思うけど、大学を卒業したらさ、あー...」
「何?」
「卒業したらさ、迎えに来るよ。だからさ、約束しよう。大学を卒業した年に、このなんじゃもんじゃの木の下で会おうって」
「...私ね、啓がいつも羨ましかったの」
 突然話が変わって僕は少し困惑した。今、精一杯の勇気を振り絞っているのに。
「え?」
「だって、啓は五月生まれじゃない?...ヒトツバダコはね、五月に満開になるんだよ。だから、約束して。雪の花を咲かせるこの木の下で、啓の誕生日の夜に、私を迎えに来て」
「...あ、あぁ。そっか。いつ会うか決めてなかったら会えないもんな。そうだよな」
「そうだよ。もう、いつも啓は抜けてるよね。そういうとこ」
そう言った由香里は、いつもの彼女だった。
それから一週間後、僕たち家族は、イギリスへ向かって旅立った。
 イギリスでの生活は単調に過ぎていった。海外生活と言っても、駐在員とその周辺なんてミニジャパンみたいなもので、僕も学校に通いながら、同じような境遇の他の日本人たちと英語の勉強に励んだ。渡英から四年が経ち、両親は帰国したが、僕は進学していたから、一人で残ることにした。
 大学生活は特に刺激のあるものではなかった。コースはどうにもならないほどではなかったし、他の学生のように、毎週末にクラブで踊って、一晩限りの相手を見つけたりするほど人生の刺激に飢えているわけでもなかった。何より、イギリスに来てからというもの、日本にいる時よりも鮮明に、僕は由香里を、その約束を心の中に温めておくことに時間を費やすようになった。
「お前、中学生の時の恋愛なんてガキの遊びだろ?相手も忘れてるよ」
「ユングだかフロイトだかは、真面目すぎて結婚してから遊び始めたらしいぜ。過去の恋愛に囚われんなよ。出エジプトだって!」
多くの友人は、そう僕に言った。勿論、彼女が出来なかったわけじゃない。でも、心の大部分を埋め尽くしていたのは、その相手ではなく相手に重ねた彼女だった。唯一心待ちにしていた彼女からの手紙も、他の女性と関係を持ってしまった罪悪感にさいなまれて返信できなくなり、一人暮らしを始めてから2年と少しで途切れた。
 大学も終わりに近づいたある日、フラットに一通の手紙が届いた。差出人も宛先も書いてなかったけれど、その手紙はなぜか僕の心をかき乱した。封を開けると、中には紙が一
枚だけ入っていた。
『雪月花時最憶君』
たった一行、そう書かれた手紙は、僕に八年前の深大寺を思い出させた。君はまだ、憶えていてくれたのか。もうずっと昔に忘れられたとばかり思っていたのに。イギリスにも桜は咲いたし、雪も降った。夏の月はとても明るくて綺麗だった。五月に君に逢いに行こう。きっと君は、そこにいる。
 ...野良犬が吠えて、僕は我に返った。どのくらいこうしていたのだろう。時計を見ると、午後九時を五分過ぎたところだった。まずい、遅刻だ。高鳴る胸を抑えるように、僕は山門をくぐり、本堂を正面に見ながら、ゆっくりと歩いた。今更ながら、何を君と話せばいいのだろうか、と思う。
 なんじゃもんじゃの木は、その枝が広がる範囲いっぱいに、雪を降らせていた。本当に雪みたいだな、と月並みなことを考えながら、僕は君の姿を探した。果たして、君はそこにいた。白いワンピースに薄水色のカーデガンを羽織り、景色に溶けそうなくらい儚く佇んで、じっと僕を見つめていた。
 八年ぶりの再会は、しばらくの間、静寂に包まれていた。お互い言うべき言葉を見つけられず、中途半端な距離感のまま立ち尽くしていた。
「五分遅刻。相変わらずだね、啓のそういうとこ」
 最初に沈黙を破ったのは彼女だった。
「あ...、ご、ごめん。でもそれを最初に言うことないだろ、八年ぶりの再会だぜ?」
「うん。そうだね。でも、なんだか嬉しくって。あの時と、何も変わってないみたいで」
「そうかな。変わっただろ、俺たち。少しはさ」
「そうかな。私は、啓って全然変わってないと思うよ。背が伸びたくらいじゃない?」
「うるせえな。由香里こそ...」
 と、慌てて後に続く言葉を呑みこんだ。「綺麗になった」なんて、恥ずかしくて言えやしない。
「何よ?」
「なんでもねーよ」
「ふーん。ま、いいや。でも...」
 由香里が一瞬黙った。そして、あの時の、戸惑いと決意の表情をまた見せる
「来てくれて嬉しかった。憶えててくれたんだね」
「忘れるわけないだろ。俺が約束したんだぜ、迎えに来るって」
 言ってから、なんてことを口にしたんだと後悔したけど、もう遅かった。
「うん...。約束したもんね。ありがとね」
その時、微笑んだ彼女の、大人びた笑顔を彩るように、風がそっと、雪の花を散らした...。

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<著者紹介>
渡邉 伸悟(福岡県北九州市/25歳/男性/大学院生)

 わたし達は別れる。たぶん、今日を最後に。
 二月の終わり、深大寺にはぼたん雪がちらついていた。うっすらと雪が積もり、山門の屋根は白く染まっている。歩を進める度に足跡が水っぽく残って、雪を踏みしめる感覚がする。
 ざくざくと響く足音は二つ。わたしの少し前でひろ君が白い地面に足跡を残している。マフラーに埋めた顔の、鼻の頭がうっすらと赤い。
 門をくぐると、道の脇に並ぶ葉を落とした木々が雪を纏っていた。色の少ない冬枯れの木は初夏に溢れる緑とは違う趣がある。周りを眺めながらゆっくり歩いていると、道の少し先でひろ君がこちらを振り返って立ち止まっていた。わたしは慌ててひろ君の元へ駆け寄る。
 ひろ君はわたしを見て、小さく口を開きかけたけれど、何も言わなかった。そしてまたすぐ、わたしに背を向けて歩き始める。わたしは、なんとなく、隣を歩くことも、遅くてごめんと声をかけることも、できなかった。

 きっかけは、青いテスト用紙だった。高一の期末テストの日に、わたしは筆箱を忘れてしまった。その時席が隣だったひろ君が、二つ持っているからと、シャーペンと消しゴムを貸してくれたのだ。でもテストが終わった時にちらっと見たら、ひろ君の答案は真っ青だった。本当は消しゴムもシャーペンも一つしかなくて、ひろ君は青いボールペンで答えを書いたのだ。わたしはその時、青いテスト用紙に、恋をしてしまった。
 ひろ君に告白されたのは、高二の初夏のことだ。公園のベンチでとりとめのない話をしながら、ひろ君が切り出すのを、わたしは二時間も待った。遠くで遊んでいた子供の、水色のワンピースをわたしは今でも覚えている。
 新緑が青々と茂る深大寺は、付き合って初めて二人で行ったところだ。まだ恥ずかしくて、距離を置いたままぽつりぽつりと言葉を交わすだけだった。わたし達は手をつなぐのに二ヶ月もかかったのだ。でも、二人でいることが嬉しくてたまらなかった。
 あの時の距離と、今、わたし達を隔てる距離は途方もなく違う。わたしはひろ君の背中を追いながらぼんやり思った。ひとひら、ふたひら、舞い落ちるぼたん雪は音もなく積もっていく。
 
 「茜」 
 わたしの名前を呼ぶ、ひろ君の声が好きだ。だから、ひろ君が戻ってきたことに気付かないふりをして、名前を呼ばれるのを待った。
 「これ、お茶」
 ひろ君はわたしにペットボトルの熱いお茶を手渡した。手袋の中からでも熱が伝わってくる。
 「ありがとう」
わたしは笑って言ったけれど、ひろ君はすぐに目を逸らした。また何か言おうとしてやめる。白い吐息が微かに漏れた。
 「あの、鐘みたいのなんだろうね」
 わたしは屋根の下にある大きな鐘を指差して言った。
 「さあ。鐘じゃない」
 ひろ君はそっけなく返す。二人してしばらく鐘みたいなものを眺めていたけれど、今度はわたしがすたすたと歩き出した。ひろ君は隣には並ばず、少し後からついてくる。
 微妙な距離を保ったまま、無言で歩き続けていたら、「別に」という、ひろ君のそっけない言葉を、ふと思い出した。クラスメートの男子に、わたしの事を好きなんだろう茶化されて、ひろ君は「別に」と言ったそうだ。
 ごめん。おれ、浪人するから、別れようか。夜の公園でそう言われたとき、わたしは頭が真っ白になった。ごめん、会えなくなるし、茜は別れた方がいいよね。しんと静かな闇の中で白い吐息が揺れていた。真っ白な頭に浮かんだのは、青いテスト用紙でも、水色のワンピースでも、初夏の緑溢れる深大寺でもなく、「別に」という色のない言葉だった。その言葉が照れ隠しだということくらい、わかっていたのに、わたしは思わず頷いてしまったのだ。
 最後のデートの場所に、ひろ君は深大寺を選んだ。初めてのデートと同じ場所を。その意図がわたしにはわからないけれど、だからわたしは今こうして深大寺に来ている。それで、わたし達は別れる。たぶん、今日を最後に。
 わたしは先ほどのひろ君と同じように何も言わずすたすたと歩いた。雪を踏みしめる感覚が少し心地いい。
 「茜」
 ふいに名前を呼ばれ、わたしは少し驚いて振り返った。ひろ君が真っ直ぐにわたしを見ている。
 「どこ行くの?本堂、こっちだよ」
 ひろ君は少し笑いながら、目の前の大きな建物を指差した。わたしの足跡は本堂とは別の場所へ向かおうとしている。
 「あ、ごめん」
 わたしが俯いて言うと、ひろ君はわたしの隣に並んだ。そして小さな声で、行こう、とわたしを促した。
 わたし達は屋根のあるところまで、雪の薄く積もった階段をのぼる。息が白く染まって、音もなく消えた。階段をのぼりきると、それぞれ傘を閉じる。溶けた雪がぽたぽたと傘から滴り落ちた。
 「寒いね」
 なんとなくわたしが言うと、ひろ君は頷き、顔を埋めていたマフラーをほどき始めた。
 「マフラー、巻きなよ」
 そしてマフラーをわたしの首元に巻こうとする。毛糸のふわりとやわらかい感触がした。
 「いいよ、大丈夫」
 わたしが慌てて言っても、ひろ君は聞かない。わざわざ手袋を取って、丁寧にマフラーをぐるぐると巻いてくれる。ひろ君の鼻は真っ赤で、手も微かに震えていた。ふいに、骨ばって男らしいひろ君の手が一瞬、頬に触れた。
 手をつなぎたい。わたしは、自分でも驚くほど強く、そう思った。ひろ君の手に触れたい。どうしても触れたい。押さえ込んで蓋をしていた感情がどっと溢れ出す。
 わたし、ひろ君と、別れたくない。
 「できた」と、ひろ君は微笑みながら、マフラーから手を離す。かじかんで少し赤くなった手が視界の端で見える。マフラーの巻かれたわたしの首元は、泣きたいくらい暖かかった。しんしんと雪が降り続けている。
 「お参りしよう」
 ひろ君はそう言って、段差を一段上がった。わたしもひろ君の後に続く。財布を開けて、小銭を取り出した。勢いよく投げると、賽銭箱の奥へと滑り落ちていった。
 お参りと言っても何を願えばいいんだろう。
願うことなんかひとつしかないのに、もうひろ君の隣にはいられないんだ。
 それでも、わたし達は隣り合って手を合わせた。目を瞑ると、余計にひろ君が隣にいる気配を強く感じる。
 「おれ、よくここ来るんだ」
 ふいにひろ君が言った。わたしは小さく相槌を打つ。そうなんだ。
 「深大寺って、縁結びの伝説があるんだよ。だから、茜に告白する前とかお参りしたし、付き合えた時も、上手くいきますようにって、茜をここに連れて来たんだ」
 ひろ君は一息にそう言った。
 「だから今日も、ここに来れば上手くいくかなって」
 そこで言葉を切った。真剣な瞳が真っ直ぐにわたしを見ている。
 「おれ、別れようなんて言ったけど、その方が茜の為になるかと思ったけど」
 ひろ君の言葉をかみ締めようとすると心臓が驚くくらい早鐘を打つ。
 「やっぱり、おれ、続けたい」
 鼻の奥がつんと痛くなって、涙が浮かぶのを感じる。そうだ、そうだった。ひろ君はいつも、大事なことをするのに時間がかかるんだ。そしてわたしはいつも、受身ばかりで、本当のことを言えずにいる。
 「ひろ君」
 わたしはひとつ息を吸った。声が少し震えてしまうのがわかる。そうして、一息で言った。
 「わたし、ひろ君が好き。わたしもひろ君と、別れたくない」
 ひろ君ははじかれたようにわたしを見た。信じられない、というような顔をして、すぐに安堵の表情が顔中に広がった。ため息を大きく吐くと、白く染まって広がった。
 「よかった」
 小さく呟いたひろ君の手を、わたしは握った。ひろ君の手はやっぱり冷たくて、少し乾燥している。わたしよりも大きい手のひらを暖めてあげるために両手で包み込むようにした。ひろ君は何も言わずにそうするわたしの顔をじっと見ている。
 やがてわたしはひろ君の手を引いた。
 「行こう」
 わたし達は本堂の階段を手をつないだまま降りた。そこから見える景色は雪で白く染まっていて、ところどころに木々の茶や傘の色が見える。わたしはその景色を、一生忘れないだろうと思った。色が少ない寂しい景色で、なんだか寒々しくて、でも、驚くくらい、きれいだった。

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<著者紹介>
大谷 朝子(千葉県浦安市/19歳/女性/学生)

海水浴に行ったとき、浜辺で寝そべって日焼けするのを『こうらぼし』って言うけれど、サンオイルの代わりに体中にコーラを塗って焼くことだってずっと思ってた。
今、深大寺の池の真ん中に突き出た切り株に、数匹の亀が折り重なるようにして群がって日光浴しているのを見て、それが『甲羅干し』だということを始めて悟った。
この大発見をあかりにも教えてやろうと思って言ったら、ひと言
「あんたって、昔っから馬鹿だよね」
と、呆れられた。
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと絵描きなさいよ。夏休みの宿題終わらないでしょ」
「おまえウチのおふくろみたいだな」
「あんたにおまえなんて呼ばれる筋合いはありません。私にはちゃんと『あかりちゃん』って可愛い名前があるんだから」
「だったら、俺だってあんた呼ばわりされる覚えはないよ。都知事と同じ『慎太郎』って立派な名前があるんだから」
「名前負けね」
いつの頃からだろう。小さい頃はお互いに『あーちゃん』『慎ちゃん』って呼び合っていたのに。中学生になった今じゃ『あんた』『おまえ』なんて呼ぶようになってしまった。で、毎回同じ議論を重ねて結局は『あかり』『慎太郎』って名前を呼ぶことに落ち着く。幼馴染っていうのはこんなもんだろうか。
「でもさ、今更なんで深大寺でスケッチなわけ?他にもいいところあるでしょ」
「近いからに決まってるじゃん。それに」
「それに?」
それに、深大寺に奉られているのが縁結びの神様だからと言えるわけがない。
「いや、なんでもない」
「変なの。ま、いいけどさ。深大寺久しぶりだし。丁度スケッチもしたかったから」
「だろ?近いと逆に足が遠のくからさ。新鮮でいい絵が描けるよ」
なんとかごまかせたみたいだ。
とどのつまり僕はあかりに惚れているらしいのだ。らしいって言うのは自分でも実はよくわかっていないからだ。あかりのことを急に意識しだしたのは、2年のクラス替えで同じクラスになってからだ。1年のときは別々のクラスだったから挨拶を交わすぐらいだったけれど、同じクラスになって毎日顔を合わすようになると、なんだか段々とあかりがまぶしくなってきたのだ。洒落じゃなくて。
あかりにしてもまんざらじゃないらしいのは、態度を見ていればわかる。わかるような気がする。いや、そう思いたい。
このままずっと幼馴染のままか、彼女にクラスチェンジするかはわからないけれど、今日はもやもやした僕の気持ちと、あかりの気持ちを白黒つけるべく、僕はある計画を立てていた。題して『深大寺で手をつなごう大作戦』である。これを遂行すべく僕は美術部のあかりに夏休みの宿題の絵を見てもらうという口実をつけて、深大寺まで連れ出したのだ。
が、元来の凝り性が災いした。僕は、スケッチに夢中になって、下書きがようやく形になった頃には、太陽は既にてっぺんまで来ていた。続きは腹ごしらえをしてからにして、僕らは深大寺名物のそばを食べることにした。
坂道を登って植物園の裏にあるそば屋に入ると僕らは屋外にある木陰の席に陣取った。
しばしの間おしながきとにらめっこして、あかりは十割そば、僕はニ八そばを注文した。
「やっぱ深大寺に来たら、そば食べなきゃね」
「十割そばっていい香り。慎太郎も十割そばにすればよかったのに」
「てやんでい!江戸っ子はニ八と相場が決まってるんでい!」
「あんた多摩っ子じゃない」
「ニ八の方がのどごしがいいんだよ」
「ニ八そばってことはさ、おそばが200gとして160gがそば粉で残りが小麦粉でしょ?40gも損してるじゃない」
「それぐらいの計算できるさ。これでも期末の数学97点だったんだぜ」
「慎太郎、昔っから算数得意だったもんね」
「あかりは数学何点だったのさ」
「何点でもいいでしょ!」
僕はあかりが数学が苦手なのを知っていた。知っていてわざと聞いてみた。好きな子に意地悪したいっていうアレだ。
ちょっぴり気まずくなった僕らはしばらく無言でそばをすすった。
「慎太郎さ、高校ってもう決めた?」
「いや、まだ決めてないけど」
「やっぱさ、近くの普通科高校がいいよね」
「どうだろ。俺、数学が得意だから普通科より理数科の方が向いてるかもね」
「遠くの高校に行っちゃうの?」
「わかんないけどさ。理数科なら私立の男子校とかでもいいかななんて」
「そんなとこ行ったらいっしょな高校に行けないじゃない」
「あかりこそ、女子高とか行ったらいっしょにならないじゃん。あかりんとこのおばさん、あかりを自分の母校のお嬢様学校に入れたがってるって聞いたぜ」
「女子高なんか行かないよ。女子高なんか」
それっきりあかりはうつむいて黙ってそばをすすった。伸ばした前髪が垂れて表情がわからなくなった。ずるずるいう音がそばをすする音なのか、べそをかいたときのはなをすする音なのか僕にはわからなかった。

午後からはスケッチに水彩絵具で色を着けた。照りつける太陽の下、絵具はすぐに水分を失って乾いた。僕はパレットの絵具に何度も水分を補給しなければならなかった。
凝り性の僕と絵に関しては妥協を知らない熱血美術部員のあかりの指導のおかげで、絵が完成したときには日は西に傾きかけていた。
片付けが終わると僕らはせっかくだから、深大寺の周りの店をひと回りすることにした。なにしろ『深大寺で手をつなごう大作戦』も頓挫したままだったし。
「慎太郎、ソフトクリーム食べようよ」
「いいね。俺、バニラね」
「私、マンゴーにしようっと」
僕らはお店のひとにお金を払って、思い思いのソフトクリームを受け取ると、スケッチブックと画材を片手にぶらぶら店を見て歩いた。
「やっぱりソフトはバニラに限るな」
「マンゴーだって美味しいよ」
「シンプルイズベストなの。例えばさ、好きな女の子がいたとして、たまにはマンゴー色も刺激的だけど、やっぱり白がいいわけよ。男としては」
「それなんの話?」
「パンツ」
間髪いれずに、あかりの肘鉄がミゾオチに入った。あまりにもキレイに入ったので一瞬息が止まった。不覚にも手に持っていたソフトクリームをポトリと落としてしまった。
「あー、まだ半分以上残っていたのに」
「慎太郎が変なこと言うから。ゴメン」
「いや、いいよ。俺も悪かったし。それより落としたソフトクリームを片付けなきゃ」
僕は近くのお店の人に声をかけて新聞紙を分けて貰った。落ちたソフトクリームのコーンを拾い、石畳についたクリームを新聞紙で拭きとってまるめると、もう一度お店のひとに頼んで捨ててもらった。
「これでよしっと。拭き取りきれなかった分はアリさんへのプレゼントってことで」
「そういうとこ、慎太郎のいいとこだよね」
「性分なだけだよ」
「私のマンゴーソフトあげるよ。半分以上落としちゃったでしょ?私はもういいから」
「サンキュー。ありがたく貰っておくわ」
僕はあかりの食べかけのマンゴーソフトをひと口舐めた。口の中に甘酸っぱいマンゴーの香りが広がった。
「これってさ、間接キスだよね」
「そんなこと言うなら返せ!」
「ムリーッ」
僕はマンゴーソフトをいっぺんに口に押し込んだ。コメカミにキーンと痛みが走った。
「イテテ。チョー頭イテーッ」
「冷たいものをそんな急いで食べるからでしょ。子供なんだから」
「返せったって、もう食べちゃったよー」
「いいわよ、あげたんだから。食べ終わったんならバス停まで競走よ!ヨーイドン!」
「おい、待てよ、あかり」
全くどっちが子供なんだかわからない。僕はあかりを追いかけて人のまばらになった石畳の上を走った。バス停の手前にある車止めのところで、僕はようやくあかりに追いついた。
「あかり、勝手に競走なんて、ずるいぞ」
「か弱い女の子に対するハンデよ。それよりさ、あれ見て」
言われるままにあかりが指し示す方を見ると、バス停でおじいさんとおばあさんが仲良く手をつないでバスが来るのを待っていた。
「なんか、いいよね。歳をとっても仲良しってさ」
「だね」
しばらくの間、僕らは仲良し老カップルをながめていた。
「あーちゃん」
「なに?慎ちゃん」
なぜか小さい頃の呼び名であかりを呼んでしまった。同じくあかりも小さい頃の呼び方で答えた。
「手つなごうか」
僕はおじいさんとおばあさんに視線を向けたまま言った。怖くてあかりの顔を見ることができなかった。けれども、全部の神経は目の端に映るあかりをとらえて離れなかった。
「ん・・・」
あかりがこくりとうなずいたのが、目の端に映った。
西日が僕らのほほをマンゴー色に染めた。


前山 尚士(東京都調布市/男性/会社員)

 このバラの名前はね、ジプシーの血、というのです。
 なぜ笑うのかって?面白いわね。あなたに似た方のことを思い出したの。その方も私に同じことを尋ねたわ。このバラの名前はなんというのでしょうか、って。
 その方も、バラがとてもお好きでした。本当に、この庭に迷い込んでこられた理由も、あなたとまるで一緒。深大寺を裏手から南に抜けようとして、道を見失ってこのわき道に迷い込んだのです。そう、あなたがいらした植物公園の方からね。
 なぜ、ジプシーの血、というのかしらね。この血のように赤い色のせいでしょうか。目に焼きつくようなこの色が、体の中の血と呼応して、彼の地でジプシーがかき鳴らす、すすりなくようなヴァイオリンや、ツィターのメロディーを思い起こさせるのでしょうか。
 あの方は、このバラの名前を聞いて、ヨーロッパの音楽家の名前をいくつか口にされました。この縁側に座って、バラを見ながら、「これらは皆、友好国の作曲家ですから、まだ聞くこともできるのです。」と微笑まれて。
 そう、あの方と私が出会ったのは、あの戦争の最中のことでした。あの方は航空士官学校の生徒さんで、私はまだ女学校の生徒でした。あんな時代でしたもの、若い殿方と二人きりで庭に座っている姿を見られでもしたら、と、私は気が気でなかったのを覚えています。でもあの方はとてものんびりした方で、そんなことは気にもなさらず、「水を一杯下さいませんか、調布の水はおいしいと聞いているので。」なんて、のんきなことをおっしゃるのです。私は、今にも、家の者が奥から出てきたりしないかしら、と、ひたすらはらはらしていたのを覚えています。
 そう、こんなおばあさんにも、殿方に胸ときめかせる青春の頃があったのです。別れ際、あの方は、もう一度、この庭のバラをじっと見つめていらっしゃった。その視線があまりに真剣なので、私は思わず、「一枝、お持ちになりますか?」と尋ねていました。その時のあの方の晴れやかな笑顔で、私は一度に恋に落ちてしまったのです。
 とはいえ、お互い名前も名乗らず、素性も知れず、もう二度と会うこともかなうまい、と思っていましたのに、所沢の親戚の家に遊びに行った先で、私は偶然あの方をお見かけしたのです。あの方は所沢の陸軍航空学校にいらっしゃって、その日は水練ということで、狭山湖での訓練に参加されていたのでした。ちょうど私達家族が、湖のほとりを散策している時でした。私達の傍らを、隊列を作って走る制服姿の中に、あの方のお顔を見つけた時、私は本当に息が止まるかと思った。あの方もこちらに気づかれて、かるく会釈を返してくださいました。でもそれだけで、私は本当に天にも昇る心地で、真っ赤に染まった頬を家族のものに気づかれないよう、ずっとうつむいて歩いたのを覚えています。
 あの方は航空兵になられるのだ。そう思いました。あの方は空を飛んで海を渡る。狭い狭い操縦席の中で、自分の四囲の全てを風に包まれて、トンボのように儚く、鷲のように雄雄しく、幾千里の彼方まで空を行く。その日から、毎朝私は、朝起きるとまず一番に庭に出て、空を見上げ、両手を広げて目を閉じるようになりました。体中に風を感じたい。あの人と同じ風を感じたい。名前も知らない、ただこの庭で、美しいバラを見ながら、二言三言の言葉を交わしただけのあの方と、この青空で私はつながっている。そう思うだけで、私は幸せでした。
 戦局が次第に悪くなり、深大寺の近辺も灯火管制がしかれ、空襲警報の不安なサイレンが鳴り響く日が増えてくると、私の幸せは不安に変わりました。あの方は今、どこで、どんな飛行機に乗っているのだろう。敵の機銃掃射をかいくぐりながら飛ぶのは、どれほど恐ろしいことだろう。どれほど孤独なことだろう。薄い風防ガラスの向こうは、何一つ体を支えるものとてない虚無の空間が広がっている。機銃掃射で機体が打ち抜かれれば、たとえ小さな傷であっても機体はバラバラになる。あの方はそれでも空を飛ぶのだ。死と隣り合わせの危険の中へと飛び立つのだ。ただ、私達を守るために。
 あの方がどこに配属されたのか、どこの空を飛んでいるのか、それも全く分からぬまま、私の心は、毎日毎日、不安で締め付けられるようでした。そして、夏が過ぎ、秋をむかえ、再び庭のバラがつぼみを開き始めたころ、あの方は突然、再び、私の庭を訪れたのです。
 あの方は立派な航空士官の制服を着て、玄関先で私に向かって背筋を伸ばし、敬礼をされました。私はもう、呆然として涙も出なかった。あの方が覚えていて下さったこと、この日本で、再び会えたこと。その嬉しさよりも何よりも、あの方の厳しい表情が、私の胸を突いたのです。
 あの方は、ご自分の名前を名乗り、飛行第244戦隊所属の少佐であるとおっしゃいました。以前の非礼をお詫びになり、偶然、調布飛行場に着任したので、どうしても私に頼みたいことがあって来た、とおっしゃいました。
 「このバラを一輪、操縦席に飾りたいのです。」あの方はおっしゃいました。「飛燕の操縦席は狭苦しくて、少しでも潤いが欲しくてね。」
 そうおっしゃりながら、あの方は、軍人の癖に女々しい男と笑われますか?と、恥ずかしそうに微笑まれました。私は必死に首を横に振りました。首を横に振りながら、私はただ、涙をこらえておりました。なぜあんなに胸が詰まったのか、私にも分からない。私は群れ咲くバラの中から、なるべく長くもちそうな、丈夫なつぼみを選びに選んで、あの方にお渡ししました。心の奥の底の方で、「これは私です」とつぶやきながら。これは私です。私の分身です。私はいつも、あなたの側におります。操縦席のあなたの側にいて、ともに空を飛び、いつでも、どこでも、あなたとご一緒いたしましょう。
 その願いが届いたのでしょうか。私は確かに、あの方の最期の瞬間を自分で見ることができたのです。体験することができたのです。あれは本当に、不思議な瞬間でした。
 空襲警報が鳴り、私が家族と共に、真っ暗な家の中で小さく震えている時でした。目を閉じた私の周囲で、いきなり風が吹きました。ふわり、と体が浮かび上がったような感覚がして、思わず目を開くと、目の前にあの方がいらっしゃいました。あの方は必死に操縦管を握って、すさまじい風の音が荒れ狂う中を、ひたすらひたすら空高く上っていくのです。その視線の先を追ってみれば、風防ガラスの向こうに見えるのは、禍々しい黒いB29の編隊の影です。あの方は、その影に向かって、ひたすら機体を上昇させていくのです。
 飛燕の操縦席の中は、むせるようなバラの香りで、それは私の体から発せられているのです。あの方は一瞬その香りをかいで、小さく微笑まれました。機体のすぐ側で、風とは違う鋭い音がかすめていきます。B29が機銃掃射を浴びせ、あの方の飛燕の翼が、激しくバンバン、と音を立てました。翼から燃料が霧のように噴出します。それでも、あの方は微笑んでいました。微笑を浮かべたまま、あの方はご自分の飛燕を旋回させて、そのまま、真っ黒いB29の機体の影の真ん中に突っ込んでいったのです。
 その刹那、私の体は、私の家の真ん中に戻っていました。私は思わず、家族が止めるのも聞かず、家の外に飛び出しました。見上げた空に、一機のB29が、真っ赤な炎を上げてゆっくりと落ちていくのが見えたのです。その炎は本当に血の色のように、このバラの花弁のように鮮やかに、私の網膜にくっきりと残像を残してやきついたのです。
 考えてみれば、私は、あの方に4度しかお目にかかりませんでした。お言葉を交わしたのはたったの2度。1度は、本当か幻かも分からない夢のような時間の中で。それでもその4度の出会いで、私は自分の生涯の恋を、全て燃やし尽くしてしまったのだと思います。
私も年を取りました。この家に住んだ私の家族も全てこの世を去り、あの方のことを覚えているのは、私と、この咲き誇るバラだけとなりました。あなたもバラがお好きなら、ジプシーの血、という名を持つバラをご覧になった時、むかしむかしの若者達の、儚い恋の物語を、思い出してやってくださいまし。バラが好きだった少女と、遠いヨーロッパの音楽が好きだった若者が、この空で燃やした恋の炎の物語を・・・

 ・・・老婆が語る物語に耳を傾けていた私が、ふと気づいてみれば、私の傍らに確かにいた、小さな品のいい老婆は姿を消していた。振り返ってみれば、古い、けれど趣味のいい瀟洒な家屋、と見えた家は荒れ果てて、縁側についた私の手のひらは埃にまみれている。はっとして立ち上がってみれば、あれほど豪奢に咲き誇っていたはずの真っ赤なバラは枯れ果てて、茶色く無残な枯れ枝が、雑草の生い茂る庭の中で、初夏の風に揺れているばかり・・・
 と、ふと私は、その初夏の風の中に、濃厚なバラの香りを一瞬嗅ぎ取った。でもそれも一瞬のことで、風はそのかすかな香りの記憶を包み込み、一散に青空の彼方へと駆け上っていく。二人の恋が花開いた、遠い成層圏の彼方へと・・・

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<著者紹介>
北 教之(東京都調布市/44歳/男性/会社員)

 台所が彼女の担当。僕はリビングの六畳間の床に雑巾がけをする。家具を除けた跡が濃い茶色に残っている。雨は降ってはいないが、まだ明けない梅雨のどっぷり重たい湿気に僕は汗を吹きだす。
「ねえ」と彼女の声がする。
 すぐに「うん」とは答えられず、そのまま彼女の言葉が続くのを僕は待つ。
「お米買っておくの忘れた」
「いいよ、明日行くから」
「ごめん。玄米のね五分突きって頼むんだよ」
「いなくなったら白いご飯にするさ」
「――そうか。そうだよね」
 うん、そうだよ。いいだろ、そうしたって。
今日、彼女は十年一緒に暮らしたこの部屋を出て行く。

 チャイムの音に彼女がリビングに顔を出す。
私が出るのは変だからと大真面目に訴える。
チャイムの途切れ目に、僕ははい、と答えた。
――隣に引っ越してきた者です。つまんないものですが、と三十歳見当の男が置いていったのはミニタオルの包みだった。へええ、と二人して覗き込む。なるほどね、そうだよねと二人揃って頷くのが可笑しい。
「あの時もこうすれば良かったんだよねえ」

 十年前、僕らがこの2Kのアパートで一緒に暮らすことになった時、引越しの挨拶に蕎麦を選んだ。折角地元の名物なんだし、と言う僕に、地元のものなんて皆食べ飽きてるんじゃない? と言い張る彼女。でも僕は地元だからこそ逆に盲点なのだよ、と訳の分からぬ理屈で言いくるめ、わざわざ二人して深大寺の蕎麦を買いに行ったのだ。僕らの部屋の左右上下と管理人の分、合わせて五世帯分の蕎麦。ただ計算違いは都会の住民は訪ねて良い時間には留守のことがほとんどで。結局のところ管理人だけが「これはご丁寧に」と受け取り、残りは賞味期限と競争すべく、僕らの腹に片付けた。

 彼女の分の荷物を運び出した部屋は、変に風通しが良く、落ち着かない感じがする。
「じゃあ、行くね」
 小さな旅行鞄とバッグを手に彼女が玄関に立つ。キーホルダーからこの部屋の鍵を外す。
その同じキーホルダーにこの間から新しい電子錠が取り付けられたのを僕は知っている。これから彼女が暮らす、きっともっと広い部屋のオートロックのマンションの鍵。

 調布行きのバスを一緒に待っていた僕は、出来るだけ軽く聞こえるように彼女を誘った。
「引越し蕎麦、最後に奢る」
 ええ? と彼女が笑ってくれたのを見逃さず、旅行鞄をするりと持つ。反対側のバス停に深大寺行きのバスがもうそこに迫っている。
「行こう、奢るから」
 僕は道の向こうへと急ぎ渡った。
 平日の深大寺はぽかりと時の穴に落ちたかのように、人気がなかった。そう言えば蕎麦のことばかりが頭にあって、一度も本堂に足を向けてなかったと二人して山門をくぐる。横で手を合わせる彼女を盗み見る。何を祈っているのか、穏やかな静かな横顔。これからの彼との生活? 僕との平和な清算への感謝? 意地悪な言葉が次から次へあふれ出る。
――彼女に罰があたりますように。
――あの男は実はふたまた男で暴力野郎でマザコンでギャンブル好きでキャバクラ通いが大好きでそれからそれから――。
「ね、なにをあんなに熱心に祈ってたの?」
彼女に問われ、僕は本当のことが咽喉まで出かかり慌てて飲み込む。
「この間の文学賞のこと?」
 途端に高揚した気分が萎える。ズボンのポケットに突っ込まれているのは、家を出る時覗いたポストから引っ張り出した薄い封筒。中堅の出版社が主催する文学賞の名前がプリントされていた。審査結果在中とあった。

 半年前、彼女のすべてが薄いゼラチンの膜で覆われた。近くにいるのに実体がない。言葉を交わしているのにぼんやり遠い。いつもの笑顔、いつもの会話、いつもの二人の風景。なのにいつの間にか隣に座る他人になっていた。元々僕らの生活はすれ違っていた。出版社の総務部に勤める彼女と小説書き志望の僕。六年前、僕の勤務する文具の卸メーカーが業務縮小になったのをきっかけに、小説家志望者がするにふさわしい生活に入った。つまり家事のほとんどを僕が担当し、彼女が帰る頃に二十四時間スーパーの深夜レジのバイトに入る。その後、早朝のオフィス清掃を終えて彼女が起きだす時間に帰る。彼女と共に軽い朝食を食べて彼女の出勤を見送り、短くも深い睡眠を取ったのち執筆。もしくは取材と称した散歩。このところ散歩の時間が圧倒的に多くなっていたけれど。だけどゼラチン越しの彼女になってから、僕の指は猛烈にパソコンのキーボードの上を動いた。
 彼女ガ離レテイク。
 暗い予感が僕に張り付いて離れない。それを忘れる為、僕は画面の上に僕らが出会ったなにもかもがいい加減な希望と、意味もない優越感に溢れたあの季節のことを書き連ね埋め尽くした。
 ほらこんなにも僕らは輝いていたのだから。

 けれど。どうやっても。
 僕らの季節は別れの章だけが残されていて。
「完」の文字を打ったその原稿を、僕はもう見るのも嫌になり、そして彼女に見られるのも怖かった。画面からデータを消し去り、プリントアウトした原稿の束は、間近に迫っていた中堅出版社の文芸賞の宛名を殴り書きにした封筒に突っ込んだ。あくまで彼女の目からのカモフラージュのつもりだった。けれど。
早朝オフィス清掃の帰り道、少しでもアパートへの戻りを遅らせたくて、遠回りした大きな街の、昼も夜も灯りのついた大きな郵便局で僕はようやく目の前から原稿を消すことに成功した。

 彼女が僕の手を取った。余りにも懐かしい温かい感触に僕はびく、となる。彼女は気づかない振りをして続ける。
「ほら、ここ、それから、ここも」
 本堂よりもなお古い大師堂に座る木彫りの像に僕の手を這わせる。像が黒ずんでいるのは、病んだ信者が平癒を祈って同じ部位をさするためだ。
「腱鞘炎だって言ってたでしょ? それと腰も、ああ、それから目。最近変だって」
 小柄な元三大師の像に、僕の手を這わせる彼女。数え上げる僕の不調は大師の体全部と言ってもいいくらいだ。
「百円のお賽銭ぐらいで欲張りだよ」
 それもそうね、とようやく彼女は僕の手を離す。僕は軽くなってしまった右手で大師像の一箇所をゆっくりと押さえる。
――ここさえ治してくれたらいいんです。
大師の左の胸に僕は祈った。
 
 蕎麦屋の入り口には大きな笹が立てられていた。脇に置かれた床机に短冊とマジックペン。忘れてた今日は七夕祭りか。
「どうぞ、お願い事書いてくださいな」
 絣の上下を着た女性が声をかける。揃いの衣装がこの店のユニフォームらしい。
断るのも大人げないとそれぞれにペンを持つ。なんて書こう。彼女を見やると眉間に皺をよせて短冊を睨んでいる。真剣になった時の彼女の癖だ。すう、とひと息吸い込むと彼女のペンが走る。これからの幸せでも祈るのか、そりゃあそうだろう。僕はすっかり書く気が失せ、彼女が書き終えるのを離れて待つ。
「見ないでよ」
 店員が紐で引き下げてくれた笹の、一番高い枝を選んで彼女は短冊を結びつけた。手を離すと笹はほどかれたように天を目指す。小さく手を合わせる彼女から僕は目を逸らした。

 席についた彼女に、何でも好きなものを頼めよ引越し祝いだと言い置き、僕はもう一度店先に戻る。ポケットから審査結果を知らせる薄い封筒を取り出し、紐に結わえ付ける。不思議そうに見ていた店員に頼み、もう一度笹を低くたわませてもらう。どうせまた落選だ。こんなもの持っていても仕方がない。せめて空に近い枝に結ぼうと欲を張る。彼女が先ほど結んだ短冊が目に入る。
――彼の作品が認められますように。
 馬鹿じゃないのか。
 なんだよな、こんな事書くなよな。
 ふいに泣き出した僕を気味悪く思ったのか、店員がひっそりと離れていくのが分かった。僕は薄っぺらな僕の短冊をも一度見る。これを引越し祝いの笑い話にしよう。ほらな、やっぱり駄目だったよ。そうしたら今度こそあいつは安心して愛想をつかすだろう。僕は封筒を開いた。

「やっぱり引越し蕎麦はやめた」
僕は売店で買い求めた土産の蕎麦の包みを彼女の腕に押し付ける。
「二人で食べてよ。その方がいいよ」
「でも」
「もともとそうするつもりだったんだから」
 渋る彼女を乗せたタクシーを見送ると今来た道へと踵を返す。やり直しだ。もう一度笹の天に僕の短冊を結びつけるのだ。
――審査員奨励賞、だとさ。
 これってなんなんだよ。もう少しやってみればって、期間延長のお許しか。まあいいさ、どっちみちここまでやってきたんだ。あと一年、来年の七夕まで、彼女の願い事をせめて叶えられるかどうか。やってみるのも多分悪くない。と、ポツリ雨が来た。

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<著者紹介>
時乃 真帆(東京都大田区/45歳/女性)

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