ここへ来たのは久しぶりだ。最後の記憶は、高校一年生の時に初めて出来た彼氏の一歩後ろをついて歩く光景だった。しかしその彼の顔は頭の中でぼやけてよく思い出せないし、何をしに来たのか、どんな話をしたのかといった肝心な事は全く思い出せなかった。ただ少し色が薄めの髪に覆われた彼の後頭部と、思春期特有の甘酸っぱい気持ちと、木や土の香りだけが印象深く記憶に残っていた。
 ともかくその記憶から逆算すると、ここへ来たのは実に四年振りという事になる。
 そこへ突然男の声が乱入してきた。
「いいよ、自然だよ。」
 その時私は道端のベンチに座って足を組み、幼い頃によく見かけた名前も知らない米粒程の黒い虫を目で追っていた。
 頭を上げると、道を挟んで向こう側に見知らぬ男が立っていた。甚平姿にサンダルという姿でスケッチブックに鉛筆を走らせながら、手元と私との間で首を頷くように上げ下げしている。端整な顔立ちが犬猫でも可愛がるような笑顔に解れ、いたずらっぽさの残る高校生にも、二十代後半の頼れるお兄さんのようにも見えた。しかし後者に見える理由は、手元を向いた時に光の反射で眼を覆い隠してしまう黒ぶちメガネのせいのように感じた。
「ごめん、自然に集中して。いや、集中したらだめ、あくまでも自然に。後少しで完成だからね。」
 私を描いているようだ。この状況とへんてこな無理難題に戸惑い、一瞬目が泳ぐ。しかし彼の笑顔と、後少しという言葉に背中を押され、再び目線を下げてやった。彼の注文である自然がよく分からず、せめて先程と同じ状態を作ろうとあの虫を探してみたが、見つける事が出来なかった。仕方がないので視界の範囲に想像上の虫を創り、目で追ってみる。前方からシャッシャッという鉛筆の小気味良い音と、遠くから初夏によく聞く鳥の鳴き声だけが聞こえる。この明らかに不自然な状況と、人の良すぎる私自身への情けなさとで、どんどん体が窮屈に小さくなっていく感じがする。早く描き終えてくれる事を願った。「はい、完成。いいよ、なかなか。見る?」
 彼がスケッチブックを右手で差し出しながら近づいて来る。私はおずおずとベンチから腰を上げ、両手でそれを受け取った。
「あ、うまい......。」
 素直に声に出していた。少しうつむきがちにベンチへ座る女性。その表情には喜怒哀楽のどの感情が突出しているでもなく、何か透明感を感じる印象があった。顔自体は自分で思うよりもだいぶ美しくデフォルメされ、照れ臭いながらも悪い気はしなかった。
「うまいね。」
 私は同じ言葉をもう一度繰り返し、幼い子の描いた絵を褒めるようなつもりで笑顔を作り、彼にスケッチブックを返した。
「僕の絵のテーマは自然でね、それは木や花といった言葉通りの自然も含めて、あらゆるモノの自然な姿なんだ。」
 聞いてもいない事を無垢な目で話し出す。仕方がないので私は、お姉さんのようなつもりで話に乗ってやる。
「私が自然だったから描いてくれたの?」
「そうそう、さっきの君は自然そのものでさ、放っておけなかったんだよ。」
「ふーん。でも自然がテーマなら、もっと山とか川とかの方がいいんじゃない? 確かにここも自然が豊富だけど。」
「ここに来る人はね、みんな自然な顔をよく見せてくれるんだ。山や川の自然もいいけど、人の自然な顔ってそれ以上に素敵だし、自然そのものだと思わないかい?」
 そんな話をしながら、気付けば結構な距離を彼と歩いて来ている事に気が付いた。
「ところで君はなんで今日ここに来たの?」
 初めて彼が私の事を聞いてきた。そういえばなんで来たのだろう。大学の友達関係のストレス発散とか、そんな小さな理由があった気もするが、さっきのベンチへ置き忘れてきた。要するにどうでもよくなっていた。
「えと、まぁ、......自然に?」
そう言ってみた。すると彼は途端に、偉人の名言でも聞いたかのような真剣な表情になり、なるほどと何度か頷きながら遠くを見つめた。一応おどけてみたつもりで言ったのだが、予想とは正反対の彼の反応に、逆に私が笑いをこらえる事になった。

 いつの間にか一軒の蕎麦屋にいた。彼が絵のお礼にご馳走してくれるらしい。悪いからと断ったが、「ここの名物の蕎麦を食べないで帰るなんて、自然じゃないよ!」と訳の分からぬ理屈に負かされてしまった。
 彼が早いのか私が遅いのか、随分と食べる速さが違う。私が丁寧に薬味をつゆに入れ、蕎麦を二すすりした間に、彼はもう蕎麦湯を汁碗へ注いでいた。
「随分と丁寧に食べるんだねぇ。」
「こうやってつゆにちょんと付けて食べるのが、正しい江戸の作法なのよ。」
「江戸じゃなくて多摩流だよ。つゆにべちゃってつけた方がおいしいし、自然だよ。」
私はそれが自然かどうかについてはいささか疑問を感じたが、彼の視線に耐えかね、一回だけのつもりで口に運びかけた蕎麦をつゆへたっぷり浸し直した。彼に一瞬視線を向けた後、静かに蕎麦をすすり上げる。
「おいしい......。」
 本日二度目の素直な声を漏らしてしまった。
「でしょ? あ! その顔いただき。」
 汁椀を置き、スケッチブック取り出す彼。
「ちょっと、食べているところは嫌よ。」
「いいからいいから、ね?」
 返事を聞くまでもなく、彼は鉛筆を走らせ始める。止めさせようと思ったが、子供から玩具を取り上げるような罪悪感に襲われ、仕方なく箸を進める。恥ずかしさですっかり不満気な顔をしていたと思うが、たっぷりとつゆに浸した蕎麦は悔しい程美味しかった。
 やがて食べ終わり、私も蕎麦湯を椀へ注ぎかけている所で、絵が完成した。
「できた。ここ最近で一番の傑作だよ!」
 そう言って、スケッチブックを私の見える向きにテーブルへ置く。
 さっきの絵とは、随分と印象の違う絵だった。さっきの絵の中の透明感のあった女性が、目尻をたっぷりと下げて蕎麦を頬張っている。お世辞にも透明感などなく、その代わりに蕎麦湯の湯気のほっこり感が彼女を包んでいる。いや、そのほっこり感は彼女自身から滲み出ているようにも見えた。
「えー、私こんなにニヤニヤしてないし、蕎麦ももっと丁寧に食べていたよー。」
「僕にはそう見えただけだって。」
 絵に視線を向けたまま、彼が答える
「さっきの絵の方がいいなぁ。」
「そう? それじゃさっきの絵は記念にあげるよ。傑作が出来たしね。」
そういうと彼は、先程の絵を丁寧にスケッチブックから切り離し、私へ渡した。
「ありがとう。」
「いえいえ、こちらこそ。」
 そう言うと彼は、蕎麦女の絵を手元に引き寄せ、彼女と同じように目尻を下げて絵を大事そうに撫でた。
 そんな彼の様子を見ているうちに、なんだか私はそっちの絵の方が欲しくなっていた。その素直な気持ちは口から少し出かかったが、結局は出せなかった。私はその口を彼に分からないようにすぼめながら、絵を優しく折ってハンドバッグへしまった。

 陽も少しずつ傾き、どちらから言うでもなく帰路に付いていた。私は彼の一歩後ろを歩き、彼の綺麗に整えられた襟足を見ていた。
(変な人。)
 心の中で彼に呼びかけてみると、涼しくなってきた風が通り抜けた。風は彼のつむじ付近の跳ねっ毛をピロピロと揺り動かし、同時に懐かしい土や木の香りを残していった。
 すると彼が肩を少し震わせながらぷっと吹き出し、こちらを振り向いた。
「僕ってさ、なんか変な人っぽいよね。」
「そう? そんな事ないと思うけど。」
 真顔を取り繕って、首をかしげる私。
 そうだよ、君は変な人だよ。

 やがて入口の観光案内所を通り抜け、外の通りへ出た。
「あ、私バスだから。」
 私は立ち止まって、すぐ右手のバス停に視線を向ける。
「そうか、僕は徒歩なんだ。それじゃあね。」
 スケッチブックを私に向かって振り、通りの歩道を右へ歩き出して行く。
「あの......。」
 そう言いかけた時、彼がこちらへ振返り、私の言葉を遮るように言った。
「僕は授業が無い時は、ほとんどここに来ているよ。君もまた自然にここへ来るよね?」
「うん。そしたらまた自然に会えるね。」
 二人ともほぼ同時に吹き出した。彼の顔は、夕陽の眩しさでよく見えなかった。
 彼は授業と言っていた。私とそれ程歳の変わらない大学生なのであろうか。そういえば彼自身の事を何も知らないままだった。名前や年齢すら聞いていない。そんな事を考えながら彼の後ろ姿を見送っていたが、通りの急カーブにあっという間に消えてしまった。
 私はプツリと切れてしまった視線を今来た道へ向け、そのまま人で活気付いた観光案内所の辺りを見渡してみた。
 ......そうか思い出した、四年前に彼氏とここへ来た理由。あれ? という事は効果無いじゃん。いや、そうでもないのかな。
 私はここの名物である縁結びのお守りを買うために、バス停を通過し観光案内所の売店へ戻った。

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<著者紹介>
鈴木 涼一(東京都多摩市/31歳/男性/会社員)

 春の陽気は、思いのほか僕の心を突き刺してきた。境内の白砂が、キラキラと煌いている。門前通りから、枝垂桜の花びらがひらひらと白砂の上を舞っている。ほんの少し前の満ち足りた僕らの時間は、今ではぽっかりと穴が開いたようだった。春の陽気は、そんな穴を容赦なく照り付けていた。枝から巣立った花びらが再び枝に帰ることがないように、僕らの時間は記憶だけを残して、既に立ち去っていた。

「オ蕎麦ノ、ワッフル、イカガデスカ。」
そんな彼女の不意の一言が、短き永遠の始まりだった。その透き通った声によって、僕の中の鼓動が止まった。それからというもの、僕は門前通りの脇の蕎麦ワッフルを食べに通いつめるようになった。
フランス語でワッフルは、ゴーフルというらしかった。彼女は、ゴーフルにチョコレートとアイスを乗せてくれ、そしてウィンクしながらそれを僕に手渡してくれた。ウィンクは、「アイスをサービス」という意味らしい。
寒梅の色付く頃の寒さは、店先の彼女を小さく見せていた。スザンナは、手をギュッと握って白い息を吐きながら、行きかう人に「オ蕎麦ワッフルハ、イカガデスカ」と声をかけていたが、僕がゴーフルを買いに行くと、いつもにっこりと微笑んで、いつものゴーフルを焼いてくれた。店子の奥は暖かいのか、女主人の老婆がいつも七輪の前で転寝をしていたものだから、スザンナは折を見て、僕の座る軒先のベンチに遊びに来ては、深大寺の四季を語ってくれた。
僕らは、互いのことを聞くことはなかった。
何故日本に来たのかを聞くこともなければ、何故僕が毎日ゴーフルを食べに来るのかを聞かれることもなかった。そういった所与の黙秘が、知らずの内に二人を日常に引き込んでいったのかもしれない。

 深大寺の四季を僕は見たことがなかったものだから、ただ彼女との会話から、その移ろい様を想像するだけであったが、彼女が嬉しそうに語るその姿をプリズムとして、寺の四季が僕の脳裏に投射されていた。春の枝垂桜、夏の湧き水、秋の紅葉、冬の雪化粧。春の節分、夏の盆踊り、秋の灯篭流し、冬の初詣。
 スザンナは、枝垂桜の舞う姿に惹かれて、この店子で働くことを決意したと言った。そして、最後まで桜を見ていたいとも言った。そんな伏し目と、嬉しそうに話す彼女の格差が、僕を心地よく刺激していた。名月と桜の下で最後を迎えんとする風流さを、彼女なりに感じていたのだろうか。徐々に桜の芽の出る焦げ茶色の枝を眺めながら、彼女は束の間の休息をするのだった。相変わらず、店子の奥では老婆は転寝をしていた。

 そんな毎日を過ごすうちに、境内の枝垂桜の莟は、徐々に大きくなっていった。彼女と接するうちに、徐々にフランス語を覚えるようになった。いや、彼女との会話のために覚えたのかもしれない。片言のフランス語挟むたびに、彼女は嬉しそうな笑顔を添えてフランス語で返してくる。もちろん、その返答の意味は僕には分からなかったが、その笑顔だけで、晩冬の寒さが耳の火照りと混ざり合うようだった。

 桜の莟がいよいよ大きくなってきたころにも、スザンナは相変わらず、蕎麦のゴーフルを焼いていた。もちろん、僕のゴーフル以外にはアイスクリームは乗っていなかった。
 僕が店先でゴーフルを食べていると、その日もいつものように彼女はやってきたが、どうしたわけか、「今日ハコレデ仕事ハオ仕舞イ」だと言った。僕は理由を尋ねようかと考えあぐねていたが、そうする内に、彼女は身支度を整えて再び僕の前にやって来た。ほんのりと甘酸っぱい香水の香りがしたのは気のせいだったのだろうか。
「カクレンボ、シナイ?」
突拍子のない彼女の申し出に、僕はちょっとした悪戯めいた気持ちで、「Bien(ビアン) sur(スール)!(喜んで!)」と答えた。
 二人は、山門前の階段の下でジャンケンをした。日本語に「ジャン」という音はないから、僕はジャンケンを外国語だと思っていたが、どうやら日本語らしかった。そんなジャンケンを、彼女はすんなりとやってのけた。
スザンナは、山門を背に目を瞑りながら、片言の日本語でゆっくりと数を数えだした。その山門の向こう側は、額縁の中の絵のようだった。小さな枠の中に、こじんまりと常香楼と本堂が納まっていた。スザンナが三を数えたとき、僕は山門前の階段を一気に駆け上がった。山門から本堂にかけては石道が伸びていたが、奥の本堂は、常香楼からの白い香のベールに包まれていた。
その香のベールに包まれる手前で脇を見ると、少し離れた所に三現大師堂がでんと建っていた。その堂には縁の下が見て取れた。恐らくフランスには、縁の下なんてものは存在しないだろう。そう、思うや否や、僕は縁の下に身を隠すことにした。
縁の下の空間は、白砂の境内と違って外の光を拒む世界であったから、その姿を現すまでには幾分かの時間が必要だった。しばらくして目が慣れてくると、堂の柱や向こう側の隙間がぼんやりと見えてきた。気の温もりのせいか、縁の下は意外に暖かかった。畳の香りと木の香りと少々のカビ臭さとが融和して、どこか懐かしさを醸し出している。小学校の頃に隠れんぼをすると、僕はいつも縁の下にもぐっていた。そこは、外の様子がハッキリと分かるので良い隠れ家だったし、湿った木の香りが妙に落ち着くのであったからだ。
そんな折、さっきの甘酸っぱい香りが四つん這いになった僕を掠めたような気がした。
「見ツケタヨ。」
その弾んだ声は、スザンナの声だった。
「どうして、こんなにすぐに分かったの?」
「フランスニハ縁ノ下ガナイカラ、隠レルナラ、ココカナト思ッテ」
僕の機智は、彼女の既知だった。日常とノスタルジアの境界である御堂の縁の下は、彼女にとっては極めて日本的で非日常の間だったのだろう。彼女自身、一度は入ってみたかったというのだから、まさに僕の浅はかな思い付きが彼女の声を弾ませたのだった。僕は、おのずと頭を掻くしかなかった。
「じゃぁ、今度は僕が見つけるよ。」
そういって、僕は三現大師堂の前で目を瞑った。彼女の駆け足に合わせて、白砂がジャリッとかみ締める音が徐々に遠のいていった。
 ゆっくりと三十を数えてから、僕は目を開けた。白砂に映える日の光が、僕の目を細めさせた。

こうやって僕らは交互に鬼と隠れ子をやったので、いよいよ隠れるところもなくなった。僕は、境内の枝垂桜の蔭に隠れることにした。恐らくココが見つかるのも、時間の問題だろう。そっと枝垂桜から白砂の方を垣間見ると、辺りを見回すスザンナの姿があった。髪を纏め上げたせいか、より一層彼女が華奢に見えたし、白砂からの反射で、白い肌が透き通って見えた。早く見つけて欲しいとの思いと、こうして彼女を見つめていたいとの気持ちとが交錯していたので、僕は耐えられなくなって、ふと天を仰いだ。  
紫青の空にぽっかりとした白い雲がゆっくりと浮かんでいた。枝垂桜の莟は今にもはちきれそうで、初春の門出を心待ちにしているかのようだった。
「フフフ。見ッケ。」
その声のほうに振り返ると、少し首を傾げて微笑む彼女が立っていた。
「やっぱり見つかったかぁ。よし。じゃぁ、また数えるよ。」
そう言って、桜の幹に額をつけた僕は数えだした。不思議と白砂を踏みしめる音を感じなかったが、ゆっくりと三十が過ぎる間に、僕は彼女を見つける瞬間を何度も想像していた。僕が彼女に近づくことに全く気づかない無邪気な姿や、はっと振り返ったときの不意の表情を想像するにつれて、僕の数える速度は遅くなっていった。
「さぁんじゅぅぅう。」
と、間延びした声を出し終えてから、僕は彼女を見つけるためにクルッと半転した。
 
 白砂を踏む足音がしなかったのも仕方のないことだった。そこには、目を閉じた彼女が無防備な儘にあった。彼女と僕の間には、僅かな風の通り道さえなかったかもしれない。彼女からの体温が伝播したようで、僕の鼓動が体内に波紋した。制御不能な僕の身体は、そっと唇を重ねることの外、作為も不作為も僕に選択することを許さなかった。
音も時間も感じないとても長い瞬間だった。
「Je  t'aime」と彼女が呟いたかどうかは分からない。じっと見つめあったまま、僕らは遅々とした木漏れ日に包まれていた。

 それから間もなくして、彼女はフランスへ旅立った。それと同時に、境内の枝垂桜は春の喜びを迎えていた。ほんの少し前の満ち足りた僕らの時間は、今ではぽっかりと穴が開いたようだった。彼女がココを去る際に、枝垂桜を見ることが出来たのか、僕には知る由もなかったが、二人を包み込んだ春の陽気は、今日もまたあの日と同じ柔らかさを僕に与えていた。けれど、僕にはその柔らかさを素直に受け入れることは出来なかった。むしろ、春の陽気は残酷に感じられた。
 常香楼からの香のベールと枝垂桜の花びらに包まれながら、僕は立ち尽くしたままだった。彼女が居たはずの白砂の境内の真上でぽっかりと浮かぶ白い雲を眺めていた。

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<著者紹介>
水沼 直樹(東京都千代田区/30歳/男性/法律家)

道路整備は必ずしも周辺の人々の賛成を得られるわけではない。反対が多いのが実状である。新しい道路が地域の生活に溶け込むまでにはかなりの時間が掛かかる。その間の漠然とした不安が多くの人々の反対を生んでいる。そのため道路が創る新たな環境の姿をどれだけ親しみを込めて地元に伝えられるかが勝負所であると長年の経験から朝倉は学んできた。ゆえに地元との話し合いで一見無駄と思われるような場合も結果としては道路完成を早めることにもなるし、なにより質の高い環境の創出に繋がると考えていた。
『神代植物公園』の目の前で東京都の建設する大規模な道路工事が行われている。完成すると車道の両脇に十メートル幅のまるで小公園のような街路樹の帯を伴った道路が、南は多摩川を越え北は埼玉県まで続く。
朝倉は先月までその事業の陣頭指揮をとっていた。五十歳の声を聞いたときこの事業の現場の責任者に任ぜられた。道路建設一筋で身につけた技術を存分に発揮し役所人生の残りすべてを賭けようと密かに覚悟をきめた。
住民対応を巡り朝倉と道路建設事務所のトップとの意識にちょっとした齟齬が生じた。どちらにも理はあったが朝倉は課長への昇格はしたものの全く経験のない公園業務へ突然、異動となった。皮肉にも彼の担当をしていた道路が傍らを通る『神代植物公園』で特命担当課長の職についた。(特に決まった仕事はない特命で定年までの数年をのんびりやってください)と、朝倉は言われたような気がした。

『神代植物公園』の事務室に掲げられた公園内の案内図に『かえで園』と命名された場所を見つけた。朝倉は持て余していた時間に任せてそこを訪ねた。
朝倉が予想していた景色と違い、茶色と黄色が薄汚く混じっていた。(九月初旬なら、こんなものか)と思い、それ以上、公園のほかの場所に行く気もなくなり事務所に戻り、椅子に身体を預け時の過ぎるのを待っていた。
「どうですか、この職場に慣れましたか。公園での勤務は初めてなんですよね」陽子の飛び跳ねるような声が耳に届いた。
彼女は急遽、朝倉の異動に伴い公園事務所内で朝倉の付けられた唯一の部下である。
「こんな面白みのない場所で働くとは思ってもいなかったよ」椅子の背にだらしなくもたれ、顔だけを彼女に向けて応えた。
陽子は何が面白くないのか、いい年をして会話一つ満足に出来ない数日前に上司となった男には呆れていた。が、彼のやる気のない風情を見ていると文句を言うのも馬鹿らしくなり、彼の返事が聞こえないふりをして
「公園やその周辺でも歩かれたらどうですか、案内しますよ」と大声で言葉を返した。
朝倉も娘のような年頃の彼女に嫌味を言ってしまう自分にうんざりしていたので、(特にやることも無い特命だからな)自嘲気味に独り言を言って
「おう、案内してくれよ」
と、面倒くさそうに立ち上がった。
「植物公園なのになんだよ、これは?この草茫々なのは」
何が植栽されているのか全く分からない雑草だらけの草地をみて思わず朝倉は訊いた。
「見た目悪いでしょ。このあたりの在来の虫の保全のために芝生ではなく草を自生させているんです。ボランティアと一緒に三年越しで事務所に認めさせました。雑草を生やしたままにしていると思われ地元だけでなく事務所でも評判が悪くて困っています」
朝倉の部下に急遽、異動させられるくらいだから公園事務所では彼女は重用されていないと憶測していた。話してみると自分の考えを主張し過ぎて損するタイプなのかと感じはじめ、朝倉は不思議と彼女に親近感を感じた。赴任して三日目にして初めてじっくりと彼女の顔を見た。化粧をほとんどしていないのに目鼻立ちが極めて明瞭なことに気がついた。
彼女が、何?という表情で朝倉を見返した。
「俺に似ているな」心に浮かんだ気持ちを朝倉は半ば無意識に声にしていたようだ。

いつまでも不貞腐れているのも馬鹿らしくなり特命の立場をいいことに陽子やボランティア達と公園近辺の緑の調査を始めた。
朝倉は街路樹を道路の付属物程度に考えていたが調査を通して様々の虫が街路樹の中を飛び回る姿を発見するとそれが公園や寺社の大きな緑と細かな宅地の緑を繋いでいることを理屈で無く肌で感じた。
「街路樹を自分の庭の樹木のように皆で育てられないのか」と朝倉が話すとボランティアの中には道路整備に批判的な者も多く
「道路を作らなければいいんだ。緑が減るだけだ」と吐き捨てるように言う者もいた。
「道路の本質を分かっていない偏見だ」
と朝倉は言い返し道路の意義を話し出す。
言い争いながらも地域マップを作ろうとする点では一致し調査は進んでいった。
陽子は朝倉の必死で自分の意見を伝えようとする姿に父親の面影を思い出していた。
建築家で誰とでも議論を厭わなかった父親は陽子が高校に入る直前に亡くなっていた。

十月も半ばをすぎる頃「かえで園に行って見ませんか」と陽子は朝倉を誘った。建築家の父親は樹木へのこだわりも強く公園や山に陽子を連れていき樹木の素晴らしさを語ってくれた。今の職を選んだのもそのことの影響がかなりあると陽子は思っていた。
特にカエデは父の好みの樹木であった。
「なんて色なんだ」朝倉は異動早々に訪れた時よりは紅葉していると思っていたが、想像をはるかに超えていた。真っ赤な小さな葉が幾重にも重なり合うイロハモミジの艶やかさに思わず唸ってしまった。
「でも、山のモミジは全然違います。それを見るとこの風景の味わいもまた違ったものになるかもしれませんよ」
中学に入る前に父と登った三頭山(みとうさん)の風景を思い出し陽子は遠くを眺めるような眼差しをして誰にともなく言った。

東京都と山梨県の境にある三頭山を朝倉と陽子は歩いていた。
「テングの団扇のようなのがハウチワカエデ、板屋根を連想させる葉はイタヤカエデ、どれも葉の一枚一枚がイロハモミジより大きいから、遠くからでも見栄えがするでしょ」
山の斜面に絡みつくような木々を指しながら夢中で話している陽子。微妙に違う赤や黄色の葉のが織り成すグラディエーションがブナやミズナラの冬枯れの枝のなかを乱舞している姿は、時を止める。
朝倉は絵画の中に自分が迷い込んだ気がしていた。絵画の中には陽子もいた。
三頭山から戻ってから朝倉は周辺の樹木をみても山々に自生する草木に繋がっていく感覚を覚えるようになった。その感覚の中にいつも陽子の存在を感じていた。しかし、それは女性として陽子を見ているわけではない、と自問自答していた。

緑調査から作成した地域マップは評判が良くもう少し範囲を広げることになった。市街地の光を避けるため三鷹の森の中に建てられた『国立天文台』が毎年十月末に関連研究の公開展示をする。「行ってみませんか、マップもあのあたりまで広げたいですし」陽子から提案があった。神代植物公園からいくつかの樹木農園や宅地の緑を辿って三十分程歩いていった。
陽子が防音ガラスの向こうから朝倉に向かって一音ごとに区切りながら四つの音の言葉を伝えようとしている。音の伝わらない空間での意思疎通の手段として研究されている読唇術(読話ともいうそうだ)の公開展示のシミュレーションコーナーに二人は居た。
陽子の口元の動きに意識を集中した。すぐに朝倉はその言葉を理解した。が、どうしても唇に同じ言葉を乗せ彼女に返すことはできなかった。その言葉は父親の代わりとしての自分に掛けられていることが分かっていた。
しかし、ここで同じ言葉を陽子に言ってしまえば、今と違う気持ちが自分の中に生まれることを朝倉は予感していた。
帰り道、朝倉の脇を軽やかに歩く彼女を目を細め眺め、声に出さずに何度も同じ言葉を繰り返していた。「ダ・イ・ス・キ」と

朝倉は、赤く熟した実の房がたわわについたイイギリの枝にひときわ目を引かれた。その赤い実を通してみると、雲ひとつ無い冬の空が、一層青く感じられる。
 その青空から『まち』を見下ろすと冬枯れの様相が混ざった緑の塊がいくつも見られる。
七十年近く前になるがこの地に紀元二千六百年事業として深大寺に隣接して広大な『神代大緑地』が設定された。『緑のまち』になる運命が芽生えた。戦時は食料や燃料調達の農地や薪炭林に姿を変えながら約半世紀前『神代植物公園』が誕生した。
いつのころからか豊かな緑の『まち』として評判が高まりこの地に新しい生活を求める勤め人の住宅が増え始めた。それに伴い朝倉も建設に関わった道路の構想も登場した。
昔ながらの緑は減り『まち』は様々の困惑を抱え込みながらも、新たな緑と人は交わり『緑のまち』の歴史は重なり合っていく。
今も次のステージの鼓動が聞こえて来る。

朝倉は自分の持てる技術がこの『まち』を育てることに繋げられないかと考え始めていた。
陽子にもその技術を伝えられればと思っている。「父親のように...」
周りに誰も居ないのを確認して、小さな声で照れくさそうに言う朝倉が居た。

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<著者紹介>
南部 浩(東京都青梅市/55歳/男性/公務員)

五月の連休前、雪花から電話があった。
雪花は大学の天文学ゼミの後輩だった。雪の花と書いて「ユカ」と読む。冬生まれかと聞くと、誕生日は五月だといたずらっぽく笑った。
雪花からの電話は大学卒業以来二度目だった。前回は確か一年半前。電話と電話との間の長い時間、僕は折りに触れ、雪花を想っていた。
雪花は平素はおとなしいけれど、ミステリアスで気になる存在だった。
いや、正直に言おう。
僕は雪花に恋をしていた。
就職の内定を受けたころ、僕の長年の思いを察して同級の玲子が世話を焼いた。ぜったい脈ありだから、それとなく伝えてあげるわ。そう玲子は言い、僕が断ったにもかかわらず雪花に働きかけた。
答えは「ノー」。
雪花の眼中に僕はいなかった。
それから大学卒業までの間は気まずく、以前のように話しかけることはできなくなった。たまたま学食で席が近くなると、互いに懸命に食べることを急いだりしたものだった。
「久しぶりだね」
 大人らしく、僕は言った。
「今週の土曜、仙川で芝居があるんです。よかったら見に来てほしくて」
「そうか、雪花ちゃん、芝居を始めたんだね」
「覚えていてくれましたか。劇団に入ろうかどうか迷っていたこと。このご時世に就職しできた会社をやめちゃって、フリーターです」
 一年半前の電話の記憶がよみがえった。
したいことが見つかった気がするという雪花に、やればいいと答えた。後悔してほしくなかった。僕は大学院へは進まず、硬い企業への就職を選んだ。毎日が数字との追いかけっこだった。後悔は常に結石のように内在し、ときおり暴れた。雪花を応援する気持ちのいくらかは自分への不満の裏返しだったのかもしれない。
「苦しいけど、やってよかったと思っています。背中を押してくれた先輩のおかげです」
「僕は何もしてないよ」
「でも、あのとき自分でも迷っていて。先輩に聞いてほしかったから」
 意外な言葉にこそばゆくなった。
だがそれならなぜ一年半の間、連絡してくれなかったのだろう。
先輩に聞いてほしかった、というのは、世辞だろうと思いなおした。いくばくかの失望を感じながら、会いたいという気持ちが勝ち、僕は芝居に行くことを約束していた。
「深大寺には行きましたか」
 唐突に雪花は聞いた。
「あ、いや、深大寺蕎麦なら食べたけどね」
学生の頃、雪花と深大寺を話題にしたことがあった。調布に住むようになった頃だ。調布生まれなんです、と雪花は目を輝かせた。幼いころ深大寺に何度も連れて行ってもらったという雪花は、僕が足を運んだことがないと知ると、じゃあ、なんじゃもんじゃの木を見たこともないんですね。ざーんねん、とほんとうに無念げに言ったものだ。
「行きませんか、なんじゃもんじゃの木を見に。芝居は土曜が千秋楽で日曜はフリーなんです。先輩の都合がよかったら、ですけど」

芝居は『近代能楽集』からの二篇。雪花は『班女』の花子だった。駅のベンチで自分を捨てた男をひねもす待ち続ける、エキセントリックな役を見事に演じていた。芝居にのめりこんでいるとは言っても、まだ下っ端で、受付あたりにいるのかと想像していたのに、雪花は舞台の中央にいた。うれしい魔法をかけられたようだった。
翌日、調布駅前に現れた雪花の、昔と変わらない笑顔にほっとした。白いワンピースが似合っていた。白は昔も雪花が好んで身につけていた色だ。芝居を見てうれしいながらもうまれていたたじろぎは霧散した。
「きのうはありがとうございました」
 雪花はおどけたようにぺこりと頭を下げた。
「とてもよかった。作品もだけど、雪花ちゃん、見違えたよ。僕が来ていたの、気づいた?」
「舞台から見えました」
「へえ。余裕だね」
 雪花は首を傾げる。
「深大寺のなんじゃもんじゃの木の話をしたこと、覚えてましたか」
「なんとなくね」
「なんじゃもんじゃの木なんて変わった名前だねって先輩が言うから、おかしかったなあ」
 バスに揺られながら他愛のない話をした。乗客がちらちらと僕たちを見た。彼らには僕たちはどんな風に映っているのだろう。恋人に見えるだろうか。想像すると口元が緩んだ。
 バスを降り、深大寺入口から、木の茂る道なりを進んだ。道路の両脇から枝を伸ばした木々はやわらかなアーチをこしらえていた。水車を横目に境内へ向かった。道の傍らを水が流れている。僕たちはやさしげな水の音に包まれていた。
 深大寺は懐の深い場所だった。おおらかな大黒天、恵比寿尊の像があった。門前の店が連なる通りには、店の子だろうか。敷石でケンケン遊びをしていた。
三天橋という池にせり出した橋があった。渡ったところが亀島ですと雪花が言った。島と呼ぶにはあまりにかわいらしい小さなもので、両端には祠があった。
「ほらあそこ」
 雪花の指の先をたどると、苔むした岩の色の亀が泳いでいた。眼を滑らすとそれほど大ぶりではない、初々しいような鯉が身を撓らせて泳いでいた。
「ずいぶん鯉がいるんだね」
 夢の影のように白い鯉が、すぐ近くを通り過ぎて行った。鯉はすうっと心の裡を、身で打ちながら通ったようだった。僕は思わず立ちすくんだ。鯉が雪花のように思われたのだ。雪花がいぶかしげに見上げていた。僕は咳払いをひとつした。
「なんじゃもんじゃの木は山門の中です」
 切妻屋根の山門が、境内の緑の額縁になっていた。
 くぐると正面にあるのは枝垂れの桜。その左手にはやはり枝垂れの、枝にたくさんの、あいらしいかたちの葉をつけた樹がある。木の頂から緑の噴水がこぼれるような枝ぶりが印象的だ。シダレカツラだと雪花は言った。
 さりげないバランスで様々な樹がある。抜きんでた大木がないのも、物足りないというより愛らしい気がした。
シダレカツラの奥に、雪をいただいたように白い花の咲く木があり、思わず目を奪われた。
雪花が白い花の木に駆けよっていった。くるりと振り返り、雪花はおおきな笑顔になった。
「これです。これが、なんじゃもんじゃの木」
「え、これが・・・」
 花はやさしい葉の緑と引き立て合うように純白だった。プロペラの羽根のように、中心から懸命にほそい指を開ききるように、咲いている。
「きれいだね。名前から想像すると老獪な、人をくった老人のような・・・。そんなふうに想像していたよ」
「先輩、なんじゃもんじゃは木の名前じゃないです。それって昔も言ったでしょう」
「そうだね。そうだった」
と、あいまいな相槌を打った。
「なんじゃもんじゃは、珍しい樹や巨木を指して呼ばれる名前なんですって。深大寺のなんじゃもんじゃの木はヒトツバタゴです。学名はチオナンソス。母が教えてくれたんですけど、ギリシャ語の『雪』と『花』を重ねているんですって」
「雪と花って・・・あ、そうか。雪花ちゃんは五月生まれだったね」
「はい。生まれたとき、この花が満開だったそうです」
 不意になんじゃもんじゃの木がいとしく思えてきた。得難い、唯一のものというわけだ。
「先輩、私、余裕なんてありませんから」
 振り向くと雪花の目が潤んでいた。
「舞台から先輩を必死で探していました」
 なんだか妙だった。雪花の目は、まるで僕に恋しているようではないか。
「玲子先輩が別の人と結婚したって聞いて、思い切って先輩を誘ったんです」
「玲子の結婚がどうかしたの」
「玲子先輩から、先輩たちが付き合ってるって聞いたときはショックでした。ちょうど先輩の就職が決まった頃、告白しようと思って。先輩を好きなこと、態度に出ていたみたい。他の人から、先輩のこと好きなの、なんて聞かれたり。玲子先輩も察して教えてくれたんです」
 頭の中がぐるぐると回り始めた。
 態度に出ていた? 僕だけが気づいていなかった?そして玲子はなぜ僕にも雪花にも嘘をついていた?
「あのね、僕は玲子に気持ちを伝えてもらった気でいたんだよ。雪花ちゃんの答えは『ノー』だったって」
 雪花はきょとんとしていたが、やがて笑い出した。
「やだ。じゃあ玲子先輩は私のライバルだったの」
「いったい・・・」
「先輩、鈍すぎです」
 ゆっくりと謎がとけ出していくようだった。
 時間はかかったが、どうやら僕は雪花と向きあえているらしい。
そういえば深大寺は縁結びのご利益もあるんだったな、とぼんやり思いながら、僕は雪花の瞳を覗き込んでいた。

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<著者紹介>
江口 ちかる(東京都大田区/47歳/女性/派遣社員)

人を本気で愛したことがない、人を本気で愛せないという、会社で噂の"軍曹"。外見も坊主で、自衛隊出身だと本気で一部の人には思われていて、本気で笑うことなんてないんじゃないかと言われている"軍曹"。彼の祖父が軍人だったという説もある。そうかと思えば、本当は、いい人だけど不器用だから、40歳を過ぎても結婚できないんだという意見もある。
とにかく様々な噂が飛び交い、"軍曹"には謎が多い。私にとって、真相はわからない。

三年前のある金曜日の夜に会社の先輩たちと皆で飲んでいて、その中にたまたま"軍曹"もいた。トイレですれ違った時に、
「深大寺に行きたいって思うけど、明後日行かない?」
って、"軍曹"が言う。
唐突過ぎる。普通、深大寺に行ったことがあるかとか、興味があるかとか、そういうことから聞くのではないだろうか。
私は好きな男に振られたばかりで、特に予定もなかったので、
「いいですよ。深大寺って名前しか聞いたことがないけど、何があるんですか?」
と尋ねると、
「蕎麦が有名だから、食べたいなって思って。思いつきでしかないけど。」
「そうなんですかぁ。行ったことないし、是非行きたいです。」

なぜだか、"軍曹"と初めてデートをすることになり、深大寺へ行くことになった。
蕎麦が有名とは言っていたが、せっかく出かけるわけだし、他に何かないのかと思い、帰って早速、ネットで『深大寺』について調べる。

「...深大寺は、"縁結びのお寺"...」

え!?マジで!? ここ、二人で行っちゃマズくない!?
"軍曹"が行きたいって言った理由は、蕎麦ではなく、"縁結び"だから!?
いやいやそんなこと、あるわけがない。ただ蕎麦が食べたいだけだ。・・・色んな思いが、自分の頭の中を駆け巡る。

本当はなぜ、深大寺に行こうと"軍曹"はしたのか?メールですぐにでも、冗談交じりに、
「深大寺って"縁結びのお寺"なんですよね?(笑)」
って送ってみたかったが、蕎麦を食べたいから行きたいと言われたわけだし、自分から深大寺って"縁結びのお寺"なんですよねなんてことは、さすがに言えない。

考えすぎによる知恵熱なのか、勝手に思いをめぐらしすぎたせいか、あんなに元気だったのに、土曜の夜から体調を崩してしまう。夜中に39度近い熱が出て、吐いてしまった。
でも、せっかく誘ってもらい、しかもデートとしては初めてで、断ったら一生デートはない気もして、断れず、体調を崩したことも伝えられず、何も言わずにデートを決行した。

ところが、吉祥寺から深大寺に向かってバスに乗ると、やはり体調がおかしくなる。込んでいたこともあるが、貧血になり、倒れた。"軍曹"がいなかったら、頭を打っていたかもしれないし、もっとひどい倒れ方をしていたかもしれない。
しかし、そもそも彼がいなければ、深大寺に行かないから、倒れもしないか・・・。
意識がなくなったので、途中でバスを降りる。
数分は意識がなく、"軍曹"の声は遠かった。だんだん意識が戻り、声が聞こえる。
「無理はよくない。体調悪いなら、帰ろうか?」
「大丈夫です。ちょっと休んだら直ると思いますし。」
「でも、また行けばいいじゃない。」
「せっかくここまで来たし。」
「案外、頑固だね(笑) じゃ、水を買って来るから待ってて。」
"軍曹"は水を買って戻ってきた。少し休んで、またバスへ乗る。

深大寺には着いたものの、やっぱり体調が芳しくない。"軍曹"がいうように、引き返したほうがよかったのだろうか。でも、引き返すことを断念したのだから、具合が悪い姿は見せたくない。

有名な蕎麦屋で蕎麦と、深大寺ビールを飲むが、どちらもなかなか体が受け付けない。
蕎麦は二口くらいしか食べられず、後は私の分の蕎麦も、"曹長"は食した。食べ物を残すのはよくないからと言いながら・・・。

様子を見つつ、深大寺を歩くが、お寺でも気持ちが悪くなってきた。座って休めるベンチもなく、我慢しきれず、
「苦しい」
と"軍曹"に伝えると、深大寺本堂の近くにある建物に入り、少し休ませて貰えるよう、"軍曹"はお寺の方にお願いする。
人を愛せないような、冷たい人間だと言われているわりには優しく、行動もテキパキしていて、驚いた。それに対し、お寺の方は、
「倒れはったなんて、お気の毒に。少し暑いかもしれませんが、気にせず、ゆっくり休んでいってください。」
と優しい言葉をかけてくださり、薬までくださった。
暫く、休ませてもらう。私は1時間くらい寝させて貰い、彼は深大寺本堂を見ながら、涼んでいた。

見知らぬ"軍曹"と私に対して、とても親切にしてくださったお寺の方のことは、今となっても忘れられない。
薬の効果もあってか、暫く休ませていただいた後は、無事に体調も回復し、いったいあの苦しさは何だったのか?というようなほどにまで回復した。深大寺で休ませていただけなければ、また倒れていたかもしれない。


初めてのデートで行った場所だからということもあるが、深大寺とは"軍曹"と私の間では忘れることができないお寺である。

蕎麦が目的だったのか、"縁結び"のお寺に行こうとしたのか、未だに真相は"曹長"には聞けていない。今となっては聞く機会を逃したし、聞いたとしても、
「蕎麦が食べたかっただけ。」
という回答が帰ってきそうな気がする。

それから暫くし、何度かデートも重ね、"曹長"と付き合うことになった。
理由は色々あるが、確かに変わっているところはあるし、不器用な人間でもあるが、まっすぐで、本当に困ったときには助けてくれる気がしたし、一緒にいることで、人を愛せないココロの持ち主のココロを少しは解凍できるかもしれない気がしたからだ。
人を愛せないし、愛したこともないという点に関しては、何かトラウマと言うか、昔の彼女にひどい目に会わされたとか、きっと何かがあるに違いない。あえて話そうとしないから、その点は無理に聞いてはいないが・・・。

ネットで出てきた文字のように、本当に深大寺は"縁結びのお寺"だったのかもしれない。

久々に、
「深大寺に蕎麦を食べに行こう。」
と言って、深大寺に"曹長"と深大寺に足を運んでみようかと思う。
そして、深大寺の本殿で、ここは"縁結びのお寺"なんだよと、話してみようかと思う。
「今日は蕎麦を食べにここに来たわけじゃないよ。今日来た目的は・・・」
と笑顔で言ってみたい。
"軍曹"はいったい、どんな反応をするのだろうか・・・。

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<著者紹介>
藤村 優(東京都新宿区/女性/OL)

 「何してんの?」
 「金魚、埋めてる。」
 深大寺の本堂に続く階段の脇で、男の子はしきりに砂利に埋もれた土を掘り返している。男の子の隣には金魚鉢。のなかにはお腹を見せた仰向けの金魚。
 あやねはその姿が奇妙に感じて声をかけたのだ。
 「何でここに埋めてるの?」
 「ここなら金魚が神様に会えるかもしれないから。」男の子は答えながらも手を動かすのを止めない。何言ってるんだろ、この子。あやねは冷たい視線を男の子に投げかけた。
 「よしっ出来た。」男の子は勢いよく立ち上がり、両手についた湿った土をはらう。あ:。同じ目線になってあやねは気づいた。
 私、この子知ってる。 
 隣のクラスに転校してきた藤坂陸だ。よっちゃんが超かっこいい、やばいって騒いでいたのを思い出した。
 それでなくても転校生は転校生というだけで目立つものだ。
 初めて真正面から陸の顔を見てあやねは納得する。切りそろえられた髪はうっすらと茶色く、日差しを通して今は金色に見える。目がきれいなパッチリ二重で赤い唇は作り物みたいに形いい。身長は:同じくらい。
 フーン、かっこいいじゃん。なんか都会の子って感じ。
 「君さ、隣のクラスの子だよね?」陸が話しかけてきた。 
 「あ:うん。転校生してきた藤坂陸君だよね?」一応確認する。
 「うん。」陸は短く答えた。それから会話が途絶えてしまった。なんか喋らなきゃ。
 「ねえ、なんで金魚ここに埋めてたの?」
 「え?だから、」「神様に会えるから?意味わかんないよ。なんで神様に会う必要があるの?」私の問いに陸は当たり前のように言う。
 「金魚が神様に会えたら、僕のお願い伝えてもらえるからさ。」
 お願い?なんか、子供っぽい。
 「お願いって、」「ねえ、これからひま?」聞こうとしたら陸に遮られた。ひま?
ひまじゃなかったらこんなとこ来ない。心の中で毒つく。
 あやねはこの調布という町があまり好きじゃない。家の前の大道路を渡るとある、あやねが通う深大寺小学校。一二〇〇年の歴史をもつ深大寺。深大寺の界隈にはお蕎麦屋さんやお団子屋さんが数多く建っている。三月のダルマ市や十月のそば祭り、年明けの初詣の時にはここはたくさんの人で溢れる。そしてその深大寺と小学校を覆うようにある大きな神代植物公園。
 つまらない、とあやねは思う。つまらないよ、こんなとこ。渋谷とか原宿が近所にあればいいのに。だけどお母さんはそんな危ないところ一人で行っちゃいけないって言う。
 「ねえ、ヒマなの?」しびれを切らしたように陸がもう一度聞いてきた。
 「まあ:うん。」
 「じゃあ一緒に遊ぼうよ。僕、引っ越してきたばかりだからまだ友達いないんだ。」
 「ここで?」
 「うん。ここ、すごくいいところだね。空気が澄んでるかんじがする。」陸はあたりを見渡しながら大きく息を吸った。
 「こんなとこ、何もなくてつまらない。」
あやねは鯉が気持ちよさそうに泳ぐ池を眺めながら言う。陸がついてくる。
 「そう?立派なお寺があって、公園があって、近くにはお蕎麦屋さんとか団子屋があって風情あるじゃない。僕は気に入ったな。」
 フゼイって何?こいつ、難しい言葉使って大人ぶってる。あやねはいらついた。
 「ねえ、渋谷行ったことある?」陸はここに来る前、都心のほうにいたって噂を耳にした。お金持ちらしいよって聞いてもないのによっちゃんが興奮しながら言ってたっけ。お金持ちならあたしが行ったことない渋谷にも行ったことあるんだ。むかつく。陸はさらりと答える。
 「うん、あるよ。でも人が多いだけで別に楽しくないよ。」それでも行ったことあるんだからいいじゃない。あやねはますます苛立ちを覚えた。
 「私、もう帰らなきゃ。」こんなやつと遊んでも楽しいわけない。どうせここのことも田舎だと思って馬鹿にしてるくせに。あやねは早足で山門まで歩いていく。
 「え:遊ばないの。」陸の消えそうな小さい声が聞こえたけれど、無視した。
 こんなとこ早く出て行くんだ。あやねは授業中もずっと同じことを考えていた。
今度小テストやりまーすと言う先生の声も届かないくらい、心の中は別の思いに支配されていた。
 三時間目と四時間目の間の十分休みも寄っちゃん達のおしゃべりには参加せずに、机に座って算数のノートに「脱出計画」とタイトルをつけてひたすら作戦を練っていた。うーんうーんと唸っていると、隣のクラスから何かがぶつかるような激しい音が聞こえた。みんな驚いて次々と教室から出て、隣のクラスを覗きに行く。あやねもさすがに気になって、席を立った。
 他のクラスからも見に来ていてちょっとした人だかりができている。
 「何?どうしたの?」あやねが近くにいた子に聞いたとき、陸がイスを持ち上げている姿が前にいた子の頭越しに見えた。陸の目線の先にはしりもちをついた男の子が三人。まさに今、その三人に向かって投げようとしている。陸が叫ぶ。
 「僕の家は夜逃げしてきたわけじゃない!ただお父さんの仕事がうまくいかなくなったから引っ越してきただけだ!」その叫び声と同時に陸はイスを思いっきり投げた。きゃあっと周りで見ている女の子達が顔を手で覆う。あやねは目を背けずに陸を見続けた。陸から目が離せない。十分休みはとうに終わっていて、異変に気づいた先生達が止めなさい!と陸を押さえつけた。陸はそれでも近くにあったイスを持ち上げようとした。そのイスを先生が奪う。
 「今度変なこと言ったら許さないからな!」周りの机やイスを足で蹴飛ばしながら、陸は教室から出て行った。待ちなさい、と先生が声をかけてもお構いなしに。すげーとかこわーいという声があやねの周りで飛び交う。
 あやねはすげーともこわいとも思わなかった。別のことを考えていた。昨日の陸の神様へのお願いのこと。金魚に託した陸の願い。
さっきの怒り狂う陸を見て、わかったような気がした。わかったら、陸と話したくなった。脱出計画を考えるよりも、陸と話したい。あやねは教室に戻る人だかりから逃れ、先生に気づかれないように陸の後を追った。
 陸は深大寺の本堂より奥にある元三大師堂へと続く階段に座りうずくまっていた。あやねはそっと近づき、ねえ、と声をかけた。陸が驚いたように腕の中にうずめていた顔をあげた。陸の前にしゃがみ込んで、あやねは陸の顔を見上げて言う。
 「昨日なんのお願いしてたのか当ててあげようか。」
 「:何?」陸は眉毛を歪めた。まだ、怒ってるみたい。
 「君の昨日のお願い。昔に戻れますように、でしょ。お金持ちで、都会に住んでたときに戻れますようにってお願いしてたんでしょ。」この答えに自信があった。
だけど陸はゆっくりと首を横に振りながら、「違うよ。」と言った。:あれ?
 「僕は、お金持ちじゃなくても都会に住めなくてもいいんだ。ただお父さんの仕事がもう一度うまくいって、お母さんとお父さんと僕の三人で幸せに暮らして行ければそれでいいんだ。」落ち着いた声で言う。静かだった。さわさわと木々の葉が揺れる音がはっきりと聞きとれるくらい静かな声だった。
 「お金持ちじゃなくていいの?」
 「うん。」
 「都会じゃなくてもいいの?」
 「うん。」
 :フーン。なんか、私よりずっと大人じゃん、この子。脱出とか考えてるの馬鹿みたいに思えてきた。あやねは陸の隣にこしかけた。
 「ねえ、あれに書いたら願い事叶う?」
陸は目の前にある絵馬掛けを見て言った。そこにはひしめき合うようにたくさんの絵馬がくくりつけられいる。
 正直こんなにたくさんの願いを神様が聞いてくれるのか疑問だったけれど、うん、と答えておいた。陸が必死な顔で見てたから。つい応援したくなる。神様もこの子のためならと頑張ってくれるかもしれない。
 陸は絵馬を買って、すぐに書き始めた。後ろから覗いてみると、「お父さんの仕事がうまくいきますように」と書いていた。藤坂陸、と名前を書いて一番上の真ん中に背伸びしてくくりつける。
 「ありがとう。」陸が私に向かって唐突に言った。何で?私、何もしてない。
 「後追ってきてくれたでしょ。なんか嬉しかったから。」陸が照れくさそうに微笑む。
 ありがとう、なんて言われてなんだか私も照れくさい。陸と目が合って、顔が赤くなるのが分かった。何赤くなってんの、私。
 「あ!」そういえば。え、何?とすかさず陸が聞いてくる。
 「ここの神様って縁結びの神様だからそれ以外は叶えてくれないかも。」私の言葉に陸はああ、と拍子抜けしたように言った。
 「大丈夫だよ。縁結びの他に厄除けと商家繁栄のご利益もあるみたいだから。」
 :また難しい言葉使ってる。あやねが無言で睨むとどうしたの、と陸が慌てたように言った。         

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<著者紹介>
伊藤 朝香(山形県飽海郡/21歳/女性/フリーター)

 懐かしさに誘われて、ふと立ち寄ろうと思ったのは取引先から戻る京王線の車内で「調布」という駅名を見つけたからだ。駅で降りバスに乗ること十五分ほどで目当ての停留所に到着した。
「神代植物公園前」
周りの道路などは舗装されているが深大寺に向かう石畳の道は今も薄暗く、見渡す限り緑に覆われたこの趣は今も変わっていない。
ネクタイを緩め、缶コーヒーでも買おうかと販売機に小銭を入れる自分の後ろを自転車に乗った高校生が通り過ぎていった。振り返るとその高校生を追うようにしてモノクロのニキビ面した自分が通り過ぎて行く―。

 高校生になった自分はある決意を胸に今日も必死に自転車を漕いでいた。そして祈れば「縁が結ばれる」という深大寺の前を通り過ぎる度に目を瞑りこう願う。
「初めてのデートは神代植物公園に行く!」
無論、そのデートすべき相手はまだ見つかっていない。
缶コーヒーを持ったまま、遠くへ小さくなっていくモノクロの自分を見送る。きっとニキビ面少年はあの必死な自転車の漕ぎ方から見て今日も遅刻だったはずだ。
「大人を一枚ください。」
高校時代、勝手に神聖なデートコースとして任命した植物公園へ入るのも二十年ぶりだ。入口も当時より綺麗で大きくなったような気がする。入場券を渡し、中へ入ろうとすると懐かしい匂いが鼻先をかすめた。匂いがする方向を見るとまたモノクロのニキビ面が立っている。今度の自分はちょっとオシャレな格好でかなり緊張をしている様子だ。

初めてのデートは願いどおり神代植物公園となった。相手の名前は「高崎さん」。一年生の時から同じクラスメイトで、ずっと気になる存在だったがデートを申し込んだのは二年生になってからだった。顔を紅潮させ高崎さんの目も見られずカチカチになった自分に笑いながら
「いいよ。一緒にいると楽しいもん。牧田君お勧めの植物公園に行こうよ!」
と返事をくれたのだ。天にも昇る気持ちというのはこういう事なのかと感じた瞬間だった。
 あの日の帰りは高校から家までの最短通学時間を更新し、深大寺に願い事のお礼として小遣いを全額お賽銭として投げ入れ、それでも興奮が収まらず植物公園の周りをぐるぐると五周もして帰宅した。帰ってからもずっとニヤニヤして母親に気味悪がられた記憶が思い出される。
「あの時、何で小遣いを全額お賽銭に入れちゃったのだろうな...。デート代に使えば良かったのに。」
舞いあがるとロクな事は無い。今月の小遣いが無くなってしまったためデートは来月にしてもらうよう翌日お願いをした所、高崎さんはちょっとガッカリした顔を見せたが快くOKの返事をくれた。

懐かしい匂いは植物公園の中へと続いている。匂いに誘われ奥へ進んでいくと艶やかなバラ園が目の前に広がってきた。バラ園、神聖なデートコースの栄えあるスタート地点として「必勝!デートプラン」に赤字で大きく書いた懐かしき場所だ。
待ちに待った初めての植物公園デート、期待と妄想が先行し過ぎた自分は高崎さんと一緒に歩く姿を想像しながら、勉強そっちのけで「デートプラン」を作る事にした。家に帰れば時間はたっぷりある、一週間ああでもないこうでもないと悩んだ結果、最終的には園内を巡る順序まで細かく書きあげたスケジュール表が出来上がっていた。

「あのマメさが勉強にも発揮されていれば毎回テストで困る事も無かったのに...」
バラ園は高貴ながらもどこか優しい雰囲気で出迎えてくれた。あの時と全く同じだ。感傷に耽っていると懐かしい匂いがまた鼻先を通り過ぎていく。匂いの先にモノクロの自分がいないか探してみるが見つからない。その理由も今の自分は分かっている。ニキビ面の少年は今も入口で彼女を待ち続けているからだ。温くなった缶コーヒーに口をつける。苦い。この苦さも懐かしい気がする。

 デート当日、待ち合わせ場所の植物公園入口で心躍らせながら高崎さんを待っていた。家を出るまで何回も読み返してクシャクシャになった「必勝!デートプラン」をもう一度チェックする。
【プラン①・十一時に入口で待ち合わせ】
頭の中では「逢って最初の一言目は何と言おうか」等を考えたりしている。ふと腕時計に目をやると、針は十二時近くを示していた。そろそろ約束の時刻から一時間が過ぎようとしているが高崎さんの姿は見えない。
「彼女が来ない間、周りの時間も止まっているように見えたな...」
 さらに三十分が過ぎたところで急に不安に襲われてきた。待ち合わせ場所を間違えたかな?後ろの看板を確認する。書かれた文字は「植物公園入口」、ここで合っているはずだ。初めてのデートに対する胸の高鳴りが段々胸騒ぎへと変わっていく。落ち着かせるため販売機で缶コーヒーを買った。一口目、味が全くしない。何か事故にでも遭ったのだろうか?不安を打ち消すため二口目を飲む。苦い。もしかしたらデートをするのが嫌になったのだろうか?慌てて首を振りながら三口目で一気に飲み干した。とてつもなく苦い。コーヒーの苦さが今の心境を表しているようで悲しくなってきた。
約束の時刻から二時間が過ぎても高崎さんはまだ現れなかった。
「もう諦めて帰ろう...」
この世の終わりのような顔をしてトボトボ引き返そうとしていると、入口受付のおばさんが見かねて話しかけてきた。
「あなた、さっきから人を待っているようだけど、こちらではなく正門の方の入口には行ったのかね?」

「はい、じゃあ待っているから。よろしく。」
通話ボタンを切り液晶画面を見つめた。あの頃にも携帯電話があれば、待ち合わせ場所で出会えない等という事は無かっただろう。
前を見ると、モノクロのニキビ面少年が必死に彼女に謝っていた。二人の上には看板がある。書かれた文字は「植物公園入口(正門)」、
神代植物公園には入口が二つあったのだ―。

「待ち合わせ場所を間違えるなんて牧田君らしいや。」
高崎さんは笑いながら許してくれた。どちらもやっと逢えて緊張がほぐれたのか、会話はほどよく弾んだ。ただ、彼女の顔にうっすら見える涙の跡については聞く事が出来なった。
 待ち合わせ場所からすでに「必勝!」では無くなったデートプランはこの後も全敗街道を歩んでいく。【プラン③・園内の大温室でさりげなく手をつなぐ】は、肝心の大温室が改修中で入れなかったり、【プラン⑤ 花について薀蓄を語り賢いところを見せる】では、逆に「チャイコフスキー」というバラは有名な音楽家にちなんで付けられた事をクラシック好きの高崎さんに教えてもらったりと、一日中しどろもどろな自分に対して彼女はずっと微笑んで接してくれた。

 ×印ばかりの「必勝!デートプラン」も気がつけば最後にして最大の目標、【プラン⑫・境内の前で告白、深大寺そばを一緒に食べる】だけが残った。
肩を並べて歩くモノクロの二人、深大寺はもうすぐだ。境内の前に来た所でニキビ面少年が覚悟を決めて立ち止まった。一呼吸置く。
「高崎さん!」と「ごめんね。」
 二人の言葉はほぼ同時だった
「バスの時刻が迫っているから、今日は帰らないと。」
 人生、自分が思っていた通りに行く事などほとんどない。初めてのデートは告白の前で終わってしまったのだ―。

場面はまだ屋根の付いてない停留所へ移る。
「今日はありがとう。」
 そう言って高崎さんはバスに乗り込んでいく。振り返りバイバイと手を振ってくれたが、ニキビ面の少年は俯いたままだ。バスは定刻どおり発車し、彼女はみるみる小さくなっていく。少年はバスを全力で追いかけ叫んだ。
「君が好きだ!」
手を振り続ける彼女に聞こえてはいないだろう。それでも何だか心がスッキリしていた。

 「神代植物公園前」
またこの場所に戻ってきた。停留所にバスが停まり、学生、サラリーマンたくさんの人が降りてくる。最後に降りてきた女性が懐かしそうに辺りを見回した。そして、自分を見つけると手を振ってきた。彼女の名前は裕美子、私の妻だ。そして旧姓は「高崎」―。 
「ここは変わってないわね。でもビックリしたわよ、いきなり電話で呼び出して。」
「久しぶりの深大寺、あの日のデートの続きをしたくてね。」
深大寺は縁結びの神様、二人が結ばれたお礼を言わなくては。お賽銭もたくさん入れよう。そして、一緒におそばを食べに行こう。二十年ぶり「初めてのデート」の続き、きっと今日はプランどおりに行くはずだ―。

「あなた、このお店今日は定休日ですって。」

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<著者紹介>
加藤 はるき(東京都府中市/28歳/男性/会社員)

「男の子と話せるようになりますように」

私は大学進学とともに引っ越してきたこの地にある深大寺にお参りに来ていた。
深大寺は厄除けと縁結びで有名なお寺。お寺で縁結びって不思議な感じがするけど、私はここが好きだ。
ちょっとした観光地になっているこの場所は、そばが有名で参道にはそば屋が立ち並ぶ。まだ食べたことはなかったが、日によっては通りにまで行列が連なるのを見るときっとおいしいのだろう。
ただ・・・
私は引っ込み思案で、一人でお店に入ることすらできなかった。こうして一人でお参りに来ることも、今までだったらきっとしなかったんだろうけど・・・・大学に入学したと同時に、変わりたいと思った。普通の女の子のように、おしゃれして、学校帰りにはお茶をしながら誰かの彼氏の話をしたり、ともかくこの引っ込み思案でうじうじした性格をどうにかしたいと思った。
それから毎週週末になるとここ深大寺に通っている。神頼みなんて、やっぱり暗いかもしれないけどそれでも何もしないよりは私に少しだけ勇気をくれる。
「あの、落としましたよ」
その声に振り向くと、漆黒の髪がさらさらと風に流れ柔らかく微笑む男の人がこちらに向かってハンカチを差し出していた。
お、男の人だ。
私はそのことだけで、思わず身体が固く緊張してしまう。
「あ、ありがとうございます」
顔を見ないままなんとか手を出してハンカチを受け取ると、途端に私のお腹がきゅうっと恥ずかしい音をたてた。
「お腹すいてるの?」
その人の言葉に、私は思わず真っ赤になってしまう。
こんなところに一人でお参りに来て、お腹鳴っちゃうなんてかわいそうな子だと思われてしまうんじゃないかと、受け取ったハンカチを強く握り締めた。
「良かったら、おそば食べに来ない?」
上目遣いで少しだけその人を盗み見ると、その人は笑うだけでもなく、ただ柔らかく私に微笑みかけてくれている。
私はその微笑みに、気がつかない間に首を縦に振っていた。

その人は、文哉さんと言ってこの深大寺のおそば屋さんで週末はアルバイトをしているらしい。その優しい笑顔のせいか、文哉さんはすごく年上に見える。実際はいくつなんだろう?アルバイトなら、大学生かな・・・そう思いながら、彼の隣を歩く。彼は相変わらず優しく微笑みながら、私をそのお店に連れていってくれた。
文哉さんの声は不思議なほど柔らかく私の耳に溶け込み、聞いていてすごく心地いい。
男の人なのに、私、男の人すごく苦手だったはずなのに、お店に向かうまでのほんのちょっとの道のりですっかり打ち解けてしまった。

「そっか、それでお参りにね」
お昼の時間を過ぎた店内はまばらにしかお客さんがいなくて、文哉さんが直々に私のところにそば湯を運んできてくれた。
「・・・男の子とまともに話せないなんて、イマドキ珍しいですよ、ね・・・」
文哉さんはふっと笑うと、「じゃあ、僕は?」と聞いてくる。
本当不思議。初めて会ったのに、初めてじゃないような、文哉さんの声を聴いていると心がふんわりあったかくなるような、そんな懐かしい感じがする。
「君さえよければ、また会いたいな」
そう言って文哉さんはレシートの裏に携帯番号とメールアドレスを走り書きした。


家に帰ると、私はベットに寝転がってそのレシートを見つめた。
「くれたってことは、連絡していいんだよね」
私はドキドキしながら、自分の携帯に文哉さんの番号を登録する。携帯の画面には登録された文哉さんの名前が数少ない名前の一覧に追加され、なんだか私は嬉しくなった。
早速今日のおそばのお礼をしようと、メール作成画面を開いた。
結局あのあと再びお客さんが多くなり、文哉さんとはあまり話せないまま家に帰ってきてしまったのだ。
おそば、おいしかったな・・・
初めて一人で入ったお店。正確には文哉さんが連れていってくれたんだけど、あのおそばのおいしさと、初めてのドキドキ感は今も忘れられない。私は思いつくままにメールを綴った。
送信ボタンを押すと、5分もしないうちに文哉さんからの返信が届く。その内容はさっきの私が送ったメールの内容の返事ではなく、明日会えないかという内容だった。
明日は、特に用事もないし・・・私も文哉さんともう少し話をしたかった。あの柔らかい笑顔を、優しい声をもっと聴いていたい。私は自然と微笑みながら、メールを返信した。

まだあまり土地勘のない私のためにと、待ち合わせをしたのは深大寺の正門前だった。今日は日曜日なだけあって、まだ十一時前だったけど、結構人が出ていて正門前のおせんべい屋さんも隣のおそば屋さんもかなり繁盛しているようだった。
「朱里ちゃん」
私が周りをきょろきょろしていると、後ろから肩を叩かれた。思わずびくっとしてしまった私に文哉さんが「ごめんね」と微笑む。その手が触れた場所は次第に熱を持ち、私の心を再び沸き立たせた。
「まずはお参り、しようか」
文哉さんの優しい微笑みがまるでお日様みたいに見える。私は文哉さんのあとを追って、石段を登った。いつものように手を洗い、いつものようにお賽銭を投げる。ただ違うのは、今日は隣には同じように手を合わせる文哉さんがいること。私はいつに増しても長い間、目を閉じていた。
 気がつけば、文哉さんは微笑むわけでもなくただ優しい瞳で私を見つめていた。
「何をお願いしてたの?」
その言葉に心臓がドキンと音をたてた。
「ふ、文哉さんこそ何をお願いしたんですか?」
私は自分が今お願いしていたことを悟られないように、文哉さんに質問を振り返した。
「僕?僕はね」
並んで歩き出した肩が時折かすかに触れる。お互いの指先がぶつかった瞬間、そのまま文哉さんの大きな手が私の手を包み込んだ。
「ふ、文哉さん?」
私は驚いて文哉さんを見上げた。
「君をデートに誘えますように、って」
少しだけ頬が赤くなっているようにも見える。
「だめ、かな?」
文哉さんの困ったような照れたような笑顔が私の胸を締め付ける。私は返事の代わりにつないだ手を少しだけ強く握り返した。そうして私たちは深大寺の参道を歩き出す。温かい日差しが私たち二人を包み込み、ただ微笑みあっているだけで幸せだった。
『この先も文哉さんの笑顔を見ていたい』
そう願ったことは秘密だけど、私たちはお互いのことを歩きながら、すべて話そうとした。文哉さんは実は同じ大学の先輩だったこと、いつもお昼を一人で食べている私に実はずっと声をかけたいと思っていたこと、そして私に一目惚れだったということ。
 柔らかい微笑みに包まれて、私の心は解き放たれ、私も素直になることができた。本当はもっと普通の子みたいに恋愛をしてみたかった。ふんわりとそこから救い出してくれたのは文哉さん。他の子は暗い、つまんない子だって見放してた私の手を取ってくれたのは文哉さんが初めてだった。
 出会えたのは深大寺の奇跡、なのかな。偶然この土地に住むことになって、偶然深大寺で文哉さんと出会って、偶然が偶然を呼んで出会えた奇跡。
 私は文哉さんの手を握ったままその横顔を見つめると、来週は二人でお礼を言いに行かなくちゃいけないかなとぼんやりそう思った。

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<著者紹介>
神堂 瑠珂(東京都調布市/31歳/女性/会社員)

 木の葉のシルエットが途切れ、遠くに白くて堅そうな満月が現れた。満月は歩くごとに木の葉の陰から出たり隠れたりした。まばたきするみたいに。かすかなせせらぎと、靴が小枝を踏む乾いた音だけが響いていた。 その夜、私たちは野川公園で待合わせた。
 こんばんは。橋の上で私たちは言った。白い息がすっと暗闇に溶けた。私たちは川べりに降り、手をつないで南へ歩いた。ずっと。足元はコンクリートになったり砂利道になったり膝の丈くらいの草に覆われたりした。
 今何時なのかわからなかった。でも、明日の午後四時でない限り何時でもよかった。
 私たちは何も話さなかった。でも彼の手は何度も私の手を握りしめた。

 彼と初めて会った場所は市立図書館だった。私は≪文化≫と≪歴史≫の書架に返却処理が済んだ本を戻していた。金曜の午後6時前。閉館間際で来館者はほとんどいなかった。
 あの、すみません、助けてくれますか。
 声は低く穏やかで訛りがあった。
 本を借りたいですが、どうできますか。
 暗い色の髪と瞳。日本人でないのはすぐにわかったけれど、遠いどこの国にでも馴染じんでしまいそうな不思議な雰囲気だった。よく日焼けして、切れ長の眼は優しそうだった。
 彼が抱えていたのはアイヌの文化に関する本と神道についての本だった。彼はフランスのトゥールーズ出身で、大学で日本文化の勉強をしていて、調布駅近くに住んでいて、北海道に何度か旅行したことがある。カウンターで図書館の利用者登録と貸出手続きをしながら、彼は流暢な日本語でそんなことを次々と話した。
 彼は手続きが終わってからも立ち話を続け、同じ熱心さで私のことを尋ねた。彼は冗談が上手くて、大人びた熱心さと子どもっぽい無心さで話し、よく笑った。私はもっと前から彼と知り合いだったような気がした。
 彼がカードを財布にしまい、肩からかけていたバックパックに本を入れるのを見ながら、あ、この人は行ってしまう。と思った。
 首に下がった黒い紐のペンダント。もっと一緒にいたいのに、どうすればいいかわからなかった。私の気持ちが彼が羽織ったジャケットの袖をつかみ、私の顔を見た彼が言う。
 あの、今日、夕食しませんか。
 私はポケットに入っている彼の名前と電話番号を書いた紙切れに何度か手で触れながら残りの仕事を終えた。

 小さな定食屋で夕食を食べながら、彼は今している神道の研究について熱心に説明した。とてもおもしろい、と話す合い間に何度も挟んだ。それから神道についてどう思う、と私に尋ねた。私はそんなことゆっくり考えたこともなかったから、思いついたことをそのまま言葉にした。
 私は、神道には親近感を感じてると思う。神道って自然を畏れることを大切にしてて、でも自然に対する愛情も含まれてて。自然って誰にでもきっと、怖いけど、懐かしくて温かいものだと思う。自分や自分のまわりの人が自然に属してるって気持ちかな、それが習慣や言伝えになって、代々続いていくのって
よくわからないけど、いいことだと思う。
 霊や魂の存在も素敵だと思う。素敵って、ちょっと変かもしれないけど。
 わかると思う。と彼は相槌を打つ。
 すべてのものに神様が宿ってるって考え方、それって人間の根っこの方にある、原始的な力を表してる気がする。森の神様、河の神様、風の神様。それがいろんなかたちで表現されて、お互いに関係し合ってる。そういう考え方って世界を理解する魅力的な方法だと思う。
 彼はゆっくりうなずいて、それから笑みを浮かべて言った。
 きみの考え方も、神道を理解するとても魅力的な方法と思う。
 話は岡本太郎の芸術に移り、それから彼は私の質問に答えながらフランスの街について話した。
 彼の言葉が、私がいつか映画で見た景色に鮮やかな色を落としていく。私はその景色の中にいる彼を想像する。彼が選ぶ言葉のひとつひとつが私の中にひとつの街を造っていく。
 トゥールーズという私だけの魔法の街。私たちは飽きることなく話し続けた。
 調布駅に向かって歩きながら、彼と私はとても自然に手をつないでいた。街灯やすれ違う自転車の灯りやネオンがいつもよりやわらかかった。
 私たちは日曜日にまた会う予定を作った。彼は深大寺に行こうと言った。

  深大寺に着いたのは夕暮れの少し前だった。お参りの人波は引いてしまったらしく、遠くの方から蕎麦屋の水車が規則的に水を汲み上げる音が聞こえてくる。饅頭を蒸かす湯気。お茶屋の軒の鮮やかな赤い布。土産物屋の店先が子どもの頃を思い出させる。
 私たちは本堂をお参りしてから神代植物公園沿いに西側へまわり、深沙大王堂に出た。蝉の声が消えてしまった季節、まだ青々とした木がざわざわと風に吹かれる音が涼しい。ぴったりと敷き詰められた石畳の上に木の葉の影が踊っている。
 深大寺には何の神様がいるの、と彼が尋ねた。私は、縁結びの神様だから恋人たちの神様かなと答えた。
 えんむすび、と彼が聞き返す。
 ≪えん≫っていうのは、人と人の関係のこと。友達とか恋人とか、人と人をつないでいるもののこと。人と人を出会わせて結びつけてくれるもの。
 私は彼の横顔を見た。
 そうか、その結び目の神様なんだね。
 彼は静かに言った。
 深沙大王堂の裏にある小さな泉の淵に立ちながら、私は島に閉じ込められた恋人に千通の手紙を書いた男の伝説を話した。彼は泉を見つめながら聞いていたけれど、だから深大寺は縁結びの神様なんだって、と私が話を終えたとき、ふと私の顔を見た。私は彼の硬い表情になんだか怖くなって彼の言葉を待った。
 ごめんなさい。
 彼は私の顔をまっすぐ見ながら言った。
 私は、二カ月後にはフランスに帰ります。だから、きみの恋人になれない。きみを幸せにできないかもしれないから。
 私は黙って泉の水を見た。木漏れ日が水面に揺れていた。不思議と穏やかな気持ちだった。こんなにまっすぐな言葉を聞いたのは久しぶりだと思った。
 私が好きなの。
 私は尋ねた。
 彼はもちろん好きだと言った。
 私は彼の顔を見た。彼の不安で真摯な瞳を見た。話すときにはあんなにも活き活きと輝く瞳。
 とても大人びて見えた次の瞬間には子どものように笑う。そして私は彼の歳を知らないことに今気づく。彼の家族。彼の友人。彼の過去。未来。彼について知らないことの終わりのないリスト。埋めるのに一生は短すぎるけれど二カ月は長い。
 でも、恋人になりたい。
 私の唇は言った。
 一緒にいなかったことを後悔するよりは、一緒にいたことを後悔したいの。
 自分が正しいことを言っているのか私にはわからなかったけれど、今まででいちばん言いたいことを言っている気持ちがした。
 本当にそう思うの。
 彼の声はまだ不安そうだった。
 私には彼の近くにいる理由が充分過ぎるほどあった。初めて会った日の彼。それだけでこんなにもたくさんの仕草を覚えている。それが何よりの証明だった。
 彼が帰る日に感じる悲しさよりもずっとたくさんのものを彼は私にくれる。私はそれが見たかった。
 縁結びの神様は縁を結んでくれるけど、つなぎとめるのは人でしょう。
 そう言った私は、それでも怖くなって彼にしがみついた。

 街灯に照らされて夜が目の前で開けた。私たちは武蔵境通りと野川が交わる橋の下にいた。今までに何度も待ち合わせをした橋。最後の散歩の終わり。
 二カ月の記憶が私からこぼれていく。彼の眼に光がたくさん浮かんでいるのが見える。涙のような月の光。
 彼が私の頬を両手で包む。
 行かないで。帰ってくるって言って。
 それを声にしていいのか、しない方がいいのかわからなくて、私はただ彼の顔を見ながら胸の中で繰り返した。
 きみに出会ったことの他に何もいいことがなかったとしても、日本に来てよかった。
 聞き慣れた声が涙をこぼさせる。
 明日の午後四時、彼が乗った飛行機が日本から飛び立つとき、私は彼のことを考えているだろう。思い出をひとつひとつ手にとって眺めているだろう。
 そのひとつひとつはあまりに幸せで、もう私に涙を流させないだろう。
 ありがとう。
 それは私の言葉か彼の言葉か、私の中で聞こえただけだったのか、私にもわからなかった。でも、それ以外のどんな言葉もこの場に相応しくなかった。
 彼の体が私の体を抱きしめる。世界の音がすべて消えて彼の呼吸と私の鼓動だけが脳に響く。彼の肩に涙をが吸い込まれていくように、感情が彼の体温に溶けていく。
 そして野川の神様が、私たちのそばを通り抜けていった。

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<著者紹介>
Ryo(大阪府高石市/23歳/女性/学生)

きっかけはラジオでした。
調布で新生活を始めて二ヶ月程が過ぎた五月の半ば頃だったと思います。ちょうど桜が終わり、自宅近くの深大寺の周りにはピンク色のつつじの花が鮮やかに咲き乱れていましたから。
調布の街は緑に溢れていて過ごしやすく、私は気に入っていました。そんなある晴れた土曜日の午後、私は洗濯をしながらラジオを聴いていたんです。ほら、コミュニティFMっていうんですか。調布から発信されているラジオです。自分の好きな曲が流れていた事もあり、リズムに乗りながら洗濯物を干していたんです。ラジオからは美園新吾という人気パーソナリティーの番組が流れていました。すると静かなピアノの曲をバックに彼は便りを読み始めたんです。何やらリスナーからの便りを読むようでした。
「調布市内の陽子さんからこんなお便りを頂きました。...いつも楽しく拝聴しています。私は所謂シングルマザーです。息子の圭太と二人で細々と生活をしています」
便りはそんな始まりだったと思います。それを聴いた時、私の手は止まりました。陽子と圭太という聞き覚えのある二つの単語が耳に入ったからです。私はボリュームを上げてラジオに聴き入りました。
「...先日、私は帰宅した息子の姿を見てびっくりしたんです。全身泥だらけなんですよ。髪の毛には砂を被っているようでした。その理由を尋ねると友達とサッカーをやっていたって言うんです。親は子供の嘘を簡単に見抜けます。私は圭太の背中に足跡が付いているのを見た時に嘘をついていると確信しました。私は圭太と向かい合って彼を問い質しました。すると圭太は観念したように話し始めました。案の定、圭太はいじめに合っていたのです。一週間程前から始まったといういじめの発端はサッカーの試合の際、圭太のミスのせいで圭太側のチームが逆転負けしたそうなんです。その鬱憤がエスカレートして、毎日圭太を蹴飛ばしたり、鉛筆を隠したり、水溜まりに投げ飛ばしたり、頭から砂をかけたり、靴を投げ捨てたりしていると言うんですよ。でも、圭太は泣きませんでした。いえ、逆に信じられないような事を口にしたのです。ママ、僕は平気だよ。いじめなんて、いじめだと思うから辛いのであって、強い人間になるための試練だと思えば耐えられるもんさなんて言うんですよ。私の方が泣いてしまいました。そんな台詞を幼い息子に吐かせる自分が情けなくて、申し訳なくて仕方ないです。こんな時に男親がいてくれたら頼もしいと思いますね」
私はラジオを聴きながら涙が溢れてきました。便りの主は明らかに別れた陽子であり、圭太とは私の息子に違いありません。夫婦のすれ違いが原因で三年前に離婚しましたが、陽子と圭太がこんなに厳しい想いをして生きているなどとは思ってもいませんでした。
 大学三年生の時、私は陽子と出逢いました。私はいつの頃からか陽子を意識するようになっていました。陽子を特別な目で見ていたし、特別な関係になりたいと思うようになっていました。陽子は名前の通り太陽のような人で、いつも笑顔が絶えなかった。いま振り返ってみても、陽子が笑っていなかった日なんて一度もなかったんじゃないかと思います。私は陽子への想いが募り、ある日、深大寺の境内に陽子を呼び出して自分の想いを告白しました。とても風が強い日でした。陽子が「私もあなたの事が好きだった」という台詞を言ってくれた時、私は生まれて以来、一番と言えるほど嬉しかった。
初めて二人きりでデートをしたのは陽子のアパートの近くの神代植物公園でした。
「見せたいものがあるの」と陽子は言って、辺り一面に咲く薔薇の花を見せてくれました。薔薇の花なんて切り花でしか見た事がなかった私は、咲き誇る薔薇の華麗さに圧倒されたのを覚えています。
「私ね、いつか大好きな人とこの素敵な薔薇を見るのが夢だったの。でも、それがあなたで良かった」
陽子は笑顔でそう言ってくれました。そんな陽子を私は強く抱きしめました。そして、紅く鮮やかな薔薇の前で私達は唇を重ねたんです。結婚したばかりの頃、私は陽子と共にこの神代植物公園を訪れたことがあります。そして二人で話したんです。
「いつか、子供が出来たら三人でここに来ようか」
「そうね。必ず来ましょ。そして、私は子供に教えてあげるつもりよ。ここで初めてパパとママはデートしたのよって」

 ラジオからは、なおも陽子の便りが読まれていました。私は涙を拭きもせず聴き続けました。陽子も圭太もこんな苦労をしていたなんて知らなかった。我が息子が他人にいじめられていたというのに、全身を泥まみれにされたというのに、背中を蹴られたというのに、父親の私は助けてやるどころか、その叫びを聞いてやる事も出来なかった。
陽子と圭太に会いたい。もう一度、やり直したい。一から、いや、ゼロからやり直したい。三人で神代植物公園に行きたい。
想えば想う程、二人の顔や共に過ごした日々が私の脳裏に浮かんできました。
初めて出逢った時の陽子の笑顔、初めて手を握った時の陽子の温もり、初めて唇を重ねた時の甘い感触、初めて身体を重ねた時の互いの愛情、陽子が作った料理の味、陽子さんを嫁に下さいとご両親に挨拶した時の緊張、婚姻届に判を押した時の互いの決意、真っ白なウエディングドレスに身を包んだ綺麗な陽子、共にケーキをカットした時の互いの幸福、新居のドアを二人で開けた時の互いの微笑み、毎朝目覚めると横に陽子がいる嬉しさ、帰宅するとテーブルに料理が並べてある感動、陣痛で苦しむ陽子の格闘、産まれて来た圭太の寝顔、産み終えた陽子の安堵、もみじのような圭太の手、祝福してくれた友人達の笑顔、爺ちゃんだよ婆ちゃんだよと喜ぶ互いの両親、ハイハイして歩く圭太の顔、夜泣きする圭太の声、初めてパパと呼んでくれた時の圭太の姿、親子三人で川の字になって寝た柔らかい布団、圭太を真ん中にして三人で歩いた深大寺の境内、アヒルのおまるにまたがる小さな圭太、保育園の水色の制服と黄色の帽子、チューリップの形をした「けいた」と書かれた名札...想い出す出来事の随所に笑顔が溢れていた。
陽子と圭太にもう一度会いたい。もう一度やり直したい。出逢った頃に戻りたい。私は溢れる涙を拭き、深大寺へと走りました。陽子に自分の気持ちを伝えた想い出の場所が深大寺なんです。
 縁結びの御利益があるとされる深大寺の境内はその日も静寂に包まれていました。湧水の流れる音までもが聞こえました。私は深妙大王堂の前に跪き、そして祈りました。深妙大王は縁結びの神です。もう一度だけ、もう一度だけ、陽子に出逢いたい。圭太を抱きしめたい。そう強く祈りました。
 大学時代に陽子と出逢った事は偶然ではなかったと思います。この縁は必然だった。偶然も五年続けば必然になりますし、縁も十年続けば絆になります。しかし、続けるためには互いの努力が必要です。その縁を絆にまでするという努力を私はしていなかったのです。縁があって男女が出逢っても、それを続ける努力をしなくては縁は続きません。一本の糸を半分ずつ持ち合って、離れないように強く握り合って、縁を絆にまでしていかなくてはなりません。
本当に馬鹿ですよ私は。陽子を失ってから、そんな事に気付いたのですからね。もういまさらそんな事を思ってみても遅いのかもしれません。けれど、私は祈りました。そして、二人のもとを訪れたのです。
いま、私がこうして過去の話をするのは、二度と人との出逢いを無駄にはしたくないからです。人と出逢う事は素晴らしい事だと思います。人は独りでは笑えませんし、前にも進めません。出逢いが自分を前向きに歩かせてくれるのです。
私は陽子という人と出逢い、それを学びました。そして、二人の間に出来た圭太が私と陽子を前向きに歩かせてくれています。もう二度と二人を失いたくはない。ですから、私は縁を絆にまでしていく努力を惜しまずに続けるつもりでいます。
私はいまこうして深大寺の境内の隅に腰をかけながら、二人の姿を眺めています。蝶を追いかけて走りまわる圭太を陽子も追っています。二人とも笑顔で走っています。この笑顔を絶やさぬようにこれからを生きていこうと思っています。

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<著者紹介>
こん たっけ(東京都世田谷区/32歳/男性)
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