深大寺は一六年ぶりだ。深大寺そばを最後に食べたのはいつだろう。深大寺に向かうバスに揺られながら考えた。

私は都内のマンションに夫と息子と三人暮らしをしている、深大寺出身のイラストレータ。夫は会社員で出張が多く、土日も仕事をしていることが多い。息子は大学生となり、バイトに忙しいらしく、平日も土日も帰りが遅い。私はおこづかい稼ぎと趣味をかねて、イラストレータをしている。うれしいことに仕事はたくさんあり、毎日忙しい。大人の関係と言ってしまえば聞こえはいいが、家族はばらばらだ。
私は食いしん坊で、友達からよく食事の誘いがある。先週、中学の親友からメールがあり、またおいしいストランの誘いかと思ったら、仕事の依頼だった。親友は今でも深大寺に住んでいて、ローカル紙の副編集長をしている。
「深大寺をテーマにした記事を書くことになったの。深大寺のイラスト描いてくれない?」
依頼を受けた瞬間、この仕事は私にしかできない、と思った。私はすぐに返信した。
「OK。条件は?」
メールで手早く契約内容を確認し、翌日、深大寺へ絵を描きに行った。

午前中、新宿で仕事の打ち合わせをし、京王線に乗った。新宿で早めのランチをしてもよかったのだが、せっかく深大寺に行くのだから、そばを食べようと思った。今日はめずらしく夫も息子も家にいるという。ついでに夕飯用のそばを買って帰ろう。
行く店は決まっていた。店の前に立つと、変わらぬたたずまいにほっとした。店主やおかみさんの顔は忘れた。値段や味も忘れた。私はざるそば大盛を頼んだ。でてきたそばは味わいがあって、こしがあって、つゆの甘さと辛さがちょうどよかった。味は思い出した。これぞ深大寺そばだ。
店内には小さい子供のいる家族、女同士、中学生か高校生のカップルがいた。小さい子供のいる家族と女同士は水を飲みながら楽しそうにおしゃべりしていた。中学生か高校生のカップルはつきあいはじめたばかりだろうか、無言でそばをすすっていた。以前見たことのあるような風景がそば屋の中にひろがっていて、懐かしい気持ちになってきた。
腹ごしらえをして本堂にむかった。茶屋ではそば饅頭が売られている。茶屋の店員がだるまのきぐるみを着て踊っている。さすがに以前はきぐるみ店員はいなかったと思うが、通りのにぎわいは変わらない。山門は全然変わらない。本堂も鐘楼も。
線香を立て、本堂におまいりした。本堂から離れた場所に陣取り、絵を描き始めた。今日は天気がよく、新緑が美しい。私は深大寺の屋根のカーブした形が大好きで特に丁寧に描いていた。カーブの線を何度かなぞっていると、記憶がよみがえってきた。

かつて深大寺でデートをしたことがある。その時もあのそば屋でざるそばを食べた。
「つゆの甘さと辛さ、ちょうどいい。」
と彼は言った。いつも私は大盛りを頼むけれど、あの時は恥ずかしくて並盛にした。物足りなくて茶屋でそば饅頭を買って、歩きながら食べた。彼とうまくいくよう願掛けするために、だるまを買った。
山門を並んでくぐり、鐘楼に近づいてじっと眺めた。何度も深大寺に行ったことがあるから、私にとって鐘楼は珍しいものではない。少しでも彼と長くいるために、鐘楼に何か話すべきことが書いていないか探したのだ。
本堂のおまいりはとても長かった。私が顔を上げると、彼はまだ目をつぶっていたから、同じお願い事を繰り返した。顔を上げると、彼は本堂の屋根を見ていた。彼は私が顔を上げたのに気づき、言った。
「屋根のカーブした形おもしろい。うちの親父のおでこみたい。」
「ほんと、おでこみたい。」
私は彼のおでこを見ながら、彼の言葉を繰り返した。
彼が上に行こうと言うから、本堂の左手の階段をあがり、元三大師堂に行った。今度は少し長めにおまいりした。顔を上げると、彼は元三大師堂の屋根を見て、言った。
「こっちの屋根は、頭がとんがってて兜みたい。」
「ほんと、兜みたい。」
私は五月人形の兜を思い浮かべながら、また彼の言葉を繰り返した。
彼はまた上に行こうといった。元三大師堂の左手の階段をあがり、開山堂に行った。
日差しのつよい新緑の頃だった。開山堂のまわりは木が生い茂って日陰となり、風に吹かれて黄緑の葉がきらきら光っていた。開山堂まで来ると、人通りは少なかった。どのくらいそこにいただろう。何を話したかは忘れてしまったが、そこに暗くなるまでいた。

私は我に返り、手元のイラストが描きかけなのに気づいた。イラストを描いているうちに気持ちだけタイムトリップしたようだ。本堂を見ると、日差しの角度はそれほど変わっていなかった。ほんの短い時間の出来事だった。
「今は仕事中。集中、集中。」
自分に言い聞かせた。

本堂を描き終わり、私は元三大師堂に向かった。元三大師堂の前に立つとまた懐かしさがこみあげてきた。
思い出にひたっていると、元三大師堂の左手の参詣道から、そば屋で見かけた中学生か高校生のカップルが降りてきた。二人は手をつないでいて、そば屋でみかけたときよりずっと親しげに見えた。きっと開山堂の前でいろんな話をして、お互いの距離を縮めたのだろう。
私は急いで元三大師堂を描き始めた。左手の参詣道を歩くカップルも描いた。モデルはあの頃の私たちだ。

太陽が傾きかけてきた。早く絵を描き終えよう。そして早く家に帰って夕飯の支度をしよう。今度は元ボーイフレンドの夫と、夫にそっくりな息子をつれて来ることにしよう。 
この話をしたら、夫はどんな顔をするだろう、覚えているだろうか。私と同じように思い出を楽しんでくれるだろうか。息子は私たちの真似をして恋人と深大寺に行くだろうか。私は鉛筆や画帳をしまい、中学生か高校生のカップルと私たちの思い出を重ねながら、家路を急いだ。

中川泉(東京都世田谷区/42歳/女性/会社員)

 男が口を開いたとき、そのことばは音を介してではなく、まるで空気のように私の内面に直接流れ込んできた。
「悪いけど、ツケにしてくれないか」
 空中に漂う、眼には見えない呪文や怨霊や何か悪意に満ちたものを飲みこんでしまった。
男の声はそう思えるほどに聞き取りにくく信じがたい内容でもあった。
レジの前の私は固まった。
大学に入ってから両親の経営するこのそば屋を手伝っているが、今日まで二年間そんなことは言われたためしがなかった。深大寺境内にあるこの店「つかさ」は味と伝統を受け継ぐ格式あるそば屋なのだ。私はずりおちてくる黒縁のメガネをきちんとかけ直した。
「いいわよぉ、タマコぉ」
母が野太い声が座敷の奥から聞こえた。せわしなく出たり入ったりする客たちの対応をしたり、テーブルの上を片付けたりしながら、話の内容はきちんと聴いていたらしい。一応、厨房へ眼を向けたけれど、父は麺を茹でたり盛り付けたりと走り回っている。
私は改めて目の前の男を見た。真夏のうだるような暑さの中長袖長ズボンのつなぎを着ている。よほど洗ったためかもともとそうなのか青とも緑とも言えない微妙な色合いだ。頭は短髪なのにところどころくせがついている。髭はもう何日もあたっていないようだ。埃と汗が混ざったような臭いが鼻をつく。
この人、日雇い労働者かなにかかな...
このまま人のいい母の言いなりになって、無銭飲食の片棒を担ぐことになっていいのか。自分の背中に白いTシャツがじっとりと張り付いているのがわかる。
「なぁ、いいんだろ」
 男は引き戸に手をかけ、今にも店を出て行こうとしている。「ちょっと、待って下さい」
とっさにレジの上にあったメモ用紙を男に押しつけた。名前と住所、連絡先を書くように迫ると、男は素直に従った。
 昼の最後の客が店を出ると、私は店ののれんを下げた。母が近寄ってきて
「さっきのお客さんさ、最近よく来る人でしょ。大丈夫よ。きっとお財布忘れただけよ」と私の肩をポンと叩いた。
 それは私もわかっている。あの人は店に来るといつもまずそばがきを頼む。そばがきを食べながら日本酒を飲むときもある。それから盛りそばを頼んで、帰りにそば粉を必ず買って帰るのだ。よほどそばが好きで家でもそばを打って食べているのだろうか。
おそば屋さんをやりたくて修業しているんじゃないの? 母がなぜか嬉しそうに吹き出した。そうかな。ただの日雇い労働者だよ、あの風貌は。先ほど男が残していったメモに目を落とす。それは強い筆圧で書かれていた。何それ。母が私の手から紙きれを取り上げる。あの人の名前と連絡先。鬼怒川? 鬼怒川っていうの、あの人? 母が甲高い声を上げた。名前は上の姓だけが書かれていた。住所もきちんと書いてあるから偽名ではないと思うけど...。住所は深大寺元町...、この店のすぐ近くだ。母はエプロンを外した。これから鬼怒川カツさんの新盆に行くんだけど、この人、孫のダイちゃんじゃない? 誰? うちのおばあちゃんが仲良くしていた近所のおばあちゃん。うちのおばあちゃんとは父方の祖母の司栄子で、三年前に他界するまでこの店で働いていた。カツさんは今年一月に亡くなったの。それで初めてのお盆だからお参りに行くの。確かダイちゃんって孫と一緒に暮らしていたと思ったけど。もうだいぶ前の話だしね...。とにかく、あんたも一緒に来なさい。は? ほら、もしホントにダイちゃんだったらお線香あげに来るかもしれないでしょ。そしたら今日中に売上げ回収できるじゃない。レジ係として最後まで責任もってやりなさいよ。
へ? 言いたいことは山ほどあったが、黙ってついていくことにした。

 薄っぺらな板に白い布をかけただけの間に合わせの仏壇にお線香をあげると、ほの暗い小さな部屋一帯に独特の香りが広がった。菊がこんもりと入った大ぶりの花瓶が仏壇の両脇に飾られている。日本酒や羊羹のようなものも供えられている。その羊羹は深い青の色をしたガラス製の四角い器の上にちょこんと飾りのようにのっていた。光の反射のせいか、羊羹は青く光って見えた。
「こちらへどうぞ」という声がして、母と私はとなりの和室に通された。茶飲み友達だったという近所に住むおばあさんがお茶を入れてくれた。話は生前のカツさんの様子や思い出話から自然とその孫でカツさんに育てられたという男の子の話になった。
「あー、あのダイちゃんねぇ、まだ小さいときに親がふたりとものうなってぇ、カツさんがひとりで育てたんだわ。最近は全然見かけんかったけど、さっきひょっこり来たんだよ。今はなんて言ったかな、アート、アートなんとかって、とにかくガラスでなにかを造っているんだわ。あの仏壇に飾ってあるねぇ、そばがきと、お酒飲むおちょことかいろいろ持ってきてね。そばがきもダイちゃんが自分でこさえた、っていうんだから大したもんだぁ。あ、いっぱいあるから、今もってくるから」
どこの地方の出身なのか、おばあさんの話し方には独特のイントネーションがあった。
おばあさんはお皿にそばがきをのせてもってきてくれた。そばがきはキラキラと輝き、箸を入れるとプルンと揺れた。口に入れるとしっとりとした食感が心地よく、そばの香りが鼻腔をすうっと通っていった。
「カツさんは海が好きでねぇ、昔は海女やってたから。あとお酒ね。そいでそばがきはダイちゃんがまだ小さいときにおやつによくあげてたみたいなんだわ。」
 私は仏間にもう一度戻った。羊羹だと思っていたものはそばがきだったのか。そばがきも重厚感のあるガラスの器もみんなあの人が造ったなんて。さっきまでここにいてカツさんを想いながらお線香をあげていたのだろうか。あの図体のでかいつなぎを着た人が祖母の新盆のために準備をしていた。うちで買ったそば粉を使って自宅でそばがきの試作を何度もしていたに違いない。店に来てはそばがきの味を自分の下で確かめて...。
 ごつごつとした青い器を手に取ってみた。当初から私が彼に抱いていた先入観は既に吹き飛んでいた。かわりに胸の奥の方に、なにかあたたかいものが流れるのを感じた。
店に戻る途中、風が強くなりだした。

 夜の最後の客が店を出ると、私は店ののれんを下げた。そのとき強い突風に煽られてのれんがバタバタと暴れた。思わず手を離しそうになった。大きな影が頭上から覆いかぶさってきて、のれんを押さえつけた。
「あ......」一瞬開いた口が止まった。その影は鬼怒川氏だった。店の引き戸をきちんと閉めてから「これ、返しにきました」と、茶封筒を差し出した。彼は昼間のつなぎ姿ではなく黒のスーツを着ていた。髭もきれいに剃られていた。彼は今までは年齢不詳だったがこうして見ると歳は三十前後かな、と私は頭の片隅で思った。母は中身を確認して、封筒を捧げるように持ってお礼を言った。
「ご丁寧に、ありがとうございました」
「それから、これ」
 鬼怒川氏はスーツの内ポケットから短冊型の紙を取り出した。
「展示会のチケットなんですが、よかったら」
 口の中でぼそぼそいう話しかただった。
 私は黙ってチケットを受け取った。
‐コバルトの器展‐ 
~ガラス・アーティスト鬼怒川大介の世界~
 カツさんの仏壇にあったあの青い器をパステルで描いたような挿絵が目に留まった。
「そばがき、美味しかったですよ」
 背後から母の声がした。
「鬼怒川カツさんの新盆に今日行ってきたんですよ」
彼は硬い表情を解いた。それから、自分が海外にいたためにカツさんのお葬式に参列できず、それをずっと気にかけていたこと、新盆に向けてコバルトガラスの作品を造ったらそれが思いのほかたくさんできたので展示会で発表することにした、と何か悪いことをしてしまった子供が告白するときのように俯きがちに、ぽつりぽつりと話した。
「展示会は明日からなんですが、ばあさんの家に行ったあと打ち合わせがあって...。遅くなってすみませんでした」
 彼は頭を下げてから、店を出て行った。
 外では風が一層強く吹き荒び、深大寺の大木の葉ひとつひとつが重なり合い大きな音となってあたりに響いていた。
 鬼怒川氏が店を出て行ったあと、母は私の顔を見て、大笑いした。
「ガラス・アーティストだって。全然そんな風に見えなかったねー。けどスーツ着たらけっこうイイ男じゃん」
 誰に照れているのか、私の肩をバンバン叩いた。私は棒きれのようにその場に突っ立っていた。右手に握りしめていた少し皺になったチケットを広げてみる。「昼間はちょっと急いでて、...悪かったね。展示会、よかったらおいでよ」去り際に言った彼のことばが耳の奥に染み入っていた。明日、自分が展示会に行くことを想像してみる。彼が黒のパリっとしたスーツ姿で出迎えてくれる。よく来てくれたね、と私の肩を優しく抱く。私は、どんな格好をしているだろう。クローゼットに眠っている久しくお目にかかっていないピンクのスカートを思い浮かべた。いや、シックな印象の水玉のワンピースがいいだろうか。そうだ、コンタクトも用意しないと。一瞬のうちにあれこれ考えている自分に気恥ずかしさを感じながらも妄想は止まりそうもなかった。
 その夜、風はいつまでも強く鳴っていた。

雪野きりん(東京都府中市/39歳/女性/主婦)
 山門をくぐると今を盛りと咲く梅の香が、千早の身に染み付いた出汁の匂いをそっと洗い流した。フリーのカメラマンとして独立したばかりの千早は、実家の蕎麦屋を手伝ってなんとか生計を立てている。ランチタイムの前に戻ると約束して店を飛び出した十一時前、平日のこの時間だと境内の人影はまばらだ。落ち着いて被写体と向き合うことができる。
白梅の木の枝で毛づくろいする三毛猫は、葵やのハナさんだ。
千早は父の形見である一眼レフを構えた。もはや骨董品だから仕事には使わないが、趣味で撮影する時には一番手に馴染んだこのカメラを使うことが多い。
「精が出るわね」
 団子を焼いている奥さんが声をかけてきた。
「麻ちゃんの写真、楽しみにしてるのよ」
 実家の蕎麦屋の一角には千早が撮った写真を飾ったコーナーがある。「深大寺の四季」と言うヒネリのないタイトルをつけて、界隈の写真を定期的に入れ換えている。多くは植物だが、ご近所さんの日常を切り取ったスナップもなかなか人気があって、ちょくちょく欲しいと言ってくれる人もいる。
「梅も、もう二、三日かしらねえ」
 奥さんの声に、千早はうなずいた。
 花の季節が終わると、いささか厄介だ。千早が本当は何を撮っているのか、カムフラージュしてくれるものがなくなってしまう。今、周囲の者は千早が梅の花にピントを合わせていると思っているのだろう。真の被写体であるハナさんを見ているのは、千早だけだ。だってハナさんは秋の終わりに老衰で亡くなったのだから。

 千早が自分の不思議な目に気づいたのは小学生の時だった。生まれる前から家にいた愛犬ベルが十六歳で天寿を全うした後のこと。
一人っ子の千早にとってベルは兄弟同然だったから、その死を受け入れることは難しかった。千早は朝から日が暮れるまで、灰になったベルが眠っていると教えられた万霊塔の周りをウロウロするようになったのだ。ランドセルを背負って家を出た娘が小学校に行っていないことは、その日のうちに学校からの電話で発覚したが、両親は千早を叱らなかった。その代わり、昼になると母か父が弁当を手にやって来た。
店が忙しい母は千早に弁当を渡すとすぐに帰って行ったが、父はたいてい自分の分も弁当を持ってきて、千早と一緒にそれを食べると並んでしばらくおしゃべりをした。生涯、売れない写真を撮り続けた父は普通の大人とは違っていて、あまり地に足がついていない人だった。それだけに、彼のカメラは不思議なものを捕えた。
 ベルが死んでからはじめて千早がその姿を見た時も、父だけが当たり前のこととして受け止めてくれたのだ。父は、他の大人のように千早のことを笑ったり叱ったり、オロオロ取り乱したりしなかった。
「そうか、ベルがお前を心配して姿を見せてくれたんだね」
 父はそんな風に言った。
「残念ながらお父さんには見えないけれど、写真には写るかもしれない」
 そうして確かに、父が撮った写真にははっきりとベルの姿が写っていたのだ。
「カメラのフィルムは不思議なものでね、人の目には見えないものを焼きつけることがある。その逆もね。デジタルカメラはそういうことが起こらないからつまらないな」
 父はその写真を現像して引き伸ばし、千早にくれた。いつ撮った写真か、お母さんには内緒だよと言って。二ヶ月ほどたつとベルが姿を現すことはなくなったけれど、千早の中にもう絶望的な悲しみはなかった。いつでも振り向けば、陽だまりの中にベルがいる。そう感じられるようになったから。
 それから千早はもとの生活を取り戻し、自分の不思議な目のことはほとんど忘れてしまった。

 思い出したのは、父が若くして亡くなり、あのカメラが千早の物となった時だ。高校生になっていた千早はカメラを下げて、幼い日ベルを見たあたりに行ってみた。
残念ながら父が姿を見せることはなかったが、千早は代わりに沢山の動物を見たのだ。犬や猫だけでなく、ハムスターやイグアナ、カナリア・・・・・・多くは陽炎に揺らめいて覚束ない影だったが、中には生きていると変わらない存在感のものもいた。
もはや子どもではない千早は、自分が見たものについて人に語ることはしなかった。ただ、ひたすらにシャッターを切った。動物たちはみな陽だまりの中で穏やかにくつろいでいる。その姿を留めておきたいと願ったのだ。

ひとしきり写真を撮ると、千早は水路の側に置かれた床几に腰を下ろした。これを食べたら店に戻ろうと、しょうゆ団子を一串注文し、備え付けてあるお茶を入れる。
気がつくとハナさんが、足もとに座っていた。ちょっと太目なのは甘え上手で美味しいものを食べさせてもらっていたからだ。ハナさんが死んだ時、葵やの奥さんは自分が食べさせすぎたからだと後悔したけれど、ハナさんは幸せだったのだと思う。だってこんなに良い表情をしている。
千早は、ちょうだいポーズをするハナさんにカメラを向けた。ちゃんと写っていたら日付は入れずに葵やさんに届けよう。
ファインダーを覗くことに夢中になっていた千早は顔をあげた時、同じ床机に一人の老人が腰掛けていることに驚いた。全く気配を感じなかったのだ。
「ハナさんは、変わらずに美しいですね」
 老人の言葉に千早はぎょっとした。彼の視線は、ちゃんとハナさんを捕えている。自分以外にはじめて見える人に出会い、何と言って良いかわからず黙っていると、老人が話しかけてきた。
「あなたは、見える人なのですね」
「見えるだけなんです」
 あの不可思議な存在たちは、何かを求めている風ではないけれど、それでも伝えたいことがあって姿を見せているのではないかと、千早は思ってしまうのだ。
 老人は小さくうなずいただけで、それ以上は何も言わなかった。間が持たず、千早は聞いた。
「こちらには良くいらっしゃるんですか?」
「いいえ十年ぶりでしょうか。連れがそこの蕎麦屋に行っているのですが、私はお腹が減っていないから、ここで休憩を」 
老人はそう言ったが、団子を焼く香ばしい匂いに落ち着かない様子だったので、千早は一串奢ることにした。年配の人に失礼かと思ったが、彼は鷹揚にうなずいた。
「ご馳走になりましょう」
 それで千早は老人のリクエストであるみたらし団子を買って来た。戻って来ると、ハナさんはちゃっかりと老人の膝に座っていた。
「風が気持ち良いですね」
 千早が入れてあげたお茶を飲んで、団子を食べた老人は柔らかな日差しに目を細めた。
「ほんの子どもだった頃、夏になるとこちらの親戚に預けられたことがありまして、そこの境内で可愛らしい女の子に会いました。相手は二つばかり年下でしたでしょうか。私たちは仲良くなって夏中一緒に遊びました。一夏、また一夏と過ごすうち、いつか恋をしたのですよ。ですが周囲に結婚を反対されました。私の家の者は家柄がどうのこうのと彼女にケチをつけ、私たちを引き離しにかかりました。古い時代のことです。背負う物も多く、お互いに捨てられないものもあった」
 恋人たちは引き離された。
深大寺に伝わる恋物語では、身分違いで引き離された恋人たちは思いを成就することができるのだが、現実はそう簡単ではない。
「最後に会った時、私たちは誓いました。いつか色々なことから自由になったら、深大寺でまた会おうと。はじめて会ったこの季節に」
「それで今日はこちらへ?」
「ええ」
「お会いできたんですか? その方に」
 老人は、目を細めてうなずいた。
「ええ、会えましたよ」
 老人は、そっと膝の上の猫を撫ぜた。
「ここは縁結びのご利益があるそうですね」
「はい」
「私たちの恋は実らなかったけれど、出会えて良かったと思います。出会えたことが幸福だったと」
 老人は向かいの蕎麦屋から出てくる初老の夫婦の姿に目をやった。
「ああ、連れが来ました。もう行かなければなりません。記念に写真を撮っていいただけませんかな」
「ええ、もちろん」
 千早は請われるままに、ハナさんを膝に抱いたままの老人の写真を撮った。
「住所を教えてください、写真を送りますから」
「いえいえ。あなたの店に伺いますよ。素敵な写真コーナーがあるとか」
 誰から聞いたのかそんなことを言って、老人はハナさんを膝から下ろした。別れを告げた後、彼は優しいまなざしを千早にくれた。
「あなたにも、良い恋が訪れますように」

 それからハナさんの姿を見ることもなくなり、季節は一つ動いたが、老人が店を訪れることはついになかった。そうなることを初めからどこかで知っていた千早は、実家の蕎麦屋の一角にハナさんの写真を飾った。
陽だまりの中、三毛猫のハナさんと寄り添うのは見事な毛並みのラグドールだ。

栗太郎(東京都国分寺市/44歳/会社員)
 あの人がいなくなって、一月が過ぎた。

 住宅街の隅にある、無個性な戸建ての二階の部屋で、ベッドに寝転んで文庫本を読んでいたら、階段を上ってくる足音が聞こえた。身体を起こして机の上の時計を見ると、もう十時半で、朝食を食べてからからもう二時間ほどが経過していた。大学の講義で使うその本を、ばさ、と無造作にベッドの上に放って、私は扉の方を見た。ノックもなしに扉が開き、この家のもう一人の住人たる男が顔を出した。
「仮にも女子大生の部屋なんだけど」
 わざと仏頂面をして出迎えると、無精ひげを生やした男が、しまった、と目を丸くした。
「ごめん......」
「朔冶さんはほんと、そういうとこ無神経だと思う。そんなんだから、」
 ちらと男の表情を見上げると、眉間に深い皺を刻んで、陰鬱そうに項垂れていたものだから、慌てて言葉を止めた。ノックをしなかったことは水に流してあげて、明るい声を出す。
「ていうかどうしたの? 何か用事? 書類、私が書くやつとかあるの?」
「あ、いや、そうじゃなくて」
 いつもの能天気そうな表情に戻っているのを見て、私は内心ほっとする。朔冶さんは、窓の外へと視線を転じた。釣られて私も、彼と同じ方向を見る。閉め切った窓の向こうには、真っ青な夏の空が広がっていて、太陽がてっぺん近くで輝いていた。
「......散歩に行かない?」
 どこか気の抜けた声を聞いた私は、外を眺めたまま、何も考えずに頷いていた。

 今年買ったばかりの、真っ白い、ヒールのちょっと細いサンダルを履いて家を出た。コンクリート上に黒々と影をつくる太陽は、冷房の効いた部屋から見るのとは全く違う、高い攻撃力を持っていて、じりじりと肌を焼いてくる。白いシャツの背中を追って数歩ほど歩くだけで、あっという間に汗が噴き出す。ヒールを履いてもちっとも追いつくことのできない百八十二センチの男は、当然歩幅も大きい。追いかけようとするから余計に暑くなるんだと諦めて、途中からは影を睨みつけて歩いた。信号のところで追いついて、私はようやく彼の隣に並ぶ。
「歩くのが速いよ」
「......気を付ける」
 その言葉通り、信号が青になってからは、無理をせずとも彼の斜め後ろくらいを歩き続けることができた。きっともう、私の部屋にノックなしに入ってくることもないのだろう。
 深大寺の参道に足を踏み入れてしまえば、陽光を遮る木々のお陰で、いくらか涼しくなった。あの家に住み始めてもう三ヶ月が経つけれど、こんなに近所にある深大寺には未だ来たことがなかった。道の両脇に並ぶ茶店やら土産屋やらが珍しくて、辺りを眺めながら歩いていると、不意に斜め前を行く男が「あ」と声を出し振り返った。
「その靴、はまりやすいから危ないよ」
 彼が指差しているのは側溝だった。ヒールが穴にはまってしまう、ということらしい。道の真ん中へ寄りながら、ついでに前へと距離を詰めて隣に並んでしまう。
「気が利くんだ」
 からかうように言うと、見上げた先の口元に、悲しそうな、しかしそれでいてどこか慈しむような笑みが浮かべられた。
「一花ちゃん、はまってたから」
 彼の口から一日に一度は聞く、あの人の名が、今日もまた発せられる。
「よく履いてた、あの真っ赤な靴のヒールがさ、はまって抜けなくなってたんだよね。遠くからでもすっごい困ってるの分かったから、俺が手伝って。二人がかりで何とか抜けて、ありがとうございます、って言う顔がとんでもなく可愛くて、びっくりした」
 あの人のことを話すとき、朔冶さんの表情と声はぱぁっと花が開いたように明るくなる。毎日のことだから、もう相槌を打つのも面倒で、無言になって隣を歩いた。
「それでさ、お礼にお茶でも、って、あそこに行ったんだ」
 指差された先を見ると、何の変哲もない茶店だった。周りにあるほかの店と、外観はほとんど同じで、よくこの位置から分かったな、と感心してしまう。
「折角だし寄って行こっか。抹茶が美味しいんだよ」
 正直あまり気が進まなかったけれど、美味しい抹茶、というのは純粋に気になって、茶店まで足を進めた。しかし、木製の扉には、「休業日」と大きく筆文字で書かれた貼り紙がしてあった。肩を落として意気消沈する彼に、「間が悪いね」とだけ声を掛けて、また歩き出した。
 山門をくぐるとすぐに、朔冶さんは本堂へと小走りで向かってしまった。木々の間を通り抜けていく風の、静かでかつ存在感のある音に、目を細める。こういった場所特有の、ひどくのんびりとした空気が流れていて、私は一瞬、ここが東京都内だということも忘れてしまう。説明書きの立て札があったから、何とはなしに目を通した。
「......縁結びの神様」
 顔を上げると、熱心に手を合わせている後ろ姿が見えた。私は神様じゃないけれど、彼が何を神頼みしていたのかは簡単に分かってしまう。
「何お願いしてたの」
 戻ってきた彼に、それでもあえて、尋ねた。すると彼は、照れ臭そうに頬を掻いてから答えた。無精ひげに少し隠れた、唇がくしゃりと歪む。
「一花ちゃんが早く戻ってきてくれますように、って」

 初めて訪れる場所で、行きたいところなんて何もなかったから、彼の歩くままに私も歩いた。気付くと、深大寺同様、やはり存在だけは知っていた植物園に来ていた。見たことのない背の高い木や、色鮮やかな大きな花は、確かに物珍しくはあるけれど、それ以上の感想は正直言って浮かばない。適当に眺めながら、少し蒸し暑い園内を進む。
「抹茶を飲みながら、思い切って、恋人はいるんですか、って訊いたんだ」
 BGMは、朔冶さんの思い出話。
「そうしたら、長い睫毛を伏せて、夫を先月亡くしたの、って言うもんだから。不謹慎だけど、あぁすごく綺麗だなって思っちゃったんだ」
 当時に戻ったかのように、興奮した面持ちを向けられる。私の浮かべる暗い表情に、あ、と彼の太い眉毛が下がった。
「ごめん......」
 どうやら、死んだ父親のことを思い出して悲しくなっているように見えたらしい。夫を亡くしたばかりで縁結びの神様の元へやってくるあの人と、そんな女を心から愛している、目の前の男の神経を疑っているだけなのに。しょんぼりとしている中年の男、という絵面が面白くて、思わず小さく笑ってしまう。
「ほんと、朔冶さんは無神経」
 からかうと、彼は私が落ち込んではいないと分かったらしく、安堵めいた息を漏らした。
「......そろそろ俺のことも、お父さんって呼んでくれたらいいのに」
「知り合って三ヶ月くらいの人をお父さんって呼べるほど、私の神経は太くないよ」
「そっか、残念。......あ、これ」
 不意に朔冶さんが立ち止まる。
「何?」
 彼の見上げる先を見ると、ひときわ目立つ真っ赤な花が咲いていた。なぜ足を止めたのか分からず、今度は朔冶さんの顔を見る。また、例の悲しそうで嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「一花ちゃんが初めて見たとき、この園内で一番かわいい、ってはしゃいでたやつだ。何か子供みたいで、おかしくてさ。全然忘れられないや。......ほんと、早く戻ってきたらいいのにな」
 ふらりと恋をして、再婚をして、ふらりと出て行くような女だ。きっと今頃も、またどこかの縁結びの神様のところにいるんじゃないだろうか。浮かんだ考えは口にしないで、植物園を出た。

 太陽はちょうどてっぺんへと昇っていて、暑さが更に増していた。私と朔冶さんとの間は、また人一人分ほど開いていた。この道をまっすぐ行けば、あの無個性な家へと辿り着く。暑さのせいで、私たちは無言だった。耳をつんざくような蝉の声に邪魔されないよう、「ねえ」と声を張ったら、喉が渇いていたこともあってか変に甘えたような声が出てしまった。少し前を行く朔冶さんが振り返る。日に焼けた顔が此方を見る。
「そば屋が沢山あったでしょ。寄って行こうよ。お腹空いた」
 本当は、別にそばじゃなくても、たとえば茶店とかでも良かった。だけど、そばアレルギーのあの人と、彼は一度たりとも深大寺のそば屋を訪れていないはずだ。
「美味しい店、よくわかんないよ。他のものだったら、一花ちゃんと行ったとことか、美味しいとこ連れて行けるんだけど」
 眉が、困ったように下げられる。
「いいよ、美味しくなくても。私、そば好きだから」
 強い口調で小さな嘘をつくと、朔冶さんは迷いを帯びた背中を向けて、また歩き出す。置いて行かれないように、あわよくば隣に追いつけるように、ヒールを鳴らす。この土地で落ちた恋の思い出を引き連れて歩くその後ろ姿に、私は恋をしている。

谷口 美希(東京都三鷹市/20歳/女性/学生)
  あたりが急に騒がしくなったのは、零時まであと三十分に差しかかった頃だった。境内に向かってぞろぞろ集まり始める人々が、夜更けの参道に明るいざわめきを作り出している。誰もがみな楽しそうな顔を浮かべているのは、特別な夜がもたらす高揚感のせいだ。
 満員で賑わう門前の店から出ると、鋭い冷気が肌を刺した。ストーブに近い席だったおかげで、天ぷらそばを食べ終える頃にはすっかり身体も温まったはずなのに、やはりそう甘くない。すぐに鼻先が痛くなるのを感じて、ぼくは小さく肩を震わせた。
「寒いね」
 待機列の最後尾に並んだとき、陵子が耐えかねるように身を摺り寄せてきた。この時期がつらくなってきたのも、互いに四十を過ぎてからだ。そうかな、と、本心とは真逆のことを言いながら、ぼくはマフラーを外して彼女の首に巻き足してやった。肩に手を回すと、恥ずかしそうに陵子が「もういい歳よ」と囁いたが、かまうもんか、と、ぼくはさらに強く抱き寄せていた。
 睫毛の長い瞳がふとぼくを見上げ、そしてゆっくり滑り落ちてゆく。静かに微笑んだまま、陵子はぼくの胸に頭を寄りかからせた。
 柔らかな髪が、ふわりと甘く香る。ひどく懐かしい感覚がこみ上げてきて、思わずぼくは瞼を閉じていた。
 あの日と、同じ匂いに──...... 
 瞬間、眩しい景色が目の前に蘇った。大学二年の夏休み。割れんばかりの蝉しぐれが降り注ぎ、生い茂る木々の合間から強い陽射しが石畳を白く映し出していた。
 道端の水路に流れてゆく湧き水の音。そば屋の軒先にぶら下がった丸い提灯。風に溶け込む、線香の匂い。
 あの日、ぼくは汗だくになって陵子を探していた。明け方のバイトを終え、帰ってウトウトし始めたところに、彼女の母親から連絡が入ったからだ。娘が家を飛び出した、と。
 確かに最近、様子がおかしいとは感じていた。けれど、風邪を引いただけよと微笑む顔に、それ以上の言葉を呑み込んでいた。
 思いもよらなかったのだ。
 ふたりの間に、命が芽生えているなんて。
 話を聞いたとき、衝撃のあとに残ったのは、迷いよりも強烈な怒りだった。自分の迂闊さを悔いたのは、妊娠させたからじゃない。どうして、陵子が悩んでいることに気付いてやれなかったのか。
 ──きっとここにいる。
 高校時代、互いの家が近いせいもあって、部活帰りに門前通りで出逢うことも珍しくなかった。無駄話をしながら、店先の小間物に触れたり、焼き立ての団子を齧ったりするひとときが、いつのまにか、ふたりの約束事になっていた。どちらからともなく指を絡め合うようになったのも、ごく自然な流れだった気がする。
 ぼくたちにとって、大切な場所。今も変わらない場所。だから、きっと、ここに──......
 ふと、一休庵のそば打ち場の前に見覚えのある人影が立っているのに気付き、ぼくは足を止めた。
「陵子......」
 ゆっくりと廻る水車を見つめる、睫毛の長い瞳。風にそよぐ、柔らかな髪。蝉しぐれがいっそう大きく鳴り響き、一瞬、まるでどこか遠くから映像を見ているような錯覚がした。肌には汗が滴っていたのに、身体は緊張して冷えきっていたのを憶えている。
 ふたりの距離が近づいたところで、彼女はようやく視線を上げた。
「産もう」
 息を揺らせながら、ぼくは陵子に向かって言った。陵子は瞠目したが、やがて瞳に涙を溜め、何を言ってるの、と切なげに微笑んだ。
「あなたの人生を変えてしまうのよ」
「なら、きみの人生を変えるのも俺だ」
 ぼくは陵子の肩を掴んだ。互いにまだ二十歳を過ぎたばかりの子供だったかもしれない。世の中の厳しさも、自分の甘さも知らなかった。それでも、きっと乗り越えてみせると心だけは頑なだった。
「どうなるかわからない先の未来より、今、この一瞬をきみと生きていたい。だから」

 俺、と。

「──......」
 後ろの客に押されて、ぼくは我に返った。腕の中では陵子が、かじかんだ両手を揉み合わせ、白い吐息をかけている。あの日、ぼくの胸に頭をもたせかけ、頷きながら涙を落とした彼女が。
 もう二十年も前のことだ。 
 大学を卒業するまでは親に助けてもらう形になったが、就職が決まってすぐ、ぼくたちは一緒に暮らし始めた。互いの若さが苦労を呼び、絆が揺らぐほどつらい時期も、幾度となくあった。そんなとき、そばを食べに来るふりをしてひとりここへ来ると、不思議なくらい心が落ち着いた。そしてまた、初志を取り戻していく。陵子も同じようにしていたと知ったのは、生活が安定してからずっとあとのことだ。
 生まれた娘はすくすく健康に育ち、ふたりが通った高校を出て、吉祥寺でキャンパスライフを満喫している。紆余曲折は当然のようにあったけれど、それなりにまともな大人になってくれそうだと、とりあえずは安心したところでもある。
 だが。
 今年の夏、陵子の病が発覚した。手術を終え、安静を取り戻しているが、長くはもたないだろうと医者に告げられていた。
 深大寺で年越しをしたい、と言い出したのは陵子の方だ。弱った身体で夜に外出などもってのほかだと反対したものの、これが最後の願いになるかもしれないと思うと、押し切られるしかなかった。
 大事を取って車で行こう。免許を取ったばかりの娘が今、駐車場で待ってくれている。
 ──せっかくだし、ふたりで恋人時代を思い出しながら行ってらっしゃい。
 生意気な言葉とは裏腹に、切なげに笑ったその顔は、母親の若い頃によく似ていた。
「二十年、か」
 溜息交じりに言うと、陵子が不思議そうにぼくを見上げた。
「何?」
「いや......」
 投薬のせいで、陵子はときおり記憶が飛ぶようになっていた。日常生活に影響は少ないけれど、同級生の顔や、昔よく行った店の名を思い出せないことが多くなっていた。
 初めて口づけを交わした日に咲いていた、紫陽花の艶やかな色。湧き出す水の音。雨上がりの、澄みきった空気。
 きみはいったい、どこまで憶えているのだろう。大切な想い出の後ろには、いつも同じ風景があったことを。
 本当に、これでよかったのか。若さゆえに前のめりだったぼくの想いが、きみの人生を奪い取ってしまったのではないか。そんなことない、と返してくれるのを期待する、ただ自分を安心させたいがための愚問に過ぎない。だからずっと訊けずにいた。なのにどうして、今になってこんなにも答えが欲しくなるのか。──......
 人混みがつらいと陵子が言ったので、ぼくたちは列を外れ、参道の端に身を寄せた。境内は混雑していて、中に入るのは諦めるしかなさそうだった。冷え切った屋外にいるのも身体にさわる。さすがに陵子もわきまえたようで、ここでいいわ、と、睫毛の長い瞳で淋しそうに山門を見つめていた。
「来年はお父さん一人になっちゃうかもね」
 ぽつりと、陵子が漏らすように言った。
「馬鹿なことを言うな」
 ぼくは思わず真顔になっていた。
「そうじゃないの」
 陵子は首を振ると、ゆっくり腕を上げ、左の方を指さした。古い水車のある場所を。昔と変わらないままの笑顔を、浮かべて。
「どうなるかわからない先の未来より、今この一瞬をあなたといられたから。私はずっと、幸せだった」
「陵子......」
 ふいに、鼻先が痛くなった。 
「ふふ。泣かないの」
「寒さがしみるだけだ」
 強がってみたものの、視界は霞み、吐息が熱くなっていく。歯を食いしばらなければ、すぐにでも喉元から何かが溢れ出してしまいそうだった。
 そっと、陵子がぼくの指に触れた。握りしめてくる手を、ぼくは握り返した。強く。もっと、強く。
「痛いよ」
 陵子は苦笑いしたが、振りほどこうともしなかった。
 手のひらの冷たさを。そして、ほんの少しの体温を。ぼくは忘れない。きっと、忘れられない。
 やがて、境内から僧侶たちの唱える経の声と、彼らが打ち鳴らす鈴の音が聞こえてくる。
「今年が終わるのね」
「ああ」
 まもなく迎える時刻とともに衝かれる梵鐘に、古い年の記憶を預けていく者もいれば、刻みつけていこうとする者もいる。
 ──ぼくたちは。
 笑い、迷い、泣きながら、一緒に歩いてきた。来し方、行く末、想い出をひとつ、またひとつ、積み重ねて。
 今、この一瞬を残していくんだ。
 暦を越える鐘の音が、武蔵野の夜空に響き渡っていった。

千坂佳央(神奈川県)
 この白い空間が、僕との呼吸を圧迫する。
 僕だけがふくらんで部屋いっぱいになっているのか、新居が僕を飲みこんでしまいそうなのか。
 最後の関係者に電話をかけて、その人に居心地の悪い声で励まされたあと、ようやく僕は僕の孤独から解放された。
 独りになってしまえば、存在の単位は「ひとり」でも「孤独」ではない。
 これから結婚するはずの、好きな人のとなりにいるときがよっぽど孤独だ。
 理解していると思いこんでいるとき。
 笑っているからと安堵しているとき。
 ふたりの隙間から、やがて突然「破談」が顔をのぞかせ、僕がうろたえている間に、恋人は消えた。
 引っ越し日である今朝、彼女は姿を見せず、代わりに女友達だという人が手紙を持って現れた。
 他に好きな男がいて、実は何年も片思いで、その男とは結ばれることはないが、あなたとも結ばれるわけにはいかない、やっぱり結婚できない、ごめんなさい、という内容が短く書かれていた。
 こんな役目嫌なんですと言って、女友達はさっさと帰ってしまった。
 引越し屋のトラックがアパートに到着するまでの間、僕はのべっとした表情で、ひたすら残りの荷造りをした。
 鏡を見なくとも、自分がどんな顔をしているか気味悪いくらいわかった。
 むしろ感情が揺れすぎて針がふっ切れた状態だったのだと思う。
 これから二人暮らしをするはずで、落ち着いたら入籍するはずで、そうかあ、結婚前に同棲したほうがいいって聞くけど、こんなふうになるんなんてなあ。彼女のモノなんて少ないから、新居で処分するか。ああ、結婚するって言っちゃったよ、親だろ、後輩たちだろ、あと会社のチームと上司。ばあちゃんにもだ。なんてやっかいなんだ。
 僕は頭のなかで、ぶつぶつと、とめどなくひとり言をしゃべる。思考の壁の内側に、言葉があふれかえって行き場を失いみるみる腐っていく。
 新居に完全に荷物と自分がおさまるまで、それは続いた。
 そうして、最後の連絡を終えた今、頭のおしゃべりがようやく止んだところだった。
 連絡したのは上司だった。
 こっちでうまく説明しておくから、お前は休暇を一週間に延ばして休めと告げられた。
 素直に「はい」と返事をして、ケータイの通話終了ボタンを押すと、新居全体が沈黙した。僕を圧迫する感覚もなくなった。
 僕は、とりあえず布団だけを床に広げ、疲労と眠気とを抱いて、ひたすら眠った。


 別れた彼女は、夢に現れなかった。
 ひどく深い眠りだったようだ。
 一晩と半日以上眠って、ようやく僕はこの部屋で暮らすために「目覚め」た。
 夕暮れが間もなくやってくる。
 ふたりの収入で家賃を払っていけるマンションで暮らす、という選択が、今は痛いだけだが、僕はしばらくがんばってみようと思っている。それがささやかな抵抗あるいは自分への罰のような気がする。
 休暇三日目にして、ばあちゃんから手紙が届いた。実際には実家に届いた手紙を、母が僕に届けてくれたのだが。母に様子を見に行かせようとする、ばあちゃんのテである。
「ここでやっていくって決めたんなら、それでいいんだよ。しっかりね」
 母は多くを僕に尋ねることなく、乾物の食材やインスタントラーメンなどを置いて帰って行った。
「ばあちゃんも母さんも似ているよな」
 僕はつぶやきながら、片づかない2DKの居間で、ばあちゃんの手紙を読み始めた。

  前略
  連絡をもらって、すぐこれを書いていま
  す。電話じゃうまく言えないためです。
  あなたの住むところを電話で聞いたとき
  から、映画のように思い出しています。
  私は本当は、二十歳そこらで終わる人生
  でした。調布で生まれて、調布の暮らし
  を愛でながら、婚約者となる方とも出会えました。
  ところが病弱な私はある病気を発し、婚約したまま時間だけが過ぎゆきます。私は手術を決意しました。術後命がもたないと医者から告げられても、手を尽くさず死ぬ日を延ばすのだけは嫌でした。
  入院の数日前、私は婚約者に連れられて深大寺に行きました。(あなたの新居から近いところにあるお寺です)広い散策路は身体が辛く歩けません。山門のところで、私はかなり年上の彼に、婚約解消を申し出ました。最期のあがきの前に、彼を自由にしてあげたかったのです・
彼は、
  「お寺におられる神さま仏さまが、もう君の本当の願いをきいてくださった。生きたいという願いだ。どうしても別れようというのなら、退院した君にもう一度出逢おう。自分はもう一度、君に恋をするよ」と言ったのです。
  私が今あなたの祖母でいるということは、私に奇跡が起きたからです。深大寺に延命地蔵があると知ったのは彼が亡くなったあとでした。あの日急に深大寺に行こうと誘ったのは彼のほうでしたから。
  命拾いして、いよいよ結婚できるとなったとき、今度は彼が永遠に彼方の人となりました。運命を恨んだのは当然です。
  だけど、あなたはあなたの運命を恨まないでください。
  まだ、彼のような人に出逢っていないだけです。私はその後もうひとりの運命の人と結婚しましたが、あの恋心はずっと鮮やかに胸にあるのです。
草々
  綾介様

 僕の乾いた胸いっぱいに、慈雨がしみこんでいくようだった。
 こんな話、母さんからも聞いたことがない。
 きっとずっと秘密にしてきたことだったのだ。
 お寺に連れて行ってくれた婚約者と結婚していたら、母さんも僕も生まれていなかった。
 ばあちゃんの人生もまったく別のものになっていたかと思うと、つくづく人生が奇妙で、絡まった糸のように感じる。生涯、その糸をほどいて一本にしていくような感覚。そして、複数の糸を撚りあわせて太くしていくようなものだと。
 深くため息をついたところで、腹が思いっ切り鳴った。
「腹が減ったな。ははは、腹が鳴って恥ずかしいや」
 僕は空腹の底から笑いがこみあげてきて、それがおかしくて笑った。
 夕食を食べに行こう。牛丼がいい。
 僕はばあちゃんの手紙をなくさないよう、仕事の鞄にしまっておくことにした。
 

 休暇の最終日、僕はすっかり整った部屋の写真を撮り、母さんの携帯にメールと一緒に送った。もう大丈夫だから、という証拠に。
 本当はまだ、終わった恋愛と始まらなかった結婚生活のことをしょっちゅう考えてしまう。
 休日の間何度も読み返している手紙をまた読んでいたら、ふと深大寺に行ってみよう、という気持ちになった。
 明日から仕事が再開するし、チームのみんなと顔を合わせるのが辛いけれど、お寺のお守りでもあればいいかも知れない。
 さっそく僕はアクセスを調べて出かけた。
 ばあちゃんの言うとおり、それほど遠くではなかった。
 手紙にあった山門......本物を目の前にすると妙にどきどきした。
 ここで、ふたりは、互いの気持ちを重ねたんだな。
 思えば、「もう一度君に出逢って恋をしたい」なんて、ものすごい告白だ。
 僕にはそんな覚悟ができるだろうか。
 あっ。そうか。
 僕らには、覚悟が足りなかったんだ。
 僕も、別れたあの娘にも。
 不意に沸いた「答え」を、僕は静かに握りしめた。後悔も悲しみも、全部握りしめた。
 それから、ばあちゃんが歩けなかったという散策路を歩いた。
 さすがに疲れて、お堂近くの木陰で涼んでいると、見たことがある顔が横切った。
「あっ、立川さん!」
 僕は思わず彼女を呼び止めた。
「えっ、あっ、先輩! びっくり!」
「会社のときの君とずいぶん違って、びっくりしたのはこっちだよ。今日は日曜日だもんな。お寺めぐり?」
「はい。えと、あの、休めましたか?事情はなんとなく......聞いてます」
「ああ、もうすっかり大丈夫だよ」
 僕は涙声を隠して返事した。
「先輩、おそば食べに行きましょう。深大寺そばって有名なんです。ね! 行きましょ!」
 彼女は僕の腕をひっぱって、元気に歩き出した。彼女の笑顔も、その強引さも心地よく身体に響く。
 でも、この心地よさがこの先ずっと続くのもいいな。僕は都合よく考えてしまう自分さえも、今は許そうと思った。

山田夏蜜(北海道札幌市/36歳/女性/フリーランス)
 カランコロン、カランコロン
小柄な下駄が石段を蹴る音が深大寺の境内に響く。蒸し暑い夏の日、祭りの提灯でオレンジ色に染まる空。参道脇には様々な露店が並ぶ。ヨーヨー釣り、金魚すくい、射的にリンゴ飴、たこ焼き、から揚げ... 優子はそれらを傍目に眺めながら友人の明日香に手を引かれ人ごみの中を掻き分けて本尊の祀られた本堂へお参りに行く。
「急いで早く」
明日香が振り向き急かすように言う。
「待ってよ明日香、早すぎるって」
 慣れない浴衣姿でもみくちゃになりながらやっとの思いで本堂の賽銭箱前に辿り着いた。
私は巾着の口を開け中から小銭入れを取り出し中から五円玉を取り出した。五円玉を握りしめ賽銭箱に入れようとした時声がした。
「たった五円でお願い事叶えてもらおうっての? せこいね」
 私は、はたと一瞬動きを止めた。振り向くと横には自分と同年代の男の子がいた。「あんたには関係ないでしょ」と言おうとしたが声が出なかった。
「どうしたの優子?」
明日香の声で我に返る。「ちゃんとお願いした?」との問いに「ううん、まだこれから」と答えた。私は五円玉を小銭入れに戻すと中から代わりに五十円玉を取り出し賽銭箱に投げた。お願いをし終わると横に居た男の子は消えていた。
 帰りの参道でヨーヨー釣りをした。私はピンクのヨーヨーを、明日香はグリーンのヨーヨーをすくった。ヨーヨーをボヨンボヨンとつきながら左手にはリンゴ飴を持って参道を歩いた。リンゴ飴は甘酸っぱくガリッと噛むと爽やかなリンゴの香りがした。リンゴ飴を食べ終えると近くの屑(くず)籠(かご)入れに棒を捨て再び参道を歩いた。
 参道を十分ほど歩いていると多くの人で賑わう店に出くわした。ダルマ屋だ。ガラス扉の向こうを見ると多くの浴衣を着た客でごった返している。大変な盛況ぶりだった。
「入ってみようよ」と明日香に促されて入店する。奥から「いらっしゃいませー」と声がする。
 中は冷房が効いているのだが人で埋め尽くされとてもじゃないが涼しいと言える雰囲気ではなかった。猫も杓子もダルマ、ダルマである。店内の一角から声がする。人だかりの奥だ。
「このピンクのダルマは、恋愛成就、そっちのは学業成就、そこのおっきいのは家内安全...」
 明日香と二人で人だかりに割って入る。人だかりの一番前に行き私は思わず声を上げた。
「あっ」、相手も「あっ」と声を上げる。
「五円」と私の顔を見て呟く。
「五円って言わないで」
「知り合い?」と明日香が私の顔を覗き込む。
「違う」とすぐさま答える。
「あんたそうだダルマ買ってかない?」
「人のお賽銭にケチつけといて。買う訳ないでしょ」
「王子、このダルマに目入れしてー」と一人の女性客が言う。
「あっ、はいはい了解」
「王子?」
「ダルマ王子」と少年は呟く。手元では器用に墨でダルマの左目に梵字の『阿』の字を目入れしている。見事な文字だと思った。
「はい三千円ね」
「三千円!?」私は開いた口が塞がらなかった。少年の目入れしたダルマは高さ十四、五㎝ほどの小さなダルマである。女性客はありがとうと言って満面の笑みでそれを受け取る。
「高すぎない?」と私は少年に問う。
「お賽銭五円の人にしたらそれは高い買い物かもね」と少年は言う。
「高すぎるんだったらこっちに小さいのも有るよ。六百円、プラス目入れ料五百円で千百円」と五㎝程のダルマを差し出す。
「そんなちっさいので千百円!?」
「お金じゃないんだって」と少年は別の女性客のピンクのダルマに目入れしながら話す。
「ねえ、王子。ダルマと一緒に写真撮って」
と女性客が言う。
「いいよ」
「はいチーズ!」
 まるでアイドルである。その場の空気に飲まれてか、隣にいた明日香が「私もダルマ買おうかな」と言い出し始める。「こんなのサギだって」と明日香に言う。すると私の隣にいた高齢の女性客が目を剥いて私に反撃する。
「あなた、サギなんて言うけれど私は昨年ここのお店でダルマ購入して宝くじが当たったのよ」
「宝くじ?」
「一千万」と耳元でその女性客が囁く。
「いっ...」思わず押し黙る。
「うちのお客は殆どリピーターさんなの、分かった?」と王子は得意気に言う。
「王子が目入れしたダルマはお願い事が叶うことで有名なのよ」と高齢の女性は言う。
「へええ」と明日香が目の前にあった六百円のダルマに手を伸ばす。
「ねえ、優子買ってみない?」明日香が言う。
「二人とも買ってくれるならサービスで二個で目入れもして二千円にまけとくよ」と王子は言う。商売上手である。結局、王子に押し切られ私は明日香と二人でダルマを一個ずつ購入した。目入れする時に王子が何の願掛けか問うた。私が「合格祈願」と答えると意外にも「受かると良いね」と言ってくれた。ダルマを受け取ると左目をマジマジと見た。これで志望校に受かる。半信半疑だった。王子は千円札を受け取りながら「お願いが叶ったらダルマ持ってきて。右目に『吽』の字入れてあげるから」と言った。
 私はその年の二月、第一志望の高校に見事合格した。ダルマのおかげだとは思わなかった。自分が努力したからだ。すぐさまそう思った。しかし明日香は合格が決まって一週間もしないうちに「目入れしてもらいに行こうよ」と言ってきた。しかしあまり気は進まなかった。だって...
「ほら、叶ったでしょ? ダルマさんのおかげだって」王子は当然のことのように言った。
「私たちのこと覚えてるの?」購入したのは半年も前である。
「覚えてるよ、五円さんとそのお友達でしょ?」
「五円さんって言わないで」
王子はクスクスと笑う。
「で、目入れ料取るの?」
「五百円」
「はあ」と私はため息を吐く。王子は丁寧に右目の文字を書き終わると「はいどうぞ」と言ってダルマを渡してくれた。
「これ持ってていいの?」
「寺では奉納したりもしてるけどせっかくだから合格記念に持っておくといいよ」と言った。それより、と言って王子は続けた。
「高校生になったら彼氏なんかも欲しいでしょ? どう恋愛成就。今なら二人で三千円にまけておくよ」
 私は買わなかった。しかし、明日香が一人で二千円かけてピンクのダルマを購入した。
「商売上手よねえ」と帰りに立ち寄った蕎麦屋で明日香が呟く。「商売上手? どこが?」と言いたかったがそれは黙っておいた。かわりに
「絶対ダルマのおかげなんかじゃないって」と言った。しかし、高校に入学して三カ月もしないうちにモテた試しの無い明日香に彼氏が出来た。明日香は予想通り「目入れしてもらいに行こう」と言った。

「五円さんも買っておけば良かったねー」
ピンクのダルマに目入れをしながら王子は言った。私の事はほっといてよ、そう思った。
「それよりどう? 彼氏とずっとうまくいく様に大きめの恋愛成就」
と二〇㎝程のピンクのダルマを差し出してきた。明日香は思わず手を伸ばす。
「四千円」
明日香は財布を取り出そうとする。
「やめなよ! 明日香! 勿体無いって」
 王子の口元には、してやったりの笑みが浮かんでいる。明日香は止めるのも聞かず購入しようとする。私は思わず王子の手の中のダルマを叩(はた)き落とした。ゴトンと重たい渇いた音がする。
「優子! 何すんのよ!」
明日香は怒ったような素振りを見せた。
「明日香! 騙されてるんだって。ぼったくりだよこんなの」
「人聞き悪い事言わないでよ。自分が信じてないからって人の幸せまで邪魔するようなことしないでよ」
 明日香と喧嘩するのは初めてだった。私はいたたまれなくなり店を出た。そして帰り道
の参道を走って駆け抜けた。いつの間にかぽろぽろと雨が降り出していた。濡れながら信号待ちをしているとふと後ろから手を引かれた。振り返ると傘を差した王子が居た。
 
「...相場の倍」
「はあ?」
「だからうちのダルマの代金」と王子が呟く。
「ごめん、あんたの言う通り。ぼったくり」
「そんなの改めて言われなくても分かってるわよ」
「そうでもしないと店やってけなくって」
「そんな風には見えないけど」
「これあげるから許して」
王子の手の中のピンクのダルマの目に書かれていた文字... 右目に『ス』、左目に『キ』...続けて読むと『スキ』
「要らねえよ!」私はダルマにパンチをした。王子はケセラセラと笑った。

MIKA☆(高知県高知市/30歳/女性/フリーター・アルバイト)

 紗香は真剣な眼差しで、ルリオトシブミにレンズを向けていた。体長二ミリ程度のカシルリオトシブミの雌が、産卵のためケヤキの葉を念入りにチェックしていた。ようやく、その中の一枚に目星につけると、葉の端に切込みを入れ折り目をつけ巻き始めた。最終的に葉は俵型へと整形され、後に地面に落ちる事もある。この巻き方が落とし文(オトシブミ)の名の由縁だ。まず、葉を葉巻状に二巻き程度した所で表面に穴を開け卵を産み付ける。産卵後、その穴を塞ぐように再び葉を巻き上げ、仕上げに巻いた葉が戻り広がらないように内側の葉を引っ張り出して、その葉を反転させ蓋のように被せ完成となる。こうして雌が一人で必死に作業する中、雄はというと、ただ惚けたように傍でじっとしているだけだった。
 「ああ、やはり結婚などせず正解だった。」
 アラフィフで未だ独身の紗香は、そんな独り事を呟いていた。様々な職業を兼務しながらも五〇を前に、ようやく昆虫写真だけで食べていけるまでになっていた。
 紗香が虫達と深く関わる切っ掛けとなったのは、その幼少時代にあった。高度経済成長で世の中が活気づき、日中国交回復でパンダブームに沸いていた時代だ。だが、彼女の家では両親が離婚し、まだ二歳だった紗香は施設行きは逃れたものの、引き取られた先の祖父はというと、定年したばかりで五〇代の恋人の家に転がりこんでいたのだ。その家は、市が母子家庭用に貸し出した低家賃物件である事から、周囲が紗香や祖父を見る目は冷たく、幼い彼女の肩身は酷く狭いものだった。そんな中で紗香が見つけた自由な世界。それこそが虫達の世界だったのだ。パンダは見られずとも、彼女は近所の雑木林に白黒模様のオジロアシナガゾウムシを見つけては、パンダに見立てて一人遊びに興じたものだった。
 出来たての揺籃の前で、紗香は虚しさを感じずにはいられなかった。幼い頃から人間関係が不得手で、両親の愛情にも恵まれず一人で生きてきた。これでいいのだと言い聞かせてきた。だが、こんな小さな虫けらでさえ子孫を残すために、然も無い顔で立派に卵を産み残すのだ。それに比べ自分は何て無能なのか? 最近では生理も不規則になって来ている。これからもずっと一人で生き、ひっそりと誰にも涙されずに土へと還るのか?
 何度か結婚話もある事にはあった。学生時代には他の女子同様恋もした。だが、なぜか今一歩踏み出せないまま今に至っていた。結婚話が出る度に、彼女の脳裏をある記憶が過り、目の前の現実が、とても陳腐な物に思えてならなくなるのだ。今でも鮮明なその記憶とは、小学校の卒業式の事。ある男子生徒から深大寺の近くの深沙堂で虫捕りをしようと誘われた。深沙堂の裏には湧水池があり、そこには意外な掘り出し物たる虫達が存在したのだ。虫捕りと聞いて、彼だけでなく他にも沢山友達がやってくるものだとばかり思っていた。だが、待ち合わせの時刻に深沙堂を訪れると、河野博之君一人だけが、堂の前で虫捕り籠も網も持たずに立っていた。
 「あれ? 他の人は?」
 「僕一人だよ。」
 「一人?」
 「僕だけじゃ嫌かい?」
 「別に、いいけど。じゃあ池に行こう!」
 「ああ。」
 裏の湧水池の周囲には、春の訪れを知らせるオトシブミの揺籃が、それは沢山落ちていた。紗香は、その一つを手に取り得意満面と博之君にオトシブミの生態の説明を始めた。揺籃の葉を開き、中の卵を覗き込んで、これはゴマダラオトシブミという種類の卵に違いない等と演説ぶったのである。ひと通りの紗香の演説を聞き終えると、博之君は彼女の掌の上のオトシブミの揺籃を静かに手に取り、ポケットから何やら取り出して、それと交換したのである。
 「あっ! これ私が欲しかったやつだ!」
 「お前、由美ちゃんのパンダのリングみて、欲しそうにしてたもんな。」
 「ありがとう。でも、なんで私に?」
 「この前、上野の動物園に行ったから。」
 「でも、どうして?」
 「・・俺、紗香ちゃんの事が好きだ!」
 「えっ。」
 そう言うと、彼は不器用に私を引き寄せ、そっと額にキスをした。何が起こったのか解らず彼女は固まってしまった。抱きすくめられた彼女の耳には、彼の物か自分の物かすら解らない誰かの激しい心臓の鼓動音だけが響いていた。紗香という少女が恋を知った瞬間だった。博之君は小学校を卒業すると、父親の転勤で新潟の方へと引っ越さねばならなかった。自由に会えない二人は、それは頻繁に手紙のやり取りをした。一日一通では足りずに、日に二通も三通も書く事もあった。しかし、互いに、それぞれの中学にも馴染み、一年もすると手紙の数は激減し、二人の淡い恋は、あっけなく終わりを遂げたのだ。

 彼女は仕事で、ある雑誌社を訪れた時の事。一通の彼女宛てのファンレターを渡された。雑誌の脇役でしかない昆虫写真家にも時折、子供や虫マニアからファンレターが送られてくるのだ。今回も、そうした人達からかと、いつものように、その場で手紙の封を切ると、そこに書かれていた内容に息を呑んだ。
『近藤紗香様
  突然の失礼をお許しください。私は河野博之の息子で和之と申します。父は離婚後、男手一つで僕を育ててくれていましたが、四十代で認知症を発症し、もうすでに先が長くない状態にあります。数年前、家の売却のため整理していた父の私物の中に、あなたと父が交わした四百通以上もの手紙の束を見つけ、何度かあなたにお手紙を書きましたが、出せず仕舞いでした。しかし、もう父には時間がありません。もし、お時間が許されるなら一度だけでも父に会って貰えませんでしょうか? 僕には、もうこうした事しか父にしてあげられないのです。突然の乱暴な申し出である事は承知しております。昔から父に、あなたの名前は聞かされておりました。あなたのお撮りになった昆虫写真の図鑑を見て僕は育ったのです。入院先は、東京RT病院の東棟三〇五号室です。お返事をお待ちしています。
               河野和之』 記されていた彼の入院先は、意外にも紗香の住んでいる場所にとても近い場所だった。彼に会って見たいという気持ちで久しぶりに心躍る一方、不安も大きかった。彼女の記憶の中の博之君は、まだ十二歳のまま、彼だって記憶の中の紗香は十二歳のままの筈だ。そう思うと浮き立った気持ちが一気に萎んだ。しかし、手紙には彼は、もう長くないとある。仕事をしていても何をしていても、紗香は彼の事で頭が一杯で、仕事もままならなかった。意を決し、明日は彼に会いに行こうと鏡の前に立った時の事だ。久しぶりに鏡の中の自分の顔を見て紗香は驚愕した。口周りの皺、長い撮影生活での日焼けジミ。鏡の中には、誤魔化しようのない孤独な生活に酷く疲れた老婆の顔があったのだ。
 こんな自分が会いに行っても彼を絶望させるだけに違いないと、彼女は悲痛な思いで返信を書いた。『申し訳ないが仕事の予定が詰まっておりお伺いできない。』と。だが、手紙を投函した後も彼の事が脳裏から離れない。紗香は博之が入院しているという病院に電話をし、わざわざ病院が混んでいる曜日と時間帯を聞きだした。患者や見舞い客で混んでるという金曜日の午後三時過ぎに病院を訪れ、彼女だと知られないように、影から彼の様子を見ようと思ったのだ。金曜日の午後三時過ぎ、午後の外来診療も始まる時刻で病院は人でごった返していた。病院の東棟に着き三〇五号室を探すと、そのドアは幸運にも開かれていた。静かに中の様子を伺いながらドアの前を通り過ぎて見た。すると病室の奥で、大学生らしい若い男性が、ベットの上の老人の手を制止しながら、こんな言葉が聞こえてきた。
 「父さん、もうこんな紙玉を作るのは止めないと、又看護婦さんに叱られるよ。」
 見ると老人は、ベットの上で上半身を起こし何やら夢中で作業していた。紙玉? 紗香は、その言葉にハッとして我を忘れ、彼の名を口走ってしまった。
 「博之君・・」
 すると老人は、囁くような紗香の声にも拘わらず顔を上げると、舌足らずな口調で彼女にこう返したのだ。
 「ゴマダラオトシブミ・・・ゴマダラオトシブミ・・。」
 老人の脇の若者が驚いたように、病室の入り口に立つ紗香に頭を下げた。
 彼は、彼女が見舞った日から数日後、静かに息を引き取ったのである。そして、彼の残して行った膨大な数の紙玉には、子供のような文字で、こんな言葉が記されていた。
 『深沙堂で待つ。』
 紗香は、彼の残して行った紙玉を、まだ全て開けきってはいない。あえて、確認せずにいるのである。彼の俵型に丸めた紙玉は、まさにオトシブミの揺籃だった。それも紗香にとっては、ルリオトシブミの揺籃だ。ルリオトシブミの雌は、他のオトシブミと違い、その後ろ足に共生菌を持っている。彼らは卵を産みつけた葉の揺籃に、この菌を仕込む事で卵から孵った幼虫の食糧となる葉の栄養価を高める事ができる。彼女は時折、彼の残して行った紙玉を握り締め、深沙堂の湧水池の畔に立つ。そして天を仰ぎながら、彼を想うのである。

福虫登(茨城県)
 割り箸を割ったら、笑われた。
 私の目の前に座る進藤が、どこか人を食ったような顔で笑ってきたのだ。どうして笑われたのかわからない。おまけに初めて進藤と目が合ってしまったものだから、変な汗をかいた。進藤はあのことを知ってるんじゃないか、と思った。いつだって完全犯罪でやってきたから、彼に気づかれてるなんて信じたくない。けれど、気づいていないのはじぶんだけで、進藤はとっくに私の秘密を知っていて、それでいて口には出さずに、私を見て笑ってきたのかもしれない――。
 そんな不安がめぐってきて、せっかくのお蕎麦もゆっくり味わえない。
「相原さん、一味使う」斜め向かいに座る所長に訊かれた。けっこうです、と応えて、ちらと正面に座る進藤をうかがった。彼は夢中で蕎麦をすすっている。食べ方を見て、あんまり慣れていないな、と思った。
「一味、入れた方がおいしいのに」所長が頬をふくらませながら言ったが、私は無言で首を振った。気を取り直し、鴨せいろをすする。
 所長がたまにはランチに行こうと言うからついてきたのだ。ちょうど進藤の新規契約が成ったというところで、たまたま所長のデスクに書類を置いていた私も誘われてしまった。
 進藤とは業務上の会話以外、話をしたことはない。いま、こうして正面から顔を見たのも初めてかもしれない。いつも私は進藤の背中ばかりみている。彼は一列前のデスクに座っているから、私の視界には広くて大きくて少し猫背の背中だけが映っているのだ。

 私は進藤のデスクを勝手に物色している。誰もよりも早く出勤して、カーテンを開いてポットを洗って、お湯を沸かす。そして周囲を見渡す。フロアにいるのは私ひとりだ。
 たしか、初めて彼の引き出しを開けたのは、進藤が私のフロアにきて二週間ほどしたころだった。もちろんまさかとは思っていたが、手をかけたらするっと開いてしまった。ふだん、スーツもきっちり着こなして髪型もこぎれいなくせに、デスク周りだけは無用心な奴だと思った。彼女の写真や何かが入っている事を期待していたが、そんなものはどこにもなかった。ざっと物色して、目にとまったのは芯のいらないホッチキスと消せるボールペン。もの珍しかったし、これが意外と優秀だったので、たびたびデスクから拝借した。あとはチョコレート。進藤もお菓子を食べるんだと思ったら、顔がにやけてしまった。ふだんコンビニとかスーパーではみかけないチョコレートで、二段目の引き出しの奥にいつも忍ばせてあった。進藤は意外と甘党なのだった。ひとつだけと思って頂いたら、すごく美味しくて、そのあと何度も――たぶん七八個は――食べてしまった。
 お礼じゃないけれど、引き出しを閉じたあとは、机の上をきれいに片付けてあげている。

 所長と進藤は、深大寺の蕎麦はやっぱり一番だね。とか、水がいいんですよ。とか話していた。とにかく異様な居心地の悪さのせいで、食事にも会話にも集中できない。
「相原は地元だよね。実家はこの辺なの」突然、進藤が訊いてきた。初めて名前を呼ばれたが、呼び捨てだ。所長でさえ「さん」付なのに、なれなれしい。進藤は私より年上だが、入社したのは私の方が二年も早い。
「深大寺元町一丁目ですけど」私はしごくぶっきらぼうに答えた。「それから小学校は――」進藤から次の質問が来る前に、私はじぶんの履歴が半径二キロ圏内でおさまることをとくとく述べてやった。所長がそうなのぉ、といいリアクションをとってくれた。
「じゃぁ、あとで案内してよ」進藤が言う。
「どこに」
「深大寺」
「なんで私が」
「だって、庭みたいなもんなんでしょ」進藤は蕎麦つゆを飲み干しネクタイに手をあてた。そして私を見てさっきと同じ顔で笑った。やっぱりあのことを知っているのだ、と思った。
 手癖が悪いのは昔からだった。幼稚園のとき、従弟の裕介の帽子を盗った。べつに帽子が欲しかったわけではない。祐介が泣く顔を見て、私は笑っていたのだ。その時は叔父さんにこっぴどくしぼられた。中学生になって、クラスの三田くんという男子の傘を隠したことがある。昇降口で、傘を探す三田くんを私は背後から眺めていた。彼は自分の傘がないことが分かると、どしゃぶりの中、パーカーのフードを被って校門へ駆けていった。
 その手のイタズラは何度もしてきた。当時は、その衝動が何から生まれるのかはよく分かっていなかった。気になる男の子に意地悪すると、なぜかしら心が落ち着いたのだ。

 会計は所長が持ってくれた。私と進藤がお礼を言うと、所長はジャケットを羽織りながら、自転車にまたがった。会社に戻る前に得意先に寄ってくる。そう言って所長は颯爽とペダルを漕いで行った。蕎麦屋の前で進藤とふたり、ぽつんと残された。
 横にいる彼の顔を見上げた。進藤は背が高いのだ。すらりと伸びた手に大きな腕時計が光る。時刻は一時を過ぎた頃だった。
「じゃぁ、俺らも会社へ戻る前に寄っていくか」進藤が言った。口からふわりとつゆの香りが漂う。仕事がまだあるからそんな時間ないです、と私は答えたが、進藤は意に介さず、私の手を取って店を出た。彼に促されるように、深大寺通りを東に歩いた。なるようにしかならない、しばらく彼の言動を観察しよう。肚を決めた。
ふたつの影がアスファルトに伸びている。周囲の木々が少しずつ色付き始めていたが、まだ寒くはない。鬼太郎茶屋を横切り参道に入った。門前町で進藤は店先に立つのぼりや店頭の饅頭の湯気ひとつひとつに、へぇだのふぅんだのと感心していた。進藤の背中越しに参道を眺めながら、ふっと幼い頃のこと――たしか小学生の頃、その日はだるま市だった――を思い出した。私は人ごみの中、祐介と叔父さんの姿を探しながら泣いていた。土産店ではぐれてしまったのだ。迷子になって、大人たちの脚をかきわけ、私は泣いた。広くて大きな参道で、金色の法衣を纏った僧侶の列が見えた。涙でにじむ視界から、僧侶の列は消えていった。ふと、後ろから声をかけられた。若い夫婦だった。泣きじゃくる私は、旦那さんに抱き上げられ、肩車をしてもらった。すごく背が高かった。山門の向こう、境内の中まで見えそうだった。やさしく私の脚を支えてくれた手のぬくもりが、じんと伝わってきた――。
「ここを上がれば本堂なの」進藤が訊いた。
「そうだよ。正面に見えるのが本堂で、左手にあるのが元三大師堂」
「こんなに会社が近いのに、今までもったいなかったな」
「もったいないって、何が」
「いや、ずっと来たかったんだよ。都内でも有数の古刹だろ。雑誌とかテレビで観るだけだったから」進藤はゆっくりと石段を昇りながら言った。「ふたりで来るなんて、なんだか不思議だよな」
「どういう意味」私は訊いた。進藤は涼しい顔で山門を見上げている。
「俺さ、相原の秘密知ってんだよ」
そう言って、進藤がこっちを振り返った。蕎麦屋で見せたあの顔をしている。脳みそにあらゆる言い訳が駆け巡った。周囲の枝葉が風に揺れて、しゃらりしゃらりと音を立てた。
「相原って、割り箸を割るのヘタだよな」
「え」彼が何を言ってるのかわからない。
「昼飯のとき、いっつも割り箸割ってるけど、上手に割れてない。片方の端が裂けたり、ささくれみたいになったりしてるじゃん」
「なんでそんな事知ってるの」
「パソコンのディスプレイにさ、相原が映るんだよね。席が真後ろだから。会社の弁当食べる時の相原をいつも見てる」
いつも見てるって、そうか。いつも見られていたのか。言われてみると確かにそうだ。私は割り箸を上手に割れた例がない。
「さっきも蕎麦屋で上手く割れなかっただろ」進藤はそう云うと、くるっと背を向けて、境内に入っていった。会社のフロアで見ているいつもの背中がそこにあった。
「進藤くん、あのさ」背中に声を掛ける。チョコレート、ごめんね。と思わず言葉が出かかって口をおさえた。進藤が不思議そうな顔をして振り返る。私の顔はみるみる紅潮してきた。何が何だか分からず、とりあえず、笑顔を作った。
「笑ってた方がいいよ、相原」ふいに進藤が言った。
「何それ。からかってるの」
「会社じゃいつも難しい顔してるからさ。笑顔の方がいいよ」
「だって仕事中に笑ってたら変じゃない」
「そりゃそうだけど。言われて悪い気はしないだろ。お前のいいところを発掘してあげてるんだ」
「いやなやつ。それ、上から目線」
でも、うれしかった。じぶんを見てくれていることに悪い気はしない。ほら、いくぞ。進藤が言った。彼にまた腕をとられた。境内には抜けるような青空が広がっている。
「進藤くん。もしさ、雨の日に置いていたはずの自分の傘がなかったらどうする」私は訊いた。
「傘? 何だよ突然」
「だから、もし傘立てにあるはずの傘がなかったら」
「他人の傘を持っていくわけにもいかないしな。そういう時はあきらめて、濡れて帰るよ」
 進藤は笑って答えた。
 彼のことが、もっと好きになった。

ナシカヲル(千葉県松戸市/35歳/男性/公務員)
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