「ママ、お風呂沸いたよ」
北向きのベランダの窓を開けて、うずくまるように座っていた母に声を掛ける。母は握りしめていた携帯をぱたんと閉じて、ゆっくりと頷いた。母が光合成をするようになって半年が経つ。それというのも、ある日どこかに出かけたかと思うと、突然髪を目の覚めるような緑に染めて帰ってきたのだった。それまで善き主婦だった母はパートをやめ、家事もやらなくなった。今では時折ふらりと出掛ける以外、日々の大半をパンジーと一緒にベランダで過ごしている。母は、守ってくれるものから、守らなくてはならないものに変わってしまった。
「私はお皿片付けてから入るから、ママ先に早く入っちゃってね」
せいぜい週の半分しか家に帰って来ない父は、もうずっと前からあからさまに母に興味を失っていた。母がこんな状態になっても何も言わず、かといって家のことをやってくれるわけでもない。仕方がないので、私は高校の吹奏楽部をやめて家事を引き受けた。
 母は携帯をコーデュロイのズボンのポケットに入れて立ち上がる。無表情のままのっぺりした声で、ありがとう、と言った。自分のありさまにきちんと負い目を感じていることを伝えようとしているみたいに。
「もう寒いんだから、風邪ひかないでよ」
 十一月だというのに、裸足にサンダルをひっかけてベランダにいた母をお風呂へと送り出して、私は台所へ戻った。
つけっぱなしのテレビになんとなく耳を傾けながら皿を洗っていると、お風呂場から母の声が聞こえた。シャンプーがきれたようだ。私はゴム手袋をはずし、脱衣場に向かった。
洗面台の下の戸棚の奥からシャンプーの替えを探し出す。浴室の扉を開けて、母に渡す。皿洗いに戻ろうとした、その時だった。近くでヴー、というくぐもった音が聞こえた。思わず息をのむ。洗濯機の上で綺麗に畳まれて置いてあった母の服の中で、携帯が震えた音だった。浴室では母がシャワーを流し続けている。
なにか魔法のような力が働いていたのだと思う。くらくらする私をよそに、私の手はまるで別の生き物みたいに、母の服の中からするりと茄子色の携帯を取り出した。静かに開く。ロックはかかっていなかった。新着メール、フロムいつき。
『アケミさん明日空いてますか? 前言ってた深大寺、連れて行ってくれませんか?』
 文末の赤いクエスチョンマークがやけに元気に動いている。アケミさん。母の名前をカタカナで表記するとこんなに漫画みたいになるんだ、と思った。深大寺には、まだ父と母の仲が良かった頃に何度か家族で行ったことがある。うちからはバスで十分弱。
『十二時に深大寺のバス停で』
 私の指は驚くほど滑らかにそう打ち込んだ。
送信。そして自分の書いたメールと、『いつき』のメールを消した。背中に汗が滲んでくる。不自然だったかもしれない。ばれたらどうしよう。頭の血管がじゅわじゅわ言う。ヴー。新着メール、フロムいつき。
『わかりました!』
 やけに元気に動く赤いエクスクラメーションマーク。メールを消す。携帯を閉じる。服の山に戻す。そこで初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。私は大きく深呼吸して、なんでもないふうにシャンプーの替えを母に渡した。

「母は来ません」
 待ち合わせ場所でいつきを見つけられるかの心配は無用だった。髪が母と同じ緑色だったからだ。少し色が褪せて黄色っぽくなっていた。生え際も黒く見え始めている。朝から雨が降っていたせいで、前髪が濡れた枯芝みたいに額に貼りついていた。
「アケミさんのってことは......サキちゃん?」
いつきは腫れぼったい目をきょろきょろさせて、おそるおそるそう言った。頭が悪そうなつぶれた声。軟弱な身体つき。歳は二十代後半くらいだろう。私はいつきが自分の名前を知っていたことに少なからず驚いていた。
「母がお風呂に入っている間に私が勝手に返信しました」
「えーっと、どうしようか。まだ少し降ってるし。そうだな、昼ご飯はまだだよね」 
 いつきが首の後ろを掻きながら近くの蕎麦屋に入ることを提案したので、私は頷いた。
「好きなものなんでも食べて」
「私、自分で払います」
「アケミさん、いつも俺に出させてくれないんだ。だから、その分」
 覚悟していたはずなのに、このいつきとやらは本当に母の浮気相手なのだと改めて思い知らされて途方に暮れる。何も言えなくなった私の分までいつきは天ざるを頼んだ。お店の人に、私たちカップルじゃありませんよ、という顔をしたかったけれど、母といつきが、というよりは私たちがカップルであった方がまだましな気もして、俯くしかない。
蕎麦が来るのを待つ。じわじわと緊張の波が押し寄せてきて、いつきに訊ねるべきいくつもの質問が頭の中でミキサーにかけられていく。視線のやり場がわからず、水の入ったグラスを睨みつける。しばらくいつきもグラスを持ったり置いたりしていたが、全部飲み干してしまうと居心地悪そうに口を開いた。
「同じスーパーで働いてたんだ。店長と揉めた俺をかばって、アケミさんまで辞めることになっちゃったけど。アケミさんしか俺のことわかってくれなくて」
 アケミさん。
「......俺、アケミさんに会いたくて。アケミさんがいてくれて、俺すごい救われたから」
 アケミさん、アケミさん、アケミさん。嫌悪感で嘘みたいに小鼻が引き攣る。
「アケミさんは、俺のこと」
「やめてください!」
 気持ち悪い、と思うと同時に私の口から発された言葉の語気は荒く、いつきは圧倒されていて、向こうのお客さんはこっちを見ていて、でもいちばん驚いていたのは私だった。
「もういいです、ききたくないです」
「お待たせしました」
 天ざるを持って奥から出てきた店員さんの落ち着いた声が、不自然に響いた。
「ごめん、俺、いつもひとりよがりで」
 口を片側にひっぱって不恰好に笑いながらいつきは言って、あとは静かに蕎麦をすすっていた。わさびも葱も入れずに。雨粒がはたはたと屋根をうつ音だけが響いていた。

 店を出ると、雲の隙間から光が差していた。
「晴れたね」
 目を細めて言ういつきの髪はいつの間にか渇いていて、傷んだ毛先の向こうで太陽が輝いている。雨上がりの匂いがむんとした。
「お参りして行ってもいいかな」
 咄嗟に頷いてしまったが、すぐに後悔する。ここの神さまは縁結びで有名なのだ。でも神さまの力が強ければ強いほど、私にとっては大問題ではないか。このまま母といつきが結ばれでもしたら困ってしまう。もし私が今逃げ帰っても、いつきはお参りしていくだろうか。母はいつまでも、安っぽいパンジーのプランターと一緒にベランダでの生活を続けることになるのだろうか。
 お堂まで来ると私は素早く財布を出して、お辞儀をしてから賽銭箱に五百円玉を入れた。いつきより多くなくては意味がない。いつきの願いが叶わないことが私の願いだ。矛盾するお願いごとがいくつも来たときに、神さまはどうやって叶える方を選ぶのだろう。わからないけれど、とにかく私の願いの方を優先してもらわなくてはいけない。鈴を鳴らして手を合わせる。神さま、この男と母の縁を、結ばないでください。
 力強く祈ってお辞儀をしてから隣を見ると、いつきはまだ隣でモタモタと財布をしまっているところだった。手元の千円を賽銭箱に入れた。まさかお札を出すとは思っていなかった。焦る私をよそに、いつきは二度大きく手を叩き、ぎゅうと目をつぶって祈った。神社と寺の違いもわかっていない男のくせに。
「なんて祈ったんですか」
 当てつけみたいに訊ねる。責めてやろうと思った。このひとりよがりのバカ男を。他人の母親に恋をした愚かさを。いつきはたじろぎながら、後ろめたそうに答えた。
「アケミさんとアケミさんの『オット』が、またうまく行きますように......って」
 私は耳を疑った。この男は一体何を言っているんだ。何様のつもりだ。
「どうして貴方がそんなこと願うんですか」
思わず問い詰めるような口調になる。いつきは私と初めて目を合わせて、顔を歪めた。
「アケミさんには、幸せになって欲しいんだ。......俺のことは子供みたいに構ってくれてるだけから。それでも嬉しかったけど」
 泣き顔で必死に笑ういつき。さっき言いかけたのはこのことだったのか、と思った。私まで泣きたくなる。母はいつきのために光合成をしているというのに、この男はちっともわかっていない。どれだけ真剣な顔で母が携帯を眺めているのか。ベランダから戻るとき、どれだけ母の足が冷たくなっているのか。
本当に、なんてひとりよがりなんだろう。
「ごめんね。サキちゃんには嫌な思いさせちゃって。......アケミさんに、よろしく」
 じゃあね、と言っていつきは歩き出す。もし私の願いが五百円で叶うなら、千円も出したいつきの願いもいつか叶うのだろうか。そうすれば、私たち家族は元に戻れるのかもしれない。でも、なんだかあんまりじゃないか。
遠ざかるいつきの髪がきらきら揺れていた。私はやけに澄んだ空の下、取り残された。

神月柚子(東京都町田市/20歳/女性/学生)
 瑠璃子に会ったのはその日が二度目だった。
 深大寺の釈迦堂、ガラスをはさんで釈迦如来と向き合っていた私は、映り込む背景の中に人の気配を感じて振り返った。瑠璃子は、濃紺のノースリーヴのワンピースを着て右手奥に立っていた。外国の血が幾分混じっているのではないかと思わせる白い肌であったが、漆黒の髪は今風にショートボブにしていた。
 私は一瞬、はっとした気を発したのであろう。瑠璃子の方も釈迦如来の前にいるのが、私だと気づいたようだ。弓なりの眉は目の前の仏像と似ていたが、丸顔で扁平かつ切れ長の目をしたお釈迦様とは違って、瑠璃子の瞳は大きく、彫りの深いつくりである。
「いつかお会いましたね」
「お邪魔して恐縮です。その節は有り難うございました。失礼ですが、白川先生でいらっしゃいますか? 私、岡部と申します。あの時は挨拶もせず申し訳ありませんでした」
 そう言って瑠璃子は、私に名刺を差し出した。都内の私立大学の大学院生で、日本美術の専攻だった。

 瑠璃子と初めて出会ったのは、奈良の興福寺であった。興福寺には白鳳彫刻の代表作とされる仏頭がある。私は関東郊外の私立大学で日本美術史を担当していたので、学生を引率して、奈良の仏たちを見学していた。興福寺の国宝館で仏頭を見ようとやってくると、若い女性が一人熱心にメモを取っている。私は邪魔をしないように、とりあえず阿修羅像など他の名品の前に学生を連れて行き解説をした。一通り説明が終わって仏頭の前に戻ってくると、相変わらず先ほどの女性がじっと立っている。私は多少ためらいつつも、この後の旅程もあったので、思い切って声を掛け、少しの間大勢で騒がしくすることを詫びた。
 女性はむしろ自らの鈍感さを恥じるようにさっと場所を空けてくれたが、立ち去ることはせず、学生の輪の外で私の話に耳を傾けていた。私はその女性が専門の研究者なのか単なる愛好家なのか分からなかったため、幾分話しづらい思いをしたが、女性は静かに頷くだけだった。話を終えたとき、互いに簡単に目礼を交わした。わずかに青光りのする黒い瞳が印象的であった。それが瑠璃子であった。

 名刺を見て同じ研究者だと知った私は、幾分打ち解けた心地になって、瑠璃子と言葉を交わした。彼女は修士論文の準備中であった。
「白鳳仏の研究をしているのですか?」
「はい、実は大きなテーマは薬師如来像についてです。その中の一部として白鳳時代の薬師如来について研究しております。興福寺の仏頭も、元々は山田寺の薬師如来像であったということで、あの時拝見しておりました。」
 あとで知ったことだが、瑠璃子という名前は、薬師如来の正式名称、薬師瑠璃光如来からとったそうで、父は医者か薬剤師にでもなって欲しかったのかしらと瑠璃子は笑っていた。瑠璃子の研究は、自らのルーツを探る関心から来ているようであった。

「でも、こちらの仏様は釈迦如来ですね。やはり同じ白鳳仏として無視することは出来ないということですか?」
「はい、それもありますが、私はもっと端的に、この仏様が御薬師様ではないかと考えております。」
 その意見に私は研究者として一気に引き込まれた。未発表の研究内容を、指導学生でもない大学院生に根掘り葉掘り訊くのはマナー違反ではあったが、瑠璃子はあまり頓着していないようであった。
 白鳳仏の特徴の一つに童顔であるというのがある。深大寺の釈迦如来も童顔であるが、同じような特徴を持つ興福寺仏頭や千葉・龍角寺の仏は薬師如来である。一方、同じ白鳳期の仏でも蟹満寺の釈迦如来像は、つり上がった鋭い目をした姿である。そこから瑠璃子は深大寺の御像も釈迦如来ではなく薬師如来ではないかと考えていた。
 また深大寺は元三大師信仰の東の拠点であるが、薬師もまた東方の浄瑠璃世界を住処とすること、施無畏・与願という印相は薬師如来にも共通することなども根拠として挙げた。

 深大寺での出会い以来、瑠璃子は名刺にあった私のアドレスに時折メールを寄越すようになった。瑠璃子の指導教員の西村敬三は、学会の大物であったが、それだけに学内行政や政府関係の仕事などに多忙で、学生の指導までは十分に行き届かないようであった。
 私はどちらかというと法隆寺などが専門であったが、瑠璃子の研究内容を評価していたこともあって、丁寧にメールを返した。数ヶ月はメールだけのやりとりであったが、論文執筆が本格化する秋口になると、瑠璃子は直接私の研究室にやってくるようになった。当初は、資料を借りて帰るだけであったが、論文がある程度仕上がると、その内容についての講評を求めたりもした。
 私は他大学の学生に深く関わるのはまずいと自覚していたし、のめり込んでくる学生に距離を取る術もそれなりに心得ているつもりでいた。しかし、同年代の学生にはない落ち着いた瑠璃子の物腰は、当初の警戒心を和らげさせた。瑠璃子はどこか節度を保ったところがあった。それは大人同士のつきあいという安心感に繋がったが、逆に向こうから軽く拒絶されているようでもあった。年に似合わぬ空気感がかもし出す理解しがたさに、私の方が十以上も年下の彼女に主導権を奪われ、次第に意図せざる方向へと引き込まれてゆくようであった。論文を建前に本音を明かさぬ二人の関わりには、いつしか密約めいた艶めかしさが生じていた。正式の教師でも生徒でもない定義され得ない関係ゆえ、私たちはいずれ甘美なる共犯者へと変貌せざるを得ないことを暗黙の内に感じ取っていた。

 瑠璃子と最後に会ったのは、その年の年末であった。年明けすぐに修論を提出するとのことで、九割方完成した原稿を私に見せに来た。御用納めの後だったので、学内はほとんど人がおらず、冷えた空気がしんとしていた。
 一通り目を通し終える頃には、終わりの予感が二人の間を満たしていた。もうすぐ会うべき理由は消える、その緊張に堪えかねたのか、瑠璃子は切羽詰まったように問いかけた。
「この研究、世の中に出しても良いものなのでしょうか?」
「そりゃ、西村先生次第だけど、学会誌に掲載できるだけの質の高さはあると思うよ」
「いえ、そうではなくて、人々がずっとお釈迦様だと信じていたものを、本当は薬師如来だなんて。学問だからといって真実を暴いて良いものなのでしょうか。虚構はすべからく欺瞞に過ぎないのでしょうか?」
 私は何も気の利いた答えは出来なかった。学問とはそういうものだ、真実にこそ永遠の力が宿るものだとしか言えなかった。瑠璃子は一瞬失望したような表情を見せたが、すぐにいつもの節度ある態度に戻って、静かな笑みを湛えた。その時、私は瑠璃子が言外に含めた必死の訴えを受けとめきれなかったのだ、ただはぐらかしてしまったのだと悟った。失ったものを取り戻そうと私は、
「瑠璃子っ」と初めて下の名前で彼女を呼んだ。しかし、伸ばしかけた手を振り払うように彼女は立ち上がった。
「私、先生が好きです。でも先生は学者です。虚構には生きられません」
 そう言って、瑠璃子は私の部屋を出て行った。年明け、論文を提出した旨のメールが入ったのを最後に、彼女との連絡は途絶えた。

 五月は学会の季節である。私は会場で瑠璃子がいないか隈無く目を配ったが、見つからなかった。最終日の午前のセクションが終わると、気の早い連中は引き上げはじめる。私は諦めきれずに講堂のホールで人の波を見ていた。向こうから西村敬三が歩いてきた。
「いやー、何かうちの学生が大変世話になったらしくて、済まなかったね」西村は気さくに話しかけてきた。自分の指導学生に横から口を出されたにしては意外に鷹揚であった。
「こちらこそ、差し出がましいまねをして済みません」と応じつつも、私は瑠璃子の消息を聞けるのではないかと期待に胸が高鳴った。
「岡部君の論文はおかげさまで、大変出来が良かったよ。私は博士課程に進むよう薦めたんだけどね」
「彼女は今どうしているのですか?」
「うん、それが、年の離れた旦那さんが体を壊して田舎に引っ込んだのについて行っちゃったんだ。自分の本分は妻として旦那の健康を回復することなのだそうだ。薬師如来の研究をしたのもそんな含みがあったのかな。」
「それに、今となっては学生として過ごした時間は仮初めゆえに美しく煌めいて見えると言っていたよ。真実は辛く悲しいが、受け入れるしかないと悟ったような様子だったね。随分残るように説得したのだけどね」
 迂闊にも気づいていなかったが、瑠璃子は既婚者だった。年の離れた夫と結婚したのはどんな事情があってのことだったのだろうか。夫が体を壊したのはいつからだったのだろう。その現実を背負いながらも、瑠璃子は私には何も見せず、あり得べきもう一つの自分を仮現させていた。指輪をはずすほど結婚生活は何か苦しいものだったのだろう。だから必死に私に問いかけたのだ。仮初めの世界に生きても良いかと。一緒に儚い夢に漂いたいと。
 私は何も出来なかった。だが彼女は、あの時間は美しいものだと最後に言った。そこに生きる縁を求めたのだろうか。それとも消えることのない悔恨から私を救わんとしてくれたのだろうか。彼女の静かな微笑みが目に浮かんで、私は思わず涙した。

舞田楓依(愛知県)
 みずきからメールが届いた。三か月ぶりの着信だ。
 今頃になって一体なんの用だという、突っ張った気持ちと、建前とは裏腹な、待っていたものが来たという、うれしい気持ちとで、ぼくの心は千千に乱れた。
 恐る恐るメールを開く。
「おばあちゃんの手打ちそばが食べたくなったよ。でも、ムリか。深大寺のおそば食べに行かない?」
と、あった。

 鹿児島のばあちゃんの家で、ばあちゃんが孫の女友だちのためにと、ふたりの目の前で手際よく打ってくれたそばを、みずきは「美味しい、美味しい」と言って食べた。東京に戻ってからも、みずきは思い出したようにばあちゃんのそばの美味しかったことを話題にした。あの時もそれを口にしたのだ。そのくせに、美味しかったことに付け加えて、ばあちゃんのそばは、東京のそばと比べたら、そばの部類には入らないと、深大寺のそばをすすりながら、そう断言したのだ。
 みずきの言葉に耳を疑ったぼくは、その言葉の真意を探ろうとしたが、それより先に憤怒の感情が体全体に沸々と湧きおこって来て、それを制御するのに手一杯だった。
 みずきと付き合いだしてからの約半年の間に、今回と似通った軋轢は度々起こった。しかし、東京のおそばを基準にしたら、ばあちゃんのそばは、そばの範疇に入らないと言われたこの件については、ぼくはいつもより一層、腹立たしさを募らせた。
 目の前にある当の深大寺そばは、確かにばあちゃんの手打ちそばとは麺の太さも麺の色合いも、それから味も異なった。器にきれいに盛られた細い麺のそばを、時代がかったそば猪口のおつゆに、麺のはしっこだけをほんの気持ちだけ浸し、たちどころに喉に流し込む食べ方はいかにも東京風で、鹿児島の田舎から出て来たばかりのぼくの眼には、それがとてもカツコよく映った。
 ばあちゃんの作るそばは、そば粉からして自家製である。麺にはつなぎとして山芋を使う。山芋も家の裏山で掘り当てた自然薯や、さもなくば家の畑で栽培したものを使う。山芋が入るせいか、麺は少し白っぽくなる。麺は太め。それも途中でプチプチ切れて短い。だし汁は鳥ガラか鰹節で作る。かけそばが主流。どんぶりの麺の上には一般的にネギのぶつ切りと、甘辛く煮た地鶏の切身とさつまあげが添えられる。
 みずきが言うように確かに、ぼくが東京に来て、江戸っ子の末裔のみずきに誘われて、好んで食べるようになった深大寺のそばと、ばあちゃんの作る昔ながらの薩摩のそばとは、繰り返しになるが、見た目も味も、それからそばに対する人の向きあい方というか、そばを食する場の趣も正直に言って、かなり隔たりがある。でも、ばあちゃんのそばを、美味しい、美味しいと言っておきなから、ばあちゃんのいないところで、あれはそばの部類には入らないという、その言い草は許せないと思った。
 ぼくは以前、東京の人は、人の問いかけに対して「はい」とか「いいえ」とか、明確に返事をすることを好まない傾向があると本で読んだことがあった。それは、返事をはっきりすることで相手を落胆させたり、窮地に追い込んだりすることをなるべく避けるための人づきあいの心得だと説かれていて、なるほどと感心したものだった。
 でも、この東京人の習性は、言いたいことは遠慮なく言い、白黒をはっきりつけたがるみずきには、どうも受け継がれていないらしいと、ぼくは判断せざるを得なかった。
 ところで、彼女は東京を知らないぼくを、休日や講義の合間に色々なところに案内してくれた。新宿や六本木や渋谷や池袋と云った、若者が好んで集まる街に連れて行ってくれた。ぼくは繁華な高層ビル街が物珍しかったが、人込みにひどく疲れた。正直に言うと、みずきが案内してくれた場所で唯一、芯からゆっくりできたのは深大寺の周辺だった。
 ぼくが遠慮がちにそのことを伝えると、
「これからよ、東京の良さが分かるのは。東京の良さが分かって初めて世界のどこでも通用する男になれるはずだわ。あなたが拘る故郷はあくまであなたを育んでくれたところで、
あなたの人生の出発点に過ぎないと捉えるべきよ」
と、みずきは突き放したような言い方をした。東京に慣れることで精一杯のぼくはみずきの言っている意味がよく分からなかった。
 さらに、みずきは自分が東京人で、生粋の江戸っ子であることを楯に取って何でも自分でリードしたがった。
 ばあちゃんは、常々、将来、嫁さんを貰うときは、男を立てる控え目な性格の人を選ぶようにぼくへの忠告を怠らなかった。みずきは、そのばあちゃんが理想とするぼくの嫁には似つかわしくない姿を度々披露した。そして、付き合い始めて五カ月くらい経った頃から、みずきはぼくと一緒に居てもつまらなそうな表情を垣間見せることが多くなった。
おとなしめなぼくだがプライドは高い。彼女のぼくを差し置いて、自分の主張や趣味を押し通すところが癇に障っていたし、みずきの方から付き合いをやめようと言われて傷つくのも嫌だったから、ぼくの方から先に意識的にみずきから遠ざかった。
 ぼくは、みずきが一度だけ許してくれたキスに蕩めいた日のことや、ふたりで通った深大寺のそばの味を未練がましく反芻しながら、わびしく寂しかった五月以前の生活に戻っていったのだった。

 ぼくは、すぐにはメールを返さなかった。待ってましたとばかりに返すのは男の沽券に関わる。仮にそんなぼくの様子を知ったらばあちゃんがきっと悲しむと思った。他人にさもしいと思われるような行動は絶対に取るなということも、これまた、ばあちゃんの教えの一つであった。そのばあちゃんの声が何度も耳鳴りのように響いたが、ぼくは我慢し切れなくなって、メールを返した。
「ちょうどお腹が空いていた。良いタイミングでメールしてくれてありがとう」
とだけ、打った。折り返し、
「久しぶりのメールなのに、随分味気ないメールね。お昼に例のところで待ってるわね」
と、これもまた、あっさりとしたメールが届いた。

「こんにちは、久しぶりね」
 造りが大きくて目鼻立ちのはっきりしたみずきが、ぼくに笑顔で声をかけた。化粧は以前から巧かったが、さらに大人っぽい表情の顔になっていた。ぼくはみずきが眩しくてすぐに視線を池の水面に向けた。
 ぼくらの行きつけだった店は、普段通りの客の入りだ。みずきは明るい紺色のオーバーコートを脱ぎ、ぼくのダウンコートと一緒に畳んで空いた椅子の上に置いた。
「三か月ぶりよね、航くん。おそばは例の調子で食べてた?」
 ぼくは、かぶりを振った。みずきと別れてから一人だけで深大寺に来ることはなかった。意識的にここを避けていた。
「わたしね。航くんと会わなくなってからもここに通ったわ。一人では寂しかったけど、そば好きの私としては、おそばの誘惑には勝てなかったの」
 ぼくには出来ないことを、みずきはこうしてやってのける。ぼくとみずきの感覚の違いや行動パターンの違いを改めて思った。
 いつものことだが、みずきが何か改まった口調で言葉を発するとき、みずきは、身体はここにあれども心はここに在らずと云った、虚ろな表情になる。しかし、しばらくすると、時計の振子のように、ぼくの居る場所に再びみずきの心は帰って来て、その虚ろな表情もすぐに才気渙発な大人っぽい女の表情に戻る。その繰り返しなのだ。
 みずきとこれからずつと一緒にいるのであれば、ぼくは、みずきの発する言葉や行動がもたらす、曰く言い難い複雑な感情に耐え、慣れていかなければならないのだと思った。
「おばあちゃんのおそば、また、食べに連れて行ってくれる? 今すぐはだめにしても約束してくれる?」
「どうしてそんな気になったの? また、東京のそばとばあちゃんのと食べ比べてみたくなったの?」
 ぼくは、ばあちゃんのそばが食べたいとせがむみずきに皮肉っぽく問いかけた。
 みずきはそれには答えず、
「おばあちやん、こんなこと言ったらなんだけど、お歳でしょ。おばちゃんが元気なうちに作り方を習っておきたいのよ。だって東京じゃ、絶対に食べられないでしょ、おばあちゃんのおそば」
と、早口にそう言った。
 ぼくは、みずきの願いに応えてやろうと思った。この際、ばあちゃんにみずきのことを良く知ってもらおうと考えた。僕は包み隠さずに言うが、みずきがとっても好きだ。みずきに会わなくなってからぼくは、彼女にぞっこん参っている自分に改めて気がついたのだ。でも、相容れないところもたくさんある。これからも感情的な摩擦は頻発するだろう。そんなふたりの接点と言えば、そば好きだということに尽きる。なんとも心細いふたりの絆だ。でも、案外、そばの麺と違って切れにくいのかも知れない。
「おまちどうさま」
 もりそばが運ばれてきた。みずきは、早速、食べにかかる。そばを食べるときだけは、みずきは、都会の鼻っ柱の強い生意気な女から、無邪気であどけない顔の少女に変わる。

伊地知 順一(鹿児島県姶良市/66歳/男性)

「寝たきりだったのに、ふと立ち上がって足を引きずってさ」と、おばあさん。
その潤んだ目を悪戯好きの少年のように初夏の風がくすぐる。
「子猫の頃は抱っこして哺乳瓶でミルクを与えたもんだ。何しろ私達夫婦には子供がいないもんだからね」
我が子を慈しむように育てた野良猫――その名は『男爵』だった。ペルシャ猫の血を継ぎ、エレガントな毛並みをしていたからだ。
けれど、どんなに高貴な位でも猫は知恵者で世渡り上手なのだ。おまけに彼には誇りも節操もなかった。一人前になると、召使いのようにかしずくおばあさんの目を盗んで夜遊びにふけり、ある日、妻と三人の子供を連れて凱旋した。
「あんた、その子供達ときたら母親似で三匹とも薄汚いわ、意地汚いわ、人の顔色覗うわで下品なのよ。すっかり男爵にも嫌気がさしちまってね。餌もあげずにほったらかしにしておいたら、ウチに寄り付かなくなったよ。家族一同引き連れて、どこかに行っちまった」
露骨に疎ましげな顔をするおばあさんに、『男爵』がカケルで私がおばあさんの役どころ――私達とよく似ていると思った。

カケルと初めて言葉をかわしたのは、バレンタインデーの翌日の小雪のちらつく早朝だった。
車の急ブレーキの音で目が覚めて、カーテンを開けて窓越しに見下ろすと、明るくなり始めた路上に黒塗りの高級車が停まっていた。ドアが静かに開き、出て来たのはサングラスをかけた坊主頭で、逃げていく新聞配達を追いかける。
ああ、アイツ、またバカなことをやらかしたなと、私はその逃げていく背中を目で追った。捕まらなければいいがとヒヤヒヤしながら。
そこは一方通行の狭い道なのに幹線道路の渋滞を避ける抜け道になっていて、特に朝夕は交通量が多く、その路地に住む者にとって車は迷惑至極だった。その車の前をわざとゆっくり自転車のペダルを漕ぐ新聞配達の若者を私はしばしば目撃していた。
傍若無人の車にアイツは頭にきてるんだ、相当の意地っ張りだろうなと苦笑しつつ、
ただいつかトラブルを引き起こすのではないかと気にはなっていたのだが......。
二人の姿が人しか通れない脇道に消え、しばらくして坊主頭だけが戻ってきた。
ちらっと見上げる坊主頭に慌ててカーテンを引くと、ガシャッ、ドサッと大きな音がした。
車の立ち去る音にカーテンを開けてみると、民家の塀に立てかけてあった新聞配達の自転車が横倒しになっていて、後続の車がそれを脇にのけた。
頃合いを見計らって戻って来た新聞配達の足元で、散乱した新聞が雪と車の車輪でグシャグシャだった。
それらの経緯を二階の窓から盗み見ていた私は、憐れな新聞配達につい弟を庇う姉のような気持ちになったのだった。
片思いのあの人に渡せずまま宙ぶらりんになった真っ赤なパッケージの高額なチョコレート――渡した後の後悔よりも渡さなかった後悔の方がずっと長続きすることを四十歳目前でアパートに独り身の私はしみじみ分かっている......。
そのチョコレートを手にすると、ネグリジェの上に毛皮のコートを羽織り、道路に出た。前夜に一人でハイボールを飲み過ぎて酔っぱらい、化粧を落とさずに寝てしまった顔が気になったけれど。
「えらい目に遭ったわね」と声をかけると、新聞配達は思いがけず不敵な笑みを浮かべた。
「なあにどうってことはないさ。こんなことをしたヤツ、いつか処罰してやるさ」
「処罰?」
「当たり前だろ、こんなことをしたんだから。自分で受けた辱めは自分でケリをつけるさ。俺は執念深いし、怖いものなしだから何でも出来る」
「でも、さっき逃げたじゃないの」
「あんなヤツと刺し違えるのは沽券に関わるからさ。それにしても嫌な人だな、ずーっと見てたのか。」
 長身の身体は細身でヤワそうなのに、眼光だけは空威張りに見えなかった。
「これ食べる? 中身はチョコレートなの」と真っ赤な小箱を差し出すと、また生意気な口をきいた。
「貢物ならもらっておくよ。そうか、バレンタインデーか」
「違うわ。バレンタインデーは昨日よ」
 どう見ても惨めな状況であるはずなのに、そのときの私の目には自転車を引きずりながら去っていく(散乱した新聞を片付けもせず)新聞配達の背中が、悲運を背負って落ちのびて行く貴公子のように見えた。それは彼の肩まで垂らした真っ黒な長髪と端正な顔立ちゆえだったに違いない。それと、耳にぶらさがった紫色をした勾玉のピアス!
 その日の出来事がきっかけで、紆余曲折を経て、気がつけば私のマンションで同棲生活、新聞配達の若者――カケルの私は召使いになっていた。
 やがて新聞配達を辞めて私に寄生し始めたカケルは、私が仕事(高給取りの服飾デザイナーだ)で留守の間、時々自作の詩集を売りに井の頭公園に出かけた。
「今どき詩集売りなんて流行らない。ましてや、駅ではなく公園だろ。買ってくれる人なんかいるものか。売れなくてもいいのさ。隣の桜の木の下で、真っ白な髭をたくわえたインド人の爺さんがシタールを奏でている。それを聞いてるだけで、俺は吟遊詩人か聖者になった心地だよ。帰りに深大寺に寄って、蕎麦を食いながら猫の背中を撫でる。野良猫上がりとはいえ、ペルシャ猫の混血だぜ。蕎麦屋のおばあさんが餌付けしてるんだ」
 そのおばあさんなら深大寺の近くに住んでいた子供の頃によく可愛がってもらったし、今でもその蕎麦屋にはよく行くし、その猫も知っていた。深大寺の墓地に君臨している猫で、門前にあるおばあさんの店で赤い毛氈を敷いた客用の椅子で客がいようがふんぞり返っている傲然さが案外招き猫になっていた。
「あの猫、蕎麦汁の出汁がらの煮干しばかり食べてるけど、立派な毛並みね」
「実に見事だ。だから、『ノラ坊』と呼んでいたのを俺が『男爵』と改名してやったら、おばあさんは手を打って喜んだものだ。俺の詩なんてお遊びのガラクタだが、あの猫の名付け親になったことには満足している」
 その猫のようにカケルもまた傲慢で自由気まま、何よりも恩知らずだった。
 小遣いを渡すとバッカスを従僕にして吉祥寺近辺の酒場にでかけ、しばしば別の女の所に泊まった。
そんなある日、あろうことか赤子を抱いて帰って来たのだった。
「この子は?」と首を傾げる私に、カケルは白々しかった。
「母親が逃げちまったんだ。放ったらかしにしておくわけにはいかんだろう。誰の子か分からんが」
 もしその赤子がタケルの子であったら、あるいはもっと器量良しだったら、気持ちは変わっていたかもしれない。けれど、タケルに似もつかない、不細工で浅黒い顔をした赤子に私はすっかり冷静さを失って、「出て行って!」と野良猫のようにタケルを放逐したのだった。

赤い毛氈を敷いた椅子に座って、おばあさんの話が続く。
「泣けたよ。すべてを捨てて一人、足を引きずり、引きずり、みすぼらしいジジイになって男爵が帰って来たときにはね。きっと死期を悟ったんだろうね。象の墓場のようにここが死に場所だったのね。一月程寝たきりの男爵を心を込めて私は介護したよ。それが半年ほど前の朝、私が店の掃除をしていると、男爵がヨロヨロ立ち上がってさ、この椅子に上がろうとしたんだが、力尽きてそのまま動かなくなったよ。猫は人目につかないところで死ぬというけれど、男爵は一人ぼっちが嫌いだったから、いかにもふさわしい死に方さ。――あんたとよく来てた若い男? そう言えば、男爵が死んでから一度も見たことはないね」
ちなみに男爵亡き後、放蕩三昧の日々を過ごす彼の妻と三人の子供を引き取ったおばあさんの髪の毛はペルシャ猫のようにすっかり真っ白になり、背中も猫のように丸くなった。
そして、私はと言えば、髪を茶色に染め、あてもなくカケルの帰りをぼんやりと待ち続けている。かしずかれるよりも、どのような仕打ちにあおうが私は召使い役が好きなのだ。カケルの頭を膝に置いての耳掃除、跪いて足の爪を切るときの快感を私は忘れることが出来ない。

小川三郎(千葉県柏市/65歳/男性/無職)
ある日、彼女は現れた。
彼女が部屋に入ってきた瞬間、何か胸に突き刺さるような感覚があった。二十七歳から渋谷で占い師を始めて十年になるが、このような感覚は初めてだった。
彼女のカウンセリングシートには「柏木美咲、平成元年生まれ。三鷹市在住」とあった。
彼女は、可愛らしく上品で好感の持てる女性だった。だが、その容貌とは反するように、鋭い目つきで私を見つめ、私に対して個人的に強い感情を抱いているように感じた。
「どのようなお悩みをお持ちですか」
 彼女はやっと私から目をそらし、一瞬曇った顔をして言った。
「彼との結婚について占って頂きたいのです。お付き合いをはじめて半年になります。私は結婚をしたいと思っているのですが、彼がどのように思っているのかお聞きしたくて」
「わかりました。ではまずはお相手のお気持ちを占ってみましょう」
私はタロットカードを使い、占いを始めた。
彼女の恋人の様子がタロットカードに表れる。あるカードをめくったとき、私は思わず息を飲んだ。「まさか......」心の中で呟く。私は自分の動揺を彼女に悟られないよう、平静を装いながら言った。
「彼はご結婚に関して、とても慎重でいらっしゃるようです。またお二人のご結婚に関しては、美咲さんのご両親も反対されていますね。彼は美咲さんより一回り近く年上で、自分で事業をされていらっしゃる方ですね」
「......」
「彼は二十代半ばころ、一度離婚していますね。もう恋はしないと決め、仕事一筋で生きてきたようですが、美咲さんに出会い恋をした。美咲さんを好いています。しかし、彼の心の中には他の女性がいるようです。その女性とは縁が切れていますが、彼はずっとその人を想っているようです。美咲さんとの結婚は難しいでしょう」
 彼女は顔を下に向け、涙を落とした。
私は、自分が占った結果と目の前の彼女と自分の感情とが繊細に絡まり合うのを感じていた。そして、私はそっと席を立ち、彼女を抱きしめた。しばらくの沈黙の後、
「すべてその通りです」 
 と、彼女は言って、私の目を見た。先程までの鋭い感じではなく、何かの糸が切れたような、それでいてほっとしたような複雑な表情だった。
彼女は、それでも彼と結婚したいのだと言った。そして、次の日曜日に、縁結びで有名な「深大寺」に、彼と一緒に参拝に行く予定だと告げて帰っていった。
「深大寺」その名前には深い思い出があった。長い間、記憶の奥にしまい込んでいた場所。彼女が去った後、私はあらゆる葛藤の末、深大寺に行くことを決めた。
次の休みは、日曜日だった。

調布駅から京王バスに乗り、深大寺についたのは午前十時だった。山門までの道は蕎麦屋が軒を連ねていて、観光客で賑やかだった。以前深大寺に来たのはもう十五年も前になる。
山門をくぐり、本堂へ。手水舎で手と口を清め、常香炉で線香の煙を浴びてから参拝した。本堂脇のなんじゃもんじゃの木に、白く可憐な花が咲いていた。「あの時も、この花が咲いていた」私は小さく呟いた。
 階段を登り、元三大師堂に向かった。お賽銭を入れ、手を合わせた。
その時、背後から懐かしい声が聞こえてきた。一瞬、背中が硬直する。私は覚悟を持って振り返った。そこには、若い女性と共に階段を登ってくる背の高い男性がいた。
「洋介......、やっぱり」閉じ込めていた記憶と複雑な感情が交差する。
 一緒にいたのは先日のお客様、美咲さんだ。
私は二人に気付かれないように、とっさに左奥にある開山堂参詣道へと向かった。脈が高鳴っている。
あれは確かに、洋介だった。ひょろっとして背が高く、ジャケットを羽織り、着るものにはこだわるわりに、髪は無造作でくしゃくしゃなままでいるところも変わっていない。
 私は参詣道を足早に登って行った。二人とも私には気づいていないようだ。気付かれずに安心したと頭では思っているのに、心臓は強く早く動いていた。
 開山堂に到着しても、心は上の空だった。私は、北門を出て、神代植物園へと自然と歩を進めていた。季節の花々を見て、自分の気持ちを落ち着かせようと思ったのだ。
私は植物園を黙々と歩いた。まだバラは咲いていなかったけれど、ツツジが満開で美しかった。しかし、頭の中は洋介のことでいっぱいだった。
 洋介と私は、十二年前に離婚した。二年の結婚生活を送った後、まるで初めからこうなることが決まっていたかのように、私たちは離婚した。原因は価値観の相違だ。今はそう思うようにしている。
 洋介はそれなりにいい男で仕事も成功していたから、洋介に好意を持つ女性はたくさんいた。私の親友だった芳美も、その一人だ。
でも洋介は私を選び結婚した。芳美にとっては、気持ちの良いものではなかったと思う。
結婚して半年が過ぎた頃、芳美から「洋介が他の女と浮気している」ということを聞いた。洋介は、自分は浮気なんてしていないと言ったけれど、私は芳美の話を信じるようになっていった。そしてだんだんとうつ病のような状態になり、占いにはまるようになった。
占い師も、洋介が浮気をしていると言った。私への愛は冷めているとも。占いに行くときはいつも芳美が一緒だった。そしてその後、芳美は決まって「別れなよ」と言った。
私たちが離婚したのは、私が占いにはまるようになって一年後のことだった。もちろん洋介は離婚を承諾しなかった。しかし芳美が間に入り遂には洋介も離婚届にサインをした。
離婚後、占い師に勧められるまま、占いの学校に通い始めた。その後しばらくして、芳美は洋介のことが好きで、私に嘘をついていたことがわかった。芳美は「幸せそうなあんたを見てて悔しかった」と言った。
私はそれ以来、芳美とは会っていない。三ヶ月間家に閉じこもった。占い学校の先生が連絡をくれて、良かったら自分の店で働かないかと誘ってくれた。それが今のお店だ。
時計を見ると二時間が経っていた。帰宅する前にどうしても参拝したいところがあった。「深沙堂」だ。深大寺が縁結びの寺と言われる由来となった、深沙大王が祀られている。私と洋介にとって思い出深い場所だった。
十五年前、私は洋介と深大寺に来て、深沙堂で参拝し、その後結婚した。
神代植物園から坂を下り深沙堂に着くと、辺りは十五年前よりも開けていたが、人通りはまばらで付近には誰もいなかった。私は洋介の幸せを願い、手を合わせた。
「絵理子......」
 突然、背後からとても、とても懐かしい声が私を呼んだ。反射的に振り返る。
「洋介......」驚きと熱い思いが込み上げる。
「やっと会えた」洋介は微笑んだ。
「美咲さんは?」
「帰ったよ。美咲が、今日絵理子が深大寺にいるはずだって。美咲とは別れたんだ。全部話したよ、美咲に。絵理子が渋谷で占い師をしていることは芳美から聞いた。急に電話があって、渋谷で絵理子を見つけて後をつけて行ったら占いの店だったって。芳美も反省していたよ。絵理子に会ったら謝っておいて欲しいって。芳美は今や二児の母だそうだ」
 複雑な気持ちになった。洋介は続けた。
「美咲は、絵理子に会うためにあの店に行った。来ただろ、この前の火曜日。絵理子は、俺の名前も生年月日も何も聞かないで全部言い当てたんだってな。美咲が驚いてたよ。で、あいつが泣いたとき、絵理子が抱きしめてくれたって。そのとき、あいつは決めたって」
「決めた?」
「今日、ここに来ること、あいつわざと絵理子に言ったんだ」
「わざと」
「......俺は、今でも絵理子を愛している」
「......」
「離婚届書くとき、約束しただろ。もし絵理子の気持ちが変わって、俺への疑いも晴れて、十年後お互いに結婚していなかったら、もう一度、俺たちやり直そうって」
洋介はそう言って鞄から絵馬とペンを取り出した。そこには、「結婚します」と大きな文字が書いてあり、左下に洋介の名前が書かれていた。驚きと嬉しさで言葉が出ない。
「ここに名前を書いて」
 洋介は、私の前に絵馬とペンを差し出した。私は、洋介の名前の横に自分の名前を書いた。
「深沙大王に報告しよう。俺たちは再び結ばれる。そして、もう絶対離れないって」
 私は洋介に促されるまま、もう一度手を合わせ、目を閉じた。
「絵理子が幸せになりますように......」
洋介が小声で言った。
「洋介が幸せになりますように......」
私も小声で言った。
「深沙大王様、もう叶いました。俺今すごく幸せです」洋介がはっきりした声で言った。
「私も叶いました。今、とても幸せです」
私たちは、目を合わせて笑った。
「蕎麦食べようぜ。あの時行った、門前でも行くか」
「うん。私、門前そばにする。大根おろしと椎茸食べたい」
「俺はとろろだな。そのあと、蕎麦団子に、くずきりとあんみつも食べよう」
「うん。あのときみたいにね」
 私は深沙堂を振り返り、心の中でもう一度手を合わせ、心から感謝した。

伊越啓(千葉県市川市/35歳/女性/主婦)
引っ越しの荷造りをしていると、押入れの奥から黄色と黒色の横縞柄の『ちゃんちゃんこ』が出て来た。
アニメのキャラクターグッズで、時には武器としても使用されていた。悪い妖怪相手にえぃっと投げつけ、ヒロインである夢子ちゃんを守っていた。
 
 『ちゃんちゃんこ』は満男が買った。
付き合って間もなく縁結びの神様がいると聞き深大寺に参拝に行った時のことだ。
満男とは五年付き合った。しかし、結婚までは至らなかった。深大寺のご利益が足りなかったのか、それともご利益の御蔭で五年付き合えたのか、どちらなのかは良く分からない。そして何故『ちゃんちゃんこ』を買ったのかも分からない。付き合い始めたばかりのカップルの悪乗りに近いと思う。

 『ちゃんちゃんこ』を見ていると、荷造りの手が完全に止まってしまった。
 一度だけ、満男はこの『ちゃんちゃんこ』を着たことがあった。ハロウィーンの日にバンドのライブがあり、イベント名が『仮装パーティーナイツ』だったため、『ちゃんちゃんこ』を無理矢理着てハーフパンツと草履(下駄が無かったので)の出で立ちでステージに上がった。
仮装が中途半端だった挙句、愛用のギターが黄色だったこともあり、『ちゃんちゃんこ』は全く目立たなかった。しかも他のメンバーは仮装を諦め、普段と同じ衣装で演奏していたため、より滑稽に映った。前日の夜、「イケるイケる、ゲゲゲしてる!」と焚き付けてしまった私は少し罪の意識を覚えた。

その時の写真があったはずだ。
私はふとそう思い、荷造中の段ボールを掻き分けて、パソコンを起動し、当時の写真を探した。
写真を見てみると思っていたほど悪くないコスプレだった。意外とイケてるように思えた。少なくとも『ちゃんちゃんこ』とハーフパンツ、草履の組み合わせは悪くない、問題は靴下だった。靴下に関して私は指示を出していない。当日の朝、勝手に五本指ソックスを履いて出掛けたのは満男だった。

思いにふけている場合では無かった。
引っ越しの荷造りを進めなくてはならない。
私はパソコンを閉じ急いで箪笥の前に戻り、荷造りを再開した。暫くすると、妙な心の引っ掛かりを覚えた。
靴下が気に入らなかった出来事が他にもあったような気がしたのだ。しかもそれは深大寺に行ったときだったような...。
私は気になってしまい荷造りに集中できなくなった。すぐに手を止め、またパソコンに向かい当時の写真を探した。
深大寺で撮影した写真は百七枚あった。
緩やかに下る蛇行した桜道、アスファルトに花弁が少し落ちている。そこを歩く満男。ジャケットにサルエルパンツ、蝶ネクタイをしている。付き合い始めたばかりだからか、明らかに気取っている衣装。しかし、足首に覗く靴下はあからさまに失敗の組み合わせ、異様な心地の悪さを出している。
深大寺参道前の石垣。よじ登る仕草をする満男。深大寺参道、ひょっとこの様な石造の横で同じ顔をする満男。亀島弁財天池の横で亀のように首を伸ばす満男。河鍋暁斎の天井画『竜』の説明看板の前で竜の顔真似をする満男。その全てに変な靴下を履く福田満男の姿が写っていた。

写真を見ていて少しずつ思い出したことがある。百七枚の写真のうちの大半が某キャラクターの顔ハメ看板から顔を出した写真だった。この時をきっかけに私達は顔ハメ写真を集めることを共通の趣味とした。
顔ハメの魅力は幾つかある。
まず神出鬼没ということ。顔ハメがあるという情報は旅行雑誌やサイトには謳っていない。旅行先や出先で唐突に現れ、その中には何でこの顔ハメ?と思う物も良くある。それに出会えた時は言い知れない喜びがある。
そして何よりも笑顔になれる。
例えば、私は人並みにお化粧をする。その状態でねずみ男の顔ハメをすると、モードメイクとねずみ男のミスマッチが強烈な違和感を出す、と思いきや意外にもマッチしたりする。
「実写いけるね。」
満男と二人してけらけらと笑ったことがあった。

私は深大寺の写真を一通り見ると、荷造りを再開した。
この引っ越しが無事に終わったら深大寺にもう一度行ってみようと思った。満男と行った時は、深大寺そばを食べ損ねたからだ。今回は引っ越しそばを兼ねて食べに行こうと思う。上手く行けばちょうど桜が満開の頃だ。

ほどなくして引っ越しが無事に終わり、早速、その週末に深大寺に向かった。桜が残っているかと期待したのだが、全て綺麗に散ってしまっていた。
参道の前に立つと、写真だけでは思い出せなかった事が、瞬時に頭の中に広がった。
確か、案内板の前で笑った記憶がある。
私は案内板の地図に近づいた。何で満男と笑ったのか、それを思い出そうと必死で案内板の地図を見上げた。
『武蔵野の水と緑と寺とそば』。
これだ!案内板の上に謳われているこの文句、
様々なしがらみを感じさせるこの言い回しに笑ったのだ!私は思い出して嬉しくなった。
私は踵を返し、少し駆け足で参道前に向かった。そこには『ちゃんちゃんこ』を買ったお店があり、その手前に顔ハメがあった。まだ残っていたことにホッとし、まじまじと眺めた。 
そうだ!確か満男は、「これなら靴下が隠れる」と言いながら顔ハメの裏に回り、あの写真に残っているくしゃくしゃな笑顔で穴から顔を出したのだ。
私は当時を懐かしく思った。
 三つの穴が開いた顔ハメの正面に立ち、穴の向こうの丸見えの緑を眺めながら、急にそこに満男の笑顔がにゅっと出てくることを想像した。
 
三つの顔すべてに満男の顔が現れることを想像していると、唐突に、後ろから男の人の声がした。
「撮りましょうか?」
振り返ってみると、私より少し若く、まだあどけなさが残る男性が立っていた。お洒落な出で立ちをしている。
私が困惑していると、
「撮りましょうか?ずっと眺めていたので。」
と言い、カメラを構えるジェスチャーをして二度人差し指を動かし架空のシャッターを押した。
 私は思わず「大丈夫です。」と断った。
「いいじゃないですか、一枚だけ。」
洒落た男は意外と強引だった。そしてハンサムだった。
私は少し考えて、せっかく親切に声を駆けてくれたのだから、一枚だけ撮ってもらうのもいいかも、イケメンだし、と思った。
「では一枚だけお願いします」と言い、カバンからデジカメを取り出して男に渡した。
 私は顔ハメに向かいながら、三つあるキャラクター、片目、ねずみ、吊目女のどの穴から顔を出すかで迷った。満男とはねずみが最も面白いとなった。しかし今回は見知らぬお洒落なイケメンだ。可笑しくてもあからさまに笑うようなことはしないだろうし、よくよく考えると笑いを求める必要もない。
片目だ。私は無難に真ん中の穴に顔を入れようとした。
 すると、洒落坊は図々しくも指示を出してきた。
「ねずみ男がいいですよ。似合うと思います。」
私はどういう意味だ、と思いながらも、「そうかしら」と微笑みながら、ねずみ男の顔ハメに顔をセットした。
 少し強引な洒落坊に苛立ちを覚えたが、顔ハメから覗く深大寺の風景は、そんなくさくさした心を洗うものがあった。
微笑む顔をきっちり作り、カメラを構える生意気な洒落坊に目を向けると、ふと違和感を覚えた。すごく懐かしい、前にも感じたことがある違和感。何だろうと思いながら注意深く探ってみると、洒落坊の足首から激烈にダサい靴下が見えていた。
折角作った笑顔が崩れ、前歯が出たような苦笑いになってしまったと心配していると、
「やっぱりお似合いです!上手く撮れています!」
洒落坊が、撮ったばかりの写真を見せながら私に近づいてくる。

柿久米田郎(神奈川県相模原市/39歳/男性/会社員)
パソコンの画面がふいに薄暗くなった。見上げると、生い茂る樹々の合間から覗いていた太陽に雲が掛かり、東に向かうに従って灰色のグラデーションが増している。そう言えば天気予報で夕方から曇りになると言っていたが、どうやら少し早まったようだ。雨を心配し、出ようと公園の出口へ向かう人の姿も見え始めた。
「3時か」そうつぶやいて、亮二もノートパソコンを仕舞う準備を始めた。
いつものように吉夢庵の蕎麦を食べて帰ろうと立ち上がると、足元にある小さな赤い花に気が付いた。緑に映えた真紅は綺麗だが、花にしては細長い、そう思ってよく見るとそれは小指程の赤い組み紐細工だった。
何気なく拾い上げると、その先には小指大の黒いUSBメモリーが付いていた。一昨日の土曜に来た時には無かったはずだ。ペンを落として拾った記憶があり、その時には気づかなかった。ということは昨日の日曜に落としたものだろうと亮二は考えた。まさか同じような人がいるのだろうか?神代植物公園の中でパソコンを開く人などが...。

亮二が調布に住み始めて5年になる。大学を卒業し、京王線沿線にある広告会社に就職した際、通勤に便利な調布に越して来た。不動産屋が勧めてくれた深大寺と、その参道にある吉夢庵に訪れたのはその翌日のことだ。蕎麦に対してそれほど興味は無かったが、たちまち吉夢庵の虜になった。そして深大寺とそれに隣接する神代植物公園にも。
それからは、雨や冬の日以外は毎週の様に自転車で10分の距離を通っている。亮二がそこまでして通うのは、公園内に置かれた、あるベンチとテーブルが気に入ったからだ。
神代植物公園には三鷹街道に面した大きな正門と、深大寺裏から入る小さな深大寺門の2か所の入口がある。そして深大寺門近くの雑木林の中に、亮二が気に入ったロッジ風の木製ベンチとテーブルがあり、休日にはそこで企画書などを書く仕事をしている。
何が楽しくて休みの日にまで仕事をとも思うが、恋人も無く、趣味もない身としては、致し方ない休日だ。だからこそ「お前が一番ヒマだろう」と言う理由から、昨日は日曜だと言うのにクレーム処理に向かわされた。まあ、翌日に代休を貰えただけ良かったが。
けれど、緑の中で仕事をするのも悪くないと亮二は思う。閉鎖された室内よりも良いアイデアが出そうな気がするし、何となく自分が優雅に仕事をしている気になれる。
調布市には22万人を超える人がいるという。同じように優雅な気持ちで仕事をなんて考える人が他にいてもおかしくないだろう。そう思うと何かしら、USBの落とし主に少し親近感が湧いてきた。さぞや困っているだろうと思った亮二は深大寺門を出る際に、職員に落し物として届け出た。その時、もしかて、ベンチの周りを探しに来るかもしれないと言う考えが頭に浮かび、来た道を戻り出した。
そして雨が降らないことを祈りながら、テーブルに丁寧に畳んだメモを挟んだ。
【USBを拾いました。深大寺門に落とし物として届けてあります】

「ごめんね、付き合わせて」と春奈は片手で拝む仕草を見せた。「まぁ、隣駅だし、どうせヒマだしね」そう言って蕎麦を口に入れた佑香は「でも良かったね、雨にも濡れず、データも壊れてないし」と口を動かしながら、もう何度目か分からない「美味しい」を付け加えた。ここ吉夢庵の蕎麦は青々とした蕎麦の風味を手軽な値段で楽しめるため、子供の頃から調布に住む春奈は、深大寺に来た際は、必ず訪れている。夏でも冬でも盛り蕎麦を注文し、半分は汁で、半分は七味で食べる。日曜も仕事をしに来た植物公園の帰りに寄ったが、夜になってUSBが無いことに気が付いた。公園で落としたに違いないと思ったが、どうしても月曜は職員会議で来られず、たまたま飛び休だった火曜日に探しに来たのだ。
朝一で行こうと準備していると、同じ福祉施設で働く佑香から買い物への誘いの電話があり、事情を話すと「たまには森林浴もいいか」と付き合ってくれることになった。
「電話で問い合わせるか、入口で聞けばすぐだったのにね」蕎麦湯を飲みながら佑香は意味ありげに微笑んだ。確かに電話しておけば深大寺門ですぐに受け取れただろう。あるいは入口で聞けばすぐだったのだが、春奈は何故か、あの雑木林のベンチの下だと思い込み、開門と同時に一目散に向かってしまった。
「でも、そしたら...そのメモ見られなかったしね」そう言って佑香はまた意味ありげな笑みを浮かべた。
USBを拾って届けてくれたと、ノートを千切った2行の伝言。何のことは無い、親切な人からの伝言。文字から男性と思えるが、ただそれだけで、お礼の言いようもない。そう思っていると「さぁ、食べたらさっさと、さっきのベンチに戻るわよ」と佑香はバッグを肩に掛けながら立ち上がった。
「戻るって?」驚きながら尋ねると、「気になるんでしょ!そのメモの字。春奈ってさぁ昔から字の綺麗な人、好きだよねぇー。これも出会いの一つだって」そう言って歩き出した。そして春奈の方へ振り返り「お礼を言いに行くのよ」と手招きした。お礼ってどうやって...。訳の分からないまま佑香の後を追い、緑深まる深大寺門へと再び向かった。

【USBメモリー届けて頂き、ありがとうございました。本当に助かりました】
「で?次に雑木林に行ったら、このメモが挟んであったと...」左手で薄いピンクの付箋を亮二に返しながら、吉永は右手で焼き鳥の串を頬張った。吉永とは営業とデザインと言う違いはあるが同期入社で、ある程度は何でも話せる仲だ。お互い早く仕事が終わり、久しぶりに飲もうかと、会社近くの居酒屋に入った。仕事の話から、いつの間にか最近拾ったUSBの話になり、何となく、その女性が気になることも打ち明けた。
「笑われるかもって言ったけど、俺は笑わないよ」と吉永は言い、焼き鳥の串を振りながら「デザインってさ、その文面も大切だけど、色や大きさ、行間なんかも大事な訳よ」と真面目に語り出した。「文字とか文章ってさ、その人を表すものだよ。文字と文字の間の取り方とか、どこで改行するかとかさ」
確かにそうかもしれない。せっかちな人は文字間が狭いような気がするし...そんな事を思っていると、吉永は「最近じゃインターネットなんかで、顔も知らない相手と出会ったりする時代だぜ、ちょっとレトロだけど、それと同じだよ」と言い、ビールを流し込んだ。別れ際の改札で「上手く誘ってみろよ、連絡先書くとかさ。優秀なデザイナーの俺が言うんだ間違いない!その女性は良い感じだ!」そう言った吉永の言葉に、そんな器用な真似が出来るなら、彼女ぐらいいるって。そう思いながら亮二は少しだけ笑ってみせた。

休憩所のソファーで口を尖らせた佑香が「今平成何年だと思う?」と聞いてきた。
「27年?」横でお弁当の蓋を開けながら答えると、「じゃなくて!」と春奈の足を軽く叩いて佑香はさらに口を尖らせた。彼女の怒る理由、といっても本当に怒っている訳ではなく、春奈を思ってのことだが、それは分かっている。4か月前に始まった週に1度程度の数行のメモの交換。それが遅々として進展を見せない、いや進められない春奈と見えない相手に、じれったさを感じているのだ。
落し物から始まった小さな手紙の行き来。もちろん、どんな人かと想像もするし、遭ってみたいとも思う。だけど、何だか改めて会うのが怖い気もするのだ。単調な生活の中での、小さな楽しみ、それが会えば単調な現実に組み込まれてしまう気がして。

「ある意味、2つの奇跡だな」そう言うと吉永はタバコの煙を吐き出した。「一つは、28になる男が中学生みたく女を誘えないこと」そしてタバコをもみ消し「二つ目はそれだけ通っていて、4か月もベンチで鉢合わせしないってことだ」そうだろと言う顔をして吉永は肩をすくめ喫煙所を出て行った。
確かにそうだなと、我ながら亮二も情けなく思うが、会うのは簡単だ。連絡先を書くなり聞くなりすればいい。彼女が望まないなら、それまでのことで、始まる前に終わっただけだ。けれど、偶然始まった小さな世界を壊さず大切にしたい気持ちが強いのも本当だった。

特に仕事が無い日でも亮二は必ずメモの確認と、置きに行くために公園に通い、吉夢庵にも訪れる。その日は混雑時を避けて昼過ぎに店に入ったが、それでもかなりの盛況で、入口付近に、若い女性二人組の隣が一席空いているだけだった。
「で、今日もこの後メモを置きに行くんでしょ?」そんな言葉が亮二の耳に入ってきた。「うん」そう微笑んだ女性は亮二の見慣れたピンクの付箋をバッグから取り出した。「USB落としたの春だよ、もうすぐ秋だってのに、ホントにもう」ともう一人も微笑んだ。
隣からこちらを見つめる男性を不審に思ったのか、付箋を持った女性が亮二の方に目を向けた。ショートカットの似合う人だな。
そんな事を思いながら亮二はメモ用紙に文字を書き連ねた。いつもより緊張した固い文字になってしまったが、ぎこちなく立ち上がりそして女性に近づき、メモを差し出した。

【初めて直接渡せますね。
はじめまして。でいいのかなあ
塚本亮二と言います】

江原間(東京都調布市/44歳/男性/会社員)
石垣のある坂を下りながら、ふぅん、とタカシがつぶやいた。感動でも、相づちでもない、乾いたつぶやきだった。
「結構、人がいる。」
そば屋の前の行列に目をとめて、「ここで食う?」と聞く。
「まだ、お腹、すいてない。」
通りがかりの女子高生が、ちらっと振り返りさざめくように笑った。
「~に似てない?」「ね。」
背が高く、浅黒い肌に鋭いまなざし。俳優の誰かに似ているらしく、タカシは時々、周囲の目をひく。不愉快そうなため息をついて、
「似てるって、いやだな。」とタカシは言う。
「かっこいい人に似てるって言われるなら、いいんじゃない。」
「自分を否定されてる気がする。」と、眉をしかめる。
「しかも、あいつ、おっさんじゃん。」
思わず笑った。30前の俳優をおっさんだと言い切る傲慢さは、ある意味、爽快だった。
年齢よりも幼く見える私とは逆に、タカシは大人びている。まだ20歳なのに、25、6歳に見えなくもない。高校の頃から野球を続けていて、筋肉質で体つきがしっかりしていることと、落ち着いた雰囲気のせいだ。父親が不在の家庭環境で育ったことも関係があるのかもしれない。
日差しが強いので、車道沿いから、右手の、木々が生い茂る砂利道に入った。緑の香り。空気が変わる。
「喉、乾いたな。」
「あそこで何か飲もうか。」
古い民家を改装したような、趣のある店の前にビールと書かれた赤い旗がひらめく。
「ところで、誕生日に深大寺に来たいって、なんで?」
「なんでって。」
「バイト代でたばっかだし、もっと派手なとこでもよかったのに。」
「つまらない?」
タカシはぐるりと首をめぐらし、空をあおぐ。
「思ってたより悪くないけど。」
店で、深大寺ビールを二本買った。時代劇にでてくるような長方形の椅子が、水路沿いに並んでいたので座る。手になじむ茶色い瓶は、染みるように冷たかった。
「実はね」どこまで話そうか、そう考えながらビールを一口飲む。
「ここ、思い出の場所なんだ。」
「へぇ。」タカシもビールを口に含む。
「どんな?」
興味もなさそうにたずねられ、ふっとおかしくなり、口が軽くなる。
「ここから、7~8分歩けば実家なの。父も母も、多分、今もそこに住んでる。」
タカシの目が細められ、強さと鋭さを増す。触れたら切れそうなほど、だが、触れてみたいと思わせる危うさのある表情。
あぁ、私は、この表情を知っている。
胸の奥がうずくように痛んだ。
「...んだよ、それ。」
低い声でタカシがつぶやく。
声まで似ている。
私はタカシを見つめる。いや違う。私が見ているのは、タカシの向こう側にいるあの人だ。
...ただいま
私は思い出を引き寄せる。今も、自分も、タカシも、何もかもがどうでもよくなる。
私は、ただ、あなたに逢いたかった。

あの人に初めてあったのは、中学3年生の夏休みだった。当時、母と義父の折り合いが悪く、私は近所の母の実家によく預けられた。
数年前に祖父がなくなり、祖母だけが住む古い平屋の一軒家は、いつも静かだった。気を使う義父もおらず、母の怒鳴り声も聞こえない空間は、唯一の安らぎの場所だった。
ある日、いつものように祖母の家の玄関を開けると、見知らぬ男が立っていた。家を間違えたのではないかと慌てたが、夏の日差しと蝉の声が降り注ぐ廊下は、間違いなく見慣れたものだった。
彼は無言で振り返った。
鋭いまなざしに、射すくめられた。
身動きができなくなった。呼吸すら忘れた。
どれくらいの時間、そうしていたのか。長いような短いような不思議な時間が過ぎた後、祖母が廊下の向こうから現れた。
「あらあら、二人ともお帰り。」
彼は視線をそらし、祖母と入れ違いに、廊下の奥へと歩み去った。戸惑う私に、祖母はいつものように優しく笑った。だが、そこには少しだけ困ったような表情が混じっていた。

彼について、はっきりとは何も教えられなかった。祖母の家を訪ねても、部屋に閉じこもっているのか、外出しているのか、顔を合わせることもなかった。祖母と母は、よく小声で秘密めいた話しをするようになった。好奇心を抑えきれず、私はいつも聞き耳をたてた。内容は、やはり彼のことで、言葉の断片をつなぎ合わせ、一週間もすると大体の事情を察することができた。彼の生い立ちや、なぜ、今、祖母の家に滞在しているのかも。
祖母が友人と出かけて留守の日のことだ。
いつもように合鍵で中に入り、喉が渇いていたのでキッチンに向かった。家の中は静かで、人の気配がなかった。
すっかり油断して、キッチンの扉を開けたら、彼がいた。入り口に背を向ける位置に座り、気だるそうにテーブルに頬杖をついていた。電気もつけず、何をするでもなく、時間の流れが止まってしまったかのように、じっとしていた。
彼は、ゆっくりと振り返った。いつかの鋭いまなざしを思い出し、体がすくんだ。
だが、彼は私を見ると「お帰り」と笑った。
彼の声を聞いたのは初めてだった。思っていたよりずっと耳に心地よい低い声で、私はうつむいて「どうも」とつぶやいた。早足に彼の横を通り過ぎ冷蔵庫を開ける。麦茶のポットを取り出す指先が震えた。顔が熱くてたまらなかった。きっと真っ赤だ。夏の暑さのせいだと思ってくれるようにと、願った。
麦茶をグラスに注いでいると「あ、ついでに俺の分も」と頼まれた。昔からの知り合いに話しかけるような、気さくな言い方だった。テーブルにグラスを置くと、今度は「座りなよ。」と前を指さした。
採光の少ないキッチンは薄暗く、どこか夢の中のようなおぼつかなさがあった。
向かい合っても、顔をあげられず、浅黒い肌と脱色された茶色の髪をそっと盗み見た。猫背がちで、全体に投げやりな雰囲気。余り周囲にはいないタイプだったし、外であったら、かかわり合いになろうとは思わないだろう。だけど、彼の微笑みはとても優しげだった。私の心臓は不自然に震えた。
「あのさ。」彼が言う。「俺のこと嫌いでしょ?」
予想外の台詞だった。答えようもなく黙っていると、「ま、人に好かれたことなんかないから、いいんだけどね。」
と、勝手に皮肉めいた言葉を続ける。
「いいえ。」なんだか腹が立ったので、きっぱりと首を振った。「嫌いじゃない、です。」
しばらくの沈黙のあと、
「深大寺、行こうよ。」
彼は唐突に立ち上がった。ぐずぐずと迷っていると、腕を強くひっぱられた。掌が触れた場所に、痛みにも似た熱さがはしった。

誘ったのは、どっちだったのか。
覚えていない。でも、多分、私だったと思う。
私は彼と二人の時間を望んだし、そうなるように仕組んだ。彼も私も、自暴自棄で投げやりだった。でも、それだけじゃなかったと、私は信じている。

「俺が誰か知ってる?」
夏の終わり、山門付近の遊歩道を歩きながら、彼が聞いた。私がうなずくと、彼は、ほっとしたような、悲しいような、複雑な顔をした。
「おばあちゃんの初めての子供なんでしょ。」
わざと軽く言ってみせる。
「そ。つまり、お前のお母さんの異父兄弟。」
彼も軽く返す。会話がふっと途切れた。これ以上、踏み込めない話題だった。
「この年になってさ、最後の最後にあいたいのが、母親って笑えるよな。」
彼は、来年で37になるという。...もし、誕生日をむかえられるなら。
数歩先の彼の背中は、病魔に蝕まれ、日に日に痩せ衰えていた。
もし私が最後に誰かに逢うなら、彼がいい。叶わないと知りながら願った。少なくとも親には逢いたくない。
母は、義父との関係を修復しつつあった。私にあんなひどいことをした男を、許そうとしていた。母も義父も絶望的に憎い。それでも、私は一つだけ義父に感謝している。義父が私の無知と無垢を引き裂いたことで、新しい自分が生まれたからだ。以前の私なら、彼に近づく勇気はなかっただろう。
遅れて歩く私を、彼が振り返った。鋭く澄んだ目に、とらえられる。私は駆け寄った。

結局、彼は次の誕生日をむかえることはなかった。それと同時に、私は家を飛び出した。
苦しみと喜びを繰り返し、気づけば20年以上が過ぎ去り、私は彼と同じ年になった。

「母さん」と、呼びかけられ我に返る。彼の幻はどこかに消え、目の前にはタカシがいた。
「曇ってきたし、そば食って帰ろう。」
「母さんの実家には、興味ない?」
少し考えてから「ないよ。」と、タカシは立ち上がり歩き出す。その背中は、真っ直ぐで力強い。思わず、笑いと涙が同時にこぼれた。


宮沢瞬(東京都)
 都心から電車で数十分、更にバスに乗って数十分、彼女が僕を連れて行った先は、深大寺という場所だった。
 春と夏の間の季節、抜けるような空の色を見上げて、湿気と濃い緑の匂いでむせ返る。
「悠君のお父さんとお母さんがね、私と一緒に遊んでおいでって」
 そう僕に話しかける彼女は、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
「行こう」
 そう言って、彼女の腰ほどしか身長のない僕に手を差し伸べる。僕はその掌に触れていいものかしばし悩み、撫でる様にそっと繋ぐ。  
 すると彼女はぎゅっと握り返して来て、少し意表を突かれた。
「いっぱい楽しい事しようね」
 緩やかに、しかし力強く僕の手を引かれた。
彼女のさらさらとしたロングヘアと白いワンピースが揺れる。僕はしばらくそれを見つめながら歩いた。
 ふと「全部知ってるよ」と言おうと思ったが、彼女の微かに震える声に気付いてしまい、言葉を飲み込んだ。きっと、優しい人なのだ。
 彼女はころころと表情を変えながら話しかけてきた。
「悠君、お花が咲いてるよ」
「悠君、あっちまで競争だよ」
「悠君、はぐれちゃ駄目だよ」
 彼女は僕が寂しくないように沢山の言葉をかけてくれた。手が離れたら繋ぎ直してくれた。決して表現が豊かな訳ではなかったが、大人達に静かに嘘を吐かれ続けていた心には、裏表のない言葉が心地よかった。

「悠君、お昼ご飯、お蕎麦でいいかな」
 日が高くなった頃、彼女が少し恥ずかしそうに笑った。そろそろ御飯時である。彼女が指差した先には、蕎麦屋ばかりがぎゅっとひしめき合っていた。
 それぞれの違いが分からず、彼女を見上げる。彼女はさっと幾つかの店先を見た後、その内の一つに入る事を決めた。
 店員に促され、窓際の席に着く。
「そろそろ長袖じゃ暑いね」
 と頬を膨らませ一息ついた後、何を頼むか聞いてきた。外食なんて久しぶりの僕は、勝手が分からずに
「同じものでいいです」
 とぶっきら棒に答えてしまった。
 彼女とぽつりぽつりと話していると、注文の品が運ばれてきた。微かに、蕎麦粉の素朴な香りがした。
 誰かと出かけて食事をする。その尊い凡庸さに、当てられてしまったのかもしれない。 
 それは、本当に突然だったのだ。
 この季節には嬉しい、さっぱりとした味を堪能していると、突然鼻の奥がつんとした。
 ああ、不味い。
 そう思った時には既に涙は目に溜まり、溢れ落ちるのを待つだけだった。
 最初に感じたのは羞恥だった。両親でもなく、親しい友人でも無い彼女の前で泣くのは、幼いながらに恥ずかしいの一言だった。
 凄まじい勢いで考えた結果、蕎麦をすすりながら、鼻をすする音を誤魔化すことにした。
それが幼かった僕に出来た、プライドを守る唯一の術だった。
 しかし、細やかな抵抗虚しく、どんどん視界は揺れていく。眉間に皺を寄せ、奥歯を噛み締めて我慢しようとしても、涙は次々に溢れてきて、遂に箸を置いて手の甲で拭わなくてはいけなくなった。
 正面に座っていた彼女は、何かを言おうと口を開け、しかしそのまま閉じてしまった。
 僕は情けなくて、恥ずかしくて、とうとう自分の膝を見たまま顔を上げられなくなってしまった。
 どれくらい時が流れただろう。隣の席が微かに軋む音がした。
 はっと顔を上げると、いつの間にか彼女が隣に腰掛けていた。そして腕を広げ、そのまま僕の頭をそっと抱いてくれた。
 喉の奥から、何かがせり上がってくる。確かな震え。暗い感情。涙を、もう止めることはできなかった。
 誰を責めることも出来なかった。誰を責めれば良いのかすら分からなかった。
 お父さんとお母さんのどちらについて来たいかと言われた。三人で一緒にいたいと言えなかった。
 新しいお家は広いよと言われた。狭くても良いからこのままが良いと言えなかった。
 言えなかった言葉を吐き出す様に、僕の身体はしばらく嗚咽と共に震え続けていた。
 ぽんぽんと、彼女が僕の頭を叩く。彼女の白いワンピースの胸元に、僕の涙が滲んでいった。
 心が張り裂けそうだった。明るい未来なんて来ない気がした。それでも僕の元に、明日はやってくる。暗くのし掛かってくる現実を思い、今この瞬間だけは彼女に縋った。
 彼女の悲哀を帯びた瞳が、下を向く僕を見下ろした気がした。
 
 彼女に縋った僕の心の意味は、その時はまだ分からなかった。深大寺が縁結びで有名と知ったのは、それからずっと先の事である。

 いくつもの季節が流れて、僕は再び深大寺に訪れた。
 あの頃とは名字は違うが、心はあの頃に戻ったようだった。
 今思えば、この深大寺から数駅先に行った所には賑やかな観光名所が幾つもあった。そちらへ連れて行かなかったのは、家族に対して神経質だった僕への、彼女なりの配慮だったのだろうか。
 彼女との待ち合わせは、境内の中である。
「悠君、久しぶり」
 彼女は僕よりも目線が低くなり、顔に残っていた幼さが無くなっていた。すっきりとしたセミロングの髪と、ネイビーのタイトスカートがよく似合っている。
 僕を見る眼差しは、ただただ真っ直ぐだ。
「お久しぶりです」
「うわ、声低くなったね」
「もう子供ではないので」
「そっか、そうだよね。私も歳をとるよね」
 あはは、と軽く笑い、少し俯く。
「そろそろ行こうか。いっぱい楽しい事しようね」
 そのまま、あの頃をなぞるように共に歩く。
「悠君、お花が綺麗よ」
「悠君、あそこまで走ってみない」
「悠君、余所見してはぐれないでね」
 もう子供と呼ぶには難しい年頃の僕を、あの頃のまま名前で呼ぶ。彼女の言葉も当時の様だった。

「悠君、お昼ご飯、お蕎麦でいいかな」
 少し悪戯っぽく笑いながら、彼女は聞いてきた。
 ひしめき合っているお蕎麦屋さんの中から、今度は僕が一件を選び、席についた。
「どれにしますか」
「うーん、悠君と同じので」
 少しぶっきら棒に彼女が答える。
「...からかわないで下さい」
 明るい印象の彼女だが、根に持つタイプらしい。
 ほのかな蕎麦の香りを堪能し、箸を手に取った所で、僕はなるべくさりげなく言った。
「ご結婚、おめでとうございます」
 自然に、けれどしっかり言おうと思っていたのに上手くはいってくれなかった。喉はいつの間にか乾いていて、最後は掠れてしまった。それを誤魔化すように、急いで蕎麦に手を伸ばす。
「ありがとう」
 少し間を置いて返ってきた、その言葉を聞いた途端、目の前の景色が歪み始める。やがて、僕の目尻から零れ落ちていく。
 鼻をすする音を、蕎麦をすする音で誤魔化す。プライドの護り方が、何も変わっていない。
 彼女は真っ直ぐな眼差しで僕を見つめてくる。彼女はもう、僕の隣には来てくれない。
 彼女は確かに今僕の前にいるのに、これから先、彼女の隣にいるのは、僕ではない誰かなのだ。あの時僕の頭を撫でてくれた指には、シンプルな指輪が光っている。
 仕方ない。
 幾ら縁結びの神様だって、十二歳の年の差と、過去の事とはいえ親族という間柄には勝てないのだ。
 彼女が僕をまだ名前で呼ぶのは、名字の変わってしまった僕の扱い方に、少々戸惑っただけの事なのだ。たった、それだけのことなのだ。
 彼女はいつの間にか、窓の外を眺めていた。
きっと僕に気を使い、どこでもないどこかを眺める事に決めたのだ。
 髪型が変わっても、服の好みが変わっても、眼差し変わっても、その少しだけ悲しい優しさだけは変わっていない。
 窓から入ってくる風に、彼女の短くなった髪が揺れる。
「僕は髪の長いあなたも好きですよ」
 そう言いたかった。言ったら何かが変わったかもしれない。勿論、何も変わらないかもしれない。けれど、言えなかった。
 言いたい事が言えないままなのも、苦しいくらいあの頃のままだ。僕の弱さも、変わっていない。けれど、この涙は自分で止めなくてはならない。
 風と共に、緑のむせ返るような匂いが流れてくる。遠くでセミが鳴く声が聞こえる。
 ああ、今年も夏がやってくる。

柊硝(東京都/23歳)
「ほおずき市?」
出張先のホテルに妻から電話がかかってきたのは、午後十一時を少し過ぎた頃だった。シャワーを済ませホテルの部屋で缶ビールに手を伸ばした瞬間、携帯電話が鳴った。

―そう。深大寺でね、明後日からやるんだって。行ってみない?

電話の向こうで妻が言う。ほおずき、ほおずき・・・あまりピンときていない僕に気付いたのか、妻が続けて言う。

―あのオレンジ色のさ、風船みたいな植物だよ

あぁあれか、と合点がいくと同時に疑問が湧く。そんなもの見に行ってどうするんだろう?
「うん・・・時間があればね」我ながら気のない返事だとは思ったが、出張先にわざわざかけてくる電話としては少し実のない話のような気がしてしまった。
その後も電話の向こうで何か話していたが、適当に返事をして話を切り上げてしまった。悪いとは思ったが、どうせ明後日になれば会えるのだ。

三日間の出張を終え、帰途に着く。東京へ向かう新幹線の中で家に帰ったら何をしようか・・・と思案していた。帰ったらちょうど週末だ。小学生になったばかりの愛娘、美香を連れてどこか行こうか・・・などとあれこれ考えているうちにあっという間に調布駅に着いた。

「ただいま。」
いつも通り玄関の扉を開けたが、何か違う。家全体が静まり返り、人気がない。
「ただいま」と先ほどより大きめに声を出してみたが返事はない。おかしいぞと思いつつ靴を脱ぎかけたそのとき後ろから声を掛けられた。
「お帰り。早かったね。」
突然予想外のところから声を掛けられ身を強張らせたが、妻の美晴だった。
「ただいま・・・どこか行ってたの?」
「うん、今美香をおばあちゃんの家に送ってきたとこ。」
「おばあちゃん家?」
「え?前に言ったじゃない。美香が『小学生になったから、ひとりでおばあちゃん家に泊まりたい!』って言うからこの週末にって。」
「え・・・あ、そうだったね」確かにそんなようなことを言っていた気がするがすっかり頭から抜けていた。
「お昼は?食べてきた?」
「いや、まだ。」
「私も。少し遅めだけど、ランチしよっか。」
そう言って妻はそそくさとキッチンへ行き、準備を始めた。その間に僕はスーツケースを片付け、三日分の洗濯物を洗濯機に突っ込み、さっとシャワーを浴びた。
部屋着に着替えリビングへ戻ると、キッチンにはいつも通りの妻の姿があり、慣れた手付きで料理の支度をしていた。そんな妻を眺めつつ僕はソファに寝転がり、寛ぎながらテレビを見ていた。
妙に静まり返る家の中に響く、リズミカルな包丁の音。僕の見ているテレビの音。何気ない休日のはずだが、いつもよりゆっくり、ゆったりと感じられる。

「お待たせー」キッチンから妻が料理を運んでくれる。僕の好きなオムライスだ。
食卓につき、手を合わせる。そこで再び妙な静寂を感じる。そうか...久々の二人きりなのだ。いつもならここに美香がおり、賑やかな食卓になっているはずだ。
気付いた途端、妙に照れくさくなる。二人きりなんていつぶりだろう。
「二人なんて久々だね。」
僕と同じことを考えていたのか、少しはにかんだように妻が言う。そうだね、と相槌を打ちながらよく冷えた缶ビールに手を伸ばす。プシュッ、と開けふと妻の方を見る。
「あれ?アルコールフリー?らしくないね」妻の持つ缶のラベルを見て尋ねる。学生時代の妻はかなりの酒豪だった。大学のサークルで出会い、2つ下だった彼女は先輩の飲み会にまで顔を出すほどのお祭り好きでよく知られていた。自分も飲み会となれば俄然やる気を出すタイプだったので、あの頃は始発までどちらが飲み続けられるか、なんて遊びもよくやったもんだ。
「うん、最近はね。ダイエット、ダイエット。」
「ダイエット?太ったの?」
「三十七にもなればねー。」
そう語る妻をしげしげと眺め、確かに昔に比べればふっくらはしたものの、三十七歳にしてはなかなかのプロポーションじゃないか、と心の中でひとりごちる。そういえば、冷蔵庫の中の缶ビールがなかなか減らなくなったのはいつからだろうか。
改めて妻を見る。出会って十八年、結婚して十年。思えば美香が生まれてからというもの、なかなかゆっくりと話す機会も減っていた。

「なぁ」
「うん?」
「ほおずき市、行こうか。」
「ほんと?」嬉しそうに妻が笑う。最初に好きになったのは、この笑顔だったっけ。

夕方ごろ、支度をして家を出る。夏の夕方特有のこもったような空気に体が包まれ汗がじわじわと噴き出してくるが、不思議と不快感はなかった。
家から深大寺までは歩いて十五分もかからないはずだ。調布に住むようになって気付けば六年。京王線で新宿まで約三〇分、通勤に便利でかつ緑豊かなところが気に入って選んだこの街だったが、こんなにゆったりした気持ちで歩くのは初めてかもしれない。
「ここを曲がった先にね、スーパー銭湯があるんだよ。」
さすがに妻は僕より詳しいらしい。きっと美香を連れて町を散策することもあるのだろう。
「天然温泉なんだってー。すごいよね、都会の真ん中に天然温泉。」

夏の夕暮れに染まる妻の横顔をさりげなく覗き見る。西日を浴びて少しまぶしそうに目を細めながらも前を見つめるその姿に、僕はどこか懐かしさを覚えていた。

「わぁ。なんだか懐かしいなー。」
深大寺に着くなり、妻がはしゃいだ声を上げる。ほおずき市は正確には鬼燈祭りというようで、ほおずきの展示・販売はその中のイベントの一つのようだ。
しかし祭りの名を冠しているだけあって想像以上に多くのほおずきが並んでいた。門外漢にはどれも同じ様に見えるが、きっと種類も様々あるのだろう。色鮮やかなオレンジが深大寺の境内を飾る。
「懐かしい?」
「小さい頃ね、おばあちゃん家の玄関先にほおずきの鉢植えがあったの。よく鳴らして遊んでた。」
「へぇ...そんな風に遊べるんだ。」
「今時の子は知らないだろうなぁ。他にもっと面白いものがあるもんね。」
そう言いながらしゃがみこみ、並んでいるほおずきを愛おしそうに眺める妻。そんな妻の姿を見るのは久しぶりのような気がして、なんだか新鮮だった。

ふと見回してみると、境内では他にも手作りの手芸品・工芸品が売られていたり、東北復興支援の物産展が行われていたりと大勢の人で賑わっていた。また出し物もあるらしくプログラムを見ると猿回しなんてものもあって、想像以上に趣向を凝らした祭りのようだ。美晴も珍しいものを見るかのようにキョロキョロと周りを見ながら楽しんでいる。

二人で過ごすのも、二人でこうやって出掛けるのも本当に久しぶりだな、と考えながら並んで歩いていると自然に美晴の手を取っていた。指が触れた瞬間、美晴は少し驚いたようだったが離すことはなくそっと握り返してきた。美晴は右手、僕は左手。学生時代と変わらない。

「ねぇ。」
ふいに美晴が声をあげる。
「ん?」
「深大寺にゆかりある神様、知ってる?」
「え...知らないけど」そもそも寺なんだから神様じゃなくて仏様じゃないのか?なんて僕の心の声は聞こえるはずもない。
「じゃあいいや!」と言った美晴は少し照れたように笑いながら顔を逸らし、ぱっと手を離して東北物産展の方へ歩いていってしまった。
なんだろう?と気になった僕はポケットからスマートフォンを取り出し、インターネットで「深大寺 神様」と調べてみた。

山口 友紀恵(東京都江戸川区/26歳/女性/会社員)

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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

第13回公募、募集開始いたしました。皆さまからのご応募お待ちしております。
募集要項の内容が変わりましたので、作品を書き始める前、そして投稿前に必ずご確認ください。
→第13回公募 募集要項

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紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
掲載前には、直接メールでご連絡しております。
何卒ご了承ください。

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