どうやら、全身に搭載されているあなたを感じるためのレーダーは、鼓膜だけ感度が抜群みたいだった。
 それはあなたが、みんなとはちょっと違うイントネーションでしゃべるってこともあるけれど、そういうことじゃなくて、あなたの言葉はみんなと波長が異なっているっていうか、もっと私の脳細胞を強烈にしびれさせる刺激っていうか、つまりはあなたの声が、いや声だけじゃなくて、たまらなく好きなのだった。あなたを。
 おせっかいなユリは、藤野くんは写真部なんだからもっと誘えるでしょ、夏なんだし海とか、なんて簡単に言う。このまま脳内少女漫画だったらいつになっても変わんないよ、って、睫毛にビューラーをかけながら。
 クラスメイトたちは目の前の大学受験って壁を越えるために、二年の冬くらいから急に恋人って拠点を築きはじめて、私は彼女たちと同列に思われたくなくて、ずっとあなたを誘えないでいた。うそ。ほんとはそうやって、言いわけをつくって、断られるのを怖がっていただけだ。ほんとは隣にいたいくせに。
 だからあなたが、廊下の掲示板に貼られていた鬼燈まつりのポスターを真剣な表情で見ている時、これだって直感したのだった。

 隣の座席にあなたがいるだけで、息が浅くなって唇がみるみる乾く。このままだとバスが深大寺にたどり着く前に唇の表面は砂漠と化してしまいそうだ。ポーチの中からリップを探しているとバスはカーブに差しかかって、カットソーの袖から伸びるあなたの腕が私の二の腕あたりにやわらかく押し付けられるので、もうリップどころじゃなくなる。
「ごめんな」
「ううん」
 すこし声が裏返ってしまう。あなたの声を聞いてからの半年、こんなにもそばで長い時間をすごしたことなんてなかったし、そうできたらいいなって思っていても、実際に起こってみると緊張のせいで幸せを実感する心の余裕すらない。でも、あなたは、なにも気にしていないのかもしれない。
 窓際に座るあなたはゆるやかに流れていく景色を見ながら、首からさげたカメラをなでる。黒色で、いかにも重そうなカメラだ。私からはつむじしか見えないけど、きっとその網膜はシャッターを切るのにふさわしい瞬間をさがしているんだろう。
「ほおずきのお祭り、なんだっけ」
「え、あ、うん。そうそう、ほおずき」
「あんま見たことない、から、どんなのか想像つかないや」
「実が提灯に似てるから、盆の時期になったら死んだ人を導くのに使われるんだって」
「そうなんだ」
 愉快そうに言うあなたの口数は、あまり多くない。まるで言葉を積んでいくよりも、空気とかタイミングとかで伝えようとしているみたいだ。それはきっと、できるかぎり方言を使わないようにしているからだと、私は勝手に、思う。
「でも、そんなにずらっと並んでるわけじゃないっぽいから、期待はずれだったら、ごめんね」
「だいじょうぶだよ」
 香川からきました、と、三年生にあがるタイミングであなたは私のクラスにやってきた。香川県イコール讃岐うどんの図式しかないクラスメイトたちは、週にどれくらいうどんを食べるのかをひらすらに聞き続け、あなたは困ったように、そんな食べないよ、といなしていた。でもあまりにしつこく尋ねるから、声を荒げて、やけんそんな食べんってようるやろが、と言った。大声を聞いたのは、それが最初で最後だった。
「でも、藤野くんの写真、好きだよ」
 私のレーダーが過敏になったきっかけは、正直よくわからない。気づいたらあなたの声のボリュームだけが頭の中で増幅されるようになっていたから。
 はっきりとわかるのは、あなたの写真を好きになったのは、春先にあった写真部の定期展示会だった。大きな桟橋と澄んだ緑色の海、まるまる肥ったオリーブの実、段々になっている水田とこうべを垂れる稲穂、真っ白な風車、砂浜に半分埋まった割れた電球......。針の細いピンで四隅をとめられた風景たちはどれも美しく、奥底になにかしらの物語が息をひそめているような気がした。そして、なんだか、悲しかった。
 ここには香川の写真しかないんだ。あなたは遠い目をして言った。
 どうやって写真を撮るの。たしか、そうやって私は訊いた。
 一枚でぜんぶが思い出せるように。あなたは、しずかに答えた。
「ありがとう」
 くしゃっとほころばせた顔が、吐息が混じった笑い声が、どれくらいの破壊力があるのかを、きっとあなたは知らないから、そんなにたやすく見せられるんだ。ずるい。

「とりあえずお参りして、それから、ごはん食べたりほおずき見よっか」
 あなたは、いいよ、と言う。こめかみあたりにうっすらと汗がかいているのが見えた。
 石畳や水車、そして店先に吊り下げられたほおずきを、あなたがじっくりと見られるように、私はゆっくりと歩く。足を踏みだすたびにカメラが胸のあたりで小さくゆれた。
「真っ白でまぶしいね」
「え」
「地面が」
 ようやく石畳のことを言っているのだと気づいた。光を浴びて、白い粉を一面にまき散らしているみたいだった。
 案内するよ、って胸を張ってみせたものの、ほんとは深大寺にだって一度だけ、それもお母さんに連れられてだるまを買いにきたことがあるだけだった。その時はぜんぜん身動きが取れなくて、小学生の私はお母さんの手を握りながら、気持ち悪いって泣き叫んでいた記憶しかない。だから鬼燈まつりって言葉から、お気に入りのサンダルじゃなくてスニーカーを選んだけど、実際は町内会のお祭りみたいな、のんびりとしたものだった。
 手作りの陶器やら帽子やら小物が並ぶ市を抜けて、本堂に立つ。日の光をさえぎるものがないので、首のうしろに真夏がそのまま降り注いでくる。賽銭箱に五円玉を投げ入れると、乾いた音を立ててすぐに見えなくなった。私たちは両手を合わせて、目をつむった。
 もし幸せがちょっとずつ消費できるんだったら、きっとこうやってたまっていく幸せである程度は暮らしていけるだろうけど、そんなじょうずなことはたぶんできないから、これからも続くよう一心に、祈る。
 目を開けると、もう拝み終えていたあなたは不思議そうな顔をした。
「なにをそんなお願いしてたの」
「その、藤野くんがいいほおずきを撮れますようにって」
「なにそれ」
 動揺に気づいていないのか、あなたは笑った。
 蝉が空の低いところで鳴くのを聞きながら、私たちは境内をしばらく歩きまわる。うんとゆっくりした速度で。でも、あなたは入道雲が立体的だとか、のぼりがどれも赤地に白文字とか、クラスのことをぽつぽつとしゃべるだけで、シャッターを切ることもなければ、ファインダーを覗くことさえしなかった。
 もしかしたら、私にとってものすごく幸せなこの時間は、あなたには切り取る価値すらないのかもしれない。
「もしかして、あんまり、いいとこなかった?」
 どこかぼんやりとした表情でほおずきを見ていたあなたは、私のほうを向いて、よくわからないといった顔をしたけど、すぐに、ああ、と言った。
「あんまし写真を撮るってことを、考えすぎないようにしてるんだ。そればっかり必死になっちゃうと、楽しむってことがないがしろになっちゃう気がするから」
 一枚でぜんぶが思い出せるように。
 あなたの声が頭の中で響いた。私は息を飲んだ。あなたは、思い出すためのピースをすこしずつ増やしているのだ。嬉しいような、情けないような気持ちになって、顔が赤くなっていくのがわかった。
 なんとなくあなたを見られなくて、吊るされたほおづきの鉢植えを眺める。ぷっくりと逆三角形にふくらんだ実は、たしかに提灯に似ているけれど、どうやら照らして導いてくれるのは死んだ人だけみたいだった。縁結びのお寺にあるほおずきなんだから、私たちの関係だって、照らしてくれたなら、いいのに。
 ぴぴ、かしゃ。
 咄嗟に音がしたほうを見る。カメラのレンズが私に向いていた。呆然としていると、あなたは画面をたしかめながら小さくほほえんで、それから、奥野、と私の名前を呼んだ。脳細胞に強烈な刺激がやってきて、私は反射的にそばへかけよって、液晶を覗きこむ。オレンジ色のほおずきをじっとみつめる、わずかに赤くなった私の横顔が映っていた。
「ええ写真やわ」
 あなたの息づかいと一緒に届いたのは、あなたが避けていたはずの言葉だった。私が顔をあげると、あなたは困惑と悲痛が絶妙に混じりあった顔をしていた。
「藤野くんの写真、好きだよ。それから、その言葉も」
 あなたは、ちょっとだけ波長の違う、ありがとう、をつぶやいて、くしゃっと笑う。泣きだしそうなあなたの表情を見て、もういちど、好きだよ、とささやく。

入倉 直幹(東京都/男性)
「あ」
 深大寺本堂のすぐ近く、釈迦堂脇の池の中にゆっくりと動くものを見つけた。
「よっちゃん」
「よっちゃん?」隣で泰弘が聞く。
「ほら、あそこ。池の隣。ミドリガメ」
「あ」

 よっちゃんは小さなミドリガメだ。出会いは私が泰弘と付き合い始めた大学三年生の夏。近所の祭りの縁日で売られていたそのミドリガメが何だか物哀しく見えたので、泰弘にお願いして彼のアパートで飼い始めた。露天商のおじさんが「亀は50年生きるから」と言うものだから、よっちゃんが寿命を全うするとき、私たちもおじいちゃんとおばあちゃんだね、まだ一緒にいるのかな、などといって二人で笑いあったことを覚えている。

「本当にあのよっちゃんかな」
 泰弘が遠慮がちに言う。泰弘は信じていないけど、私は構わない。
「こんなところにいたんだね、よっちゃん」

 よっちゃんはあのアパートにきてから、僅か一ヶ月で失踪した。二人で大学から戻ったら水槽からその姿が消えていたのだ。
 泰弘の「小さなよっちゃんが、この高さの水槽から自分で外に出るなんてありえない。野良猫のせいかな。窓開けっ放しだったし」という推理は、おそらくその通りであった。しかし、私には到底受け入れ難いものだった。なぜなら同棲の真似事を始めて、最初にあの部屋に来たのがよっちゃんだ。初めて二人で育てたのがよっちゃんだ。だから私は「よっちゃんはどうにかして自分の力で出て行った」と主張し、私の鬼気迫る勢いに押された泰弘は最終的にその説に同意した。
 つまり、私にとってよっちゃんは、自分でその水槽から出て行ったのでなければならなかった。断じて、野良猫などに連れ去られてはいけない。そう思っていた。

「そうかなぁ」
 それなのに、目の前にいるこの男は、池の傍でのんびりとくつろいでいるこのミドリガメをよっちゃんだと認めようとしない。いや、そもそも私はこのカメがミドリガメなのか、あるいは他の種類のカメなのかもわからない。それでも。
「よっちゃんだってば」
「そっか。そうしたらきっとそうだ。よっちゃん、15歳くらいになるんだね」
 まただ。またこの男は、適当に話を合わせる。いつだってそうだ。

 結局私は大学時代をそのまま泰弘と過ごし、卒業して文具メーカーに就職した。泰弘も大手家電メーカーに就職し、いい機会だからと私たちは卒業と同時に小金井を離れ、都心のマンションへと引っ越した。そして3年後、「結婚もしないで何年も同棲するなんて恥ずかしい」と言う母のために籍を入れ、晴れて夫婦となった。

「こんな所にいたんだね」
 思わず笑みがこぼれた。懐かしい。
「少し歩かない?」
 怪訝な様子で泰弘が応える。
「あれ、まだお参りしてないけど」
 構わず山門をくぐり、小さな橋を渡ると、泰弘が慌てて追いかけてきた。

 結婚しても生活は何も変わらなかったが、それなりに幸せに過ごしていたように思う。

 山門を出て、蕎麦屋やお土産屋の並ぶ道を歩きながら、泰弘が言う。
「今日ここに誘ってくれてありがとうな」
「どうして」
「よっちゃんいたじゃん」

 私たちは、子供が欲しかった。しかし、初めての仕事もそれなりに楽しかったし、なにより就職したての私たちは生活するのでいっぱいいっぱいだった。もう少し仕事になれたら、給料が上がったら。そうやって20代を過ごした。
 30歳が迫ってきた頃、私たちは子供をつくることにした。しかし三ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎる頃、仕事を辞めれば子供ができる、という義母のアドバイスがきっかけであっさりと退職した。そして、共働きでなくなった私たちは、再び西東京へ戻ってきた。

「よっちゃんいたじゃんって、泰弘あのカメがよっちゃんって信じてないでしょ」
「そんなことないよ」
 退職して西東京に戻ってからも、妊娠の兆候はなかった。毎月がっかりすることに疲れた私は、期待するのをやめた。当然次第に子作りとは疎遠になり、私は毎日泰弘の朝ごはんを作り、洗濯と掃除をした。そして泰弘は出世したのか残業が増えたのか知らないが深夜の帰宅が増え、私は一人で夕飯を食べた。そして子供の話は我が家ではタブーとなった。

 学生の頃の私たちは休みになると自転車で色々なところへ出かけた。小金井公園や井の頭公園、野川公園、近所の小さな公園へ行って、何をするでもなくただ日が暮れるのを待った。深大寺もその頃、よく来た場所のひとつだ。蕎麦は滅多に食べられなかったけど、団子をよく二人で分け合って食べた。ベンチに腰掛け、沢山話をした。

「覚えてるか、縁結びの神様の話」
 池を見つめながら、泰弘が言う。

 ある男がお金持ちの娘に恋をして手紙をたくさん送る。でもその娘のお父さんが、どこの生まれかもわからない男はだめだと怒って、娘を小島に隔離してしまう。しかし男が強く願うと、どこからか大きな亀が現れて、娘のところに連れて行ってくれる。そんな加護をうける男ならばと、お父さんが許してくれる。そしてその二人の間にできた子供が、やがて深大寺を開創することになる。

「覚えてるよ」
 忘れるはずがない。幾度となく、ここに来るたびにその話をした。
 池の水面を見つめる泰弘の顔が、少し緊張している。
「俺は昔、何度もここでお願いしたよ。『有未と幸せになれますように』って。絵馬にもそう書いた」
「うん」
「そして僕たちは結婚した。でも」
「でも?」
「うまくいってない」
「縁結びの神様も、結婚から先は管轄外なのかもね」
 泰弘が振り返ってこちらを見た。
「でも今日、よっちゃんがまた現れた」
「よっちゃんは猫が連れていっちゃったんじゃなかった?」
 さっきから言い出せない言葉がずっしりと、私の頭に重くのしかかっている。子供ができなかったことをきっかけに、私たちは薄暗い影の中で、彩りを失った生活を送っている。
「有未がどうしてここに来ようって言ったか、僕にもわかってる」
 お母さんに買ってもらったお団子をもった子どもが、脇を走り抜けていく。その横でなんじゃもんじゃの木は鮮やかな緑の葉を蓄え、天に伸びている。
「どうしてこうなっちゃったんだろう」
「よっちゃんはさ」
 泰弘が振り返った。
「やっぱり自分で出て行ったんじゃないかな。そしてさっきの亀はやっぱりよっちゃんだ」
 こんな時でも、泰弘はやっぱり適当なことを簡単に口にする。
「だから、もう一度やり直さないか」
「え?」

 この男は何を言っているのだろう。
「ここは縁結びの神様だろ? で、僕たちはよっちゃんにまた会えた。きっとよっちゃんが、僕たちをまた繋いでくれる」
 いつだってそうだ。いつだって適当なことを言ってごまかしてきた。でも。
「ちゃんとお参りしよう」
 目の奥深くに熱がこもる。

 山門に向かう泰弘を追いかけ、声をかける。
「帰りにお蕎麦食べようか」
「いいよ」
 少し赤い目をした泰弘がこちらを振り返る。

 その日の帰り、二人でもう一度池を探してみたけれど、いくら探してもよっちゃんの姿は見つからなかった。

 久しぶりに深大寺に行ったあの日から、2年が経った。今、泰弘が車でこちらに向かっている。ダッシュボードには、深大寺で買った赤い達磨のステッカーが貼ってある。
 時計を見ると23時を回っている。陣痛室に入って2時間、お腹の子はまだ出てくる気配はない。
 私は陣痛に耐えながら、元気な子が無事に産まれるように、ついでに泰弘が間に合うように、神様に祈った。
 よっちゃん、どうかよろしくお願いします。

奏晴太(東京都杉並区/36歳/男性/会社員)
――東京の冬は寒い。
バスの扉が開いて、外に出る時、耳元で彼の声が聞こえたような気がした。
戸田瑶子は彼と付き合い始めて、二度目の冬を迎えようとしていたが、今、待ち合わせをしているのは、その彼ではなかった。
「戸田さん、ここ」
 河合が微笑んで、片手をあげるのが見えた。こんな風に職場以外で会うのは初めてのことだった。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「こら。そっちから誘ったんだぞ」
 河合の冗談めかした言い方に、河合の優しさが感じられた。瑶子も口角をあげて笑顔を作ってみせる。
職場の飲み会で、酔った瑶子が深大寺に行こうと河合を誘ったというのは嘘ではないだろう。河合が嘘をつくような男でないことは、入社してからのこの六年間でよくわかっていた。それよりもわからないのは自分の気持ちだった。去年、一人で過ごした年末年始の寂しさを、また今年も味わうことになることを恐れているのか、それとも自分のことを想っていると知ったことで、河合に甘えてしまったのだろうか......。
参道の石畳の上を参拝客達がゆっくり歩いていく。師走に入り、風はひんやりとしていたが、日差しは明るく穏やかだった。
「まずはぶらぶらしてみるか」
 河合と肩を並べて歩きだすと、どこからか、微かに煙草の臭いがしてきて鼻を掠めた。瑶子は子供のころから、父親の吸う煙草の臭いが大嫌いだった。今でも他人が吐き出すその臭いは苦手だった。それなのに、彼が煙草を吸っている姿だけは好きだった。煙の匂いさえ愛しくなった。彼が瑶子のアパートの部屋から帰ってしまったあとでも、灰皿をそのままにした。何日も何日も吸い殻を見詰めながら、次に連絡がくるのを待った。そして、彼から電話があると急いで灰皿を洗い、棚の奥に隠した。
「見て、これ、面白いよ」
 混雑した土産物店の中で、河合は手にした妖怪の図柄の手ぬぐいを振っている。その河合の姿がふっと自分の姿に変わる。店の入り口に面倒くさそうに立っている彼に、はしゃぎながら微笑みかけている自分の姿――。いつも不機嫌そうで、半分死んだ目をした背の高い男。休みの日に外でデートをしたことなど一度もなかった。いつも唐突な夜の来訪を待っているだけだった。一人きりの週末をもてあますようになった瑶子は、ふと思いたって子どものころ以来、行っていなかった寺や神社に行ってみることにした。一月の終わりに成田山に初詣に出掛け、湯島天神で白梅を眺め、目黒不動尊の桜を一人で見上げた。明治神宮のパワースポットと言われる井戸の水を手に浸し、行ける範囲のあらかたの寺社仏閣をまわったあとで、深大寺まで足をのばした。新緑の美しさと幸せそうな人々の行き交う参道にそれまでにないものを感じた。故郷に帰ったような心地がした。住んでいるアパートからかなり遠くはあったが、春から秋にかけて何度か、一人でこの森を訪れた。秋までは良かった。一人で歩いていても彼のことを思うたびに、幸せを感じた。付き合っている人がいる、心底好きな人がいる、それだけで瑶子は満たされていた。
「どうしたの?」
 怪訝そうに河合が瑶子の顔を覗き込む。
「ううん、......なんでもない。あっちの店、行ってみましょう」
 河合は、瑶子に付き合っている男がいることを知っていた。瑶子が職場で、そのことを隠さなかったからだ。そして、思いがけず、河合から、彼と別れて自分と付き合わないかと言われたのは、先月のことだった。もちろん、瑶子は即座に断った。
灯りの弱かった店内から外に出ると、まぶしさに目を細める河合の横顔が思ったよりも近いところにあり、瑶子は慌てた。
「昼飯、どこの店がいいかなあ。って、まずは先にお参りか」
「......お参りはあとにしてもいい?」
 迷っていた。一年半という歳月が迷いを生じさせていた。これからくる冬が怖かった。河合となら温かな将来を思い描くことは簡単かもしれない。
「そうだな、まずは蕎麦だ、蕎麦」
 河合の肩越しに野点傘が見えた。冬の白っぽい陽光の中で光の粉を撒いたかのように傘の表面が輝いている。その下の赤い日陰の中、小さな女の子を真ん中に挟んで若い夫婦が腰掛けているのが見えた。

 去年の夏、友人に誘われて仕方なく見に行った小さな劇団の舞台が終わり、出待ちをするという友人に先に帰るからと告げ、通りに出た途端、土砂降りの雨が降り出した。バッグから取り出した折り畳み傘を広げて差すと、後ろから走ってくる足音が聞こえた。いきなり男の手が伸びてきて、傘の柄を持った。ぐっと傘が高くなった。舞台に出ていた男だった。
「入れてってよ」
低い声だった。瑶子が驚いて仰け反り、男を見上げると、男は無表情なまま剥き出しの腕で瑶子の肩を抱き寄せた。
「濡れちゃうよ。――腹へったな」
 男は瑶子の部屋に来て瑶子の作ったものを食べ、眠り、そして、翌朝帰って行った。その日以来、瑶子は自分がそれまでとは違う女になったような気がした。
 
 手にしたメニューの向こうから河合の声が飛んできた。
「俺、天ざる。――ほら、早く決めないと。それでなくても嫁き遅れてるんだからさ」
「ひどーい」
河合の冗談に瑶子は笑った。
「それにしても、あんなに酔っぱらっちゃうとはね......」
「たまにはそういうこともあるの」
「......俺のほうが、本当の戸田さんをよく知ってるかもよ」
 河合が真剣な眼差しで瑶子を見つめた。 不意打ちをくらって、瑶子はたじろいだ。元々は生真面目な性格だった。普段真面目な分だけ、酔って本音を吐露してしまったのかもしれない。それとも、河合にだから、気を許してしまったのだろうか。そう思いたかった。
河合の顔から視線を外した先で、年配の男がポケットから煙草とライターを取り出すのが見えた。「ここ、禁煙か」と呟き、手持ち無沙汰にライターの蓋を開いたり閉じたりしている。独特の金属音が店内に響いた。その音につられるようにして、またひとつの記憶が過る。
煙草に火を点ける彼の指先を瑶子はじっと見ている。自分が誕生日にあげたライターを「失くした」と言い、誰かにプレゼントされたに違いない真新しいジッポーを「拾った」と平気な顔をして言った――。そういう男だった。
恋とは一体なんだろう。いつだって一番好きな人には本気で好きになってもらえない。

蕎麦を食べ終えて、二人は店の外へ出た。参道は短く、小川を挟んで山門が見えた。小さいながらもふっくらとした茅葺屋根を載せた風情のある山門だった。
十段ほどの階段を上がりきったところで、瑶子は足を止めた。
「どうしたの」
 河合が向き直る。
「私......」
見上げると山門が瑶子の心の底を射抜くように思えた。他の男のことばかり考えながら、二人を天秤にかけている――。罪悪感という言葉が心に浮かんだ。何も言えずに瑶子は俯いた。河合は瑶子の気持ちを察しているようだった。わざとおどけたような声で言う。
「お寺の門って、山になくても全部、山門っていうんだな。――ここから先は神聖な場所だから、不埒な心のやつは足が止まってしまうんだな、きっと」
「そう。私、嘘つきだから......」
 込み上げてくる言葉を堪えて、唇が震えた。嘘をついているのが辛かった。
「彼と......、彼とここに来たかった――」
「知ってる。あの時、そう言ってたから」
 瑶子は驚いて、河合の目を見た。今まで見たことがないほど強い光がその瞳にあった。
「だけど、もうやめたほうがいい」
「......」
「君がしているのはいい恋愛じゃない」
「恋愛に、いいも悪いも――」
「ある。......あるんだよ」
 河合の声は深く穏やかだった。
「いちばん来てほしいところに一緒に来てくれないような人はいい恋人じゃない」
 涙が零れ落ちていく。
河合が行き過ぎる人に見えないように瑶子の頭を肩に引き寄せた。
「彼のこと考えるのは、もうここまでにして」
瑶子は小さく頷いた。
「さあ、行こう」
 河合が瑶子の手をとる。
 温かな手だった。

玖保アキ子(東京都)
 「ごめん。俺、里香とは付き合えない。別に里香が嫌いなわけじゃない。このままっていうか、友達のままでいたい」友達のままか。人を振る時のお決まりに聞こえる返事。今日里香の中での成功の確率は五十パーセントぐらい。だけど自信はあった。でも彼からの返事は「ノー」。告白の帰り道、里香は雨が降る中、家の近所にある深大寺へ歩いて行った。山門をくぐり、本堂にお参りする。告白前も来た場所。雨のせいか人もまばらだった。今日は結果を報告するためだ。ダメだったことを。涙は出てこなかった。雨が里香の代わりに泣いているようだ。
 里香の告白の相手は金田。高校の同級生だった。大学は別になってしまうので、卒業後に金田に会った時と決めていた。それが今日だった。高校の卒業式を終え、大学の入学式前の春休みで、最初に金田と会った日。里香としては告白するタイミング、その他諸々の、高校時代とは違う、メイクとか、洋服とかの準備も抜かりなかった。そもそも里香と金田は高校時代から、「友達」として、学校外で頻繁に会う程仲がよかった。金田だって里香に告白される前から里香の気持ちに気が付いていたはずだし、金田には現在、付き合っている女の人はいないはずだ。振られるということがこれ程ショックだったなんて。里香の心はずっしりと重い。だから深大寺までの足取りも重かった。振られたことには一定のショックはあるものの、里香は諦められる気がしなかった。深大寺へ報告の際に、「また告白したいので、力を貸してください」とお参りする。里香は告白前よりも倍の時間をかけてお参りをした。里香は深大寺とその周辺は、「近所に住んでいるから」という理由以外で詳しい。それが里香と金田との『友達』のきっかけだったから。
 里香と金田の通っていた高校は調布市内にある。二人は高校で一年生の時に同じクラスだった。文化祭でクラス内の出し物を決定する時、自分達でシナリオを書いて映画を制作しようという話になった。その際ロケ地として利用したのが深大寺と神代植物公園だった。映画自体は素人の高校生で制作したので出来はよくなかったが、この準備を通してクラスの全員が仲良くなり、里香は金田と特に仲良くなった。文化祭の準備のため、深大寺周辺に二人で下見に行ったりもした。金田はクラスのリーダーから場所の確認を頼まれたが、そもそも深大寺と神代植物公園について全く知識がなかったようなので、里香はインターネットでも調べて金田のアシスト作業に徹した。小さい頃からしょっちゅう来ている場所だったし、ネットで調べて知識にも自信があった。資料を金田に渡すと、金田はそれをすごく喜んでくれ、里香に対して、びっくりするぐらいの感謝をしてくれた。「いやぁ、俺調布にずっと住んでいるけど、深大寺のこと全く知らなかったからさ、本当にありがとう」と、何度も何度も里香に言ってくれた。これを機に二人の距離はぐっと縮まったのだ。金田が里香に「必死に感謝」する様子が、とても人として尊敬できると思った。文化祭が終了する頃には、里香は金田に恋愛感情を持つようになった。何より、深大寺は縁結びや、パワースポットとしても有名で、それがきっかけでの片思いであり、里香は金田に対して運命を感じずにはいられなかった。
 金田は元々男女問わず、人に優しく接するタイプで人気者だった。里香は一年生のときに仲良くなって、二年、三年とクラスは違ったが卒業までずっと仲が良かった。金田は里香と話すときに他の男友達と同じ扱いをしなかった。ちゃんと『女子』としての扱いをしてくれた。それがとても嬉しかった。金田のことをいいと思っている女子は他にもいたが、その中でも一番優先されていたのも里香だったことは自身がよく知っている。一年の時の文化祭終了後も時間が合えば一緒に登下校したり、調布駅周辺でお茶をしたり、デートのようなことも沢山してきた。一度だけ文化祭のあと深大寺に二人で来たこともあった。その時は二人で鬼太郎茶屋に入って土産売り場をうろうろした。あのときソフトクリームを食べたっけ。本当にデート気分を味わえた。金田が買っていた妖怪のキーホルダーをこっそり真似して里香も買った。バレないようにカバンの隅にいつも入れていた。勿論金田は知らない。二人だけの秘密みたいでこのキーホルダーはこれからも捨てられそうにない。
 里香と金田は受験期に同じ予備校に通っていた。偶然一緒になった。予備校には里香のライバルの女子がいた。彼女は隣の高校の制服を着ていた子で、同じ制服を着た男子といつも一緒にいた。名前は確か詩織。詩織の「彼氏」と思われる男子と金田は中学の同級生だという。里香は予備校に通っている間、不安でたまらなかった。詩織と彼氏の間に金田の入り込む隙なんて里香の目から見てもなかった。里香は金田の視線の先を見ると、怒りやら嫉妬やらが入り混じった気持ちになり、ヤキモキした。その度に詩織は深大寺にお参りし、気持ちを落ち着けたものだった。いや、縋る思いだった。そして、受験日近くになり、金田からメールがあった。「深大寺ってパワースポットで有名だよね?」と。話を聞くと、どうやら金田は詩織とその彼氏の三人で深大寺に合格祈願に行くという。里香も誘われたが、その日が予備校で欠席できない授業があったため遠慮した。かえってほっとしている自分がいた。里香と金田の思い出の地に他のカップルが混ざるなんて、と胸が締め付けられる思いがした。受験勉強に打ち込み、なんとかこの気持ちを乗り切った。そして卒業式前、金田と詩織、その彼氏が皆同じ大学に行くことになったと金田本人から聞いたのだ。
 雨は止む様子がない。寒い。里香は傘をさしながら深大寺から自宅へ歩いて帰る。ふいに涙と鼻水が出てきた。すると突然雨が強くなった気がした。傘をさしているが靴は勿論、今日の金田の為の、キメキメの洋服も顔のメイクも雨でぐちゃぐちゃだ。もう涙なのか雨なのか自分でも分からなくなり、家に着く頃には泣きながら笑っている自分がいた。
 告白して玉砕した日から三日後、里香と金田は深大寺で待ち合わせをした。里香から誘ってみた。断られるかとも思ったが、金田の「友達として」という言葉に嘘はないようだ。特別ぎくしゃくせずにお互い話ができた。ちょうどお昼時だったので二人で深大寺の蕎麦屋へ入る。里香は金田に振られてからの三日間で考えたことを話すつもりだった。近くに座っている客もおらず、里香は思い切って金田に言ってみた。「いつになるか分からないけど、ううん、何年後かも分からないけど。私はまた金田に告白すると思う」蕎麦をすすっていた金田は里香の『再告白』にびっくりし、むせたようだ。むせながら、「気持ちは有り難いと思う。というかありがとう」と言うのがやっとのようだ。金田は自分の食べているざるそばを見つめながら、ちょっと悲しげに、「いつも里香のことは有り難いと思っているし、これからも『友達として』なら尊敬し続けられると思う。俺は」里香も蕎麦をすすりながら金田の話に聞き入る。『友達』ばかりを強調され、涙が出そうになった。ごまかす為に慌てて鼻をすする。蕎麦を食べるのに集中しているフリをした。そして「うん」と短い返事を金田にしてから、「私も金田のことはずっと尊敬しているよ。きっとこれからもこの気持ちは変わらないと思うから」金田も短く「うん。ありがとう」と笑顔で返事をした。続けて、「でも本当に今は里香の気持ちは受け入れられないよ。恋愛感情はないよ?」「うん、だって金田はあの詩織ちゃんて子が好きなんでしょ?」金田は少しびっくりしながら、「バレてたか。確かにそうだった。でも彼氏もいる人だし。もう未練もない」と言った。また、金田は、「俺、予定では大学在学中に留学する。アメリカの大学に」突然切り出した。「それで留学の費用は自分でなんとかしろって親に言われているからサークルよりもバイトに力を入れていくつもりなんだ。今日も夜、バイトの面接。正直に言うと、今までみたいに里香とは会えないと思う。お互いの大学も近くないし」金田は悲しそうな顔で里香に言った。金田のことだ。嘘じゃない。里香を避けたいから言っているのではない。知っていた。留学のことは高校時代にも何回か聞いていたから。そんな金田を尊敬しているし、好きになった。「ごめん」金田がつぶやく。「ううん。でも金田のことはずっと好きだと思う」金田はまた悲しそうな表情で里香を見る。里香は慌てて「あ。でも大丈夫! 私も充実した大学生活送りたいし、バイトもサークルもしたい。お互い大学に入ったら、今までみたいに会ったりするのは難しいと思う。それは分かってる。でも、何かあった時は連絡してもいいかな? 会ってくれなくてもいい。電話でもメールでもいいから。私も金田に何かあった時は相談にのれる人でありたいし。その時は連絡して。それで、もし、何年か経った時に私の気持ちが変わっていなかったら。その時はまた金田に告白させてください」里香はいすに座ったまま丁寧に金田におじぎをした。涙は出ない。里香の最初で最後の精一杯の強がり。金田が消えそうな声で「ありがとう」とだけ言った。いつの間にか二人とも蕎麦を食べ終えていた。「帰りに深大寺へお参りしていこう」金田は里香に言った。金田と並んで歩いているとき、彼のカバンにキーホルダーがついているのを発見した。あのとき買ったお揃いの妖怪キーホルダー。金田は知らないが里香も持っている二人だけの秘密。里香は今の気持ちに強がりだけじゃないものを感じだ。やはり好きな気持ちは変わらない。さらに振られてへこむかと思ったが、里香は思いの外気持ちが晴れ晴れとしていた。里香はお参りで金田の倍の時間、彼の夢の実現と幸せを祈った。

いち子聡(東京都)
 八月に入ったばかりの火曜日、都心から自宅のある荻窪を素通りし三鷹駅で降りると、足の向くままに南口からバスに乗り込んだ。
 文字通りなんにも考えず、ただ足が動くものだから、もう参道の中途に差しかかっている自分が不思議だった。
 願掛けに来たんだとしばらくして思い出すと、参道の残りを急ぐ。途端に重くなった足は秒速5センチほどにしか進んでくれない。
 それでも気晴らしにと沿道の蕎麦屋を覗くが、昼をとうに廻った店はひっそりとし、天日干しの蕎麦ざるが風にカタカタと鳴る。
 久しぶりの深大寺は、随分と寂しかった。
 右耳下の腫れに気がついたのは梅雨に入ってすぐ。ぐりっと瘤のようだが痛みは無く、しばらく放っていたが、なかなか微熱が引かないので、仕方なく近所の内科に行った。
 細菌か何かでリンパ腺に炎症が起きていると言った老医師は、急に診断を撤回するや、築地にある専門病院の受診を強く勧めてきた。
 大小の検査に耐え、通院も5回目を迎えた今朝、「戸上さん」と初めて主治医に名前を呼ばれ、一通りの経過診断を聞かされた。
 内容はよく覚えていない。ただ、いつもは億劫そうな医者が妙に迅速で、どんなに早くても一週間を要した予約が首尾よく三日後に取れた。金曜日には結果が伝えられる。
 石段を上がり寺の山門をぬけると、左手にのびる小道に沿って進んだ。草いきれでムッとした藪に挟まれ、頭上には落葉樹が生い茂るその道は、夏の盛りにしては涼しい。 
 幾分か幻想的でもあったから、その先にそこだけ木洩れ陽の注ぐ深沙堂が見えると、現実感があせて、気分が少しだけ楽になった。
 薬師様や延命観音を詣ればいいのに、恋をとり持つ深沙大王に向かったのは、昔何度も母と訪ねていて馴染みだから、それだけの理由だった。
 なぜだかやけに信心深かった母は、「疫病とか病魔だけは嫌でしょ」と大王の神通力を買ってお堂に向かうが、そこには縁結びだの深大寺の寺号の由来だの、明るい理由はなかった。もしかしたら、若くして死んでしまった父と関係していたのかもしれない。
 しかし、結局理由はわからず仕舞いで、参道に近い秘仏が宿るこの堂で、母娘は多くの時間を過ごした。
「あ......変わんないや」
 本当になんにも構えずに踏み込んだ空間は、びっくりするほど昔のままで、切妻屋根を覆う雑木林の配列や自分の重みで全体が傾ぐ赤松の微妙なラインは、ぴったりと幼い記憶に符合していた。
 お堂わきの切石に座ると、ジジジと蝉時雨が頭をめぐり、今にも気が遠くなる。
 人知れぬ痛みや孤独を抱えていた母も、こんなふうに癒されていたのか。
 現実逃避も手伝い、記憶はやがて、三十六年の人生で幾度も掘り返した、手放すことの決してないある思い出をそのまま運んできた。
 物心ついたときから父はおらず、高校を卒業するまでずっと母とふたり、三鷹市の小さなアパートで暮らしていた。
 深大寺の北にある北ノ台小学校をさらに北上した三鷹通り沿いのアパートは、古くて騒々しかったが、居心地はよかったと思う。
 通り向こうには企業の野球場があってナイターが夜を照らし、沿道の劇団から聞こえる発声練習は、憂鬱な朝を少しだけ愉快にした。 
 母を深夜まで待つ幼い娘を気にする隣人は多く、よく世話になった隣の若夫婦から、初めてゼリーではないメロンをご馳走になった。
 もちろん、アパートの外でも言うほどの苦労は無く、放課後は学童と知り合いを転々としたが、おおかた祖母と一緒にいたから、いわゆる悲壮感とは無縁だった。
 調布駅の裏通りにあった祖母の居酒屋では、時々派手な諍いが起きたが、不思議とそこには諦めに似た節度があり、引き際のタイミングという得難い教訓を、幼い娘は肌で知る。
 そして常連客が揃うころ、母は迎えに来ると、決まって自分を自転車後部の荷台にのせて、一路、深大寺付近をめざすのだった。
「うちはねえ、貧乏だけど貧しくはない」
 そう豪語する母は、週に一二度馴染みの蕎麦屋に通い、ふたりで一枚ずつ笊蕎麦を平らげ、ひとり旨そうに熱燗をちびちびやる。
 多分、この習慣は亡くなる直前まで続いていたと思う。
 甘めのつけ汁に蕎麦をたっぷりと泳がせ、くどいくらい咀嚼する母は、決して蕎麦通ではないが、その酩酊する様は見ていて気分が良く、幸せを守るのではなく分け与える、そんな類の酔い方だった。
 その後、良くない事がつづきもしたが、一応腐らずにやってこれたのは、あの酩酊の功徳かもしれないと、本気で信じている。
 そんな母娘だったから、特に反抗することもなく、家事や雑事は協力してやっていた。
 そして中学二年生の春、初めて恋をした。
 それは、どんなに通じていた母にも決して明かせない、行き場のない衝動だったが、次第にその正体が初恋とわかり、絶望に転じた。

 当時所属していた吹奏楽部の同じフルートのパートに、藤原泉という一つ上の先輩がいた。フルートの腕はピカイチで文武に秀で、おまけに透ける肌と薄茶の目をした美人だったから、常に教師のご贔屓に与かっていた。
 彼女に接すると何か自分までが特別になったような、そんな優越感を抱かせてしまう存在。今でいうスクールカーストの頂点に君臨するような、特別の生徒。
 しかもそれでいて、性格だって良かった。
 大人の目や評価の枠外にあっても、後輩や同級生への配慮を怠らず、ちょっとの根回しで、誰もが傷つかない方法でいじめを解決することもしばしば。まさに完璧なひと。
 間違っても、藤原さんに避けられることだけは、絶対に絶対にいやだった。
 五月にしては蒸し暑い日だった。中間試験前の水曜日、早帰りした折り母につかまった。
 これから調布駅近くの果樹園に行くという母は、袖机をもらいに行くからと誘ってきた。
 まあ助手席にいればよいし、末は自分の勉強机になるのだからと、仕方なく承諾した。
 しかし、実際の机は意外に大きく我が家のミニカーには積みきれず、譲り主の好意で、代わりに軽トラをお借りして運ぶことに。
 けれども母は、なにを思ったか、不慣れな軽トラの運転に躊躇しだすと、突然、納屋に立てかけてあった古いリヤカーをせがんだ。
 今にも崩壊しそうな代物で、車輪や持ち手の塗料はすっかり剥げ落ち、触れば赤錆特有の臭いと鉄粉が手のひらに付着した。
 そんな事情から、リヤカーの旅が始まる。
 優に30キロを超す塊を載せたリヤカーは本当に重く、停止の状態から引き始めるには、母と二人、腹筋を張り歯を食い縛ってようやく一歩を踏みだすほどであった。
 逆に坂道では、惰性がついた車輪の下敷きにならないよう相当に気を使った。
 臭い汗が滴る。楽しさなんて微塵もない、ただの羞恥と苦痛の道のり。
 思春期の自分は、こんな姿を知り合いに見つからぬよう、唯それだけを祈っていた。
 しかし事態は、最悪を迎えてしまう。
 幹線道路を避け、迂回のため深大寺の敷地を突っ切ろうと、参道の向かいで信号待ちしていたその時、山門の黒い茅葺の下に目が留まった。全身が強張る。そこに母と並んで慎ましく歩く藤原さんの姿を一瞬で捕えていた。
 穴があったら......そんなものじゃない。万事休す。数多の部員に紛れて借り物のフルートなんかを持つ戸上純という存在を藤原さんが覚えていないこと、それだけに賭けた。
 しかし、藤原さんはやはり藤原さんだった。
 彼女は信号を待って一目散に駆けつけると、矮小な後輩の頑張りを親たちに讃え、意外な、いや最も藤原さんらしい展開をみせる。
 突如、藤原さんは右手の楽器ケースを親に託すと、自分と並んでリヤカー前方のバーを握り、「せーの!」っと力一杯に引き始めた。
 リヤカーはなぜか素直で、順調に滑りだす。
 汗で湿った藤原さんの腕と擦り合うたび、初めて、動悸に酷似した息苦しさを覚えた。
 と同時に、手の甲から汗が噴き上がる興奮と歓喜が湧きおこり、それが一気に体芯へと流れ込む感覚が走る。恋する素晴らしさ。
 しかしそれは、絶望と表裏のものであった。
 「試験前なのに、私達って外に出てるね」そう悪戯っぽく微笑み、ふたりだけの秘密の連帯を感じさせる藤原さんの隣で、自分はあの日、深く深く傷ついていた。
 この坂を登り切れば二度とない時間。確実に報われない恋。共有できない傷だけが残る。
 たまらなく好きな人、彼女の楽園にはきっと入れない......解りきったことなのに、いつまでもあのときの感情が綺麗で、自分を支え続けているのはなぜなんだろう。
 純、そりゃ初恋だからよ! ......母ならそう言うだろうか。今となっては分からない。

 晩鐘の音で思い出が途切れた。
 気がつくと、ついさっきまで感じていた寒さはなく、首筋にじっとりと汗をかいている。
 すると急に笑いがこみ上げてきた。下腹部を締め付ける動悸や明日が待ち遠しい興奮。こんな感覚が蘇るなんて、命の一大事に。
 しかし、もう一度愛しそして愛される時間は残っているのだろうか、誰か教えてほしい。
 小一時間前、うなされたようにこの寺に辿り着いたのが随分と昔に思える。
 立ち上がると妙な胸騒ぎを覚え、お堂に近づく。そして、格子の奥をそっと覗いてみた。
 そこには白木の厨子がひとつ。けれども実は、箱の中に仏はなく、母や父、そしてまだ世界の中心にいる藤原さんがこっそりといて、じっと箱の隙間からこちらを見つめている。
 そんな気がしてならなかった。

広瀬有(東京都国立市/41歳/女性/会社員)
 手織りの特別柔らかい布で指先まで丁寧に拭い、角度を確かめては撫でるように指股に薄い布片を差し込んでいく。直手で仏像に触れないよう左手で台座をくるみ、二尺八寸もある金剛仏は、磨き終えるまでにゆうに一刻はかかってしまう代物であった。
木片に刃を入れることすら許されていない修行中の身の上でありながら、朝夕の手入れ時には湧水でみそぎを済まさなければ堂にすら立ち入らない市(いち)助(すけ)に、師匠であり大仏師の上樂(じょうらく)は少しだけ面白そうに片眉を上げる。
「魅入られるは仏師の素質でありますれば」
 仏像を彫る職人を目指すならば磨くのも一生、そう言って、市助の気の済むようにさせてくれるのが常であった。
 四月に慶応と改元されてから早四カ月。武蔵野の風景も少しずつ変化してきた。
当世は動乱の世でもある。
新選組などと息巻く武蔵野の若者達はいったいどうなってしまうのか。
しかし当世が動乱の世であるのならばなおのこと、腕の中の白鳳仏を心より磨かねばなるまい、市助はそう決意するのであった。
「市助様、白鳳様のお手入れでござりますか」
本堂正面にひっそりと立つ鮮やかな緋色の着物を身に着けた年の頃十六、七の少女の姿を認め、市助は糸目を和らげた。
「お鈴さん、どうされました」
「もう昼九つを半刻も過ぎております。昼食をお持ちしました」
 お鈴が風呂敷包みを上げて笑む。
「これはかたじけない。昼刻の鐘の音をすっかり聞き逃しておりました。上樂様は?」
「父は先に済ませてござります」
 市助は頷き、布にくるめたまま白鳳仏を香炉脇の床に安置すると、蒸し暑い本堂を出たのであった。

 本堂を出ると八月の熱射に照らされ、市助は右手でひさしを作った。
「これは暑い。しかし不思議と空気は乾燥しておりますような」
「茅葺屋根の下はきっと涼しいでしょう」
 数十歩先にそびえる薬井門まで歩く道すがら、お鈴の抱える弁当の風呂敷を黙って引き受けるとお鈴は少しだけ嬉しがった。市助はお鈴の控え目で素直な性分が好ましかった。 
茅葺屋根の日陰に入り、二人は遠慮するように門の端に蓙(ござ)を敷いて、並んで腰掛けた。
「白鳳様の魅力はその純粋で優しいお顔立ちにござりますか?」
 昼食を忘れ手入れに没頭していた市助をからかうようにお鈴が笑う。市助も少し笑った。
「白鳳様を磨いていると心が洗われる気持ちになるのです。左手の五指からは宝珠をもたらし甘露水を降らす。あの仏さまは、まさしく衆生の希望でござりましょう?」
 お鈴が握り飯を持ったまま、すっと視線を上げた。黒目のふちに朱が走り、白目の清廉さは市助の網膜に反射する。
「鈴のことも......もっと見てくださりませ」
蜜桃のように頬を染めるお鈴は眩しくて、市助はそっと視線を逸らした。自分はもう二十二にもなるのに、お鈴の愛らしい瞳に見つめられる度にはやる心臓が恥ずかしく、身体の芯はしびれるような心地があった。
遠くを望めば多摩の松林の青々とした緑が盛夏をいろどり、左右に分かつ池中の島には祠がいくつも祀られている。
市助はふいに幼き日のことを思い出した。まだ十に満たない自分を「いち兄さま」と慕い後を追いかけてきた四つのお鈴。
もみじのような手を握り、遠くに傾く夕焼けの扇状に輝くその息を呑む美しさを。
「深大寺は真に美しき場所にござります」
「はい」
 お鈴が秀でた額を空に向けた。
その時、風が凪いだ。
直後に地鳴りのような轟音が響く。
「な、なに? ア! 熱い......ッ」
 お鈴が手を伸ばすより早く、市助はお鈴を懐にかき抱き、本能的に門を飛び出していた。
「ああ......市助様、そんな......」
 お鈴の瞳は恐怖に染まっていた。
 木々がざわめいている。鳥獣はキィキィと警戒の鳴き声を仰ぎ、堀に四方を囲まれた本堂、太子堂の方から僧侶の声が、庫裡(くり)からは女房衆や子供の悲鳴が聞こえた。
 空が夕闇にあえいでいる。
赤紫の火花を一面に散らし、灰塵が風に攫われ雪のように舞っている。
 ――深大寺は炎に包まれていた。

「あ、あ......そんな、深大寺が......」
 ひざから地面に崩れ落ちるお鈴を背で守り、吹き付ける熱波にチリチリ全身を晒されながら、市助は鋭利な刃物の切っ先で背を撫ぜられるような恐ろしさを感じていた。
(......深大寺が燃えている......)
 風の関係なのか炎が到達しない薬井門の太い柱の陰に身を隠しながらも、視線は本堂から外せなかった。なぜもどうしても混乱の渦の中。本堂は龍がとぐろを巻くように太い火柱にからめとられ燃え盛り、火の玉がまやかしのようにそこかしこで生まれては市助の頬を叩いた。熱湯に肩まで浸かったような動悸と汗が幾筋も顎先から滴り落ち、時折薬井門を吹き抜ける熱風は炎を吐く地獄の使者のように容赦がなかった。
「市助様、逃げましょう!」
 お鈴が背に片頬を押し付ける。市助は頷きかけ、動きを止めた。
(――白鳳仏が本堂に取り残されている)
 どっと鼓動が嫌なふうに高鳴った。
 いけない、あれを残してはいけない。あの仏像は衆生の希望なのだ――!
 市助はそっとお鈴を振り返った。お鈴は市助の瞳に宿る意志を悟って瞳を潤ませた。
「いや、いやでござります......行かないで」
 泣いてうつむくお鈴の頭を抱き寄せたい。――抱き寄せられない。
「希望を取り戻さなくてはなりませぬ」
「あの炎の中では無理でござります。......鈴はあなた様が大事です。白鳳様よりも」
 潤んだ瞳ですがりつくお鈴が愛しかった。
 それなのに、市助の両手はこぶしを握り、優しい言葉の一つもかけられない。
「お許しください」
そう言うと、もう振り返らなかった。
「市助さまあっ!」
 お鈴の悲痛な叫びが背を打ったまま、市助は炎の本堂に飛び込んだ。

 足を踏み入れた瞬間、猛烈な熱風と空気圧に押され、市助は一歩よろめいた。
(こ、これはひどい......)
あちこちで炎を吹き上げる本堂は、今にも崩れ落ちそうだった。どす黒い煙が充満し視界もかすんでいる。とっさに屈みこんだがわずかに煙を吸ってしまい、空咳を繰り返すと喉が焼けて痛かった。黒煙と炎に眼球が乾いてひりひりする。炎塵で腕や首に火傷を作りながら必死に周囲を見渡すが、白鳳仏の姿を見つけるのは困難を極めた。炎火は激しく燃えうねり呼吸もままならず、焦りが募り始めた頃、市助は堂の奥の香炉脇で何かが燃えていることに気がついた。
(白鳳様!)
 飛びつくように白鳳仏の元に辿りつくと、たもとの帯で素早く火種を消した。白鳳仏は災厄の中でもその穏やかな微笑を絶やしてはいなかった。市助はほっとしたのも束の間、すぐさま踵を返し、唖然となった。
「あ......」
 そこはすでに炎の海。堂は一筋の光すら通さない一面の業火に埋め尽くされていた。
 この状態は――これではもう戻れない。
 市助は腕の中の金剛仏をそっと床に下ろすと、力が抜けてその場に座り込んだ。
(私の命もここまでか――)
 燃える炎は絶望と共に今や市助の袴の裾近くまでチロチロと舌を伸ばしていた。  
(白鳳様、最後までご一緒いたしましょう)
 瞳を閉じて覚悟を決めた時、脳裏に浮かんだのはお鈴の顔だった。
 愛らしい笑顔ではない。泣き顔だ。それが最後のお鈴の表情だとは、少し寂しい。
(お鈴さん......本当は無事に戻れたらあなた様を妻にしたいと上樂様にお願いしようと思っていたのです。今度こそ抱きしめたかった)
 それも今はもう叶わない――。
 市助の頬に何かが穿たれた。
 ぽつん、ぴちゃん。
 この熱気の中ではすぐに蒸発してしまうけれど、それは炎ではない、儚い感触であった。
(なんだ......この感触はまさか、しずく?)
 天井を見上げても紅蓮が全体を覆い、水滴などどこにもついていない。それなのに、堂の中がわずかに湿気を帯び始めた気がする。
 いったいこれは......? そう思考を巡らせる間もしずくは絶え間なく降ってきた。最初は一滴だったのが、二滴、三滴と増えていく。
 そのうちに炎を打ち負かす勢いの豪雨に変わり、朽ちかけた本堂を滝のように打ち始めた。あまりの出来事にぽかんと口を開ける市助の口中にも大粒のしずくが滴り落ちる。
しずくは舌の上で溶けると甘かった。
(なんとこれは甘露のようだ!)
 驚き、市助ははっと床に鎮座する白鳳仏を振り返った。吸い寄せられるはその左手。
白鳳仏は――釈迦如来倚像は――衆生の願望に応えるもの。その左手の印相からは宝珠をもたらし、甘露水を降り注ぐ――。
市助の胸の内に奇跡と歓喜が満ち溢れた。
(――白鳳様がお助けくださった)
とめどなく涙が溢れ、またしずくとなった。

そうしてからからくも助け出された市助は、泣きながら市助の胸を叩くお鈴を今度こそ抱きしめたのであった。

町田さくら(東京都稲城市/34歳/女性/会社員)
『盆踊りの日、やぐらの前で待っています。河童』
 朝、学校の下駄箱から落ちて来た手紙には、角張っていかにも生真面目そうな筆文字で、そう書いてあった。
 私は言われた通り、深大寺の深沙大王堂前に組まれた、小さなマンションくらいはありそうなやぐらの前で待っていると、河童は走ってやってきた。
「よく来てくれました」
と言って身をくねらせた河童は、おろしたてみたいに糊の効いた甚平を着ていた。はだけた胸は本来鮮やかな緑色なのだけれど、朱色の提灯に照らされて黒っぽく光った。
河童は何か言いかけて、酸欠の金魚みたいに嘴をぱくぱくとさせた。それから急に思い切りよく駆け出して、やぐらの上まで一気によじ登り、太鼓を叩く子供たちの前で踊りだした。それは盆踊りとはまるで違う、つま先立ちの小刻みなステップを踏んだかと思えば、掌の大きな水かきを目一杯広げて、飛び魚のように弧を描いて跳ねる、見たことのない独特な踊りだった。
「やあ、失礼。どうも血が騒いでしまって」
息を切らして戻って来た河童は、さっきと
違って大きく構えた感じになっていた。
「今日、お呼び立てしたのはですね」
河童は懐に手を入れると、おもむろに白い封筒を取り出し、早口でこう言った。
「これをあの、フ、フミエさんに届けて頂くわけにはいかないでしょうか」
 フミエというのは市外の介護施設に暮らす私の祖母である。
 頭上の皿を深々と下げながら私の顔色を何度も伺う河童は、元のもじついた河童だった。

次の日、私は祖母に会いに行った。祖母は最近では窓際の定位置に車椅子をつけ、ぼんやりと過ごしていることが多かった。
 河童が帰りに持たせてくれたそば饅頭と一緒に手紙を渡すと、祖母は早速老眼鏡をかけ、封筒を開けた。
見ると、時代劇のような蛇腹折りの長い紙に、やっぱり角ばって緻密な筆文字がびっしり並んでいる。祖母の心がぽきりと折れるのがわかった。近頃の祖母は、しょっちゅう心が折れるのである。遠い目でその蛇腹折りをひとしきり眺めただけで、再びそっと折り畳みはじめたものだから、私は慌てて、音読しようか、と提案した。祖母は案外、気楽そうに承諾した。
手紙には、こう書かれていた。
『前略フミエ様、大変ご無沙汰いたしております。あれからもう五年になります。お体の具合は如何ですか。
貴方様が突然のご病気で、今は専用の施設に移り住んでいらっしゃることは、ある日偶然、風の便りで聞かされました。このようなこととわかっていれば、貴方様のお辛いときに少しでも力になれたか知れないのに。役立たずの河童をどうかお許しください。そしてまた、よくぞご無事でいてくださいました。
貴方様がご存じの、若造のわたくしなら、このような文など書いている間にも、貴方様の処まで飛んで参ったでしょう。それが、今のわたくしには叶いません。河童は長寿といいますが、いったん老いがくれば急激です。この五年、わたくしにとってとても長い歳月でした。河童の老いは皿の渇き具合でわかります。そちらに着く頃には干からびてしまうでしょう。情けないことです。ですが、そうやって嘆いておりましたら、ちょうど、貴方様に瓜二つ、とはいかないまでも、ふんわりとした可憐な雰囲気、ふとしたときの横顔などは貴方様をそっくり引き継いでおられるお孫様が、わたくしの目の前に現れたのです。それはそれは胸が躍りました。文でも書かずにはいられなくなりました。
わたくしは本当に、この手紙が貴方様のもとへ届くことを願っております。
さあ、あまり長くなっては貴方様に嫌われてしまいますね。実は、今度の文に書くことはもう決めてあるのです。もしお許し頂ければ、ということですけれども。河童』
読み終えて祖母を見ると、いくらかしっとりしたような表情で首を微かに傾け、ふう、と色っぽい吐息を漏らすので、私は思わず視線を逸らした。
祖母はたっぷり間を置いてから、
「返事を書くわ」と言った。
祖母はもともと筆まめな人だけれど、脳梗塞を患ってから文字が覚束なく、年賀状さえ書けなくなっていた。なので祖母が言ったのは、私に代筆を頼むという意味である。
最初の代筆は、
『ご無沙汰しております。
お手紙嬉しく拝読しました。
老いは容赦のないものです。
どうかお体を大切に。』
というたったの四行で済んだ。
拍子抜けする私に、祖母は涼しい顔で、い
いのよ、と答えるばかりだった。

河童の二通目はすぐに来た。
『ああ、まさかこんなに早くお返事を頂けるなんて、思いもしませんでしたので、大変浮かれております。声に出して読み返しておりますと、フミエ様のお声を久方ぶりに聴いたような錯覚を覚えるのです。わたくしはしあわせ者です。
覚えていらっしゃいますでしょうか。はじめてフミエ様に出逢ったのは、盆踊りの日、やぐらの前でした。あの時も、こんな風に浮かれたものです。わたくしの踊りをフミエ様は大層褒めてくださいました。河童の家にはそれぞれ、代々伝わる舞があるのです、と説明しましたら、フミエ様は教えて、と仰いました。それからわたくしたちは、暇を見つけては深大寺で落ち合い、舞の練習をしたのです。はじめのうちはかなり熱心に練習したので、腹を空かせて帰りがけに蕎麦を頂くのも常でした。わたくしは元来、食わず嫌いのたちで、それまで蕎麦など口にしたことはありませんでしたから、深大寺の蕎麦の味は、フミエ様に教わりました。わたくしはこの辺の湧き水で生まれ育ってきたものですから、その水にさらされた蕎麦の風味がとても喉に心地よく馴染んだものです。云々』

祖母の二通目はこうだった。
『この前はそば饅頭をご馳走様でした。お礼を忘れていてごめんなさいね。孫と二人で、懐かしく頂きました。あなたには舞の才能があると、あのときの私は自信たっぷりに言いましたね。けれど考えてみると、私は舞のマの字も知りません。今更ですが、お恥ずかしい思いがしました。残暑の厳しき折、どうぞご自愛を。』

こんなやりとりが週に一、二通の頻度で、二十は往復しただろうか。そこには若かりし祖母が、見合いの日にも、赤ん坊を抱いて退院した日にも、夫の四十九日にも、何も特別でない日にも、何をするでもなく河童と二人で深大寺の森を歩いたり、門前に並ぶ店々でそば団子をつまんだり、きまぐれに植物の苗を買ってみたり、木陰に腰掛け今日一日のことを話し合ったりしたことが鮮明に綴られていた。
祖母は相変わらずの短文だったから、ほとんどは河童の手紙から知り得たことだ。

 河童の最後の手紙を受け取った日、祖母はそれを読むことなく亡くなった。
通夜の前日、私は家族が別室で休んでいる隙に、祖母の亡骸に手紙を読んで聞かせた。
 手紙はいつものように、『覚えていらっしゃいますか』という一文から始まり、後半、深大寺に隣接する神代植物公園でのある日の話に移った。すると俄かに語調が変わってきたのだった。
『わたくしはあの大輪のバラの前で、フミエさんを人の中で最愛だと言いました。これ以上、信頼の置ける人間にまだ出逢ったことがないのも事実です。時に方向性の揃わないことがあっても、途方もない種族の違いを思えば、何事も素晴らしい遭遇に思えたものです。
しかしあのとき、人の中で、と言ったのは間違いでした。世界中の全河童を含めても、わたくしはフミエさんのことが誰より、忘れられなかったのです。』
 読んでしまうと私は、文面の熱っぽさにおかされて、少しの間ぼうっとしていた。そうしながら、祖母がまた艶っぽく微笑するのを待っているような気になった。
祖母の頬は、上気したように子供じみた色のファンデーションを載せられていたけれど、触れると冷たく、弾力を失っていた。

告別式の後、私は河童のもとへ向かった。
河童は水の湧く岩場に腰掛け、私が言いだ
す前に、すでに一人で泣いていた。
「フミエさん、とうとう逝かれたんですね」
手紙を渡せなかったことを謝ると、河童は大きく腫らした目を無念そうに伏せた。
「仕方のないことです。人は短命な生き物ですから」
 河童はその手紙を焼くと言った。手元に置いておくよりその方が、もしかしたら祖母に読んで貰えるかもしれないから、ということらしい。
「あちらで旦那様と笑い話にでもして頂ければ本望です。きっと罰は当たらないでしょう」
 深大寺の森の寝静まる頃、私と河童は深沙大王堂の前で、ひっそりと手紙を燃やした。
河童は、細かな灰になって飛ばされていく手紙の周りを、小刻みなステップで舞った。
私の頬にぽつりと降ってきたのは、河童の涙だった。

浦野 奈央子(千葉県習志野市/34歳/女性/無職)
 こうやって深大寺の境内に来ると、いつも、もう一年経ってしまったかという気持ちになる。
それと同時に、また一年家族が息災に過ごせてきたことへの感謝がゆっくりと込み上げてくる。
 さすがに恥ずかしくて手までは繋がないものの、すぐ傍らには妻がそっと寄り添い立っている。
互いの存在を感じられるが、決して邪魔にはならない立ち位置。
二人で築き上げてきた絶妙な距離感である。
「また一年、経ちましたね」
 妻が言う。
「ああ」とだけ私が応える。
会話は数ではなく深さであると、これも二人で築き上げてきた関係性のひとつである。
連れ添ってすでに半世紀ほどを迎えるが、必ず結婚記念日には妻と二人でこの深大寺へ参拝に来ることにしていた。
 子供が小さい時は子供を連れて来たり、今でも子供達や孫達と一緒に来たりすることもある。
別に何をするわけでもなく、二人で、時には家族皆で本堂にお参りをして、馴染みの店で蕎麦を食べて帰る。
 本堂へのお参りが終わると、決まって私が妻に聞く。
「そばでいいか?」
 すると妻が控えめにこう応える。
「はい。おそばがいいです」

 妻との馴れ初めはお見合いだった。
縁談を勧められたのは会社の上司からであった。
当時二十代後半に差し掛かり、だいぶ仕事にも慣れてきた頃だったので、私もそろそろ所帯を持たなくてはと考えていた。
彼女の初対面の印象としては、正直、見た目は際立っての美人と言うわけではないが、派手でもなく、さりとて地味すぎるというのでもなく、小柄ながら質素で清潔感のある品の良い女

性だと感じた。
今にしてみれば、その落ち着きの中に隠されている芯の強さを見誤るほどに、大きな声では言えないが、いわゆるこちらの一目惚れだったのである。
 彼女と逢うのはもっぱらここ深大寺界隈だった。
私が勤めていた会社が深大寺に近かったことと、信州生まれの私の好物が蕎麦であったからに因る。
 当時から田舎者であり、口下手でもあり、金もなく、仕事以外にこれといって趣味らしいものもなかった私は、当然ながら女性を喜ばせる洒落た会話など出来るわけもなかった。
と言うわけでその時も、別に何するわけでもなく、黙って境内を歩いたり、辺りを散策したり、木陰に座って休んだりを繰り返すだけだった。
そしてお腹が空くと、「おそばでもいいですか?」と聞き、決まって控えめにそっと頷いてくれる妻と一緒に馴染みの蕎麦を食べた。
 何度か彼女とこのような拙い付き合いを重ねていくうちに、私はふと不安に襲われるようになった。
私は、完全に妻に入れあげていたため、彼女と逢えること自体が嬉しく只々毎日が有頂天になっていたのだが、果たして彼女は私と一緒にいて楽しいのであろうかという根本的な疑問が

突如として湧いてきたのである。
 私よりも垢抜けていて、女性の扱いに慣れた男達なんぞ、その頃の東京にも文字通り掃いて捨てるほどいた。
私同様、口数も多くなく、慎ましやかな彼女は、終始愛らしい笑顔は見せてくれているものの、今ひとつ本心が読めないところがあった。
 いったん疑心を持ってしまうと、そのことがかえって焦りとなってしまい、彼女の前での私を一層慌てさせた。
 焦れば焦るほど萎縮してしまい、会話の糸口がまったく見つからない。
頭を振り絞っても一つの気の利いた言葉も出てこずに、必死になっているからこそ相手の話しへの受け答えすらも疎かになってしまう。
 完全な空回りで、私はすっかり自分を見失っていた。
 しかも、さりとて直接、妻の気持ちを確かめてみる勇気もなく、一か八かの結婚の申し込みをする度胸なんてものも、その時の私にはなかった。
 薄氷を踏むような思いで彼女の優しさを試し、その笑顔に甘えることで、今想えば蛇の生殺しみたいにずるずるとそのあまりにも曖昧な関係を終わらせることなく、出来るだけ長く引

っ張ろうとすることだけに腐心していた。
 月に数回という頻度で、ここ深大寺での逢瀬を重ねて一年ぐらいが過ぎた頃のこと、明らかに妻の態度がこれまでと違う日があった。
 お面のように整った笑顔が表面には貼りついているものの、ひとつひとつの挙措や言動の端々に、笑顔には隠しきれていない苛立ちや不機嫌さが透けて見えるような気がした。
 この頃になると、私も彼女の性質の深淵に、第一印象から受けた控え目なものだけではなく、その芯に秘めている頑固さというか、ある意味の強さや激しさみたいな気質があることに

も気付き始めていた。
いよいよ彼女に愛想を尽かされるのではないかと、顔を合わせた瞬間から胃が痛くなったことを昨日のことのように憶えている。
 頭の中身を総動員してさえ、何とか妻の気を引く話題を、それでも断続的にしか提供することのできない私に、その日の彼女はいつもより口数少なげで、どこか投げ遣りに頷くだけだ

った。
 結局、妻の機嫌を少しも回復することが出来ないまま別れの時間が近付いてきてしまった。
仕方なく、敗北感に苛まれながらも最後、いつものように彼女を食事に誘ってみた。
「ごめんなさい。じゃあ、今日も、おそばでもいいですか?」
 すると普段はそこで軽く頷くだけの彼女が、思いっ切り首を横に振ってぴしゃりと言い放った。
「いいえ」
 突然の彼女の豹変ぶりに唖然としてしまい、私は何も返すことが出来なかった。
 すると彼女は大きな溜息のあとで、畳みかけるように捲くし立てた。
「いい加減にしてください」
 もはや妻の顔にあったのは笑顔ですらない。
「そもそも、なんで謝るの?」
 眼には凄味すら宿っている。
「でもってなんですか?」
 小さな肩がぷるぷると小刻みに震えていた。
 彼女の怒りの大きさを物語っていた。
 そして、妻は周囲も振り向くほどの大声で叫んだ。
「おそばが、いいんです!」
戸惑いながらも、「ん?」と首を傾げる私に、更に苛立ちを露わにする彼女。
「私は、あなたのおそばがいいんです!」
 眉が吊り上がり、顔は真っ赤に紅潮していた。
「いつまで待たせるつもりですか?」
 一歩一歩と私に詰め寄る妻。
「だから私を貰ってくださいとまで、私の口から言わせるつもりですか?」
 彼女の迫力に圧倒され、じりじりと後退りするしかない私。
「ずっと私のそばにいてください。結婚してくださいって、今すぐ言ってください!」
 あとから妻に聞いた話だと、彼女の方も最初に逢った時から私に対する好意を感じてくれていたという。
呆れるほどの不器用さを差し引いても、一生懸命で誠実なところを評価してくれたらしい。
それでもいつまでたっても煮え切らない私の態度には、いい加減堪忍袋の緒も切れたと、これは今でも何かあるごとに茶化される。
 こうして、表面上は亭主関白を装いつつも私が尻に敷かれる二人の生活が始まった。

 今日も、縁結びの感謝を込め本堂へのお参りを済ませると、後ろも振り返らずに私が妻に聞く。
「そばで、いいか?」
 すると妻の優しい声が私の背中にそっと降りかかる。
「はい。おそばがいいです」
 決して良いことばかりではなかった。
 時として激しい妻の性格を持て余したこともある。
 折につけ私の優柔不断なところにやきもきさせたこともあっただろう。
 よく衝突もした。
 喧嘩もたくさんした。
 それでもひとつひとつ二人で一緒に乗り越えてきた。
 そんな私たちは来年、金婚式を迎える。
 これからも、ずっとそばがいい。


後藤 武司(長野県松本市/40歳/男性/会社員)
都心の高校から調布駅に着いた後、布多天神を通り過ぎて、中央自動車道の下をくぐる。何かの境目のような小さな橋を渡ると都内にありがちな山を切り開いた住宅地。当時の流行に取り残されたままのまちまちな家の間を登れば、急に空気がひんやりする。蝉の鳴き声の密度が増して、人間様が威張っていた街はどこへやら、暗い木陰には何かが息をひそめているようにさえ思えた。緑はやけに青々とみずみずしくて、身を寄せ合うようにそば屋の赤提灯が並ぶ。ここへ来ると、茜は本来の姿に戻るのだ。
「おばちゃーん、ざる二つねー」
茜は夏服になったばかりの制服がしわになるのを気にすることなくごろんと畳に寝転んだ。本来の姿、といっても狐の耳が生えてくるわけではない。猫がはがれて、ズボラになるのだ。
「おい、花の女子高生、人前で寝転ぶな。」
「人前じゃないじゃん、そば屋の中じゃん。」
くああとのどちんこが見えるぐらいに大きなあくびをする茜を見て僕はため息をついた。
頬杖をついたまま寝転んで腹をポリポリ掻いている姿はまるでおっさんだ。
学校ではぴっちりアイロンがかけてある制服に身を包み、シャンプーの香りときれいなうなじにドキドキしてしまうポニーテールで、「茜ってかわいいよな」なんて噂されてる奴と同一人物なんて思いたくない。
「女子高生って初々しくて清楚でバラ色のほっぺをした、マシュマロのような存在だと思っていた僕の憧れを返して。」
茜はどっこいしょ、と起き上がってフンと鼻を鳴らした。
「え?ショータローの憧れとかどうでもいいから。」
そうですか。どうでもいいとかお前に言われたくないぞ、ズボラ女め。
「あれ、ショータロー、怒ったの?怒ったの?」
茜がにへらにへら笑いながら面白がって僕の顔を覗き込んできたから、僕は怒りで顔が赤くなった。茜はそれさえ目ざとく見つける。
「うわ、顔、真っ赤。」
「怒って赤くなってるんだ。近寄るな、ズボラがうつる。」
ひっぱがそうと茜の頭を押したら、思いのほかすんなり引き下がった。いつも空気を読もうともしない茜にしては珍しくてどうしたのだろうと今度は僕が茜の顔を覗き込む。おじちゃんの重い蕎麦切り包丁の音が聞こえた。
「ズボラ......か......。」
なぜかシュンとする茜。二つに束ねた髪はアンゴラウサギよろしくクタンと力なく垂れ嵯下がっていた。こいつがスキンケアとか絶対ありえないだろうに、咲いたばかりのクチナシの花を思い起こさせるしっとりと白く柔らかい肌は下を向いている。ヒグラシの鳴き声が哀愁を加えるから、なんだか僕が悪いことをした気分だ。がざがざと長靴を引き摺りながらおばちゃんがやってきた。
「なんだい、またケンカかい。さ、ざる二つ。さっさと機嫌直すんだよ。」
おばちゃんがゴトンとざるを置いた。途端に茜はレバーを全開にしたかのごとき笑顔になる。
「いただきまっす!」
この単純さに僕はあきれてしまった。心配して損した。ふてくされた僕はまるで恋敵ででもあるかのように箸で蕎麦をぶつぶつ切った。
 茜はがざつよろしくいつものように割り箸をバリッと折るかに思えた。
 だけど、今日は違った。
 箸の先端から指十一本分数えて上にのぼるとそこでやけに慎重に箸を割る。
 あ。
 と僕は気付いた。こんなことがときたまある。
 茜、好きなやつできたんだ。

「割り箸の先からね、好きな人の名前の文字の数だけ指で上にのぼって箸を割ってね、
きれいに割れたら両想いなんだって。」
茜にそう聞いたのはもう十年も昔の話だ。小学校が近いこともあってこのお寺の境内でよく友達と遊んでいたけど、僕と茜だけが鍵っ子なのでいつも最後はふたりになる。今日のように雨が上がったばかりで空気にぴしりと洗濯糊がかけられたような日だった。突然お参りしよう、と茜が言い出した。なんで、と僕は聞いた。線香の匂いが漂ってくる。
「ここ、えんむすびにいいんだって。」
茜はここにカッパのミイラがあるんだって、と明かすかのように僕に耳打ちした。僕はえんむすび、が何かはよく分からなかったけど、本殿の前で薄目を開けると茜が真剣に手を合わせていたから大事なお願いをしているんだなと思った。僕はいつもの境内になにかが潜んでいる気がして落ち着かなかった。
 母さんたちが持たせてくれた小銭を握りしめて、僕らはどうしてか黙ったままおばちゃんの所で夜ご飯がわりの蕎麦を食べた。やけに慎重に箸を割ったあと、変な形に割れた割り箸の割り口を茜はしげしげと見つめて、もそりと陳腐な占いのことを話した。
 
茜、好きなやつできたんだ。
 いつも、茜がこんな風になるとぼくは変な気持ちになる。十年前もそうだった。今だって変わらない。僕の長い名前を数える前に茜の細い指が箸を割ってしまうからだ。ジェットコースターで急降下した時に内臓がふわっとするあの感じとか、サウナから水風呂に飛び込んで全身が変に硬直する感じに似ている。自分のしたい表情と本当の感情との間で顔の筋肉がひきつれる。さすがに隠すのが上手になったけど、小さい頃は自分でも訳のわからないまま泣き出して茜を驚かせたこともあった。もう少し大きくなってからは茜がいくつの文字の人を好きになったか確かめて、必死に誰なのか特定しようとしたりした。
 だけど今は、僕は自分の気持ちに気付いてしまっている。
 茜は普段はだらしなくても学校ではなぜかきちんとしているし、男子とも女子とも気さくに話すから、時々茜が誰々に告白されたなんて噂を聞くこともある。意外な奴から「稲泉、お前茜と付き合ってんの?」なんて聞かれることもある。ただの幼なじみだと事務的に答えてやるけれど苦虫を噛み潰すような気分だ。急にふわんとした女子っぽい体つきになったのも危なっかしくてしょうがない。
それでも、誰か、を特定しようとしたりはもうしない。長い恋というのは変な自信になるものだ。考え事をしていてふと爪を噛んでいることに気付くように、毎日のふとした瞬間に茜は今何をしてるんだろう、何を考えてるんだろうと想像を巡らしてしまう。気付くと茜の一挙手一投足に僕にしか読み取れない意味を見出そうとしている。茜が誰かと付き合ったって結婚したってかまわない。それで幸せになれるとは限らないからだ。茜が好きになった人たちがみんな年をとって死んでしまうまで茜のことを好きでいる自信が僕にはある。誰がこんなに茜に執着できるだろう。初恋の人を思い続ける僕の恋は確かに一般的にみたら純愛かもしれないけれど、僕は密かにこの気持ちを恋なんて気まぐれで甘ったるい名前で縛らないでほしいと思っている。
茜は今も殊勝にもこのへんてこな割り箸占いを信じているらしい。だけどおかげで僕が茜に好きな人ができたことを察しているなんてちっとも気付いてない。
 茜さえ知らない、僕が知ってる茜の事。
 その一つが茜のこの癖なのだ。あれだけ僕を苦しめた、苦い思い出のある割り箸占いにさえも今は甘い優越感を感じている。
 さて、今回の相手は十一文字だったが、まためったにないくらい長い名前だ。久しぶりに考えてみる。十一文字。十一文字......。
 
あ。
 いないずみしょうたろう。
僕だ。
 思わず、茜のはしを見た。ずぞぞぞとそばを鯨飲する茜が握った箸は、これでもかというぐらいにきれいに割れていた。
「......茜さあ、好きな人いるの?」
ごふっと一回目は本気でむせて、二回目は取ってつけたように咳払いしてみせて、茜は澄ました顔をつくった。
「マシュマロのような女子高生だもの、いたっておかしくないでしょ。」
まだ根に持っているんだ。僕は茜をかわいく思ってこっそりほほえむ。
「それってさ、」
さっきむせたそばが変な所に引っかかったのか、茜は涙目だ。綺麗に割れた箸に後押しされて僕は言葉を繋いだ。
「僕?」
ぴたり。茜の動きも、洗い物をするおばちゃんとおじちゃんの音も、外で小学生が騒ぐ音も、ヒグラシの鳴き声も、はまりの悪いガラス窓を揺らす風の音も、一瞬、全部が止まった。地球上の全ての音はロケットエンジンのように拍動する、僕の心臓の音だけだった。
 ずぞぞぞぞぞぞ。
 箸をつかんだまま固まっていた茜が突然蕎麦をすすりだした。あっという間に最後の一本まですごい速さで食べ終える。
「ごちそうさま!ショータローの奢りね。」
ぱっと籠から小鳥が飛び立つかのように茜は椅子を蹴って逃げようとした。
 僕は咄嗟に茜の手を握った。奢ってたまるかという気持ちと、茜を好きって気持ちと、返事を聞きたい気持ちと、その他ありったけの気持ちを込めて。
「逃がさないよ。」
と僕は笑った。

金子 朱里(東京都八王子市/19歳/女性/学生)
 ばあちゃんに薔薇を観に行こうと誘われたのは、例年より十日ほど早い、五月の半ばのことだった。大学入学と同時に、吉祥寺の実家を出て一年が経つ。待ち合わせ場所は、実家からバスで三十分の距離にある神代植物公園。薔薇園が見渡せるテラス席に着くと、不機嫌なばあちゃんがすでにイスに座っていた。
「遅い」
 ゆるくパーマをかけた白髪に、銀の丸縁メガネ、菫色のカーディガン。ここ数年、オレが目にするばあちゃんはいつも変わらない。けれど、その姿が去年よりひと回り小さくなっていることに気づき、胸の奥がしんとする。

「ひとり暮らしは慣れたか、樹」
「......それ毎回言うけどさ、大丈夫だってば」
 毎年、この季節には薔薇展が催されている。今年も例に漏れず、園内には狂ったように薔薇が咲き乱れていた。広大な敷地いっぱいに広がる、赤、ピンク、紫、白、黄の花々の海。そのなかにぽつんと作られた細い道を二人でゆっくりと歩く。オレが小学五年生のときに、ばあちゃんの誕生日にふたりでここを訪れてから、今年で十年めになる。
 ふいに、ばあちゃんが花壇の前で足を止め、しゃがみこむ。視線の先には、濃いラベンダー色の大ぶりな花弁の薔薇があった。風にのって、甘い香りが漂う。ブルーリバー。ばあちゃんのいちばん好きな薔薇だ。
「なんで今年に限って早いの?」小さく丸まった背中に問うと、「今年は約束があってな」。 背を向けたまま、ばあちゃんがつぶやく。
「なぁ、樹。ずっと隠してたけどな、私はこの薔薇園に秘密がある」
 口は悪いけど、根は乙女なばあちゃんのことだ。結婚前にここでじいちゃんとデートしたとか、薔薇のアーチ前でプロポーズされたとか、秘密といっても微笑ましいものに違いない。軽い気持ちで「なに?」と訊ねると、
「浮気しとった。よくここで逢い引きしてな」
 予想外の答えに、オレはあぜんとした。

 ばあちゃん曰く、相手も家庭のある人で、つき合いは十五年ほど続いた。お互いに既婚者であることは知りつつも、出会いは運命であり、恋に落ちる気持ちは止められなかったという(思いっきり不倫のくせに、なんでやたらと乙女チックなんだ?)。ただ、ばあちゃんの弁を信じるなら、「一緒に薔薇やらつつじやら梅やらを見て、お寺さんに詣って、蕎麦を食べる。一日中、カメを眺めてたこともあったな」というじつに清らかな交際だった。
「......それって、そもそも浮気なの?」
 いまどき中学生でもしない、ピュアなデートの内容に疑問を感じてたずねる。
「心はあの人にあった。まぁ、じいさんにも相手がいたから、おあいこだな」
 ーーじいちゃんも浮気してたのかよ。 
 予想外の展開にげんなりしながら、「いまも会ってるとか?」と恐る恐る訊くと、「十年前に姿を現さなくなって、それっきり」。
 寂しそうにつぶやくばあちゃんの横顔に同情しつつ、心の底からほっとした。「墓まで持っていく話だからな。ほかのやつには秘密」
「......まだその人を好きなの?」
 ばあちゃんは答えず、すました顔で薔薇の香りを嗅いでいる。その横顔を眺めながら、
 ーーなんでよりによって、オレに話すかな。
 こっそりため息をついた。

 数日後、ばあちゃんが死んだ。朝、母さんが様子を見に行ったときには冷たくなっていたという。死因は心臓発作だった。心臓に持病なんてなかったのに。あっけなさに、オレも家族も悲しみを忘れて、ぽかんとしていた。 
「形見分け、好きなのもらっていけ」
 通夜や告別式がひと通り済み、下宿先に帰る準備をしていると、親父に声を掛けられた。荷造りもそこそこに、ばあちゃんの部屋のドアを開ける。ラベンダー色のカーテンが陽に透けて、部屋全体が淡い紫に染まっていた。
 ベッドに文机、小さな本箱がひとつ。それらは生前と変わらぬ様子で、きちんと整頓されていた。文机には、ばあちゃんが愛用していたパーカーの万年筆が、行儀良く置かれている。手にとると、ずしりとした重みがてのひらに伝わる。これをもらうことにしよう。
 本箱に視線を移すと、本の合間に見慣れたモロゾフの四角い缶が置かれていた。ガキの頃、ここにお菓子が詰まっていて、よくばあちゃんにもらった。懐かしさに駆られて、蓋を開ける。中身を見て、ぎょっとした。
 下着だった。菫色の上下のセット。精緻な模様を幾重にも重ねたレースで作られたそれは、古びて薄く埃が積もっていた。ふいに、ブルーリバーの紫が目前によみがえる。そして、少女のように無邪気なばあちゃんの笑顔。目の前の下着との落差に、目眩がした。
 下着の下には写真が数枚あった。指先で下着をつまみ、ベッド上に置く。写真の中には薔薇のアーチを背景に若かりし頃のばあちゃんらしき女性と端正な顔立の男がいた。余白には「Iと薔薇園にて」。浮気相手に違いない。
 ーーこの下着を着て、逢い引きしてた? 
 ベッド上で死んだように、ぐにゃりとしている下着に目を向け、何とも言えない気持ちになる。写真は全部で十五枚あった。一九九一年からはじまり、毎年一枚ずつ、日付はすべて五月二十七日。ばあちゃんの誕生日だ。毎年、男に会いに行っていたのだろう。オレと出掛けたのはアリバイ作りのためだったのかもしれない。鼻の奥がつんとした。
 不思議なのは、途中から二人の間に少女が写っていることだ。初めは中学生くらいだった少女は毎年成長し、二〇〇五年、二十歳頃で写真が終わっている。ちょうど、不倫相手が現れなくなった時期だ。
 文机の上のカレンダーに何気なく目をやり、気がつく。明日は五月二十七日。生きていれば、ばあちゃんの六十一歳の誕生日だった。
「そういえば、今年は約束があるって......」
 薔薇園での言葉を思い出す。あれは、どういう意味だったのだろうか。
ーー明日、薔薇園に行ってみようか。
 ばあちゃんが最後にオレにだけ秘密を打ち明けた理由が、わかるかもしれない。

 翌日、正午。薔薇のアーチ前で、オレは目の前に現れた陽炎をぼんやり眺めていた。炎天下のもと、ここに立ち続けてもうじき二時間になる。ばあちゃんの浮気相手どころか、園内に人の気配はない。暑すぎるのだ。
 あと五分待って帰ろう。熱気で茹だった顔を腕時計に向けたとき、「笹原樹さん?」。
 か細い声に振り返る。立っていたのは、三十歳くらいの黒髪の美しい女の人だった。

 植物公園の深大寺に近い出口を出てすぐ、山の中腹にぽつんと一軒だけある蕎麦屋で、オレと女の人は向かい合っていた。
「ご紹介が遅れてすみません。水尾香子です。芳乃さんの恋人だった男の娘です」
 目の前の女性、香子さんが深々と頭を下げる。オレも慌ててお辞儀を返した。
「笹原芳乃の孫の樹です。じつは、祖母は数日前に亡くなって、今日はオレが代わりに」
 香子さんがうなずき、艶やかな黒髪をかきあげた。髮の合間に桜色の爪が見え隠れする。
「このたびは御愁傷様でした。立場上、ご焼香にも伺えず申し訳ありません。父もすでに十年前に他界していて。私も代理なんです」
 裏切られたわけじゃなかったんだ。安堵したオレの顔を見た香子さんがくすりと笑う。「樹さん、大人っぽくなりましたね」
「オレ、あなたに会ったことがあるんですか」
 驚いて訊ねると、香子さんは無言のまま微笑む。ふいに写真の少女が脳裏によみがえる。
「あなたと芳乃さんのことは、よく知っています。この十年間、毎年見ていたもの」
 黙り込んだオレを、香子さんがじっと見つめる。そして、「とうとう話す時が来ちゃったか」とつぶやくと、静かに語り出した。

「父と芳乃さんが知り合ったとき、二人ともすでに家庭のある身でした。そのせいか、終止、清い交際のままだった。たとえば、年に一度、芳乃さんの誕生日に薔薇園で会うというような。昔、待ち合わせする父を尾行したことがあります。二人はこの坂を上って」
 香子さんは、目前に伸びる坂を見つめる。
「人気のない山頂で父は何かを懇願していた。でも、芳乃さんは悲しそうに首を振っていて。その横顔が、ため息が出るほど美しかった」
「......昨日、祖母の部屋を整理していて、その、古い下着を見つけたんです。祖母が好きだったブルーリバーという、紫色の薔薇の、」
「父が贈ったのでしょう。父は家庭を捨てて、芳乃さんと一緒になりたがっていた。芳乃さんは承知しなかったようですが」
 香子さんは悲しげに微笑んだ。
「下着と一緒に写真も見つけたんです。二人と一緒に少女がいた。どんどん大きくなって」
「ある年に尾行がばれてから、三人で会うようになったの。何度も嫌いになろうとしたのに、最後まで芳乃さんを憎めなかった。それどころか、年に一度会うのが待ち遠しくて」
 懐かしげに目を細める。
「今日、なんでオレに声を掛けたんですか?」
「約束したんです。芳乃さんと、薔薇の下で」
 そう言って、香子さんがオレの頬に触れる。
「亡くなった父のかわりにあなたたちを見守る。けっして声をかけない。そして、芳乃さんが亡くなったら、今度は私があなたに会う」
 指先から香る薔薇の甘い匂いに目眩がする。
「やっと、あなたに触れることができた」
 
「では、また」とお辞儀した香子さんがバス停の方角に歩いて行く。夕闇に淡く溶ける後ろ姿を見送りながら、一年後、オレは再びこの薔薇園に来ることになるのだろうと思った。

荻野マキ(東京都)
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