裏高尾から高尾山へ向かう道中での休憩中だった。私は湯が沸いたコッフェルに粉末のスープを入れてそれを愉しんでいた。もう、高い山々は冬を迎えた頃だろう。本当に歩きたい山はもっと遠くにあって、わざわざ近郊のここへやってきたのには私なりの理由があった。
 ここ最近、休みになるたびに母親が愚痴っぽいのから逃れたかったのだった。いつまでも親元で結婚する様子もなく年ばかりとっていく一人息子が、その理由だった。「あまりにくだらない。塾に行くのが嫌な小学生じゃあるまいし」と、自分のことを可笑しく思ったが、毎週末となるとうんざりする。だから雨の週末は本当に気が滅入る。山に行くとは言えないから。何週間か悪天候に苛まれた後だったので、今日は早朝に起きて陣馬高原までバスで入った。少し紅葉には時期的に早かったかもしれない。
 よくかき混ぜながら、スープの最後を飲み干したときにズボンのカーゴポケットに入れてあるマナーモードの携帯電話が振動した。独りの現実逃避の時間に無粋な侵入者。非日常の世界へ出掛けてきているときに、日常とつながるのは好きではない。だが、画面に表示された発信者の名前を見て私は日常との間にわずかな穴をあけることを決めた。
「もしもし?」
「今日は何してるの?どこか遊びに行っちゃった?」
 従姉のいずみからだった。私は肩と耳で携帯電話を挟んで、簡素な食事の後片付けをしながら話をすることにした。
「うん。山」
 からからと向こう側で笑う。全て行動はお見通しということなのだろう。悪いのはその現実逃避の動機まで知られていることだ。
「じゃあ、夕方まで帰ってこないね。どこかでご飯でも食べない?」
 屈託のない調子で言われて私は気後れした。たった一年遅く生まれたというだけで、いずみに私は頭が上がらなかった。
「山降りてから美味しい蕎麦でも食べて帰ろうと思ってた」
「え?お蕎麦?お蕎麦なら深大寺で食べようよ。あのいつものお店の十割蕎麦がいいな。今どこにいるんだか知らないけど」
 蟻と巨人。私のささやかな抵抗は全く悪意のない彼女に、いとも簡単に粉砕された。高尾山の麓にだって良い蕎麦屋が軒を並べているのだということを、今度きちんと説明しなければならない。京王線に乗ったら電話してね、と彼女は最後まで朗らかに言って電話を切った。
 私が母親に心配をかけ続けているその理由のひとつは、いずみにあった。親戚づきあいの中で、私といずみは年齢も近く、いつも一緒に扱われることが多かった。それぞれ一人っ子どうしだったことも影響しているだろう。お互いに仲の良い母親同士は双子のようでもあり、自然と家の行き来の回数も多かった。夏休みにはどちらかの家にずっと泊まって過ごしたり、家族ぐるみで旅行に出掛けるのも珍しいことではなかった。そんな姉弟のような関係が変わったのは社会に出てからのことだ。彼女に結婚しないのかと私は尋ねたことがあった。
 いずみは怖い、と答えた。何かが劇的に変わってしまうのが。
 私はその時、何の気なしに私といずみが結婚すれば問題は解決だと、そんなことを言った。彼女に対して恋愛感情があったわけではなかった。ただ、そうすれば丸く収まるとか、そんな些細なことが言葉の根拠だったように思う。彼女は一瞬大きく目を見開いて、すぐに私の頭を握ったこぶしで軽く小突いた。
「叔母さんから聞いたよ?この前失恋したんだって?」
 私はたいそう慌ててそれが理由じゃないとか、別にいずみのことが好きというわけでもないとか、言い訳を並べ立てた。だが、おかしなものでそのことがきっかけで、私は彼女のことを特別な存在として見るようになった。そして、それは日常の中で自ら進んで恋する相手を探さなくなることと等しかった。
 三十歳を過ぎて周りが次々に結婚し始めても自分は特に何とも思わなかった。自分がそんな調子でも、両親は冷静ではいられないようだった。いずみの家ではそんなことはないのかと聞いたら、「別に」とあっけらかんとしていたのを覚えている。
 頭を振って回想をもザックの中に押し込んだ。冷たい風が山を渡ってくる。やはり、誰か一緒にいた方が秋の山は良い。

 彼女は店の前で待っていた。今日が楽しかったかどうか聞くときに私の心の奥底までを見て微笑むこともないだろう。確かに小言からの逃避にしては悪くなかったが。蕎麦を頼んで出てくるまでの間、私は今日の山のことを話し、彼女は最近の両親の様子を面白おかしく教えてくれた。こんな季節だというのに二人して頑なにもりそばを啜る。中学生ぐらいだったろうか、いずみの家に遊びに行ったときに「深大寺さんでお蕎麦食べておいで」と言われ、彼女の母親にお金をもらったのを覚えている。二人でこんな風に向かい合って、子供だけの外食を楽しんだのだった。
 最後のお茶を飲み干して、店を出るころにはずいぶん太陽は西に傾いていた。寺の境内に沿って急な坂道を下る。どこへ向かうわけでもない。私達は結局池のほとりで足を止めた。
 彼女は黒々とした水面を覗き込むような仕草をしたが、実際に何かを見ているわけではなさそうだった。
「この前、お母さんに結婚のこと言われた。案外きついものなのね」
 彼女の笑いの理由はこれだったのだ。私はどうこたえてよいのかわからずに、曖昧にその言葉を受け取って、そして唇を軽くかみしめた。
「何て答えたの?」
「今、そんな人いませんって言うしかないでしょ。」
 彼女がハイヒールで落ち葉を踏む様を私は見ていた。沈黙というスペースにはすぐに水音が入り込む。
 何年か前に、彼女と一緒に買い物に出掛けたことがある。都内でデパートをいくつかまわって、それぞれの母親に母の日の贈り物を探したのだった。買い物が終わった後、五月の美しい日差しに誘われて私達はビルの谷間の公園を散策した。その時に噴水を背景にした彼女があまりに眩しくて、私は思わず持っていたカメラでその瞬間を切り取った。スナップにしては珍しく上出来な一枚だった。何の感傷がそうさせたか、私はそれをわざわざプリントアウトした。そして、ベッドの枕元に無造作に置き去りにしていたそれ、きらきらした水が踊る様を背負って少しはにかんだ天使のようないずみの写真、を母親に見つかった。
 面と向かって言われることはなかったが、きっとその話題は光の速度にも匹敵する勢いで両家の間を駆け巡ったに違いない。以後、お互いの親の明らかな反対という意思を私は感じるようになった。私が勝手に特別な感情を抱いているだけであるにも関わらず、彼女もそれに巻き込まれるようになってしまった。私はそのことを後日、彼女に打ち明けた。
 もう、幾許もしないうちにほとんどの蕎麦屋は店じまいの時間になる。そのあとの抜け殻の空間に長居をするのは行き場のない学生のようで気が引けた。夏であれば七夕飾りがあったりして、それでも絵にはなったのにと思った。かと言って、この調子では彼女の家に寄っていくのも気が進まなかった。
「さて、どうしますか」
 彼女はそう言って顔を上げたが困ったようにすぐに目を細めた。そして私が逡巡している様を見てとると、急にまた強い従姉の姿になって言葉を継いだ。それは私が全く予期していない言葉だった。
「今、好きな人いる?」
 反射的に何かを聞き返してしまいそうな一撃。私は口ごもりながら答えるのがやっとだった。
「他には、いない」
「他にって、私の?」
 私は自分が怒られているかのように感じたが、微かに何度か頷いて見せた。それほど彼女の語調は強く、有無を言わせない響きが含まれていた。そう、と力を削がれたような気がしたが、それは物事があるべき場所に落ち着いて冷静になっただけに過ぎない。
「まだ、そんなに結婚焦ってない?」
 若干のトーンダウン。結局、彼女は私にイエス以外の返事はさせてくれないのだった。彼女は意を決したように言った。
「じゃあ、待ってて。お父さんとお母さんのこと説得するから。好きな人と結婚するってちゃんと言うから」
 感情が昂ぶりつつある彼女を、私は見ていられなかった。大変なことを言われたのだが、その意味を咀嚼するのはあとの話だ。私は彼女の言葉を手振りで遮った。
「落ち着いて。ここじゃ何だから、一杯やっていこう」
 いずみがさりげない仕草で人差し指の先で目頭に触れるのに気づく。その手が下りるといつもの彼女がそこにいた。
「じゃあ、調布のあのお魚が美味しいお店行こう。私の初任給で一緒に飲んだの覚えてる?」
 勿論忘れるはずはない。その店で私が彼女に結婚しないのかと聞いたのだから。

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<著者紹介>

星川 塩見(埼玉県/42歳/男性/SE)

「おや、蝶はどこへいった。」
 身支度を急いでいる園子に、わたしはぼんやりとした口調で言った。
「蝶? ああ、浴衣の蝶のことね。あれは少し汚れてしまったので、ついでだから、新しく仕立てたの。どうかしら。」
 園子は紺地に鮮やかな朝顔と、つるが美しく曲線を描いているそれを嬉しそうに眺めてつぶやく。
「お園には、やはり蝶が似合うような。」
 わたしは、注染で染め抜かれた幻想的な蝶が奥ゆかしさと、艶めかしさとの両方を孕みながら園子の首筋から足首まで舞っているのを思い出していた。
「まあ、あれ、気に入っていらしたの。だいぶくたくたになっているのに。悟朗さん、帯はこれでいいかしら? 今日初めてそでを通すでしょう、だからちょっと気になるの。」
「とてもいい色合わせだよ。」
 わたしのひと声を聞いて、園子はゆっくりと微笑んだ。
「ねえ、ふたりで深大寺へお参りするのは久しぶりね。」
 言いながら園子は籐の手提げに手ぬぐいや、家の鍵やこまごまとしたものをつぎつぎ入れた。わたしのほうはといえば、慣れない男物の浴衣に着られてしまっていて、妙に身体が硬く、大仰に腹を突き出して居間の柱に肩をあずけて突っ立っていた。
「僕も浴衣なんてなあ。おまえはよい姿かたちだが、どうも僕のほうはいけないな。なにかこう、裸みたいだ。」
 うまく言葉に表せずにいると、
「さあさ、いきましょう。外を歩けばすぐに、浴衣紳士になれますよ。それに、この夏を目一杯楽しみたいとはりきったのは悟朗さんでしょ。なかなか立派な背中よ。」
 園子がわたしの背中へ回り、細い指をしならせてわたしの背骨を柔らかく押した。
 その感触は、布地を透けてわたしの心まで波紋のように広がっていくのだった。
 真夏である。
 てらてらと油のような光沢が、街路樹や、道や建物やゆきかう人々にもあって、それはまぎれもなく太陽の仕業だった。家を出てからすぐに、わたしと園子の額が汗ばむ。
「お参り日和だな。」
 わたしは園子から手ぬぐいをもらって、老いを刻み始めた自分の顔に押し当てる。
 途中、園子がうちわを買うと言って小間物屋に立ち寄った。うちわなんて家にあっただろうに。妙なところが抜けているものだ。そう思って店の外で待っていると(店内が涼しいのは承知していた、だが気恥かしさのほうが先にわたしを笑ったのだ)、園子がさっそくうちわを扇ぎながら戻ってきた。
「これが、欲しかったの。」
 園子の手には、だいぶ小さなうちわが握られていた、うちわの赤ん坊のようだ。
「悟朗さん、本当に要らないの、うちわ?」
 園子がうちわの赤ん坊でわたしの顔を扇いでくれた。
「ああ、かまわないよ、こう暑いんでは、扇いだ風も心地いいものではないからね。」
「鰻のかば焼きみたいな気分?」
「言ってくれるじゃないか。」
「そうだ、お昼ご飯はどうしましょう。」
「僕ら若いころ、深大寺そばの食べ比べしただろう。まだあのそば屋あるだろうか。」
 すると、園子の顔に影が差した。一瞬のことで、またすぐに園子の顔が明るくなって、
「ねえ、おそばもいいけど、鰻重が食べたいわ。」
 おどけたように、園子は笑った。
 園子と結婚して三十年が経つ。
 だがなぜだろう、わたしばかりが年を重ね、園子はいつまでも若いままのような錯覚を覚える。
 浴衣の衣紋からすっと伸びる首は、ビロウドのようだ。
 深大寺までの道のりを、わたしは昭和五十年へ戻る道のように感じながら、もう一度園子の美しさに惹かれながら、電車に揺られた。
 電車からバスへ、わたしたちはひどく緩い時間の中にいた。やがて園子もわたしも、静かに黙ったままになり、寺の周辺に集まるそば屋の間をぬい、本堂のほうへと歩を進めていた。
 強烈な陽光がふたりの影を揺らめかせる。
「日傘を忘れたわ。」
 ぽつりと園子が言った。
「木陰がたくさんあるよ。休みながら歩こう。」
 わたしが適当な場所を選んで園子をうながすと、
「やっぱり、おそば、食べましょうか。」
 園子は視線を向こう側に投げる。
「そうか。腹減ったな。やあ、あの店じゃないか。懐かしいな。」
 奇妙に嬉しくなって、わたしはその重厚な造りの建物へ急ごうとした。
 そのとき、わたしの下駄が小石を踏んで、不快な音が響いた。
 大げさなくらい、たったひとつの音が耳や木の幹や葉っぱにぶつかって跳ね返っている、お祭りのピンボールゲームのボールみたいに。
「どうした。」
 わたしは身じろぎもせず立ち尽くしている園子を見つめた。
「悟朗さん。」
「お園、どうしたんだ。」
「あたしに恋したこと、ある?」
 突然の問いに、わたしの目に映る景色が一瞬にして逆走する夏を捕える。園子とわたしの初めての夏まで戻るのだ。
「そ、そんなの、当り前じゃないか。」
 跳ね返り続けていたあの音は、わたしの胸に当たって落ちた。そんな気がした。
「お見合いだったのよ。」
「お見合いして、それから、好きになったんじゃないか。」
「結婚してからも、ずっと、悟朗さんのこと愛せなかった。」
 初めて顔を合わせた若いふたりは、そのときもこうして、深大寺の周りを歩いていた。暑さとぎこちなさで、互いに疲れてしまい、よろめきながら入ったのが先ほどのそば屋であった。
「お園、暑いから、店に入ってから話そう。」
 わたしは額の汗をぬぐって言った。
 ほんとうに倒れそうだったのだ。
「だから願い続けていたわ。どうか悟朗さんも、あたしのこと愛していませんようにって。」
 園子の瞳は黒々と、三十年後の告白に必死に耐え、また耐えることで逆に活力が滲んでいるようにも見えた。
 わたしは店に入るのをあきらめ、なぜか果物ナイフを思い浮かべた。病気をしてしばらく食欲のなかったわたしに、園子はよく果物を切って出してくれた。よくある光景だが、その平凡さを生涯で知る人間は少ないのだろう、こんな特別な平凡さは、得ようと思って得られるものではないと感じた。あの果物ナイフが今、わたしの手のひらに深く突き刺さっていることも、特別な平凡がもたらす出来事なのだろうか。
「それならば。」
 わたしは幻視の果物ナイフを自ら抜き取ることにした。
「僕は、ずっと片思いだったんだね。じゃあ、これからもずっと片思いするよ。恋することは、自由だろう? だから、いいよ、今の暮しをやめていい。どうしてこんなに長い間、僕と一緒にいたんだい? 若い時代も、時間も、全て失ってしまってからそんなこと告げるなんて。」
 園子は急に力ない目をして、泣いているのか怒っているのか、言ってしまった後悔か、結婚を続けた後悔か、複雑な顔をして、
「愛したかったから。」
 とだけ、告げた。
「......僕は、今、どうしたらいいのだろう。」
 まだ混乱しているわたしは、空腹も手伝って目眩がした。こんなときだって、腹は減るんだな。わたしは自嘲した。
「恋がしたいの。あなたに。」
 園子が言った。
「あたし、すごくひどいこと言ったわ。ひどい女なの。でも、悟朗さんに恋したいのよ。片思いがしたいのよ。これからのあたしを見て、悟朗さんがあたしのこと好きになってくれたら、それでいい。」
 正直、園子が本当は何を言いたいのか、わたしにはわからなかった。ずっと愛していなかった、愛したかったけれど、でも、恋はしたい。他の誰かではなく、わたしに恋がしたい。矛盾と矛盾が重なりあって、もはや園子の気持ちは痛々しいほど純粋なものに高められているのかも知れない。
 園子が纏う少女めいた匂い。
 思えば、園子は見合いをするまで、ほとんど恋らしい恋をしなかったと聞いたことがある。
 それが、園子の人生で育たなかった、恋心の種だとしても、園子とわたしは、もう一度出会わなければならないのだろう。
 唯一、今、確かなことだ。
「そうか。」
 わたしは、園子の言葉を力ずくでも受け入れたくて頷いた。
 園子のほうから、わたしのほうへ、風が吹いた。この暑さの中で、不思議なほど涼しい風だ。
「腹が減ったよ。僕を誘ってくれないかな、園子さん。今、僕、ひとりなんだ。」
 わたしは園子が手を差し出すのを待った。
 わたしの胸が、初恋を知ったときのように高鳴る。
 園子は、わたしのほんとうの初恋なのだ。

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<著者紹介>

山田 夏蜜(北海道札幌市/33歳/女性/自由業)

調布駅北口から、今はまだ夫の菅原大輔が出てきた。会うのは一年半ぶりだ。安物の綿パンに皺だらけのブルゾンを羽織っている。息子の結婚相手とその父親に初めて会いに行く格好ではないが、まあ、いい、どうせ壊しに行くのだから。
大輔はすぐに車の運転席の私を見つけ、駆け寄ってきた。
「いやあ、早い呼び出しだな。名古屋駅で始発の新幹線に乗り遅れそうになったよ」
「相手はおそば屋さんだから、昼食時の混雑前に来てほしいって、良太が言うのよ」
 大輔と私は、二五年前に大手の損害保険会社に入社した同期生で、結婚と同時に私は専業主婦になった。三年前、大輔は、実父が胃癌になったのを機に、実家のある名古屋への転勤希望を出した。本来であれば、私も随行すべきであったかもしれないが、ひとり息子の受験を理由に東京に残った。大輔は、父親の家から、名古屋支社に通勤していたが、同じ職場の二十歳年下の女性と恋仲になった。事態が発覚し、居づらくなったのか、大輔は会社を辞め、実兄の経営する零細企業に移り、実家で彼女と同棲を始めた。父親は半年前に亡くなったが、私は葬儀に参列していない。調布市の自宅を私がもらうことを条件に私達は離婚する約束になっている。
私は車を走らせ、武蔵境通りを北上した。
「親父の遺産相続、兄貴と話がついたよ。来週、家のローンを期限前返済して、綾子の名義に変えるようにするから」
と言って、大輔はポケットから紙を取出した。
「これ、離婚届。綾子の方を記入して市役所に出しておいてくれないか」
「うん、わかったわ。ダッシュボードに入れておいてよ。お父さん、残念だったわね。でも、最後はあなたと若いお嫁さんにお世話してもらえて幸せだったんじゃない」
「あいつとは別れた。いっしょに暮らし始めてひと月で親父と喧嘩になって、出て行った」
「へえ、そうなの。別れたの」
 しばらく沈黙が続いた。車が中央道の高架下を通り過ぎたところで大輔が本題に入った。
「なあ、俺達が離婚するからって、良太の結婚話までぶち壊すこと、ないんじゃないか」
「私たちの離婚とは関係ないわ。大学辞めてそば屋の婿になるなんて、あの子、アルバイト先の娘とオヤジに騙されているのよ」
 良太は一浪して早稲田大学に入り、今は三年生。ふた月後に就職活動入りを控えた十月になって、突然、大学を辞めて、深大寺のそば屋の娘と結婚し跡を継ぐと言い出した。これから大輔といっしょに、相手のそば屋に挨拶というか、良太を奪還しに行くのだ。
「就職や結婚は、本人に任せたほうがいいよ」
「あなたはそんな甘い認識だから、仕事も結婚も失敗したのよ。私が言うのも変だけど」
 私達は深大寺正門近くに差し掛かかり、そば処『だるま屋』の駐車場に車を入れた。
 準備中の札のかかった扉を開ける。「いらっしゃいませ」の声がして若い女が出てきた。
「菅原っていいます。良太の母親です」
「はじめまして田野倉美咲です」
 如才ない笑顔で彼女は出迎えた。美人とは言えないが丸顔で愛嬌がある。
店は、小上がりに三卓、テーブルが五席と決して広くはないが、全体が渋い和風の設えで落ち着きがあり、掃除がよく行き届いている。姑のような目で店内を見ていると、大輔が驚いたように声を上げた。
「このだるまさん、左目に字が書いてある」
「はい、深大寺では、毎年三月にだるま市が開かれて、開眼所で目入れをしていただくのです。それ梵字の『阿』なんですよ」
と美咲が応えていると、良太と五分刈りでゴマ塩頭の店主が和帽子を頭から外しながら出てきた。白いズポンに『だるま屋』の刺繍の入った襟なしの白衣をお揃いで着ている。似合っている。本当の親子のようだ。
美咲の父親の田野倉周三は、来店の礼を述べ、良太と美咲の結婚、店を継ぐことの許しを丁寧に求めた。職人肌のガサツな男を想像していたが、腰の低い紳士的な態度に少し戸惑い、奪還作戦の機先を削がれた気がした。
「父さん、母さん、今日は僕の作ったそばをご馳走するよ。うまいから、沢山食べてよ」
と、良太は美咲と目を合わせ微笑んだ。
 私は、良太の作るそばの味など、どうでもよかった。席に座ると、すぐに本題に入った。
「良太、おそば作りが上手になるのは結構なことよ。一生涯の趣味にしたらいいわ。でもね、大学を中退して、その歳で結婚してそば屋になるなんて、子供じみてないかしら。もっと自分の将来を真面目に考えなさいよ」
「母さん、僕はきちんと将来を考えて、決めたんだ。父さんも母さんも大学で優秀な成績とって、一流企業に入って、職場結婚して、でも、今、幸せなようには見えないけどね」
 いきなり結婚に反対されたことに腹が立ったのか、いつもはおとなしい良太が過激なことを言った。私は援護射撃を大輔に求め、横を見た。ここまで馬鹿にされたのだから、大輔は良太を殴り倒すかと思ったが、腕を組んだまま、睨めっこのようにだるまを見ている。
「ご主人、世間知らずの学生を娘の婿にして、商売の跡を継がせようなんて、姑息じゃないですか。勝手なことしないでください」
 私の剣幕に対して、田野倉氏は黙ったまま俯いている。美咲が涙声で言った。
「ご免なさい。私がいけないんです。妊娠なんかしちゃったから」
「妊娠って、何よ、外堀を埋めようってこと。冗談じゃないわ。堕しなさいよ、そんなの」
「そんなのって、母さんの孫だぞ。ふざけるな。もういいから、ふたりとも帰れよ」
「このままじゃ帰れないわよ。あなた達を別れさせなきゃ」
私と良太は睨みあった。
「良太君、そろそろそばを茹で始めたほうがいいよ。美咲も手伝いなさい」
 田野倉氏がふたりを厨房に行かせた。
「お怒りはごもっともですが、美咲には菅原の姓を名乗らせますし、お母さんのお宅に同居させて、お世話をさせていただきます。あの娘は五年前に母親を亡くしましてね。高校の授業が終ると店の手伝いをして、卒業してからは大学にも行かず、ずっとこの店で働いています。花嫁修業もさせていないです。でも、頑張りだけは他人に負けません。お母さん、美咲をうんと叱ってやってください。きっとお母さんの気にいる嫁になります。どうか二人の結婚を許していただけませんか」
 田野倉氏は深々と頭を下げた。
「妊娠の件は、良太にも責任のあることですから、お嬢さんをキズものにして結婚から逃げるとか、そういうことを申し上げるつもりはありません。でも、大学まで辞める必要はないですわ。ふたりともまだ若いですから」
「大学は辞めるなって、私も言ったんですが。良太君、私が生きているうちにそば作りのすべてを学びたいってね。そう言ってくれて」
「生きているうち......」
大輔が初めて口を開いた。
 田野倉氏は、気恥かしそうに苦笑いした。
「実は、私、胃癌が転移し始めていましてね。あと半年から一年らしいです。それで、良太君は、美咲と結婚してそば屋を継ぐって言ってくれたんです。しかも、私に孫の顔を見せてやりたいって、避妊をやめてしまったみたいで。良太君の親御さんにお話しするようなことじゃないですが」
「じゃ、妊娠は良太が意図的に」
私は頭が混乱してきていた。
「美咲が良太君のような誠実な人と結婚して店を継いでくれて、孫が生まれて、深大寺さんにお参りできたら、もう思い残すことはありません。それで、つい良太君の言葉に甘えてしまいました。これは私のエゴです。ご両親にはお詫びの言葉もありません」
田野倉氏は半泣きで頭を下げた。
大輔がしみじみと言った。
「良太の奴、成長したな。綾子、お前、偉いよ。良太を立派な人間に育ててさ」
 私は横面を叩かれたような痛みを感じた。大輔は、父親の癌を知って本社での出世を諦め名古屋支社へ転勤した。きっと私に同行してほしかっただろう。でも、私は舅の介護から逃げた。それが大輔と私の破綻の端緒だったような気がする。良太は幸せのあるべき姿を知っている。周りの人々が幸せでなければ、自分の幸せも危うくなることを。
 ふたりがお盆を抱えて厨房から出てきた。
「さあ、僕の打ったおそばを食べてよ」
「今日はめん汁も良太さんがダシを取って自分で作ったんですよ」
美咲が自慢げにセイロを並べ始めた。
「父さん、今日は少し寒いから熱燗でも出そうか。天婦羅や板わさも用意するからさ」
「このそば、ホントに良太が打ったのか。腰があってうまいな。あ、酒はヌル燗がいいな」
大輔は料理を並び終える前にひとりだけ先にそばを食べ始めている。田野倉氏が言った。
「私もお酒をもらおうか。今日は良太君と美咲に店を任せたぞ」
 美咲のお酌ですっかり上機嫌の大輔は、田野倉氏と古くからの友人のように世間話に浮かれている。別れた若い彼女の話までして。
 昼時になり来客が多くなり始めたのを機に、名残惜しそうな大輔を車に押し込んで、だるま屋を出た。調布駅に向かっている。
「田野倉さん、お宮参りまで元気でいてくれるといいわね」
「ふわー、深大寺はお寺だから、お宮参りじゃなくて、お初参りって言うんだよ」
 酔った大輔は、欠伸をしながら、もっともらしく田野倉氏の請売りを言う。
「どうする、私達の離婚届。お初参りが終るまで市役所に出すのを待ってみようか」
 私のさりげない問いかけに大輔の返事はなかった。小さな寝息が聞こえてきた。

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<著者紹介>

関口 光司(東京都世田谷区/52歳/男性/会社員)

グラウンドを横切って、小学校の校門を抜けた。深大寺通りの歩道を正樹は駆け下りた。
随分と前に、走る俊の背が見える。かなうはずはない。彼はクラスの男子達の中で一番、体育の成績がいいのだ。
 不動堂から斜めに、細い道へ入る。脇に並ぶ蕎麦屋や土産店を尻目に駆ける。
正樹にとってお寺はダサくて退屈な所だ。代わりにゲームをやりたいし、家で漫画やアニメが見たい。それにクラスの人間に会うとからかわれるから、なるべく避けたい。だが母親は休日になると「お寺まで散歩しよう」と言い出す。昼食を蕎麦で済ませて楽をしたいという魂胆だ。そして花がきれいとか、紅葉が美しいとか......大人の感覚は不可解だ。
 正樹は山門の前に到着すると、「待てよ、そんなに慌てなくてもいいだろ」とぼやく。
「待てるわけ、ないだろ」
 と、頭上から声がした。石段を見上げると、俊が山門の下で腰に手を当てて立っていた。
正樹は来た道を見た。
「なあ、やっぱり止めようぜ」
だが俊は石段を降りてきて、
「今更、なんだよ? お前だって、稲城アヤネの弱点を知りたいだろ?」
と、にやりと笑った。

稲城アヤネのことになると、俊はむきになる。彼女の澄ました顔を見るたび「あの長い髪の尻尾を掴んでやりたい」と憎々しく言った。
稲城アヤネは4年3組の中で目立つ女子だ。生意気で、男子全員の敵だった。
クラスの誰よりも身長が高くてすらりとしている。男子の誰かが女子をからかうと、関係ないのに出てくる。正義感が強くて口喧嘩も強い。下級生の世話もするし、運動や勉強もできるから、担任の長谷川も彼女のことをよく褒めた。ちなみに男子は長谷川に「先生」をつけないことにしている。長谷川は男のくせに、女子達の味方ばかりするからだった。

昼休みの教室で、稲城アヤネはいつものグループでおしゃべりをしていた。正樹達は漫画を読み回すふりをしてそちらに耳を傾ける。
あのさ、と稲城アヤネが女子達に聞く。
「お寺の絵馬って、やったことある? 縁結びって......効果、あるのかな?」
女子達は「さあ?」とか「私は信じる」とか答えた。稲城アヤネは少し困ったように「そう」とだけ言った。
正樹達は同時に顔を上げた。ピンと来た。彼女には好きなやつがいるのだ。
「やっと、あいつを泣かせるときが来た」
俊がにやりと笑った。そして正樹の耳元に顔を寄せると「深大寺、行くぞ」と言った。
正樹は頷いた。

山門をくぐって左手に朱印所がある。試しに女子が絵馬を求めに来たかと聞いてみたが、今日は見ていないと教えてくれた。
手持ち無沙汰に、カウンターに並ぶ五角形の絵馬に触れる。厄除け、開運、そして良縁。カランッと絵馬同士が軽い音を立てた。
俊が、
「そう言えば、長谷川も彼女と願いごとを書いたって言っていたな。ああ、彼女じゃねえな。婚約したんだから婚約者って言うんだ」
俊はにやにや笑って正樹を見た。
「なんて書いたんだろうなぁ」
「興味ねえよ」
正樹は突っぱねた。山門から下を見た俊が、
「やばい!」
と、声を上げた。そして正樹のランドセルを引っ張って鐘楼の陰に逃げる。しゃがんで山門のほうを覗いたが、観光客が来ただけだ。
「違う、本当にいたんだ!」
 俊は慌てて言う。正樹は「あ」と言った。
「もしかして、奥に行ったのかもしれない。縁結びのお堂は向こうなんだ」
「でも......絵馬は?」
「あっちには掛ける所があるけど......」
 正樹が説明すると、俊が「追いかけようぜ」と嬉しそうに立ち上がった。
 山門へ戻って、右へ折れる。確かに、ランドセルを背負った髪の長い女子が向こうへ行く。背が高く、足が長く、大人みたいにすたすた歩く。
「先周りをしよう」
正樹は深大寺通りに一度出た。案内所を右に走る。俊はその後ろをついて来た。
信号のある交差点を曲がると、参道に戻るのだ。だが少しだけ遅かった。彼女はすでにお堂へ手を合わせていた。
正樹達は、慌てて赤い花に縁取られたツツジの生垣に身を隠す。
稲城アヤネは絵馬掛けの前に立った。彼女の白くて細長い右手が、絵馬に触れる。
カラカラカラ......。
右から左へ。一番下の段が終わると、その上の段を鳴らして歩く。まるで不思議な楽器を奏でているようだ。正樹は息を飲んだ。
柔らかい音色の中、彼女はぴたりと歩を止めた。そしてランドセルから何かを取り出す。
ハサミだ、と気付いたとき。
彼女は静かにハサミの刃を閉じた。
ガコンッ!
と、絵馬が落ちる。
「えっ?」
声を上げたのは二人同時だった。
しまった、と思ったが遅かった。稲城アヤネは振り向くと、今まで見たことがないほど目を見開いた。そして彼女は、参道へ飛び降りるとなりふり構わず逃げ出した。
正樹は地面に残された絵馬を覗き込む。そのサインペンの文字は、毎日教室の黒板で見ているものと同じだった。

 夕食が終わった頃、稲城アヤネと彼女の母親が家に来た。
 母親は若くてとてもきれいな人だった。正樹は居心地悪く玄関に立った。
稲城アヤネはギュッと母親の腰にしがみついていた。母親の背中におでこを押し付けているから顔は見えない。だが、酷く何かに脅えているようだった。
「お寺で、何かをなくしたみたいなの」
と、稲城アヤネの母親が言う。
「でも何なのか、聞いても教えてくれないの」
正樹はごくりとつばを飲む。そして、
「おれは知らない」
「俊くんは、正樹くんなら知っているって言っていたわ」
あいつ、と舌打ちしそうになったが、
「おれじゃない。誰かが拾ったんじゃないの」
と、稲城アヤネに向かって言ってやった。
彼女は声を殺して泣いていた。母親に「これで納得した?」と言われると、小さく唸る。「じゃあ、月曜に」と言って二人は帰った。
正樹はリビングに戻ると、投げっぱなしだったベコベコの汚いランドセルから長谷川と婚約者の絵馬を出す。ハサミで切断された橙色のひもは、申し訳程度に残っていた。
テレビをつける。楽しみにしているアニメなのに、正樹の頭からは絵馬の落ちる姿が消えなかった。

 翌朝は早く起きた。母親は「休日なのに」と驚いていたが、ご飯を頬張るとすぐに外に出る。なるべく早く絵馬を捨てたかった。
 交番のある交差点を曲がって、坂道を下る。
 今日は信号の交差点から参道に入って、直接、深沙大王堂へ向かう。
足が重くて、まるでヘドロの中を歩いているみたいだ。試しに稲城アヤネの歩き方を真似してみる。足をできるだけ、遠くに、遠くに。だが5歩もしないうちに耐えられない。
 お堂が見えてホッとした正樹だったが、ツツジがガサガサッと動いて足を止めた。その傍から姿を現したのは、稲城アヤネだった。
 彼女は正樹を見つけると、
「笑いに来たの?」
 と、見下すようにあごを少し上向かせた。
「違うけど」
 正樹はそう言って、お堂への石段を上がる。そして一緒に探すふりをした。
彼女は腰を屈めてお堂の下を覗き込んだり、ツツジや草むらに首を突っ込んだ。そのたびに一本に結んだ髪は地面に着いた。
「なんで、稲城は......長谷川の」
「長谷川先生」
 稲城アヤネは冷たい声で言った。
「稲城は、長谷川が好きなのか?」
正樹は聞いた。稲城アヤネは顔を上げたが、服や髪についた赤い花の残骸を払うだけで何も答えなかった。
正樹はポケットから絵馬を出す。そして彼女に差し出した。彼女はハッとして立ち上がった。胸の中でちりっと何かが痛む。
彼女は一度、口元に絵馬を当てると目を閉じる。そして斜め掛けのポシェットから大量のリボンを出した。赤いものを選ぶと、絵馬に通して、切れた橙色のひもの代わりにした。
赤いリボンでくくりつけた絵馬は他と違って目立った。これは大丈夫なのか、と正樹は心配になって隣の稲城アヤネを見上げる。
彼女は静かに両手を合わせていた。
目を閉じると、まつ毛が長い。昨夜は寝むれなかったのだろうか。妙にその横顔が大人っぽくて、正樹は慌てて目を背ける。
稲城アヤネは「はい、あげる」と短く残った橙色のひもを正樹に押し付けた。
「自分で捨てろよ。いらない」
正樹が言うと、稲城アヤネは普段の澄ました顔からは想像出来ないほど、目を細めて笑った。そして彼女は軽やかに走り出す。
追い着けるはずがない。わかっていたが、正樹は長い髪をなびかせて走る彼女を目指して、石段を駆け降りた。

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<著者紹介>

サカナ 霧(東京都世田谷区/29歳/女性/自由業)

どこからともなく吹いてくる風が、わたしの頬を撫でて、髪を揺らして、そしてまたどこかへと吹き抜けていく。
初夏の深大寺は陽光に煌いていて、ここには希望ばかりが溢れているように感じられる。五年前にここを訪れたときも、同じように希望に満ちた光景だったのだろうと思う。
しかしどう記憶を手繰っても、当時の情景は浮かび上がらない。
それもそのはずで、当時のわたしたちは結婚を間近に控えていて、目の前の自然よりももっと高揚すべき出来事が控えていたのだ。
その幸福感は今でも、よく覚えている。
「どうしたの? にやにやして」
夫が、もうすぐ夫ではなくなる彼が、そう尋ねる。
「思い出してたの」
「いい思い出?」
わたしはそれには答えず、ただ微笑み返してみた。
 五年前、まだ吉祥寺には伊勢丹があった。ちょうどいいサイズの、デパートだった。そこで洋服や指輪を見て歩いた。わたしは参考までに、と前提を置いて眺めていただけなのだが、ピンク色の石がさりげなく、行儀良く収まった指輪に魅入ってしまった。
「いいよ? 予定変更して買っちゃう?」
 彼はそんな大胆な言葉を発した。
「だめよ。これから恐ろしいほど出費するんだから」
「恐ろしいほど?」
「そう。結婚指輪に結婚式。もちろん新婚旅行。これだけでもわたしたちの貯金は弾けるんだから。ビッグバンみたいに」
「ビッグバンみたいに?」
 彼はわたしの言葉にいちいち反応した。たしかにわたしは少しおかしな言葉遣いをするが、逐一反応する姿は可愛らしくもあった。
 伊勢丹の二階にあったカフェ・コムサという喫茶店に入って、冷静さを取り戻した。彼はブラックコーヒーで、これ以外のものを注文するところを見たことがなかった。
 それだけではない。彼はイタリアンに行けばたらこパスタ。中華料理ならあんかけ焼きそば。定食屋ならアジフライと、人生についてずいぶん細かい設計図を作っているのではないかと、そう疑いたくなるほどぶれない人だった。
 きっとこの人は女性もひとりに決めたら、とことんその人を愛するのだろうと感じた。そしてそれはわたしだと気づき、顔を赤らめてしまった。
「やっぱり衝動買いしなくて良かった」
「慎重だねえ」
「そうよ。その代わり結婚指輪はダイヤモンドにプラチナ。これ鉄板」
「鉄板?」
「そうよ。てっぱん」

 

この五年間で様々なことが起きたし、様々なことが起きなかった。例えばわたしたちは順調に貯金を貯めて、中古ながらも瀟洒なマンションを購入した。また、なぜだか分からないが、子どもには恵まれなかった。
わたしたちの間に確かにあった愛情は、燃え盛るような情熱から安寧となり、そして恒常的な何かに変容する前に、溶けてしまった。
強固な結晶だとばかり考えていた愛というものは、実は砂糖のように、脆いものだったのかもしれない。ふと目を離した瞬間に、なんらかの弾みであるいは外からの力が加わって、熱湯によって溶けてしまった。
「綺麗だよなあ。木々が」
夫は目を細めている。五年分歳をとったような、まるで変わらないような、陽光の中の彼はどちらとも言えなかった。
「お寺ってやはり落ち着くわね。それか身が引き締まる、かなあ」
「うん」
「永遠っていうのはとても残酷なことだと思っていたけれど」
名も知らない鳥が、影となって舞っている。鳥たちは悩みもなく、爽快だろうと考えるのは、きっと人間の身勝手な発想なのだろう。
「けれど?」
「憧れているのよね、きっと」
「永遠?」
「うん。ないと分かっているから、憧れているけれど、きっと窮屈で退屈なものだと割り切ろうとしているのよね。もう絶望的なくらいに」
「絶望的? 割り切りが?」
 わたしは笑うことで返事とした。子どものように言葉を繰り返す彼は、相変わらず可愛らしかった。
すらすらとわたしは話すが、特に根拠があって言っているのではなかった。ただ口から出てくる言葉たちを、フィルターにかけずに流していただけだった。
「波を永久に起こし続けるのが作業だとしたらさ」
「それは苦痛。もう、せっかくセンチメンタルなことを言ったのに」
「台無しだったね」
夫は笑いながら立ち上がって、「本堂のほうに行ってみよう」と手招きした。
その姿を見て、突如五年前も全く同じ仕草をしたことを思い出した。
再度考える。わたしたちは子どもに恵まれなかった。それはどちらの責任かは分からないし、そもそも責任などどちらにもない。めぐり合わせの問題だと、お互い考えている。憎みあっているわけでもなく、仲が悪いわけでもない。小さな喧嘩は絶えないが、その日のうちには仲直りもする。
ではなぜ別れるのか。問い詰められればわたしも夫も、答えられない。けれど一緒にいる理由も、お互い答えられない。
彼はしばらく歩いた所で振り返り、もう一度手招きした。
わたしは今まで幾度、このようにして彼に求められたろうか。
そしてわたしもどれほど彼を必要としたことがあったろうか。
きっと小さな信頼の積み重ねが、結婚生活だったのだろうと思う。
立ち上がって無意識にスカートを払うと、それを合図に夫が本堂へと走り出した。
急速に悲しみが、全身を駆け巡った。あのベンチには身を寄せ合って座る男女がいる。もちろんわたしと彼だ。この山道にも手を繋いで笑っているわたしがいる。あの蕎麦屋にも、注文をなかなか決められないわたしがいる。「壊滅的に決められない」と言うわたしが。そして「壊滅的?」と聞き返す彼が。
気がつけば、やって来る幸せに全身を広げて待つ、希望に満ち溢れたわたしが、この深大寺のいたるところにいる。
涙が出る前に、「待ってよ!」と大きな声を出した。
もう夫ではなくなる彼の名前を、久しぶりに大きな声で叫んでから、彼の元へと走っていった。
突然、やや強い風が吹いた。
風速十メートルくらいかな。わたしはそんな、ささやかだけれど大切な恋をしてきたのだ。

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<著者紹介>

橘田 賢(東京都八王子市/36歳/男性/公務員)

「わあ、深大寺って、こんな賑やかなところだったんだ」
「鬼太郎フィギュアと一緒に写真撮ろうよ」
 学生らしき若い女性グループが、はしゃぎながら深大寺門前の『鬼太郎茶屋』の店先に駆け寄っていく。その会話を耳にした妻の千草(ちぐさ)が、静かに微笑みを浮かべた。
「深大寺も、三十年前とはずいぶん様子が変わったみたいね」
 私は千草の肩にそっと手をあてながら答えた。
「そうだね。あの頃はもっと静かで落ち着いていた。まあ、観光客が多くて活気があるのも悪くない。近くの駐車場に大型バスが停まっていたから、団体客も多いみたいだね」
 五月半ばの深大寺周辺は新緑に染まっており、強くなり始めた日差しをほどよく遮ってくれている。参道を歩いていると、心地よい風がさっと通り過ぎていった。私は思わず深呼吸をした。すると、傍らにいる千草も深く息を吸い込み、しみじみと言った。
「緑が多いと空気がおいしいわ。ねえ、健さん」
 千草は二人きりになると、私のことを「健さん」と呼ぶ。その優しい声が心地よく耳朶に響く。私は妻の手を取った。結婚して三十年、こうして一緒に歩く際に再び手を握り合うようになったのは、一年ほど前からだ。
 千草の手は昔と変わらず小さくてすべすべしている。セミロングの髪は定期的に染めているのだろう。明るい日差しの下で年齢はごまかしようもなかったが、柔和な微笑みを絶やさないその表情は少女のようにも見える。
「きみは、あの頃とちっとも変わっていないね」
 妻は「やあね」と言って照れた。そんなところも昔と変わっていない。
 深大寺のシンボルツリーである樹齢四百年のナンジャモンジャの木が、白い花をいっぱいにたたえていた。その香りは、まるでキンモクセイのように甘くかぐわしい。しかし、このプロペラ型の花はすぐに散ってしまう。満開の時期に来られたのは実に幸運だった。
「千草、ナンジャモンジャの花が満開だ。まるで大木に真っ白な雪が積もっているかのようだよ」
 千草が小さく頷きながら言った。
「三十三年前に健さんがここでプロポーズしてくれた時も、真っ白な花が満開だったわね」
 あの時、千草はこの可憐な花のように真っ白なワンピースを身にまとっていた。突然のプロポーズに驚いたまん丸の瞳を、今でもはっきりと覚えている。
「ああ。きみはもったいぶって、返事を一ヶ月も先延ばしにした」
「だって、あの時のあなたは、ずいぶんと頼りなく見えたんだもの」
 そう。当時の私ときたら、とっくに社会人になっていたくせに、私生活ではサーフィンに夢中で給料のほとんどを趣味と車につぎ込んでいた。高校卒業後、すぐに地元の信用金庫に就職した千草から見れば、さぞかし軽く幼い男に見えたことだろう。
「縁結びの神様が、きっと千草を説得してくれたんだな」
 深大寺には「深沙大王」という水神が祀られている。寺の開創にまつわる伝説は、ずいぶんとロマンティックなものだ。
約千三百年前、福満という青年が身分違いの美しい娘と恋に陥った。父親は嘆き悲しみ娘を幽閉してしまうが、福満が深沙大王の功徳を得たという話を聞いて二人の仲を許す。そして二人の間に生まれた息子・満功が、両親の縁を結んでくれた深沙大王を祀り、深大寺を開創したのだという。
あの時、私はその話をどこからか聞きつけて、千草を深大寺に誘ったのだ。今はパワースポット巡りが若者たちの間で流行しているようだが、私はその走りだったわけだ。困ったのは、福満と同様、千草の父親から結婚に反対されたことだった。私は一大決心をし、好きだったサーフィンをキッパリとやめ、車を売り払い、三年かけて結婚資金を貯めた。千草はそんな私のことを辛抱強く待っていてくれた。
生まれた子供は男の子だった。福満青年にあやかって、私の名前「健吾」から一文字取って、息子に「健介」と名付けた。最初、千草は私を「健さん」、息子を「健ちゃん」と呼んでいたが、紛らわしいのでいつしか私は「お父さん」になった。だが、こうして二人きりの時は「健さん」になる。
 私たちは仕事の都合でずっと東京を離れていたが、今また居を戻し、深大寺にも気軽に足を運べるようになった。特別な思い出が詰まったこの地が、私たちを青春時代に戻してくれたようだった。
私は妻に言った。
「お参りしたら、蕎麦を食おう」
「そうね。深大寺まで来たら、お蕎麦を食べないとね」
 参拝後、私たちは再び手を取り合って深大寺通り沿いにある蕎麦屋に入った。
 この蕎麦屋も三十年ぶりだ。店の内装のことまでは覚えていなかったが、屋外のテーブルに座ったことは覚えている。今回も、私たちは屋外の席を選んだ。
初夏の日差しの中なら、ざるに限る。私は天ざる、千草はおろし蕎麦を注文した。まずは深大寺ビールで乾杯した。
この店で飼っているらしき小さなキジ猫が、千草の足に体をすり寄せながら、にゃあと鳴いた。
「あら、猫」
 千草が身をかがめて手を差し出すと、人懐こい猫はその手をペロリと嘗めた。私は思いつきで言った。
「猫を飼うのもいいね」
 すると、千草の表情がパッと明るくなった。
「すごくいいアイデア。大賛成よ」
 猫の話で盛り上がっていると、蕎麦が運ばれてきた。やや白みがかった光沢のある蕎麦が涼やかに盛りつけられている。音を立てて豪快に蕎麦をすすってみる。ほどよい弾力と甘みがあり、喉の奥から蕎麦の香りが鼻腔に抜けていく。うまい。つゆが細麺によくからまるので、口の中で絶妙な加減になる。
「おいしいわ」
 千草も満足そうだった。私は大きく伸びをしながら言った。
「ああ、蕎麦屋はいいよ。昼間から何の気兼ねもなく酒が飲める」
 見上げると、広く澄んだ青空が広がっている。舌も腹も満たされて、実に気分が良かった。
「もう少し、散歩しようか」
 私たちは参道に戻り、神代植物園へ向かうことにした。先ほどよりもずいぶん人通りが多くなっている。千草が右手に持つ白い杖が、前を歩く人の足にからまってしまった。
 大きく舌打ちをしながら、茶髪の若者がこちらを振り返った。しかし、千草の目が不自由だと分かると、急に戸惑ったような素振りをした。私が口を開きかけた時、気配を察した千草が謝罪した。
「ごめんなさいね」
 若者が、慌てて言った。
「いや、いいっす。大丈夫っす」
 千草の顔に、再び柔和な笑みが戻った。
私はつくづく、その横顔を美しいと思った。
 千草が遺伝子の異常で起こる「網膜色素変性症」だと判明したのは、彼女が五十二歳の時のことだった。最初は夜になるとものが見えにくくなり、やがて昼間の視力もどんどん低下していった。私は最初「老眼だろう」と気にもとめなかったが、事態は想像以上に深刻だった。
 失明すると判った時、千草はあまりの恐怖から平常心ではいられなくなった。息子は大学を一時休学して、母親に付ききりで介抱してくれた。私は早期退職という苦渋の選択を余儀なくされたが、後悔はすまいと思った。
 千草は立ち直ってくれた。彼女は一年前、私と息子にこう言った。
「失ったものを数えるのは、もうやめにしたわ。これからは、私がこれまでの人生で得たものを大事にしたい。一番は、やっぱり家族。何といっても、健さんと、健ちゃんだわ」
 私と健介は、思わず顔を見合わせて笑った。千草の顔にも笑みが戻っていた。それから私は妻の手を取り、外出するようになった。
「何をしたいのかわからない」と悩んでいた健介は、福祉関係の仕事に就いた。私も以前の勤め先の系列会社で、契約社員として働くようになった。むろん給料は格段に安くなったが、会社側がこちらの事情を知っているため何かと融通が利く。今日は三十回目の結婚記念日ということで休暇を取った。
 神代植物園はちょうどバラの季節だった。なんと四百品種以上もあるらしい。千草が鼻をくん、とさせて言った。
「健さん、バラ園はこっちの方角じゃない? 花の香りがするもの」
 指さされた方向へ進んでいくと、広大なバラ園に出た。私はひどく感心して言った。
「きみの言ったとおり、本当にバラ園に着いたよ」
千草は視力を失った代わりに、嗅覚や聴覚がみるみる発達した。彼女は香りを頼りに苦もなく一輪のバラの花を手の平ですくい取り、顔を近づけた。
「ああ、いい匂い」
 まったく、惚れ直すとは、こういうことを言うのか。
 健介には、どうやら片思いの女の子がいるらしい。今日家に帰ったら、息子に深沙大王の伝説と、私たちの恋物語を聞かせてやろう。
私は千草に説明した。
「華やかなローズピンクのバラだよ。名前は、『恋心』だ」 


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<著者紹介>

島津 弥生(東京都調布市 /48歳/女性/自営業)

 ねえ、老楊。あなたは今何処に居ますか。あなたがわたしにくれたおくりものをわたしは紡ぎ続けることができませんでした。あなたはいつかわたしに「僕と君は住む世界が違う」と言いましたね。ええ、その通りになりました。あなたは実業家として成功し、そちらの世界で名を馳せ、わたしはあんなに厭だ厭だと嫌悪していたオフィスレディーとなり、あの嘘のような向上心をなくして日々死ぬのを待っているようなものですから。十年ほど前、あなたとわたしはほぼ同じスタートラインに立っていましたね。いいえ、初めはわたしの方があなたより四歳年下で、あなたよりもわたしは有利だったのです。あなたと居るときはそんなことはこれっぽっちも思わなかったのに、いえ、むしろその年齢による経験の差を何とか埋めようとわたしは必死に努力していたのに、今こうやって毎日ぼんやりと生命をすり減らし、意味のない書類ばかり作り、同僚とも馬が合わず、ひとりで昼食のお弁当をつついている限りなく非生産的なわたしは文字通り敗北者です。今日も明日も明後日もわたしは単調な書類の山を片付ける為の栄養源としてあなたと過ごした夢のようだった時間に想いを巡らせることでしょう。わたしはあなたととても再会できそうにありません。何故ならあなたとわたしは住む世界が大きく異なっているからです。
 あなたとわたしは某大学院で出逢いました。年齢層が幅広いあの教室の中で黒縁眼鏡をかけて真っ白いシャツにジーンズをはいてわたしの隣で講義を聴いていたあなたは若々しくとても年上には見えませんでした。大学院で自己紹介を各自でして、教室の何人かと打ち解け始めたときのその何人かにあなたは入っていました。初めあなたが名前を老楊だと名乗ったとき、わたしはどうりで肌が綺麗だと思いました。あなたはとても勤勉で、真面目ですが、大人しい見た目とは裏腹に熱意を持った理想家でした。あなたの冷静でいて的確な意見を聞く度にわたしはあなたを尊敬し直し、あなたと話す回数が増えるにしたがってわたしとあなたはどんどん仲良くなっていきました。わたしはいっときはあなたと話すことが待ちきれなくて講義そっちのけだったことを覚えています。わたしはそれまでに恋をしたことがなく、これが恋愛感情だと気が付くのに随分と時間がかかりました。そしてかなり打ち解けた大学院が休みの九月頃、わたしたちは二人で初めてご飯を食べに行きましたね。わたしはあなたが奢ると言って笑ったので申し訳なさと嬉しさから思わずお蕎麦が食べたいと叫んでしまいました。静かな通りを歩いていると、わたしは知っている人に出くわしたらどうしようかとそればかり考え、でも誰かに見つかりたいという気持ちに自分でも戸惑いました。わたしがあれこれ考えて黙っていたからか、あなたは急に立ち止まりました。わたしは驚いて顔をあげ、横を向いているあなたの視線の先を追うと、小ぢんまりしたお土産屋さんがありました。そして、
「入ってみようか。」
 と微笑むあなたにつられてわたしはお腹を空かせたままそのお店に入りました。
 私たちはお店を出て目的の蕎麦屋に向かいました。そのとき、わたしはさっきのお店にあった白うさぎの人形のことを思いました。それは小さくてとても可愛らしく、手に取ってみたくなりましたが、わたしはその時その動作が「普通の女の子」を露骨に表しているようで、その時少しでもあなたと対等で且つ、「普通の女の子」にみなされたくなかったわたしは横目であなたをちらちら窺いつつその人形を何度も盗み見ていました。再び歩き出してしばらくして、さっきのうさぎをまだ未練がましく考えて下を向いているわたしの横でまたあなたは立ち止まりました。顔を上げて周りを見渡しても辺りには何もなく、涼しい風が草木をザアーと煽りました。わたしはあなたを見上げ、尋ねました。
「もしかして、お財布忘れたの。」
 あなたはわたしを見下ろして顔を緩め、とうとう吹き出しました。
「違うよ。さっきの君さ。凄く挙動不審だったよ。何か盗むんじゃないかと思ったくらい。店の人も君のこと見てた。」 
「違うの。あれはさっきの・・・」
「うん、可愛かったね。」
「そう、可愛かった・・・え。」
「欲しいなら、遠慮しなくていいよ。どうせ僕に変に気を回したんだろうけど。」
 くっく、と線の細い躰を折り曲げて、あなたは忍び笑いを漏らしました。
「日本人は、やっぱり変わってるよ。」
 わたしはあなたに笑われているのが下にみられているようで恥ずかしく、自尊心を傷付けられ、苦痛にさえ思いましたが、あなたの少年のような笑顔を少しの間見入ってしまいました。 
 蕎麦を食べながら、あなたは某有名自動車メーカーの社長である祖父に頼らず、自分の力で成功したいと目標を語りました。その為に今経済の仕組みやマーケティングを学び、世界規模で活躍する実業家になる、と。わたしはお腹がとても空いていたので自分はあまり喋らずに、ふんふんと相槌を打ちながらのど越しのよい蕎麦に舌鼓をうちました。会計のとき、今度は笑われまいとわざと堂々としていたらお札をつまみながらあなたはわたしのほうを振り返り、またすぐに下を向いて笑いを堪えているのが小刻みに震える肩の線で分かり、蕎麦屋のアルバイトらしい女の子に不思議な顔をされていました。蕎麦屋を出ると、あなたは
「さっきの土産屋に寄ろう。人形買ってあげるから。」
 と父親のように言いました。わたしはつい喜んでその場でスキップしてしまいそうでした。今思うとわたしは勉強ばかりしていた頭でっかちな人間で数少ない友達にもよく「小学生の女の子がそのまま大人になったみたいね」といわれ、からかわれていました。そんなわたしの人生最初の異性からのおくりものがそのうさぎの人形でした。もう何度も洗って黒く汚れてしまいましたが、どうしても捨てられないのです。三十半ばの女の会社の机の上にそんなものが置いてあったら友達なんてできる筈ありませんね。大事そうに赤い紙の袋に包まれた人形を持ったわたしの片手をあなたは握りました。わたしはその手を握り返し、大きく振りました。あなたはいきなりわたしの手を引いてずんずん歩き出し、深大寺という寺に向かいました。誰もいないその神社の真ん中まで行って、わたしを見て、
こう言いました。
「今僕は、何も持ってないし、日本人でもない。祖父は成り上がりにすぎないし、本当は僕と君は住む世界が違っているんだ。でも、僕は君を迎えに行きたい。だから、僕が自力で成功するまで待っていて欲しい。」
 わたしは最初いきなりすぎてあなたの言っている言葉の意味がわかりませんでした。でも、真剣にわたしの目を見で言うあなたにわたしは、
「じゃあ、老楊が実業家になって成功して、わたしはジャーナリストになる。そして老楊を取材してあげる。」
 と答えました。
それからあっという間に時が過ぎ卒業を迎え、
あなたは宣言通り実業家への道を歩み始めました。わたしも同じようにジャーナリストへの道を歩み始めました。しかしもともと思いつきで目指し始めたジャーナリストへの道はそう甘くなく、人間関係の協調性が大いに要求されるわたしにとって険しすぎる道に最初はめげずにがむしゃらに進み続けましたが記事を書いても一蹴され、時には回し読みして皆で笑われ、上司には気に入られず望んでいる仕事を回してもらえなかったり、自分の意向とは全く異なった取材ばかりで疲労困憊し、プライドの塊のような人間の集まった業界からいとも簡単に弾き飛ばされ、挫折し、田舎に帰った挙句、やっとのことでいまの会社にありつくことができたのです。ジャーナリストへの未練からたまに経済誌をよく見るのですが、そこに老楊、あなたが雑誌に大きく取り上げられていたのです。勿論あなたを取材したのはわたしではありませんでした。
 わたしは胃が急に痛くなり、その記事を最後まで読むことができませんでした。もう一度ジャーナリストを目指すことは出来ます。でももう最初のあのがむしゃらに頑張る熱意は戻っては来ませんでした。その癖、よくわたしはあなたを取材している夢さえみるのです。わたしは、あなたの白鳥のような成功に必死のばた足の努力が潜んでいることを知っています。だからわたしがあなたを羨ましいと感じたり、自分と較べて卑屈になったりするのはお門違いだと自分が一番よくわかっているのです。あなたはわたしに大学院でも人生のお手本をおくりものとして示してくれました。わたしはその残りの糸をほつれながらでもなんでもいいから最後までちゃんと編むべきだったのです。少なくともやるべきことは泣き寝入りして実家に逃げ帰ることではなかったのです。
 わたしはあなたが好きでした。好きという感情の半分は憧れと嫉妬でした。あなたが迎えに来る準備が出来ていてもわたしはそれを迎え入れる準備が出来なかったのです。それでもきっとあなたはわたしを受け入れてくれるかも知れません。でも、わたしはそこまで自分を辱めたくはないのです。あなたから何度電話が掛かってきても、意地でも出続けなかったのはそのためです。わたしは自分で認めるほどの見栄っ張りです。だから、記事をうまくまとめるようにあなたとの過去の綺麗な部分ばかりの記憶を編集して、必要なときにこうやって再生しなおしているのです。

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<著者紹介>

常磐 倫子(京都府京都市 /18歳/女性/学生)

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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

第13回公募、募集開始いたしました。皆さまからのご応募お待ちしております。
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ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
掲載前には、直接メールでご連絡しております。
何卒ご了承ください。

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