夏の夜、『涼』を叶えるための場で、僕は一人、その『熱』に耐え兼ねていた。
 年に一度、8月の一夜、僕の住む調布市の名所、深大寺では『夕涼みの会』と題したイベントを催していた。
「奏也。あれは花氷のように冷涼で風雅な世界だ。一度見に行くといいぞ」
ロマンチストな祖父は、口癖のようにそう言う。けれど、高校三年の、受験まで切羽詰まったこの時期に、氷漬けの花など見せられたところで僕は、「花が可哀想」としか思わないだろう。
 それでも、実際に『夕涼みの会』に参加してみると、祖父の言いたいことは何となく分かった。
一瞬の美しい光景の連続。
浴衣姿の男女が行き交う趣深い参道、色とりどりの風鈴が並ぶ商店、暑さを吹き飛ばすように巻かれる打ち水......夏の夜空に浮かぶ控え目な星たちの下、目にも涼しいもてなしで訪れる人を迎えてくれている。
「あれ。和花?」
先ほどまで僕の隣を歩いていたはずの妹が、目を離した隙にどこかへ消えてしまっていた。
僕は苦笑する。
真新しい浴衣を羽織りながら、踊るように回っていた昨晩の妹を思い出した。
「仕方ないなぁ。私が連れてったげる。お兄ちゃんはね、勉強しすぎなのよ。少しは高校生らしいこと、した方がいいよ」
生意気盛りの妹が、そう言って僕をここまで引っ張ってきたのだが......おおかた、近くに仲の良い友人でも見つけ、立ち話でもしているのだろう。僕は解放されたような、少しうんざりしたような気持ちで妹の携帯にメールをいれた。
(友達といるなら、そのまま一緒にいな。帰るころになったらメールしてくれ)
それまでに僕の存在を思い出してくれればいいのだが。
僕は妹と歩いた道を引き返した。確か横道があったはずだ。人通りの少なそうな山道だった。あそこなら、この眩しすぎる光景から僕を守ってくれるだろう。
 しかし、僕の考えは『はずれ』だった。僕が見つけた闇の中には先客がいたのだ。美しく、眩しい先客だった。白っぽい花柄の浴衣姿で林道に立つその女性は、闇の中にぼんやりと浮かび上がって見えた。
 彼女は闇を切り裂いたような道の真ん中で、僕の存在に気付き、驚いたようにこちらを見た。
一瞬、何か光ったような気がしたが今はそれどころではない。暗闇に紛れた暴漢だと思われては大変と、僕は顔の筋肉に無理言って、
幾日かぶりの笑顔を作ってみせた。
「こんばんは」
「あ、こんばんは。ごめんなさい。私、驚いちゃって。あの、撮っちゃいました。けど、消しますから」
僕より年上だと分かる大人っぽい声でそう言った。
僕は彼女が何の話をしているのかすぐには理解できなかった。彼女の手にある大きなカメラを見てようやく事態が飲み込めたときには「はあ」だの「へえ」だのよく分からない返事を返してしまった後だった。
「あの、こんな所に、一人で?」
僕が尋ねると、彼女は可笑しそうに笑う。
「あなただって、一人じゃないですか」
「あ、そっか。確かに、そうですね。僕は、妹がどっか行っちゃって」
「えっ、大変。はぐれちゃったんですか。私、一緒に探しましょうか?」
そう言って僕の傍までやって来た彼女は、遠目で見るより少しこじんまりとして見えた。僕の肩の位置より、少し低いくらいの背丈だ。年齢は、やはり二、三歳年上のように見える。
「あなた......高校生くらい?」
気づくと、彼女は、これでもかというくらい僕に顔を近づけ、興味深々といった様子で僕の顔を覗き込んでいた。彼女の大きな瞳にどこか遠くの光が差し込んでいるのが確認できるほどの近さだ。
心臓が大きく鼓動するのが分かった。こんなに近くで女性の顔を見るのは何年ぶりだろうか。おそらくは、小学校低学年ぶりか。
幼いころから、「元気のない男の子」で通っていたから、小学校でそんなに楽しい思い出があった訳ではない。ただ、当時は男女問わず仲良しの友人がいたことを思えば、今の僕は負けている。
こんなことくらいで緊張してしまうなんて。
彼女は僕の戸惑いなど気にもとめないといった様子で、一人、何かに納得したように頷いた。
「うん。あなた、肌が白くて素敵。月夜に映えるわ」
そして、こう言った。
「あなた、私のモデルになってくれません?」

体が弱く、家ですることといえば、父の書棚にある本の山に目を通すことくらい。幼い頃からそうとなれば、肌の色が白くなるは当たり前というものである。青春を謳歌している野球部や、サッカー部の部員とは違うのだ。そんな僕にどんな魅力があって被写体にしようと言うのか。僕がやんわりと断っても彼女は頑として諦めようとしなかった。
「僕なんて、撮ったって、何にも......」
「何故?あなた、綺麗よ。さっきなんて、夜の闇に浮かび上がって見えたもの。輝いて見えたわ」
「それは、あなたがフラッシュをたいたからでしょ?僕だってそう見えましたよ」
 はっと思った時には遅かった。彼女は照れたように微笑みながら首を傾げた。
「私?私も輝いてた?あなた、そんな素敵な口説き文句が言えるんじゃない。本当に素敵よ」
彼女の意思の強そうな瞳が、少しだけ妹とかぶって見えた。そうだ。妹を探さなければ。そう言えば、彼女は見逃してくれる。そういえば、彼女は僕から離れて行くだろう。
「ねえ、お願いよ」
気づくと僕は俯いたまま、黙って頷いて見せていた。

彼女の名は玲子さんといった。都内の美術大学に通う学生らしい。油絵を専攻していて、どうやら僕には「写真に一旦納まってもらってから、絵のモデルになってもらいたい」らしい。ややこしいが、とにかく写真に撮られれば良いのだろう。
仁王立ちの僕に向かってシャッターを切りながら、玲子さんは色々なことを話してくれた。
今日は深大寺の『忘れ水』を撮りに来たのだそうだ。
「忘れ水っていうのはね、誰にも見られないような場所で脈々と流れる水っていうのかな。目立たなくても、それが源流になって大きな川を成したりするんだって思ったら、すごいなって感動しちゃって。それで好きになったの。ここ、忘れ水がとっても多いのよ。本当は友人たちと『夕涼み』に来たんだけど、『あれ?こんな時こそ沢山の忘れ水が生まれるんじゃない?』って思って。意味がちょっとずれてるけど、そう思っちゃったの」
それから、彼女自身の今の現状について、少し辛そうな声でこう言った。
「私はね、高二の頃に美大を目指したんだけど、少し後悔するときがあるの。だって、絵で食べて行ける人なんて殆どいないのよ。就活なんてみんな、商社とか、金融とか、そんなんばっか。でも、でもね......」
シャッター音が聞こえなくなり、少しほっとした僕は顔を上げようとした。すると、
「隙あり!」
真正面からの写真を撮られてしまった。
「やったぁ。いいのが撮れた」
と、嬉しそうに飛び跳ねる。
「玲子さん?......まったく......それで?」
「『それで?』て?」
「さっきの続きですよ。聞かせて下さい」
「あ、そっか。ごめん。『でも、私は忘れ水みたいな画家になろう』って思ったの。誰かに知られなくても、評価されなくても、いいの。働きながら描けばいいんだもん。私、絵が好きなんだから。好きで決めた道なんだから」
そう言った玲子さんの表情は、とても幸せそうに見えた。
僕にもできるだろうか。そこまで、身を削るようにしてまで、大切だと思えるものが。
僕は今まで、自分は周囲に劣っているのではないかと思ってきた。だって、こうしている間にも、僕らの年齢にしかできない夏の過ごし方をしている人だっているのだ。明日には、海へ行って、スイカ割りをして遊ぶかも知れない。また、次の日は海辺で花火でも打ち上げ盛り上がるのかも知れない。その画面に、今の僕はいない。
 でも、何が勝ちで、何が負けなんだ?そんなの誰が決めるのだ?僕たちはみんな、一生懸命、自分の道を進んでいるだけなのに。玲子さんの勇気ある言葉は、僕に「思うままにいれば、それが正解なのだ」と教えてくれたような気がした。
僕は、自分の発言に照れたように笑う玲子さんに少し意地悪をしてみたくなった。
「玲子さんは『忘れ水』というより、『花氷』ですね」
「花氷?なぁに、それ?」
「秘密です」
「なんで?教えてよ」
「僕は、忘れないってことです」
「それじゃあ、分からないわ」
「分からなくていいんです」
今日の月が、始めて明るく見えた。

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<著者紹介>

前川 美歩(茨城県潮来市/23歳/女性/学生)

「ねぇ圭ちゃん、覚えてる?」
 中学校生活最後となる夏休みを二週間後に控えた七月上旬の日曜日。俺は幼馴染の真耶と二人、深大寺を訪れていた。
「ほら、あそこ!あそこでお賽銭あげたんだよ」
「そうだったっけ?あんま覚えてないわ」
 真耶とここに来るのは今日が二回目。小学校四年生の時に遠足で来た以来だった。
 とは言っても、一回目にこの場所を訪れた時の記憶はほぼゼロに等しかった。ただ一つの出来事を除いて。
「うわ~全然変わってないねぇ」
 そんな俺とは対照的に、真耶は当時のことを良く覚えていた。わざわざ探し出して持ってきたのだろうか、右手には『四年二組・西田真耶』と書かれた遠足のしおりを握りしめ、軽い足取りでどんどん先へ進んでいく。
「ほら~。早く早く~。置いて行っちゃうよ!」
「ちょっと待ってくれよ。お前、歩くの速過ぎ」
 いつもと変わらない真耶の様子に、俺は少し安心していた。

『二人で深大寺に行きたい』は
 真耶がそんなことを言い出したのはつい三日前の事。
俺たちは幼馴染とう関係ではあったが、さすがに中学生になってから二人で出掛けるというような事はほとんどなかった。
あまりに唐突な誘いだったということもあり、正直何かあるんじゃないかと警戒していたのだが、どうやら俺の思い過ごしだったみたいだ。
「なぁ、腹減らないか?その辺で蕎麦でも食おうよ」
「もうちょっとだから頑張ってよ。ほら、ここ上がったらすぐだから」
 そう言うと真耶は、俺の手を取り引っ張るようにして歩き始める。
「圭ちゃん、前に来たときも『蕎麦食いてー、蕎麦食いてー』って言ってたよね、フフッ」
「俺、そんな事言ってたのか?全然記憶にないぞ」
 人の記憶力というのはここまで差が出るものなのだろうか。当時の思い出をちっとも共有することの出来ない自分に、俺は少し苛ついていた。
「でさ~圭ちゃんがあんまり蕎麦、蕎麦って言うから......」
「だから覚えてないって」
「そっかぁ......」
 その時、真耶が少し寂しそうな表情を見せた。
まずい、今のはちょっと言い方が冷たかったか?
急に覇気がなくなってしまった様子に罪悪感が込み上げる。
「ごめん。俺、忘れっぽいからさ」
「じゃあ、あの時私がここで言ったことも忘れちゃったのかな?」
「ん?」
 いつの間にか、俺たちは本堂の前まで来ていた。いや、いつの間にかではなくて、たぶん真耶はこの場所を目指して歩いて来ていたんだと思う。
 俯きながら俺の少し前を歩いていた真耶が、くるっとこちらを向いて口を開いた。
「圭ちゃん、私......私ね、転校することになったんだ......」
「えっ?」
 それは何の前触れもない、突然の報告だった。どう返していいのか分からず、黙ってしまった俺に真耶は言葉を続ける
「お父さんの転勤でね、一学期が終わったら、大阪に引っ越すんだ。今まで言えなくてごめんね......」
「そっか......また突然だな。びっくりしたよ」
 それ以上、言葉が出てこない。
 ただ、俺にはどうしても気になっていたことがあった。他に聞くことなんていくらでもあっただろうに、それよりも何よりもこの時の俺が一番聞きたかったこと。
「なぁ、どうして今日は深大寺に来たいなんて言い出したんだ?」
「ううん、もういいの。本当は、最後にやり残したことがあったんだ。あの遠足の日に私がここで言ったこと、圭ちゃんが覚えててくれてたら言おうと思ってたんだけど......忘れちゃってるんならいいんだ」
 あの日ここで言われたこと。忘れるはずがない。あんなこと、忘れられるわけがない。
「いや、覚えてるよ」
「本当に?」
 真耶の顔からさっきまでの寂しそうな表情が消えてゆく。
「うん、覚えてる。お前、あの時ここで」
「圭ちゃん、大好きだよ」
「......真耶?」
「あの時から私、ずっとずっと圭ちゃんの事、
大好きだったよ」
 それは、真耶から俺への二回目の告白だった。
 俺が覚えていた深大寺でのたったひとつの思い出。それは真耶からの告白だった。
この場所で真耶に言われた「大好きだよ」。それは、遠足当日にあった他の事を全て忘れてしまうくらい、強烈に俺の記憶に残っていた。
「私ね、初恋の場所でもう一回圭ちゃんに告白したかったんだ。だから今日はここに来たの」
 これが、今日真耶が俺をここに連れてきた理由だった。
 あの時は告白されたことにただただ驚いて、何も言わずにその場から逃げ出してしまったことをよく覚えている。
 そんな俺のことをずっと好きでいてくれたのか?
 そんな俺にもう一度告白をしてくれたのか?
「圭ちゃん......私のこと......好き?」
 いつになく真剣な表情で真っ直ぐに俺の目を見て真耶は言った。
「俺......俺は......」

 二週間後。一学期の終わり、そして夏休みの始まりと共に、真耶は大阪へ引っ越していった。
 結局俺は、真耶に気持ちに答えることが出来なかった。
 その時の俺にとって真耶は、幼馴染みという関係以外の何ものでもなくて、当たり前のように近くにいる存在だった。
 だから、本気の気持ちに本気で答えられない以上、付き合うとかそういうのは違うと思った。
 だけど、離れ離れになって少し経って、俺は真耶の存在の大きさに気付かされることになる。その気持ちが恋心だったということに気付いたのはそれからさらに後のことだった。

あれから五年後の今日。久しぶりに再会した二人は、三度目となる深大寺を訪れていた。誘ったのは俺の方から。
「全然変わってないな」
「ほんとだね~」
 あの時より少しだけ大人になった二人。何気ない会話をしながら、どちらからともなく真っ直ぐに本堂を目指す。
 俺の初恋があった場所。二人の初恋があった場所。
 今日ここで、俺は真耶に告白をする。
 十年分の気持ちを、俺の本気の気持ちを伝えようと思う。
 
「なぁ、真耶。覚えてるか?」
 振り返った真耶の目には、もう涙が浮かんでいた。

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<著者紹介>

大塚 鈴(東京都小金井市/25歳/男性/会社員)

今夜は眠れないだろう。私は本をパラパラと捲りながら、ぐるぐると今日のできごとを考えていた。そこへ弟のタカシがやってきて、横で静かに絵を描き始めた。
「メグネエ、かいたよ」
見せてくれた絵はいつものように紙面いっぱいに大きく描かれた私の顔だった。弟のタカシが描く顔は、まん丸でその周りにひまわりの花びらのように髪の毛がついている。ただいつもと違うのは、ひまわりの種がこぼれたように涙が点々と描かれていたことだった。「メグネエ、ないてる」
タカシは、私に抱きついた。私は泣きそうな顔をしていたのだろうか? いや、むしろ腹を立てていた。
「メグネエ、だいじょうぶ?」
 タカシは心配そうに私の顔をのぞき込んだ。
その言葉にどきっとしながら、
「大丈夫だよ」
と答えると、タカシはひまわりのように顔をほころばした。

タカシと私は、十四歳年が離れている。ずっと弟妹が欲しかった私にやっと弟が生まれたときは、大喜びした。父は、「タカシはウチの宝だよ」と言って、「尊」と名付けた。
しかし、私はだんだんとタカシが普通の子とちょっと違っていることに気づき始めた。学校の授業でタカシのような子をダウン症児ということも知った。タカシは立つのも、歩くのも、おしゃべりも他の子より遅かった。
母は、「ゆっくりでいいよね」と言うのが口
ぐせになった。両親は、タカシがゆっくりと自分のペースで自立していくことを望み、特別支援学級を選んだ。
タカシのダウン症児特有の顔つきは人目を引いた。目が小さくつり上がっていて、舌が長いのだ。でもまん丸な笑顔には愛嬌があり、父の面差しにもちょっと似ている。
町に出れば、そんなタカシの顔をじろじろと見る人もいれば、見て見ない振りをして足早に通り過ぎる人もいる。時には「ねえ、あの子」とひそひそ囁く人もいる。町の人のそんな不自然な視線には、もう慣れっこだった。
でも彼だけは、そのどちらでもないと思っていた。同じ大学で学部は違うが、同学年の彼とはつき合って一年になる。
この前会ったとき、私は思い切って初めて弟のことを詳しく話した。障害はあるが、タカシがどんなにすばらしい子かということ。そしてどんなに両親に愛されているかということ。話終わったときは、喉がからからに渇いて、アイスコーヒーを一気に飲み干した。私が話終わると彼は黙って手を握ってくれた。彼の手は温かかった。
 今日、吉祥寺のファミレスでタカシと一緒に彼と会った。タカシはいつも以上に張り切っていて、大きな声で挨拶をした。隣の女子高生たちがこちらを見てくすくすと笑っていた。タカシは、大好きなナポリタンを頼んだ。タカシは「おいしい。おいしい」と言ってがつがつ食べる。まるで蕎麦を食べるようにずずずずと音をさせて。
「そんなにおいしい? 僕のもあげようか? 」
「えっ、いいの? 」
 私は、それを制した。タカシの口の周りはケチャップで真っ赤だった。注意すると長い舌をぐるっと回転させて口の周りを舐めた。急いで、紙ナプキンで口の周りを拭いてやる。あんまり勢いよく食べるので咳き込んで少し皿に少しもどした。彼はまだ半分くらい残っていたのに、フォークを置いた。私もそれ以上食べられなくなってしまった。タカシのバカ。恥ずかしさで頬が熱くなった。
 食事の後、井の頭公園に行くことにした。彼は、一人で先を急ぐ。足の遅いタカシは、走って彼を追いかけ、手を繋ごうとした。そのときだ。彼の手が反射的にタカシの手を振り払った。タカシはうつむき、親指と人差し指を口の中に突っ込んで指しゃぶりを始めた。不安になった時にする仕草だ。知らんぷりをして、彼は足早に歩いて行く。私は自分までが否定されたような気がして途方に暮れた。「頭が痛い。」と口実をつくって、そこで別れた。彼はいつものように送っていくとは言わなかった。その後ろ姿を見て、この人とはもう無理なのかもしれないと思った。

 次の日、私はタカシを連れて深大寺植物公園に行った。
午後の芝生広場には、大勢の子どもたちが来ていた。一人の男の子がシャボン玉を吹いている。そのシャボン玉を女の子たちがきらきらと笑いながら追いかけていた。
それを見て「シャボン玉やりたい」とタカシが言った。私は綿毛になったたんぽぽを二本摘み、一本をタカシに渡す。タカシは、ふうふうと頬を膨らまし息を吹きかける。息を吹きかけると、綿毛はシャボン玉のようにふうわりと飛んでいった。タカシが綿毛を追いかける。追いかけているうちに、鬼ごっこになった。
「メグネエ、ここまでおいで」
 私をからかって遊びに誘う。私はタカシが簡単に捕まらないようにゆっくり走って追いかけた。タカシは転がるように走り、満開のしだれ桜の下に潜り込んだ。薄桃色の花がタカシをすっぽりと覆った。
「バーリア!」
タカシは大きく手を広げて笑った。私もしだれ桜のドームの中に入った。
バリアか。私たちのバリアになってくれる人なんているのだろうか。あの時、彼は「弟を連れて来いよ」と言ってくれたのに。また昨日のことを急に思い出して、鼻の奥がツンとした。
しだれ桜のドームを出ると私はタカシを肩車してやった。タカシは、私の肩の上ではしゃいでいる。タカシを肩車するのは、久しぶりだ。ずいぶん重くなった。タカシの柔らかい体が私の両肩にずしりと食い込む。もう八歳だからな。肩の上ではしゃぐ声は、声変わりした少年のように低い。そのくせ舌が長いので、舌足らずのような甘え声になる。成長と共にこの声はもっと低音になるのだろうか。このまん丸い顔に髭も生えてくるのだろうか。私は、そんな日が来るのが想像できなかった。もし来るとしたら怖かった。
涙で空が少し歪んだ。私は、タカシに気づかれないようにして、そっと涙をぬぐった。
「あっ、あれなに?」
 タカシが大きな声をあげた。指し示した指の先には、銀色に光る飛行船がのんびりと飛んでいる。
「あれはねえ、飛行船」
「飛行船! ねえ、下ろして」
タカシを肩から下ろしてやると、芝生の上をぐるんと一回転してそこに寝そべった。「おいでおいで」と手招きされるままに、私も隣にごろりと横になった。芝生の匂いがして風が顔をなでて行った。
「おーい。」
 飛行船に向かってタカシは大きく手を振った。ちょっといたずらっぽい顔をこちらに向けてニッと笑う。
「おーい! メグネエー!」
「おーい! タカシー!」
私は、周りに人がいるのも忘れて、釣られて叫んでいた。
「おーい! メグネエー! ウンコウンコウ
ンコー! 」
タカシはちぎれるほど手を振り、ゲラゲラとお腹がちぎれるほど笑った。私も一緒に笑っていた。飛行船はゆっくりと空の向こうに消えていった。
 タカシが願い事があると言うので、深大寺へ行くことにした。山門を入ると境内には、樹木が地面に陰を落とし、ちらちらと木漏れ
陽が揺れていた。お参りの人は少なかった。
タカシは私の財布の中を探り、新品のぴかぴかに光る5円玉を掴み出すと、賽銭箱の中に放った。コトッと音がする。ぷっくりとした小さな手を合わせる。
「うろんやさんになれますように」
あれ? この前までは、おでんやさんじゃなかったっけ? そう思っているとタカシに私もお願い事をするようにと急かされた。そうは言っても、願い事が急には思い浮かばない。私は仕方なく「おそばやさんになれますように」と適当なことを言った。
「おそばやさん? 」
タカシは目を輝かせた。
「えーー、うろん~。うろん。おいしいおい
しいうろんですよ~。 おいしいおそばもありますよ~」
 タカシはニコニコしながら、屋台を引くうどん屋さんの真似をした。私は少し後悔した。英文科を選んだときから私の進路は決まっている。
 特別支援学級では毎週一回、うどんを作っている。この前の父の誕生日、家でその腕前を披露してくれた。ちょっと不揃いだが、こしがあって、とびきり美味しいタカシ特製のうどんができた。父は一口食べて、
「これはうまいぞ。タカシは、うどん屋さん
になれるな」
と頭をなでた。
「やった~」
タカシは、その場でぴょんぴょんと飛び上
って喜んだ。きっとあの時だ。おでん屋さんがうどん屋さんに変わったのは。
帰り道、門前の蕎麦屋の前を通ったら、楕だしのいい匂いが漂ってきた。どこの店からも白い湯気がふわっと出ていた。
「お腹すいた~。」
「そうだ。久しぶりに蕎麦を食べて行こうか」
その言葉を聞くか聞かないかのうちに、タカシは一目散に、一軒のそば屋目指して走って行く。勢いよくのれんをくぐり、私もその後に続いた。
「いらっしゃい。あら、タカちゃん。大きく
なったねえ」
 昼食どきをもうとっくに過ぎていたので、
店の中のお客さんはいなかった。蕎麦屋のお
ばさんは、相変わらずふっくらとしていて、
愛嬌たっぷりの笑顔だ。タカシは、おばさん
に抱きついた。ここはいつも家族で贔屓にし
ている蕎麦屋なのだ。
その声を聞きつけて、調理場からおじさんが出てきた。
「よう、メグちゃんいらっしゃい。久しぶりだなあ。タカシ~。元気だったか? 」
 タカシはおじさんに飛びつき、そのまま抱
き上げられた。「重い、重い」とおじさんはタ
カシをすぐ下ろし、大きな手で蕎麦生地をこ
ねるように頭をなでた。
「なんか、おじさんの作ったお蕎麦をたべたくなっちゃって」
「そうか。嬉しいねえ」
おじさんは下がった目をもっと下げた。
「ねえ、おいちゃん、ここでやってよ」
タカシはショーウィンドウになっている蕎麦の打ち場を指さした。
おじさんは、タカシに請われるままに打ち場に入った。私たちは、ショーウィンドウが一番よく見えるところに座った。タカシは、近づいてガラスに鼻をこすりつけるようにして、おじさんの作業を見ている。
おじさんは、さっきと人が変わったように、きりっとした職人の顔をしている。蕎麦生地をぎゅっぎゅっと力を込めて捏ねるたびに、タカシは「おりゃあ」と言って応援している。
次は、丸めた生地を綿棒で伸ばしていく。すーすーっと魔法のように生地は薄く広がっていった。タカシは私の方を振り向いて、綿棒を転がす真似をした。生地をすっすっと切ってあっという間に木箱の中に麺が収まった。
おじさんは、ウィンドウ越しに、にっと笑ってピースサインを送った。
 蕎麦はすぐにゆであがり、私たちの目の前にすっと差し出された。
「はい。お待たせ。タカシのために作った特製タカシスペシャル! 」
「イエイ! 」
 タカシは、親指を立てた。口に含むと蕎麦
の香りが広がり、冷たい麺が喉をまっすぐに
下りていった。深大寺のきれいな水が、体の
中にしみわたるようだった。
 タカシは、ずずずっと一気に小気味よく蕎
麦をすすり上げた。
「うめえ! 」
と声をあげる。
「ぼく、学校でうどんつくるよ。おいしいよ。おいちゃんにもつくってあげる」
「そうかあ、それじゃ大きくなったらおじちゃんとこで修行するか」
「うん」
 タカシが鼻を膨らませた。
そのとき、暖簾をくぐって、もう一人お客
さんが入ってきた。おじさんとタカシが同時
に声を揃えた。
「いらっしゃいませ! 」

「メグネエ、いいものあげる」
その夜、タカシは、後ろに隠していたものを差し出した。「てがみ」だと言う。手紙は細かく折り畳んであった。ゆっくりと開いてみた。タカシはちょっと照れたように小さい目をもっと細くして笑った。
そこには、『ままままま・・・』と紙いっぱ
いに大小様々な「ま」という字が書いてあった。やっと書けるようになったんだ。タカシは、「まやまたかし」という名前の中で「ま」という字だけがどうしても書けなくて長い間練習していたのだった。
「ねえ、なんて読むの? 」
「こえはねえ、『メグネエらいすきです。メグ
ネエ、けっこんしてくらさい』・・・アブエターだよ。ア・ブ・エ・ター」
「アブエター? え? ラブレター? 」
「そうそう。アブエター」
「ま」という字を一つ一つ指さしながらラブレターを読み終えたタカシは、私に抱きついてきた。

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<著者紹介>

對間 深(千葉県松戸市/54歳/女性/講師)

今日は年に何度もない、ほんとに気持ちのいい朝。こんな日は車のフォロを全開で女の子とドライブに行くのが第一希望。でも今日はじいちゃんの誕生日だ。電車に乗って調布の神代植物公園に行くことになっている。
「アツシに一生に一度の頼みがあるんだ」
八十歳のじいちゃんの一生に一度のお願いをされたのは正月だった、じいちゃんの名前は宗次郎、昭和7年生まれの今年八十歳。酒屋の長男として生まれ六十歳の時に親父に代替わりした。どうやらそんなじいちゃんには初恋の人がいるらしい、その初恋の相手は小学一年の夏に深大寺小学校に転校してきた同い年の女の子で、名前は伊達祥子さん。誕生日が同じだったことからクラスの誰よりも先に仲良くなった。一九三二年二月二九日(土)。閏年生まれ。ふたりは家も近かったから、学校への行き帰りはいつも一緒だったし、よく遊んだ。その頃から人を笑わせることが大好きだった宗次郎少年は祥子ちゃんを笑わせたり、花畑で花を摘んできては祥子ちゃんにプレゼントしていたそうだ。しかし、戦争が始まってしばらくすると、離ればなれになってしまった。祥子さんは家の都合で八王子へ、じいちゃんは品川に越してばらばらになってしまった。手紙のやり取りはしていたそうだ。
お昼前の電車に乗って神代植物公園に向かった。品川から山手線で新宿、そこから中央線で三鷹に出て約四〇分。そこからはバスで約二〇分。待ち合わせは午後一時に公園の正門だった。
ふたりは毎年会っているわけではなかった。神代緑地の時代から、閏年の二月の第2日曜日にこっそりふたりだけ会っていた。つまり四年に一度、それも数時間一緒の時間を過ごすだけだった。なぜ第二日曜日かというと、もちろん誕生日当日はお互い家族と過ごすからだ。だけど今日は誕生日当日で、ふたりの成人式だというのだ。つまり二月二九日の日は四年に一度しか来ないから。四年に一つしか年をとらないというちょっとロマンチックな話だ。うちのじいちゃんとばあちゃんはとても仲が良く、どこに行くにもいつも一緒だった。そんなばあちゃんは、五年前に亡くなってしまったけど。お墓にばあちゃんひとり置いとけないと言って、週に一度は墓参りをしている。そんなばあちゃんとは、違う愛。
一時少し前に正門前についた。僕はじいちゃんの後について行き、入り口のベンチの前で祥子さんらしき女性に会釈した。祥子さんは背がすらっと高く、年も八十歳とは見えない。何かを信じて待ち続けていられる人はこうも若々しくいられるのだろうか。笑顔がとても素敵だった。若い時分の祥子さんを容易に想像できた。こんな笑顔の素敵な女性がずっと自分のことを待っていてくれる。その笑顔だけで男として、生きてきた甲斐があると言うものだ。祥子さんの隣にも僕と同じお孫さんらしい女性が立っていた。最初に僕が紹介された。
「はじめまして新井淳です、おじいちゃんが大変お世話になっております」
次に祥子さんがお孫さんを紹介してくれた。
「この娘は私の孫で木戸あかねと言います。今年で二十四になります。今日は私のわがままに付き合ってもらって、宗次郎さんとのデートに付いてきてもらったのよ。最近はひざが痛くてね」とにっこりと笑った。
「アツシは今年で幾つだ」
「二十三になります」
入口を入るとすぐ左手にぼたん園、その奥には大温室がある、大温室の中では熱帯の花々が六百種類以上見ることができ。初めて目にする美しい花もたくさんあった。
僕らの今日の役割はただの老カップルの付き添いではない。ふたりにとっての記念日をまるまる一冊の写真集にまとめることだった。最近はフォトショップで簡単なフォトブックにしてくれる。
ゆっくり十メートルくらい離れてじいちゃん達について行った。
「素敵なお婆さまですね」
「宗次郎さんもすごく素敵ですね」
「なんかこっちが照れますね」
少し不思議だったのは、二人は手をつなぐでもなく、腕を組むわけでもない。ふたりの青春期はきっとそんなもんだったのだろう。そんなふたりの様子をカメラに収めながら、時々あかねさんを見ていた。ひとつ年上か、祥子さんのお孫さんなら、将来あかねさんは祥子さんみたいな女性になるのだろうか。
大温室を出て、バラ園をゆっくり歩いた。二月のバラはまだ花は咲いていない。見頃は五月と十月。世界のめずらしいバラも見られる。ひとつひとつのバラに名前が書いてあったので、それだけでもけっこう楽しめた。一番のお気に入りは、ノックアウト。最近はスマホにつぶやくと何でも教えてくれる。スマホの液晶画面には、普通に想像するバラとは違い、朱色に近い赤で、ふんわりとした花びらが特徴のバラが写っていた。花の咲いていないバラの木を見るのは初めてだったけど、棘だけはかなり痛そうだった。
相変わらずふたりはゆっくり歩きながら、時々足を止めては話していた。まるで天皇皇后両陛下のようだった。一番のシャッターチャンスはバラ園から上がる階段だった。そっとじいちゃんは手を差し出して、祥子さんの手を取った。ゆっくりゆっくり階段を上った。祥子さんのほうを振り返るじいちゃんの顔と、手を差し出す祥子さんの後ろ姿が、何とも言えずほほえましかった。うしろを振り返ると、あかねさんも笑っていた。あかねさんにカメラの液晶画面を見せた。すごくいい表情ね。
僕たちの共通点はないんだろうか。
「あの。あかねさんの誕生日はいつですか」。「十月よ、十月二日」
「僕は四月八日です。十月ですか、僕の誕生日の頃は桜が満開で、みんなが祝ってくれるんです」
「私の頃はコスモスね。コスモスはいろんな色の種類があって毎年友達と見に行くわ」
「確かコスモスって、秋桜と書くんですよね」
桜つながり。小さな、小さな共通点。
それから芝生広場に移動して少し休むことにした。あかねさんが作ってきたという、ヨモギ入りの草餅を食べた。何でもふたりの誕生日の花が、ヨモギだという。スマホに聞いた。花言葉は幸福。まさしくふたりにはお似合いの言葉だった。何でも同じもいいもんだ。あかねさんがつぶやいた。
「ふたりはどうやって連絡を取り合ってるの」
年賀状くらいですかね。祥子さんが答えた。
「でも年賀状にいつどこでなんて、書いてあったら、みんなにばれるじゃない」
じいちゃんと祥子さんは顔を見合わせて、少し吹き出し気味に笑った。
「それはなアツシ、ほんとは秘密だが、今日手伝ってくれたからと特別に教えてやろう、あかねさんも参考にするといい」と得意げにじいちゃんは言った。
「これは今年の年賀状だ」見ると、「謹賀新年、皆様お変わりないですか。お元気で」と書いてある。でもその横には。「今年は待ちに待った成人式ですね、楽しみにております。それではいつものように一時にいつものところで」でも明らかに文字の色が違う。祥子さんが少照れたように、じいちゃんの顔を見てから、
「あぶり出しよ」とぽつりと言った。   あの小学生の時に理科で習ったあれか。二人はスパイか。あかねさんも僕もちょっとびっくりしてから、笑った。
「でも四年に一度って、待つのは辛くないの、おばあちゃん」とあかねさんが聞くと
「あかねちゃん、来ると信じた人を待つのは辛くないものよ」と祥子さんが言った。
今度は僕が祥子さんに聞いてみた。
「祥子さんはこのままでいいんですか。たとえばもう少し、じいちゃんのそばにいたいとか」「そうは思わないわ、宗次郎さんはいつでも私のそばにいてくれてるわ。最近はメールをくれるの、おはよう、おやすみって、毎日毎日。それだけで幸せよ。でも、もしも願いが叶うなら。せっかく同じ日に生まれたのだから。同じ日に死ねたらいいわね。悲しまなくて済むし。いつまでもふたりのままでいれるでしょ」。
なんて幸せなじいちゃん。
一週間後フォトブックが出来上がってきた。フォトブックを見せると、一ページずつゆっくりめくっていった。じいちゃんは、「ありがとう」と言った。翌日じいちゃんが
「すまんがアツシ、今度の日曜日に祥子さんにフォトブックを届けてきてくれないか。調布の駅まであかねさんが出て来てくれるそうだから。よろしく頼む」と言った。
日曜日、お昼に調布の駅で、あかねさんを拾い、祥子さんの家に向った。あかねさんは桜色のワンピースに若葉色のコートを着ていた。不思議と五十年後のあかねさんを想像できた。
「ねえアツシ君、今日はわざわざあの二人が私達を会わせたのよ」
「えっそうなんですか」
「カーナビだってあるのに。無理やり私に道案内させるって決めちゃってさ。でも気持ちいいね。ぽかぽかドライブ。アツシ君はあんなおじいちゃんになるのかしら」
「あかねさんは祥子さんみたいなおばあちゃんになると思うよ」
「アツシ君の誕生日四月だったよね」
「四月八日です」
「あら日曜日じゃない。神代植物公園も桜がきれいらしいわね。今度は二人で来てみる。神代植物公園。桜の樹の下で記念写真撮りましょうよ。いつか素敵なフォトブックが出来るかも知れないじゃない」と言ってあかねさんはフォロ全開の助手席で、祥子さんに似た笑顔で空を見上げた。

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<著者紹介>

堤 裕之(東京都品川区/43歳/男性/自営業)

 恋なんてものは一体、この世に必要なのだろうか。心を乱し、焦がし、その者を尋常でいられなくさせる一方で、この上ない幸せを与えてくれる、そんな格別な力があるというのは本当だろうか。今のところ、僕は恋に興味はない。だって夢のように楽しい出来事は恋に限らず星屑みたいに至る所に散らばっていて、ちょっと足を延ばすだけで簡単に見つけられるのだから。
 たとえば、僕の日課の散歩コースである深大寺周辺だけでも山ほどある。特に僕が好きなのは、深大寺をぐるりと囲む、木々に覆われた歩道。道を挟んで両脇に立ち並ぶ木々の枝々は歩く者を優しく抱き込むように伸び、自由に広がる葉は無数の手の平みたいに強い日差しを遮ってくれる。道のど真ん中に立ってずっと先のほうを眺めると、まるで緑のトンネルが延々と続いているような、神秘的な別世界に来たような何とも言えない心地良い気分に陥る。僕は路面に映し出された木の影の上に乗って涼しい風を感じながら、今日は何を食べようかと考え幸せに浸る。  
 楽しい事はそれだけじゃない。とある蕎麦屋の脇にある水車にひょいと飛び移ってみたり、美しい草花で溢れる植物公園に忍び込んでみたり、深大寺境内にあるなんじゃもんじゃの木のなるべく高い所まで登ったりするのもスリルがあって楽しい。僕はもう大人になってしまったが童心はまだ残っていて、バカみたいに腕白なことをしてドキドキ感を得る。恋なんてせずとも胸は高鳴るものなのだ。
それは決して僻みや虚勢ではない。単純に僕が恋に興味がないだけで、恋をしたいと思ったことも、実際にしてみたこともないだけなのだ。だから、誰かのことを気に掛けたり、無意識で視線に捉えてしまうのは恋の始まりだと言われても、あまり納得がいかない。ほら、僕がよく散歩中にすれ違う、茶色い癖っ毛の僕と同い年くらいの女の子。目の大きな整った顔立ちで大抵の人は彼女を凝視し、すれ違いざま振り返りもするが、皆が彼女に恋をしているとでもいうのか。そんな単純で平凡なものなら僕はいらないし、恋にハマる者の気持ちもわからない。
そういう僕は、傍らを通り過ぎていく彼女ではなく、遠目に見える食べ物のほうに夢中で、発見次第それを確実に視野に収め涎をこぼしてしまう。あとになってから、その女の子が「ハナちゃん」と呼ばれているのを知ったとき、僕はまさしく「花より団子」なのだなあと、思わず笑ってしまったくらいだ。
 散歩中に出会うのは勿論、ハナだけではない。ウメさんという腰の曲がった白髪の老女もそうだった。強いていうなら僕は、ハナよりもウメさんに興味を持っている。言うまでもないが、それは恋ではなく、不思議な事物を解明したいというような好奇心にすぎない。 
ウメさんのあとをつけるようになったのは、彼女の孫であろうと思われる二十歳くらいの女性のある言葉がきっかけだった。毎日、孫に手を引かれ深大寺まで緑のトンネルをくぐっていくウメさんは、いつも瞳を輝かせ嬉しそうにしていて、僕はそれを木陰からちらりと横目で見るだけだったのだが、ある日、孫の発言に僕の耳が酷く反応してしまったのだ。
「いいなぁ、ウメばあちゃんは、そこまで人を好きになれて幸せだね。私もそんな素敵な恋をしてみたいな。ウメばあちゃんみたいな恋ができるなら、他には何もいらないや」
 孫の目が、あまりにも羨ましそうに輝いているせいもあったのだろう。僕は美味しい食べ物よりも、スリルある悪戯よりも、綺麗な散歩道よりも、他のどんな楽しい事よりも、そして誰が経験している恋よりも、ウメさんの恋が格別であるような気がして興味がどっと湧いたのだった。それ以来、僕は毎日ウメさんのあとを追って観察するようになった。
ウメさんは、深大寺を訪れると決まってすることがある。まず本堂、大師堂、釈迦堂、深沙堂の順に参拝してから本堂まで戻り、開花し始めたなんじゃもんじゃの木を根っこからてっぺんまでじっくりと眺める。そして、なぜか涙する。すると顔に刻まれた沢山の深い皺に沿って涙が流れていき、忽ちくしゃりと表情が崩れる。
ウメさんは、「帰って来てくれたんだねぇ」と確認するように強く、それでいて甘い口調で言い、孫は決まって横からいつもと同じ台詞を返す。
「タケじいちゃんが帰ってきてよかったね。戦争に行っても、こうしてちゃんとウメばあちゃんとの約束を守ってくれたんだよ」
 すると、ウメさんは何度もうんうんと深く頷きながら、染みだらけの細い腕を木の幹に絡める。そう、まるで幹が柔らかいクッションに見えてしまうくらい、ふんわりと優しい感じで抱きつくのだ。
「あらまぁ、タケさんは、相変わらず背が高くて、若白髪が目立っとるねぇ」
空に向かって高く伸びるなんじゃもんじゃの木は、白い花を頭のてっぺんに沢山咲かせている。けれど、それがなぜタケという人と関係あるのか、また、なぜそう見えるのかは僕にはわからない。ウメさんはどこか普通とは違っていて異様で、しかし一瞬一瞬に研ぎ澄まされた尋常さを秘めているから不思議なのだ。もしやタケさんというのは、他には何もいらないと孫に言わせてしまう、例のウメさんの恋の相手なのだろうか。
 暫く孫と一緒にそこで佇んだあと、ウメさんは「また来るからねぇ」と言ってゆっくりと家路につく。境内から出るまでの間、何度も振り返って、名残惜しそうに木に手を振る。

 僕は雨の日が嫌いだ。それなのにウメさんは華奢な傘を重たそうに持って、懲りずに孫と深大寺に向かう。僕は内心面倒くさいと思いながらも、ついついそのあとを追ってしまう。気が向いたときは、ウメさんを自宅前で待ってからあとをつけ、深大寺参拝後、家まで見送ることもある。ウメさんの日課が深大寺参りだとしたら、僕の日課はウメさん観察になってしまっていた。そう、まさかそんな日々が終わってしまうなど、わざわざ考えることがないくらい自然で規則的なものだった。けれど物事にはいつしか終りが来るようだ。僕は何の前触れもなく、突然、ウメさんと会えなくなってしまったのだった。
 今まで一日二日見かけないことはあったが、週を跨ぐことは一度もなかったのに。梅雨に入って、なんじゃもんじゃの木の白い花もすっかり散ってしまい、心配になった僕はウメさんの家の前に入り浸って一目姿を確認しようとしたが、ウメさんの家族が時々どんより曇った表情で庭先に出てくるだけで、逆にその様子が僕の不安を一層煽った。何かが胸の奥をさわさわと嫌な感じで撫でるのだ。結局、待ち続ける僕の期待を裏切るように、ウメさんが現れることはなかった。
それから半月ほど経った、しっとり生暖かい雨の降る日。何の意味があるのか、ウメさんの家の前に円状に飾られた豪華な花がどんと置かれ、白と黒の布が風にゆらゆらと寂しそうに揺られているのを見た僕は、何となくもう二度とウメさんに会えないような気がして妙に納得してしまい、同時に胸の辺りが物寂しく冷えた。もう少しだけウメさんを見続けていたかったのに。
 ウメさんは、タケさんという人に会いにでも行ったのだろうか。今頃、会えているのだろうか。僕はなんじゃもんじゃの木のてっぺんまで駆け登った。木の上から下を眺めると、ウメさんが幹を抱きしめる姿が幻のように見えて、僕はなぜか胸の奥がきゅっと締め付けられるみたいに痛んだ。今まで感じたことのない妙な感覚だった。僕もウメさんのようになりたい、タケさんのような相手がほしい、ウメさんの幻を見ながらそんな思いが体の芯を突き抜けた。まさか僕は、俗に言う「恋に恋をしてしまった」のだろうか。もしかするとウメさんが、僕の中に恋心を置いていってくれたのかもしれない。
 爽やかな風が空を通り抜け、ふと頭にハナの顔が過った。そういえばこのところウメさんのことばかり気に掛けていて、ハナと出会っていない。いや、すれ違っていても気に留めていなかっただけだろう。僕はハナの散歩コースを、不思議な気持ちを抱いたまま、ふらふらと歩いてみた。夢の中か現実なのかわからない、あやふやな足取りだった。
前方に、ご主人と一緒に歩いてくるハナを見つけ、僕は途端に気持ちがはやった。米粒のような大きさがどんどんこちらに近付いて来て、ハナの黒目がちの瞳が漸くはっきりと見えた頃には、既に僕の心は高鳴っていた。特にスリルのあることをしているわけでもなく、楽しくおかしなことをしているわけでもないのに、訳がわからず戸惑った。
ちらっとだけ目が合ったあと、ハナは僕の横を何食わぬ顔で過ぎ去っていったが、僕は間抜けみたいに口をぽかりと開いていた。一体どういうことなのか、ハナがいつもとどこか違うのだ。それは形でも、色でも、匂いでもない。どこが違うのか説明ができない。ハナから発される空気のようなものが違うのか、あるいは僕の心に何か変化が生じたのか。
 思わず振り向いた僕は、遠ざかっていくハナの背後を見た。歩くたびにくるりと巻いたハナの尻尾が小さく揺れるのを、何をするともなくぼんやり眺めていると、不思議とほんわか頬が熱くなった。ご主人に頭を撫でられるハナ。僕も同じように彼女に触れたいという気持ちに駆られた。どんどん離れていく彼女は、ご主人に何かを言われて、ワン! と可憐に鳴く。僕はそれに応えたくて、けれど勇気もなくて、その場で小さく、ニャアと鳴いて、初めて経験するこの胸の痛みに首を傾げた。そのとき、深大寺のほうから鐘の音が響き渡り、それと同時に、僕は腹の底から大きな心地良い溜息を漏らした。

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<著者紹介>

黒咲 典(大阪府岸和田市 /31歳/女性/会社員)

僕の背は、理科室の人体に満たない。厚みも満たない。僕の身体はこの片側だけ血管を晒した変な模型に劣るのかと思うと、ちょっと落ち込む。鷹野が僕のお尻を日課のように無邪気に蹴る。こいつのせいで、僕は薄っすらと消えない、鈍痛のシンボルの様な淡い痣を持っている。僕は鷹野を無視して着席する。
母は、僕が入学した年に旅に出た。その小学校生活も、漸くあと1年だ。ランドセルの内側の透明ポケットには、深大寺の御守りが入っている。母の引き出しから見つけたものだ。手作りの御守り袋に入れられていて、僕は中身なんてどうでもよくて、ただその恐ろしく芸の細かいパッチワークの手作りの袋に魅入って、以来それは僕の宝物になった。
「春樹、それ縁結びの御守りだぞ。お父さんとお母さんが一緒に買ったやつだぞ」
と父は言ったけれど、持ってちゃだめ? と訊くと、別にいいよと答えた。
鷹野にうんざりする度に目を瞑って神様、と祈る。何の神様かは知らないけれど。
「志田春樹くん」
出席を取られて、ハイと小さな声を出す。
「そうだ志田くん、あとで職員室に来てね」
反射的に顔を上げると、晶子先生の笑顔にぶつかった。暗い理科室でそこだけ光が当たったような、大輪の花のような、どうしていいか解らなくなるような、柔らかいショートヘアのきらきら光る美しい笑顔だった。

晶子先生は、僕が職員室に現れると、場所をカウンセリング室に移し、
「出しゃばりだったらごめん」と切り出した。
「春樹くん、お父さんとの生活、どう?」
僕は何とも言えずに俯き、上履きの爪先に墨汁の点々を見つけた。いつ汚れたんだろう。
「春樹くん、少し元気がない気がして」
説明するに相応しい言葉を、僕は知らない。一生懸命働く父と。床に物が散乱した部屋と。簡素で自由な夕食と。眠る前にテレビを切り、ふと母が後ろにいたりしてと振り返る習慣と。
黙ったままの僕に、晶子先生は微笑んだ。
「...そか。でももし何か春樹くんが心を痛めるような事があったら、いつでもどんな事でも、私に言って。私は、君の味方だよ」
そして僕を解放した。

帰り道、僕は深大寺に寄った。晶子先生の温かい視線を痛烈に覚えている。白く無機質な壁の中で、そこだけが慈悲色に揺れたからだ。味方。石段にぼんやり座って頬杖をつく。レトルトカレー。父からの毎日の短い書き置き。窓から見える金色の夕陽。一人分の食器を洗う僕。繊細な虹色のシャボン。味方とは、何て不思議な響きがするのだろう。

その日は、帰宅する父を頑張って待った。
「あれっ、春樹起きてたのか。ただいまー!」
父は笑った。今日は笑顔をよく見る日だなと思った。父がテーブルに座ってからも、僕は何となくもじもじした。
「ねぇ、なんでお母さんと結婚したの」
父は驚いて箸を止めた。
「何でって...好きだったからだよ」
「今は?」
訊いてからハッとした。もしかしたらもしかして、もしかしなくても僕はいま父を傷つけたのではないかと心配になった。何となく訊いてはいけないことを訊いたような気がしたのだ。
「馬鹿だなぁ」
父は箸を置いて僕を見た。
「好きに決まってるじゃないか。お母さんは永い旅に出て、僕たちが天寿を全うして会いに行くのを、にこにこ気長に待っている。好きに決まっているじゃないか。もう好きじゃなかったら、お母さんが泣くじゃないか」
「ふぅん、そんなもん」
僕はさりげなく言うように努力した。声が震えなくて良かったと思った。そしてついでに訊いてみた。
「ね、恋ってどんなもん。どんな感じが恋なの」
父は一瞬固まったあと、納豆ご飯を掻き込みながらモグモグと言った。
「その人のことを考えすぎて頭がおかしくなること」
僕はまじまじと、納豆ご飯中の父を見た。

ばか真面目に言った父の言葉が本当なら、恋とは違うかもしれない。でも、僅かにひもじい思いと泣きたくなるような優しい気持ちが交差しながら流れるそのパラドクスも恋と呼ぶなら、僕はきっと先生に恋している。僕はその甘美な濁流に呑まれて、夢現で教室の外を見ている。僕が聴きたいのは、光の子守唄だ。母に似た、母とは違う、どんな嘆きも内包しないマリアの子守唄ならみんな聴きたい。世界中の僕のような子供たちは。

晶子先生は公平だ。悪ふざけをする鷹野をその度に叱り、鷹野をからかう奴がいればそいつを叱り、事あるごとに生徒一人一人を呼び出した。晶子先生の呼び出しを鬱陶しいと言いつつ、みんな少し喜々として職員室へ行った。僕はそんな晶子先生を、いつからか諦念の混じった目で見るのだった。五月雨を過ぎ、優しく陰湿な梅雨を過ぎて彦星と織姫の逢瀬が終わる頃、僕は溜息をついた。みんなの味方なのだ、晶子先生は。そして少し傷ついた。みんなの晶子先生に。

蒸し暑くてだらだらと汗が流れるような夏休みの夜、唐突にチャイムが鳴ったので開けてみた。そこにあの笑顔があった。
「野川で、提灯流しがあるよ。一緒に行こう」
晶子先生はそう言って笑った。
「提灯流し?」
僕がぽかんと間抜けな顔をすると、玩具みたいに小さな提灯をひらひらと振って、
「四の五の言わずに早く出てこい若者よ」
と戯(おど)けた。

蝉が狂い鳴いた昼間が嘘のよう。空気の分子の隙間に慕情が入る余地は、蝉たちが眠り続けた日数と同じだけ存在する。蝉が鳴き止むこの刻は、其処此処から空気の粒が弾けて、割れて、幾つもの思い出が蘇る。夏の魔法だ。
「私はねぇ」
晶子先生が、とつとつと話し始める。
「春樹くんのお母さんの、親友だったんだ」
初耳だ。夥しい数の提灯が静かに流れていく。綺麗だ。残されていく者の思いを乗せて、その大群は静かで荘厳で寂しくて、そしてひたすらに綺麗だ。
「僕の父は知ってますか」
「当然じゃない」
「父と話をしたり、しますか」
晶子先生はゆっくり瞬きをする。
「どうして?」
どうしてと訊かれると、確かにどうでもいいことに思えた。僕は何を望んでいるのだろう。
「春樹くんは、大人になったら何になりたいの」
「何だろ...」
流れ続ける灯りを見つめる。母を想う。遠い記憶の煌き。ケーキの匂い。母が守っていた僕たちの笑顔。幼稚な鷹野にも母がいる。父は今でも母を愛している。僕は御守りを後生大事に保管し続ける。時は止まらない。点と点ではなく、線と面で粛々と流れ続ける。それは川のようだ。人々の掠れ声も悲鳴も川は受け止める、それは見事な包容力で。その静謐な佇まいから、僕は父の笑顔を連想する。それから母を。それから先生を。みんなどこか似ている。何だろう。何が似ているんだろう。蝉の鳴き声が脳内で響き始め、だんだん大きくなる。頭が割れそうなほどの強烈な蝉しぐれ。その鳴き声が祈りを伴って川に流れ込むのを、僕は見た。そうか、解ったぞ。みんな共通のものを持っているんだ。それは、何かを守りたいと切望する者の強さ。常に瞳に自分以外を映し続ける者の、それは光だ。
「なんだろ...こんな性格の人になりたいっていうのは、あるかもしれません」
「春樹くんは、不思議な子だね」
僕は顔を上げる。晶子先生が僕を真っ直ぐに見つめて言う。
「いつも何かを考えている顔をしている」、大人みたいな子」
「そうですか...」
「お父さんに、似ているのね。生き抜く力が、君には備わってる」
「...」
晶子先生が提灯に視線を戻した。
「お父さんとこの間、面談室でお会いしたの」
「何を話したんですか」
「春樹くんのこと。お父さんの口から出てくるのは、どんなに耳を傾けても春樹くんのことばかり。君は本当に、本当に愛されているよ」
僕は黙った。
「先生ね、お父さんにふざけて訊いたの。そろそろ新しい奥さんもらったら、って」
先生は淡々と続けた。
「そしたらね、お父さん、なんて言ったと思う」
「解りません」
「春樹はそれを許すでしょうか、って」
僕は風の音と共にじっと言葉を聴いていた。
先生が...先生が父と結婚してくれたらいいのに、とは言わなかった。それは僕が望むよりも大人の事情が色濃く、神様が協力するなり縁を結ぶなり、何かそういった大それたことのような気がした。ランドセルの御守りを思い出した。しまった、あれを今日持って来ればよかった。ゆらり、ゆらりと光の行列をなす小さな提灯に括りつけて、縁を神様と川に委ねて、この美しい野川をゆっくりと下っていかせるべきだったのだと、僕は思った。

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<著者紹介>

丹 千尋(東京都/ピアニスト)

「先生!」
振り返ると、入り口の方からユミが小走りで駆け寄って来るのが見えた。
春らしい色のワンピースの上にカーディガンを羽織っている。筆で描いたようなストレートの長髪が、顔の周りを気持ちよさそうに跳ねている。
私はベンチから立ち上がろうかと思ったが、煙草に火を点けたばかりだったので、腰をずらして座りなおした。
時計の針は約束の十五分前を指している。
ユミは髪を丁寧に撫で付けながら私の横に腰をおろした。
「ずいぶん早かったね。」
「先生の方が。」
機嫌の良さそうな弾んだ声。
「その服、とてもよく似合ってるよ。」
言葉を煙とともに吐き出した。
「ありがとうございます。」
ユミの少し照れたような笑顔。
「先生もその服とてもよくお似合いですよ。」
その言葉に私は吹き出してしまう。煙が喉にひっかかり少しむせた。
お似合い、と言われても、ジーパンにティーシャツ、その上からパーカーを着ているだけだ。似合うもなにもあったものじゃない。が、そう言われて嬉しくないわけでもない。
「ありがとう。知ってると思うけど、この格好は大抵誰でも似合うんだよ。」
思わず口元がゆるく曲がる。
「先生の私服見るの初めてです。」
「学校だといつもスーツだからね。私服だとだいたいこんな感じ。もっとちゃんとした格好してくればよかったね。」
着ていく服に関しては少し悩んだが、選ぶほどのものがあるわけでもない。スーツを着てくるよりは、ましな判断だったと思う。
私は短くなった煙草を灰皿に放り込み、立ち上がった。
「どっから回ろうか?」
「植物園に来たのは初めてなので、先生にお任せします。」彼女も立ち上がりなら答える。
特に順路を考えていたわけでもなかったので、なんとなく足の向いた方に歩き出した。
桜の見頃だけあって、園内は普段よりも混んではいるが、不快になるほどではない。
学生にとっては春休みだが、私よりも年長の来園者の方が多いようだ。それに家族連れや若いカップルがちらほら。
「大学生活の準備はできた?」
「準備なんてほとんどないですから。敷地だって同じなんだし。」ユミが答える。
ユミはリズムよく、こぎみよく歩く。私の方が歩幅が広いので、いつもより少し歩調が遅くなる。
正面に大温室とバラ園が見えてきた。
「まずあそこ行こうか。」私は温室を指差した。
「はい。」ユミが笑顔でこくり、とうなずいた。
温室に入ると、むっとする空気と甘ったるい匂いに包まれた。
ユミは百合の匂いを嗅いでは声をあげ、奇妙な形の熱帯植物を眺めては疑問を口にする。まるで初めて植物を見るようなユミの反応が、とても好ましく思われた。
私はユミの疑問に豊富とは言えない知識を総動員して答える。もう少しちゃんと勉強してくればよかったかな、と少し後悔した。
温室をひととおり廻ってから外に出ると、私達はバラ園を見渡せるベンチに腰をおろした。バラの見頃にはまだ早く、人影もまばらにしかいない。
「植物園、よく来るんですか?」ユミが尋ねる。
「たまにね。家近いから。」
「先生は植物が好きなんですね。詳しいし。」
「サラダは好きだよ。」私が答える。
ユミの小さくはじけた笑い声が、気持ちよく空気をふるわせる。
「そんなに植物に詳しいってわけじゃないし、植物が好きって言うよりは、この植物園の空気が好きかな。散歩してると気持ちいいし。」
夏も秋も冬も来るけど、私はこの季節の植物公園が一番好きだ。
「うちの親は凄い植物マニア。二人とも年間パスポート保持者。」
「ご両親と一緒に来たりもするんですか?」
「いや、それはないね。特に仲良いわけでもないから。」
実家には、私が離婚してから一度も顔を出していなかった。
そういえばユミは私が結婚していたことを知っているのだろうか?
「突然だけど、バツイチだって知ってるよね?」私が尋ねる。特に感情が込もらないように気を付ける。
「昔、ある人と結婚して。で、そのある人と離婚したんだけど。」
「ええ、知ってますよ。」
いかにもそんなことは気にしていない、という感じで言ってくれているのが伝わってくる。それが伝わってくるぐらいは気にしていたのだろう。
こういう話は自分から言わなくても、毎年新入生も含めて校内すみずみまで行き渡る。誰がそんなに律儀に言いふらしているのか、いまさら腹は立たないが不思議には思う。
しかし、それを知っててよく私なんかに。
「歩こうか。」
私はユミを促してベンチから立ち上がると、再び歩き出した。
バラ園から、園内を半時計回りに広場の方に向かう。歩道に落ちる木漏れ日の中をゆっくりと歩いて行く。
「いつか先生のご実家に挨拶に行ってもいいですか?」ユミが尋ねる。
実家?私は思わずユミの横顔を眺めた。
「すぐってわけじゃなくて。いつか。」
ユミは真っ直ぐと前を向いて歩いている。
「いろんなことがうまくいったら、いつか。ダメですか?」
うまくいったら...?
私は少し間をあけて答えた。
「いいよ。驚くだろうね。」
それを聞くと、ユミは満足そうに頷いた。
私は急に彼女を困らせたくなる。
「こっちもいつか実家に挨拶に行った方がいいのかな?」
私がちゃかした感じで尋ねると、ユミは前を向いたままはっきりと答える。
「もちろん!」
私は彼女の勢いのある返事に笑ってしまう。
広場の周りの桜並木が見えてきた。
「先生のこと、名前で呼んでもいいですか?」
「名前って名字で?」
「いや、下の名前で...。」
そういって彼女は恥ずかしそうに視線を落とした。私は答える。
「もちろんいいよ。名字でも、下の名前でも、アダ名でも。好きなように呼んでくれれば。敬語もいらない。もう生徒と教師って関係じゃないんだし。」
空いているベンチを見付けたので、そこに腰掛けて煙草に火を点ける。桜と広場が見渡せる灰皿つきの特等席。
ユミと同年代ぐらいのカップルが、ベンチの前を通りすぎる。ユミがカップルを目で追っているのがわかる。
「私ね、相談したんです。先生に告白する前に、友達に。一人だけ。」
誰かは秘密です、と笑顔で付け加える。
彼女のクラスメイトの顔が何人か思い浮かんだ。
「やめた方がいいって言われました。普通の恋愛した方がいいって。」
私は火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し込んだ。
目の前の広場では、最近やっと歩けるようになったぐらいの小さな子供が、一人でボールを追いかけて遊んでいる。
私はパーカーのポケットから煙草を取り出すと、再び火を点けた。
「普通の恋愛ってなんですか?先生はなんだと思います?」普通の恋愛?
私は少し考えて、煙を少し吸い込むと、言葉とともにゆっくりと吐き出した。
「もしそんなものがあったとして、仮に。」
遊んでいた子供がボールに躓いて泣き出した。周りの注目を集める。
「全ての人間がその普通の恋愛ってのをしなきゃいけないわけじゃない、と思ってる。」
どこか近くで見ていたらしい両親が、子供に駆け寄ってくる。平和な光景。
「周りから普通じゃないっていわれても、気持ち悪いと思われても、自分にはそんなこと関係ないと思ってるよ。」
父親が子供を抱きかかえ、母親がやさしく声をかけているが、子供はまだ泣き止みそうにない。普通の家族。
「私はユミが好きだよ。」
それが普通かどうかなんて。

ユミが立ち上がる。
「飲み物買ってきます。先生何飲みます?」
「何でもいいよ。それにもう先生じゃない。」
私は笑いながら答えた。売店に歩いて行くユミの背中をぼんやりと眺める。
ユミは売店の横にあった自販機をしばらく眺めてから、こちらを振り向いた。
「ねえ、エリコ!なにのむ!」
ユミが必要以上の大声で叫ぶ。その声に、周りの人たちがユミを見て、それから彼女の視線を追ってその先にいる私を見る。
ここでそうきたか。
私の口元がゆるむ。吹き出しそうだ。
「エリコ!なんにする!」
ユミがまた叫んだ。
発作的な笑いとともに私の首がのけぞる。桜の花びらの向こうに空が見えた。全てが淡くにじんでくる。彼女の声が再び。
私の笑いはしばらく止まりそうもない。

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<著者紹介>

佐藤 小岩(東京都調布市/28歳/男性/会社員)

  待つ、ということは昔から苦手だ。
 晩ご飯ができるのを待つ。出張からお父さんが帰ってくるのを待つ。お姉ちゃんが漫画を読み終わるのを待つ。流行りの美容室の予約が空くのを待つ。
 何かを待つ、ということは、とても疲れることだ。それは、百メートルを全速力で走り切った後に感じる疲れとは、全く異質のものだったりする。
 私は今、男を待っている。見知らぬ土地の、初めて入ったそば屋の中で。もう、何分も。
 従業員の男性が、そば湯を運んできた。Tシャツから伸びた黒いたくましい腕がとても印象的な人だった。そば皿や盆を持つよりも、例えばサーフボードとか、スキー板なんかを担がせた方が、ずっと似合うのになと思った。
「こちらは、もう下げても?」
 尋ねられて、私は小さく頷くことしかできなかった。目の前にある皿が、次から次に片付けられていく。その間私は、恥ずかしさからずっと頭を下げていた。
 やがて机の上には、あいつが頼んだものだけになった。綺麗に盛られていたはずのそばは、皿の上ですっかり伸び切り、週末のたまった洗濯物みたいな有様になっていた。その横で仰々しく鎮座している海老の天麩羅は、まだ手つかずのままだ。一番大好きなものを、一番最後に食べるあいつを、可愛いと思えなくなったのは一体いつの頃からだろう。
 私は彼氏を待っている。デート中に、しかも食事中に、彼女を平気で一人にさせて、何分もトイレにこもっていられるような男を。
 机の上から窓の外に視線を移す。風になびかれた木々の枝と共に、梅雨入り前の深い緑がよく揺れている。遠くの方に見える「手打ち」と書かれた他の店の暖簾が、今日のねずみ色の空と相まって、よりその店の老舗らしさを際立たせていた。
(こんなことになるのなら)私は窓に映る景色を眺めながら思った。(あの人の誘いを受けけるんだったかな)
 昨日、東北の片田舎から新幹線に乗ってここ東京までやってきた。今トイレにいる健太の友人が、青山で結婚式をあげるということなので、私もそれに便乗してついてきたのだ。
「でも百合ちゃん、本当に大丈夫なの?」出発の前夜、健太は私に念を押すようにいった。「東京で時間を潰してるなんて、本当にできるの?」
 私は大丈夫だと少しムキになりながら答えた。健太はそれからすぐに寝息を立てはじめた。共に二十六歳。付き合いはじめてから約三年。同級生が結婚するということに対して微塵も焦りを感じない男のまるまるとした寝顔は、頬をつねりたくなるような代物だった。
 東京に着き、そのまま教会に向かった健太を見送った後、私は急いで電話をかける。あの人は、すぐに出てくれた。昔と変わらないその低い声を耳に、思わず青山というおしゃれな街で、一人身を震わせてしまう。
 私はあの人の指示に従ってタクシーを拾い、新宿にある有名なホテルの名を告げた。ホテルに到着すると、タクシーに歩み寄ってくる一人の男がいた。私は、それが直ぐに彼だと分かった。約三年ぶりに会う元カレは、当時よりもうんとスマートになっていた。めかしこんできたというそのスーツ姿に加え、タクシー代の支払い方とか、エレベーターの壁に背を預けて腕を組む仕草とか、その一つ一つが、紙に置かれた筆の墨のように、いちいち私の心に滲むのだ。
 ホテルの中にあるレストランで、私たちは、コースもアルコールも同じものを頼んだ。彼がグラスに手をやる度、右腕にまかれた雄々しい腕時計が、東京を一望できるほどの大きな窓から差し込む光によって、大げさに輝いた。ネクタイの結び目も、中指の爪くらい小さく、きつく締められていた。そのどれもこれもが、決して嫌いではなかった。
「で、今の彼氏とは上手くいっているのか」
 急な質問に思わずドキリとしてしまう。
「まあまあかな。そっちはどうなの」
「俺か」彼はグラスの中のワインを飲み干して、私の目を見据えながらいった。「俺は今、フリーだよ」
 オレハイマ、フリーダヨ。頭の中で反芻すれば、酔いが一気に醒めてしまう。明らかに挑発的な彼の語調に、微かな喜びを感じている自分がいることを否定できない。
 そして案の定、それはきた。
「なあ、よりを戻さないか」
「無理よ。そっちは東京だし、それに、私には彼氏がいるんだから」
「だったら、そいつと別れてこっちに来ればいい。簡単な話だろ」
 心が揺さぶられる。それでも、一度は捨てられた者としての、意地が働いた。
「でも、健太に悪いから......」
 沈黙。妙な間が息苦しい。彼氏に悪いから、という理由が、誘いを断る明確な理由になっていないことを、私は気づいて後悔した。
「彼氏は今、青山にいるんだっけ?」
 おもむろに、過去の男は口をひらいた。
「そう」
「だったら、今からそいつを見に行こう」
 彼は立ち上がり、私に背を向けた。
 私はわけが分からないまま、彼の後を追った。本来であれば止めるべきだったのに、再び青山に向かうタクシーの中でも不思議と気分は高揚していた。そして結婚式が挙げられている会場の前に着くと、私たち二人は建物の影に身を潜め、肩を寄せ合いながら健太が中から出てくるのを待った。
「はっ、まるでかくれんぼだな」
 しばらくして、中からぞろぞろと人が出てきた。その群れの中には、健太の姿もあった。内気な性格の彼は、なかなか輪になじめないようで、常に一人でいた。
「ちょっと、からかってやろうか」
 止める私の腕を振り払い、彼は何食わぬ顔
をして、健太の目の前を行ったり来たりした。健太は、何度も自分の目の前を行き来する男に、不振な目を向けていた。
 それを見て私は、怒りと自責の念が同時にこみ上げてきて、逃げるようにしてその場を離れた。離れて、すぐに地下鉄に乗り、予約していたホテルに一人チェックインした。
 携帯電話が鳴り止まない。鬱陶しさから電源を切り、ダブルサイズのベットに横になる。顔を押し当てた枕は柔らかでいい匂いがした。

 健太は思っていたよりも早くホテルに現れた。結局、場の雰囲気に馴染むことができずに、二次会の途中で帰ってきたのだという。
「明日は、どこか行きたい所ある?」
 私は、首を横に振った。この人は、私が日中、誰と会っていたか知らないのだ。そして、私たちに見られていたことなど、まったく気づいていない様子だった。
「百合ちゃん、どうしたの?」
「今日はなんだか疲れちゃった。明日どこに行くかは健ちゃんに任せるから」

 翌日、曇天の中、健太に連れられた場所は、東京の調布市にある深大寺というお寺だった。 
 武蔵境通りから深大寺通りに入り、参道の脇を流れる清水に目を癒しながら足を進めると、深沙大王堂と呼ばれる社があった。ここに祀られている深沙大将は、あの西遊記の沙悟浄のモデルになったともいわれている。
 そこから本堂まで伸びる道には、土産物屋やそば屋が建ち並んでいた。軒先に飾られた提灯や暖簾によって、親に手を引かれる子供たちは、祭りに似た興奮を覚えている。他にも、足を止めて写真を撮る者や、設けられたベンチに腰かけアイスやせんべいをほおばる者など、昨日見た東京とはまた違った色の景色がここにはあった。
(あの人は、怒っているだろうか)
 それでも、私の気持ちはすぐに都心の方へと飛んだ。バックの中の携帯は、昨夜から大人しいままだ。だからといって、こちらからかけてしまっては、その先、また捨てられるのがオチだと思った。
「せっかくだから、どこかに入ろうか」
 参拝後、私たちは一軒のそば屋に入った。
彼が天ざるを注文したので、私は別なものを頼んだ。粉の香りとコシのある細麺の美味しさに、ようやく鬱々とした気分が晴れてきたそんな矢先、彼はトイレに立ってしまった。

 ポツポツと、窓を叩くものがある。見れば、夏草の繁茂する地面が雨に打たれていた。バックの中から取り出した携帯の液晶には、今日の日付けが表示されているだけだ。
 私は健太をトイレに残したまま、会計を済ませ店の外に出た。つい数分前まで賑やかだった参道からは人影が消え、土産物屋の軒先に並べられた商品には、濡れてしまわぬようにとシートが被せられる。松葉色のシートに落ちる滴の音は、私の心と深大寺をますます引き寄せる。
 山門をくぐり、本堂まで真っすぐ歩く。額にはりついた前髪を整えて、本日二度目のお賽銭。だが一体、何を願えばいいのだろう。
「どうか、百合ちゃんが見つかりますように」
 と、隣から、馴染みのある声が耳に響いた。途端、私の目からは泪が溢れた。幼い頃によくしたかくれんぼで、おににみつけてもらえたときに得る矛盾した喜びが、懐かしく胸の内に広がったのだ。
「どうか、また来年も百合ちゃんと一緒に、ここのそばが食べられますように」
「わかったから......もう、わかったから......」
 私たちは来た道を戻った。手を繋ぎ、人気のない参道を、一歩一歩、自分たちの足で。
 深大寺に降る雨が、徐々に弱まっていく。
ようやく顔を覗かせた太陽が、あたたかな光を参道に落としている。本格的な夏は、もうすぐそこまできている。 

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<著者紹介>

永井 周光(福島県福島市/25歳/男性)

 賽銭泥棒しようかと思ってさ......。
 そんな顔すんなよ、ちゃんと話聞けって、まだ、話ははじまったばっかりだ。
金がないんだよ。いや、何かあったわけじゃないんだ。盗まれたわけでもないし、ギャンブルで擦ったわけでもない、女に貢いじまったってわけでもない、単なる無駄遣いってわけでもない。ただ、夏休みに入ってうかうかしてたら、あっという間になくなってた。
 ウチ貧乏だし、生活費の主は奨学金なんだけどさ......奨学金だけじゃ生活できないじゃん。バイトしろ、バイトしろって、親とかもウルサイし。そりゃ、バイトはした方がいいのはわかってるけど、金があればいろいろ気持ち的にも余裕もできるだろーし、だけど、できないんだよなこれが。憧れの東京に来たんだから、原宿や渋谷で流行りの服買ってさ、彼女だって作りたいさ、週末飲み行くとか憧れるしさ。俺みたいな大学生も居るかもしんないけど、俺だけ孤独な気がして。
 なんか無理なんだよ。バイトだって、時給の良い近所のパチ屋に面接に行ったんだ。高校時代のバイトは、田舎だったし暇なコンビニでさ、そんなとこでしか働いたことない俺が、なんでかしんないけど、一発で面接受かっちゃってさ。
 なんで、パチンコ屋に面接に行ったかって? なんか、憧れみたいなのがあったんじゃん? それに4流? 5流? な大学しか入れない俺には、家庭教師とか、塾講師とか、そんなバイトも出来るわけないしな。即採用で安心したけど、仕事がキツイのなんのって。体力は使うし、音はうるせーし、それに煙草が辛いのって。昔からぜんそく持ちだし軽いもんだけど、まあ、吸えないしみたいな。
 働いてる奴も煙草吸う奴多くて、休憩室にも入れなくて、誰とも仲良くなれずに......。
どう深大寺に繋がるかって?
 まあ、聞けって。バイトは一週間ぐらいで辞めちまったんだけど。することないわけ。大学の奴とかさ、地元の奴はさ、大学で新しい仲間作って楽しそうにやってんじゃん。俺だってそうしたいけど、人見知りだしな。俺だけなんもないみたいな。
結局、コンビニで酒買ったり、煙草買ったり、着る場もないのに服とか買ったりして、金も使っちまって。しかも、夏休み入っちまうと、海だプールだ花火だって、世間が騒ぐから、ますます自分の居場所がない気がして滅入っちゃって、行く相手だっていないだろ? 
 お前?
 まあ、お前は親友だよ。けど、男同士で行ってもなあ。親元離れて、解放されて遊びたいみたいな理想があったのに、鬱々とした感情から抜け出せなくて。
 毎日DVD借りるぐらいしかすることなくて。今、百円だし。着替えもする気なしないし、風呂も入る気おきないし。近所のコンビニとかマックとか松屋とかばっかで、メシ食ってさ、そしたら、本気で金もなくなっちまって。ここで深大寺に繋がるわけ。
 夜中に深大寺に忍び込んでさ、蕎麦屋も土産物屋もなーんもやってなくって、暗い通りをさ、誰にも見つからないように、こそこそ歩くの。誰も居ないのにこそこそ。
 何しにって? ......だから言ったじゃん。賽銭泥棒。
前に一回行ったんだって、彼女できますようにってお願いしに、そんときは、真剣にお願いしてたのに、できなかったんだから、せめて、ちょっとでも返してもらおうと思って。そんとき、小銭がなくて、五百円も入れたんだからさ。
 賽銭箱を木陰から見たんだ。まあ、心臓はバクバクだよな。けどよ。そんときに女の子が居て、後ろ姿は可愛い格好してて、同い年ぐらいかな? 白いシャツにピンクのスカート履いて髪はセミロングっていうの? 肩ぐらいの長さで。彼女、ずっと、手合わせて祈ってて、賽銭箱の前から動かないんだよ。五分かな、十分かな、とにかく長く感じた。早くしろよって時にさ、俺のケータイが鳴って、一日に一回も鳴らないようなやつがだよ。しかも、内容とかもおかんからでバイト決まったかー? みたいな。でさ、その子が音で気付いちゃって、こっちに気付いちゃって。それが、マジ可愛いんだ。色白で目も大きくて、鼻が三角で、三角って変か。なんか、好み過ぎるぐらい好みで。男ってバカだよな。賽銭泥棒がどうのこうのより、いつものジャージとTシャツで来たことを後悔するっていう。
 驚いた顔でこっち見るからさ、近付いてなんか言わなきゃって、彼女は怯えてたみたいだけど、寄ってたんだよ。怪しい人間じゃないって、ごまかさなきゃみたいなのもあったのかもな。彼女も逃げる気配とかないし、目の前まで行って言うことなくて思わず「......月、キレイですね」とか言っちゃって。バカだろ? 夏目漱石かっての。その子怯えた顔しながらも「......そうですね」とか答えるわけ。でも、よく見たら、その子泣いてたっぽいんだよ。暗闇だからよくわかんないんだけど「......どうしたんですか?」とか聞いたら
「......彼氏にフラれちゃって......」とか、普通に答えてくれるわけ。誰かに聞いてほしかったんかな? で、なんか、言わなきゃみたいな、けど、なんも言えない気がして、ない頭で考えても何も言葉が出てこないし、どうしようとか思ってたら「あなたは?」って彼女から声掛けてくれたんだ。おおとか思ったけど、金がなくて賽銭泥棒に来たとは、間違っても言えないし。
「......まあ、いろいろと重なって、神頼みに来たみたいな......」とか言うわけ。
 笑うなって。そんなもんだろう?
「まあ、人生っていろいろありますもんね」って、彼女も笑うわけよ。また、それもかわいい笑顔なわけ。
 金盗もうと思ってた。賽銭箱の前で必死で女の子と仲良くなろうって、次の言葉探してる俺って、バカだよ、バカ、バカ。
「あなたみたいに可愛らしい人がフラれるんだなんて」
 頭おかしくなってたんだろうな? 犯罪しようと思ってた、俺の前にいきな天使みたいなかわいい子が現れたんだから。普段なら可愛らしいなんて言葉、絶対、女の子に言えないからな。彼女は笑って「そんなことはじめて言われました」って照れたように、下を向いてさ、恥じらいもたまんないね。
それに調子良くして「彼氏にフラれてなんで深大寺なんですか? 気に触ったらごめんなさい。恋愛の神社だから、フラれたから来るってことは新しい、彼氏が欲しいか、もしかして......」それ以上聞くのは良くない気がした。というよりも、聞いたら自分がショックを受ける気がしちゃって。
「まだ、私、彼が好きでやり直したくて」
 やっぱりだよな。
「そうですか......でも、世の中には素敵な人がたくさんいますから、あなたみたいな人なら絶対、新しい彼氏できますよ」
「可愛らしくなんてないですって」
「あなたこそ、いろいろって恋愛絡みですか?」
「まあ、それも含め」
「お祈りしなくていいんですか?」
「......ああ、そうですよね」
 そこまでいって、財布がないことに気付いた。お金を盗みにきたのに財布なんて持ってるわけないだろ? 一応、ポケットを漁るふりをして「財布忘れて来たみたいで......」あははっみたいな「おもしろい人ですね?」って、彼女も笑いながら、鞄を開けて「五円なら貸しますよ」「いえいえいいですよ。こないだ、五百円入れたんで百回分ですよ、今回は賽銭なしでも神様はサービスしてくれますって」「それは良くないですよ。こんな時間にあなたにも会えたのも、何かのご縁ですからもらって下さい」って、五円玉を差し出してくるの。その、セリフには心臓がなるっていうか、どきっとした。
 それで、どうなったかって?
 どうなっただろうな? 言いたくないな。別にもったいぶってないよ。
「じゃあ、私はこれで......」彼女は五円を渡して俺の元から立ち去ろうとした。声を掛けようとした。何か言わなきゃって「......待って......」聞こえたか聞こえないようなちっちゃい声だったと思う。けど、彼女は振り返った。
「また、会える?」
「ご縁があれば、会えるんじゃないですか? 私、近くに住んでるんで」それ以上、何も聞けずに、彼女は去っていった。
 彼女が去った後にその五円玉握りしめて『もう一度、彼女に会えますように』って願い込めたさ、金なんていろんな人の手回ってるのに、手放したくなくて。けど、この五円でお祈りしたら、願いが叶う気がして。夜中だし小さくカランカラン鳴らして、手合わせて帰ったよ。賽銭盗もうなんて、もう頭から無くなってた。
 連絡先?
 聞けるわけないだろ? こんなダメ男がさ
 ......とりあえず、次の日からバイト探して、コンビニで働いて、まあ、すぐ見つかって良かったけど。今は、部活かサークルかなんか探そうかなって感じだよ。バカみたいかもしれないけど、夢みたいなもの見つけられたな。
もし、ご縁が会って次に彼女に会えた時に堂々と連絡先聞きたいからな。
 まじ、頑張れよ深大寺のご利益って感じじ!!
 彼女が元カレとより戻してたら? いいんだよ。そのころには、イイ男になって別のもっと、素敵な女の子見つけてるからさ。ご縁があれば会える気がするんだ。
 なんの根拠だろうな?

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<著者紹介>

舟崎 泉美(東京都世田谷区/28歳/女性/ライター)

 どうして私がこんな目に遭わなきゃなんないの――。
 もう何度繰り返したかさえ分からなくなった自問を飲み込み、私の前をすたすた歩く長身の男の背中を睨みつける。玉砂利の庭を必死で追いかける。ハイヒールの中で足指が悲鳴を上げるのを、奥歯をギリギリと噛みしめて耐える。苦難の行軍。表層0.5ミリで取り繕っている笑顔も、もうあと何分も保つまい。ええい、もうどうにでもなれ。
 ――あとは、若いお二人で......。でも、羽目を外しすぎては駄目よ。
 別れ際に、鎌倉の伯母が言った言葉が脳裏に蘇る。最後のセリフは私に向けたものだ。笑顔だが、眼鏡の奥の目は笑ってなかった。――私の顔を潰す様な事をしたら、わかってるでしょうね。まるで喉元に突きつけられた刃のような無言のメッセージ。ハイヒールは駄目、という伯母の忠告を、私はすでに無視していたのだ。――あんたって子は、ちょっと眼を離すと......。でも伯母さん、私いま、拷問に遭っているのよ――。いや、だめだ......。これ以上、あの伯母を敵に廻すようなまねはできない。
 やっぱり、この私がお見合いをするってこと自体が間違いだったんだ。結婚なんて、まだまだ先の話。すくなくとも、私はそう思っている。男友達だっていっぱいいるし、ソーシャルとプライベートの微妙な境界で、ダンスを愉しむ相手だって二人ほどいる。――ただ子供のころから、お見合いというものに憧れがあったというだけだ。
 自分の見通しの甘さに打ちのめされたのは、紹介されて五分も経たないころだった。釣り書きをしっかり読み込んでいたので、だいたいの情報は頭に入っている。だいいち、あの伯母が紹介する男だ。スペックは最高。それに見た目もなかなかのものだ。ホテルのロビーに入ってくるところを見かけた時は、不覚にもどきどきしてしまった。
 しかし、浮かれていられたのも、相手が口を開くまでだった。というか、この人、ほんとうに口を開くことがあるの?こちらの問いかけをストレートに打ち返すだけなので、会話が弾まないことおびただしい。返ってくるのは単語か短いセンテンス。英語で言えば、冠詞を除いて、単語三つまでしか組み立てられない第三文型の男だ。そのうち、私だけがひとりで喋っているような状態になり、我ながら馬鹿みたいに思えてきた。次第に心が重苦しくなってくる。これが学習性無力感というやつだな、などと考えていると、鎌倉の伯母も、これはまずいと思ったのか、ホテルでの会話を早々に切り上げ、若い二人を野生環境に解き放つという作戦に出た。なんと言っても、妙齢の男と女だ。自然の中で羽根を伸ばせばやることはやってくるだろうという、伯母らしい大胆な作戦だ。こうして私は、第三文型ヤロウと二人で、野生の原野に放り出されることになった。
 「少しだけ、足を延ばしてもかまいませんか?」
 ロビーを出て直ぐに彼が言った。
 「わあ、どこかへ連れてってくださるんですか?」
 新たな展開にオッと思い、飛び切りの笑顔でうなずいてみせた。しかし連れて行かれた先はベンツの駐めてある駐車場などではなく、初めて乗る京王線という電車の駅だった。
 
 水色のスリップドレスにボレロ、エルメスのバッグにハイヒールで決めた私。隣には、仕立てのよさそうなスーツ姿の彼。いかにも、と言うしかない二人が、参拝客でいっぱいの、深大寺の玉砂利の庭の真ん中に立っている。これって本当にお見合いなの?いくら考えても自分の置かれた状況が飲み込めず、私の頭は真っ白になっていた。ふと気がつくと、彼が何やら私に話しかけている。どうやらこのお寺について、私に説明しようとしているらしい。しかし、私の頭には、その説明がまるで入ってこない。東京で三番目の古刹とか、満功上人とか、だるま市とかいう言葉が頭の中を通り抜ける。彼の説明と、いま自分が置かれている状況を結び付けようと必死で考えるが、私の頭は空回りするだけだ。天台宗?阿弥陀三尊像?深沙大王?――縁結びの寺だと?ふざけるな。
 その時、私の足元を茶色いものが走りぬけた。自然に眼があとを追う。それは近くにあった木の幹を垂直に駆け上がり、最初の枝の真ん中で止まった。栗鼠だ。両手で木の実を抱え、困ったような目付きで周囲を見回している。
 突然、ある光景が蘇った。鎌倉の叔母の家の庭。裸足の私が、松の枝の上でキョロキョロしている栗鼠を見つめている。どうしてもあの栗鼠を捕まえたくて、松の枝にしがみつく。手を伸ばしたとたん、バランスを崩して下の池に落ちる。池の中に尻餅をついて上を見上げるが、栗鼠はとっくに何処かへ逃げてしまった。――あんたって子は、ちょっと目を離すと何するか分かんないんだから!
 いつも裸足で走り回っていた。あの頃の私は伯母のことが大好きだった。
 あれ、と思った。何か変だ。胸の奥がもやもやする。何かが決定的に間違っているという奇妙な確信。そして、ようやくその正体に思い至る。そうだ、確かに間違っている。だって、私は今でも伯母のことが大好きだもの。
 
 涼しい風が通り過ぎた。周囲を取り巻く音が、突然、耳の中で蘇った。先ほどまで、あれだけ話しかけてきた彼が、今では何も言わず遠くを見つめている。私も改めて周囲を見回してみた。ふたりは、黙ったままそこに立っていた。私と彼との間には、二メートルほどの距離が置かれていた。
 都心の近くにこんな所があったのか。周囲を取り囲む木々を目で追ってみた。目を瞑ると、騒音の向こうでいろいろな音がきらめいている。この場所だけ、違う色の風が吹いているみたいだ。
 「ここって、東京じゃないみたいね」目を瞑ったまま言った。
 彼がこちらを向くのがなんとなく分かった。だけど何も返ってこない。それでも構わないと思った。
 「今日、なんでここに来ようと思ったの?」
 しばらく待つと、彼の声が返ってきた。
 「ぼくは、ここが好きだから――」
 第三文型ヤロウ!なんだか可笑しくなった。少しだけ声を出して笑った。薄目を開けて、一メートルだけ彼の方に寄った。
 「ハイヒール脱いでもいい?」
 「えっ?」
 目を開けると、彼がぎょっとした目でこちらを見ている。右手にエルメス、左手にハイヒールをぶら下げた、お見合いドレスの女を想像した。可笑しくなって、声を上げて笑った。
 「うそ。冗談よ。でも私、足痛くてもう歩けない」
 ぽかんとした顔の彼は、突然、事態を把握したという表情になり、私に謝りだした。自分の失策に気づいておろおろしている。その様子が好ましく、なんだか可哀想になった。
 「いいって、いいって。それより何処かで腰掛けましょ」
 さっきまでの腹立たしさは、いつの間にか消えていた。私の周りの男で、ハイヒールの女を歩かせるような奴はいない。だから、腹立たしさも覚えない。彼らとの間で経験するのは、もっとぎすぎすした違う種類の感情だ。こんな人もいるんだな、と思った。
 私が、参道の蕎麦屋に入りたいと言うと、彼がうなずいた。二人並んで、蕎麦屋までゆっくり歩いた。さっきまでとは打って変わって、私はだらしない足取りだった。暖簾をくぐり、木の椅子に腰掛けるとようやく人心地がついた。
 冷えた麦茶とメニューを持ってきた女将さんと眼が合うと、女将さんはなんだか訳知り顔で笑みを送ってきた。普段なら反発を覚え、たちまち不機嫌になる私だが、不思議な事に、自然な笑みを返すことができた。この場所に吹く、違う色の風のせいだろうか。それとも第三文型の彼のせいか。
 蕎麦を食べ終わる頃には、陽は傾き、参拝客の姿もまばらになっていた。女将さんは、店終いの準備をしている。私たち二人が、最後の客だった。彼は通りに眼をやり、家路を急ぐ人々を見送っていた。私も彼に倣った。女将さんには悪いが、もう少しだけこうしていたい。
 「連れてきてもらって良かったよ、ここ」通りを見たままつぶやいた。「――知らなかったわ、東京にこんなところがあるなんて」
 相変わらず、彼から返事は返ってこない。それでも良かった。
 「――私も、ここ好きよ」
 私のつぶやきの間を流れる沈黙が、今ではとても心地よく感じる。
 彼のことをもっと知りたい、と思った。それに彼にも、私のことをもっと知ってもらいたい。テーブルの下で、そっとハイヒールを脱いでみた。子供の頃に戻ったような開放感が私を包みこんだ。
 そのハイヒールを蹴飛ばした。片方がころころと転がり、彼の足元まで行って止まった。彼はしばらくそれを見ていたあと、困ったような顔で私を見つめ返した。
 あの栗鼠そっくり!思わず吹き出した。口元を両手で押さえたが、しばらく笑いは止まりそうになかった。しばらくすると彼も笑い出した。
 私たちの笑い声を、深大寺の風が運んでいった。

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<著者紹介>

榊 貴之(東京都稲城市/51歳/男性/会社員)

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