「うまそうな夏蜜柑ですね」と僕は言った。
 それは実にうまそうに見えた。ごつごつとした球形を成した橙色の果実は、木で作られたかごに四つ添えられていた。へたはスーパーやらで売られているようなヘソ型ではなく、二センチほど余分に茎が付いていた。それは売り物には見えなかった。けれども、売れ残りには見えなかった。
 かごの中で丁寧に並べられているそれは、夏蜜柑にしてはすこし大きく、見た目もお世辞には鮮やかでなかった。お店に並ぶのは、綺麗な球形で、つるつるとした皮の夏蜜柑だ。それに比べて目の前にあるものは、いわゆる甘夏蜜柑と呼ばれるものの、ほとんど真逆をいくものだった。しかし、それは実にうまそうなのだ。
 だからこそ、僕はわざわざ、声に出してうまそうな夏蜜柑だと言ってみた。
「昨日、田舎から送られて来たんですよ。いつも夏のこの時期になると、子どもの頃に実家でよく食べていた、この夏蜜柑を送ってくれるんです」と女性は言った。

 七月。いよいよ熱が陸を支配し、生き物が茹だり始めるこの季節に、僕は調布市にある女性の家を尋ねた。僕はラルフローレンの淡い水色のポロシャツにチノパンという軽装だったが、女性は半袖のブラウスに黒いシックなプリーツスカートという正装に程近い服で僕を出迎えてくれた。
 僕の、女性と吊り合わないラフな格好に、なんだか申し訳なく思ったが、微笑んで出迎えてくれた女性を前に、すぐにそのことは忘れてしまった。
 居間に案内され、僕は椅子とお茶をいただきながら女性を待った。台所からかごをもって出てきたのはそれからすぐ後だった。
「この時期に夏蜜柑を?」
「ええ。ちょっと変わっていますよね」
 夏蜜柑といえば、出荷の最盛期は五、六月だ。夏蜜柑の木は、秋に実を付けるが、それはとても酸っぱい。酸味が薄れて、甘さを増すためには、一年待たねばならないのだ。だから、結果的に青果店などに並ぶのは、一年越しの五、六月になる。最近は品種改良が進み、夏蜜柑の食べごろがもっと早まり、三、四月になっているものもある。
 それを、七月に送ってくるというのは、何かの理由があるのだろう。売れ残りか、もともと七月にしか出荷しないのか。理由は図りかねるものの、何度も言うようだが、それは売れ残りには見えなかった。
「夏蜜柑が好きなのですか?」
「ええ。私が熟した酸味のほとんどない夏蜜柑が好きなので、わざわざ頼んでこの時期に送ってもらうんですよ」
「僕も、夏蜜柑は甘いほうが好きですね」
「どうぞ、遠慮なく」
 女性は、かごを僕の方に寄せてくれた。僕は夏蜜柑を一つ取り、その肌触りを感じ、感触を楽しんだ。若干柔らかくなっている表皮に鼻を近づけると、ほんのりと香る甘酸っぱい匂いが、僕を安心させた。ひとしきり夏蜜柑そのものを楽しんでから、皮を剥いた。僕と女性がいるこの部屋に柑橘特有の匂いがあふれた。蜜柑を綺麗に剥いてしまうと、果実を一つ摘み、口へ運んだ。確かに、店で売られているものに比べたら、酸味は殆ど無かった。それでも夏蜜柑独特の酸味がほんのり残っていた。果肉が弾ける度に、頬がきゅーっとなった。
 僕が夏蜜柑を食べたのを確認すると、女性はにっこりと笑って、夏蜜柑を一つ、手にとった。丁寧に皮を剥き、白い細い手で器用に維管束を剥ぎ、唇のように滑らかな果実を口にした。夏蜜柑がうまそうならば、それを食べる女性もまた、うまそうに食べた。そしてまた、僕と同じように強い甘味とささやかな酸っぱさを頬で感じていた。
「おいしいですね」
「この時期が、夏蜜柑の本当に美味しい時期なんですよ。五月の出荷を逃した夏蜜柑なんて、お店では見向きもされません。もちろん、需要がなくて商品にならないからです。置いたとしても売れ残ってしまうんです」女性は俯き加減に言った。「夏蜜柑は、酸味が強いほうがおいしいと思う人が多くて、家や知り合いが蜜柑を作っていないと、こういう熟した蜜柑は食べられないんです」
「この世の中は、そういうもので溢れていますね」
「寂しいことですが。熟した物のほうが好きな、物好きもいるのですけれどね」
「僕たちみたいにね」
 女性は微笑んだ。しかしすぐに、表情を変え、女性のまわりにはしんみりとした空気が漂い始めた。気づけば僕は、女性のこの空気の扱い方が、至極気に入っていた。
「私はそういう、夏蜜柑のようなものです。ある時期を境に、見向きもされなくなった、売れ残りに近いものです」
「だからこそ、僕もここにいるのですけれどね」
 女性はまた、微笑んだ。それは実に僕好みの笑みだった。
 確かに売り物には見えなかった。けれども、売れ残りだと女性は自分を蔑んだが、僕には売れ残りにも見えなかった。売れ残ったのはむしろ僕の方だ。
 僕たちは、互いに自分を夏蜜柑だと思っている。そしてまた、それは熟しすぎて売れ残ったものだと思っている。
「僕は、それでも七月の夏蜜柑を愛せると思います」
「私も」

 それから僕たちは外に出て、バスに乗って深大寺へ向かった。歩いて行くつもりだったが、雨がしとしとと降っていたので、予定を変えたのだった。
 深大寺に着くと、傘を差して暫く境内を散歩した。僕は雨天の日のお寺が好きだった。それも、激しい雨嵐などではなく、こういったおしとやかな、物静かな雨が降るお寺の雰囲気が大好きだった。やわらかな雨というのは、全てを優しく包み込み、一つの情緒的な雰囲気を作り上げてしまう。由緒ある縁結びのお寺、深大寺に、しんしんと降る雨は実にぴったりだった。
 ひとしきり境内を歩きまわった後、僕たちは本堂へ向かい、参拝した。二人並んで、手を合わせてお祈りをした。僕は目を瞑りながら、いろいろなことを考えていた。夏蜜柑のこと、雨の降る深大寺のこと、そして隣にいる女性のこと。そのとき僕は、自分がいつの間にか幻想的な空間に紛れ込んでしまったかのような、そんな幸せな空気を肌で感じていた。
 僕と女性は、満足すると深大寺を出て、近くの蕎麦屋に寄り、名物の蕎麦を啜った。そのあと、女性の提案のまま神代植物公園に行き、ちょうど見どころだった睡蓮を楽しんだ。そのあいだもずっと、僕は女性の家で頂いた、夏蜜柑の甘さとやわらかな酸味を、唇に忘れられずにいた。

 日が沈み始めた頃になって、僕たちは帰ることにした。僕は女性を家まで送ることになった。雨はすでに止んでいた。僕たちはせっかくだからと歩いて帰路についた。
 街並みなどを眺めながら暫く歩いていると、通りかかった自営業の酒店の敷地内に、立派な夏蜜柑の木を見つけた。五株くらいその敷地には植えてあり、青々とした葉っぱをつけていた。その酒店の店先には、樽いっぱいに夏蜜柑が入っていた。よく見ると、樽には「ご自由にお持ちください」と書かれた張り紙があった。僕たちは酒店に入り、そこの店主のおじさんに話を訊いた。
 店主いわく、夏蜜柑を育てているのは、自分が焼酎好きで、酸っぱい夏蜜柑を絞って飲むのが夏の楽しみだからだと言う。けれど、独り身のおじさんには、敷地に生えている木から取れる夏蜜柑は多すぎる。だからこうして、余剰分をワイン樽に入れ、店先に置いて無償で配っているのだという。
「けれどもまぁ、もう酸っぱいのも飛んじまってるし、そろそろ処分しようとは思っているんだがね」と店主は言った。
 僕たちは顔を見合わせ、にっこりと笑った。そして店主に言って、レジ袋いっぱいに夏蜜柑を詰めてもらった。ついでに焼酎も買った。

 僕と女性は、女性の家まで夏蜜柑を持ち帰り、今度は二人で心ゆくまで楽しんだ。いつぞやかに失くしたと思っていた、甘酸っぱい時間だった。

 やがて僕たちも更に熟していくのだろう。けれど、売れ残らずにこれからを過ごすことが出来る。そしていつかは、夏蜜柑を育てる側になるのだろう。きっと、夏蜜柑の素晴らしい味を知ったいまの僕なら、育んでゆける気がした。

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<著者紹介>

七雲 かで(東京都/21歳)

 神代水生植物園の入り口から右手へ続く道を行くと、雑木林の間に坂が見えた。緑豊かで、最近は都市に戻りはじめたという狐や狸が住んでいてもおかしくなさそうだ。坂を登り切ると、芝生広場が目の前に現れた。弁当を広げて楽しむ人たちがいる他、写生の人たちのお目当ては蕎麦畑だろうか。その向こうで、空堀と土塁らしきものが僕を待っていた。
 深大寺城跡だ。
 一息ついて、説明板を読んだ。空堀は敵の侵入を防ぐに充分なようだったが、築城された頃は、もっと深かったらしい。扇谷上杉氏の砦として、守備力を発揮したに違いない。
 芝生広場は二の丸で、空堀から土橋を渡ったところが本丸だ。雑木林の中には、本丸をぐるりと周れる小道があった。しかし、昔は眺望抜群であったという南側方向には、それこそ狐でも住んでいそうなほどに雑木が茂っていて、視界が悪いのは残念だった。
 いったん引き返して芝生広場に腰を下ろし、ノートに書き付けたプランを確認した。
「深沙大王は縁結びの神様で、パワースポットとしても有名なんです。入場無料ですよ」
 最後の一言は余計だろうか。多分、そうだ。
「神代植物公園には、都内最大のバラ園もあります。バラの花言葉は「愛」「美」「内気な恥ずかしさ」などたくさんあるそうですね」
 こちらの方が、すこしマシかもしれない。
「内気な恥ずかしさって、僕らみたいですね」
 書き加えてみて、読み返してから、消した。思わず溜息が出た。もう少し気のきいた会話を考えなければならない。ねじり鉢巻でかかろうとしたが、何だか少し寒気がして顔を上げると、空の一部に雨雲がかかり、芝生でのんびりしていた人たちも、けげんな顔をしている。あわてたときにはもう遅く、派手な音とともに大粒の雨が降り出した。向こうの空は晴れているのに、なんてこった。
 雨宿りの場所を探して闇雲に走ると、本丸の木陰に田舎のバス停のような屋根付きベンチが見えた。こんなものあっただろうかと不思議に思ったが、雨に追われて背に腹はかえられない。うひゃあ、と声をあげて飛び込むと、薄暗い中に先客がいた。僕よりも少し年上らしき男が、驚いたような顔で僕を見た。
「天気雨ですね」
 照れ隠しに挨拶すると、静かに目礼を返された。小柄だが筋肉質で、まるでスポーツ選手のようだ。体育会系は苦手なので目を合わせないよう、ベンチの端と端に離れて座ったが、男もそれっきり僕に構わず、雨にけむる本丸跡を見ながら考えごとをする様子だった。雨のやむ気配はなく、僕はまたノートを取り出して、プランの復習をすることにした。

「あいかわらずきれいな発音ですね。僕のなんかたどたどしくて、英語になってないですよ。突然ですけど、午後は暇なので昼ごはんに行きませんか。深大寺まで行くと蕎麦が美味しいらしいです。バスに乗ればわりと近いらしいですよ。昼ごはんのあとですが、植物園はどうですか。バラがきれいらしいですよ」
 
「突然に誘うのは、よろしくない。それに、暇なので、というのもよろしくなかろう」
 驚いて隣を見ると、男がノートをのぞき込んでいた。失礼、と謝りはしたものの、顔は笑っていて、少しも申し訳なさそうでない。
「綿密な作戦を立てる方とお見受けした」
「ええ、まあ」
 怒るつもりが、素直な笑顔とへんてこな話し方に気勢をそがれ、普通に答えてしまった。
「植物園か。なにゆえ深大寺城にされんのだ」
「実は、僕は城マニアなんです。ここには前から興味があったんでデートの下見をかねて来たんですけど、女性は城なんかに興味ないですよ。植物園とか深沙大王にしておきます」
「それは残念。深大寺城はよきところだ。小さな砦だが、南北には虎口が設けられ、櫓台からの眺めもじつに素晴らしい」
 ふと、男の年齢が気になった。よく見ると、少年のようにきれいな紅い頬をしている。
「二十二歳になるのだが、いかがされた?」
 ずいぶん年下だ。勝手に緊張していた分、なんだか少しむっとしたが、許してやることにした。同じ城マニアでもあるようだし、結構面白いヤツかもしれない、と思ったのだ。
「ずいぶん詳しいね、深大寺城。マニアなんでしょ?関東の廃城だと他はどこが好き?」
「好きだからではない。ここは重要な砦なので、今日のような日は、様子を見に参るのだ」
 城マニアにも二派ある。天守閣などが目当ての派手好きと、ヤツのように廃城などを巡る、渋いタイプだ。僕も後者なので気が合いそうだ。もっと深大寺城のことを訊きたくて質問しようとしたが、ヤツにさえぎられた。
「暇なので、とは、たいへんによろしくない」
 年上に向かって、お説教を始めるつもりらしい。なんとも生意気なヤツだ。
「暇つぶしに誘われたかと思うと、人は不快を感ずる。人との交わりは、正直が良い。前もって、堂々の正攻法で行くのだ。さすれば、必ずうまくゆく。その女性を深大寺城に誘われるが良い。ここはよきところだ」
 癪にさわるが、言いたいことは分かるし、正論だ。僕はいちおう年上風を吹かせ、まあそうかもな、とうそぶいてから、質問してみた。誘い方について、もう少し参考になる意見を聞けるかもしれないと思ったのだ。
「でも、深大寺城を女子にアピールするとしたら何がベストかなあ。結構、地味だよ」
「難攻不落なところだ」
「マニアにしか受けないって、それ。えらそうに言ってるけど、お前だってそっち方面の、つまり恋愛関係の調子はどうなんだよ」
「い、いや、その。恋は、してみたかったが」
 ヤツは、それまでの落ち着きぶりが嘘のように、細い目をパチパチさせて下を向いた。結構、かわいらしいところもあるではないか。
「してみたかったって、まだ二十二歳だろう。これからさ。恋をすると人生が充実するぜ」
「いや、でも、自分勝手なことではないか」
「いい歳なんだし、彼女の一人でもいた方が周りのみんなも、親だって喜ぶと思うけどな」
「みなも喜ぶ、か。父も、母も」
 ヤツは小さくつぶやいて、顔を上げた。
「ならば恋を、恋をしてみたい」
「そうこなくちゃ。じゃあコツだけど、彼女いない歴うん十年の俺が思うには、そもそも」
 勢い込んだところを、また、さえぎられた。
「もう雨がやむ。そうすると、虹がでる」
 いつの間にかまた、陽の光が射していた。ヤツは言いながら腰を上げた。
「私が大好きな深大寺城の虹だ。美しいが、すぐに消えるのだ。行こう、急いで渡らねば」
 かわいらしい二十二歳はロマンチストでもあるらしい。こみあげてくる笑いをこらえて急ぐと、南側の木々の間から、とても美しい虹が空に弧をかけているのが見えた。そういえば僕の祖母は、天気雨のときは虹が出たり狐に化かされたりいろいろ不思議なことが起きる、と言って小学生の僕を怖がらせたものだった。まさか、と思いながらヤツの尻のあたりに目をやった。あのシャツの裾には、狐のシッポが隠れていたりするのだろうか。
 ブログにアップするためにスマホを構えたが、木で周りが暗いので露出が結構むずかしい。やっとそれらしい写真が撮れたので、見せてやろうと振り返ったが、ヤツの姿はもうどこにもなかった。挨拶もなしに帰ってしまうなんて、失礼なヤツだ。家に戻ってから確かめてみたが、せっかくの虹はほとんど写っておらず、ヤツとの出会いも含めて、やっぱりなんだか狐に化かされたような一日だった。

「来週の教室のあと、深大寺で昼ごはんですか?ぜひご一緒しましょう!ちょうど暇だったんです。あ、気を悪くしないで下さいね」
 英会話スクールで一緒のクラスになった篠田さんを、ヤツの言ったとおりに前もって堂々と誘うと、我ながら見事なまでにうまくいった。ヤツめ、なかなかやるではないか。お昼は、名物の蕎麦にした。篠田さんは美味しそうに食べ、よく笑い、おかげで話もはずんだ。良かった、今のところは大成功だ。もう一つのお誘いも、堂々と行くことにしよう。
「深大寺城跡の方へ行ってみませんか?」
 城跡なんて初めてだ、と少しとまどい気味にも見える篠田さんと雑木林の坂道を進んだ。予報では快晴だったのに、今日も晴れたり曇ったりのややこしい空模様だ。芝生広場まで来ると、少し雨の匂いがした。
「ここは戦国時代に使われたお城です」
 僕は、縄張りの特徴などというマニアな知識には踏み込まないように注意しながら、家で調べ直した深大寺城の歴史を説明した。
「上杉朝定という人が最後の城主です。朝定は、たった二十二歳で討死したのですが、父親の死で家を継いだ時は、まだ十二歳でした。戦いに明け暮れた人生だったと思いますよ」
「なんだか、かわいそうな人だったんですね」
 憂い顔の篠田さんに、ヤツが教えてくれた、とっておきの情報をプレゼントした。
「こんな天気の日は虹が見えるかも、ですよ」
「そうなんですか!私、虹って大好きなんです。ギリシャ神話に出てくる女神様は、人間の世界と天国とを、虹の橋で結んで渡ったんだそうですよ。ロマンチックなお話ですよね」
 ここで出会うロマンチストは二人目だ。思い出し笑いをこらえながら南側に進んだ時、ふいに、ヤツの言葉がよみがえった。
「行こう、急いで渡らねば」
 まさか、そんなことがあるのだろうか。ヤツは、虹の向こうの、どこへ行こうとしていたのだろう。そっとあたりを見まわしてみたが、僕らの他に、誰の姿もどこにもなかった。

 篠田さんの小さな歓声の先には、深大寺城の美しい虹があった。くっきりした弧を見せたのは一瞬で、やがて静かに、消えていった。

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<著者紹介>

田中 範(東京都新宿区/43歳/男性/会社員)

 月曜日の深大寺はどこか寂しい。
バスを降りすぐ目につく案内所は窓を閉め、土日に押し寄せた人の群れは一休みするかのようにまばらになる。山門に続く石畳の両脇に並ぶ店は半数ほど軒を広げ、いつもより本数の少ない旗が、勢いを取り戻すべく風と格闘していた。
砂利をかき分け聞こえてくるゴムの擦れる音。僕は反射的に声をかけた。
「深大寺植物公園はお休みです。駐車はかまいませんか」
「えー、そうなの」
助手席の女性が、ピンクのアクリルストーンで飾られた携帯を操作したまま驚く。
「いいすっよ」
 同年齢ぐらいの男性が、千円札を差し出した。店のスタッフジャンパーにジーンズ姿の僕には買えない、マツダRⅩー8が歯ぬけた駐車場に止まる。しばらくして、ロータリーエンジン特有のモータ音が消えた。
男性が小銭と領収書を受け取る間、携帯から目を離さなかった女性が先に本坊に入っていく。
「山門は......」言いかけてやめた。
コイン式駐車場が増えた。次は携帯でお参りできるようになるかもしれない。
「商売も大変だよな」馬鹿げた考えが頭をよぎった。
「圭介くん。休憩いっていいわよ」
 駐車場管理の静代さんが、木陰で手をふっている。コンパクトを開き化粧直しをしながら、すれ違いざま「素顔を見ていいのは旦那だけ」茶目っけまじりに笑った。母さんと同年齢らしいが、歳は教えてくれない。
「わかりました」
自然に返事が大きくなっていた。
就職先が決まり仮免まぢか、高校卒業前に足りないのは車だけ、駐車料1台分の時給をこつこつ貯めている。
用水路を飛び越え本坊をくぐると、お気に入りの鐘楼はすぐそこだ。葉もないむきだしの枝が、血管みたいに張り巡らされた木々を抜けた。日に三度告げる時の音(ね)が、梵鐘から波紋のように広がっていく。僕はいつも通り地面に座り込んだ。
中古車情報誌につけたドックイヤーを素早くめる。メタルブラックのボディ、時速二百キロはゆうにだせるエンジンのピストン運動が、鐘の音と重なり心臓を激しく震わせた。ステアリングを握り、アクセルを吹かす。狙っているのは彼女と同じ名の車、セリカ。

芹香とは家が隣でよく遊んだ。四月生まれの芹香は、三月生まれの僕とひと回り違う。クラスでチビだった僕は、背の高い芹香に憧れていた。
くるくるした長い巻き毛を引っ張っては嫌がられ、「ジージー」鳴くセミを近づけては追いかけまわす。芹香は決まってブロック塀を隔てた自宅に駆けこんだ。僕は境界を簡単に乗り越えていけた。
「どうして、喋らなくなったのだろう」
一緒にいるだけでよかった僕にいつのまにか壁ができていた。男は男同士、女は女同士で遊ぶための壁。男女でいると冷やかされ、からかわれた。
冬の風が赤みがかったニキビに当たり頬にしみた。笑い声が響く。RⅩー8の男女が、ぴったり体を寄せ合い本堂で写メを撮っていた。僕は芹香の携帯番号もメールアドレスも知らない。ポケットからMP3プレイヤーを取り出す。気づけばイヤホンを耳に押しあてていた。

芹香に関する情報は、母親が上書きしてくれた。僕らの関係が小学生で終わっても、親同士の付き合いは続いていた。母にとって芹香は、僕の友達で娘のような存在。いつも気にかけていた。
「芹ちゃん。税理士になるため、簿記の勉強を始めたんだって」
 フライパンで手際よく、にんじん・たまねぎ・ジャガイモを炒める母が、一方的に話しかけてきた。
税理士がどんな職業か僕は知らない。芹香の父親が○○士、だった気がするが○○に入る言葉が思い出せない。幼い頃の大切な記憶がだんだん抜け落ちていく。
昔みたいに話したい。きっかけを探していた。
「背丈が追いついたら」
初めて願掛けをした。バスケットボール部に入部し、練習で流す汗より多く牛乳を飲んだ。両親の身長は高くなかったけど、希望は捨てなかった。「頑張れば願いは届く」そう信じていた。
けれど、僕の身長は中学で止まったまま。
フライパンが、「ジュウ」と肉を焼く音に変っていた。
「高校に合格したら」
二倍以上離れた偏差値を縮めるため、寝る間も惜しんで勉強した。動機は不純だったかもしれない。でも思いは純粋だった。
「すべりどめもうけておけ」
心配する担任に耳を貸さず、芹香と同じ高校に進学する。それしか眼中になかった。合格すれば何かが変る気がしていた。
桜の花びらが舞い、制服に袖を通す。
関係は変わらない。芹香は進学コース。校舎が別々で同じクラスになることはなかった。いくら追いかけ、追いつけた気がしても、芹香だけが遠くに行ってしまう。
「そうそう、芹ちゃん。高校辞めるんだって」
「ふ~ん」情報が更新された。
テーブルに料理を並べる母はそれ以上何も言わない。冷静に受け答えしたものの、内心はドキドキしていた。カレーがのどを通らず。日曜日に欠かさず見ているお笑い番組が頭に入ってこない。月曜日を向える僕の心が、憂鬱な気分に浸食されていく。
母の言葉を聞いた翌朝。突然、芹香が現われた。違う制服を着ていた。茶色のブレザーに赤のタータンチェックのスカート、胸の校章は見たことのないデザインだった。長かった髪がバッサリ切られていた。
ショートヘヤーも、芹香は似合っていた。
「噂、ぜんぶ嘘だから」
変わらない声で訴えかけてくる。瞳がどこか悲しげに見えた。
「噂って?」
僕は噂を知っていた。男女の恋話なんて学校中にすぐに知れ渡る。噂は物凄い背びれや尾ひれを持っていて、校舎を猛スピードで泳いでいた。
男は「やった。やらない」を簡単に口にした。人より早く大人になることを友達同士で自慢する。真実はどうでもよかった。経験すれば「英雄」になってしまう。それだけ。僕は噂を信じていなかった。
黒鉄の門に置かれた芹香の白肌に、薄っすらと浮かぶ細い青筋がピクリと動く。
「知らないならいい。圭ちゃんには、信じてほしいと思って」
芹香を見つめながら、一方で噂を信じる僕がいた。男に抱かれている芹香を想像する。僕の知らない芹香。「妊娠」の二文字を打ち消した。
気持はずっと同じ。言葉にすればいいだけ、鼓動が加速した。体温が上昇し全身の毛穴から吹きだす汗で息が苦しくなる。渇いたのどに唾液と一緒に伝えるはずだった思いが流れ込んできたが。
眠っていた町が朝日を受け、徐々に失っていた色彩を取り戻していく。登校前のわずかな時間、僕だけ何も変わらない。
視線を外した芹香が玄関先に消えてゆく。一瞬、触れる距離にいた僕らに再び線が引かれる。境界線がはっきり見える。僕はその線を越えられなくなっていた。

中古車情報誌に光が揺れていた。黒い車体に輪郭のぼやけた僕の顔が映り込んでいた。目を細め、空を見上げた。雲の切れ間からもれた陽射しが降り注いでくる。思わず手で遮るとファルセットを使い苦しそうに歌い上げる声が耳に伝わってきた。友達が「おすすめ」と教えてくれた曲。
もうすぐ休憩時間が終わる。立ち上がり、ジーンズにつく乾いた砂を叩いた。少し窮屈になったバスケットシューズで境内を歩いていく。踏みしめた小石が土と混じり合い、再生を終えた曲にかわって、リズムを刻んでくれていた。
ふと授与所の前で足を止めた。透明のアクリルケースに並んだ、金色のタコと真っ赤なタコがはちまきを締め僕を見ていた。てのひらサイズの置物、オクトパス君。
「東北の復興とあなたの幸せ!」ポスターが貼られている。「合格祈願。置くとパス」洒落た文言が添えられていた。
時給に換算する癖がついた僕が、「二時間分」のお金を支払い、ポケットに思いを詰め込んだ。
びっしりとコケに覆われたトチノ木を通り山門を抜けていく。振り返ると腰を曲げた老木がお辞儀して、駐車場に向かう僕を送り出してくれていた。

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<著者紹介>

T-99(東京都多摩市)

「一目惚れって、信じるかい?」と言われて、僕はドキッとした。
言ったのはイケメン俳優だ。母は大笑いし、「今どき昭和のセリフを言いますかねー」とテレビに向かって突っ込む。僕は「昭和に失礼じゃん」と訳の分からない事を言い、そそくさと自分の部屋に戻った。シーンとした部屋に入ると、なにか色々恥ずかしくなってきて、ベッドにうつぶせに倒れ込み、枕に顔を埋めて小さく「ぬああー」って叫んでみた。

偉大なるボクサー、モハメド・アリがアトランタでオリンピックの聖火に火を灯した1996年7月20日、調布市で僕は生まれた。痛いからボクシングはやらないが、バスケの時はいつも、蝶のように舞い、蜂のように刺す、を合言葉にしている。
バスケットを始めたのは小学校の時だ。家の近くにある市営体育館のスポーツ教室で、ボールを触ったのがきっかけ。以来ずっと続けている。温水プールもあり、水泳も得意になった。初めてがいっぱい詰まった場所だ。

部屋で叫んだ後、体育館に向かった。夜中にこっそりプールに忍び込んで、気が晴れるまで一人でバタフライを泳ぐ為では、もちろんない。森の中を歩きに来たのだ。体育館には、神代公園と植物公園と深大寺が連なって、大きな森みたいになっている。むしゃくしゃしたり、気分を変えたい時はここに来て、散歩する事にしている。
夜空を見上げると、菜の花のような月明かりが、枝の隙間から差し込んでいた。深呼吸を何度かすると、体から汚れが出て、代わりに何か清らかなものが入ってくる。木から発散されるフィトンチッドとかいう成分がそう感じさせるのだって、誰かから聞いた気がするが、多分それだけではないはずだ。ふと気付くと、ずんぐりと大きな、猫のような妖精が森の中に、いたらいいんだけどね。
10分ほど散歩すると、頭の中がすっきりした。それから自分の事について整理してみた。現状把握から次の一手は出てくるのだ。
僕は三井翔、15歳。身長172cm、体重58kg。妹が一人。高校一年生でバスケ部。英語が得意で、数学は苦手。親友は五代陸と七瀬海、自分の名前が空だったら完璧だった。卒業式の日に、学年で一番可愛い女子に三人揃って告白し、仲良く撃沈。めちゃくちゃ落ち込んだが、今じゃ楽しい思い出だ。きっと恋なんてそんなものだって思ってた。
だけど今、僕はあの子の事を考えるだけで、水に潜ってるみたいに息が苦しくなる。好きにも種類があるようだ。あの子とは1年D組の島田里奈ちゃんの事で、弓道部期待の新人だ。入学して2カ月すればそれくらいの事は分かる。問題は、どうやったら知り合いになれるかだ。クラスが同じになるのを待つ?「やあ初めまして。友達になって下さい」って言う?どちらも違うはずだ、絶対に。じゃあ、どうする?分からない。
モヤモヤは更に大きくなってしまった。

次の日の朝練で、僕は怪我をした。レイアップシュートをゴールボードの底にぶつけ、それが跳ね返って目に当たるという、狙っても出来ない神業だった。先輩たちは心配をしてくれつつも、お腹を抱え涙目で、「わざと?ねえ、わざと?」と聞いてくる。ズキズキする左目を抑えながら、「もちろんです」と答え、保健室に向かった。
保健室の坂井先生に、「バスケ部の朝練で、ちょっと接触しちゃいまして」とだけ言い、左目を見てもらう。「特に問題はなさそうだが、念のため今日は部活には出ずに眼科に行きなさい」との診断と、眼帯をくれた。

教室に行くと、ホームルームが終わり、一時間目が始まる前の休み時間だった。自分の席に座ると、五代陸が話しかけてきてくれた。
「おはよー、翔。左目は大丈夫か?神業を繰り出したって聞いたけど」
「まあね。余裕だよ」
「そうか。眼帯が痛々しいけどな。そういや聞いたか?山口に彼女が出来たってよ。相手は1年D組の子らしいぜ」
「え?誰だよ。」僕はギクッとし、裏返った声で問い質した。
「えーと、確か、中田さんだったか、中井さん。・・・ていうか、お前さ、誰か好きな人いるの?D組に」
はうっ!さすが親友、鋭すぎる。僕は、「え?何で?山口に彼女が出来たなんてびっくりだよな」とごまかした。五代陸は疑わしそうな目で見てくる。その時、ちょうどいいタイミングで、一限の国語の先生が教室に入ってきて、話を終わらせる事が出来た。

その日は部活に出ないで学校を後にした。すっきりしない僕の気持を表わすように、空はどんよりと曇り、校舎や校庭を灰色に染めていた。灰色は体の中にも入り込み、動きを鈍くする。ノタノタと自転車にまたがり、校門を出る。やらなくちゃならない事が学校に残っているような気がするが、それが何なのか分からないので、戻る事も出来ない。僕は何故か小学校に寄りたくなった。
小学校の校庭では子供たちが元気に遊んでいた。野球だったり、サッカーだったり、バスケだったり。ドッジボールをしている子供達もいた。チームが二つに分かれ、激しくボールが投げ合われている。足元に引かれた白線に目が行く。そして僕は、大人になっていく自分達を連想した。
子供の頃は特に意識していなかった、男子と女子の間にある白線は、いつの間にか巨大な壁になり両者の間にそびえ立つ。相手の陣地に入ることも出来ない、ボールを投げることも出来ない、相手がいるのかどうかさえも分からない。ルールが根本的に変わってしまうのだ。
男子が女子と普通に友達になるという場面は減り、代わりに「交際する」という選択肢が出てくる。もっとみんなが自由に仲良くできたら良いのに、と思う反面、一人を独占したいとも思う。僕らの世界は広がっていくのだろうか、それとも狭まっていくのだろうか?
家に帰ってから眼科に行くと、水曜日休診、の掛け札が風に揺れていた。

木曜日と金曜日は雨だった。朝から晩まで小雨が降り続き、小さな水滴が傘を器用にすり抜けて、衣服を濡らす。不快指数は上昇し続け、誰もが口数を減らす。僕にとっては好都合で、必要な事以外は口を開かず、淡々と授業を受け、黙々と部活の練習に打ち込んだ。その間、ずっと考えていた。モハメド・アリの言葉を。

土曜日は打って変わって、晴れ晴れとした青空が広がっていた。降り続いた雨は、空気中の小さな汚れを洗い流してしまったらしく、マリン・ブルーの色がとても鮮やかだった。太陽の光は遮蔽物のない空を力強く進み、地表の人々に無数の矢を突きたてている。
モハメド・アリはこう言った。「リスクをとれない人間は、何一つ成し遂げることはできない」と。僕は何故リスクを避けてきた?人に噂されるのも、現実的な失敗を突き付けられるのも嫌だったからだ。
何もしないのは簡単だ。そうやって自分以外の人たちが動くのを傍観して、ある日、島田さん誰かと付き合ったってよ、ふーん良かったね、俺には関係ないけど。って言ったって良い。でもそれが、本当に僕が求めている未来か?
学校は休みだった。僕は朝食を食べ、少し漫画を読んで、それからジャージに着替えた。音楽再生機を左腕に装備し、イヤホンを耳に差し込む。衝撃吸収素材の入った靴を履き、外に出て、ジョギングを始めた。左目の腫れは、ほとんど引いていた。目指すは深大寺だ。
深大寺は縁結びの寺として有名なようだ。休日にもなるとカップルだとか女の人のグループだとかが結構来ている。今日、僕は、その人たちに交じってお参りをする。たったそれだけのことだが、僕にとってはリスクをとる最初の一歩だ。友達に見られた時に言い訳する材料としてジャージを着ている訳だけど、何だって最初の一歩は小さく弱々しいもの、のはずだ。
体育館の方向から神代公園、植物園を回り、神社まで走る。ゆっくりと走ったけれど、着いた頃には結構汗が出ていた。汗をタオルで拭い、イヤホンを耳からはずし、参道を歩く。ポケットの中には5円玉と50円玉が入っている。山門をくぐり、本堂に向かい、さい銭箱にお金を入れ、願いをかけた。
さあ、帰ろう。くるりと山門の方に向いた時だった。一礼をし、境内に入って来る人に気付いた。僕の体に電気が走る。島田里奈ちゃんだ。里奈ちゃんは、僕と同じようにジャージを着ていた。向こうはまだ気づいていない。

「あ、こんにちは。D組の島田さんですよね」
僕は勇気を振り絞って声をかけた。里奈ちゃんは小さく、「あっ」と言い、それから「こんにちは」と、挨拶を返してくれた。
風がひゅっと吹き、火照った体を優しく冷やしてくれた。僕の世界は、広がり始めた。

太陽の光を受けた里奈ちゃんの笑顔が、とても眩しかった。

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<著者紹介>

関根 淳一(埼玉県戸田市/37歳/男性/会社員)

 つつじヶ丘駅から15分ほどで、バスは深大寺に着いた。バスの座席に窮屈そうに座っていた佐々木孝二郎は静かに立ち上がった。油断すると、つり革をぶら下げているパイプに、頭をぶつけそうなほどの長身である。細見の身体にまとっているのは、およそ観光地には似つかない地味なスーツ。そのスーツの上には、細身の身体をさらに細く見せる小さな頭が乗っかっている。四十近い齢の割には、髪に白い物が目立つ。年齢と共に渋さの増したビターな顔には、人を見定めるような鋭い目がついている。ひと時も相手に油断を許さない顔つき。職業は男の顔を作るものである。そう、彼は刑事である。
「絶対に許さん。犯人を突き止めてやる」
 力強く革靴の音を響かせながらバスを降りてゆく孝二郎。
 発端は、一週間前の夜であった。被害者は我が娘。幼い頃から、孝二郎が大事に大事に育ててきた娘だった。「それなのに......それなのに......」孝二郎の胸を無念という真っ黒な黒雲が支配する。その日、孝二郎は大きな事件が一つ片づき、上機嫌で社宅のアパートに戻った。時刻は夜の八時頃。「ただいま」と、いつも通りに、錆の目立ってきた冷たい鉄の扉を開け中に入る。すぐに味噌汁の甘い香りが孝二郎を包む。一人娘の小学校6年生の彩夏が作ったものだ。一年前に妻が亡くなってから、毎晩欠かさずに晩飯を作ってくれている彩夏。病気がちの妻が、幼い頃から少しずつ料理を教えていたこともあり、味は美味かった。特に卵焼きと味噌汁は絶品だった。玄関から続く短い廊下を抜け、リビングに入り、孝二郎はふと足を止めた。奥の部屋から聞こえてくる携帯で話す娘の声。耳を澄ます。
「私にメロメロなのよ。でも、私も結婚したいと思っているの」
 その瞬間、怒りがこみ上げる孝二郎。「誰だ! うちの娘をたぶらかす奴は!」忍び足で部屋のドアの前まで近づき、耳をドアに押しつける。
「うん......それでね、結婚できますようにって、絵馬を書いたんだ......そう、深大寺って縁結びの神様よ」
 呆然と壁に掛かっている絵を見つめる孝二郎。彩夏が小学校3年生の時に描いたものだ。
クレヨンで描かれた孝二郎の似顔絵の横に「パパ大好き」と書かれてある。顔を手で覆い、近くのソファに倒れ込む孝二郎。
 その日以来、孝二郎は仕事が手に付かなくなった。早退して、アパートに戻り、娘の部屋に忍び込んだ日もあった。今までは決して入らなかった娘の部屋。刑事がこんなことをとも思ったが、娘の為だと自分に言い聞かせた。初めて入る娘の部屋。ベッドの上には、ぬいぐるみのクマが置かれてある。かわいらしい置き物の小物が棚の上に並ぶ。女の子らしい部屋。机の上には教科書が整理整頓されて並べてあり、その横の本棚には、小学生向けの仕事図鑑が並んでいる。ほとんどが警察官について書かれたものだ。「大きくなったら警察官になって、パパと一緒に働くんだ」といつも言っていた娘の言葉を思い出す。孝二郎の視界が涙で歪む。
「彩夏が他の男に......突き止めてやる。逮捕だ! 別件であげてやる。相手が子供でも手加減はせんぞ!」
 血眼になって部屋中を見回す。机の上にあるフォトスタンド。孝二郎にキスしている彩夏の写真。捜査時と同じく手袋をはめ、フォトスタンドを調べ始める孝二郎。フォトスタンドを分解していく。これ以上の分解は不可能という姿にまでなるフォトスタンド。しかし、別の写真が隠されているようなことはなかった。次に引出しを調べる。引出しの奥までしっかりと見る。捜査に見落としがあってはならない。と、先月、娘が修学旅行で行った日光でのクラスの集合写真が出てくる。写真に写っている男生徒達を鋭い目つきで眺める孝二郎。「誰だ。誰なんだ。こいつか? いや、違うな」長年やってきた刑事としての経験と勘を今こそ生かす時だ。精神を集中する。額から吹き出す汗。「サッカー部の優斗って子か。いや、野球部の翔太も可能性はある。いやいや、前にうちに来たあいつが一番怪しい。
そうだ、あいつだ。今考えると確かに怪しい。馴れ馴れしく娘を『彩夏』って呼び捨てしていた奴だ。名前は何だった? ちくしょう、思い出せない」
 難航する捜査の手がかりを?んだのは、今朝の事だった。「そうだ、絵馬だ! 絵馬に相手の名前が書かれてある筈だ」ベッドから飛び起きた孝二郎は、休日であったが、仕事と娘に嘘を言って家を飛び出した。
 深大寺前でバスを降りた孝二郎を、初夏にしては強い日差しが突き刺す。スーツの上衣を脱ぎ、Yシャツの袖をまくる孝二郎。足元から伸びた石畳の参道の一番奥に階段があり、その上に山門がある。参道の両脇には土産物屋や蕎麦屋があり、店員が威勢よく声を出し客を呼びこんでいる。観光客の間を、足早に縫って歩く孝二郎。額から顎に向って、汗が這い下りてくる。二の腕で拭き取ると、汗の匂いがツンと鼻をつく。一気に階段を駆け上がり、山門をくぐり抜ける。辺りを見廻し絵馬の場所を探す孝二郎。左手には朱印売場があり、右手には鐘楼がある。鐘楼では一人のお坊さんが鐘をついている。絵馬はない。左手の一段高くなった所にお堂がもう一つ見える。あそこだろう。捜査もいよいよ大詰めだ。心地よい風が背後から吹いて来る。常香桜から立ち昇る線香の奥深い香りが、はやる気持ちの孝二郎を追い抜いて行く。
 お堂に向って歩いていく孝二郎。昂ぶる気持ち。それは、容疑者を割り出すあの瞬間にも似ていた。一段一段と階段を上る孝二郎。次第にお堂が全景を現してくる。階段を上がり切り、息を整えることすら忘れ絵馬を探す孝二郎。地面に滴り落ちる汗。乾いた地面にあっという間に吸い込まれていく。
「あった!」
 左手の奥に、絵馬がたくさん掛けられている場所がある。大きな音を立てて孝二郎の全身に血液を送り出す心臓。ごくりと唾を飲みこむ。ゆっくりと足を踏み出す。絵馬の前には、一人の若い女性が立っている。絵馬に向って進む孝二郎。5メートル、4メートル、3メートル、2メートル。鐘の音、参詣者の談笑、子供のはしゃぐ声。それらの音が徐々に消えていく。
 絵馬の前に立つ孝二郎。気持ちを落ち着けるかのように大きく深呼吸をすると、一枚一枚絵馬を確認し始める。「佐々木彩夏、佐々木彩夏......」上側の左端から辿っていく。食い入るように見ながら絵馬を確認していく孝二郎。1段目はない。2段目を見る。再び左端から一枚一枚確認していく。ない。3段目に移る。絵馬に顔がくっつかんばかりに顔を近づけて探す孝二郎。ない。また1段目に戻り、今度は一番上だけでなく、その下の絵馬も一枚一枚確認していく。この調べ方は、かなりの時間がかかる。だが、捜査に抜けがあってはならない。執念だ。
「あッ!」
 一枚目の絵馬をずらした間から『佐々木彩夏』という文字が見える。娘の字だ。間違いない。恐る恐る、表に掛かっている絵馬ごと取り外す孝二郎。取り外した絵馬を胸元まで引き寄せる。震える手で、ゆっくりと一枚目の絵馬をずらす。からからになる喉。覚悟を決め、思い切って一枚目の絵馬をずらす孝二郎。
「パパと結婚できますように!」
 思わず吹き出す孝二郎。笑顔になる。と、突然、孝二郎の腕を誰かが掴む。驚いて腕の主を見る孝二郎。先程、絵馬の前に立っていた若い女性だ。
「何するんですか!」
「ええっ?」
 眉間に皺を寄せている若い女性。よく見ると美しい女性だ。亡くなった妻の若い頃によく似ている。
「人の絵馬、盗まないでください!」
「えっ? あっ、違う。誤解だ」
「返してください! それ、私のです!」
 絵馬に目を落とす。娘の絵馬を覆っていた一番上の絵馬。
「素敵な男性と巡り合えますように!
                福田美咲」
 声に出して読んでしまう孝二郎。
「読まないで下さい!」
 顔を真っ赤にして絵馬をひったくる美咲。
「あっ、すまん」
「最低だと思います。人の絵馬を盗むなんて」
「盗もうとしたんじゃない」
「どうりで何度お参りしても御利益がなかったわけだわ。あなた、私の絵馬をいつも盗んでたでしょ!」
「そ、そんなことするわけないだろ」
「現に今やってたじゃないですか」
「そ、それは......」
 口ごもりながらも、若い女の気の強い所も妻と似ているなと思う孝二郎。かわいらしい女性だなとふと思う。孝二郎の心臓の動きが再び早くなる。「あっ、何だ? こ、これは......い、いや、いかん。妻は去年亡くなったばかりだ。不謹慎だ......でも......」
「やっぱり答えられないじゃないですか」
 孝二郎を問いつめる美咲。娘の「深大寺って縁結びの神様よ」という言葉が頭をよぎる。近くの蕎麦屋の暖簾が目に入る孝二郎。自分でも、思いもよらない言葉を発してしまう。
「ちゃんと説明しますから、そこで蕎麦でも食べませんか」
「ええっ!?」
 驚いて孝二郎を見つめる美咲。二人の間を奇妙な沈黙が包む。と、美咲のお腹が鳴る。真っ赤になり俯いてしまう美咲。さすがのベテラン刑事でも、美咲が俯いた本当の理由には気付かなかった。

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<著者紹介>

中尾 克久(東京都江東区/39歳/男性)

 花屋に行けばいつでも買えるバラに、「いい季節」があるなんて考えたこともなかった。
 だからその人に「ちょうど見ごろですよ」と植物園に誘われた時、まったく興味はわかなかったのである。それでも話しの流れから断りづらかったし、気楽そうでかえっていいかもと思ったので行くことにしたのだ。
 結婚相手を見つけようと小規模な婚活パーティーに参加するようになった。そこで会った何人かの人とデートしたけれど、相手をよく知るという目的のためにわざわざ高いお店で慣れない食事をしたり、遠くまででかけたりすることは煩わしかった。
 婚活を始めたきっかけは単純だ。大学時代の友だち二人が相次いで遅い結婚をしたのだ。
 実加ちゃんは、今さらのできちゃった結婚。とは言っても、十年近く一緒に暮らした事実婚状態だったわけで、それが妊娠をきっかけに入籍したのだ。
 一方の佳乃は、電撃婚。結婚すると思っていたスマートな彼と別れた二ヶ月後に、六つも年下の新しい彼との結婚を決めた。
 その結婚式が決定的だった。安定期に入った実加ちゃんは顔色もよく、つわりで痩せた分も取り戻し、心なしか肌艶も増していた。そして佳乃は言うまでもなく、その日の主役としてキラキラと輝いていた(ラメのせいもあったか)。
 注目の年下の旦那さまはと言うと、早くも広くなり始めた額と、垂れた細目が売れない芸人風で、そのせいか新郎用のモーニングがコントの衣装みたいだった。いやはや彼を選んだ決め手を佳乃から聞きたいなどと、実加ちゃんと二人で茶化しながらも、新郎新婦の幸せそうな顔には泣きそうになった。
 そんな二人の友だちの影響を大いに受け、また年齢のこともあり、焦って婚活を始めた私は単純である。しかし単純な私とて、「婚活」が何とも身も蓋もないようで、今でも葛藤はあるのだ。結婚相手に対する恋愛感情は必要か否か。何度も会いたいと思えるかの鍵はそこにあるのではないか。
 そんな中、三回目の婚活パーティーで出会った宮内さんと今日神代植物公園で会うのである。
 彼はバラが好きなのだ。

 空(から)梅雨(つゆ)気味の6月の空は青く、日差しも充分に夏のものだった。
 自転車で正門に乗りつけると、宮内さんはもう来ていた。天気がいいので歩いて来たのだと言いながら入園チケットをくれた。
「すみません」
「僕の希望で来てもらったので当然です」
 パーティーでの宮内さんの第一印象は「印象と押しは弱いが感じは悪くない人」だった。誰に対しても柔らかな表情で聞き手に徹していて、果たしこの人は自分に興味を抱いたのか、それとも対象外なのかが分かりにくかった。
 それが良かったのか、彼に対して緊張感なく接することができ、話の流れから婚活開始以来四人目のデートの相手となった。
 植物園には初めて入った。隣の深大寺には、本厄だった昨年護摩祈願に来たけれど。
 年月を重ねた高い木々や、整えられた広場。晴れた空も相まって清々しい。
「六月がバラの季節だなんて、知りませんでした」
 私は正直に打ち明けた。
「ああ、今しか見ることができないわけではないんですよ。バラは繰り返し咲きますからね。冬が終わって咲き揃う季節ということなんです」
 宮内さんは続けて、バラの種類による咲く季節の違いの説明を始めようとしたけれど、すぐに
「すみません。それほど興味ないですよね?きっと」
と私を見た。
 ひょろりとした体型と、前髪をおろしたヘアスタイルのせいかもうすぐ四十になるようには見えず、私に対する気の使い方にも年上らしい頼もしさはない。
「アジサイもよく咲いていますね」
 植物園らしいコメントを述べてみる。初めてのデートでは、とにかく会話をすることが大事だと学習している。
「そうですね。僕はアジサイにはまったく詳しくないのですが、梅雨の時期のアジサイはいいものです。しかしここのアジサイは、堂々としていますね」
 確かに、住宅の庭先などで見るアジサイに比べて生命力旺盛に生い茂っている。
「あ。この花、うちの実家にあります」
 薄暗い茂みに、見覚えのある白い可憐な花が咲いていた。
「ああ、これは」
 宮内さんが、一呼吸おいて私を見た。
「これはどくだみですね」
「え!これがどくだみなんですか」
 よく耳にするどくだみすら知らなかったことに恥ずかしくなり、私は笑ってしまった。
「植物を全然知らないことがばれちゃいましたね」
「いや、申し訳なかったな。お近くだと聞いて、一緒にバラを見に行ってもらえる人を見つけたと舞い上がっちゃったから」
 そう。パーティーで私が調布寄りの三鷹市に住んでいると言ったとき、彼は急に眼を輝かせたのだった。
「いいえ。たまにはいいものです」
 実際、ピンクと水色だけでなく、薄紫、純白、黄緑色などのアジサイを見ると、気にとめてこなかった事柄の中にはそれぞれたくさんの奥行きがあるのだと思ったのだ。

 バラ園は広かった。
 バラのアーチをくぐったり、バラの咲き乱れる小路を歩いたりというロマンチックな空間を想像していたけれど、バラは、等間隔に整列して植えられていた。そしてバラの香りではなく、よく肥えた土の匂いがする。甘美なイメージとは裏腹に青空の下のバラは現実的だった。根が土から養分を取り、葉が光を受け、枝がたくましく花を支えている。
 宮内さんは、腰をかがめたり上から覗き込んだりと、彼なりの見どころがあるらしかった。
 私は、それぞれのバラの個性とつけられた名前を楽しみながら宮内さんの近くを歩いた。
 ノックアウトは強いピンク。バニラパヒュームは淡いクリーム。クローネンブルグは驚きのツートンカラー。友禅と名付けられた途端和風に見える不思議。
「宮内さんは、写真は撮らないんですか?」
 立派な一眼レフカメラを担いだ人たちを見かけたときに尋ねた。
「そうですね。撮った時期もあるのですが。僕の腕では、肉眼で見た色味に撮れないことがよくわかったのでやめました」
 確かに、バラの色は平面的ではないので、そのままを写真に納めるのは難しそうだ。
「同じ一つの花でも、今日と明日とでは色合いも開き具合も違ってくるわけです。季節によっても違います。秋に咲くバラは、また格別の良さがあります」
 宮内さんは自分の言葉を確認するかのようにうなずいた。
 それから全てのバラをくまなく見た後、一旦植物園を出ることにして深大寺方面への門へ歩いた。カラスの鳴き声と、遠くのヘリコプターの音、離れた場所で話す人の低い声、そんな物音が際立つくらい静かだった。

 深大寺へ出るとまた別世界である。生活から離れた静かな植物園に対し、門前には観光地の活気がある。
 お蕎麦屋さんや土産物屋に立ち寄る前に、まずは山門から深大寺に入り参拝した。
 去年の護摩祈願のお札の効果は切れてしまったろうか。まだ後厄である。ちょっとお守りを見ていいですかと宮内さんに断り選んでいたら、縁結びのお守りが目に入った。
 微妙だ。いや絶妙というべきか。婚活真っ最中の私にとってこれこそが必要なお守りだが、彼氏でない男性と一緒のときには非常に買いづらい。
 やはりここは厄除け、と手を伸ばした時、宮内さんが縁結びのお守りを取った。そして表裏を吟味すると、
「これを買ったら卑怯ですよね」
と、もとの場所に返した。
 よくわからず、どういう意味かと私は尋ねた。
「今後の良縁を祈願するのか、それともこれが良縁となることを願うのか惑わせてしまいます。あなたや、神様を」
 そうだ。私も同じように感じ、買えないと思ったのだ。
宮内さんは続けた。
「どちらを願うのか決まっていますが、まだ表明していませんから。表明せずに買うことは卑怯な気がします」
「表明して下さい」
 私は言った。
 それに対して宮内さんがそっと言った言葉に、私は自分の気持ちがほころぶのを感じた。
「秋のバラは、どんなふうですか」
 宮内さんは、私の意外な返事に戸惑いながらも答えた。
「深く、鮮やかです」
 私はそれを想像した。そして秋の景色の中のそのバラを見たいと思った。季節とともに移ろう色を、この人とまた見に来たいと思った。

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<著者紹介>

青野 苗(東京都小金井市/44歳/女性/パート)

 護摩木の裏に書いた祈りを、香織さんは最後までおしえてくれなかった。
 あのとき、香織さんは空を見上げて「いつかね」と言った。そのとき、雨が降りはじめた。僕らは、抗えない現実と日々に捨てなければならない何かを悟り、まるでハナビラが千切れるように、山門の下で別れた。
――以来、香織さんには会っていない。そのいつかも、訪れてはいない。石畳の道。数多の緑がもたらした風。十年もの長い歳月を経た今、僕はあの日の雨と深大寺の情景をはっきりと覚えている。
「ねえ厚。これ似合うかしら」
 ふと声がかかった。現実に戻り、そっと振り返った。そこに、純白のドレスに身を包んだ恋人が試着室で微笑んでいた。そう。僕にも守るべき人が出来た。十年とは何かが過ぎ、何かが進む。それだけの長さでもある。
僕は心から言った。
「ああ。すごく綺麗だ」
「本当」彼女は髪を踊らせ鏡に振り返った。「一生に一度の結婚式だもの、迷っちゃう。うーん......あ、ねえ厚。まだ、雨降ってる?」
「え?」思わず聞き返した。「雨?」
「ええ。午後にはやむって聞いたんだけど。帰ったら、洗濯物干さなきゃ」
「そっか」頷いた。そうだね、と返しショップ前の通りへ目を向けた。路面が、黒く濡れている。「ああ。由香、まだ、雨は降ってる」
 音のない、細い雨だった。
 その雨を、僕はただ眺めていた。雨は、こうして優しく残酷に、あの日を思い出させる。

「――厚君って、きっと純粋」
「え?」
「好きになったら、一途になるタイプ。違う?」
 木漏れ日の下、香織さんは目をほそめて言った。ゆるやかなウェーブのかかった髪が参道を抜ける風にゆれ、甘い芳香が届く。思わず胸が跳ねた。僕はそっと、憧れを抱いた目を香織さんに向けた。アルバイト先のデパートで出会ってから三ヶ月。当時十八歳の僕は、十歳も上の女性が抱くコケティッシュな魅力に抗う術を知らない子供だった。
 近くの店で、風鈴が鳴った。午後の到来を知らせるような確かで軽やかな音色だった。梅雨時ではあったが、深大寺は緑が豊かで涼しく、梅雨をわすれさせる心地よさがあった。
 目の前をハナビラがよぎった。何の花だろうと思ったとき、ふと腹が鳴った。そういえば緊張して何も食べちゃいないのを思い出した。恥ずかしさを感じながら顔を向けると、香織さんはバカにするでもなく、いつも見せる優しげな笑みで僕を見ているだけだった。
「お蕎麦でも食べよっか」優しげな声で、香織さんは言った。
柔らかな手が僕の頭を撫でた。香織さんの手は温かかった。立ち上がり僕の手を引くと、近くにある蕎麦屋に歩き出した。細くしなやかな腕に、痣がある。転んだのだろうか。
 青木屋という店にはいると、僕らは座敷にあがり、蕎麦を頼んだ。運ばれてくるのを待つ間、僕らは無言で店の隣に作られた人工池を眺めていた。鯉が泳いでいる。遠いひつじ雲の下、灯篭の優しげな光の中、水流のせせらぎにししおどしの軽やかな音色が静けさを実らせている。小さな幻想感の情景の中、やがて、場にひとすじの風が凪いだ。
香織さんに向かい、崩していた足を直した。今日こそは、という決意があったのだ。
「香織さん」
 名を呼ぶと、そっと僕を見た。
「なあに?」
「あの、」僕は言った。「こないだも言いましたけど。その、やっぱり僕と付き合ってほしいんです。僕は本気です」
 香織さんは、表情を変えず僕の告白を聞いた。その顔に一体どんな感情が含まれているのか、僕にはわからなかった。ただ香織さんは、いつも僕に向けてくれるやわらかな笑みをうかべただけで、そっと、首を横に振った。
「ありがとう。でも、気持ちだけ受け取っとくわね。だって、私には夫がいるもの」
「でも。それじゃ僕が奪ってしまえばいい!」
 思わず声が荒くなった。店にいた客の視線が、僕たちに集まった。香織さんは動じることなく、し、と唇に人差し指を当てた。
 再び、僕と香織さんの間に沈黙がおりた。
 艶やかな水気のある蕎麦は喉を滑り、胃を満たしてくれたが、気分は落ち込んだままだった。先に食べ終えた僕は、香織さんを見つめていた。香織さんは何も言わなかった。
 会計時、財布を出そうとした僕の手を香織さんは制した。香織さんはいつも僕の分まで払う。僕は、財布を出すことすらさせてもらえない。子供なのだ。
 店を出たあと、僕たちは何をするでもなく参道を歩き、店をひやかした。ラムネと竹トンボを買い、周辺を一通り廻った。足が疲れ、ベンチに座った僕らは側溝の小川で自由に滑るアメンボを眺めた。アメンボ、か。香織さんは水辺を眺め、何故か寂しそうに呟いた。
「私も、アメンボになれたらいいのに」
僕には、その言葉の意味はわからなかった。
 満開のツツジが、そっと、風にゆれた。

「ねえ厚君、護摩木やらない?」
 薄い西日が差しこみはじめたころ、元三大師堂前で止まり香織さんは言った。歴史に彩られた建造物を見上げつつ僕は頷いた。僕らには少し前から会話がなかった。香織さんの背中は小さく、どこか希薄感に染められていた。今思えば、僕はそのときこれでもう最後なのだとどこかで気付いていたようにも思う。
 百円を供え、細長い護摩木を手にした。説明書きの通り表に名前を、裏には祈願する言葉を書いた。願いを込めた奉納が終わったあと、本堂へとつづく階段をおりた僕らは、常香楼の前で立ち止まると自然に向かい合った。
「厚君は、どんな願い事書いたの」
「僕?」ポケットに手を入れ、遠くをながめた。「僕は、香織さんと結婚出来ますように」
「――そう」香織さんはほんのわずか、哀しげな顔を見せた。でも、それは文字通りのほんの一瞬だった。そして言った。「じゃあ、来世で私が独身だったら貰ってくれる?」
 ふと、涙があふれそうになった。僕は、来世ではなく、この時代で香織さんと生きたかった。だがその想いは口には出来なかった。してはいけないのだと悟っていた。困らせたくなかった。香織さんのことは間違いなく好きで、だがこの想いは、憧れが見せる直情的な幻だったのかもしれなかった。例えそれが、焦がれるほどの恋だったとしても。
「香織さんは、何を書いたんですか」
 涙を堪え聞いた。香織さんは少し首を傾げたあと、腕を後ろで組んだ。
「今日はダメ。また今度、いつかね。教えてあげる。そうね、じゃあ二十歳になったら」
「何ですかそれ。ずるいで――」
そのとき、ふと冷たい何かが頬にあたった。思わず、驚いて言葉をなくした。
二人、同時に空を見上げた。いつしか、鈍色の雲が厚く広がっていた。雨だ。水滴は徐々に量を増し、地面を黒く変色させていく。
「雨だね」香織さんは言った。「帰ろう、か」
「......はい」力なく言って、歩き出した。
 そのとき、香織さんがそっと手を繋いできた。僕も強く握り返した。辺りの観光客が走って本堂を去る中、僕たちはゆっくりと歩き山門を抜けた。人気はない。階段をおり、三叉路の中心で向かい合うと、香織さんは僕を見つめ、そしてゆっくりと顔を近づけてきた。
 ――緊張しないものなのだ。そう、思った。
 僕たちはずぶ濡れになった。香織さんは笑った。いつものような、やわらかい笑みだ。
 香織さんは、そっとバッグから何かを取りだした。それは、先ほど買った竹トンボだった。いくよ、そう言った香織さんは柄の部分を両手で挟み、竹トンボを勢いよく上空へ飛ばした。雨の中、嘘であるかのように、竹トンボは高く空へ舞った。
 僕らは、それをきっかけに背を向け歩きだした。帰る道は違かった。背後で、竹トンボの落ちた音が小さく聞こえる。また会える。そう願っていた。いつかと言ってくれたから。
 ――だが結局、僕は、願い事の正体を聞くことはなかった。
 一年後、僕の想い人は、突然としてこの世を去った。原因を知り僕は泣いた。前々から続いていたという家庭内暴力がエスカレートし、結果亡くなってしまったとのことだった。香織さんが死んだ日。それは、僕が二十歳を迎える、たった一カ月まえのことだった。

「お待たせ」
 彼女が試着を終え、シャツにジーンズのラフな姿で真っすぐ僕の元へ歩いてきた。
「決まった?」
 そう尋ねると、彼女は満面の笑顔で頷いた。
「うん。さっきのにする。あぁ、楽しみだけどこれからも大変なんだよね。色々とさ」
 言って、腕を組んできた。僕らは店員に礼を述べ店を出た。雨はまだ降っていた。
 並んで歩く中、僕は言った。
「なあ、いきなりなんだけどさ。これからちょっと、深大寺に行っていいかな」
「深大寺?」彼女が首をかしげた。「深大寺って、......調布だっけ?」
「そう」
「まぁ、いいけど。でも、なんで?」
 腕時計を見た。まだ閉店には間に合うだろう。僕はゆっくり、空を見上げた。遠く、一面にあの日のような雨空が広がっている。僕は手をこすり合わせながら、いつかの風景を思い描き、静かに呟いた。
「竹トンボを、飛ばしたくなったんだ」

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<著者紹介>

綾瀬 透(東京都豊島区/28歳/男性/接客業)

あの日もこんな雨だったな――人気のない参道を歩きながら、ふと知子は中学を卒業する春にこの深大寺のだるま市に来た時のことを思い出した。
自分の歩く前をちょっと左右に揺れながらゆくピンクの花柄の傘は合唱部で親しかった隣のクラスの美奈のもの。その横に並んだ透明のビニール傘の膜に流れる無数の水滴とその向こうに見える黒い学生服の背中。その帰り、「三上君、もうすぐ引越しちゃうんだって。卒業式も出ないって」とすっかり意気消沈した美奈に告げられて胸が締め付けられそうになったあの日。その数日後に三上は周囲の誰にも行き先を教えないまま、突然引越してしまった。「母子家庭だったからね」としたり顔で噂する同級生もいた。だったら何だと言うのだ、と知子は心の中で苛立ちながら、三上の消息を尋ねてみたが、やはり何もわからなかった。
あれから、もうすぐ二十年も経つのか、と軽く頭を振ってから知子はバス停から山門に向かった。
調布育ちの知子には、正月やだるま市の日に賑わう深大寺の参道は馴染みの場所の筈だった。だが、こうして会社の代休をとって六月の平日の午後に訪れてみると閑散として別の場所のようだ。だるまを納めよう、と急に思い立って来てしまったものの、どうするのか知らなかったので、山門を入ってすぐの札所で案内を請うた。目入れをしていないままでも良いのだろうか、と少し心配だったが、応じた和装の青年が笑顔で
「かけた願いや一緒にいようというお気持ちが変わったダルマさんもお焚きあげできますよ。そう難しく考えないで大丈夫です」
というのを聞いて安堵する。
 ダルマは今年の正月に妹夫婦が深大寺で買ってきたものだ。この数年、暮れから妹夫婦が子連れで帰省するのに合わせて新年に調布の実家を訪れ、両親と皆とで揃って初詣をするのが知子の正月の過ごし方となっていた。だが今年は知子は新年の朝食を皆と共にしたものの、体調がすぐれないと言って深大寺の参詣に加わらなかった。三年間の交際を経て結婚を考えた男性との関係を解消したばかりの身には、こういう家族行事が応えるものである。破綻の原因が三十代半ばなど嫁もらって何人の孫の顔が見られるのか、という先方の母親の言葉とあれば尚更のことだ。
「あの子ね、お姉ちゃんはいつもでも自分の上を行って、勉強でも何でも敵わなかったけど、親に初孫を抱かせるのは自分が先って決めてた、なんて言うのよ」
 妹のそんな言葉を母の口から伝えられたのは、一人目の甥が生まれた年のこと。もう七年も前のことだから母は覚えていないかも知れない。だが以来、妹が何かにつけて夫と子ども達を伴って実家を訪れ、両親が孫へのサービスにかかりきりになる様子を見たり聞いたりする度に知子はそれを思い出してしまう。子どもの頃から何かと姉と張り合おうとし、親のいないところでは挨拶も返してくれないことが多かった妹とは元々仲が良いわけではなかったのだが。
「これはお義姉さんにお土産」と官僚らしい卒のなさで義弟から差し出されたかぼちゃほどもあるダルマの大きさを見て、知子はそれが子ども達にやったお年玉の金額につり合った返礼のつもりなのだと察したのだった。
 礼を言って受け取り、アパートに持ち帰ったものの、そんなダルマに願をかけようという気にもなれず、かといって縁起物だけに捨てるのもはばかられたので、ダルマはずっとビニールに入ったまま部屋の棚に放置されていた。それを何となく目障りに感じる自分も嫌になってしまい、人出の少なそうな平日に代休が取れた時、知子は元の寺にダルマを帰してやろうと思い立ったのである。
教えられた石の階段を上りきって大師堂に着くと賽銭箱の横の台に「お焚きあげ」と書いた箱がすぐに見つかった。両目とも白い目のままでごめんね、心の中で言いながらそっと置き、木箱の中でちょっと窮屈そうなダルマに向かって手を合わせた。
 その時、急に背後がピカリと光った気がした。雷だろうか、と知子は振り返ってしばし雨空を見上げる。
「あの、小川さん?」
 突然、聞こえたのは雷の音ではなく、知子の苗字を呼ぶ大きな声だった。視線を落としてみると境内の上がりきったところに透明のビニール傘を差した紺色のスーツ姿の大柄な男が立っている。と、思いきや男は「小川さん?すげえ!本当に?」と言いながらこちらにグングンと歩いて近づいてきた。いぶかしげな知子の表情を物ともせずに男は続ける。
「俺、三上一輝だよ。中学の時、三年五組で一緒だった」
 何ということだ。あの頃よりすっかり恰幅がよくなっているけれど、目元や唇を尖らせ気味に話す表情には、確かに先ほど思い出していた中学生の面影が認められた。
「本当に驚いたよ。こんなところで小川さんに会えるなんて。俺、出張で東京にきてこれから新幹線で大阪に帰るんだけどさ、急にこの辺りのことが無性に懐かしくなって、そうだ深大寺だ!ってタクシーで来たんだ。あと三十分ぐらいしかいられないんだけど、お茶でも飲んでいかない?」
ふたりは門前の茶屋に入った。心太ふたつの注文を聞いた店の者が離れると三上がいたづらっぽい目をして言った。
「あのさ、中学の卒業式の前に一緒に深大寺に来たの、覚えてる?」
「ああ、合唱部の河村美奈が三上君にゾッコンでね。縁結びの深大寺で三上君とデートしたいから同じクラスの私が誘ってくれって頼まれたんだよね。三上君が河村さんなんてよく知らない、お前が来ないなら行かないなんて言うから、私はお供のお邪魔虫でついてっちゃって」
「俺はさ、小川さんのことが好きだったんだぜ。あの時、もう引っ越すことになってたんだけど、ここでダルマ買ってさ、いつかまた小川に会えるようになんて願かけたんだから。子どもみたいだろ?でもあの願い、今日叶っちゃったんだからすごいよなあ!」
「ええ?それは知らなかったわ。でも二十年後じゃ、もう時効ね」
知子は、胸に広がる動揺を抑えながらおどけるように笑った。本当はうすうす気づいていた。あの頃、同じ教室で三上の視線が自分を追っていたことに。美奈との友情のほうが大事、と優等生ぶって自分に言い聞かせつつ、本当は年上の友人も多く大人びた三上と男女の仲になるのが怖くて、三上に惹かれる気持ちを抑えていた自分。美奈のため、と言いながら三上の誕生日や血液型を調べては星占いの本を見て一喜一憂するだけに終わった初恋を三上が引っ越した後になって悔いた自分。
でもあの頃の想いを今更告げる気持ちは知子にはなかった。さっき三上が茶屋の品書きを手に取った時、左の薬指に銀色の指輪があるのが目に入った。切なくがっかりする気持ちが全くなかったと言えば嘘になるだろう。でも、そんな自分を認められる程度にはあの頃より大人になったということか、と知子は何だか可笑しくなって参道の方に視線を移した。三上がいま幸せなら、それでいい。それがずっと心の片隅のどこかで気になっていたことなんだから。
心太が運ばれてきて、ふたりの話題は他愛ない思い出や同級生の噂話に移った。少し経って三上が「折角深大寺に来たんだから、やっぱり蕎麦も食いたかったな」と言いながら腕時計を見た。
「もうすぐ俺、タクシーを呼んである時間なんだけどさ、その前に小川にダルマを買わせてよ。俺の願いが叶ったんだから効果は保証つき!」
 ふたりはタクシーやバスの乗り場のある出口に向かって参道を歩き、途中の店で知子のためにダルマをひとつ買った。
待っていたタクシーの後部座席に乗り込む三上に傘を差しかけてやると、一旦車内に入った顔がまたこちらに出てきて「調布の駅まで一緒に乗ってく?」と言った。かすかに男物の香水が漂うのを感じながら知子は首を横に振り、「買い物で寄るところがあるから」と笑顔を作った。
「元気でいろよ。ダルマ、絶対にご利益あるから、いい願いをかけろよ」
三上が名残惜しそうに言い終えるとタクシーの扉が閉められた。
小雨の並木通りからその車が見えなくなるまで見送ってから、知子はバッグからもらったばかりの真っ赤な小ぶりのダルマを出してみる。
来年からは明るい気持ちで初詣にこられそうな気がする。誰かの脇役としてではなく、自分の新年に思いを馳せながらお参りできそうな気がする。
「ねえ、今度はちゃんと実るように頑張ります。だから誰かに出会わせてね」とつぶやく知子に、ダルマは手の平の中で白い目のままニッコリ微笑んだかのように見えた。

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<著者紹介>

立山 路紗(東京都/女性/アルバイト)

 十五分に一度到着するバスを、ベンチに座ったまま、既に五本も迎えてしまった。
 深大寺に一番近いバス停だからか、毎回多くの人が降りる。親子やらカップルやら。
 経過した時間。一時間十五分。後一本、後一本と、延ばし延ばしにしてここまで待ってしまった。少しお腹も空いてきた。
 今日は梅雨の合間の晴れ間、というやつで少し日差しが強い。でも、時々、風がふわりとうなじを撫でていくので助けられる。
 何度も出し入れを繰り返している封筒を再び鞄から出した時、足に蚊が止まった。
 そいつを平手で叩き、ふと見ると一時間程前に通った親子が再び通りがかった。
 そろそろ行くか。
 目的地まではここから五分とかからないのに、どうにも前に進めないでいた。
 「優花?」
 決して力強くない声が耳に入った。少し離れた声の方向に私を凝視する男が立っている。
 もたもたしていたら、あちらからいらっしゃった。そう、私はこの男に会いに来たんだ。
       * * * 
 俺はとにかく動揺していた。いつも一人で来る場所に、二人でいる。それだけのことなのに、目の前のいつもと違う光景に落ち着かない。
 既にざる蕎麦を注文したのに、優花はメニューを見続けている。
 随分大人っぽくなった。けれど、最後に見た十年前の面影も残っている。
「さすがに大きくなったなぁ。背はもう一番前じゃないのか?」
 優花はとにかく体が小さく病気がちな子供だった。今も喘息は出るのだろうか?
「もう、一番前とかないし」
 優花が生まれたのは俺が三十歳の頃。俺は昔より骨ばった体つきになり白髪も増えた。
「もう二十歳だろ?」
「年齢、覚えてるの?」
「お。さすが俺も親だな。当たった」
 ピースサインを出した俺に「最低」と優花が言葉を吐き捨てた。
 目の前に蕎麦とだし巻き卵が置かれた。ここのだし巻きは絶品だ。一人で食べるには少し大きいが二人だと丁度良さそうだ。
「草履みたい」 
 素っ気なくつぶやく声が涼子に似ている。
「味はいけるから」
 箸で卵を切り分けながら今の気持ちを鎮めようと思った。声もだが、伏し目がちになるとその表情がますます涼子に似ている。
 涼子は元気かと尋ねようとした瞬間と優花が衝撃の言葉を口にしたタイミングは、ほとんど同時だった。
「お母さん、死んだんですけど」
       * * * 
 私は、今流れ続けている重い沈黙に、本題は蕎麦を食べてからきりだせばよかった、と心の底から後悔した。 
 目の前の男は目を泳がせながら、お手拭きで手を拭いて、やっと言葉を吐いた。
「...いつ?」 
 母は三週間前に突然死した。急性の心筋梗塞。働きすぎが原因では、と言われたが、死んでしまった今は原因なんかどうでもいい。
「おばあちゃんが連絡しなくていい、って」
 男は「そうか」と呟いて、またお手拭きで手を拭いた。
 私は、蕎麦を口にした。
 この町には蕎麦屋が多い。十年前、この男と母と三人でこの町に暮らしていた時も、蕎麦屋に行った。しかし、母と二人でだ。母はこの男が暴れ始めると、私の手をとり蕎麦屋へと逃げた。おとなしそうに目の前に座っている男は、酒の力を借りると大騒ぎするアルコール依存症だった。
 この男の元を出て、母と祖母と三人で暮らし始めてから、母はスナックで働きはじめた。「酒飲みには慣れてるから」と。
 男がすごい勢いで蕎麦を食べ始めた。
 私は持って来た封筒はまだ出さずに、草履のような卵焼きを口にした。とても上品な味だ。見た目とは違うことが世の中には多い。この男だって昔から外見はおとなしかった。 
「食べたら行くぞ」
 蕎麦を食べ終えた男が力強く言い放った。
 おかしい。酒は飲んでいないはずだ。 
       * * * 
 涼子が死んだ。涼子が死んだ。りょうこがしんだ。リョウコガシンダ。
 俺は心の中で呪文のように繰り返した。
 勝手なものだ。いつかまた会える日が来るのではないかと期待していたなんて馬鹿馬鹿しすぎて笑える。というかそんな思いを抱いていたことに今、気づいたことにも笑える。
「ちょっと、どこまで行くの?」
 優花が俺を追うようについてくる。
 深大寺には涼子とよく来ていた。まだつきあっていた頃。蕎麦を食べて、お参りをして、縁結びをしてくれる神様なんだ、とか言っては笑いあった。優花が生まれてからも三人で来ていたが優花は覚えているだろうか。
 本堂の側にあった木を確かめよう思った。
 ムクロジの木。青々とした葉をつけ、隙間から溢れる日の光で鮮やかに彩られている。
 風が凪いだ瞬間、パラパラと黄色い花が降り注いできた。梅雨の今の時期は、丁度花が盛りを迎えて落ちる頃なのだ。
 花を拾い、優花の掌にのせた。
「王冠みたい」
 涼子はこの黄色くて小さな花が好きだった。朝一番に来ると木の下は、夜の間に降り積もったムクロジの花の絨毯で覆われていた。そこに座り、嬉しそうに笑う涼子が好きだった。
 ここには涼子との思い出が多すぎる。
 涼子がいなくなってから、本堂までは来ることができなくなった。 
       * * * 
「優花の名前はこの花からきているんだ」
 男が花を拾いながら言った。
 母に聞いたことがある。優しい黄色の花を咲かせる木があると。
「もう涼子はこの花を見れないんだな」
 淋しそうに呟くこの男の後ろ姿には、酒を飲んで暴れていた頃の勢いが感じられない。
 人は年を取るのだ。私も十歳から二十歳になった。好きな人だってできた。
 私は鞄から封筒を出して男に渡した。
 母の字で「大森保様」と書いてある。
母が死んで遺品を整理していたら出て来た、この男宛の母からの手紙。封は閉じていなかったので、中身は祖母と一緒に読んだ。
 男は封筒を見つめたまま中を見ようともせず、ズボンのポケットにしまいかけた。
「読まないの?」
「涼子からのラブレターは一人で読むよ」
 少し嬉しそうな表情で言った男は、先ほどと違い飄々として見えた。もっと慌てふためくかと思ったのに想像とは違っていた。
 母はこの男に殺された、と思っている。この男がもっとしっかりしていれば、この町を出ることもなく、その先の町で働きすぎることもなかったんだ。 
 この男は、私の実の父親は、母を殺した。
 手紙の内容も理解出来ない。こいつが憎い。母は新しい恋をして幸せになれたはずなのに。
 「なんでそんなに落ち着いているの? 最後どうだったか、とか気にならないの?」
 「聞いても涼子は帰ってこないだろ? それより、それを知らせるために優花がここに来てくれたってことの方が重要だ。涼子に感謝だな。ありがとう」
 拍子抜けしてしまう言葉に悔しくなった。
       * * * 
 優花は俺のことなんてあまり覚えていないだろう、と思う。それでも、母を困らせた男の姿は記憶に残っているのではないかと想像して久々に会った時くらい、ましな姿を見せたいと思った。俺が一応優花の実の父親である、という事実は涼子が死んでも変わらない。
 優花がトイレに行っている隙に、封筒を開けた。
 中に入っていたのは一枚の写真と手紙。
 写真の中には深大寺の木の下で微笑むお腹の大きい涼子と俺がいた。
 手紙には近況報告と「もう一度一緒に暮らさない?」という文字。四年前の日付だった。
 どうにもできない情けない思いは目から汁となって流れ出た。その文字を見た途端、溢れてしまったのだ。
 もう、時は取り戻せない。
 情けない。優花が帰ってくるまでにこの汁は止まらないかもしれない。
       * * * 
 バス停でバスを待つ間、私は横にいる男をチラリと見た。目尻の皺が半乾きだ。
 トイレから出て来たときに、男の嗚咽が響いていた。大の男があんな風に声をあげる姿を私は見たことがある。
 十年前、この男は酒を飲みながら泣いていた。酒を飲まないと感情を出せなかった男が今は素直に泣けるようになったらしい。
 母はこの男のどこが好きだったのだろう。
「今日はありがとな。わざわざ来てくれて」
「四十九日にお母さんに会いに来てもいいって、おばあちゃんが言ってた」
 私はこれを伝えに来たのだ。
 手紙を見た祖母は「あきれたよ。この子はずっとあの男を思ってたんだ。そんなたいした男じゃないだろうに」と言いながら、母が可哀想だと思ったのだろうか。
 バスの窓の向こうで、男が小さくなっていく姿を見ながら、母と二人で行った蕎麦屋での話を思い出した。
「お父さんはね、私の気持ちが足りなくなると不安になるのよ。だから私はずっとお父さんの側にいてあげないとだめなのよ」
 もう側にいれないと判断して家を出た母は側から離れたことを後悔していたのだろうか。 

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<著者紹介>

井上季子(東京都渋谷区)

 三月最後の日、102号室に学生さんが引っ越してきた。富山から夜行列車で上京し、早朝に到着したらしい。昼過ぎ、母がアパートの規則やゴミの日の説明をしに行った。
「びっくりしたわぁ。大山君たら、もう女の子を連れ込んでいるのよ。愚鈍そうな子だと思っていたのに、やるもんね」
 母は父の枕元に行って報告した。
「一浪したって聞いてたけど、恋愛も同時進行だったのね。......ううん、地味な女の子だったわ。こんにちはって挨拶されちゃった」
 父の声は聞こえない。父は深大寺近くの蕎麦屋で働いてきたが、年明けにめまいで倒れ、検査をしても三半規管の異常としか診断がつかず、寝たり起きたりを繰り返している。
 春休み中で暇を持て余していた真紀は、二階の勉強部屋の窓から102号室の玄関ドアを眺めた。二階建てのアパートは、真紀の家のすぐ裏にあった。どれだけ待ってもドアは開かず、そのうち飽きてしまった。
 夕方、真紀は母に頼まれて回覧板を持って外に出た。砂利を踏む音に振り返ると、分厚いジャンパー姿の学生と、パーカーにチェックの長いスカートをはいた女の人が歩いてきた。大山君だとすぐにわかった。真紀は、「こんにちは」と頭を下げた。
 母の言っていたグドンという言葉のたしかな意味は知らなかったが、大山君を見た瞬間、真紀はグドンということがなんとなくわかる気がした。この四月に小六になる真紀に深々とお辞儀をし、「よろしくお願いします」と言ってきたのには驚いた。見開いたまま顔に貼り付けたような眼と、三角形の大きな鼻、一文字に結んだ口が何かに似ていると思った。大山君の彼女は真紀と眼が合うと、首を傾げて親しげに笑った。平凡な顔が急に華やぎ、真紀は面食らった。とがった八重歯が、おとなしそうな彼女を、いたずらっぽい雰囲気に変えた。二人は深大寺の方に歩いて行った。
 回覧板を届けた真紀は家に戻らず、深大寺に向かった。二人にはすぐに追いついた。辺りは薄暗く、参拝客もいなかった。二人は手もつながず歩いていた。大山君の左手と彼女の右手はきっかけを待つように揺れていたが、なかなかつながらなかった。真紀がその手をつないでやりたいくらいじれったかった。
 二人は本堂の前で、手を合わせた。先に大山君が顔を上げたが、彼女はいつまでも祈り続けた。合わせた手の上に額を乗せて一心に祈る姿は、見ている真紀まで息苦しくさせた。母も、父が病気になってから毎朝欠かさず参拝に訪れ、長々と手を合わせるが、彼女の祈りは母のものより長かった。大山君はしびれを切らしたのか、彼女の合掌した手を乱暴につかんだ。彼女は体勢を崩しよろけた。「まだ、お参りが終わっていないのに」というようなことを、彼女は方言で言った。怒ったのかと思ったが、言い方は甘く、二人はそのまま手をつないで、闇が待つ植物園の方へ向かって歩き出した。真紀はそれ以上の追跡はあきらめた。心臓がどきどきしすぎて、二人を見ていられなかった。
 洗面台で手を洗っている時、壁に貼られたイースター島のカレンダーに目が留まった。モアイ像に大山君が重なった。大地にどっしりと構えたモアイ像は力強く、どことなく悲しげにも見えた。
 アパートの住人の郵便物を束のまま配達人から受け取り、階段下の郵便受けに配達するのが母の日課だった。昭和の終わりのその頃は、個人情報という言葉もなく、プライバシーについてもうるさくなかった。母は窓から真紀に見られていることにも気付かず、郵便物を裏返して、差出人をいちいち確かめた。
 大山君のもとには、毎週のように富山市の彼女から手紙が届いた。角のない丸い字を母はすぐ覚え、裏返さなくても、中沢さおりさんの手紙はすぐにわかるようになった。封筒はいつも厚く、ありゃ読む方も大変だと母はあきれたように言うのだった。当時、部屋に電話を引く学生はまだ少なく、通りの公衆電話を学生さんたちは利用していたが、大山君の姿は見たことがなかった。二人の通信手段は、もっぱら手紙のようだった。
 夏が近づくにつれて、さゆりさんからの手紙は途切れがちになった。時間の問題ね、母は言った。あんなに長く縁結びのお寺にお参りをしたのだから、二人がダメになるはずがないと、真紀は思った。夏の終わりにさゆりさんと大山君を調布駅で見かけた時、真紀はほっとした。母に報告した。時間の問題だよ、母はまた言った。駅では、さゆりさんが券売機で切符を買うのを、大山君が離れたところで待っていた。さゆりさんが料金表を困ったように見ていても、大山君は格好つけて立っているだけで、手を貸そうとしなかった。さゆりさんが切符を手に戻ってくると、大山君は「電車が行っちゃうよ」と改札に駆けこんだ。さゆりさんは人にぶつかりながら、大山君の姿を追いかけて行った。都会人ぶっている大山君は、モアイ像のようなおおらかなイメージとはかけ離れた人になっていた。
 深大寺が紅葉でにぎわう頃、大山君がやって来た。大山君の声は、真紀の部屋に筒抜けだった。家賃の延納の相談だった。
「黙って滞納すればいいのにさ。今月分、待ってくださいなんて面と向かって言われたら、意地悪したくなるじゃないのさ」
大山君が帰ると、母は顔をしかめて言った。
「ダメって言ったの?」
「そりゃ、うちも困るからね。半年以上滞納してる人もいるんだから。家賃が入らなきゃ、あたしたちだって食べていけないんだよ」
「大山君、何かあったの?」
「富山に帰る用事ができたんだって。いよいよ別れ話かしらね」
 真紀は大山君が公衆電話の中にいるのを、たびたび見かけるようになった。相手とつながらないのか、大山君はアパートと公衆電話を何度も往復していた。真紀は地図を広げて、東京と富山の距離をたしかめた。その遠さにため息が出た。夏以降、さゆりさんからの手紙は途絶え、二人の関係が行き詰っているのは、明らかだった。お金がないのなら、アルバイトでも何でもして、会いに行けばいいのにと真紀は歯がゆかった。会いに行けば、二人は元通りになると、真紀は信じていた。

 小三の息子の校外授業の付添員として、真紀は久しぶりに深大寺を訪れた。列から遅れがちな子どもたちを励ましながら、実家の前を通りかかった。父の看病と生活に追われた母は、胆のうがんに気付かず悪化させ、真紀が中三の時に他界した。実家には今、そば職人に復帰した父が弟夫婦と一緒に暮らしている。アパートはまだ残っているが、古いせいで、入居者は減っているらしい。
 梅雨の合間の深大寺は、参拝客でにぎわい、湧水の流れる音や風鈴の音が響き渡っていた。
子どもたちを追いかけ、本堂に行った時である。おざなりに手を合わせるだけの子どもたちに遠慮するように、端で参拝している女性がいた。脇に閉じた日傘をはさみ、紺色のレースのブラウスに白いパンツ姿の女性である。合わせた手の上に額をすりつけるようにして、長い時間をかけて祈っている。男の子が女性にぶつかり、日傘が落ちた。真紀は駆け寄り、日傘を拾って渡した。女性は笑顔で受け取った。女性は再び丁寧に手を合わせた。手水で遊ぼうとする子どもを注意しながらも、何となく気になって本堂を振り返ったら、もうそこには女性の姿はなかった。
深大寺通りを戻る途中、前方に再び女性を見かけた。日傘をさした女性は、真紀の実家の手前にたたずみ、奥のアパートを見ていた。渦巻くような風の音が押し寄せてきて、高く伸びた木々の枝が波のような音を立てた。真紀は思わず帽子を押さえた。その時、愚鈍という言葉が唐突に頭に思い浮かんだ。真紀は大山君とさゆりさんという名を思い出した。
母の入院中、アパートの学生さんたちが見舞いに来たことがある。やせ細ってはいたがまだ化粧をする気力のあった母は、身づくろいをして、学生たちを迎えた。亡くなる前の母は、それまでの気の強さからは想像できないほど、人に謝ってばかりいた。規則にやかましく、無愛想だった家主の変わりように、学生たちは戸惑い、ささいな出来事で謝る姿に恐縮した。母は大山君にも謝った。
「あたしが滞納を見逃してやれば、大山君もあの子と別れなくてすんだのかしらね」
「いえ、おばさんのせいじゃありません」
「ううん、あの子が会いたがったんでしょ? 会いに行けば、女なんて安心するのよね」
「俺が悪かっただけですから」
 大山君は大きな目をうるませて答えた。真紀は、母の前では誰にも泣いてほしくなかった。中学生になってから真紀も忙しくなり、アパートの住人には興味がなくなったが、不器用そうな大山君とさゆりさんの恋愛は気になっていた。真紀の知る限り、さゆりさんが再び102号室を訪れることはなかったし、ほかの女性がやって来ることもなかったのではないかと思う。卒業後、大山君は郷里の自動車部品メーカーに就職したと聞いている。
深大寺前のバス停から、おーいと呼ぶ声がした。山の上でこだま遊びをしているような、のんびりとしたよく響く声である。男の子の何人かが、ふざけておーいと返した。おーい、バスが来るぞー、男は女性に向かって手を振っている。
「もう、せっかちなんだから」
 女性は意外と野太い声で言い捨て、目の合った真紀ににこりと笑った。唇の両端から、八重歯がのぞいた。
女性は男のところまで戻ると、強い風に飛ばされまいとするように、男にしがみついた。しゃくれたあごを突き出し、口を一文字に結んだ男の顔に見覚えがあった。頑丈そうな四角い体は、ますますモアイにそっくりだった。

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<著者紹介>

志馬 幸子(東京都練馬区/46歳/女性/パート)

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