<第12回・最終審査選出作品>「8時48分の恋」 著者:うどうのりこ

午前8時48分、深大寺発調布駅北口行きのバスを、私は主人である一哉と待っている。

初夏だというのに、まだ朝は肌寒い。冷たい空気に、私が派手なくしゃみをすると、一哉は愉快そうに笑った。

「なんだ、豪快だな」

いつものように軽口を叩いて私をからかう。そんなところは嫌いじゃないけれど、今朝は少し恥ずかしくて、一哉の柔らかそうな目じりのシワを軽く睨んだ。


週に3回、目の不自由な一哉の通院のため、私たちはこのバスを利用している。もう3年になるだろうか。

もともと私は、この地域で生まれ育ち、近くの公園を駆け回るような子供時代を過ごしていた、が、学校に入る頃には、ここを離れてしまったから、特別な思い入れはなかった。

それでも今、この地域で一哉と暮らせることを幸せに思っている。

一哉と出かければ、ご近所さんも、参道の商店の人も声をかけてくれ、何かと親切にしてくれる。静かな暮らしの中で暖かな人の優しさに、故郷というだけでなく、私はこの街を気に入っていた。


そんな穏やかな日々に、この小さな秘密が現れたのはいつからだろう?

自覚したのは、ほんの一瞬、顔なじみにくれただけの、あの人の笑顔を見てからだった。

すれ違う時に、確かに私に向けられる笑顔。ただ、それだけ。


「そろそろ来るかな......」

一哉の声で我に返った。

誰も知らない秘密を乗せ、バスが近づいてくる。

私は少し身構えた。一哉は見えなくても、私のことをしっかり観ている。

もう、すでに気づかれているかもしれない。

バスが止まると、あの人は今日も少し眠そうな顔で降車してきた。まだ歳は20代だろう。ツヤのある髪のサイドを思い切りよく刈り込んだ髪型は、精悍な作りの顔によく似合う。

細身の白いシャツは少し着崩れて、頼りなく見えるところが、女心をくすぐる。

普段の凪いだ生活の中で、彼の無自覚な若さは私には眩しいくらいだった。

あの細く長い指に触れられたら、どんな感じだろう......。

私は降車客を待つふうに、何気なく彼を見上げた。本当にさりげなさを装う、ここが毎回緊張する。

やはり彼は、私を見つけると嬉しそうに会釈をしてくれた。鼓動は最高潮に高まる。

この数秒だけの恋。

彼は決して振り返ることなく、バスを降りるとそのまま、道に沿って歩いてゆく。

私は淡く軽い秘密を抱え、素知らぬ顔でバスに乗り込んだ。


「ん? 今朝はずいぶんとご機嫌だな」

一哉は何気なくつぶやく。

目の不自由な彼は、目が見える私よりも世界が良く見え、良く知っている。感覚が研ぎ澄まされているからだろうか。

季節も、天候も周囲の感情や状況も、見えるものより敏感に感じ取ることができる。

それでいて、一哉はいつも世界に寛容だった。時に、見えない目で観る世界を面白がり、楽しむことのできる彼を私は尊敬し、心から愛していた。

私のことだってすべてお見通しなのだから......。

ただ、からかわれていることが分かっていても、私は見透かされたかもしれない恥ずかしさに、そして小さな罪悪感に、何も答えずそっと目を伏せた。


 

病院の帰りにバスを降りると、私たちは少し散歩するのが日課だった。

深大寺の山門をゆっくり上り、神様にご挨拶をしたら、帰り道に植物園へ寄る。ここで巡る季節の中、私たちはバラ園の香りに癒され、雑木林で落ち葉を踏む音を楽しみ、鳥のさえずりに耳を傾けた。

この季節なら、私は青葉の落とす濃い影を、一哉は青い香りのする風を楽しみながら歩く。

いつもの分かれ道に出ると、一哉は迷わず左へ曲がる。右手から聞こえてくる、幼い歓声に私たちは背を向けるように植物園を後にする。

これも私への気づかいだとわかっている。

「すまんな......」

この時だけは、普段愉快な一哉も、少しさびしそうにつぶやく。

私は一哉との、この静かな生活を愛しているのに。何も悪くはない彼に、返す言葉が見つからないまま、いつものように私は、聞こえないフリをした。


その夏、一哉が体調を崩して寝込んでしまうと、私たちはあのバスに乗ることもなくなってしまった。

最後のわがまま――私と離れたくない、そう言って、一哉は最期を自宅で迎えたいと希望した。

一哉に残された時間は、そう多くはないという現実を受け入れることに、私は精いっぱいだった。時々、バスの彼を思いだしたりもしたけれど、小さな秘密は、小さなまま、やがてホコリをかぶり私の心の片隅に放って置かれた。

生命あふれる、騒々しくも眩しい外界とは、異空間のような静かな夏を私たちは過ごした。熱い太陽の光に焦がされる窓の外で、うるさくセミが鳴いても、この家の中はひんやりと薄暗く静かだ。定期的に鳴る機械音と、一哉の細いうめき声が時折重なる他には、永遠に時が止まってしまったように思える。

浅い息の下で、一哉は囁くように私に言った。

「また、植物園へ行きたかったな...。そうだ、今度行ったら、思いっきりふたりで走り回ろう...」

もうお互い、そんなことができる年でもないのに、またからかって......。

こんな時でも、冗談を言う彼が愛おしい。

「ごめんな、もうあのバスには乗せてあげられないな...」

そんな......。一哉はやはり気づいていたのだ。私の小さな秘密に。

私は一哉に頬を寄せ、静かに泣いた。そうしていつまでも、彼のベッドに寄り添っていた......。


「たまには気分転換に外出しなきゃ」

一哉が逝って、落ち込んでいる私を、お節介な友人は無理やり外へ連れ出した。正直まだそんな気分じゃない。仏頂面で車に乗り込んだが、窓から見覚えのある街並みが流れて、あの植物園へ向かっているとわかった。

車を一歩降りると、なつかしい空気とともに、一哉との思い出が一気に流れ込んできた。一緒にいたころと同じ、暖かい日差しを浴びると、幸せな記憶が私を包み込む。

枯れ葉を踏みしめる音を楽しみながら進むと、私たちはいつもの分かれ道に出た。

友人は迷わず右へ向かって行く。

「向こうに広いドックランがあるの。可愛い子がたくさんいるかも」

ゆっくりと友人について行くと、お祭りのように賑やかな広場に出た。

いつも楽しそうな声はここから聞こえてきたのか。

思っていたよりも大勢の人がここを利用していた。何故だか、体の奥から湧き上がる、弾むような感情が胸を叩く。

公園で遊ぶ人の中に、見覚えのある細い背中を見つけた。

バスの彼だった。懐かしい友人に再会したような喜びに、考える前に体は動いていた。  

人をかき分け、傍へ駆け寄る私の足が、止まった。

彼は――若い女の子を連れている。

出来るだけ驚かさないよう、私は彼の連れている女の子にゆっくり近づき、声をかけた。

「こんにちは、あなたのご主人、素敵な方ね」

「え? ...あ、はい。ありがとうございます...」

突然、年配の女に声をかけられて、戸惑っている女の子の傍に、彼は首をかしげながら駆け寄ってきた。


「こんにちは。......あれ? 見覚えあるなぁ」

「すいません、急に」

慌てて追いかけてきた友人が、彼に挨拶する。

「いや、見覚えあるなぁと思って」

「ああ、もしかしたら街ですれ違っているのかも。この子は盲導犬を引退したばかりなんです」

「......ああ、あの子だ!」

彼は私を思い出すと、あの時と同じ笑顔で、あの細く長い指で私の頭や首を撫ではじめた。

あれだけ夢想したのに......感触はまったく違うけれど、その暖かさは一哉を思い出させた。

「現役のころ、こんな場所で遊ばせるのは難しかったそうです。亡くなったご主人が一度連れて行ってあげたかったと仰っていて......」

お節介な友人の声を置いて、私は新しい若い友人を追い、駆け出す。


『今度行ったら、思いっきりふたりで走り回ろう』


走る風に瞬間、一哉を感じて、私はもっと加速した。


うどうのりこ(広島県)

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