<第12回・最終審査選出作品>「天まで伸びる」 著者:薫

 子どもの頃、引っ越し先はいつもお寺の傍だった。
 裁判所に勤める父には定期的に転勤があったが、どの地域でも官舎からは決まって隣り合う広い墓地が見えた。なぜかは分からない。地代が安かったのかもしれない。
 だから今でもお寺と聞くと、真夏でも、お参りの人がいてもひんやりと沈黙していた墓石の連なりを思い出すし、ただいまと玄関を開ける前に官舎の外廊下から見えるその光景をどう受け止めれば良いのか迷っていた少女時代に立ち返るのだ。
「――紫陽花、もう枯れちゃってるんだね」
 境内へ続く生垣を目線で指して、堺君は愛想よく笑った。唇から覗いた歯が生えたてみたいに真っ白い。私はその視線を辿り色のない花弁の瑞々しい様子を見て、
「小学校の理科の問題みたい」
「なに?」
「習わなかったっけ?中性の土で育つと紫陽花に色がつかないっていうの」
 そうだったかなあと堺君が惚けたところで最後のバス停を過ぎ、私たちは目的地へ到着した。敷地の境界には青々と繁った木々が濃い影を落としていて、一瞬、強く目をつむった。打ち水のされた参道。土産物屋を覗く観光客。蕎麦屋の看板。
「楽しそうだね」
 拍子抜けした声の私に、堺君は「あ、この先にまだ店並んでてさ」と見当違いな弁解をした。そのくせちっとも臆していなくて、男の子らしい軽そうなスニーカーが打ち水を踏むたびシャリシャリと音を立てた。
「抹香の匂いがあんまりしないね」
「そう?」
「お墓も見当たらない」
「こっちはメインストリートだから」
 参道をメインストリートと評する彼の世界観には、いつもクスリとさせられる。そして言ったそばから、
「青いのは、水をたくさん吸ったんだと思ってた」
 真顔でそんなことを呟く。正面の山門脇の紫陽花は今が盛りだった。
 調布で一人暮らしを始めたと同期の女の子に話すと、隣のテーブルからいきなり挙手して会話に参戦してきたのが堺君だった。自分は就職するまで深大寺の近くに住んでいた。高井さん行ったことないの?じゃあ今度案内してあげるよ。焼鳥をぽんぽんと口に放り込みながら気安く笑っていたから、私もグラスを傾けつつ、じゃあお願いしますと笑って返した。行きたくないなと思ったわけではなかった。ただ、その前に立て続けに三度も食事に誘われるとは思わなかったけれども。
「こういうのは五円玉だって、昔からお袋が譲らなくてさ」
 本堂の前で、食事の誘いと同じ身軽さと強引さでもって彼は五円玉を差し出してきた。押し合いへし合いが何往復かするも、結局は私が折れることはもう二人とも了承済みだ。
「そういう迷信みたいなの普段バカにしてるくせに、子どもには躍起になって御利益与えようとするようなとこない?母親ってさ」
 石段を上りながら、堺君が会話をつないでくれる。私は、微笑みだけを返して神妙に正面を向き、本堂に一礼した。堺君も慌てて私に倣う。貰ったばかりの五円玉を投げてしまうと、私は目を閉じられないまま、本堂の暗がりをじっと見つめて両手を合わせていた。今目を閉じれば、瞼の裏には母がいるような気がした。
 私にはほとんど記憶のない母だ。いつ、なぜいなくなったのか未だにはっきりとは聞いていない。
 ただ父と、同じくらい寡黙な兄と共に嗅ぎ慣れた抹香の土地を離れ、また新たな墓地の並びを見下ろす官舎へと移り住むことを繰り返すうち、多分母はもうどこにもいないのだろうという観測がゆっくりと心に根付いていった。そのことに各々が触れないながらも確信していけるように、私たち家族はお寺を渡り歩いていくようだった。
 だからお寺へ出掛けようと言われて、実家の近くなんだとにこにこと誘われて、心のどこかでもう気が滅入っていた。そんなのは彼を遠ざけるための言い訳じゃないかと何度自分を馬鹿にしても、億劫になった心は簡単には向き直らなかった。
 そっと伺った横顔の、短い睫毛が埋もれるくらい目を瞑った様子が子どもみたいな堺君。その目がふと開いて、きょとんを私を捉える。
「小さい子みたいに真剣にお祈りしてたよ」
 一緒に出掛けるのも最後かもしれないと思うとずけずけと物が言えてしまうのは私の変な癖だ。それでも彼は大して気にした風もなく澄ました顔で、
「高井さんは子ども好きそう」
 私は、曖昧に笑って砂利を爪先で弾いた。
 子どもは確かに嫌いではないけれど、今の堺君が言った「子ども」とは恐らく自ら育てる家族としてのニュアンスが含まれている。そしてその意味で言うと、家族というイメージが私には雲のようにぼんやりと掴めない。
 やっぱりダメかなと、こっそり自分に溜息をついて考える。彼は悪くないのだけれど、こうして歩いているだけでも二人の間に齟齬が生まれている。その齟齬を埋めていくことが恋愛の楽しみじゃないのと女子力の権化のような友達は力説するけれど、どうも彼とは埋めていかなければならない項目が多すぎる気がした。真っ白な歯並びを横目に見ながら、その齟齬を彼にも気づいてもらいたいと思う。ずるい算段だ。
「私の家さ。父親の転勤が多かったんだけど、引っ越し先がいつもお寺の隣だったんだ――」
「ああー、だから高井さん頭いいんだ!」
 私の語尾を食い気味で、そのくせやけに納得した感嘆符を堺君は発した。私は心底不思議で、
「私、頭いいような言動を堺君の前でしてましたっけ?」
「してますよ。ていうか、その発言の感じがもう頭いいっぽい」
「胡散臭いな」
「でも普段からそう感じるもん。たまに研修とか会議とか一緒になった時もさ、隙あらばスマートに助け船を出すべく身構えてても、高井さんはそんな隙見せない」
 真顔で返すから、ちょっと笑いそうになる。
「でも、それがうちの引っ越しとどう関係するの?」
「ホラ、あれ。お線香の煙浴びると頭が良くなるって言わない?」
 今行き過ぎた常香炉を振り返って、彼は両手で頭に煙を浴びるジェスチャーをした。そんな迷信は知らない。首を傾げると、「ええー、堺家は寺に来るたびにみんなでこれやってたのにな。マイナー迷信だとしたらすげえ恥ずかしいじゃん」と嘆いた。頭が良くなるよと抹香を全身に浴びて、五円玉を握りしめて参拝に臨む堺家の図は、今、口では嘆きながらもきっと笑い話にしかしないだろう彼の姿を見ていれば容易に想像がつく。私には遠く眩しくて、近寄り過ぎる前にいつも逃げ出してしまう他人の履歴だ。それを、この人は私が逃げ出そうとする素振りを見せる前にぽんぽん差し出してくる。
 茅葺の正門を潜ると、最初に彼が話していた土産物屋が両脇に並んでいる。打ち水が蒸発して、石段を下るほど足元から熱が来る。
「そういえばさっき、小さい頃お寺の隣に引っ越しがどうって言ってたよね。話の腰折っちゃったけど、なんだっけ」
「そう。どこへ越してもお墓とお線香の匂いがついてきて、縁起が悪いなって思ってたの」
「ふうん」
「でも、堺家方式で考えると全然縁起が悪くないから、どうでも良くなっちゃった」
「ハハハ、そりゃ良かった」
 くっきりとした喉ぼとけを見せて、彼は快活に笑った。なんだか、身体のパーツまで大らかな人だと思った。隣にいると、こちらの思考まで大まかになっていくみたいだ。
 店先の小物を物色しようとしたら、急に目を覗き込まれて、明朗に尋ねられた。
「今日だけじゃなくて、また一緒にどこか出掛けてくれる?」
 そして私は、漸く知るのだった。彼は、逃げ出そうとしていた私にとっくに気づいていたこと。敏感に気づいていたのに、そんな私から逃げずにこうして問いかけてくれたこと。
 私の心がぐずぐずと引っかかり続けいていること。人を投げ出してしまいたくなる癖。私の履歴。それらはただの言い訳で、本当は私自身の怠惰に過ぎないかもしれないこと。彼はまだ知らずに尋ねているだろう。それでも、私は「そうだね」と答えて、はっきりと頷いた。堺君はそれ以上言い募らず、視線を他所へ投げた。
「アルカリ性だ」
 くっきりと青い紫陽花の花を指して、教えてあげる。堺君の目が、また少年みたいにくるりと驚く。
「青は、アルカリ性の色だよ」
 ホラ、やっぱり頭いいじゃん。よく水を吸った植物のような伸びやかさで、彼が笑った。

薫(東京都/28歳/女性)

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