<第11回・公募作品>「瑠璃の影向」 著者: 舞田 楓依

 瑠璃子に会ったのはその日が二度目だった。
 深大寺の釈迦堂、ガラスをはさんで釈迦如来と向き合っていた私は、映り込む背景の中に人の気配を感じて振り返った。瑠璃子は、濃紺のノースリーヴのワンピースを着て右手奥に立っていた。外国の血が幾分混じっているのではないかと思わせる白い肌であったが、漆黒の髪は今風にショートボブにしていた。
 私は一瞬、はっとした気を発したのであろう。瑠璃子の方も釈迦如来の前にいるのが、私だと気づいたようだ。弓なりの眉は目の前の仏像と似ていたが、丸顔で扁平かつ切れ長の目をしたお釈迦様とは違って、瑠璃子の瞳は大きく、彫りの深いつくりである。
「いつかお会いましたね」
「お邪魔して恐縮です。その節は有り難うございました。失礼ですが、白川先生でいらっしゃいますか? 私、岡部と申します。あの時は挨拶もせず申し訳ありませんでした」
 そう言って瑠璃子は、私に名刺を差し出した。都内の私立大学の大学院生で、日本美術の専攻だった。

 瑠璃子と初めて出会ったのは、奈良の興福寺であった。興福寺には白鳳彫刻の代表作とされる仏頭がある。私は関東郊外の私立大学で日本美術史を担当していたので、学生を引率して、奈良の仏たちを見学していた。興福寺の国宝館で仏頭を見ようとやってくると、若い女性が一人熱心にメモを取っている。私は邪魔をしないように、とりあえず阿修羅像など他の名品の前に学生を連れて行き解説をした。一通り説明が終わって仏頭の前に戻ってくると、相変わらず先ほどの女性がじっと立っている。私は多少ためらいつつも、この後の旅程もあったので、思い切って声を掛け、少しの間大勢で騒がしくすることを詫びた。
 女性はむしろ自らの鈍感さを恥じるようにさっと場所を空けてくれたが、立ち去ることはせず、学生の輪の外で私の話に耳を傾けていた。私はその女性が専門の研究者なのか単なる愛好家なのか分からなかったため、幾分話しづらい思いをしたが、女性は静かに頷くだけだった。話を終えたとき、互いに簡単に目礼を交わした。わずかに青光りのする黒い瞳が印象的であった。それが瑠璃子であった。

 名刺を見て同じ研究者だと知った私は、幾分打ち解けた心地になって、瑠璃子と言葉を交わした。彼女は修士論文の準備中であった。
「白鳳仏の研究をしているのですか?」
「はい、実は大きなテーマは薬師如来像についてです。その中の一部として白鳳時代の薬師如来について研究しております。興福寺の仏頭も、元々は山田寺の薬師如来像であったということで、あの時拝見しておりました。」
 あとで知ったことだが、瑠璃子という名前は、薬師如来の正式名称、薬師瑠璃光如来からとったそうで、父は医者か薬剤師にでもなって欲しかったのかしらと瑠璃子は笑っていた。瑠璃子の研究は、自らのルーツを探る関心から来ているようであった。

「でも、こちらの仏様は釈迦如来ですね。やはり同じ白鳳仏として無視することは出来ないということですか?」
「はい、それもありますが、私はもっと端的に、この仏様が御薬師様ではないかと考えております。」
 その意見に私は研究者として一気に引き込まれた。未発表の研究内容を、指導学生でもない大学院生に根掘り葉掘り訊くのはマナー違反ではあったが、瑠璃子はあまり頓着していないようであった。
 白鳳仏の特徴の一つに童顔であるというのがある。深大寺の釈迦如来も童顔であるが、同じような特徴を持つ興福寺仏頭や千葉・龍角寺の仏は薬師如来である。一方、同じ白鳳期の仏でも蟹満寺の釈迦如来像は、つり上がった鋭い目をした姿である。そこから瑠璃子は深大寺の御像も釈迦如来ではなく薬師如来ではないかと考えていた。
 また深大寺は元三大師信仰の東の拠点であるが、薬師もまた東方の浄瑠璃世界を住処とすること、施無畏・与願という印相は薬師如来にも共通することなども根拠として挙げた。

 深大寺での出会い以来、瑠璃子は名刺にあった私のアドレスに時折メールを寄越すようになった。瑠璃子の指導教員の西村敬三は、学会の大物であったが、それだけに学内行政や政府関係の仕事などに多忙で、学生の指導までは十分に行き届かないようであった。
 私はどちらかというと法隆寺などが専門であったが、瑠璃子の研究内容を評価していたこともあって、丁寧にメールを返した。数ヶ月はメールだけのやりとりであったが、論文執筆が本格化する秋口になると、瑠璃子は直接私の研究室にやってくるようになった。当初は、資料を借りて帰るだけであったが、論文がある程度仕上がると、その内容についての講評を求めたりもした。
 私は他大学の学生に深く関わるのはまずいと自覚していたし、のめり込んでくる学生に距離を取る術もそれなりに心得ているつもりでいた。しかし、同年代の学生にはない落ち着いた瑠璃子の物腰は、当初の警戒心を和らげさせた。瑠璃子はどこか節度を保ったところがあった。それは大人同士のつきあいという安心感に繋がったが、逆に向こうから軽く拒絶されているようでもあった。年に似合わぬ空気感がかもし出す理解しがたさに、私の方が十以上も年下の彼女に主導権を奪われ、次第に意図せざる方向へと引き込まれてゆくようであった。論文を建前に本音を明かさぬ二人の関わりには、いつしか密約めいた艶めかしさが生じていた。正式の教師でも生徒でもない定義され得ない関係ゆえ、私たちはいずれ甘美なる共犯者へと変貌せざるを得ないことを暗黙の内に感じ取っていた。

 瑠璃子と最後に会ったのは、その年の年末であった。年明けすぐに修論を提出するとのことで、九割方完成した原稿を私に見せに来た。御用納めの後だったので、学内はほとんど人がおらず、冷えた空気がしんとしていた。
 一通り目を通し終える頃には、終わりの予感が二人の間を満たしていた。もうすぐ会うべき理由は消える、その緊張に堪えかねたのか、瑠璃子は切羽詰まったように問いかけた。
「この研究、世の中に出しても良いものなのでしょうか?」
「そりゃ、西村先生次第だけど、学会誌に掲載できるだけの質の高さはあると思うよ」
「いえ、そうではなくて、人々がずっとお釈迦様だと信じていたものを、本当は薬師如来だなんて。学問だからといって真実を暴いて良いものなのでしょうか。虚構はすべからく欺瞞に過ぎないのでしょうか?」
 私は何も気の利いた答えは出来なかった。学問とはそういうものだ、真実にこそ永遠の力が宿るものだとしか言えなかった。瑠璃子は一瞬失望したような表情を見せたが、すぐにいつもの節度ある態度に戻って、静かな笑みを湛えた。その時、私は瑠璃子が言外に含めた必死の訴えを受けとめきれなかったのだ、ただはぐらかしてしまったのだと悟った。失ったものを取り戻そうと私は、
「瑠璃子っ」と初めて下の名前で彼女を呼んだ。しかし、伸ばしかけた手を振り払うように彼女は立ち上がった。
「私、先生が好きです。でも先生は学者です。虚構には生きられません」
 そう言って、瑠璃子は私の部屋を出て行った。年明け、論文を提出した旨のメールが入ったのを最後に、彼女との連絡は途絶えた。

 五月は学会の季節である。私は会場で瑠璃子がいないか隈無く目を配ったが、見つからなかった。最終日の午前のセクションが終わると、気の早い連中は引き上げはじめる。私は諦めきれずに講堂のホールで人の波を見ていた。向こうから西村敬三が歩いてきた。
「いやー、何かうちの学生が大変世話になったらしくて、済まなかったね」西村は気さくに話しかけてきた。自分の指導学生に横から口を出されたにしては意外に鷹揚であった。
「こちらこそ、差し出がましいまねをして済みません」と応じつつも、私は瑠璃子の消息を聞けるのではないかと期待に胸が高鳴った。
「岡部君の論文はおかげさまで、大変出来が良かったよ。私は博士課程に進むよう薦めたんだけどね」
「彼女は今どうしているのですか?」
「うん、それが、年の離れた旦那さんが体を壊して田舎に引っ込んだのについて行っちゃったんだ。自分の本分は妻として旦那の健康を回復することなのだそうだ。薬師如来の研究をしたのもそんな含みがあったのかな。」
「それに、今となっては学生として過ごした時間は仮初めゆえに美しく煌めいて見えると言っていたよ。真実は辛く悲しいが、受け入れるしかないと悟ったような様子だったね。随分残るように説得したのだけどね」
 迂闊にも気づいていなかったが、瑠璃子は既婚者だった。年の離れた夫と結婚したのはどんな事情があってのことだったのだろうか。夫が体を壊したのはいつからだったのだろう。その現実を背負いながらも、瑠璃子は私には何も見せず、あり得べきもう一つの自分を仮現させていた。指輪をはずすほど結婚生活は何か苦しいものだったのだろう。だから必死に私に問いかけたのだ。仮初めの世界に生きても良いかと。一緒に儚い夢に漂いたいと。
 私は何も出来なかった。だが彼女は、あの時間は美しいものだと最後に言った。そこに生きる縁を求めたのだろうか。それとも消えることのない悔恨から私を救わんとしてくれたのだろうか。彼女の静かな微笑みが目に浮かんで、私は思わず涙した。

舞田楓依(愛知県)

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