<第10回公募・選外作品紹介>「今日のところは」 著者:フク タニシ

武蔵野台地には金融機関の電算センターが点在している。東京に本社がある保険会社や銀行の多くが、地盤が安定した千葉県中央部や武蔵野台地一帯に電算センター用地を選んできたからである。万富銀行の電算センターも、調布市の住宅街の一角にある。敷地内に植えた桜などの樹木が大きく枝を張り、無窓で厳つい鉄筋の建物や監視カメラを目立たないようにしていた。
五月連休が明けた週の土曜日、万富銀行電算センターの通用口から城野香織と大川翔太が出てきた。二人は万富銀行のシステム子会社万銀システムに勤めるシステムエンジニアである。
金曜日にシステム故障が発生したことから、十数名のチームのリーダーとして、入社十年目の香織が修復作業を指揮した。翔太は、制御機能に強くフットワークもいいからと、違う部署から香織が無理矢理借りてきた応援要員である。修復作業は、メンバー全員の特性を引き出した香織の采配もあり、予定以上に順調に進み、土曜日の朝には終了した。最終チェックを済ませてチームを解散し、報告等の後処理を終えると、正午近くになっていた。
「応援ありがとう。おかげで、なんとか修復できたわ。」
「僕なんて何の役にも立っていませんよ。香織さんがビシッと決めていたので、ただ居るだけで終わりました。夜食に仕込んだおにぎりが好評だったのが唯一の貢献ですかね。」
翔太は、専門書が詰まった重そうなリュックを背負い、ノーネクタイのシャツの袖をまくり上げていた。謙遜しているが、修復個所のチェックは全て翔太が行なっていた。おまけに、入社三年目と一番の年下だったことから、コンビニへの買出しも担当した。翔太がいなければ、作業は日曜日まで続いていたはずである。寝不足の顔には満足感が滲んでいた。香織は、初夏に似合う青色のジャケットを着ていた。さすがに表情には疲労が浮かぶが、端正な目鼻立ちとともに爽やかな雰囲気を保っていた。
翔太は、歩き始めると大きく手を振り上げて深呼吸をした。快晴、桜の樹は新緑に覆われている。香織に笑顔を向け、深大寺で蕎麦を食べていかないかと提案した。
「三十時間近くセンターの中に閉じ込められていたせいもあるけど、五月晴れの空気がおいしいではないですか。このまま、帰るのはもったいないですよ。」
「そういえばお隣の神代植物公園ではバラが見頃だとか、京王線に吊広告が出ていたわ。」
翔太と一緒に仕事をする機会は多かったが、年下であり部署も異なることから、プライベートの場で話をしたことはなかった。徹夜明けで皮膚がベタベタしており、さっさと帰ってシャワーを浴びたいとも思ったが、全身の神経がささくれて真直ぐ帰りたくないとの気分も強かった。一瞬躊躇したが翔太の提案に乗ることにした。
縁結びの寺として有名な深大寺に二人連れで来たことに気付いたのは、バスを降りた時だった。思わず赤面したことを覚られないよう、急ぎ足で歩いた。深大寺本堂や元三大師堂の前を通り抜け、裏手にある古民家風の佇まいの蕎麦店に入った。
「食べる前にお参りをしておかなくてもよかったでしょうか。」翔太が訊ねた。
「今日は、お蕎麦が目的。徹夜明けの無精髭じゃ、大師様に失礼でしょう。」
香織の言い訳を信じたのか、髭はまずいですねと顎をさすり、盛蕎麦とビールを注文した。
「私は、日本酒がいいな。ご当地の地酒『野川』があったら、常温でお願いします。」
香織が日本酒を注文したことに、意外だといった表情をしたが、最近の若い女性の間でブームになっているという説明で納得した。
ご苦労様と翔太のグラスにビールを注ぎ、自分は手酌でとお猪口に日本酒を注いだ。再びご苦労様と杯を合せて一気に飲み干し、二人同時にああと声を出して破顔した。仕事以外で話すのは初めてだったが、週刊誌ネタで盛り上がった。翔太は平成生まれだと言うが、最近のアイドル情報に疎く、香織が知らないような往年の女優に詳しかった。
「『野川』というお酒は、それだけでもいけるけれど、本来は食中酒なの。蕎麦との相性が最高でしょ。」香織も負けじと日本酒の知識を披露した。ビールの中瓶が空くと、翔太も地酒「野川」を注文した。
「いい女がお猪口を傾けるところって、風情があって絵になりますよね。セピア色のフィルターを通して、昭和の映像を見ているような感じかなあ。レトロというか、ノスタルジーというか。」翔太が独り言のように呟いた。
お猪口を口に運ぼうとしていた香織の手が止まった。きっと睨みつけたが、翔太は何も気づかなかった。香織もすぐに表情を戻して話を続けた。
応援のお礼だからと香織が支払いを持ち、これから植物園に行くと告げた。お供をすると申し出る翔太に、早口で言い放った。
「レトロでセピアな昭和の大年増には一人が似合うそうなので、お供は要りません。」
突然の拒絶に呆然としている翔太を残し、逃げ込むように神代植物公園に入った。レトロとかセピアとかが、自分に向けられた言葉でないことは香織にも分っていた。翔太にとって、昭和は古き良き憧れの時代である。昭和生まれの香織にしても、昭和のことなど殆ど知らないが、翔太に線引をされた気がした。香織が昭和で、翔太が平成。どうということのないことだけれど翔太に意地悪を言ってみたくなった。徹夜明けのうえに「野川」が沁みた頭は何も考えることができず、言ってしまった。何となく、物語が始まる予感がした。
バラは広い庭園一面に咲き誇っていた。想像を超える見事さだった。徹夜明けのひどい顔で会うのは、バラに失礼かなとふと思った。それでも、バラの花の一つ一つを見てまわり、声を出さずに「バラが咲いた」を口ずさんだ。生まれる前に流行ったと聞く古い歌である。「バラが咲いた」以外の歌詞はうろ覚えだった。同じフレーズを何度も繰り返していると、次第に穏やかな気分になっていった。
即売所ではバラの花束が安かったので一束もらい、もう一度ばら園を見渡した。遠くに自分を探しているらしい翔太を見つけた。
翔太も香織を見つけたようで、全力で走ってきた。ゼエゼエと肩で息をしながら、途切れ途切れに話した。
「考えました。僕は香織さんに大変失礼なことを言いました。言っていたと分りました。本当に申し訳ありません。」やっとここまで言うと、ベンチに座り込んでしまった。
「済みません。走り回っていたら身体がふらふらしてきて。たいして飲んでないのですが。」真直ぐにばら園に来ずに、公園内を走り回ったのだろうか。かなり朦朧としている。
ミネラルウォーターを買ってきて、翔太の横に腰掛けた。
「はい、お水。」渡そうとしたが、翔太の身体は大きく横に振れた。押し戻したり、前のめりになるところを引き戻したりしているうちに、香織の膝の上に翔太の頭が乗って、そのまま動かなくなった。
香織の膝枕で翔太は寝息を立てていた。少々揺すっても起きる気配はない。仕方がないので、また「バラが咲いた」を声を出さずに唄った。今度は、幸せな気分になってきた。
ミネラルウォーターのボトルをハンカチでくるみ、翔太のおでこに当てようとした時、携帯電話の呼び出し音が鳴った。
翔太は、眼を閉じたまま携帯を取ると、ふぁいと応じた。暫くふぁい、ふぁいと返事をしていたが、眼を開けて、顔を覗き込んでいる香織に気がつくと跳ね起きた。
「済みません。いえ、こちらの事です。済みません。」香織にぺこぺこと頭を下げながら、携帯電話と話をしていたが、やがて真剣な顔付きになり、これから戻ると言って切った。
「センターからの呼び出しでした。」
「私も行った方がいいかしら。」
「いえ、香織さんのご担当とは別のシステムの故障です。制御機能に詳しい人が出払っていて、近くにいるのは僕だけだそうで、取り敢えず戻ってみます。」
少しの間、躊躇ってから翔太が言った。
「信じてもらえないかもしれませんが、僕は前から香織さんに憧れていました。彼女になって欲しいとか大それたことを望んでいた訳ではないのですが、今日、偶然に、蕎麦をご一緒でき、すっかり舞い上がってしまいました。」
どう答えたものかと黙っていると、翔太が続けた。
「それが、さっき気が付いたのです。ばら園で香織さんを見つけた時、香織さんは、仕事で見たことのない優しい顔でした。昭和の男たちは、美味しい日本酒のことを教えたようですが、ばら園には連れて来ていません。ばら園に誘って、香織さんの優しい顔を引き出した平成のトンチンカン男にも、望みがあるのではないかと思い付きました。」
無精髭を剃ってくるので、もう一度一緒に深大寺に来るチャンスはないかと言う。
美味しい日本酒は女子会で覚えたことで、的外れも甚だしい。しかし、翔太が自分のことを先輩としてだけではなく、女性として接したいという気持ちに、素直にうれしかった。物語は始まった。しかも、舞台はばら園、最高のシチュエーション。
「考えておくね。」
役者は二人とも寝不足なうえに、昼酒が入っている。香織は踏みとどまった。
何か言いたそうにしたが、翔太は黙ってバス停がある出口に向かって駆けていった。
「今日のところは、これでよし。」
香織は、再びばら園を巡ることにした。

フク タニシ(千葉県鎌ヶ谷市/61歳/男性/会社員)

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