<第9回公募・選外作品紹介>「約束」 著者:瓜生

夏の日差しに目を細めながら、見上げる木々の間に輝く空を見た。あの日、私はこの道で同じように生い茂った桜の葉を見上げたのか?いや、違う。私はこの道を歩かなかった。あの日は確かに約束の道を歩かなかったのだ。
 十九の夏、東京の大学に進学して来た彼から、連絡があった。三年ぶりの再会に心が躍った。転勤族の家庭に育った私は、多感な思春期を、彼の住む、のんびりとした地方都市で過ごすことになる。都会からの転校生は、学年中の注目の的になるものだ。転校慣れしていた私は、しばらくそんな窮屈な日々をやり過ごしながら、あたりを観察するのだ。私の目に飛び込んできたのが、少年時代の彼だった。家が裕福なのか、洒落た服を着せられ、体格も良くスポーツ万能な男子は、憧れの的だ。早熟だった私は、そっと見つめ合ったり、無視したりしながら、何年もの間彼の気持ちを弄び続けた。少年はきっとスポーツのことで頭が一杯だったろうけれども、間違いなく私の視線に戸惑い、恋心も募らせていくことになる。とはいえ、昔の少年少女だった私たちは、どうなることもなく、再び親の転勤で、私は三年前から東京に移り住んでいた。それなりに美しく成長した二人は、申し合わせたように恋をする。まだ携帯電話もない頃、親の目をかすめての逢瀬は、刺激に満ちていた。私は短大の代返を友達に頼んで、暇さえあれば彼のアパートに入り浸っていた。ごっこ遊びの延長は、甘ったるく暑苦しい日々だった。

 さっきタクシーを止めた、深大寺小学校正門の向かい側にあったアパートはすでになく、今では小奇麗な一戸建てが立ち並んでいた。趣のある小学校の石塀を右手に見ながら、深大寺東参道に入って行く。あの頃目に止めることもなかった景色が、私の心を妙に疼かせている。すっかり様変わりした街と、いつまでも変わらずにそこにあった風景が、混在し私に訴えかける。むっとした真夏の午後の風をまともに受けて、一瞬めまいに襲われたかのように、四十年の歳月が、私の眼の中で二重にぶれた。次々と蘇ってくる、若く気ままだった楽しいだけの暮らし。絵本の中の動物たちは、木々に覆われた緑の隠れ家へと向かうのだった。
彼と付き合いを始めて一年があっという間に経つ。いつものように、学校をさぼって彼のアパートに行くと、空っぽの部屋に、蒸し暑さと、死体のように凍り付いて動かない、想像を超えた何者かが、居座っていた。
「親父が死んだ。急いで帰る」走り書きのメモは私の手の中で石になった。それから私がどうしたか、思い出せない。ただ歯の根が合わないような震えと、じっとしていられない焦燥感だけは覚えている。生れて初めて味わった近しい人の死の感覚だったのだろう。年若かった私にとって、恐ろしい螺旋の中を落ちていくような日々は耐え難く、すっかり自信をなくして子供に戻っていた。
彼と連絡も取れないまま月日は過ぎ、やっと電話が来た日、彼は大学を辞め、実家の後を継ぐために東京を離れることを、私に告げた。「もし五年後、お互いに一人だったら、深大寺の山門で待ち合わせよう。僕の二五歳の誕生日の夕方に。その頃には、僕も今より大人になってるだろう。」そんなようなことを、方言を交えた口調で言ったのだ。私は電話口で、ただただ涙をこぼし、後から母に何事かと詰問された。何も答えることなく、暫くの間、呆けたように暮らした。
苦しい胸の内を切々と書き綴った手紙が、何度も往復した。しかし七五〇キロの道のりを五年かけて縮めてゆくことなんて、私には出来そうになく、哀しみを薄れさせることばかり考えていた。若さとは子供のように残酷だ。
私は短大を卒業し、小さなCM制作事務所に就職することができた。仕事は楽しかった。新しい世界が私の周りに開け、魅了した。何人もの男友達との出会いは、すでに悲しい恋を忘れるためでもなかった。その中の一人が娘の父親になり、私にも家族ができた。

右側の石垣が跡絶え、今度は左手に古い石垣が続く。路に影を落とす木々は、私と同じ年月を過ごしてきたのか。参道の両側に建ち並ぶ何軒かの蕎麦どころは、平日の午後にひっそり眠っているかのようだった。山門へと続く右手の明るい小道は、小さなお土産屋が並んでいてカラフルだ。私はそちらの路は通らずに、深大寺通りを、ゆっくり噛みしめるような足取りで歩いていた。持病となったリウマチが私の体の全ての関節をむしばみ、私を地面奥深くに埋め込もうとしていた。そんなことはたいしたことでもないと、自分に言い聞かせる。
あの約束の夏、私はここに来なかった。私の心の中で、すでに彼はほんの小さな痛みとしてしか存在していなかったからだ。そして今度は、本当に彼の希望を断ち切ったのだろうことにも、容赦しなかった。数日後、手紙が来た。誠実な文面に、少し後悔した。
「君の未来に僕が存在しないことは、ほんの少し、悲しいけれど、きっと正しい選択だろうね。僕はこれからも君を忘れることはないだろうけれど、僕の未来を創るために、君の力を借りることは、無いと思う。お互いに幸せになろう。でも一つだけ、僕の勝手な約束を、させて欲しい。これからそれぞれの道を正しく歩けて、何年か後、そうだ僕の六十歳の誕生日に、もう一度山門へ行くよ。それぞれの家族がいても、お互いに生きてさえいたら、逢って話がしたい。声を聞きたい。と、今は思っているよ。この手紙のことを、覚えていてくれることを、願っている。」

痛む足を少し引きずりながら、右手を見るとバス停の向こうに、山門が見えた。明るく賑やかな感じは、いつ見ても楽しげだ。あれから何度もここを訪れている。私にできた新しい恋人と。新しい家族と。その都度新しい思い出が創られてきた。自慢できるような人生でもなかったけれど、年を取るってこういうことかと、わかった気がする。何人もの近しい人との別れは、若くして父親を亡くした彼の想いを、わからせてくれた。ひとつずつ人の痛みを身をもって知ることは、有難いことだ。
まだ夕方には間がある。西に傾いた陽は、べたべたと私の肌に貼りついていく。もう少し先に、古くから営んでいる珈琲店があったはずだ。見えてきた。そこは本当の隠れ家のように、ひっそりと呼吸し続けていた。懐かしくて涙が出そうになり、深呼吸した。扉は躊躇うことなく私を迎え入れ、ひと時の涼を分け与えてくれた。変わらぬ昭和の風情を、代替わりした店主が、そのまま受け継ぐ美しさがそこにはあった。夕暮れが刻々と迫り、いざとなると私は尻込みしたくなった。今日彼が来る確率は、一体何%あるというのか。それぞれの仕事と家族としがらみの中で、自由な一日を獲得することは、意外と難しいものだ。だいたい何十年も前に出した手紙も、覚えているかどうか。ましてあの時私は返事も書いていない。つくづく優しくない女だった。だから、今日私はやってきたのだ。傷つけてしまった彼や、数々の秘密の責めを乞うために。  
M珈琲店を出て、道の向かい側へと渡り、夕陽に背を浴びながら山門へと向かう。私の歩みはさらに速度を緩め、今を味わうことに、唯一の救いを求めた。

その時、私を追い越す風が巻き上がった。濃いグリーンのその車のナンバープレートには、彼の住む町の名が刻まれていた。まさかと思ったその時、車のハザードランプが一度だけ点滅した。四十年がタイムスリップし、風景の色が一変していく。長い間胸につかえていた何かが、すぅっと通るような不思議な気分に襲われ、何年も走ることを忘れていた足は、羽のように軽くなった気がした。許しを乞う言葉も、私の辛かった人生も、むしばまれてしまった体も、そんなことはどうでもよくなった。
初恋の人よ。一緒に人生を歩むことはなかったけれど、素敵な約束をしてくれて、本当にありがとう。

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<著者紹介>
瓜生(東京都狛江市/59歳/女性/主婦)

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