<第8回公募・選外作品紹介>「バラの海 」 著者:原 るりと

やはり彼に電話するべきなのだろうか。
そんなことを考えながら、重い足取りで門をくぐった。少し湿った土と、芽吹きだした緑の匂い。春から初夏へと向かう、この時期特有の香りがする。
 これは、私が謝るべきことなのだろうか。
 きっかけは些細なこと。週末の計画について電話していたときのことだ。週末は公園を散歩でもしないか、と言った私に彼は、公園にどうしても行きたいのか、と尋ねた。それよりも、海の方に行かないかと。
「え?」
私は少し動揺した。公園に行きたくないのかと、少しムッとしたりもした。
「何で海に行きたいの?」
ちょっとイライラした口調で、そう聞いてしまった。
「別に、何でとかって理由はないけど。この時期の海って気持ち良いかと思って。」
少しバツが悪そうに彼が言う。
「別に、公園でもいいし。公園を散歩しようか」
慌てて言い直した。なぜか、そんな彼に、更にムッとしてしまった。
「行きたくないのなら行かなくてもいいよ。海にしよう」
怒ったような口調でそう言った。
「行きたくない訳ではないんだよ。変なこと言っちゃったね、ごめん」
ごめんと言う彼に、またまたイラっとしてしまう。
「いいって。別に、無理に行かなくても」
またまた追い詰めるようなことを言ってしまう。
「無理じゃないって。公園にしよう。行きたいんでしょ?」
「そんなに行きたくないよ。別に、公園でなくてもいいし!」
電話の向こうで、困っている彼の様子が伝わってくる。
「じゃぁ、海にする?」
戸惑いながらそう言う彼に、
「やっぱり海に行きたかったんでしょ!そう言えばいいのに!」
更に怒りをぶつけてしまう。
「別に海に行きたい訳ではないんだよ!何で怒るんだよ!」
「怒ってないよ!海に行きたいのなら、初めから行きたいって言って欲しかっただけ!」
「だから、特に行きたい訳でもないし。公園に行きたいなら公園にしよう!」
「私も特に公園に行きたい訳でもないし。海でいいよ!」
「なんでだよ...」
電話の先で、困り果てた彼の姿が見えるよう。それでも、なぜかイライラが止められなく、結局、この週末は別々に過ごすことに決めた。
何でこうなったのだろうか。自分でもよく分からない。
 大体、何でイライラしたのだろうか。彼が私と同じ意見でないから?彼が私の意見に賛成しなかったから?彼が自分の意見を言ったから?だいたい、公園に行きたい私の気持を無視するなんて...。

 深大寺門から入り、自然林の中を歩く。私はここが大好きだ。見上げるくらいに大きな木々に囲まれると、その木1本1本の歴史を感じ、圧倒されてしまう。きっと何十年もここで、色々な人たちが歩く姿を見てきたのだろう。それに比べると、あの電話の日からの3日間なんて、笑っちゃうほど短い。あんな電話で落ち込むなんて、すごく小さい人間なのだ、私は。
 そしてまた、あの会話を思い出す。
やはり、彼に電話するべきなのだろうか...。
また、このフレーズへと舞い戻ってしまう。

そんなことを考えながら歩いていくと、突然に、濃密に甘く、切なくなるほどの強い香りが私の周りに漂い始めた。思わず胸いっぱいに空気を吸い込む。この香り。私は少し、足を速めた。
 目の前に広がるバラを見ると、一瞬ハッと息を呑んでしまう。あまりにも色彩豊かで、あまりにも多種多様で、あまりにも美しすぎる。ここ神代植物公園のバラ園には、400種以上のバラがあるという。何て素敵なのだろうか。そのバラたちの間を、縫うようにして歩いていった。
どのバラも、自分の主張をしつつ、他と饗宴しているように見える。確かに、1種類だけでも美しいのだろう。しかし、その美しさは、他のバラと一緒にいることで、更に輝きを増しているように見える。そのバラたちの、手で触れそうに密度の濃い香りの中へ、私はフワフワと導かれていった。
あまりの香りの強さに、私はバラの海を泳いでいるかのような感覚になる。なぜか、息ができないほどに胸が切なくなり、ここに1人でいることが信じられないほど辛いことのように感じてしまう。自己を主張しながらも、他とのバランスを保っているバラたちに、自分の主張しかできない私を笑われている気分になる。バラたちの香りが、あまりにも独りよがりな、あまりにも自分勝手な私を責めているようで、申し訳ない思いで胸がいっぱいになる。
私は彼と一緒にいたのに、自分のことしか考えていなかった。自分以外のものを受け入れるバラたちのように、広い心を持っていなかったのだ。
私は、バラの芳香に溺れてしまい、なんとか逃れようと必死になって進んでいった。それでも、後から後から追いかけてくる香りに、私は涙が出そうになる。彼を追い詰めた私のように、バラの香りが私を追い詰めていく。
何で彼を私に従わせようとしてしまうのか。彼は彼の考えがあるのが当たり前で、それを言う権利だってある。なのに私は、常に私に賛成する彼を望んでいたのだ。そんなこと、有り得ないことだと言うのに...。
 何処を歩いてもバラの香りが私を包む。どのバラからも、むせるように激しい香りが漂ってくる。彼の言葉に耳をかさない私を攻めるかのように、バラたちが、一斉に主張をしている。いつまでも、自分だけの世界でいいのかと。バラたちのように、色々な個性を持ち、一緒に生きていってこそ、素敵なものが生まれるのではないのかと。
私はもう、苦しくて呼吸すらまともにできない。彼に謝りたいのだけれど、その方法すら思いつかないでいる。バラの香りの海で、溺れそうになっていた。
 突然に携帯音が鳴り響いた。私はハッと我に返った。携帯がなり続ける。どうやら、私のバッグの中から聞こえてくる。私は、急いで携帯を探した。
「もしもし」
胸をドキドキさせながら、携帯に向かって話しかけた。
「もしもし、オレだけど。今、どこにいるの?」
彼の声だ。安心のあまり、足から力が抜けていく。近くのベンチに腰掛けた。
「もしもし?まだ怒ってる?ごめん」
いつもの優しい彼だ。優しすぎる彼だ。
「何も怒ってないよ。いま、植物公園を散歩していたの、1人で」
「そっか。オレも散歩したいと思ってさ。今から行こうかな、そこ」
そんな彼の言葉を聞くと、嬉しさでくすぐったくなる。彼の中では、常に私が最優先事項で、私のことをサラリとフォローしてくれる。だから、私の意見に賛成しなかったとき、違和感を覚え、イラッとしたのだ。でも、それは私が間違っていたということに気が付いた。一緒にいると言うことは、色々なことを受け入れるということなのだ。
「うん、待ってるよ。バラ園にいるから、探してね」
「はい。すぐ行くから」
そう言うと彼は、電話を切った。私はまた、バラの海に舞い戻った。今度はその濃密さに溺れずに、ゆったりと浸っていた。

「待った?ごめんね」
彼がきた。手にはバラのアイスを持って。
「すごい並んでた?ありがとね」
そう言いながらアイスをうけとる。
「パパ!何処にいるの?」
その後ろから、彼に良く似た息子が歩いてきた。やはり、手にはアイスを持っている。
「ここだよ!こっちにきな!」
笑顔で手を振る彼は、今ではとても良いパパだ。相変わらず、優しすぎるけど。
あれから、毎年バラの季節になると、この神代植物公園に来ている。ここに来ると、あの日のことが、鮮明に思い出される。
あの時、彼を待っている時に知ったのだが、バラは交配育種をして、品種改良をしていくらしい。バラとバラを掛け合わせると、新しい品種のバラが出来上がるのだ。
私たちの関係も、交配育種と似ていると思う。二人で一緒のときを過ごし、お互いの時間と意見を共有してこそ、ずっと一緒にいられる新しい関係が出来上がる。
 あの日、彼を待つ間、色々なことをバラたちから教えてもらった。そして、彼が来た後は、二人で深大寺にお参りに行った。自分勝手な自分を反省し、彼とずっと一緒にいられるように願ったのだ。
 深大寺が縁結びの神様だと知ったのは、彼と結婚してから後のことだ。
 あのときに、彼と海に行っていたら、今の二人の関係はなかったのかもしれない。今ここに、こうして一緒にいる不思議、彼と過ごした穏やかな時間を、心からありがたく感じている。あの時のバラたちに感謝している。溺れそうなほどに香っていたバラたちに。

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<著者紹介>
原 るりと(東京都府中市/37歳/女性/主婦)

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