<第8回公募・選外作品紹介>「空の向こう側」 著者:echo.

羽田まであと一時間。機内誌を手に取りパラパラめくると、深大寺の文字にぶつかった。思わず指が止まる。すぐに逃げるように目線を上げると、どこまでも続く雲海に視界が奪われた。目の前に広がる白い海はとても儚なくて、切なさだけが押し寄せてくる。
東京を訪れるのは八年ぶりだった。大学を卒業してからの六年間を、ひたむきに生きた街―東京。深大寺は、未来は無限に明るいと信じていた贅沢な日々と私を、よく知っている。
そして、そこにはいつも彼がいた。

「ねぇ、今度フカオオジに行ってみようよ。」
コロコロと弾む声に、とびきりの笑顔もつけて振り向いたのに、彼は無表情だった。あれ、おかしいな。こんな時はいつだって無邪気な笑顔を返してくれるのに。
「ねえってば、行こうよフカオオジ。おいしいお蕎麦屋さんもあるみたいだよ。お蕎麦、好きでしょ?」
開いていた情報誌の特集ページを指差しながら、もう一度言ってみた。すると、ふわっと溶けた彼の顔に目じりのシワがくっきりと浮かび上がった。それと同時に心にため息が漏れ、胸の奥がキュッとなる。私は彼の目じりのシワにめっぽう弱い。
「それ、ジンダイジだよ。深くて大きい寺って書いてジンダイジって読むの。」
笑いを含んだ穏やかな声とともに目じりのシワはどんどん近づいてきて、あっという間に目の前が真っ暗になった。ほんの一瞬、優しいキスが暗闇に紛れ込んだ。宇宙に漂うってこんな感じなのかな・・・なんてくだらないことを考えている脳ミソの上で、私の中心にすっと入り込む音が鳴る。
「うん。行こう、深大寺。」
彼の声は、私の琴線をふるわせる周波数にいつも調律されている。ずるいなって思うけれど、心地よいふるえを止めることはできない。顔を胸に押し付けられて体をすっぽり包み込まれる。
「ちょ、痛いよ。痛いってば。」
抗議のようでいてそうじゃない声に、ますます抱きしめる力は強くなった。息も出来ないくらい窮屈なはずなのに、体の内側がくすぐったくてしょうがない。
抜けるような青空、軽く汗ばむ日曜日の昼下がり。調布駅南口から徒歩十五分のふたりで借りたアパート。揺れるカーテンの向こうには、初めて育てたプチトマトが赤く色づいていた。
それからは、よくバスで深大寺へと向かった。昼食は決まって深大寺そば。本当のことを言うと、蕎麦よりうどんが好きだったけれど、おいしそうに蕎麦を頬張る彼がもっと好きだった。本当に蕎麦が大好きで、蕎麦屋を食べ比べては楽しそうに蕎麦談義を繰り広げた。そんな彼を蕎麦博士と言ってはからかい、大好物の目じりのシワをもぎ取った。
アパートのベランダには毎年プチトマトを植えた。何度も何度も実は赤く色づいた。それなりに友達もできたし、彼はいつも優しかった。けれど、いくらプチトマトが実ったところで、私の生活は何も変わらなかった。へんてこな通勤ラッシュ、賑やかすぎる街、背の高いビル、煙るスモッグ、いつまでたっても彼氏と彼女―。
あの日は少しだけ雪が積もっていた。何度も厚塗りを繰り返したようなグレーの空。
私は温かい深大寺そばを噛み砕く。
「友達が結婚するんだ。地元の福岡で。結婚式よばれたから行ってくるね。」
「ん。いつなの?」彼はズズッと一気に蕎麦を吸い込む。
「一月の後半。でね。ついでにしばらく実家にいようかと思って。」
「しばらくって?どのくらい?」
どんどん彼に吸い込まれてゆく蕎麦から目をそらす。私の蕎麦はまだたくさん残っている。
「―わかんない。」
「仕事はどうするの?」
「うん。―辞める。」
「え?辞めちゃうの?」
「ちょうどいいかなって思って。しばらく家にも帰ってなかったし。」
彼は黙ったままで全てを食べ尽くした。私はゆっくり、ゆっくり食べ続けた。それでも、あともう少しで食べ終わってしまう。
「―そうだね。親孝行しておいで。」
彼の声は、調律が少し狂ってしまった。冷たくなった最後の蕎麦が、喉に絡みつきながらねっとりと下っていく。店内には冷たい空気が入り込み、すっかり体は冷え切っていた。
 結局、私のしばらくは、ずっと続くことになった。彼の戸惑いは携帯越しに伝わってきたけれど、それ以上でもそれ以下でもなかった。彼だけを悪者にして、当然のように別れを告げた。それでも誕生日にはメールが届いた。ひとりになってからの月日がふたりで過ごした月日を追い越した頃、誕生日にもメールは届かなくなった。
 それからまたいくつかの季節が巡り、思いがけず彼と再会することになる。
 彼は目じりのシワをちょっとだけ増やして、テレビの中で微笑んでいた。
 何気なく見ていた情報番組で、深大寺にオープンした「深味(ふかみ)」という、手打ち蕎麦とハーブティの店を紹介していた。エンディングでは、その店のご主人と奥さんが笑顔で手を振っていた。その店主が、彼だった。
彼が私の知らない誰かと結婚する。それは至極当然の出来事だ。でも―。ドクドク波打つ心臓に頭も心も追いつけない。すぐにネットを覗く。驚くほど簡単に彼に近づけた。
―神代植物公園、正門横の細道。青い屋根に通路側は全面ガラス張り、緑のカーテンが茂るカフェのような店。蕎麦とハーブティの看板が出ていた。異色コンビに不安がよぎったが「手打ち蕎麦」の暖簾につられ入店。内装も古材風に塗装された白い板壁に、シンプルな家具が置かれたカフェ風。席は十席ほど。しかし、毎日ご主人が手打ちするという蕎麦は、なかなかの本格派。麺は太さに若干のバラつきがあるが、そこはこれからの上達に期待。香り豊かで、しっかりした食感、喉越しも申し分なし。
―★★★★★ 帰るときは、ご夫婦揃っての見送りつき(笑)アットホームなおそば屋さんです。奥さんの手作りケーキやお菓子もおいしかった。女子会にもお勧め。
ネット住人の言葉は十分すぎるほど彼の今を教えてくれた。一通り検索が済んでも、整理しがたい感情をもてあましていた。とにかく行かなければと思った。行かなければ―。行ってリアルを手に入れなければ―。
すぐに羽田行きのチケットを予約した。

久しぶりに足を踏み入れた東京は、相変わらずよそよそしく寄り添ってきた。羽田に着陸する瞬間に、どこか他人行儀な自分に変わる。私にとって、東京は彼そのものであり彼との未来だった。その未来が本物の幻想となった今、ますますこの街によりどころを探すのは難しかった。それでも、六年を過ごした街。他人行儀な自分も本当の私だ。京王線に揺られながら、ぼんやりそんなことを思う。
深大寺は、あの頃よりもさらに賑わいを増したようだった。彼の店は少し華やぎから遠ざかったところにあって、私は店のちょっと手前で立ち止まった。太陽は低くなり、影が頼もしく伸びていた。かすかに熱を帯びた風が、心地よい音を連れてくる。
「ありがとうございました。お気をつけて。」
胸の高鳴りに確信する。彼の声だ。足元に伸びる分身に目を落とし、相変わらず、ずるいと思った。その思いを振り切りたくて、勢いよく顔をあげた。
―彼は、微笑んでいた。
ちょっと離れていたけれど、少し増えた目じりのシワもはっきりとわかる。胸の奥に自分の温かな体温を感じる。それから大きく空気を吸い込むと、同じ分だけ自然と息が漏れた。目じりのシワは、隣に寄り添う女性に向けられていた。長めの前髪をきちんとピンで留め、ツヤのある胸までの黒髪を右耳の下でひとつに結んでいる。白シャツの裾は膝丈の黒いスカートにしっかり収まり、腰に巻いた茶色のカフェエプロンにもアイロンがかけられているようだった。切れ長の目元だったけれど不思議と柔らかな印象で、とても綺麗だと思った。彼は自分の肩より下にある頭に手を置くと、店の中に消えていった。彼女は頭を押さえながら、すぐに彼の後を追った。
残されたのは、店を覆う緑のカーテン。ところどころに赤い花が見える。ここから見ると、赤い花はプチトマトのようにも見えたけれど、それは名も知らぬ花だった。
「お蕎麦、めちゃくちゃおいしかったね。」
「ああ。俺、弟子入りしようかな。」
「うそぉ!ほんとに?」
「ちょ、たたくなって・・・」
じゃれ合いながら横を通り過ぎる男女に笑みがこぼれる。
私たちの未来は、いつしか限りあるものへと変わってしまったけれど、彼の手はずっと先の未来へと繋がっている。深大寺そばの歴史は古く、人から人の手に伝えられてきたものだ。彼の紡ぎ出す深大寺そばも、受け継がれていくはずだ。ずっとずっと、きっといつまでも。同じようにどんな想いも行いも、死という肉体の限界がやってきたとしても―繋がっていく。生き続ける。繋がった一番先にあるのが、現在(いま)なんだ。
帰ろう。私の街へ。
また少し伸びた分身を引き連れて、一歩を踏み出す。深大寺から、歩き始める。
赤い花は気持ちよさそうに風に揺れ、青い空は果てしなくどこまでも続いている。明日も明後日も、空はずっとそこにある。

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<著者紹介>

echo. (長崎県南島原市/36歳/女性/講師)

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