「風が吹くとき」 著者:明楽 三芸

自転車でこの道を走ると、私はどうもここが東京であるということを忘れてしまう。都民の私が言うのも変だが、東京と聞くともっとゴミゴミしたコンクリートジャングルを想像するし、無表情な人たちの無関心な波ばかり思い出す。しかしここはどうも違う。見渡す限りにそびえ立つ木々はいつでも青々と茂り、風を受けてはためく「お食事処」の旗は、素朴な風合でとても心地がよい。まるで鎌倉のおばあちゃんちに来たみたいな、そんな安らぎを味わえる。
そして今、私はそれら全てを全身で感じながら坂を下る。すっと息を呑んだ瞬間、夏の空は一層美しく輝いた。

テレビの影響やパワースポットなどで、どうも最近深大寺は有名になってきているけれど、生まれてからずっとここで育った私にはそれはあまり関係のない話だ。どんなに人気になったって、ここは私の高校への通学路な訳だし、私はほぼ毎日ここを自転車でとばす。考えてみれば贅沢な話かもしれない。私はバス通りの大きな坂を軽やかに下り、お土産屋の真横を風のように過ぎていく。こう暑いと、スピードをあげるぐらいしかヤル気が起きないのだから困りものだ。しかしそんな時だった。私は山門前を通りかかった瞬間、急にブレーキをかけていた。
―まただ。
アイツがいた。今日もまた、銀のエナメルバッグを肩にかけたアイツがいた。
ここ三週間、私の自転車はしょっちゅうこの地点で急停止している。折角加速してきたところだというのに、必ずそれは壊されてしまう。それもこれも全てアイツのせいだ。アイツの姿を捉えると、私は自分のコントロールが出来なくなる。私は仕方なく、仏頂面のまま自転車を自販機の隣に留めた。

杉野は山門をくぐろうとしていた。あの少し短くなってきたズボンや左肩が下がったような後姿、あれらは絶対杉野のものだ。私は目の上まで垂れてきた汗を拭い、意を決めて声をかけた。
「神頼み?」
しかし発せられた声は思った以上にぶっきらぼうで、自分でも怖い女だと失笑出来た。
「あんなに『人には頼りたくない』って言ってたのにね。」
一ヶ月振りに見つめあった杉野の目は、相変わらず鋭く黒々としていて、それでいてどこか不安げだった。またその目は、驚きによって少し丸くなったかと思うと、すぐさまふいと地面を向いてしまう。
「別に頼みに来てんじゃねえし...。」
1ヶ月も間があったというのに、お互いの性格は全く変わっていないようだ。仕方なく私も横を向いた。

バス停の屋根付きベンチはとても熱くなっていて、座るとお尻まですぐに温かくなった。
「バスで来てんの?」
「ここまでは歩き。帰りはバス。」
バスの時刻表を真剣に睨む杉野は、前と比べて少しだけよそよそしくなった気がする。まあ、もしかしたらそれは私の思い違いなのかもしれないし、或いは私自身が杉野に壁を作っているだけなのかもしれない。
「あと十六分。」
杉野の家は京王線沿線にある青い屋根の一軒家。私は地図がなくてもそこに辿り着ける。とはいえ、きっともう訪れることはないだろう。呼ばれることもないだろうし。
「杉野、毎日ここ来てんの?」
「来てねえよ。」
「毎日何お願いしてるの?」
「だから来てねえって。つかお願いもしてねえし。」
「ふーん...。」
そして私たちは黙った。本当はもっといっぱい喋ってもいいはずだし、喋るべきなのかもしれないけれど、私は何をどんな風に話していいのか分からなかった。もっというと、何から何までが「話題にあげていい話」なのかが分からなかった。
静かにしていると、本当に様々な音が聞こえる。夏の五時半は、いわば世界に許された空白の時間だ。就寝準備を始めた太陽だが、どうも近頃元気がありすぎて、ついつい夜更かししてしまう。またそれに照らされる木々や鳥たちは、穏やかな光に感謝して風の中で歌をうたう。同じ「生き物」なのに、どうしてこうも違うのだろう。私もこんな美しい歌を届けたいものだ。
「あのさ。」
そんな中、口を開いたのは杉野だった。
「何?」
「怒ってんの?」
杉野が喋りだすと、もう周りの音は聞こえなくなった。掠れた杉野の声が私の耳を占拠する。
「俺が離れるってことに。つか、俺があっち行っちゃうってことに。」
杉野の声は聞いたことがないくらい震えていた。怖いと有名なジェットコースターから降りた時だってこんな声ではなかった。そしてそんな震えた声は、なお一層消え入りそうなボリュームで言い放つ。
「じゃあ、どうして遠田は俺と別れたわけ?」

杉野は秋からイギリスに留学する。細かい地名は覚えてないけれど、ロンドンでないことだけは確かだ。また、その期間についても正確に私は覚えている。今年の七月二十二日から来年の八月六日まで。つまりざっと1年間だ。1年間もの月日を私たちは別々に過ごす。それなのに私は知らない。杉野がこれをどう思っているのだろうかということを。私に何も言わず決めてしまったこの留学を、アイツは一体どう考えているのだろうか。
「俺、遠田のこと嫌いじゃなかった。だから、もし何かに怒って別れたんだったら、少しぐらいは理由を知りたい。」
バスが来るまであと何分あるのだろうか。早く来てほしい気もするし、いつまでも来ないでもほしい。とはいえ、早く来てくれないと私はどんどん杉野を傷つけてしまう気がする。思ってもいない言葉がどんどん口から漏れて、加虐心と自虐心が混ざり合う。
「別にあたし、怒ってないから。他に好きな人できたから別れただけだし。」
小学校からずっと演技下手なくせして、こういう時に限ってアドリブもきくし表情もリアルだ。まったく、悲劇の主演女優賞なんて一度も欲しいと思ったことないのに。
「自惚れないでよ。別にイギリスでもアメリカでも好きなとこ行きゃあ良いじゃん。つか杉野の留学なんか、あたしの知ったことじゃないし。」
やめたいと思っているのに、どうしてこんなことばかり言ってしまうのだろう。そのくせ卑怯な私は心の中でお願いする。お願いだから強がりだって見破って。私の嘘を見抜いて。たしかに私は、杉野の留学の話聞いて「もう勝手にすればいい」と思った。でもそれは、ヤマちゃんやユウジですら知っていたことを、私が知らなかったということに気づいて、悔しくなったからだ。彼女のくせに、杉野の話を聞いてあげられてなかったんだと分かったら、凄く情けなくなったからなのだ。杉野のこと嫌いになったわけでも怒ってる訳でもなく、ただ悲しくなっただけなのだ。どう接していいのか分からなくなっただけなのだ。
しかしあたり前だが、杉野はそんな私の我侭に気づいてはくれない。
「そっか。あ、遠田って自転車だっけ?バスそろそろ来るから、帰っていいよ。なんか待っててくれたんだったらごめん。」
杉野の背中には汗でシャツがへばりついていて、こうやって見ていると向こうの世界が透けて見えてきそうだ。綺麗過ぎてムカつく。
「帰っていいよ、マジで」
「...うん」
私はベンチを立った。何も言えない雰囲気だったし、何も言いたくなかった。これでもう私は山門前で自転車のスピードを緩めることもないだろうし、京王線の車内で慌ててリップクリームを塗ることもないだろう。そう思うと私は悲しくなったし、空しくなったのに、どうしてか笑えてしまった。そして、初めて自分を「馬鹿」と罵りたくなっていた。
しかし、その時だった。
風が吹いた。目の中が一瞬で乾いてしまうような突風が、世界一杯に吹き付けた。私たちの頭上では、木々たちが想像も出来ないくらいの大音声で唸りをあげた。土の匂いと汗の匂いが混ざり、私たちの空間はざわめいた。

神様に何かをお願いする時、どうして人は合掌のポーズをとるのだろう。そもそもどうして人は神様に何かを願うのだろう。
帰り道でもないここまで毎日祈りに来ている杉野は、一体いつも何を願うのだろう。自分の両手を必死で結び合わせ、一体なんと唱えるのだろう。それは私にも分かる祈りだろうか。
「遠田?」
私は大切なことに気が付いた。
私たちを殴りつけるようにも、包み込むようにも思われたあの強風は、もしかしたら私たちの背中を押す追い風だったのかもしれない。なぜならあの風はたしかに私を一歩前に進ませた。私は確実に杉野に近づいた。
自分を罵るくらいなら、少しは素直になれ、私。物凄く恥ずかしいけど、私は来年だって再来年だって杉野と一緒にいたいのだ。だからちゃんと言え。しっかり言い放て。
「あのさ!」
あの風に負けないくらい、正直に。

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<著者紹介>
明楽 三芸(東京都三鷹市 /16歳/女性/学生)

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