「再会のシュロ」 著者:でん

――まぁ、居ないよな。
 誰もいない多聞院坂の石段を見上げ、俺はため息をついた。指定された時間は昼の一時。腕時計に目をやるとすでに三時を回っていた。待っていてくれている、そんな期待は最初からしていなかった。それなのに肩で息をするほど全力で走ってきた自分に少し笑ってしまう。「もしかしたら」そんな思いがすくなからずあったのだろう。
 ゆっくりと石段を一段ずつ上って行く。四十三段目の踊り場。ここが二人の約束の場所。だけど彼女の姿はどこにも見えなかった。
「さすがに遅刻し過ぎだよな......」
 手に持っていた彼女からの手紙。そこに書かれていた指定の時間は昨日の昼の一時。つまり二十六時間の遅刻。あまりに遅すぎる到着だった。石段の横で鬱蒼と生い茂る木々達に目をやる。一本だけ場違いとだと思わせる南国風の木が生えている。昨日の今頃、彼女もこの木を見ていたに違いない。どんな思いで見ていたのだろう。今の俺と同じだろうか。やり切れない思いを胸に俺は目の前の木を眺めていた。あの日彼女が教えてくれたシュロという名の一本の木を。

「ねぇ、噂ってどうやって始まるのかな」
 あれは高校二年の夏だった。
「お互いの名前を書いた南京錠をどこかの金網にかけると二人は別れないとか」
 俺は当時クラスメイトだった皆川沙織に、突然ここ多聞院坂の石段へ呼び出されていた。
「逆に、乗ったら必ず別れてしまうなんとか公園の池のボートとか」
 クラスメイトというだけで特に喋った事もない彼女の呼び出しに俺は少し戸惑っていた。
「そういうのってよく聞く話だけど、誰が最初に言うんだろうね」
 彼女は特別目立つ子ではなかったけれど、よく笑っている明るい印象の子だった。そんな彼女に好意を持っている男子が、同じクラスにだけでも数人いる事を俺は知っていた。かく言う俺もその内の一人だったのだが。
「ねぇ、与謝くん聞いてる?」
 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、彼女は急に俺の顔を覗き込んできた。恥ずかしくて思わず目をそらす。
「ごめんね急に呼び出して。迷惑だった?」
 そんな俺の態度に彼女は表情を曇らす。
「いや、そんな事ないよ」
 好きな子と二人で話が出来るなんて迷惑な訳がない。ただこんなシチュエーションに慣れていないだけの事で、そんな一言を返すだけで精一杯だった。
「本当に?良かった」
 彼女に笑顔が戻り俺はほっとする。
「じゃ、さっきの話の続き。与謝くんはどう思う?」
「噂がどうやって始まるかって?」
「そう、噂のルーツ」
「ルーツねぇ、何だろうな。言ったもん勝ちって気がするけど」
「あはは、やっぱり与謝くんもそう思う?私も一緒」
 そう言って見せる彼女の笑顔はやっぱり可愛かった。思わず俺もにやけてしまう。
「私ね、与謝くんの事が好き」
 時間が止まった気がした。不意打ちもいい所だ。無防備すぎた俺は言葉が出ない。
「あとね、私、明日転校しちゃうんだ」
 続けざまの思いもよらない彼女の告白。
「え、遠いの?」
 何から聞いていいのか分からなくなった俺が口にした言葉はそれだった。
「飛行機だと三時間くらいだけど、やっぱり遠いかな」
「飛行機って......、もしかして海外?」
「うん、中国」
「そ、そうなんだ」
「いつ戻って来られるかも分からないんだけどね。でも私この町が好きだから、必ず戻ってくるつもり」
 彼女は悪戯っぽく指を指す。
「ねぇ、後ろを見て」
 振り向くと生い茂った沢山の木々達が目に映る。そしてその中に一本だけ場違いな南国風の木が伸びていた。
「シュロの木っていうんだって。何となく気になって調べたら中国が原産地らしいの。ちょっと親近感わいちゃった」
 正直、彼女の話なんて上の空だった。思いをよせる子から好きだと告白されたのに、明日にはその子は中国へと行ってしまう。その事で俺の頭は一杯だった。不意に彼女の両腕が俺の腰へと回る。すぐ近くにまで寄ってきた彼女の髪からシャンプーのいい匂いが香る。
「ここのシュロの木の前で告白して、抱き合った二人はいつか必ず結ばれる」
 俺の胸に顔をうずめて彼女はそう呟いた。俺はと言うと人形の様にピクリともせず、呆然と立ち尽くすだけだった。
「抱き合った!」
 語気を強めて彼女は俺を促す。反射的に俺は彼女の腰へと両腕を回した。「うん」と頷くと彼女は俺から離れ満足そうに笑顔をこぼす。
「なんて噂のルーツを残してみる。私が帰ってくる頃には広まってるかなぁ」
「そういうのはさ、前例があって伝わっていくものじゃないのか」
「もう、固い事言わないの。与謝くんもさっき言ったもん勝ちって言ってたじゃない」
「いや、まぁ、確かに言ったけどさぁ......」
「きっとまた、ここで会おうね」
 今ひとつ納得してない俺の事はお構い無しでそんな一言を言い残し、次の日彼女は家族とともに日本を後にした。
 それから六年の年月が流れた。

 俺は実家を出て一人暮らしをしていた。家から離れた大学へ進学した為だったが、卒業してからも今更戻る気もせず気楽なシングルライフを続けていた。ある日母親から電話をもらう。俺宛の郵便物が溜まっているから取りに来いという話だった。住民票を移しているのに、たまに実家へと送られてしまう郵便物が未だにあった。しかし殆どが急を要するものでは無いので、ついつい後日へと回してしまっていた。そして今日。ようやく重い腰を上げて実家に戻り溜まった郵便物を調べていると、一通のエアメールが紛れている事に気がついた。誰からだろうと裏を見ると懐かしい名前がそこに書かれていた。皆川沙織と。あの夏以来の初めての便りだった。その内容はとても六年ぶりとは思えない簡潔なものだった。
――お久しぶりです、与謝くん。お元気ですか?私の事は覚えてくれているでしょうか?突然ですが六年ぶりに日本に帰ります。もし予定が無ければ会ってもらえると嬉しいです。
七月三十一日午後一時。あの場所で待ってます。
「......三十一日って昨日じゃないか!」
 消印を見ると一週間前の日付になっていた。大失態だ。俺は彼女からの手紙を片手に家を飛び出した。今更急いでも間に合うはずがないのに何故か走っていた。

「ねぇ見た?あの人。ひとりで寂しそうな顔して」
「きっと彼女と別れたのよ。噂どおりね」
 ひとり、多聞院坂のシュロの木を眺めていると女子高生二人がすれ違い、そんな事を言っているのが聞こえてきた。誰が言い出したのかは知らないが「この石段を一緒に通った二人は別れる」そんな噂が随分前から広まっていた。彼女の残した噂のルーツは真反対のものへと変わってしまっていたのだった。
「まぁ、前例があっての噂だよな」
 自嘲気味に呟いて俺は大きくため息をついた。ふと坂下に目をやると先程の女子高生がまだいて、俺と目が合うと笑いながら走って逃げていった。受けたダメージは大きかった。すると今度は坂上から足音を立てて誰かが降りてくる。この場所でひとり佇んでいるとまた笑われる気がして居た堪れなくなり、俺は俯いたまま石段を下りて行った。背中に聞こえる足音と同じ速度で俺は一歩一歩下っていく。あと数段で坂を下り切る所で背中の足音が止まった。振り向くとあの踊り場で立ち止まり、シュロの木を見つめている女性が立っているのが見えた。俺がまさかなと思いながらもその女性を見つめていると、向こうもこちらの視線に気が付いた。そして目が合った途端お互い固まった。六年の年月ではっきりと確信は持てないが、皆川沙織の面影はその女性にあった。
「あのー、この場所にまつわる噂話って知っていますか?」
 俺は緊張して震えていたが、それがバレないように声を張り上げ話しかける。幸い二人の距離には必要な声量だった。彼女は最初軽く首をかしげたが、すぐに見覚えのある笑顔で応えてくれた。こうして二人は六年の時を経て再会を果たした。

「だって別れちゃうなんて噂になってるなんて悲しいじゃない。私達が噂のルーツなのに。そんなの嫌だもん。だから何となくまた来てみたの」
 何故今日もこの場所に来たのかと聞いたらそんな答えが返ってきた。彼女らしいと言えばらしい気がする。それと六年前、俺の返事を聞かなかっただろうと前から聞きたかった事を尋ねると、そんなの必要ないよと一蹴されてしまった。
「なんだ与謝くん知らないの?ここのシュロの木の前で告白して抱き合った二人はね、いつか必ず結ばれるんだよ」
 彼女はとびきりの笑顔でそう答えた。

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<著者紹介>
でん(東京都荒川区 /36歳/男性/派遣社員)

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