「蜻蛉」 著者:櫻 杏子

赤、青、黄、透明。
 頭上の緑にかざしてみると、向こう側の景色が見えそうで見えなくなる。初めはひんやりと冷たいのに、手のひらの中でだんだんと温かみを増す、小さな固体。でも、芯は冷たいまま。まるで、人の心みたい。
 
 「やあ」
 しゃがんでいる私の頭上から、はっきりとした、でも爽やかな声が聞こえてきた。振り返ると、人の姿。逆光で顔は見えない。けれど、その人が和装であることは分かった。
 「とんぼ玉、好きなの?」と、その人は言う。でも私は答えない。
 「知ってる?江戸時代には、模様に応じて呼び名が違ったんだよ。今みたいに、一律してとんぼ玉とは呼んでいなかったんだ」
 そう言って、彼は私の隣に並んでしゃがみこんだ。私は手持ち無沙汰となり、目の前に並ぶとんぼ玉を何となく指先で弄っている。
 「君、名前は?」
 その問いかけに、私は彼の方を見た。脱色しているわけではないのに色素の薄い髪と、涼やかな瞳がそこにあった。今この木陰から出て、太陽の下に彼が立ったなら、その髪の色はどんな風に変わるんだろう、と私は思った。
 「しょうこ」
 「漢字は?」
 「『しょう』が平仮名で、『こ』は子供の子。本当は『ガラス』という字になる筈だったのに、親の気が変わったみたい」
 「そう、綺麗な名前だね」
 臆することもなくそんなことを口にする彼に、思わず何も言えなくなってしまう。
 数秒、私たちの間に沈黙が流れた。
 
 「また、同じ会話を繰り返すんですね」
 話し始めた時と同じ姿勢のまま、私は彼に言った。初対面ではない私達の、初対面を繰り返す会話。
 初めて彼に会ったのは、今と同じ場所。生い茂る緑が、まるで地を歩く人を守るかのようにその枝を伸ばし、近くを流れる川の水音と、蕎麦屋の水車がたてる古木の軋んだ音がひと時の間だけ暑さを忘れさせるような、そんな場所。大都市である東京の一角にありながら、ここではアスファルトの熱気にむせかえることも、ない。
 あの時。彼に初めてあったあの時も、私はここでこうして、とんぼ玉を見ていた。そして、彼はたった今とまったく同じことを言った。
 「やっぱり今日も和装なんですね」
 『素敵です』と付け加えて言いたいのに、その一言が私には言えなかった。
 「君だって」と彼が応える。
 ずっとしゃがんでいて足が痺れてきたため立ち上がった私に倣うように、彼もまた立った。彼の言ったように、私も和装。浴衣ではなく、襦袢も足袋も纏っている。襦袢という鎧をなしにふわりと羽織る浴衣が、私はどうしても好きになれなかった。 
 「白地に朝顔か、素敵だね」
 着物の裾部分に咲き誇る大輪の朝顔を見て、彼が呟いた。私の言いたかった言葉をさらりと言えてしまう彼が、少し憎かった。

 初めて彼に会った時、私は近くの大学の国文科に通う一年生であった。東京で生まれて育ったものの、全てのものの移り変わりが速いことに、私は昔からあまり馴染めずにいた。大学に入ってからもそれは同じで、周りの子たちはサークルだコンパだと騒いでいて、一応は私も試してみたものの、やはりしっくりとはこなかった。それよりも、静かな場所で、好きな時間を過ごしている方が、私の気質には合っていた。服装も、今時の華やかで露出の多い服装よりも、『私』をしっかりと包んでくれる着物が好きだった。さすがに大学に和装では行かなかったが、うすうすそんな雰囲気は感じ取られてしまったのか、同級生たちは私を奇異な目で見ていたようだ。
 その日も、私はここ、深大寺に来ていた。特に何が目的というわけでもなく、ふらりとここを訪れ、水の音に耳を澄ませていた。そんな中、軒を連ねる蕎麦屋の中に、とんぼ玉を売っている店を見つけた。色とりどりの、小さなガラスの群れに見入っていた時、彼に声をかけられたのだ。「やあ」という彼の挨拶から、全ては始まった。その時、彼は深大寺の近くにある理系の大学に通う四年生だった。
 あの時どうして私に声をかけたんですか、と過去に聞いたことがあった。そうしたら彼は、「深大寺で、和装の女性がしゃがみこんで一心不乱にとんぼ玉を見ている、お盆も近かったから、まさか昼間の幽霊かと思って気になった」と、およそ理系らしからぬことを言っていた。

 「行こうか、とんぼ」
 彼は私を『とんぼ』と呼ぶ。硝子が転じて、とんぼ玉好きの『とんぼ』。もちろん、私をそう呼ぶのは彼だけだ。
 
 そろそろと歩き始めた私たちを、すれ違う人々が振り返る。それもそうだ、男女揃って和装で歩いているなんて、人の目をひくに決まっている。しかし彼は、一向に意に介していない。
 何軒かの蕎麦屋を通りすぎ、橋を渡って、彼と共に深大寺の山門をくぐり抜ける。お参りをしている間、私の左腕はわずかに彼に触れていた。そこから伝わる熱で、閉じた視界に火花が散った。

 お参りを終え、その足で境内向かって右にある寺務所へ向かう。懐から朱印帳を出し、しばし待っている間、「今日は何をお願いしたんですか」と聞いてみても、彼はふふっと笑いながら、「言わないよ」とだけしか応えなかった。
 「良いお参りでした」という言葉と共に手元に返ってきた私の朱印帳には、『厄除 元三大師』の雄大な墨跡と共に、今日の日付が入れられている。前の頁をめくると、一年前の同じ日、その前の頁は二年前の同じ日の物。彼の朱印帳にも、同じ日付が刻まれている。

 「とんぼ、今年のとんぼはどれにする?」
 山門をくぐり出た所で、彼は言った。それは、私達の恒例行事のようなもの。初めて出会った日と同じ日、同じ場所で再び会い、同じ言葉を交わし、とんぼ玉を一つずつ買って交換する。馬鹿みたい、と人は言うかもしれないが、一つずつ増えていくとんぼ玉を見ていると、胸を締め付けられるような気持ちになる。私の携帯電話には、紐を通されたそれらの軌跡が揺れている。今二つ、今日で三つ。
私達は、一体いくつまでこれを増やせるんだろう。
 
 先程のとんぼ玉の店で、彼は赤色で透き通るような流水模様の入ったものを、私は濃い緑色で、細い細いうす緑の線が表面を滑るものをそれぞれ選び、お互いに交わした。
 「またとんぼが一つ増えた」
 私が、赤色のとんぼ玉に紐を通している時、彼は言った。とんぼ、とんぼ、とんぼ。その言葉が彼の口から発せられる度、私の心は痛いくらいに跳ね上がる。まるで、上り坂を全力疾走した時のように。と同時に、『もっと聞きたい』という貪欲な気持ちが顔を覗かせる。そして、バス停の方角へ向かって歩み始めた彼の背中に、私は思わず声をかけていた。
 ゆっくりと、彼が振り返る。
 木々のアーチをくぐり抜け、必死に地面までその存在を示すことに成功した太陽の光が、彼の姿を光に包んだ。
 「朝顔の花言葉、知っていますか」
 私の声は震えていた。声の震えに共鳴するかのように、三つに増えたとんぼ玉がお互いにぶつかり合い、コツン、と啼いたような気がした。
 突然の私の言葉にも彼は動じることなく、微笑んで、言った。
 「とんぼ」
 その声は、今まで聞いた中で一番やわらかく、私の中にするりと滑り込んでいった。

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<著者紹介>
櫻 杏子(神奈川県鎌倉市/28歳/女性/学生)

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