<第4回応募作品>「画家と公爵」 著者: 吉岡 雄二

僕は二十五歳にして初めて精神的疲労というものを痛感する。
チームを組んで仕事をしていた契約社員が辞めて仕事が急激に忙しくなった。仕事に忙殺されて数少ない友人との付き合いも悪くなった。彼女が僕との関係には先が見えないと言って僕を棄てていった。要するに僕は疲弊し、孤独になったのだ。
僕は休日出勤してオフィスに独りのときにはだいたいベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタを聴いている。他のどんなときよりもそのときがよく音楽を理解できる気がするからだ。あるいは休日のオフィスに独りで働いている人間と晩年のベートーヴェンには何かしら共通点があるのかもしれない。
 そんなわけで今日も僕はベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いている。

 僕は休日にはよく深大寺にいる。僕にとって精神的疲労を解きほぐしてくれる数少ない場所だ。普段は人気の無い早朝に来るけれど、今日のように仕事帰りのときはどうしても夕方になってしまう。でも夕方の深大寺も悪くない。黄昏時の寺にはどこか特殊な雰囲気がある。しかし今日はいつもより幾分早く深大寺に到着したのでまだ黄昏は訪れていない。特殊性を欠いた純粋に澄んだ青空と四月の豊かな緑が深大寺を壮麗に飾っている。そんな情景を石段の上に座りながら僕はぼーっと眺めている。空というのは不思議だ。様々な啓示に満ちている。印象派の画家、アルフレッド・シスレーはキャンバスに空を大きく描いた。彼にとって対象の中心は鮮やかな花や瑞々しい緑や光をきらびやかに写す水面ではなく、日々刻々と移りゆく空だった。そこには無限と無常を感じさせる何かがある。また、『戦争と平和』のアンドレイ公爵はフランス軍との戦闘において仰向けに倒れたとき、頭上に確固として存在する青空を見上げてその存在の絶対性と普遍性に激しく心打たれた。でも僕は空を見ていてそんなに強く心揺らいだことはない。たぶん、啓示というのは示される側にも何かを求めるのだろう。
 ふと子どもの遊び声が聞こえてくる。無邪気で、快活で、楽しそうな声。それはモーツァルトのディベルティメントのように聞こえる。そして僕に彼女と行ったクラシック・コンサートのことを思い出させる。メインはモーツァルトの交響曲三十六番『リンツ』で、彼女はその音楽に最大級の賛辞を送っていた。リンツ交響曲。優れた曲だ。モーツァルトはこの傑作を僅か四日間で完成させたらしい。彼の四日間に比べれば、と僕は思う、僕の二十五年間なんて折れたタクトよりも無価値だ。

「そこ、どいてくれる?」という女性の声が聞こえる。
 振り向くと、携帯用の折り畳み椅子に座ってキャンバスを持った女性が僕の二メートルほど後ろにいる。
「何故?」と僕は訊ねる。
 彼女はため息をつく。「この格好見てわからないの? 絵を描くときにあなたが邪魔になるからよ」
「なるほど」と言って僕は頷く。「いいよ。でも条件がある」
 彼女は露骨に訝しげな表情をする。「何?」
 僕は彼女の持つキャンバスを指差す。「その絵を見せて」
 彼女はひとしきり品定めをするように僕を眺める。神経質なしわが眉間に寄る。口元が頑固そうに固く結ばれている。似ている、と僕は思う。それは僕の胸をほんの少し震わせる。やがて彼女は諦めたように首を振ると、仕方ないか、と言って僕が提示した条件を受け入れる。僕は立ち上がって彼女の後ろに回り、その絵を見る。
まず目に付いたのは明るく鮮やかな色使いとかなり激しい筆致。下からやや上を見上げるような視点で、キャンバスの中央に空が広がり、その両脇を様々なタッチとトーンで描かれた新緑の木々が囲む。また画面下には鮮やかでカラフルに描かれた石段があり、その中央には麦藁帽子を被った子どもが二人並んで座っている。
「印象派が好きなんだ」と僕は言う。
 彼女は頷く。
「まだ空が未完成なのかな?」
 彼女は頷く。「もっと太陽の光を輝かしく表現したいんだけど、なかなかね」
 うーむ、と僕は唸りながらその絵を眺める。
「感想は?」と彼女は訊ねる。
「温かくて、優しい絵だ。僕がもっと若かった頃のことを思い出させる」
 彼女は僕の言ったことについて考える。また眉間にしわが寄るけれど、それはさっきよりも幾分神経質さが和らいでいる。やがて彼女は絵筆を握り空に色を塗り始める。僕は彼女の後からその姿をじっと見ている。彼女は特に何も言わなかったので、僕はそのまましばらく画家の創作を見続ける。
「ところで」と彼女は絵筆を動かしながら言う。「あなたが振り向くまでに二、三回呼びかけたんだけど、あなたは全く聞こえてないようだった。何か考え事?」
 僕は頷く。「シスレーとアンドレイ公爵とモーツァルトと別れた彼女について考えてた」
 ふぅん、と彼女はつぶやく。「どちらかというと混乱しているのかしら?」
「どちらかというとね」と僕は答える。
「それは彼女と別れたから?」
「さあ、どうかな? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。よくわからないよ」
「どうして彼女と別れたの?」
「特におもしろい話じゃないよ。芸術的霊感も与えられないと思う」
「構わないよ。芸術的霊感も啓蒙的教訓もいらない」
僕はどう言おうかと考える。どう言えばそこにある内面的な問題を正確に伝えられるだろうか? でも結局僕は客観的事実を簡潔に言うことにする。自分に正確に説明できないことを他人に説明できるわけがないのだ。「一言で言ってしまうと、彼女が僕を棄てていったんだ」
「そう。何か言ってた?」
「僕との関係には先が見えないって言ってた」
「それで、あなたはそれについてどう思うの?」
「いったい先の見える人間がどこにいる? と思う」
 彼女は筆を止めて考える。そして僕の方を振り向く。「ねぇ、私は思うんだけど、あなたは少し変わってるんじゃないかしら?」
「そうかな? 自分じゃよくわからない」と僕は正直に言う。
「そうよ。少なくとも私は深大寺の石段に座ってアンドレイ公爵について考えてる人間を見たことがない」
「改めた方がいいのかな?」
「必要無いんじゃない、別に。その意味をだいぶ拡張すれば、パーソナリティと呼べるかもしれない」
「逆の立場だったらどうする?」
「決まってるじゃない」と彼女は断言する。「即刻改めるわ」
 僕はちょっとショックを受ける。すぐに言葉が出てこない。
「冗談よ」と言って彼女は笑う。
 つられて僕も微笑む。実に久しぶりの感覚だ。そういえば、と僕は思う、心から笑ったのなんていつ以来だろう?

「さてと、そろそろ帰らなきゃ」と彼女は言って帰り支度をする。
 気が付くとあたりには黄昏の予感が満ちている。僕は彼女のてきぱきとした作業をぼんやりと見ている。慣れた手つきだ。
「深大寺にはよく来る?」と僕は訊ねる。
 彼女は頷く。「休日はだいたいいるよ」
「奇遇だね。僕もそうなんだ。でも僕は今日初めて君を見た。どうしてだろう?」
「見ることと認識することは違うよ」
「要するに、お互い視界に捉えていたとしても特に気に留めていなかった、ということかな」
 彼女は首を振る。「私は覚えてたよ」
 僕は彼女の言っている意味がわからない。でもすぐに理解する。「まさか」
「あなたくらい特徴的な外見と雰囲気を持った人は、深大寺に限らずそうはいないよ」
 僕は適当な言葉を探す。でも何も思いつかない。その間に彼女の準備は整う。
「さようなら」と彼女は言う。
「また会えるかな?」とほとんど反射的に僕は訊ねる。
 彼女は微笑む。でも何も言わない。そして振り返って石段を下りていく。僕は石段に座ってずっと彼女を目で追う。ふと僕は彼女の名前を訊いていなかったことを思い出す。もちろん僕の名前も伝えていない。
まあいいさ、きっとまた会える。
やがて彼女が見えなくなってからも僕はその場所にいる。深大寺境内はピークを過ぎたとはいえまだ賑やかだ。しかしそこには寺特有の静謐さが粒子のように散りばめられている。僕は目を閉じる。肌に風を感じる。瞼に夕陽を感じる。ここには彼女の微笑みの余韻がある。やがて僕はゆっくりと目を開く。そして空を見上げる。空は金色に輝いている。僕はそこに何かの啓示が見えたような気がしたけれど、それが何なのかはもう少し先になってから知る。

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<著者紹介>
吉岡 雄二 (東京都調布市/26歳/男性/公務員)

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