<第4回応募作品>「ボルゾイは走る」 著者:宇高 薫

大きな白い犬が立ち止まり、顔を上げると笑顔が迎えてくれた。犬とあまり変わらない小柄な娘がリードの先を握っている。
「こんにちは」
笑顔といっしょに言葉を交わす。
「空が青いね」
若者は空を見上げて絵筆を走らせる。
「ええ、そして青くて高いわ」
娘は大きな白い犬の背中を回り込むようにしてベンチの端に腰掛けた。
「品のいい犬だね」
「ボルゾイというの、ロシアの犬」
「賢そうだ。それに高そうだ」
「きっとね、高いと思う。でも私の犬ではないの」
かおりは犬の散歩を仕事にしている。週に一度、そのボルゾイを神代植物公園のドッグランに連れて行き、走り回らせている。
これまでも絵を描く若者の姿はしばしば捉えていた。寺や深大寺の城跡、大けやきのの前でよく見かけていた。まるでかおりの散歩の先回りをしているようにその姿がある。あるいは自分が彼の後を追いかけている。どんなに遠くからでも彼の鋭い視線は感じた。それがたとえかおりに向けられたものではなくとも彼女はそれを感じ、それが彼のものであるという自信があった。
「毎日描いているの?」
 「毎日描いている」
 「何を描いているの?」
 「花や木、野川に足を伸ばしたときには野鳥。花も木も、野鳥も、季節が変わるたびに色も種類も変わるから飽きないで描ける」
 「先週、あなたはドッグランにいたわね。走る犬も描くの?」
毎日のように犬を散歩する若い女の後姿を追っていた。そうしたらドッグランに辿り着いた。普通に散歩している犬を画きたいと思ったことはない。走り回り、激しく動く犬は魅力的だ。彼の目がレンズになり彼の瞼がシャッターになる。犬の瞬間を捉えては絵筆を滑らせた。
これまで、花や木を描くときも鳥を描くときも、彼の視界の中に、その娘の姿があった。それは等身大ほどのこともあれば米粒ほどのこともある。いつしか彼のドローイングの中で、犬のリードを引く娘は大事な存在になっていった。
 「犬は初めてだ。いつもは神代水生植物園。入園料かからないから。」
 お互いに相手のことは知らない振りをして話している。この距離でいいはずだった。にもかかわらず会話はぎくしゃくとしている。
深大寺を真ん中にしたこの武蔵野の一角で、遠かったふたりの距離がベンチの右と左になった。ボルゾイがかおりを引っ張り、彼が男の目の前で立ち止まった。首をかしげて不思議そうに見つめるボルゾイを、すばやく写し描く。その手元をかおりが覗き見ていた。
「まるでモディリアーニの女ね。長い首をかしげている」
「アメディオ・モディリアーニ。そう言われるとうれしいな」
「ジャンヌと出会ってからが絶頂期ね」
「横たわる裸婦、お下げ髪の少女」
そのときかおりはジャンヌに、彼はアメディオに自分を重ねた。同時に顔を見合わせて、笑う。
「学生なの?」
「なりそこない。今は学生ではない」
芸大を目指している。目指していたというほうが正しい。芸大以外の美大には興味がない。卒業生の実績をみれば一目瞭然だ。芸大に行っても意味はないかもしれないが、芸大を目指すしかない。芸大の予備校に通っているのではなく、もし受かったとしても入学金さえ今はない。だからひとり、ドローイングを重ねている。テーマを絞らずにあらゆるものを描く。この街に移り住んできたのも画材に不自由しないからだ。花も木も空もある。鳥もやってくるし雲も流れている。ここは都心にもっとも近いオアシスだ。晴れた日は歩き回って描き、雨の日は色を重ねる。週末だけのアルバイトでも何とかやっていける街だ。
「人物は画かないの?」
「モデルを頼む余裕がない」
「わたしがなってあげましょうか?」
かおりは自分でも驚くほど大胆な言葉を発した。
「脱いでくれるの?」
「どうしようかしら」
笑いながら惚けて際どいやりとりを交わす。どちらも冗談めかしているが、実は本気だ。ふたりにはそれがよくわかっていた。この深大寺でそれぞれの存在を意識はしていたが交差することはなかった。近づいては遠ざかる。そしてまた近づく。その繰り返しだったが、ボルゾイのおかげであっという間に交わった。ランチを一緒にする約束をしてその午後は別れた。
ふたりの会話はとても楽しいものだった。彼が笑顔を投げるとかおりも笑顔を返してくる。長い時間笑いながらしゃべり続けていた。外に出て歩きながら彼は言ってみた。
「モデルになってくれる?」
「ええ」
間髪を容れずに応えが返ってきた。ふたりはアトリエにもなっているアパートメントへと向かう。歩く道すがら、言葉も笑顔も絶えない。扉の脇の植え込みには羽衣ジャスミンが咲き誇っていて、妖しい甘い香りが漂っている。部屋の中もその移り香で溢れていた。彼はさっそく真っ白なノートを開いた。彼はかおりを夢中で描く。白いページは次から次へとかおりでいっぱいになっていく。笑顔、横顔、赤い唇、ちょっと上を向いた鼻、頬にかかる髪。
「ひと休みしよう」
彼はそう言い残してキッチンに立った。かおりはベッドに座って自分を描いたドローイングをめくっている。
「何だか不思議、絵の中の自分を見るの」
彼は暖めたミルクに珈琲を注ぎ、アカシアの蜂蜜をたっぷり入れた。
「美味しい、このカフェオレ。この甘味は何?」
「アカシアの蜂蜜」
ふたりでひとつのカップを飲みまわした。ふと部屋の隅の大きなビニール袋にかおりの目が止まる。
「あれは?」
「パンの耳」
「あんなにたくさん、どうするの?」
「消しゴム、そして主食。パンの耳をかじりながら絵を描く、パンの耳でいらないところを消すの」
かおりはパンの耳から彼の目に視線を動かした。しばらく彼の目を真っ直ぐ見つめた。見つめられた彼の目は釘漬けになる。
そのまま視線を動かさず、かおりは身に纏ったものを脱ぎ始めた。彼はうろたえる。かおりはすべてのものを床に落とすと、かたわらに脱ぎ捨ててあった彼の白いシャツを羽織った。彼はようやく震える手で絵筆を動かし始めた。
その日からかおりはアトリエに住むことにした。彼は流れに身を任せるばかりだ。
週末の三日間、彼は午後から深夜にかけてトラットリアで皿を洗う。残りの四日は花や木や鳥に、かおりを描く。彼のバイト代は絵の具代に消え、かおりの散歩の仕事の見返りで暮らしていた。けっして豊かではないが幸せな日々が続き、出会ってから季節がひとつ通り過ぎた。
「聞いてくれ、料理しないかと言われた」
「お皿を洗うほかに?料理?」
彼の仕事は皿洗いだ。彼が皿洗いであることに、かおりは何の引け目も感じてない。彼の仕事が何であれ、彼はかおりにとって唯一の画家だ。
「賄いを作ってみろって言われて作ったらほめられて・・・」
店のシェフは彼の動きを見逃してはいなかった。ソースを舐める彼の仕草をプロは見ていた。彼の目はいつも執拗にシェフの指先を追いかる。シェフは彼を試してみた。そのことに彼は見事に応えてしまった。
「あなたは料理人になりたいの?」
いつになく強い語調には閉口した。さまざまな素材を駆使してできあがっていく料理に興味があったが料理人になるつもりはない。シェフの手さばきを見つめているうちにたくさんのことを覚えてしまった。覚えるほどに自分の腕を試したくなるのは当然だ。
「いつ首になるのかわからないアルバイトよりはましだ。いもの皮をむいて、そのうち牛蒡や人参もむいて、いずれは料理を作る。毎日来いって言われた、料理人になれるかもしれない」
「絵はいつ描くの?」
「絵はいつでも描く。時間が少し削られるだけだ。君にばかり頼ってはいられない」
「わたしはすきであなたの傍にいるのよ。絵を描くあなたの傍に」
「これからも絵は描くよ。そしてこれは君のためでもあり、ふたりのためだ」
その日から彼は一日のほとんどをトラットリアで過ごすようになった。かおりは毎日犬の散歩に出かける。ボルゾイはドッグランで走り回る。そのボルゾイの走る姿の向こうに彼はもういなくなった。
アパートメントに戻ったかおりは彼の白いシャツを着た。だぶだぶの袖をひじのあたりまでまくり上げ、彼女を描いた彼の画集を小脇に抱えて扉を出た。空はあの日と同じように青くて高い。羽衣ジャスミンの香りとアカシアの蜂蜜の味を思い出しながらかおりは歩き始める。どちらもたしかに甘かった。

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<著者紹介>
宇高 薫(東京都渋谷区/53歳/男性/無職)

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