<第3回応募作品>「8:10バス」 著者:mari

 あと5分早く起きればよかったと後悔する。毎朝のことだ。通勤バッグを脇に抱え携帯電話を片手に、いつものあのバスに乗り込むべく走る。道草しながら登校する小学生、すれ違う自転車の高校生、眠そうに見上げる猫たちに、心の中で軽く挨拶をする。土の香り、花の香り、草木の香り。澄んだ朝の空気に太陽の光が眩しい。

坂を下ると見えるバス停は、深大寺の参道入り口に位置していて、バス通りを覆う木々がちょうどよい日陰を作っている。終点なので、時刻になるまで出発しないでいてくれるから助かる。
今日もなんとかバスに乗れてひと安心。私は8時10分深大寺発のバスに乗って駅へ向かう。運転手に軽く挨拶をしたら、決まって私は私の席に座り、首を横にしたり下にしたりして、居心地の良い座り位置を見つける。奥から2番目の二人掛け。一番落ち着くその席は、いつからか私の指定席となった。
そして、通路をはさんで反対側の窓際には、やはりそこを指定席としている、彼が座る。

このバス停は、週末には観光客で長い列が出来る。深大寺でお参りして、神代植物園を散策し、蕎麦屋でおいしいお蕎麦を食べ、もしかしたら温泉にまで足を伸ばしたかもしれない人たちの満足気な顔が並ぶ。バスを待つ列が長ければ長いほど、私は誇らしく思う。活気と静けさとが同居している深大寺は、いつでも私達を温かく迎えてくれる。

 私がこのバスを利用するようになったのは、1年前。誰よりも早く出社する新入社員特有の張り切りも最初だけで、間も無く定時ぎりぎりに間に合う、このバスに乗るようになった。毎朝会う顔ぶれは、同じ深大寺の住民というだけで、自然と親近感が沸いてくるものだ。名前も知らなければ、住む家も知らない、そんな微妙な距離感の中で、「今日はいるな」とか「いないな」とか、お互いの存在を確認する。
やがて、私はバスに乗ったら真っ先に、等間隔に並んだ席から覗く彼の横顔を探すようになっていた。

彼のことが気になり始めたのは、スーツ姿が素敵だったからだ。年齢は、そう、30代半ばといったところか。大人の落ち着いた雰囲気を醸し出していて、眩しそうに窓の外を見上げる横顔が特にいい。理想の上司像は?と聞かれたら、真っ先に彼を思い浮かべるだろう。
片思いと呼ぶには、あまりに現実味が無く、私の中で彼は言わば神聖な存在。よく知らないから、というのもあるかもしれない。初恋を思い出させる様な純粋な気持ちだ。彼に会えた日と、そうでない日とでは、私の一日の始まりが違う。

それは梅雨の真っ只中だった。雨の日は決まってバスは遅れるので、私も他の皆と同じ様に列に並んでいた。しとしとと降る雨は、深大寺の緑をより一層引き立てて、風情のある表情を魅せる。バス停を囲う木の柵をカタツムリがゆっくりと昇っていく。

しばらくして彼がやってきて、私のすぐ後ろに列を作った。そしてまたその後ろには、あまりお見掛けしないおばあちゃんが手に荷物を抱えてやってきて、少しためらった末に彼に尋ねた。

「すみません、こちらは杏林の病院に行くバスかしら」
「えぇ。病院の近くを通りますよ」彼はおばあちゃんに返事をする。
「そう、ありがとう。うちのおとうさんが入院してね」
「ではお見舞いですか。雨の中大変ですね」
「えぇ。この年になると色々とあるわね」
「すぐによくなるといいですね」
「ありがとう。あら、バスが来たわね」

雨の中、少し遅れてバスは到着し、私達はいつもより少し混みあったバスに揺られた。やがて「病院前」とのアナウンスが流れると、おばあちゃんは彼に軽く一礼をしてから、バスを降りた。
何気ないやりとりだったが、なんだかとても心温まった。きっと彼は優しい人なのだろうと、その日から余計に彼を意識する様になった。初めて聞いた彼の低い声が、私の心に響いた。

彼に会えた朝には、バスに揺られる間中、私は様々な想像を頭の中に巡らす。彼はバスを降りたらどこへ向かうのか。どういう仕事に就いているのか。その一つ一つが私の胸を躍らせ、イメージがどんどん膨らんでいく。

でもそれはバスに乗っている間だけ。バスから降りれば魔法は解けて、現実の世界に戻り、私は私の行く先を急ぐ。

毎朝の出会いを、四六時中引きずることはなく、バスを降りて生活が始まったら、それはそれで精一杯で、目まぐるしく一日は過ぎていき、そしてまた次の朝を迎える。
毎朝起きるのは辛いけれど、坂を下ってバス停にまで辿り着けば、深大寺特有の空気が私をリセットしてくれて、新しい日をまた頑張ろうと思える。会社で嫌なことがあって落ち込んでいる朝も、新しい出会いがあってワクワクしている朝も、いつでも深大寺は私を見守ってくれている気がしている。そしてバス停の顔ぶれも、同じ朝の始まりを共有する、戦友の様な仲間意識を持つ。少なくとも私はそうだ。

ある夏の日、私は連日の暑さと、仕事の忙しさにうんざりしながら、帰りのバスに乗り込み、空いている席を探した。エアコンの風がやけに強くて、風向きを変える。
発車直前に、誰かが軽く会釈をして隣に座ったなと思ったら、それは彼だった。
私は思わず2度確認してしまった。ダラっと座っていたのを座り直して、一瞬にして熱くなる頬に気付かれない様に、私は窓の外を見た。体温は急上昇して汗が噴出してくる。

「あぁどうしよう・・・」と心の中で叫ぶ。

初めて間近に感じる彼の存在に、胸の鼓動が止まらない。
「声をかけるべきか、いや、ここで焦ってはいけない、でも・・・」

バスが出発すると、彼はそっと本を取り出し、静かに読み始めた。
私も、過剰に意識している自分が恥ずかしくなり、でもやっぱり気になるので、ページをめくる彼の大きな手や、重そうに膨れ上がった鞄に密かに目をやりながら、「いつも通り」に振舞った。

そうこうしているうちにバスが終点への到着を報せると、まず彼がバスを降りて、私がそれに続いた。夜の深大寺は虫の音とともに、少し寂しげに私達を迎える。
私はしばらく後ろから彼の姿を目で追っていた。極度の緊張から開放された安堵と、声さえも掛けられなかった悔しさとで、なんだか複雑な心境だった。そして彼の温もりが私の肩にかすかに残っていることに気付き、ポーっとして、家までの道のりに今起きた約20分の出来事をプレイバックした。
その夜はなかなか寝付けなかった。

それから、秋、冬、と季節が変わっても、私と彼の距離は縮まることも、遠ざかることもなかった。毎日真面目に通勤していることはわかっても、それ以上のことを知ることはない。

でもだからこそ、良い距離感を保つことが出来ているのかもしれない。毎日同じ場所で、同じ時間に顔を合わせる。その毎日が変わらないからこそ、バス停は私の好きな場所のままだし、彼にずっと憧れる続けることが出来る。
そしてふと思い出しては、あの夏の日の様な、幸せな偶然が巡ってくることを願う。そんな風に毎日が過ぎていけば、私は楽しい。

こうして私の1年は過ぎる。季節ごとに変わる深大寺の風景の片隅で、顔なじみの戦友達とともに、私は8時10分発のバスに乗り込む。

(了)
 
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<著者紹介>
mari(東京都調布市/25歳/女性/会社員)

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