<第2回応募作品>『遠き夏』 著者:上野 佳子

せわしなく車が行き来する通りの脇でバスを降りると、ほんの少し排気ガスの熱を感じただけで、そのあとは真夏の暑さを遮る木々を渡る風が頬をなでた。
(まったく近頃じゃどこへ行ってもアスファルトの照り返しがひどい、そこへいくとここいらはまだ...)
都内でも自然の多く残っているこの辺りは真夏でも都心よりは気温が数度は低く感じられた。
あの年の夏もこんなだった。暑かったけれど、こう、風が吹いていた。演習でかいた汗もすぐに吹き飛ばしてしまう緑の匂いのする清々しい風が...。
老人は帽子を脱いで薄くなった白髪の間から流れ出た汗をハンカチで拭った。
道を折れて石畳の参道へと入るとさらに澄んだ空気を感じた。木々の発する酸素が充満しているような空気だ。ただ人の多さと賑やかさに老人は驚かされた。なんだか自分の知っている記憶の中に残るあの参道とは随分違う。それは色彩のせいかもしれなかった。家族連れのカラフルな服、茶色の髪、土産物屋に並ぶ派手な色の商品。そんな多彩な色は昔は無かった。白か紺か軍服の色、あったとしてもせいぜい小さな子供の下駄の紅い鼻緒の色か。
老人は懐かしさとともに参道を歩いた。様変わりをしたようではあるがよく見れば知ったようなそば屋の屋号もある。終戦前後の食糧難はまだ先だった頃で、老人は仲間とよくそばをすすったことを思い出した。この界隈には調布の飛行場の兵隊連中が大勢下宿をしていた。演習が終わり渇いた喉を湧水の冷たい水で潤し、寄り道をしてから銘々の下宿に戻った。当時に比べると店構えは随分立派になったが確かにこんなような店があったようだった。
深大寺の山門の前まで来ると老人はN先輩の姿を思い出した。
(よお、遅いじゃあないか。来い、そばをおごってやる)
待ち合わせをしていた先輩は山門の脇で煙草をふかしながら、そう、言ったものだった。演習で失敗をしては上官に叱られてばかりいた不器用な後輩を明るく誘ってくれたのだった。
あの頃と同じひぐらしのうるさいほどの声が耳についた。
老人がゆっくりした足取りで道を折れて湧水の脇を通ってすすむと目当ての店が今でもあった。老人は少しホッとしてそこにたたずみ店先をながめた。店先には団子やら饅頭やら並べられ若い店員が忙しそうに客と応対している。あの頃の先輩の目的はそばのほかにこの店にあった。後輩にそばをおごるふりをして通いつめたのもこの店の娘に会いにくるのが目的だったのだ。
故郷を離れここへ着たばかりの頃、偶然通りかかり美味しい湧水があることを知って仲間数人と手ですくっては喉を潤していると(これをどうぞ、お使いください)とその娘が真新しい青竹の柄杓を差し出した。硬派の先輩は途端に頬を紅くして黙って竹の柄杓を受け取った。
その時から時間が出来さえすればそばをすすることを口実によくここへ立ち寄ったものだった。美人というのではないけれど笑うとえくぼの出来る色の白い小柄な可愛い娘だった。
「あっ...」
その時、老人は店の奥にその娘の姿を見た。いや、娘ではない、何処から見ても老婆に違いないが老人にはあの頃の娘そのものの姿がありありとそこに見えた。
(まさか...)
ここを再び尋ねてみようを思い立った時、老人はまず会えまいと考えた。存命でいるということがまず半信半疑であったし、どこかへ嫁いだか移り住んだか、会える可能性は無きに等しいと...。
(人違いか、いや間違いない、あの娘だ)
老人はほんの少し躊躇したあとで思いきって店へ入っていき小柄な老婆に声をかけた。老婆は唐突に挨拶をされて少々いぶかしんだが、N先輩の名を告げるとすぐに懐かしそうな表情で顔をほころばせた。皺の刻まれたその頬に昔と同様のえくぼが浮かんだような気がした。
窓を開け放した店内にもひぐらしの声がうるさいほど聞こえる。
「そうでしたか...」
あの頃と変わらない湧水でいれた味わいのある茶を勧めながら老婆は頭の禿げあがった弱々しい老人の長い話を一生懸命聞いた。
「あの夏以降ねえ、急にお姿を見なくなったものだから、ああいうご時勢でしたから身を案じておりましたが...。やはり...そうでしたか」
老婆は遠い目をして老人の語る先輩の最後の様子に聞き入った。
「急な出陣で...。この戦争が終わったら必ずや迎えに行きます、先輩はそう約束したことどうやらかなえられそうにない、その事を随分と気にしておられました」
「遠い昔の約束でしたわねえ、今になってそのことをこうしてお伺いしようとは思いもよらないことでした...」
老婆は少女のような顔で言った。
「長生きはするものですねえ...」
「申し訳ありません。もっと早くに私はここを尋ねてこのことをお伝えするべきでした」
「いいえ...、戦争が終わってからは皆生きていくだけで精一杯でした。私達のそんなささやかな恋の思い出に付き合っている暇はあなたにも無かったことは私にも理解できます。こうして何十年も経ったあとであなたのお話をお伺いできただけで私はうんと幸せ者ですよ。深大寺のご利益が私にもあったのでしょうねえ」
「え?」
「ここはね縁結びのご利益があると昔から言われているんです。だから若い方が沢山、訪れては恋の成就をお願いするんですよ」
「でも、それは...」
「そう...、私達は戦争というもののせいで現世で結ばれることは無かった、けれど私が思っていたと同じように相手にもきっと思われていた、そうわかっただけで十分にご利益がありましたよ。あなたには本当に感謝致します」
老婆はそう静かに言って微笑んだ。
長い話の後でぜひ召し上がれとそばをすすめられた。清らかな水でさらされたそばはさっぱりとして懐かしい味そのままだった。
「御替わりはいかがですか」
「いやあ...」
老人は頭を掻いた。
「年をとりました。あの頃は大盛りのそばを次々にたいらげたものですが、もう今はこれで十分ですよ」
ありがとうございます、そう言いながら店の前で深々と頭を下げる老婆に別れを告げ老人は来た道を戻る。戻りながら考える。自分がここを訪れることを長いこと躊躇していたのはやはり彼女のことを慕っていたからなのだ。恋とも知らずに恋慕っていた相手に恋敵のいなくなったことを伝えるなど、若く気の弱い自分に出来ようはずも無かった。しかし人生の終幕が近づいた今頃になってようやく、若い日の心残りにケリをつけられたことは、これもまた縁結びのご利益とやらか。
(あなたのことも、よく覚えていますよ)そう彼女は言ってくれた。それだけで長い間の胸のつかえがすっとおりていったようだった。
夏の空に飛行機のエンジン音が響いたような気がした。
(おい、おまえ、やるじゃないか)
N先輩が操縦席から笑顔で手を振ってそう言ったような、老人にはそんな姿が思い浮かんだ。

(了)
 
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<著者紹介>
上野 佳子(東京都西東京市/40歳/女性/主婦)

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