<第2回応募作品>『雨、あがれ』著者:岡田 みな子

 東京の郊外にある小さな児童養護施設に、ミズキお姉さんという左利きの保母がいた。食事のとき、唇の端に真っ赤なジャムをつけた六歳の私を見て、優しく笑ったのを憶えている。そして私を膝に乗せ、指でジャムを拭ってくれた。私が大人になりたいと思っていたころのことだった。
「なっちゃんは、金魚をとても可愛がってくれるので嬉しいわ」
 ミズキお姉さんはそう言って、私の頭をいつも左手で撫でてくれた。
 金魚は施設の食堂で飼われていた。木造りの棚に置かれた横幅四十センチほどの水槽の中に七匹泳いでいた。園長先生がそれを持ってきた日のことは今でも憶えている。水槽に移されたあと、ゆらゆらと透明な水の中を漂い始めたその赤い姿を見て、私は目を輝かせ、興奮した。目を閉じれば、自分も金魚になって、水槽の中を泳いだ。 
そういえば、ミズキお姉さんの真似をして左手でお箸を持ってみたことがあった。しかし全く上手く動かせず、カラン、と音を立ててテーブルの上に落としていた。何度も何度もカランカランと落として、施設の先生たちに「やめなさい」と言われ、右手に持ち変えさせられた。しかし、それでも私はまたカラン、と箸を落とした。右手でも無理だった。あの頃、食事の時間になると、私はどうしても食べ物を口に運ぶことができず、噛むことも困難だった。
「なっちゃん、お口開けて」
先生たちは、スプーンで私の口にお米やキャベツのスープを少しずつ運んだ。大抵はそれを一口ずつゆっくりと噛めば何とか食べることができたが、なぜかたまにそういうことが全くできなくなる日があった。そんなときは、必ずミズキお姉さんが、噛めない私の代わりにご飯を噛んで一端口から出し、それをスプーンですくい私の口に運んで水と一緒に飲み込ませてくれた。食事の時間が終わり、周りに誰もいなくなった食堂で、ずっとそうやっていた。
いつも食事の時間がみんなより長くなってしまう私を、他の子どもたちは笑った。しかし私も、ミズキお姉さん以外の先生が口で噛み砕いた食べ物は決して自分の口に入れようとしなかったから、同じようなものだったと思う。
結局、私が自分だけの力で食事を取ることができるようになったのは、十歳になってからだった。
ある日の夜、就寝の時間を大幅に過ぎても眠れなかった私は、もっそりと布団を抜け出し、ミズキお姉さんの部屋を訪れた。しかし、そこにお姉さんはいなかった。私は施設の暗い廊下をペタペタ歩いて、お姉さんを探し回った。パジャマの裾を握りながら玄関の方を覗くと、黄色い明かりがついている。そっと伺うと、ミズキお姉さんが玄関の棚に置かれたピンク色の電話で誰かと話をしていた。小さな声がぼそぼそと聞こえてきた。私はその電話が終わったら、ミズキお姉さんに眠れないことを伝え、一緒に談話室に行こうと思った。
しかし、会話を終え、カチャンとピンクの受話器を置いたミズキお姉さんは、そのまま下駄箱の中のサンダルをサッと取り、音もなく履いた。そして施設のドアを開けて、するりと表に出て行ってしまった。
私は電気をつけっぱなしの廊下にしばらく立っていたが、やがて裸足のまま玄関の扉を開け、ミズキお姉さんを追うように外に出た。
暗い中、リーリー、と虫の鳴き声が聞こえていた。湿った夜の匂いがムッと鼻に届いた。
顔を上げると、外門の向こうに黒い影が伸びているのが見えた。足の裏に張り付く冷たい地面の感触を憶えながら、私はその影に近付いていった。門の脇に停められているトラックの影に身を潜めそっと伺うと、大人が二人いることがわかった。まず、誰か知らない男の人がこちらに背を向けている。そしてその肩越しに、ミズキお姉さんの顔が見えた。
「自信なくしちゃうわ」
ミズキお姉さんが言った。
「ずっとやりたい仕事だったし、すごく充実しているけど、たまにすごく不安になるの。自分の弱さでどうにもならないのかもしれないけれど、何だか、本当に駄目になるのよ。なっちゃんのように、お母さんに放棄されて帰る家のない子だっているんだから、私が安心させなきゃいけないのに」
そう言うと、ミズキお姉さんは左手で目をぬぐった。
「全然上手くいかない。私、駄目なのかな」
「そんなことないよ」
こちらに向けた背中を揺らして男の人が言った。暖かく鼓膜に触れる声だった。
「君には、実際にお父さんとお母さんが待っている家があるじゃない。現実に帰れる時間はほとんど無いにしてもさ。それに、その、まあ頼りないかもしれないけど、俺だっているしさ」
男の人は、ミズキお姉さんの頬に手をあて、涙を拭った。ミズキお姉さんは潤んだ目で男の人の顔をじっと見たあと、崩れるようにその胸の中に顔をうずめた。男の人も、ミズキお姉さんの肩を抱いた。
「ミズキ、しんどくなったらまた呼んで。こうやっていつでも会いに来るから」
私の足の裏に張り付く地面は、とても冷たかった。
トラックの影でしゃがみ込みながら、私は両腕で自分の肩を抱いた。パジャマにぐちゃぐちゃの皺ができるまで、いつもミズキお姉さんにだけ抱きしめてもらえていた自分自身を、抱きしめていた。
リーリー、と相変わらず虫たちが鳴いていた。求愛の声だったのかもしれない。私は目を閉じた。早く大人になりたいと思った。

「そろそろ蕎麦、食べに行く?」
ウワンウワン、と蝉の声がしている。私は目を開いた。前に「浄財」と書かれた賽銭箱が置かれている。その向こうのお堂は木の戸がぴっちり閉められていて、中は見えない。雨上がりの雑木林に、黄色い陽が差し込んでいた。
「はい。食べたいです」
「じゃあ戻るか」
先を歩く立川シンジの後に着いて、私はお堂を後にし、濡れた参詣道の階段を下った。大師堂の裏手の窓に、何枚かの雑巾が干してあるのが見える。階段横の切り立った崖から突き出た木の葉の雫が、ミュールを履いた足の甲にポツリと垂れて、小さく濡れた。
盆を過ぎた寺の境内には細い雨が降っていて、人影もまばらだった。午後三時を回り、やっと陽の照り始めた本堂の前を抜けて、私たちは山門を出たすぐ下にある蕎麦屋に入った。
「最後に寄ったお堂が、この山を開いた人を祀っているところなんですね」
盛り蕎麦を二つ注文したあと、私は向かい合って座る立川シンジに言った。
「そうだよ。それにしても、お寺や神社巡りが趣味なんて、なっちゃん渋いね」
立川シンジはそう言うと、店内に設置された送風機の風に髪を揺らしながら、出された冷たいお茶を一気にクイッと飲み干した。その姿を、私はただじっと見ていた。
「ん? どした?」
「あ...、いえ、あのやっぱりお祭りとかもあるんですよね? よく行くんですか」
「うん。育ったところの行事だからね。欠かさず来てるよ。秋にはそば祭り、三月には、だるま市とか結構有名なんだ。興味があったら来てごらんよ。そういう日はもっと活気があるから。案内するよ」
「あの、金魚すくいありますか?」
「金魚すくい? うん、今年のだるま市ではあったよ。得意なの?」
「あ、いえ、あんまりやったことないんですけど、好きなんです、金魚」
「ああ、そういえば美術部の作品でも金魚の絵描いてたよね」
「あ、はい。よく憶えてますね。やっぱり子どもっぽい題材だったかな」
「そんなことないよ」
やがて蕎麦が運ばれてきた。私たちは箸を割り、薬味の大根おろしとネギをつゆに流し入れ、蕎麦を食べ始めた。そのときだった。
「あ」
カラン、と私は箸を床に落とした。先に蕎麦をすすっていた立川シンジは、口をもごもごさせながら「すいません」と店員を呼んでくれた。そして新しい箸と、お茶をもう一杯頼んだ。
「すいません、ありがとうございます」
私は顔を赤くしながら言った。箸を落とすのは久しぶりだった。
「いやいや、大丈夫?」
「はい、なんか昔から、緊張するとお箸落とすクセがあって」
「ははは。何それ。なっちゃん緊張してんの?」
ズズリ、と蕎麦をすすり、立川シンジは目を細めて笑った。
蕎麦を食べ終えると、立川シンジは最後にもう一つ、神様が祀ってあるお堂に案内すると言った。蕎麦屋を出、湿った地面を歩き出すと、水の流れる音が聞こえる。
「今日は、ありがとうございました。あの、実は、立川さんが描いた絵を見たときから来てみたいと思ってたんです、ここ」
「俺の絵?」
「ほら、部活の作品展で、『深大寺』っていう何のひねりもないタイトルで出してたじゃないですか。この辺界隈を描いた絵」
「ははは。なっちゃんこそよく憶えてるね。あれ良かった?」
「はい。立川さんの作品は全部凄いと思いますけど、あれが一番好きです」
「それは嬉しいな。自分の育った場所だからね。一度描いておきたくてさ」
やがて、甘味処の前を抜けた右前方の雑木林に、ほっこりと開く空間が見えた。三列の石が並んで、木々の中をしっとり濡れたお堂まで短い道を作っている。立て看板には「深沙堂」と書かれていた。「ここに祀られている深沙大王が、深大寺という名前の由来とも言われているんだよ」と立川シンジは言った。
「実はこれ、縁結びの神様なんだってさ」
「縁結び?」
「そう。好きな人と結ばれるらしいよ。俺、祈っとこ」
そう言うと、立川シンジは私の前に一歩踏み出し、お堂に向かって手を合わせた。その言葉を聞き、胸の奥が潰された果実のようにぐちゃりとして、私は問いかけてしまった。
「好きな人、いるんですか?」
すると、立川シンジは目を閉じたままニッ、と笑った。
よくわからないのとどことなく気まずいのとで困った。とりあえず祈ってみることにする。立川シンジの隣に一歩踏み出し、手を合わせる。そして目を閉じる前に、彼の顔を見上げた。初めて人に抱きしめられたかった。
そのとき、頭上の樹から雨の雫が一滴落ち、立川シンジの頬を濡らした。しかし彼は目を閉じたまま微動だにしない。私は目を閉じた。もっと大人になりたいと思った。

(了)
 
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<著者紹介>
岡田 みな子(神奈川県川崎市/22歳/女性/会社員)

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