<第2回応募作品>『夏の森』著者:有森 玲

「ワンちゃんもご一緒できますよ」
コーギー犬を連れている僕たちを見て、蕎麦屋の女性店員が声をかけて来た。神代植物公園脇の蕎麦屋には、外にも席が設けられていて犬を連れていても、ここでなら蕎麦にありつけそうだ。
「ここで、食べていきましょうよ」
サキが言って、僕たちは店員に案内されるままに席に着き、サキは愛犬シンシアを机の脚に括り付けた。シンシアはお座りの格好をして上目遣いに僕たちを見た。
 周囲には樹木が覆い茂り、東京の真夏の昼下がりであっても、どこか山奥の深い森の中にいるかのような居心地だった。僕は長く東京にいる間に、森がもっている薄っすらとした猥雑な匂いを忘れかけていた。ずいぶんと懐かしいような感じがした。
 品書きをちらりと見て、「天ざる      にする」と僕は言ったが、サキはとろろ蕎麦とおろし蕎麦とを迷った挙句、結局「おろし」にすると言った。先ほどの店員に注文を告げると、ひとつ隣の空席を挟んで座っていた年老いた夫婦と思しき男女二人が、僕たちの隣の空席までやってきた。男性は地味なチェックのシャツを着ていたが、女性はピンクのTシャツに白いパンツで、いかにも快活そうだった。二人はもう蕎麦を食べ終え、森の中でくつろいでいたようだ。
「可愛いワンちゃんですね。お名前は?」ご主人が言った。
「シンシアです」
「あら、難しいお名前ね」今度はご夫人が言って、シンシアの頭をなでた。ご主人は大きなレンズのついたカメラを肩から下げていた。それをシンシアのほうに向けて、舌を軽く鳴らすと、シンシアはご主人のほうを向いた。シャッターが連続して切られた。  
 今撮ったばかりのシンシアの写真をデジタルの画面で見せてくれたが、シンシアが、舌を少し出して正面を向いた様子がきれいに撮れていた。
「すごくかわいく撮れてる。おじさんはまるで魔法使いのようですね。なかなか正面を向かせて写真、撮れませんよ」サキが言った。
「二人とも犬が大好きでね、よくこうやって撮らせてもらっているんですよ」 
 そう言うと、ご主人はバッグから写真ホルダーを取り出して、「ほら、これ」と僕たちに差し出した。サキが机の上で開けてみると、ダルメシアンやレトリバー、シェトランド・シープ・ドッグがボールを追いかけたり、お座りしている写真が収められていた。
「犬は飼われていないんですか?」僕が訊ねた。
「二年ほど前に死んでしまってね。今から飼っても、私たちのほうが先に死んでしまうだろうからね」ご主人がそう言うと、ご夫人   も相槌を打つように頷いた。  
 僕はなんだか悪いことを言ってしまったような気がした。
 先ほどの店員が注文したものを運んでくると、二人は僕たちに礼を言って、勘定を済ませ植物公園に向かって歩いていった。

 サキは三ヶ月ほど前に離婚をしていた。結婚生活は三年続かなかったようだ。離婚に至るまで、別居生活を続けていたわけではなく、 離婚届を出すと同時に元の旦那が家を出た。サキはシンシアと3LDKのマンションを引き取った。まだマンションのローンも途方もなく残っているだろうし、そのあたりについてどう折り合いをつけているのか、僕はまったく知らない。離婚の原因についても、元の旦那が悪いのか、サキが悪いのか、それとも互いに悪いのか、そもそも誰も悪くないのか僕には見当もつかない。サキは元旦那のことを悪くも言わなければ、自分がどうだとかも一切口にしなかった。
 僕は大学を出てからは、一度だけサキと二人きりで会ったことがあった。サキが結婚する前のことだ。二人でわりと有名なある劇団の演劇を観に行ったのだが、サキは僕とは違う誰かと行く予定だったみたいで、その誰かに急用ができたため、その代わりに僕が行ったのだ。その誰かというのは元旦那だったのかもしれないし、ただの女友達だったのかもしれない。その時にそんなことはサキに訊かなかった。
 僕たちは演劇を観た後で、軽く食事をしてバーに入った。そのときに就職したばかりの会社のことを互いに話し合ったことは憶えているのだが、どの店に入って、何を頼んだのかまでは憶えていない。どうせ僕はいつものようにビールを飲んでいたのだと思う。
「小宮君、芝居とか好きでしょ。だから、誘ったの」
別れ際にサキはそう言った。僕はとりわけ演劇とか好きなわけでもなく、年に一回観に行くくらいだった。
「また、なにかあったら誘うね」サキが言った。サキと出かけるのは悪くはなかったし、僕も「こちらもね」と言った。
そう言ったきり僕たちが二人で会ったのは、六年ぶりだった。その間にサキは結婚して、犬を飼って、離婚をした。僕は結婚も離婚もしていなかったが、新卒で就職した会社を辞めて、別の会社で働いていた。サキはまだ会社を辞めずに続けていた。

 僕たちは蕎麦を食べ終えると、深大寺の方へ降りていった。僕がシンシアのリードを持った。深大寺でお参りを済ませ、僕たちは野川に出て、左岸を上流に向かって歩き始め、野川公園を目指した。
川原には草が茂り、アスファルトと違ってシンシアも歩きやすそうだった。野川にはカルガモの親子が浮かんでいたり、武蔵野の佇まいが残っていて、僕は飽きることがなかった。
 旦那が出て行った後、サキは一人でシンシアの面倒を見なくてはならなかった。シンシアも旦那が出て行くときに本棚や机が運び出され、ぽつりと空間ができると、それに敏感に反応したようで、しばらく下痢が続いたり、散歩に出てもすぐに帰りたがったらしい。犬は人間よりも神経質で、環境の変化には過敏のようだ。旦那と暮らしていたころは、朝夕の散歩もサキが行ったり、旦那が行ったりと交替でこなすこともできたが、今はサキが一人でこなしている。仕事を持ちながら一人で朝夕の散歩を欠かしてはならないというのは骨の折れることだろうと容易に想像がつく。ペットを育てるための休暇制度なんてあと何百年経ってもできそうにないし、犬を飼うにも綿密な人生設計がいるものだ。
 三日前にサキから突然の電話があった。サキが離婚したと僕は知っていたが、「いろいろ大変だったみたいだね」としか言えなかった。
「あまり遊んでやってないせいで、シンシアもストレスが溜まっているみたい。休みの日以外はずっと一人ぼっちにさせているし」その電話でサキが言った。そうして夏でも犬を歩かせやすいだろうということで、僕たちはこうして深大寺の森にやって来たのだ。

野川公園では、まっすぐ立った何本もの木々が芝生にくっきりと濃い影を落としていた。
「シート持ってきたから、ここに座りましょ」サキはトートバッグからレジャーシートを取り出し、二人で広げて腰を下ろした。売店で缶ビールを二本買って来た。サキと軽く缶をあわせて乾杯をした。木陰で飲むビールはなんとも旨いものだと思った。
「小宮君、犬好きでしょ」
 サキが言った。僕は自分が世間の平均から見てどの程度の犬好きなのか、考えたこともなかった。カメラマン氏やそのご夫人ほどではないにせよ、少なくとも嫌いではないと思った。
「たぶんね」僕は言った。
 四時を回ると、僕は車をとって来ると言って、タクシーを拾い、車を止めた場所に戻った。再び野川公園に戻ると、サキとシンシアを積み込み、サキの家まで送っていった。

 翌月曜日、僕はいつもの平日と同じ時刻の七時五発の中央線に乗った。新宿駅で降りて、通勤前に必ずコーヒー・ショップに寄って、新聞と文庫本を読むのが日課になっている。
 窓越しには同じ方向に向かって舗道を歩く人の流れがあった。その流れの中に確かに昨日のカメラマン氏の姿があった。ノーネクタイで、ジャケットを羽織っていた。追いかけようかと思ってふと立ち上がったが、目の前のアイスコーヒーの入ったグラスを見て、思いとどまった。カメラマン氏はそのまま流れに消えていった。朝から幻でも見たかのような不思議な気分に包まれて、僕はその日ずっと昨日のことを思い出していた。
 そして、その日の夜に僕はサキに電話をして、朝、新宿でカメラマン氏を見かけたことを話した。
「小宮君、明日も張り込んでみてね」サキにそう言われて次の日も同じ時刻にコーヒー・ショップに入り、窓側の席で、外をずっと眺めてみたが、カメラマン氏は現れなかった。そうしてその日のうちに電話でサキに報告をした。次の日もカメラマン氏は現れなかった。
 そうして同じように電話で報告をすると、「ねえ、また土曜か、日曜日に深大寺にまた行ってみようよ」サキが言った。
僕は木陰で飲んだビールが忘れられず、  気の利いた食べ物でもあれば最高だと思った。
「じゃあ、ローストビーフかなにかでサンドウィッチでも作ってきてよ」
「うん、わかった」サキは軽快に言った。
「ねぇ、小宮君。私のこと好きでしょ」
 小首を傾げて舌を出しているシンシアの姿が頭に浮かんだ。

(了)
 
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<著者紹介>
有森 玲(東京都葛飾区/39歳/男性/会社員)

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