<第2回応募作品>『緑の風』著者:大越 康弘

 苔むした水車が窓越しに濡れ輝く。深大寺のあたりにはいくつもあるなかでは、やっぱりここが一番。慎ましやかな佇まいの店でいつもの蕎麦を待つ週末の昼下がり。春香にとってはこのうえもないひとときである。
 蕎麦湯が出るころには、客は春香と老夫婦だけとなった。彼らが勘定を済ませて立ち去ると、若主人の仁一がテーブルの前に歩み寄ってきた。
 「いつもありがとうございます」
 「週末は皆勤賞ね」
 「毎週、春香さんの姿を楽しみに待っているんですよ」
 「ホメ殺しは勘弁。でも私、ここに来ると癒されるっていうのかな。仕事のこととか忘れられるの」
 「お仕事は何でしたっけ?」
 「会計屋さん、ってところ」
 「すごいな。僕、数字がいちばん苦手なんです。春香さんみたいな人に、週末だけでも帳簿をお願いできたらなあ」
 「そんなの朝飯前。それより私、こういうところで働いてみたい」
 「え?」
 「叔母が小料理屋をやっててね、割烹着で立ち働く姿に、憧れてた」
 「だったら来週、やってみませんか?バイトが休みをとるんですよ」
 「うん、決まり!」
 次の土曜日、いつになく早く目が覚めた。こんなに浮き浮きするのは何年ぶりだろう。またも笑みがこぼれた。一時間も前に着いてしまうと、「臨時休業」の貼り紙に出迎えられた。勝手口に回りチャイムを鳴らす。ちょっと間を置いて顔を出した仁一の目尻に疲れが滲み出ている。
 「どうしたの?」
 「困ったことになりました」
 ―いつもの蕎麦粉の出荷が止められてしまった。あれでないとウチの味が出ない。このままでは店を続けられなくなる。代わりを見つけるにも半年や一年はかかる―
 深沙大王堂までの道のりをゆったりと歩みながら、仁一はそう語った。蕎麦農家の名を聞いた春香は「力になれるかも」とつぶやき、山門の前を滔々と流れる水をしばらく見つめていた。

 翌々日、東京からは三時間ほどの山の中。ジージジーという蝉の声が、さすがに深大寺よりもずっと濃い。
 「片倉さん、おしさしぶりです」
 「あなたは!」
 「妙なご縁がありまして」
 「もう十年、になりますか」
 「お嬢さんはお元気ですか?あのときは中学生でしたね」
 「今はそれだけが悩みで。つきあっている相手がいるようですが、態度がはっきりしない。まったく...。あ、失礼。それで?」
 「頼みがあって来たの」
 「そう言われると、断りにくいな」
 「蕎麦粉を分けてほしいの」
 「あなたが?」
 「知り合いのお店」
 「そうですか。たいがいは断るんですけど。まあ、あなたがわざわざ訪ねてきてまでおっしゃるなら」
 「深大寺の...」
 「あっ!あそこだけは駄目です」
 まったく取り付く島がなかった。帰りのバス停までとぼとぼ歩いていると、後ろから激しいクラクションで追い立てられた。トラックが通り過ぎたあとには、鬼太郎茶屋の目玉餅が路面にべったりと貼り付いていた。渡しそびれた手土産の哀れな末路であった。
 「...というわけ。大きな口叩いておいて、私も頼りないね」
 「そんなことありません。春香さんにそこまでやっていただいて、感謝してます。それにしても、どうして...?」
 最近、仁一の店は蕎麦の味が落ちたという評判が入っている。採算ぎりぎりの線まで品質への執着を徹底する片倉にとっては、断じて許せない。要するにそんな話だった。
 「心当たり、ある?」
 「最近、考え事が多くて」
 「考え事?」
 「将来のこととか...」
 仁一の頬にわずかな赤味がさすと、春香のほうも首筋が熱くなった。五大尊池の水面をかすめながら、きらめく緑と青に彩られた蜻蛉が連れ舞っていた。

 参道から一歩入った路地にひっそりと佇むレンガ造りの珈琲屋。店内の飴色と窓越しの緑が、目にも身体にもすうっとしみいる。ここでぼおっと過ごすのも、これまた春香にとってはお気に入りの週末だった。木と土の匂いが漂う空間で丁寧に淹れられたコーヒー。十年前の記憶が甦ってきた。
 ある企業で経理の不祥事が発生。事件の悪役とされていたのが片倉だった。調査チームの一員であった春香が持ち前の性分で徹底的に洗いなおしたところ、小さな疑問が浮かんだ。調べを進めるにつれ矛盾はさらに膨れ上がり、最後には、片倉ははめられたとの確信に至った。無難にすませようとする上司を断固としてはねのけた春香に対する風当たりが強まると、彼女のほうから辞めたのであった。難を逃れた片倉も半年後に退社。好きであった蕎麦を自分でつくりたいと田舎にこもったのだった。
 店を出てからも思いは巡った。駅まで小一時間、歩くことにした。いつだって自分は筋を通してきた。世の中に対して、片倉に対して。こんどもそうするしかないじゃないか。なによりも、仁一に対して頼りになるところを見せたい。彼のあの言葉。あれはもしや...?だったらなおさら。そうして...。
 家に帰り着いてからも、コーヒーの仄かな甘味の余韻はいつまでも残っていた。

 神代植物園のバラ園を囲むベンチのひとつでは、見ず知らず同士の若者と老婦人が親しげに話している。そうさせる雰囲気がこの界隈には漂っている。ここなら本音で話せそうな気がして、片倉を呼んだのだった。
 ありったけの熱情で説得を試みる春香を、片倉は渋い顔で断り続けた。雷鳴が近づいてきた。
 「悩んでいたんです、彼は。ある女性と、将来をどうしようかと」
 「蕎麦とは関係ないでしょう。失礼」
 「蕎麦とは関係がなくっても、私に関係あるんです」
 「は?」
 大粒の雨が降り始めた。
 「だから、その女性って、あのぉ、」
 ひときわ大きな雷鳴が轟いた。続いた閃光が、走り去る片倉の背中を照らした。
 雨に打たれるままに立ち尽くし、春香の心は叫んでいた。もういい。自分が全国をまわって、あれ以上の蕎麦を仁一に見つけてあげる。大丈夫、見つけてみせる。

 タクシーの窓からは、さすがに涼しさを帯びた風が忍び込んでくる。時差ぼけを覚ますにはちょうどよい。
 あの雷雨の日の翌週に抜き差しならない海外出張に巻き込まれ、気がついたら三週間。やっと帰国がかない、荷物を放り投げて駆けつけたのだった。
 汗を浮かべながらそばを打つ仁一の姿を認めて、春香はほっとした。客席も上々の入り。店を出る間際になって、ようやく仁一が出てきた。
 「片倉さんが送ってくれたんです」
 割烹着姿の若い女性が、後ろからぺこりと頭を下げた。
 「妻です」
 意志の強そうな目もと、口もと。どこか見覚えがある。
 「片倉の娘でございます。以前は父が大変お世話になりました」
 仁一が、ひときわ太い声で続ける。
 「おかげさまで、二人でやっていく覚悟ができました。いろいろありがとうございました」
 春香は、とびっきりの笑みを返した。いや、返そうとした。
 「よかった。じゃ、また」
 きりっと後ろを向くと、振り返りもせず立ち去った。ほんとうは走り出したかった。どこまでも走っていきたかった。青ざめた顔を、震える足を、見られたくなかった。
 よりによって、片倉の娘と仁一とが...。出荷を止めたのも、仁一の曖昧な態度に業を煮やしてのこと。入籍を知り片倉も安堵というわけ、か。
 どこをどう回ったのだろう。ようやく落ち着きが戻ってきた。目の前では、弁財天池の亀が悠々と手足を伸ばして日向ぼっこに興じている。
 「なんてこった」
 まるで道化役じゃないか。そう思うと、たまらなく可笑しくなってきた。笑いが止まらなかった。やがて、亀の姿がぼやけてきた。
 夕の梵鐘が聞こえてきた。ふっと釈迦堂を見返ると、白鳳仏が微笑んだ気がした。緑を揺らして、風が駆け抜けた。

(了)
 
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<著者紹介>
大越 康弘(東京都港区/39歳/男性/会社員)

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