<第1回応募作品>『深大寺恋物語』著者:長沼 直

 新緑の深大寺は、木漏れ日が溢れ、流れる水も輝いて、眩しいばかりだった。打ち水された石畳までが春を喜ぶようで、行き交う人の足もとも軽やかだ。門前に並ぶ店からは、茹で上がったばかりの蕎麦の香りがこぼれ出し、舌鼓を打つ人々のざわめきが聞こえる。こんな佇まいが、深大寺の魅力の一つと言えるだろう。
 爽やかなせせらぎに乗って、今、僕の傍らを五月の風が通り過ぎていく。

「おや、可愛い赤ちゃんだな。」
 お母さんがニコニコと赤ちゃんをあやしている。今は母となったこの娘のことを、僕はよく知っていた。もちろん、この赤ちゃんのお父さんのことも忘れられない。ほぉら、現れたよ。面影はそのままだ。この二人の間にできた赤ちゃんだったとはね。時の流れるのは早いものだ。まるでさっき通り過ぎていった風のように感じられる。
 この二人を初めて僕が見たのは、あれはもう十年も前のことだろうか。まだ二人とも幼い感じの学生だった。いつもこの石畳を歩いて...。そう、手も繋がずに歩いて、門前の石段を登って行った。
 あれは何度目のことだっただろう。寒い冬の日だった。うっすらと雪が積もっていた。夕暮れは早く、小百合ちゃんは寒そうにじっと待っていた。ときどき足踏みをしながら。僕は彼女に尋ねた。
「そんなところで立っていたら、足も手も冷たかろう。」
 小百合ちゃんは言った。
「ちっとも寒くはないの。だって待っていることが嬉しいんだもの。」
 僕はなるほどと思った。彼女はきっと寒くはないのだ。そう思ったのは、僕を見つめる小百合ちゃんの瞳が輝いていたからだ。彼女はそのきらきら輝く瞳で僕を見つめながらおしゃべりを始めた。
「もうすぐ私ね、彼と結婚するの。きっとすてきな家庭を作れると思うわ。」
 僕にもそんな気がして、彼女の報告がとても嬉しかった。うなずいて聞いている僕に、小百合ちゃんは彼のことを話しだした。
「彼ってね。ほんとは、とっても気が小さいの。優しいくせに強がりを言うし、私には偉そうにいばったようなことも言うのよ。でも、私はそんなところも全部好き。どうして好きだかわからないくらいに、そんな彼のことがみぃんな大好きなの。」
「あはは。そうかい。そうかい。」
 僕は、『そんな男はやめちまえ。』なんてことは、心に思っても言い出さなかったさ。父親のような心境だったのかもしれないな。それに、誰でも男にはそんなところがあるからね。僕だって強がってばかりいるけれど、一番傍にいてくれる人には、なんでもかんでも預けてしまいたくなる。そんな気持ちがあるしね。一緒になる前に、男のそういう弱い部分もちゃんと受け止めているんだから、きっと幸せになるだろう。そう思ってニコニコと聞いていたよ。
「ほら、政人君のお出ましだ。」
 僕の声も耳に入らないかのように、小百合ちゃんは彼の元へ駆けて行った。そして、まるでじゃれつく子犬みたいに政人君の腕にしがみつき、そして彼を見つめた。意地の悪い北風もたまにはいいことをするものさ。二人が真っ直ぐ見つめ合ったそのとき、彼女の背中をピューっと思い切り押したんだ。「時が止まる」ってことを知っているかな?
 言葉だけならみんな知っているだろう。でも、ほんとに時間は止まったり速くなったりするんだよ。まったく天の時というのも粋な計らいをするものさ。周りのみんながじっと息を詰めて、二人の時間を止めた。小百合ちゃんは政人君の胸の中へふんわり倒れこむと、冷たくなった頬を赤らめながら、そっと彼を見上げていた。きっと彼女は、彼の胸の中を蒲団のように暖かく気持ちがいいと思ったことだろう。その証拠に、彼女はうっとりとして目を瞑ってしまった。政人君はちょっとどぎまぎしていた。小百合ちゃんの可愛い唇がすぐ目の前にあるのだからね。彼は身じろぎもせず、目だけで天を仰いでいる。さっきまでの夕暮れはもう夜の闇に取って代わられていた。一瞬、政人君がきょろきょろと首を回した。僕はもう北風と笑っていたよ。さあ早く。時が動き出す前に、さあ早く。君の愛した可愛い彼女に、君の唇で気持ちを伝えなさい。おせっかいな夜の帳もざわめきだした。
「こんなときは本当にじれったい。」
 気の短い北風がそんなことを呟いた。誰もがじっと息を詰めて二人を見守っている。
 そのときだった。二人の周りがピンクに染まって燃えている。僕はこんな景色を何度も見てきていた。北風もほっとしたように見つめていたよ。二人を包むピンクの炎。こんな素敵な景色は他にはないだろう。誰の目にも映らない二人だけの時間が、二人の中だけに流れている。話し声が聞こえるようだ。
「あなたを愛してるわ。大好きなの。」
「ぼくも君が大好きだよ。誰よりも愛しているよ。」
 二人の心の声が、ピンクの炎の中で燃えている。そっと二人が体を起こして見つめ合った瞬間、そうさ、時間が流れ出した。息を詰めて時間を止めていたさまざまな精霊たちも、一瞬にして姿を消した。きっとみんなほっとしたことだろうよ。北風ももうひと働きしてくると僕に告げて、飛び立っていった。小百合ちゃんは微笑んでいた。政人君も照れたように微笑んでいた。二人は僕の前をゆっくり手を繋いで歩いていった。彼の右手には彼女の左手がしっかりと握られ、その手は彼の大きなポケットの中に入っていた。
 あの二人が今はもう父親と母親になったなんてね。これからきっとあの新しい命の塊みたいな赤ん坊に、二人の気持ちをいっぱい伝えて育ててくれることだろう。二人と小さな一人を見送りながら、そんなことを僕は思っていた。

「よっこらしょ。」
 誰かと思えば、もう何百回となく僕にその言葉を聞かせてきた女性の姿がそこにはあった。足も腰もひどく重そうだ。あぁ...。もちろん早苗さんのことも僕は知っている。もう五十年以上になるのだろうか。彼女の周りの時間は今はもうゆっくりゆっくりと進んでいる。早苗さんもそれをわかっているようだ。穏やかな瞳でこの深大寺を見つめてきた一人だった。
 早苗さんがこの深大寺の中でも有名な蕎麦屋に嫁いできたのは、深大寺が紅葉で染まる季節だった。若い嫁として店を手伝い、そしてやがて子どもができると背中に背負い、緑豊かな深大寺の境内を子どもたちは駆け回り大きくなった。豊かな水に支えられたこの深大寺で一生を送ってきた彼女の瞳は、僕と同じようにこの地を愛してやまない瞳に見える。「よっこらしょ」という言葉が早苗さんの口から出るようになったのは、彼女の夫が亡くなってからだった。僕ははっきりと思い出す。彼女が僕の傍に駆けてきて、声を殺して泣いていた夜のことを。人はいつかは死を迎える。そして、長い人生を共に歩くということもたやすいことではない。それだからこそ彼女は、この深大寺に嫁いだ日からのことを振り返って、現実となった別れに涙を流したのだろう。

「よっこらしょ」と言う口癖は変わりなかったが、早苗さんは微笑んで僕を見つめていた。そっと僕に触れると、懐かしい気持ちがその手のひらから流れ込んでくる。彼女の心の中に、今は何かしら暖かな想いが育まれているようだ。僕は早苗さんに尋ねた。
「何かいいことでもあったのかい?」
 彼女はふっと笑って黙った。けれど僕には彼女が幸せな気持ちに浸っているのがはっきりわかった。見つめる彼女の瞳はただ優しくて、僕は穏やかな幸せな気持ちを分けてもらっているような気分になっていた。
 きゃっきゃと走り回る子どもたちからは、溢れるようなエネルギーを与えられる。こうして年老いた彼女からは、今まさに深い慈愛のような心地よさを与えられていた。空にも風にもそれぞれに役割があるように、赤ん坊にも、子どもたちにも、若い男女にも、そして年老いた人々にもその役割がある。この地球上のすべてのものたちは、互いに連動し合いかかわり合って、そのエネルギーを交換し合っているのだろう。
 早苗さんは僕をゆっくりと擦った。その手は痛みを知った尊い手だった。
「よっこらしょ。」
 彼女はもう一度そういって立ち上がると、ゆっくりと彼女の方へ近づいてくる老人に会釈をした。言葉を交わすわけでもない。ただ眩しいばかりの生まれたての若葉を二人で眺めている。そのとき僕には見えた。蜻蛉のようにうっすらと二人を包むピンクの炎が...。足も腰も支えるのが精一杯のはずなのに、今二人の心は軽やかに青空を駆けている。

 爽やかな五月の風が花びらを揺らした。二人が僕の花びらを見つめながらこう囁いたのが聞こえた。

「今年も綺麗に咲きましたね。」
「あぁ、ほんとうに綺麗な、そして不思議な花だね。このなんじゃもんじゃの花は...。」



<著者紹介>
長沼 直(東京都練馬区/44歳/女性/主婦)

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